日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

オニクタラムの「国を守る」というのは(続)

2015-09-23 | 社会 政治
今日も、昨日の話の続きです。「国を守る」ことは、関係(史)を守ることを前提として以外に、そもそもできないという話をしました。今日の話の要点は、国を守るというとき、誰から誰を、どこからどこを守るという前に、まずは覇権システムとそこでつくり出される「構造的圧力」とその関係から、私たち自身を守るということを、そしてそれ以外には無いということを考えるのが大事だという話です。「日本」とか「日本人」を守ることはできないということです。

1970年代までのセカイ(このモデルのセカイが現実の「世界」になってきたし、これからもそうなっていく、と私は考えています。ただし、これからというか、1970年代以降は、そのセカイは、{[B]→(×)[C]→×[A]}ですが。)は、{[A]→(×)[B]→×[C]}でしたね。勿論この図式は省略形ですから、詳しい話は拙著か、このブログ記事の前にありますモデルの紹介をぜひ見てください。

AはBに対して有利な位置にあり、BはAからの無理難題の要求に対して従うしかありませんが、Aもそのグループ内の対立がありますから、Bグループのどこかの国を仲間にというか、子分(手下)にしたいと考えていますから、その要求の仕方は計算された巧妙なものとなります。

正確に言いますと、「無理難題の要求」とは、Aグループが同意しない限りは、Bの位置にとどまるように、ということです。ですから、Bが力をつけていくに従い、その「同意」は守られなくなります。こうしてAとBの間に緊張が高まり、さらに衝突そして戦争へと発展していきます。

しかしよく考えますと、BがAに対して力をつけられるのはなぜかという問題が起こります。なぜならBはAに対しては当初は力がなかったからです。その力の源泉としての一つの象徴である軍事力にしても、BはAから買うしかなかったのではありませんか。(個々の下りは、日米経済・貿易摩擦「戦争」にも該当します。誰が日本の自動車産業に力を与えたか。簡単に言いますと、米国は日本が自動車産業で米国のそれを「敗北」に導くことをある時期から考えました。その代わりとして、米国は60年代末から、金融・サービス化に舵を切りました。)

それではそのお金はどうしたのでしょう。どのように工面したのでしょうか。開国以降、日本は明治維新を経て、国力を強化する必要がありました。日本が、というより徳川幕府が組み込まれたのは、先のセカイとその関係でした。そのセカイは、まさに「僕が僕であるために」、「勝ち続けなきゃならない」セカイでした。「日本が日本であるために」----。

日本が攻撃されたらどうするのか、9条があるから大丈夫、いやそんなことは「念仏」だから、やはり抑止力をつけなければ云々の議論は、私からすれば、あなた方はどこに生きているのかを確認できていないのだ、となります。私たちは、あのセカイとその関係(史)の中で生きていますから、すでにいろいろな形の戦争・センソウを継続しています。覇権システムとその関係の中に生きているということは、絶えず構造的圧力の下に置かれ続けているということです。

何度も同じことを言いたくありませんが、この圧力は経済的な意味での構造的暴力以上に、政治的な、社会的。文化的な暴力も含んだ意味で使っています。自由や、民主主義、人権、平和もこうしたセカイの関係の中で創り出されてきました。Aの自由、民主主義、人権、平和とBの自由、民主主義、人権、平和とCの自由、民主主義、人権、平和とが相互に構造的圧力の関係の下に置かれています。Cはいくら安全保障の議論をしても、武器を軍事力を備えても、逆に第9条を世界に訴えたとしても、この構造的圧力の関係からなる世界はそんな営為をあざ笑うだけです。

こんなことはお分かりのはずでしょうが、どうも現実はそうではないのです。自分たちは℃ではないという思い込みというか思い上がりですね。それならBなら、Aならば、議論の展開は違うものになるのでしょうか。この構造的圧力の関係から構成される覇権システムと比較して、Aも、Aグループの覇権国である米国でさえ、BもCとそれほど大差はありません。

私たちは、日本という「空間」に生きているのですが、それを日本を考える、明日の日本を考える「単位」としてはダメなのです。むしろ、その日本や、米国や中国が組み込まれているシステムを、覇権システムを、その構造的圧力の相互作用から構成されるセカイとその関係(史)を、「単位」(思考・志向のよるべき「枠組み」)として、それを基軸として、そこからその下部単位である日本を、日本人を見ていく必要がある、と私は考えてきました。ごめんなさい。毎回同じことの繰り返しですいません。

話がだいぶややこしくなりましたので、先の開国以降の日本に戻ります。簡単に言えば、明治維新により主権国家、国民国家としての日本が、日本人が創造されましたが、その日本と日本人を創ったのは、AとBとCとの関係から成るシステムでした。もっと簡単に言えば、Aのイギリスと、Cの朝鮮と中国(台湾と日本以外のその他のB)との関係の中で創られたのです。

日本は、そのイギリスから国家建設のための青写真を示され、それに従って、日本は、櫻井よしこさんの言うように、国の役割としての、国家の防衛と国民の命と暮らしを守るために、尽力しました。ここで少し考えますと、日本は国の役割を果たすために、どうしてもイギリスの力が必要でした。つまり、イギリスが存在してなかったら、国の役割は果たせなかったことになります。

