日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

「システム〉(論)から国連総会でのグレタさん演説を考え直すとき

2019-09-28 | 社会 政治

「システム〉(論)から国連総会でのグレタさん演説を考え直すとき

今回はごく手短に述べたい。

国連総会でのグレタさんのスピーチは、{[B]→(×)[C]→×[A]}の図式で描くセカイとその歩みを、今後の世界的な原子力エネルギー政策とその実現の観点から支持、強化する点で、1970年代以降から形成、発展中のシステムとその歩みに「貢献」する内容であった、と私は見ている。

既にいくつかのネット記事でも指摘されているように、世界のウラン鉱山を支配し、原子力産業を推進するロスチャイルド財閥系企業にとって、グレタさんは若者を中心とした世代に対する司令塔、広告塔として活躍しているといった趣旨の見方が示されている。

それを踏まえて言えば、(私自身もこうした見方を当然としているが、これまでの記事でも述べてきたように、さらにそこから先に議論が展開できる枠組みを考えることが大事だとみている。)私は彼女の演説から、Bの先頭を走る中国やインド、そしてブラジルをはじめ、BやCに位置するアフリカ諸国が今後ますます原子力発電に依拠した経済発展を進めていくことを世界に発信したものとして受け止めた。その関連から産油国の政治的経済的動きを牽制するのにも役立つ演説だったとも理解している。

そうした世界のエネルギー対策の脈略から見るとき、Aのかつての先進諸国は、グレタさんの母国のスウェーデンをはじめ、トランプ大統領下の米国も、その保護国領化の色合いをこれまで以上に強めた日本も、またイギリス、フランスも同様に、先のセカイとその歩みを盤石のものにするように協力していくとみていいだろう。

中国は崩壊しないし、中国経済は今後も世界を牽引する機関車的役割を担う。そしてそのエネルギー源は原子力産業が提供する原子力発電だ。そしてその原料を提供するのは、ウラン鉱山を支配する者たちであるのは確かであろう。この世界を動かすいわゆる支配者層に取り、「金の成る木」の重要な担い手国である中国を、またその中国を動かしている中国共産党を崩壊させることは断じてできない。

こうした観点から「香港デモ」を見直すならば、システムとその関係の歩みの中での各国の力と力の綱引き関係が見えてくるのかもしれない。今回はここまで。

誤解のないように付言すれば、環境問題に対する私や同世代の責任は重いし、グレタさんのような若い世代が年上の世代の「無責任」「怠慢さ」を激しく攻撃する気持ちも理解できる。しかし私が訴え続けてきたのは、温暖化問題は、二酸化炭素の削減やその関連から注目された気候変動に関する問題だけに限定されるものではない。いや、むしろ今明らかなのは、福島原発事故問題に象徴されるように、二酸化炭素に替わるクリーンなエネルギーとして注目された原子力とその発電も、大きな環境問題の原因を構成しているということではあるまいか。

環境問題をさかのぼってみるとき、その大きな原因として、私はほかならぬシステムとその関係の歩みこそが、「環境問題」の「主因」だとみるのだ。グレタさんをはじめ、若い世代に対して、私が願うのは、こうした上位の環境を踏まえながら、グレタさんが強調する下位の環境問題を考察してほしいということだ。と言うのも、{[A]→(×)[B]→×[C]}、{[B]→(×)[C]→×[A]}のセカイとその関係の歩みの形成、発展とその変容の中で、「地球温暖化」とそれに関係する多くの要因が生み出されてきた、と私は考えるからである。

とするとき、温暖化や、それに伴う(「下位」の)環境問題は、それを導いた先の図式で描かれるセカイとその関係の歩みを「上位」の「環境」として位置付け直すことがどうしても必要ではないだろうか。その上位の環境を先ずは何よりも問題とするべきではあるまいか。あまりにも下位の環境問題が重視されたことにより、上位のそれが無視されてきたきらいが強い、と私は見ている。

勿論、システムとその関係の歩みは、私たちの目をいつも「木」に、すなわち、下位の環境問題に向けさせてきた。と言うのも、無視しなければ「不都合な真実」があぶり出されるからだ。以前のゴア氏による『不都合な真実』は、私にはここで示した上位の環境問題に、すなわち、「森」という大きな存在にまで(当然ながら、そこにはロスチャイルド財閥系のグローバルな世界的多国籍企業だけではなく、私たち一人一人も含まれている。その意味では私たちの責任は非常に重いのだが)、私たちを接近させないような、不都合な真実であったのだ。

