日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

安倍談話と村山談話に見出される同質性とは、また両者の違いとは何か

2015-08-15 | 社会 政治
昨日の安倍首相の戦後70年談話とやらを聞いていて率直に思ったこと。それは、歴代の村山、河野談話と異なり、何とかして「日本」と「日本人」の「独自性」を打ち出そうと努めていたこと。と同時に、覇権システムとその秩序の擁護者、推進者が提供してきた自由、民主主義、法の支配そして平和を無批判に、無条件に信奉している態度は、村山のそれと同じだということ、である。それを痛感した次第である。

ただし、安倍さんの日本と日本人に対する独自性へのこだわりの強さが、村山との類似性、同質性を表面的には見えなくさせている、ぼかすことに成功させているように思われたが、同時にそうした態度が安倍さんの、さらにはいわゆる「親米保守」の立ち位置の「矛盾」というか「苦しさ」を浮き彫りにしていたように、私には思えた。

もちろん、この矛盾とか苦しさは表面的なものにしかならない。彼らの「衣食足りて(足りず)」の営為の実現への関与が、結局は「礼節を知る(知らず)」の営為の実現の中で、「普遍的価値」に吸収され、無価値な、無意味なものとなってしまう。それに気がつくものがそうした「ポーズ」にこだわると私は推察するが、それは逆に見苦しくさえなってしまう。

さらに逆に、それでは村山談話を支持する日本と日本人なら見苦しくないのか、と問われれば、それはそれで見苦しいという次元を突き抜けて、「どうにも止まらない」状態に、しかもそうした状態に置かれていることさえ気がつかない、まさに「末人」の群れと化しているとしか、私には思われない。当然ながら、そうした人間集団にはいわゆる自由、民主主義、人権、平和といった「普遍主義」(的価値)の抱える問題点など理解できるはずもないだろう。

それにしてもこの70年間、右翼・保守陣営も、左翼・革新陣営も覇権システムとその秩序の擁護者、推進者が提供する「空間」の中で、その空間を積極的立場、消極的な立場の違いはあれ、担い続けてきたことにはまったく変わりはない。村山談話は、{[A]→(×)[B]→×[C]}の空間に置いて提示されたのに対して、昨日の安倍談話は、{[B]→(×)[C]→×[A]}の空間で提示されたのだが、残念ながら、この二つの空間のもつ「同質性」と「違い」に気がつく者は、そう多くはないのではなかろうか。

換言すれば、同じ自由、民主主義、人権、平和という普遍主義(的価値)であれ、それを支え、担う仕組み(関係)はまったく変わろうとしている。今まさにその渦中に私たちはいるのだが、多くの人たちは、もちろん安倍さんも含めて、いまだに1970年までの{[A]→(×)[B]→×[C]}の空間を前提として語っているようにしか私には思えなかったのである。つまり、その意味では{[B]→(×)[C]→×[A]}の空間のセカイとまったく切り結ぶことがない、何ら関係のない談話だったのである。付言すれば、昨日のブログで紹介した占領史研究者の研究内容が、ほとんど{[A]→(×)[B]→×[C]}のセカイとその関係史の抱える問題点の究明と関係のないものだと指摘したが、それと同じなのである。

それゆえ、自由、民主主義、法の支配、平和の持つ意味が異ならざるを得ない空間に生きていることに、気がついていないリーダーであるとの表明会見だったということである。当然ながら、中国を仮想敵国視できるのだろう。中国が覇権国として台頭している、覇権国となるとは理解できない。それゆえ、歴代の覇権国の興亡史で繰り返された現覇権国と次期覇権国との覇権連合の形成に関しても想像できない。

だからこそ、いまだに米国が日本を守ってくれるはずだとの前提で、「安保法制」となるのだろう。さらに、アベノミックスが1970年代の空間を前提として、あるいはその空間の復活が可能との前提で、打ち出されていたことが今さらながら分かり、これからの若い世代がますます深刻な格差社会に直面せざるを得ないその事態に対して、まったく打つ手のないことも確信できた次第である。