ちなみに、そのイギリスに力を与えたのは、まさにシステムですね。そのイギリスも当時は大英帝国であると同時に、覇権国でしたが、その大変力のあるイギリスでさえ、イギリス一国ではその力を、つまりイギリスの国家の役割を守れなかったのです。このように、関係の中で、関係の存在を前提として、初めて国の役割云々の話が可能となるのです。

当時の日本はイギリスだけではなく、Cの朝鮮と台湾、中国東北地域の天然資源や食料、人的労働力、商品市場が必要でした。日本と日本人は、こうして日本と日本人の命と暮らしを守るために、どうしてもこの関係(A,B、Cの関係の中のBとCの関係)をまずは守らなければなりませんでした。それゆえ、イギリスからの圧力というか、それこそ「多種多様な」意味での「侵略」に耐え、同時に朝鮮、台湾、中国、その他アジア諸国、諸地域に対して、これまた同様の圧力の行使を展開したのです。

つまり、自国の防衛とか、自存自衛のためと言いながら、このシステムの構造的圧力の関係を擁護しながら、自分たちより弱いところに対しては、「侵略」していったのです。

覇権システムの中で、それこそ大きな侵略を、すなわちA、B、Cという関係それ自体がうみ出す「侵略(圧力)」を受けながら、付言しますと、Aのイギリスをはじめとした先進国の自由や民主主義や人権や平和という圧力を甘受しながら、それに対抗するために、Aのイギリスの防衛力の庇護の下に、近隣のアジア諸国を侵略していったのです。自国を守ることが、同時に弱い地域や弱い人々を犠牲とするような「関係」の下で行われるのですね。

左翼の論者、とくに福島瑞穂さんたちの「侵略」論議はいつもこうした関係の中の、Aの先進国の「侵略」に甘すぎます。中でも、Aの自由や民主主義、人権、平和といった「普遍主義」の担った「侵略(圧力)」にはことの他、甘いのです。その理由は簡単です。そうした普遍主義をもとに憲法や法律がつくられてきましたし、それをもとにして、彼女は弁護士となり社民党の党首となっていましたから、それを批判、否定することは、飯の食い上げとなりますね。
もっとも、彼女は心底、それを疑うことはなかったですから、私などとは異なり、幸せでしょう。

同様に、右翼の櫻井さんの論も、Aのイギリスがその気になれば、いつでも潰せたはずのBの日本の姿を直視していません。いくら防衛しても、関係の中の日本ですから、その関係の中で優位な地点にいるイギリスには従わざるを得ませんから、その都度イギリスの要求に合わせなければなりません。イギリスはシステムの維持、発展を最優先として、イギリスとその同盟国の防衛を図りますから、また覇権国としては、図らざるを得ませんから、日本という国を守ることが、その最優先課題に奉仕するということになります。それを、櫻井さんは問いません。

今のセカイは、{[B]→(×)[C]→×[A]}の構造的圧力の関係のセカイですが、明治維新以降の1970年代までのセカイと異なるものではありません。イギリスが米国に代わったのです。私が読者にお伝えしたいのは、安保法制の集団的自衛権の発動は、結果的には、このセカイとその関係を守ることになるのです。つまり、Bの先頭にいる中国が、Aの先頭に位置しているこれまでの覇権国の米国との覇権連合によって、このセカイの維持と発展に、奉仕するということなのです。(それを具体的に知るためには、その背後にある経済的利権の動きを知る必要があります。この作業において、いわゆる「陰謀論」の資料は大変参考になります。)

もしそうであれば、中国を「仮想敵国」とした一連の議論の意味は何だったのでしょうか。憲法を守っても、第九条を守っても、あるいは集団的自衛権の行使を容認しても、この図式のセカイの現実化は阻止できません。

私たちは、このセカイの現実化の中で、世界各地の紛争を目の当たりとしています。多くの難民や戦争犠牲者が絶えません。その根源は、このシステムです。その関係の展開です。そうしたシステムの構造的圧力に苦しめられているのは、B、C、Aのいずれのグループ内に暮らす人たちです。

それぞれその苦しさの形や内容は異なりますが、それぞれがこの関係の中で結ばれています。こうした不幸の仕組みを、少しでも低減できる、緩和できる≪じゆう≫、≪みんしゅしゅぎ≫、≪じんけん≫、≪へいわ≫を考えていきたいものです。それは決してこれまでのような自由、民主主義、人権、平和ではないことは言うまでもありません。

私はそのために、これまで、経済発展と民主主義の発展の関係(「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の実現の関係)をもとにして、このシステムの全体像とその形成と発展の歩みに関して考えてきたのです。今日はこの辺でやめておきます。お付き合いありがとうございました。












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オニクたラムにとって、「国を守る」というのは

2015-09-22 | 社会 政治
最近また立て続けにブログを書く。これで私自身の精神のバランスを保とうとしている、おそらくそうだ。以前にもあった。広瀬隆さんが東京都知事選挙選で、候補者の一本化を呼びかけ、細川さんを擁立し、共産党の推す宇都宮さんと分裂して、結局は舛添さんが当選した。あの時も精神のバランスを図っていた。