今回もお付き合いありがとう。

 


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(追加)「システム(論)から今日の中東情勢を見直すとき

2019-09-19 | 社会 政治

(追加)「システム(論)から今日の中東情勢を見直すとき

これまでの3回ほどの記事において、システム論の立場から中東情勢を語ってきたが、もう少しわかりやすく説明ができるのではないかと、今しがたひらめいたので、(と言うよりも思い出したので)、ここに追加しておきたい。

{[B]→(×)[C]→×[A]}

(省略形、共時態モデル、詳しくは拙著『21世紀のーーー』88-91頁の図表を参照されたい。)

Bにおいても、Cにおいても、またAにおいてもこのモデルの関係において、少しでもより有利となる、相手よりも優位な地点を確保しようとそれぞれのグループ内の諸国家は考え、行動している。それはひとえに、自己決定権の能力の保持と拡大のためである。それは該当する国家内の国民相互の関係においても然りである。

その自己決定権の能力の保持と拡大のために、B、C、A間の国家間での対立と敵対、それを介した合従連衡と協調の繰り返しが展開されることとなる。Bの下位ないしCの上位に位置する今のイランとイエメンの反政府勢力は、Bの中国とロシアの力を借りながら、Bの下位ないしCの上位、注意に位置するサウジアラビアとアラブ首長国連邦とその背後に位置するAのアメリカ、イギリス、フランス連合国と対立、敵対しながら地域戦争を継続してきた。

ここで大切なのは、そうした敵対と対立、地域紛争¥・センソウがなぜ引き起こされたのかということである。それは他ならぬ先のモデルで示した世界とその関係の形成と発展の歩みである。その関係の中で少しでも優位な優越した地点を確保しようとした結果なのだ。システムとその歩みが、Bの中国やロシアを、Aのアメリカやイギリス、フランスを使いながら、Bの下位、Cの上位、注意に位置する中東諸国を巻き込みながら、{[B]→(×)[C]→×[A]}のセカイとその関係を着実に発展させるのである。

そうした観点から見るとき、B、C、Aのそれぞれのグループ内およびグループ間同士で対立や敵対、そして挙句は地域紛争・戦争へと発展したとしても、システムとその関係全体からすれば、まったく何の問題がないかのように、対立敵対する諸国が現実にはシステムとその関係の歩みを相互に支え、発展させながら、その秩序を確固たるものとしていくのである。

ここに私たちの歴史の恐ろしさ、おぞましさが見いだせるのではあるまいか。この地点から見るとき、ネオコンや戦争屋はなんと「かわいい存在」だろうか。勿論、誤解のないように。あくまでも言葉のアヤに過ぎない。たとえそうであれ、「かわいい」なんて言うなとのお叱りを受けそうだが。たとえるならば、M・ヴェーバーの言う「鋼鉄の檻」に、また永井陽之介の言う歴史の「制約性」に結び付けて語ることのできる「宿あ」ではあるまいか。つくづく私はそう思わざるを得ないのだ。

さらに詮無いことを述べてしまった。拙著や拙論の中で書いていたように思われたので、再度またここに少し言及した次第である。


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「システム」(論)から昨今の中東情勢を振り返るとき

2019-09-19 | 社会 政治

「システム」(論)から昨今の中東情勢を振り返るとき

前々回、前回の記事を踏まえて、さらに論を展開してみよう。最初に断っておかなければならないが、確信の持てるニュース資料の選択ができているか、自信が持てない。いつものことなのだが、とにかく中国に関するニュース資料を私自身があまり収集できていないので、その辺の事情を鑑みながらお付き合いお願いしたい。別にそれは今回の記事だけではないが。

