昨日の安倍首相の戦後70年談話とやらを聞いていて率直に思ったこと。それは、歴代の村山、河野談話と異なり、何とかして「日本」と「日本人」の「独自性」を打ち出そうと努めていたこと。と同時に、覇権システムとその秩序の擁護者、推進者が提供してきた自由、民主主義、法の支配そして平和を無批判に、無条件に信奉している態度は、村山のそれと同じだということ、である。それを痛感した次第である。
ただし、安倍さんの日本と日本人に対する独自性へのこだわりの強さが、村山との類似性、同質性を表面的には見えなくさせている、ぼかすことに成功させているように思われたが、同時にそうした態度が安倍さんの、さらにはいわゆる「親米保守」の立ち位置の「矛盾」というか「苦しさ」を浮き彫りにしていたように、私には思えた。
もちろん、この矛盾とか苦しさは表面的なものにしかならない。彼らの「衣食足りて(足りず)」の営為の実現への関与が、結局は「礼節を知る(知らず)」の営為の実現の中で、「普遍的価値」に吸収され、無価値な、無意味なものとなってしまう。それに気がつくものがそうした「ポーズ」にこだわると私は推察するが、それは逆に見苦しくさえなってしまう。
さらに逆に、それでは村山談話を支持する日本と日本人なら見苦しくないのか、と問われれば、それはそれで見苦しいという次元を突き抜けて、「どうにも止まらない」状態に、しかもそうした状態に置かれていることさえ気がつかない、まさに「末人」の群れと化しているとしか、私には思われない。当然ながら、そうした人間集団にはいわゆる自由、民主主義、人権、平和といった「普遍主義」(的価値)の抱える問題点など理解できるはずもないだろう。
それにしてもこの70年間、右翼・保守陣営も、左翼・革新陣営も覇権システムとその秩序の擁護者、推進者が提供する「空間」の中で、その空間を積極的立場、消極的な立場の違いはあれ、担い続けてきたことにはまったく変わりはない。村山談話は、{[A]→(×)[B]→×[C]}の空間に置いて提示されたのに対して、昨日の安倍談話は、{[B]→(×)[C]→×[A]}の空間で提示されたのだが、残念ながら、この二つの空間のもつ「同質性」と「違い」に気がつく者は、そう多くはないのではなかろうか。
換言すれば、同じ自由、民主主義、人権、平和という普遍主義(的価値)であれ、それを支え、担う仕組み(関係)はまったく変わろうとしている。今まさにその渦中に私たちはいるのだが、多くの人たちは、もちろん安倍さんも含めて、いまだに1970年までの{[A]→(×)[B]→×[C]}の空間を前提として語っているようにしか私には思えなかったのである。つまり、その意味では{[B]→(×)[C]→×[A]}の空間のセカイとまったく切り結ぶことがない、何ら関係のない談話だったのである。付言すれば、昨日のブログで紹介した占領史研究者の研究内容が、ほとんど{[A]→(×)[B]→×[C]}のセカイとその関係史の抱える問題点の究明と関係のないものだと指摘したが、それと同じなのである。
それゆえ、自由、民主主義、法の支配、平和の持つ意味が異ならざるを得ない空間に生きていることに、気がついていないリーダーであるとの表明会見だったということである。当然ながら、中国を仮想敵国視できるのだろう。中国が覇権国として台頭している、覇権国となるとは理解できない。それゆえ、歴代の覇権国の興亡史で繰り返された現覇権国と次期覇権国との覇権連合の形成に関しても想像できない。
だからこそ、いまだに米国が日本を守ってくれるはずだとの前提で、「安保法制」となるのだろう。さらに、アベノミックスが1970年代の空間を前提として、あるいはその空間の復活が可能との前提で、打ち出されていたことが今さらながら分かり、これからの若い世代がますます深刻な格差社会に直面せざるを得ないその事態に対して、まったく打つ手のないことも確信できた次第である。
子や孫たちに「侵略」の責任を負わせない話よりも、これまでの借金とその利息返済のツケを回さないための「知恵」が、いま一番望まれているのではないか。そのためにも、先ず何よりも私たちが知らなければならないことは、私たちが{[B]→(×)[C]→×[A]}の空間のセカイで生きていかざるを得ないということであり、このセカイをBの先頭を走る中国と、Aの先頭に位置する米国とが両国の覇権連合によって、強力に推進しているということであり、このセカイとその関係の維持と発展こそが、中国と米国とその背後に控える巨大な力を有する多国籍企業にとっては何よりの「平和」であり、またこの空間のセカイの平和の維持と発展に必要な自由、民主主義、人権、法の支配が、オランダ、イギリス、アメリカ、フランスの「市民」革命により求められてきたということであり、いまそうした普遍的価値を支える仕組みというか関係が変容している最中だということである。