この経緯をよく考えれば、また共産党のように≪核の「平和」利用≫と主張するのではなく、広瀬さんはずっと一貫して原発を批判し続けていた。さすがに『赤い盾』やその他の天然資源をめぐる紛争を取り扱ってきた著者ならではのことだ。昨日も書いたが、共産党とその支持者には失礼であり、申し訳ないのだが、いつまで同じことを繰り返したら気が済むのだろうか。

もっとも、まだ福島原発事故前ならば、民主党に騙されてもいいかと思っていたが、もし今度民主党が統一戦線の呼びかけをしたら、それなら私は、まだ共産党の志位さんの呼びかけに騙されたい。つまりは、次の選挙での野党の統一戦線は難しいということ。これまで政治が動いたのは(もちろん、錯覚であることにいつも後で気づかされてきたが)、ほとんどが与党勢力の内紛からくる自滅の結果だった。

それでは本題に入ります。気分を変えて、文体も変えます。

ここにきて気がついたことがあります。それは「安保法制」を議論するに際して、一番大事な話を忘れていました。櫻井よしこさんのユ-チューブをみて、思い出した次第です。この言い方、つまり「思い出した次第」という表現ですが、相当におかしいでしょう、でもそうなのです。

そこで櫻井さんが述べていました。---集団的自衛権云々の問題で大切なのは、「国家の役割」は何ですかということではありませんか。それは「国を守る」ことでしょう、どうやって国を守ればいいのか、ということでしょう。いま行われている議論は、その重要な問題を横において憲法が、あるいは集団的自衛権に制約を課する限定的容認論等の話しであって、議論の大前提が忘れられていませんか、という内容でした。

私もそれに賛成(憲法とか集団的自衛権を議論するのは、そもそも国の役割である国を守ることの議論が先にあって、その後に来るものなのに、その先にある議論が全くされないままに、後の問題だけがもっぱら語られているではないかという主張に賛成)なのですが、それはまたややこしい話になるのです。付言しますと、おそらく櫻井さんは、先と後という際に、その両者がセットとして扱われるべきなのに、その一方だけが語られていると言いたいと思いますし、私はそう捉えています。

「国を守る」とは、一体何でしょうか。大問題ですね。私は櫻井さんの問題提起には賛成なのですが、「国を守る」というその中身、内容には、違和感を覚えます。これは、櫻井さんだけではなく、田母神さんやいわゆる「右」の論客の主張に関しても同様なのです。私の答えは、そもそも「国」なんて守れない、そんなものは存在しないのだというものです。少なくとも、右翼の論者が言うところの「国」は、またすぐ後で述べますが、決して守ってはならないということです。

それでは、少しお付き合いください。「国を守る」とは、どのようなことを指しているのか。
私のような考えを前提にしますと、「日本」という「国家」と「日本人」という「国民」を守るということは、私たちがそれを意識するかしないかにかかわらず、いつも私のモデルで描く例のセカイとその関係(史)を守るということになるのです。

もう私の話にお付き合いいただいている読者はお分かりだと思いますが、それは何故か。日本という国家も、日本人という国民も、そうした「関係」の中で初めてつくられたからです。いつもこの点を考えておく必要があります。

1970年代までは、{[A]→(×)[B]→×[C]}のセカイとその関係(史)の中で、1970年代以降は、{[B]→(×)[C]→×[A]}のセカイとその関係(史)の中で、右翼の論者らが守ろうとする「日本」という国家が、「日本人」という国民が、それこそ「創造」されたのであります。

右翼の、また左翼の論者のいう「国を守る」の国は、「国民の命と暮らしを守る」の国民は、あるいは「日本を取り戻す」の日本は、「民主主義を取り戻せ」の民主主義は、「憲法を守れ」の憲法は、さらには「立憲主義を守れ」の立憲主義は、こうしたセカイとその関係(史)の、換言すれば覇権システムの「想像の産物」なのです。(私の図式では1970年代まではA,B、Cの関係の中で、BからAへと「上昇」しましたが、1970年代以降は、B、C、Aのセカイの関係(史)のAにおいて、「衣食足りず礼節を知らず」の営為の状態に甘んじているのです。なお、詳しくは昨日の拙著を参照してください。)

付言しますと、B・アンダーソンが「ナショナリズム」を「想像の共同体」として位置付けていますが、私からみれば、彼はそのナショナリズムを、本来ならば覇権システム(を構成するA、B、Cの関係(史))の中で「想像」されるのにもかかわらず、その全体・統一像の「単位」を、A、B、Cの各々が独立した「1国枠」を単位として、それらの国家の中で「想像」されたと考えているのです。(すでにこれについても拙著で述べていますが。)

それゆえ、私がこれまで何度も指摘してきましたように、同じ日本、日本人のように見えたとしても、少なくともその「存在」としての「役割」は異なっていることに注意しなければなりません。なぜなら、1970年代までの関係(史)と、1970年代以降の関係(史)が異なりますから、自ずとそうした関係の中で創られる日本と日本人も異ならざるをえなくなるのです。

そのことは、1970年代以降のセカイの関係(史)の中で、今日の格差社会が端的に示すように(「衣食足りず礼節を知らず」の営為の状況に直面し続けることから)、「礼節を知らず」の礼節の抱える問題点の考察が大事です。しかしながら、残念案ことに、安保法制の論議に示された立憲主義は、また憲法13条の生命、自由、幸福追求権は、もはや日本国家(政府)がいくら頑張っても、国民にそれを保証するのは難しいのです。