子や孫たちに「侵略」の責任を負わせない話よりも、これまでの借金とその利息返済のツケを回さないための「知恵」が、いま一番望まれているのではないか。そのためにも、先ず何よりも私たちが知らなければならないことは、私たちが{[B]→(×)[C]→×[A]}の空間のセカイで生きていかざるを得ないということであり、このセカイをBの先頭を走る中国と、Aの先頭に位置する米国とが両国の覇権連合によって、強力に推進しているということであり、このセカイとその関係の維持と発展こそが、中国と米国とその背後に控える巨大な力を有する多国籍企業にとっては何よりの「平和」であり、またこの空間のセカイの平和の維持と発展に必要な自由、民主主義、人権、法の支配が、オランダ、イギリス、アメリカ、フランスの「市民」革命により求められてきたということであり、いまそうした普遍的価値を支える仕組みというか関係が変容している最中だということである。

村山談話も安倍談話も、この仕組みを支える「平和」を、その平和のための「自由」、「民主主義」、「人権」、「法の支配」を擁護していることにおいては、まったく異なるものではない。この平和は、自由、民主主義、人権、法の支配と結びつき、欧米先進国の植民地主義、帝国主義の歴史を支えてきたのである。私のモデルで描くセカイの関係(史)は、今もそうした歴史が続いていることを示している。




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オニクタラムのツブヤキ―覇権システムとその秩序の擁護者の、すなわち世界を動かす者の〈正体〉

2015-08-14 | 社会 政治
毎年のことなのだが、8月15日前後になると日本では恒例の「戦争祭」がマスコミの手により演出されるところとなる。いつもはんで押したように、戦争終結のときはこうだったとか、いろいろな物語がそれこそ「想像」される。そしてそれが見る者の「歴史」となっていく。本当は、本来ならば「私」小説の世界だったはずの話しが、「公」式の、それこそ我々日本と日本人はあのときああだった云々の歴史として「捏(ねつ)造」されていくから、不思議である
と同時に、この時期やはり恒例の怖い怪談話のそれ以上に、恐ろしいものとなっていく。

少し前置きが長くなったが、これはいわゆる「占領史」研究と称される学問領域においても例外ではない、と私は思っている。当然のことながら、研究者は一次資料をもとに、占領期の日本と米国の関係はもとより、そこから関係、関連する諸国や諸地域と諸出来事に関しても、詳細に検討を重ねて、歴史を描いていくのである。その際、私のように、このブログ記事でも紹介した例のモデルのセカイを「想像(創造)」してきたものには、たとえそれが膨大な一次資料の山の中から取り出されてきた「事実」だとしても、そう簡単に、「ああそう」ですかとは首肯できないのである。たとえば、あの時の天皇は何よりも「平和」を「愛されていた」とか、終戦締結を誰よりも「望まれていた」とか、あるいは、吉田茂はマッカーサーに対して、占領下に置かれた中にあったとしても、「毅然とした態度で交渉に臨み、日本と日本人の名誉と利益を守ろうとした」とか、あるいはまたさらに、「マッカーサーはGHQのリーダーとして、米国政府の命令にただ従順に追随するだけでなく、彼の判断の下で、日本の占領統治に良かれと思うことは、トル―マン米国大統領の意に反したとしても、遂行した」とか、等々の「物言い」に対して、私は、以下のように捉え直すのである。

私のモデルの例のセカイ、1970年代まで該当したセカイである{[A]→(×)[B]→×[C]}(省略形、共時態モデル)の関係の形成と発展とその変容の歴史を、先ずは何よりも歴史をみる際の前提として、位置づけておくことが大切であり、大事ではないか、と私は考えてきたことから、先の物言いを、こうしたセカイの関係史と結び付けて、再度考えるとき、私小説以外の何の価値も見出せないのである。つまり、歴史家と称せられるものが、まずもって私たちが生きる上で重要な「衣食足りて礼節を知る」営為の実現に関する「歴史観」を持たずして、一体どのような歴史が語れようか、と私は常日頃考えるからである

残念ながら、占領史研究者の中で、こうした衣食と礼節の関係に関して、換言すれば、経済発展と民主主義の発展の歴史に関する全体像を描ける研究者は存在していないのである。木を見ても森を見ることができない研究というしかないのである。それゆえ、先の物言いを繰り返すか、あるいは新しい資料の発見によるこれまでの見方の修正か変更を迫るかのいずれかであり続けるのである。占領史研究者の研究が、私のモデルのセカイの関係史を結果的に正当化している、お墨付きを与えていることに気がつかないのである。