はっきりとイメージできるのは、中東諸国での米国の軍事的プレゼンスの後退であろう。その原因の一つに、やはり中国のこれら地域における軍事的プレゼンスの増大がある、と私は見ている。その中国とロシアの何らかの提携があるとみていいが、何よりまずは中国だろう。これら地域における中国の経済的影響力を背景としながら、軍事的影響力も大きくなってきたとみていい。もはや米国は中国の軍事力を、経済力は米中貿易戦争でも証明済みだが、うかつには扱えない段階に来たのだろう。「世界の警察官」を辞めるというよりは、辞めざるを得なくなったということなのだ。

こうした出来事は、私のモデルで描くシステムとその関係の歩みが、さら着々と発展、強固となっているのを示している、と私は考える。{[B]→(×)[C]→×[A]}(省略形、共時態モデル)のセカイとその関係の歩みが、現実の世界の秩序となっているのである。このセカイとその関係の歩みに示される秩序は、米国でも、日本でも、中国やアジアの他の諸国でも、EU諸国でも、中東でも、アフリカ諸国でも浸透、貫徹していく。問題は、それら諸国がその秩序の中で、少しでも相手国よりも優位に立てるようにと、対立と敵対そして協調を繰り返すことだ。そしてそれがエスカレートするとき、地域戦争や戦争となるのだ。システムにとっては願ったりかなったりの話となるが、システムとその関係の歩みは、それ自体が差別と排除の関係を前提としていることから、システム内における相手よりも自らを少しでも有利な優位となる地位を獲得しようとする願いとその実現を目指す動きは不可避とならざるを得ないのである。

もっとも、システムとその関係の歩みが、それら諸国にB、C、Aグループの果たすべき役割を担わせているから、何度も言うように、秩序の安定のために戦争がそして平和が必要となる。そうした中で、先のセカイとその関係の歩みを担うそれぞれのグループ間における諸国の力関係が決められていくのである。少なくとも、中国が覇権国として君臨するまでの2040、50年代までは、システムとその関係の中で、少しでもより有利な優位となる地位を占めるための最終レース(紛争・戦争)が続くことは避けられないのではあるまいか。

米国を動かす「勢力」(この勢力は米国(一国)内に限られない。あのモデルで描く関係から生み出される勢力である。その勢力は一枚岩ではないし、絶えず対立敵対してはいるが、それにもかかわらず、「金の成る木」としてのシステムとその関係の歩みを擁護し発展させるように行動している。)にとっては、ネオコンや軍産複合体の影響力の有無にかかわらず、絶えず戦争を引き起こすために、システムとその関係の歩みの指示に従いながら動いているのである。システムとその関係の歩みにおいては、たとえ戦争が何度繰り返されようが、システムの秩序が維持される限りでは、「平和」だということなのだ。「平和」を守るための「戦争」とよく言われるが、それは、取りも直さず、「戦争」してでも守らなければならない「平和」が、「秩序」があるということではないか。そう、「金の成る木」としてのシステムとその関係の歩みだ。私たちはシステム人として、その「金の成る木」に群がりそのおこぼれにすがって生きている。たとえ、その木の上の方に、ボルトンやネオコンや戦争屋の有力者達がいるのに対して、私たちは下の(下、さらにその下の)方で「平和」を愛しながら生きているから、またそのおこぼれは少ないといくら強弁したとしても、「目糞鼻糞を笑う」という事実は変わらない。

中東諸国から米国が引き上げたとしても、代わりの勢力がそこに登場するだけの話である。米国からネオコンや戦争屋がたとえいなくなったとしても、代わりの勢力がつくられていくし、システムはそれをいつも準備している。私が不思議に思うのは、米国の強硬派とかネオコンをことさら「平和」に対する脅威としてやり玉に挙げて、ネオコンと戦争屋が、あたかも湾岸戦争、アフガニスタン、イラク、そしてシリアから今日の中東の紛争の「元凶」であるかのように糾弾しながら、その一方で中国やロシアを持ち上げるような論じ方をしていることだ。

元より「程度差」と言うか、「よりましな」云々の見方はそれなりに大切だが、私たちが歴史のどの段階で生きているかを、換言すれば、システムとその関係の歩み(歴史)を確認することこそが何よりも大事だ、と私は強調しておきたい。と言うのも、それが理解できたならば、ネオコンや軍産複合体(戦争屋)を使いながら、自らに都合のいいような秩序をつくり出してきたのは、他でもない、システムとその関係の歩みだということに気が付くに違いない。