(また付言しておきます。私は今回の安保法制の審議の際によく民主党の議員さんたちが憲法13条を持ち出して政府案を批判するのを聞いてましたが、あなた方にそれを言う資格はないだろうと、腹が立ちましたよ。福島の原発事故以降の、まさに福島県民の、特に子供たちの環境は放射線被害により最悪ではありませんか。なぜ、あなた方は、こうした議論を原発事故に際しては持ち出さないのですか。いろいろとありますが、やめておきます。)

それこそ、まさに別の意味での「集団的自衛権」が求められるのですが、これまた残念なことに、1970年代以降のセカイの関係は、すなわちB,C、Aの関係(史)は変えられませんから、国民の大多数の生活は守られません。それに輪をかけて、安保法制による日本の軍事力の世界的展開により、日本という国家の存続も常に危険に見舞われることが予想されますから、私たち国民は、踏んだり蹴ったりですね。

安保法制により、防衛産業はこれまで以上に儲かりますが、多くの国民は日本の内と外で危なくなりますから、もう「内」では経済的に大変な状態ですが、それこそどうやって私たちが生き残れるかを考えなければなりません。誤解を恐れないであえて言いますが、「日本」と「日本人」を別に守らなくてもいいではありませんか。私が、あなたが、私たちがどうすれば守られるかをまずは考えるべきでしょう。なぜなら、私の図式の1970年代以降のセカイでは、もうすでに日本と日本人という存在は解体されるように、そのように事態は進行しています。

もし仮に、それでも日本にこだわり、日本人にこだわるのであれば、守ろうという前に、この解体化させていく流れと、それを作り出す仕組みをきちんと確認しておく方が重要ではありませんか。そのためには、私のような問いかけ(守らなくてもいいではないか、さらに言いますと、守れ守れと私たちに言いながら、あなた方のやっていることは私たちを殺すことではありませんか、それなら、私たちも守りません)がやはり必要ではないかと考えるのです。

私は「売国奴」という言い方が好きではありません。なぜなら、上述したシステムの存在の中で、初めて国というものは作られるのであって、その意味では私たちが考えている国は関係の中の国ですから、「関係」を「売る」ことができない(捨てられない)以上、国を売ることはできないと考えるからです。

いずれにせよ、私たちはもう守られないのです。少なくとも日本国内において、多くの日本人の日常生活における安全保障は無理だということなのです。いまの安保法制は、それを前提としながら、進められてきましたから、そこで守られる日本という国家と日本人という国民は、一体どのようなものかということになります。

私がここで主張したいのは、私たちは、これからますますその関係が強固となり、容易に掘り崩せなくなってきている{[B]→(×)[C]→[A]}の関係(史)のセカイの中のA(グループ)の中の「日本」と「日本人」を、どうやって守れるのかということなのです。もうお気づきでしょうが、そんなことをすれば、つまりこの関係の中で守ることに精を出せば、ますますじり貧になるではないか、ということなんですよ。Bの中国とCのアフリカ諸国とAの米国・EU諸国の「利権・利害」関係が強化されることは必至ですし、そこに日本の経済・財界と政治家。官僚が組み込まれていきます。

もちろん、他人事みたいな言い方をしましたが、忘れてはなりませんね、私もあなたも、私たちもです。そして少ないながらも、そうした関係の利権のおこぼれに与るわけですから、言われるのですよ、「この関係を守れ」、「この関係の平和を守れ、とね。ただし、直接そうは言わないのですね。あくまでも「日本を守ろう、守れ」「世界の平和を守れ、守ろう」なんですが。

そうした関係を一方で強固にしながら、同時にこうした関係を世間の目から遠ざけながら、他方で、攻めてきたらどうする、9条では守れない、集団的自衛権が必要だ云々を叫んで、無理して中国と対立させるのです。確かに9条がいくらあっても、相手は関係なく攻撃するときはしてきますし、集団的自衛権があっても、それでも相手を助けられないこともあるでしょうが、問題はいくらそのような話を繰り返しても、意味があまりないのです。

こうした議論をお互いに水掛け論のようにさせているのは誰なのかを考えなければなりません。そして、もし私のモデルのセカイの関係(史)が現実にその形成と発展の歩みを進めていたら、こうした議論はいったいどれほどの意味がありますか。

繰り返しになりますが、守れないのですよ。守ってはならないのですよ、むしろ逆に、どうすればこの関係を壊せるのかを考えることが大事なのですね。それを少しでも考えれば、そんな偉そうに壊すなんて、バカか、ということに気がつくでしょう。

それではどうするんだ。その次に考えることは、それではどうしたらこの関係から足を抜けれるかということですね。これも相当に難しいことに気がつきますから、今度は、この覇権システムの中で、どうやって、システムが理想として、世界中にこれまで押し付けてきた生き方とは異なる歩みが可能なのか、を模索するのですよ。(これに関しては、拙著『覇権システム下の「民主主義」論ー何が「英霊」をうみだしたか』(御茶の水書房、2005年を参照してください。)この関係の中で、どうすればこの関係が作り出す構造的圧力から少しでも身をかわせるかを考えるのですが。それに関して、ここ数回の私の記事は関連しています。