すなわち、歴代の覇権国が中心となって創りあげてきた覇権システムとその秩序と、それを前提として織り成される「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係史を追認する作業に従事していることに気がつかないのである。私たちがいつもこの時期に口にする「平和を大切に」「平和を守る」の「平和」とは、こうした覇権システムとその秩序が提供してきた平和であるのにもかかわらず、またさらに、覇権システムとその秩序の擁護者らはその平和を守るために、彼らの平和を脅かす勢力に対して、原爆を利用することも含めて戦争で打ち負かした挙げ句、また彼らの平和を守っていくために、占領した日本に彼らに都合の良い平和憲法をプレゼントしたのであるから、それに気がつかない私たち日本と日本人は、----。
(誤字、脱字はお許しを。)

最後に、「覇権システムとその秩序の擁護者ら」とは、換言すれば、世界を動かしているのは一体、誰なのか。それはいわゆる「ウォ―ルストリート」なのか、「ロスチャイルド財閥系企業」、「ロックフェラー財閥系企業」なのか。それももちろんそうである。しかし忘れてならないのは、彼らが提供する「平和」憲法を守り続ける私たち日本と日本人も、例外ではなかろう。私が言いたいのは、他人事のように平和憲法を掲げながら、巨大な資本を批判する当のその人たちの存在こそが、私には災厄なのである。



















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オニクタラムからの暑中お見舞い申し上げます。

2015-08-10 | 社会 政治
ご無沙汰しています。私の中で、いつもある種の葛藤があります。それは、いつまで遊んでるのだ、嘘を書くのはやめにして、そろそろ実践じゃないかと、その声にさいなまれて、書けないのです。それがまた、現実(「共同体」創りに向けての地道な活動)から逃避したい私を、安楽にさせるのです。

今の安保法制や原発再稼動に向けての流れを見て感じるのは、私たちの嘘がよく見えてきます。マスコミは、また既成政党は、その関係する支持母体は、再稼動に反対するのは都合が悪いので、安保法制に(「力点をおいて」)反対したいのでしょう。自民党もそれを狙っていると思います。皮肉をこめて言いますと、お互いに「利害」が一致するところですね。

「原子力村」とそれを支える米国政府と多国籍企業も喜んでいるでしょう。私からすれば、この原発とそれを推進する勢力の存在こそが、戦争をつくり出す上で、大きな位置を占めていると考えますから、再稼動反対にこそ重点をおくべきだったと思います。

私が一番悲しく思うのは、いわゆる「革新」とか、「左翼」を担う側において、「戦争はいやだ」「戦場に行きたくない」、だから「平和憲法を守る」云々のスローガンが、さも正義であるかのように、支配的な空気となっていることです。

私たちが生きている今の社会は、私からすれば「戦場」そのものです。いまだに「いじめ」という「犯罪」が学校現場で堂々とまかり通っています。雇用の現場も、非正規労働者が増大するのが当たり前となっています。電気代を節約して、熱中症で命を落とす人がいます。そもそも生活できない、できそうもない人たちの存在を、私たちはウスウス知りながら、見てみないフリをして、絶えず見殺しうにしています。

それはなぜでしょうか。自分も危ない状況、状態におかれているからではありませんか。相手のことを気遣う余裕なんてない、自分だって明日の「命と暮らしを守る」保障は万全ではないからでしょう。尾崎豊に従えば、「僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない」世界が存在しているのでしょう。同時にそうした世界において繰り返される戦争が、日常生活のレベルから果ては国家間のレベルにまで至るのではありませんか。

私が言いたいのは、こうした現状は平和憲法を守らないことから生まれるのではなく、むしろその「平和」を支え、つくり出している私たちの「何らかの関係」(これに関しては、もしお時間のある方は拙著『21世紀の「日本」と「日本人」と「普遍主義」-「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち続けなきゃならない」セカイ・世界とそこでのセンソウ・戦争』(晃洋書房 2014年をご一読くださるように、お願いします)が引き起こしているということです。決してその逆ではないということなのです。