システムとその関係の歩みは、1970年代以前は、スペイン、オランダ、イギリス、アメリカを使いながら、そして70年代以降は最初は中国を使いながら、セカイとその関係の歩みを実現させてきたし、今実現させようとしているのだ。その途上で、いかに多くの人々が、その歩みの渦の中に巻き込まれて、命を落としていっただろうか。そして今も世界の至る所で繰り返されているではないか。

また以前と同じような、どうにもならないことを書いてしまったが、少し補足しておきたかったのだ。以前のブログ記事で、70年代以降のセカイとその関係の歩みとして描かれる{[B]→(×)[C]→×[A]}の「中身」が、1970年代から80年代、90年代、そして21世紀に入ってから現在までの間で、大きく変容していることに触れたが、この点を踏まえながら、次の記事をまとめてみたい。


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「システム」(論)から改めて「新自由主義(ネオコン)」の台頭を見直すとき

2019-09-18 | 社会 政治

昨日の記事に関して、少し補足してみた。

(以下は昨日の記事)

(記事投稿後に、再度、補足訂正した。最後の行から上に4段落目の「最後に一言」のすぐ上のくだり。ディープ・ステートの先と言うか背後の関係云々のくだりを追加したが、内容はまったく変わらない。)

「システム」(論)から改めて「新自由主義(ネオコン)」の台頭を見直すとき

これについても、既に拙書や拙論で論じてきたが、この記事でもう少し大胆に分かりやすく書いてみよう。その際、1972年、73年の出来事を念頭に置いておくのは大切である。少なくともニクソン・ショックとニクソン訪中、それと米国ニクソン政権下でのCIAによるチリのアジェンデ政権転覆工作事件は特に関係する出来事である。両者の出来事は相互に関連したものとして、私は理解している。

何度も述べてきたように、1970年代を分水嶺とするかのように、システムとその関係の歩みは、{[A]→(×)[B]→×[C]}(のセカイとその関係の歩み)から、{[B]→(×)[C]→×[A]}(のセカイとその関係の歩み)へと転換、変容していく。(なお。モデルは省略形、共時態モデル)

この転換、変容がなぜ1970年代初頭に引き起こされたのかと言えば、70年代までのシステムとその関係の歩みの下では、もうこれ以上お金を搾り出せなくなったということである。すなわち「金の成る木」としてのシステムがその本来の務めを担えなくなったのだ。システムとその関係の歩みは、システムを構成するA、B、Cとの間における差別と排除の関係の存在にあったが、その差別と排除の関係を導く、すなわち「金の成る木」の源である、システムとその関係における「格差バネ」が効かなくなった、首尾よく働かなくなったのだ。

そこでシステムの自己完結運動、つまりシステムとその関係の歩みは、これまでとは異なるシステムとその関係の歩みを模索する。何とかして、「金の成る木」としてのシステムとその関係の歩みを「リ・モデリング」しようと必死となる。そこでシステムは、ロスチャイルド財閥やキッシンジャーを使い、さらにはニクソンを使い、新たなるシステムとその関係の歩みをつくり出させることとなる。

ここからが一番大切な話となるのだが、「金の成る木」としてのシステムとその関係の歩みにおける構造転換とその変容を導くことに貢献したのは、世界の大富豪や世界の有力指導者達だけではなかったということである。むしろそうではなく、戦後の日本の高度経済成長の実現を担った名もなき人々や、ベトナム戦争や中国の文化大革命で辛酸をなめた人々、あるいは軍事独裁政権下で「人権」を蹂躙された人々が、お互い見ず知らずの彼らの人生を相互に織りなしながら、「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の世界的ネットワークとしてつくり上げた歴史の歩みこそが大きく与っていた、と私は見ているのだ。その彼らの歴史の歩みこそが、システムとその関係の歩みの主たる構成要素であったのだ。名もなき人々の人生こそが歴史を動かす主人公なのだ。とは言え、それは素晴らしいというよりもむしろほろ苦く残酷なことなのだ。

その意味では、名もなき人々の歴史に対する責任は、一握りの金持ちや指導者層たちよりもはるかに重いし、大きいのである。彼ら自身が自覚しない限り、どうにもならないのだ。彼ら自身が担うべき歴史に対する責任とその所在のありかを知る上でも、私は訴えたいのである。システムとその関係の歩みを是非とも学んでほしい、と。