ただ、このようなことを考えるところまで、多くの人は到達しませんし、できません。別に偉そうに言っているのではありませんし、「上から目線」で云々でもありません。私がここまで述べてきた関係(史)を、多くの人は理解できませんから、当然ながら、見えませんし、見ようともしないのです。ましてや、自由や民主主義や人権や平和が素晴らしいとか、憲法を守れ、平和憲法は素晴らしいという人には、最初から無理なのです。それゆえ、彼らは、自分たちがこれまで、いかに世界の戦争に加担してきたかもわかりません。ですから平気で言うのですよ。私たち日本人は戦後70年間、第9条の下で誰も殺さないできた、と。

当然ながら、このような人たちには「黒幕」の正体が見えません。少なくとも、その黒幕である覇権システムを構成する一員としての{日本}と{日本人}であるとの自覚が持てない限り、「国を守る」の議論は覇権システムそれ自体には痛くもかゆくもないでしょう。私たちの国を守る議論が覇権システムを守っていることになるのです。とにかく厄介ですし、大変な問題です。いくら偉そうに別の異なる「衣食足りて礼節を知る」の営為云々とか、世界的大企業、多国籍企業の提供する「衣・食・住のネットワーク」に代わる云々の話をしても、やはり落ち込むだけですね。ここまでお付き合い、どうもありがとうございました。

(追記)この記事は昨日(9月22日)のものですが、今日(9月23日)、「EU諸国」という語句を追加記入しておきました。箇所は、「Bの中国とCのアフリカ諸国とAの米国」というくだりの米国のすぐ後に挿入しています。読者にはそんなことは推察できるとは思いましたが、念のためです。)







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オニクタラムの「安保法制」論ー放置された問題(続)

2015-09-21 | 社会 政治
昨日に続いて、今日も書きます。(今回はデスマス調)
少し追加をしておきます。昨日の記事で、私は「総元締め」とか「黒幕」と表現していますが、それは覇権システムそれ自体を指しています。もう少し丁寧に言えば、そのシステムとその秩序を前提としてこれまで織り成されてきた先進国グループ(A)と中進国グループ(B)と後進国グループ(C)における経済発展と民主主義の発展の関係の歩み(関係史)そのものです。(これに関しては、拙著『「日本人」と「民主主義」』(御茶の水書房、2009年)、『21世紀の「日本」と「日本人」と「普遍主義」』(晃洋書房、2014年)を参照してください。)

私の見るところ、山本太郎さんが安倍政権は米国と経団連のコントロールの下に置かれている云々の批判は、仮にそうだとしても、私もそれに同感しますが、それではその米国と経団連は、誰がコントロールしているのかを問わない限り、私たちは、戦い続けることはできないと考えるのです。

私からすれば、米国と経団連は、覇権システムのコントロールの下に置かれていますから、その関係史を構成してきた「経済発展」(衣食足りて〈足りず〉の営為)と「民主主義の発展」(礼節を知る〈知らず〉の営為)の関係とその歩みの問題点を究明する必要があると、私は見ていますが、「自由と民主主義を守れ」、「憲法を、立憲主義を守れ」と最初からそれらの普遍主義を疑うことのない、何ら問題のないものとして「神棚」に上げたままで、安保法制を論じるのであれば、そうした議論は覇権システムを擁護してしまうことになると思うのです。

それゆえ、米国と経団連を批判してそのコントロールから自由になれと主張しても、その批判が覇権システムそれ自体に向かわない限り、つまり自由主義や民主主義や人権、平和といった普遍主義の批判に向かわないのであれば、掛け声倒れで終わってしまうということです。

私がこだわるのは、「礼節を知る」の「礼節」としての普遍主義を導き出す「衣食足りて」の営為を、もう少し私たちは真剣に引き受けることが重要だということなのです。昨日の記事で書きましたが、この「衣食足りて」、あるいは「足りず」の営為のネットワークは、今日では世界的大企業、多国籍企業がそれこそ生産から流通そして消費に至るまでその維持と管理に与っています。

ここで忘れてならないのは、私たちの「電気」も、また「武器」もそのなかに含まれていますから、福島の原発事故とその後の問題や、それこそ安保法制で集団的自衛権云々の問題もこうした脈絡の下で捉え直される必要があるでしょう。そして、何よりも重要なのは、そのネットワークの中で、私たちは、職をえて生活しているということなのです。

私たちは、安倍首相と同じように、こうした観点から言えば、米国と経団連に、さらに覇権システムが創り出してきたネットワークに、コントロールされているわけです。山本太郎さんもすべての者も、この中に組み込まれているのです。世界的大財閥のロスチャイルド家も例外ではありません。この関係は、M・ヴェーバーの『プロテスタンティズムと資本主義の精神』や『官僚制』の著作からも学ぶことができます。

それではどのようにして、どうすれば、このコントロールから抜け出せるのでしょうか。これまでの歴史において、いろいろな例があり、参考になりますが、昨日も指摘したように、相当に大変なことなのです。ガンジーはイギリスからの「独立」闘争に際して、彼自身が手織りで作った服を着て戦いました。有名な話です。中学や高校の歴史で学びました。イギリスと戦う私たちが、イギリス製の綿製品を纏って戦ったら、おかしいだろうと。「ここ」にすべてがあります。凝縮されています。

