「システム」と「システム人」が恐れるものとは
大塚久雄著『社会科学における人間』(岩波新書黄色版)で描かれている「合理主義的人間」、つまり「ロビンソン的人間」であるが、それこそが「システム人」そのものである。そうした人間像を理想化して、世界中がそうした人間であふれるように、大塚は記念したのだ。
もっとも、フランシス・フクヤマと同様に、いやそれを言うならむしろマックス・ヴェーバーであるが、そうした合理主義的人間の成れの果てを、大塚も悲観的に描いていたのを忘れてはならないのも重要なポイントなのだが。
こうしたシステム人とそれを構成員とするシステムが最も恐れるのは誰か。ずっと以前に、尾崎士郎の『人生劇場』(新潮社文庫)で描かれている飛車角や吉良常である、と私は確信している。映画版では、鶴田浩二が飛車角を演じていたと思うが。
これを見た時に、私は直感したものだ。これなんだよ。これしかないんだと、システムとシステム人に対抗するには、たくさんの「飛車角」や「吉良常」のような生き方をする、それができる人間が必要不可欠なんだ、と。
そうした気分を味わったもう一つの作品は、吉村 昭氏の『敵討』(新潮社文庫)であり、これもまたテレビ化されて放送された。タイトルは「遺恨あり、明治十三年 最後の仇討」であった。相当な衝撃を覚えたものだ。
主人公の臼井六郎のような人間がもし今もこの「日本」に生きながらえていれば、彼のような人間のみがシステム人としての「日本人」を「解放」できる存在となれる、と私は考えるのだ。
もっとも、この手の人間存在をシステムとシステム人は許さないのも確かであるが。逆に言えば、こうした人間はシステムにとって脅威となるのだ。彼の手には、ただ小太刀しかないが、システムを倒すのはそれで十分すぎるのではなかろうか。武器ではない。武器が問題ではないのだ。あくまで六郎のような人間存在が重要なのだ。
吉村 昭氏は、この作品の中で、「あの戦争」以降の「日本」と「日本人」を告発しているように私には感じられた。「ハイド氏の裁判」で竹山道雄氏が告発した内容を、さらに吉村氏は別の角度から、鋭く問いただしているように思われた。より直截に言えば、前者が「システム」の抱える問題を描こうとしていたのに対して、後者は「システム人」の対極に位置する人間とその生き方を提示していたように思われる。
飛車角や六郎の前では、私も偉そうなことは決して言えないし、恥ずかしさだけを覚えるに違いない。いや、違いないではなく、そうなのだ。私自身の知り合いの中にもこの種の人間がいる。彼らは威張らず、社会の隅の方で、懸命に生きている。
不思議なものだ。システム人の私を今でも優しく見守り続けてくれている。とてもうれしいのだが、甘えるだけの自分自身に歯がゆい限りだ。おっと、今回はこれ以上は述べないでおきたい。また野暮な話になるかもしれないので。