違憲か合憲か、立憲主義云々もそうですが、福島の原発労働者の現状とそれらはどのように関係しているのでしょうか。常に癌になる確率の高い彼らの存在を許しているのは、一体いかなる憲法であり、法律なのでしょうか。どうすれば彼らが置かれているような不条理な環境をなくせるのでしょうか。それは平和憲法を守ることで可能となるのでしょうか。

もうそろそろ、憲法の改正を真剣に考えるべき時期ではありませんか。誤解のないように言いますと、ここでの私の改憲すべき事柄は、何よりも最初に、私的財産権の自由であり、営業の自由であります。それらの自由は「公共の福祉」に反しない限りにおいて、許されるとありますが、私はそれに対して、公共の福祉に関係なく、制限されるべきだと考えます。もしこれが可能となれば、そもそも戦争を惹起させるような巨大軍需産業の動きを封じ込めることができます。

なぜ平和憲法を守れではなくて、こうした自由の制限とそれを保障する憲法の改正を、私たちは声高に主張しないできたのでしょうか。ここにも私を含めて、私たちの生活の知恵ならぬ、生活を通して経験してきた、生きるための嘘があります。

皆さんもよくおわかりのように、それ(財産権や営業の自由の制限)は、やはり現実には非常に困難であり、それこそこれまたいわゆる「富裕層」が許さないでしょう。それどころか、共産党をはじめ、社民党も、その他の野党勢力も認められないでしょう。彼らはいつも「憲法を守れ」だからです。ここには、相当の「からくり」があります。

憲法を守りながら、多国籍企業が世界のいたるところで(今日ではアフリカの最貧国にそれは顕著に示されていますが)携わっている第一次産品の採掘からその運営と管理、輸送と販売をめぐり引き起こされている現地住民の生活破壊(そこには内戦も含まれます)に対して、どのように歯止めをかけることができますか。営業の自由や通商の自由を、公共の福祉に反しなくても制限しない限り、それは最初から意味がないでしょう。多国籍企業をはじめ大企業という「私」的存在は、政府(国家)という「公」的存在と「ツーツー」の関係をつくれますから、「公共の福祉」という「公共」はクサイ表現ですね。

今日の結論
平和憲法の「平和」は、原発労働者の存在を許容する平和(「礼節」)です。またその平和を裏付ける、私たちの「衣食足りて」の営為を正当化、合法化する、保障する私的財産権や営業の自由となんら矛盾するものではありません。それゆえ、世界的な多国籍企業やそれと結び付く国内の企業活動を保障する平和です。非正規雇用をつくり出す、あるいは格差社会を導く平和であり、平和憲法ということです。と同時に、こうした平和憲法と、それをつくり出し、支えてきた関係に対して立ち向かうことは、想像を絶する苦難の連続となるということです。

読者に一言
私のブログ記事を読んでくださる十数人の読者の方々にお礼を申します。いつもありがとうございます。久しぶりに私のブログにログインしたところ、ここ2,3日間ですが、いつも同じ人たちが目を通してくれていることに感謝です(推測ですが)。私も年々書くことに絶望していると言えば、オーバーかもしれませんが、私の周りとの距離に対して、絶句ですね。それでも今日は何かお礼が言いたくて、少し書きましたが、これまでと同じものしか書けませんでした。ごめんなさい。話は変わりますが、広瀬隆さんの最新刊の案内記事を読みまして、相当に落ち込んだ次第です。いつも広瀬さんから教えられることばかりですが、今回改めてこの人はホンマもんだと感心しました。私も見習いたいのですが、目標ははるかに遠くにありますから、---。最後にもう一言。「シールズ」という名称は確か米国海兵隊に因んだものではと思いますが、もしそうならばそんな表記は、「真面目に」平和を語るのならばやめるべきではないかと考えます。ずっとむかしのことですが、M・ヴェーバーが第1次世界大戦直後の革命の機運が高揚するドイツにおいて、学生に向かい、革命に参加するよりも、今こそ学生の本分である勉強に専念しなさい、それが大事だといった趣旨の講演内容を、彼の著作(『職業としての学問』)を介して知りましたが、今の政治状況を鑑みますと、私には痛いほど彼の言いたかったことが理解できます。ここまでお付き合い、ありがとうございました。















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