昨日の記事で述べた「ウォール街を占拠せよ」の運動家たちは、何を着ていたのでしょうか。別に彼らを揶揄するつもりはありませんよ。私にその資格はありませんから。ただ、私たちのやっているのは、最初から嘘なんだということなんです。「衣食足りて」の営為と「礼節を知る」の営為は切り離せないものなんですね、本来ならば。ところが前者は不問に付して、後者だけにこだわって、その礼節で持って、それを戦う武器として、前者を支配する、管理する現代の大富裕層と戦おうとしているのですからね。

しかも、私たちが武器にしている後者の礼節は、かつて前者を支配管理していた大富裕層がいわゆる[市民革命]の前後に提供した武器であったとしたら、正直もう遊びはやめたら、となるのですよ。年寄りはもう人生の経験の中で身体に染み付いていますから、遊びを遊びとして戦っているのです。若い人がこれに気がついていれば、私は何も不安は感じませんが、この点を斟酌したら、それこそほどほどに遊びはそのくらいで、勉強した方がいいですよ。

こうしたことを踏まえた上で、私は昨日も恥をさらしたように、少しでも嘘を嘘でないようにする、そうしたこれまでとは異なる「衣食足りて礼節を知る」の営為の実現に、こだわり続けたいのです。(しかしながら、このように話しながら、これまですでに20年以上も停滞したままなんです。実際のところ、「タラム君、どないするの、どうなっているの」というのが現状です。)

(追記)
共産党の志位委員長が反「安保法制」に向けての国民統一連合?声明を出したそうですが、正直、また東京の都知事選挙の再現かと絶句です。(もっとも、システムそれ自体には、システム内での対立や闘争、あるいは紛争(戦争)は歓迎されるものですから、そのような動きを喜ぶでしょうが。)

なおもう少し、話したいのですが、やめておきます。ただ、最後に、山本太郎さんの言を借りれば、私たちはいつまで既成与党と野党にコントロールされるつもりなのか、という問題にも向き合わなければなりませんかね。まあ、こんなことを言っても仕方のない、どうしようもないことですが。














































コメント (1)
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オニクタラムの「安保法制」論ー放置された問題

2015-09-19 | 社会 政治

今回の「騒動」の原因は、誰もが語っているように、安倍首相が憲法「違反」を前提に、自衛隊の海外派遣(派兵)を「自由に展開」させる流れをつくってしまったことにあるようである。

本当に、安倍さんに、政府与党に、また日本の国会議員に、そんな力があるのだろうか。煎じつめて言えば、彼らの代表者である日本国民に、それほどの力があるのだろうか。なぜなら、日本は米国の「属国」ではなかったのか。もしそうだとすれば、私たち日本の国民の力の源泉は、米国ということなのか。それでは何故そんなに米国は強いのか。米国の力の源泉はなんだろう。

ところで、安倍首相は何故そうした流れをつくったのか。また何故そうすることができたのか。いろいろな答え方があるだろううが、私はそこに米国の経済・財界と日本の経済・財界の強力な「後押し」が存在していたと思う。これは誰しも感じていることであり、その通りだが。

国会での問責決議や不信任決議での各党の、とくに野党の主張の中に、日本の経団連や米国の経済団体を非難、批判する声が聞こえなかった。安倍さんをいくら問責したところで、彼は、また彼のお友達や、議員、官僚やマスコミ人の多くも、そうした経済・財界の「下請け」を担っているのだから、安倍さんを問責すると同時に、「元請け」にもその声が届くような「演説」をしなければならなかったとみているが、これは最初から無理な注文となる。

さて、日本と日本人が真剣に向き合わないままにきた「問題」がある。今回の安保法制をめぐる議論の核心は、軍事力の、つまり武力の行使とその展開に関して、日本に「応分の負担」を米国が迫ったところにある。この米国からの要請に対して、私たちは真正面から向き合わないままに、憲法論議に明け暮れた。それももちろん大事なことだが、問題の核心とはならない。

それでは、武力の行使と展開は何故、必要なのか。簡単にいえば、「商売」のためである。その商売を通して、私たちは自らの「存立」を図る。銭を稼ぎ、そのお金で必要な生活用品を買うことができる。そして、国民として税金を払って、国民国家の維持と運営に努めることができる。というよりも、ある者は、それを強い、多くの者たちは、そうすることを強いられてきた。最近では、国民に税金を払うことを強いてきた側が、勝手に自分たちの支払い分を少なくしたり払わないで済むようにと、まさに「したい・やりたい放題」。日米の経済・財界の現状を見てもわかる、つらい話である。

話を戻そう。私たちは商売を通して生きているが、この商売にはいつも危険が伴う。また儲けようとすればするほど、手口も荒っぽくなるから、いつも「紛争(戦争)」が絶えない。私たちのそれこそ帝国主義の歴史を振り返れば理解できるし、いま現在もそれは進行中だ。

それで、どうしてもその解決の手段として軍事力が求められてきた。そのために、武器が求められる。その調達のお金は、結局は税金となる。ここでも、儲ける側(戦争を強いる側)とその犠牲者となる側が見事に分かれている。