村山談話も安倍談話も、この仕組みを支える「平和」を、その平和のための「自由」、「民主主義」、「人権」、「法の支配」を擁護していることにおいては、まったく異なるものではない。この平和は、自由、民主主義、人権、法の支配と結びつき、欧米先進国の植民地主義、帝国主義の歴史を支えてきたのである。私のモデルで描くセカイの関係(史)は、今もそうした歴史が続いていることを示している。
ただし、安倍さんの日本と日本人に対する独自性へのこだわりの強さが、村山との類似性、同質性を表面的には見えなくさせている、ぼかすことに成功させているように思われたが、同時にそうした態度が安倍さんの、さらにはいわゆる「親米保守」の立ち位置の「矛盾」というか「苦しさ」を浮き彫りにしていたように、私には思えた。
もちろん、この矛盾とか苦しさは表面的なものにしかならない。彼らの「衣食足りて(足りず)」の営為の実現への関与が、結局は「礼節を知る(知らず)」の営為の実現の中で、「普遍的価値」に吸収され、無価値な、無意味なものとなってしまう。それに気がつくものがそうした「ポーズ」にこだわると私は推察するが、それは逆に見苦しくさえなってしまう。
さらに逆に、それでは村山談話を支持する日本と日本人なら見苦しくないのか、と問われれば、それはそれで見苦しいという次元を突き抜けて、「どうにも止まらない」状態に、しかもそうした状態に置かれていることさえ気がつかない、まさに「末人」の群れと化しているとしか、私には思われない。当然ながら、そうした人間集団にはいわゆる自由、民主主義、人権、平和といった「普遍主義」(的価値)の抱える問題点など理解できるはずもないだろう。
それにしてもこの70年間、右翼・保守陣営も、左翼・革新陣営も覇権システムとその秩序の擁護者、推進者が提供する「空間」の中で、その空間を積極的立場、消極的な立場の違いはあれ、担い続けてきたことにはまったく変わりはない。村山談話は、{[A]→(×)[B]→×[C]}の空間に置いて提示されたのに対して、昨日の安倍談話は、{[B]→(×)[C]→×[A]}の空間で提示されたのだが、残念ながら、この二つの空間のもつ「同質性」と「違い」に気がつく者は、そう多くはないのではなかろうか。
換言すれば、同じ自由、民主主義、人権、平和という普遍主義(的価値)であれ、それを支え、担う仕組み(関係)はまったく変わろうとしている。今まさにその渦中に私たちはいるのだが、多くの人たちは、もちろん安倍さんも含めて、いまだに1970年までの{[A]→(×)[B]→×[C]}の空間を前提として語っているようにしか私には思えなかったのである。つまり、その意味では{[B]→(×)[C]→×[A]}の空間のセカイとまったく切り結ぶことがない、何ら関係のない談話だったのである。付言すれば、昨日のブログで紹介した占領史研究者の研究内容が、ほとんど{[A]→(×)[B]→×[C]}のセカイとその関係史の抱える問題点の究明と関係のないものだと指摘したが、それと同じなのである。
それゆえ、自由、民主主義、法の支配、平和の持つ意味が異ならざるを得ない空間に生きていることに、気がついていないリーダーであるとの表明会見だったということである。当然ながら、中国を仮想敵国視できるのだろう。中国が覇権国として台頭している、覇権国となるとは理解できない。それゆえ、歴代の覇権国の興亡史で繰り返された現覇権国と次期覇権国との覇権連合の形成に関しても想像できない。
だからこそ、いまだに米国が日本を守ってくれるはずだとの前提で、「安保法制」となるのだろう。さらに、アベノミックスが1970年代の空間を前提として、あるいはその空間の復活が可能との前提で、打ち出されていたことが今さらながら分かり、これからの若い世代がますます深刻な格差社会に直面せざるを得ないその事態に対して、まったく打つ手のないことも確信できた次第である。
子や孫たちに「侵略」の責任を負わせない話よりも、これまでの借金とその利息返済のツケを回さないための「知恵」が、いま一番望まれているのではないか。そのためにも、先ず何よりも私たちが知らなければならないことは、私たちが{[B]→(×)[C]→×[A]}の空間のセカイで生きていかざるを得ないということであり、このセカイをBの先頭を走る中国と、Aの先頭に位置する米国とが両国の覇権連合によって、強力に推進しているということであり、このセカイとその関係の維持と発展こそが、中国と米国とその背後に控える巨大な力を有する多国籍企業にとっては何よりの「平和」であり、またこの空間のセカイの平和の維持と発展に必要な自由、民主主義、人権、法の支配が、オランダ、イギリス、アメリカ、フランスの「市民」革命により求められてきたということであり、いまそうした普遍的価値を支える仕組みというか関係が変容している最中だということである。
村山談話も安倍談話も、この仕組みを支える「平和」を、その平和のための「自由」、「民主主義」、「人権」、「法の支配」を擁護していることにおいては、まったく異なるものではない。この平和は、自由、民主主義、人権、法の支配と結びつき、欧米先進国の植民地主義、帝国主義の歴史を支えてきたのである。私のモデルで描くセカイの関係(史)は、今もそうした歴史が続いていることを示している。