この商売の大元締めは、いつも歴代の大企業、大商社、大商人(銀行家)であった。彼らが作り出したネットワークの中で、彼らが提供する各産業、各業種で私たちはその食い扶持を得るのだから、彼らには頭が上がらない。中でも一番、頭が上がらなくなったのは、政治家や官僚、御用学者、マスコミ人たち。もっとも、一番頭が上がらないことで、地位と名誉とお金を手にできたのも確か。

いずれにしても、私たちも、彼らの提供するネットワークの中で生きていることから、そのネットワークの安全保障とその問題に、どうしてもかかわらざるをえなくなる。そのネットワークの具体的体現者は、たとえば、あるときは国家であったり、地域国家連合であったり、国際連合(連盟)であったりと、その都度、紛争の種類は低度により、異なる。しかし、いつもその政治的体現者を動かしているネットワークの「黒幕」はその正体を、つまり[彼らこそ直接的な下手人である]との証拠を、はっきりと示すことはない。

今回の安保法制の論議は、とくに、「自由と民主主義を守れ」、「立憲主義を守れ」、「憲法を守れ」云々の「主張」は、彼ら黒幕にとって、これ以上ない素晴らしいプレゼント話となると同時に、彼らの「聖域(利権の構造)」に切り込める可能性のある主張が当分の間は提起されないという意味での「安全保障」を提供してしまった感が強い。皮肉というか、これまたいつもどおりの、予想されたことの繰り返し。

ところで、残念であると同時に、当然のことながら、私たちの商売には紛争や戦争が伴うことから、たとえ、私たちが平和憲法のおかげで戦後70年間、自衛隊を海外に派遣することなく、誰ひとり殺さないで良かったと声高に叫んだとしても、話はそれで済まないのである。

少なくとも、1970年代までは、私の例のモデルのセカイの{[A]→(×)[B]→[C]}の関係に示されるA、B、Cの「衣食足りて(足りず)」の営為のネットワークの中で商売をしてきたわけだし、そこで日米安保条約体制の下で、いわば共同正犯として、そうした商売とそれに伴う紛争と戦争にかかわってきたのは確かである。朝鮮戦争、ベトナム戦争、中東戦争等々、米国の関与した戦争犯罪に、それこそ加担してきた。

ところが、そうした「共同正犯」としての事実を私たちは認めようとしなかった。平和憲法、第9条を持ち出して、私たちの商売(経済発展の関係)と日米安保体制との関係を直視しようとはしなかった。米国側からすれば不思議な光景となる。同じ戦争犯罪に加担しながら、私たちは平和憲法の「縛り」により、その犯罪には加わらなかったし、誰ひとり殺してないと世界中に自慢しながら、裏では米国の軍事力に守られて、世界第2,3位の貿易黒字を稼いできたのだから。

問題の核心は、こうした「生き方」ではないのか。米国はもう自国の力の衰退から、これからの世界のネットワークの関係を、すなわち私のモデルで描く{[B]→(×)[C]→×[A]}にあるB、C、Aの「衣食足りて(足りず)」の営為の実現にかかわる商売のネットワークの安全保障を、もうこれ以上は、維持する軍事力とそのお金をねん出できないので、日本と日本人に肩代わりしてほしいと要求したのである。そして、安倍首相は、日本の国会に諮る前に、米国議会で「承知しました」、と答えてしまったのである。

ここで確認したいのは、二つの重要な問題が提示されたことだ。ひとつは、まさに安全法制に関する安全保障の在り方(個別的自衛か、集団的自衛か)とそれにかかわる憲法の(違憲かどうか)の問題であり、もう一つは、日本人がこれからどうやって食べていくのか、これまで通りの米国の経済・財界が中心となって提供するネットワークの中で生きていくのかという問題である。この両者は、相互に関連していることから、本来は結び付けて、問われるべき問題なのであるが、それができないのである。

今回もそうなのだが、私たちが終始、関与したしたのは日本と日本人にとってはお得意の(お家芸の)、また日本国内にのみ通用する、前者に関する議論であり、後者に関しては、これまで通り無視、放置したのである。

ところで、日本にそうした要請(要求)をしたのは、オバマ大統領であり、米国の上院、下院の議員の多くであるが、彼らにそうさせたのは、米国の経済・財界であり、またその傘下に位置する日本の経済・財界であり、その意向を受けた日本の政・官・学であるのは言うまでもない。

問題は、さらにその先である。それではその米国の経済・財界にそのような要求をさせたのは誰なのか、あるいはいかなる「仕組み」なのか、それを究明することである。ところがそんなところには全く立ち至れないのである。いつも安全保障・憲法論議の前で立ち尽くしたままなのだ。

私たちがそれこそ問わなければならないのは、それではその米国は、その米国の経済・財界は、ウォール街は、誰の意向に従っているのだろうか、という問題である。たとえば、それは、ロスチャイルド家(財閥)とその傘下にある大企業、多国籍企業なのか。もしそうだとしたら、つまり世界がロスチャイルドや、あるいはロックフェラー関連の財閥の意向に従って動いている、動かされているとしたならば、それでは、彼らは一体誰の意向に、あるいはいかなる仕組みに従っているのだろうか。

また、仮にそうした仕組みが存在するとしたならば、私たちは、一体そうした仕組みのどこに位置しているのだろうか。その際、中国は、アフリカ諸国は、米国は―――ということになる。さらに、そうした仕組みの形成や維持、発展に、自由主義や民主主義、法の支配や立憲主義はどのように関係しているのかについても、解き明かすことが大切であろう。


少なくともこうした問いかけに答え続けない限り、私たちは米国や日本の経済・財界のネットワークの下請けから脱することなど、到底不可能ではあるまいか。今回、安倍さんの退陣を叫んだリ、安保法制の見直しや廃案を要求した人たちに是非とも考えてほしいのは、あなた方のそうした運動が、「私たちはもうこれまでのような世界の経済・財界が生産から流通、そして消費に至るまでその多くを支配・管理し、提供する「衣・食・住のネットワーク」の中で生きることを金輪際やめたい」という運動につなげようとしているのか、どうかである。

自民党、公明党はもとより、共産党も、社民党も、民主党も、その他の既成政党も労働団体もすべて、こうしたネットワークの中で生きることを〈前提〉としながら、その維持と運営やそのわけ前の配分の仕方で、衝突、対立、協調を繰り返すのだが、基本的には〈同じ仲間(同志)〉なのだ。それゆえ、「右」とか「左」とか「中道」とかのレッテル(貼り)も、瑣末な関係のない問題である。

ただし、もし新たなネットワーク運の話を本当にやろうと動き出したならば、すぐにその途端、これは力の抜けるほどに大変な作業であることに気がつくだろうし、これを聞いた途端、私は、それは無理だから、できないからと答える人が続出するだろうことは、容易に想像がつく。ほとんどできない話だから、先述したように、前者にもっぱら傾倒した話しとなるし、後者の話を現実にと考える者の生活は「悲惨」なものとなる。

さて、こうした問題と関連した少し前の話だが、「ウォール街を占拠せよ」という、世界の耳目を集めた運動がおこった。彼らは口々に「本当の民主主義を」、「民主主義を取り戻せ」と叫んでいた。その運動に参加した人たちは、その運動中に、一体何を着て、食べて、飲んでいたのだろうか。おそらく私たちの着るもの、食べるもの、飲むもののほとんどが先のネットワークを形成した大企業、多国籍企業により提供されたものである。彼らは、自らの首を絞める仕組みの中で生きながら、その仕組みを批判するのであるから、勝負は最初から見えている。

ただし、私に彼らを批判する資格はない。今回のデモ参加者に対しても、同じように批判することはできない。そのような気持ちからこうした問いかけをしているのではない。念のために。

そろそろ今回の記事の結論を述べたい。「民主主義」が問題なのか。それはもちろん関係しているのだが、それ以上にここで大事なことは、彼ら占拠者が、従来とは異なるネットワークをつくれないことが問題なのではあるまいか。先ずはそれをつくることではあるまいか。それに取り組むことではないのか。

これまで私は問い続けてきた。それは、安保法制のデモの際に多くの者が叫んでいた「自由と民主主義を守れ」、「憲法を、立憲主義を守れ」という主張は、すぐ上で述べた「ーーこれまでのような世界の経済・財界が生産から流通、そして消費に至るまでその多くを支配・管理し、提供する「衣・食・住のネットワーク」の安全保障のために、歴代の大富裕層がつくりだしたものではなかったのか、と。

彼らはまさにオランダ、イギリス、アメリカ、フランスの市民革命をとおして、自由、民主主義、人権、平和といった「普遍主義」を世界中に浸透させてきたのだが(正確に言うならば、世界中に彼らの商売のネットワークを張り巡らす中で、その商売の円滑な発展と拡大とその正当性、合法性を確保するために、先の普遍主義を浸透させる必要があったのだが)、そのために、いつも世界の国々に軍事力を提供し(備えさせ)、それを拡大、拡張し続けさせてきたのではあるまいか。それによって、彼らの商売とそのネットワークを強固にしてきたのではあるまいか。日本と日本人もそうしたネットワークに組み込まれて、今日に至っている。安倍首相が推進した安保法制は、そうした仕組みを支えるための「道具」ではあるまいか。

それゆえ、安倍首相を糾弾することは結構なことだが、そうした仕組みに安住しながら、安保法制に反対したとしても、結局のところ、安倍首相をコマのように使っている、先のネットワークの提供者にとっては、痛くもかゆくもないことなのである。

それどころか、ますます彼らを肥え太らせてしまい、そのネットワークの安全保障(防衛)に寄与・貢献することとなるのではないか。それゆえ、これまでの普遍主義ではない、新たな普遍主義をつくることが大事であるし、そのためにも、どうしてもこれまでとは異なる〈衣・食・住のネットワーク〉の構築が求められるのである。

ただ、これは相当に厄介である。私自身の身の回りを見ても、これから食べようとするものを考えても、まったくといってよいほどに絵空事の話ではあるまいか。しかしながら、嘘を承知で言わざるをえないのだ。相当につらい。今日の記事の私の嘘は、これまで以上に、憂鬱なものは確かである。今回の投稿もまた躊躇したが、私の中に、ここで述べた嘘(見果てぬ夢)を現実のものにしたいとの思いを、なおかすかながら確認できたので、また私の分身に伝えたいがために、恥をさらした次第である。
























































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