それを少しでも学んだならば、いわゆる「陰謀論」で語られる事柄の中にも、陰謀どころか確かにそうなんだと知覚できる数々の出来事に気が付くだろうし、それ以上に、陰謀論だけではどうにもならない、それだけでは済まされない問題にも必ず気が付くに違いない。すなわち、そうした陰謀論の世界の中で、私やあなたや私たちはどのような形で歴史に関わっているのか、と言うことに気が付くだろう。そうした地点において、1%の人たちと99%を構成する人たちとそこに含まれる「私」との関係を確認できるに違いない。その時初めて、「私が」引き受けなければならない歴史に対する責任を理解できるのではあるまいか。

本当はもう少し言及したいのだが、私の体力の問題から、本題に戻るとしよう。

1970年代以降のAグループは、70年代以前の頃そうであったように、製造業を中心として、生産を重視した経済から、金融・サービスを中心とする消費重視の経済に方向転換する。

彼らAグループが占めていたところに、中国やインド、ブラジル、ロシア等のBグループが占めるように、従来の役割を変更するのだ。先進諸国は、システムとその関係の歩みにおいて、「低度化」の段階の歴史を引き受ける。その最たる役周りは、自らの生活をつつましくしていく、直截に言えば、自らを貧しくしていく歩みを引き受けるのだ。勿論、Aグループのすべての者がそうなるわけではない。Aにおいても相変わらず、{[A]→(×)[A’]→×[A”]}の関係が続く。Aは1%で、A’、A”が99%であり、さらにA、A’、A”においてそれぞれの差別と排除の関係が存在するのは言うまでもない。

ところで、そうしたAに対して、BやCは、(システムとその関係の歩みにおいて)「高度化」の歴史の段階を歩んでいく。(詳しくは拙著、拙論、または以前の記事を参照されたい。)特にBにおいては次第に中間層が形成されて、その層の厚さも分厚くなっている。ここで注意したいのは、米国の新自由主義ばかりではなく、Aグループでは新自由主義的な色合いの政治が展開していることだ。福祉国家を破壊していく政治の流れである。こうしたAグループにおける「民主主義の発展」に見る「低度化」の歩みは、B、Cグループにおける「高度化」の歩みと相互補完的な関係にあるということだ。もっともそうした歩みが顕在化するのは、2040,50年代頃である。それを踏まえるとき、Aグループのかつての先進国の人々の生活はかなり深刻な状態にあるのは必至であろう。

米国はいつもネオコンと軍産複合体の国として、またその関連からディープ・ステートと結び付けられて論じられるのだが、私が読者に伝えたいのは、このディープ・ステートをシステムとその関係の歩みに置き換えて、まずは見てほしいのである。そうした時、程度の差はあれ、Aグループでは、新自由主義的色彩の濃い政治(簡単に言えば、福祉切り捨ての政治に代表されるように、国家が国民の命と暮らしを保障する役割を放棄する政治)がここかしこで進行中であり、同時にまたそれら諸国は軍産複合体国家として描かれるのではあるまいか。日本も韓国も例外ではない。(千葉の台風(大雨)被害対策の遅れは、こうした国家の傍観者的役割を反映している。)

(付言すれば、私たちが過去の歴史から学べという際、また従軍慰安婦問題や徴用工問題、日韓基本条約問題を取り上げる際、私たちが米国や中国を頂点とする軍産複合体の世界的な、すなわちシステムとその関係の歩みにおけるネットワークの中に絡め取られながら、がんじがらめとなっていることを自覚しながら、過去の検証に向き合うべきではあるまいか。そうした態度が、雰囲気がマスメディアからみじんも感じられないことが、私には一番おかしく思われるのだ。)

(これ以上もう野暮な話はしたくないが、統計資料を持ち出して、軍産複合体の目安となる基準を各国ごとに分析した上で、それらの数値の変遷から、軍産複合体として位置付けるのはふさわしくないという見方をするとき、私はそもそも一国枠の中で、そうした複合体を捉えるのは難しいと考えているのだ。あくまでも関係として、一国を超える「複合体」として描き直すべきだと理解している。ややこしくなったが、これに関してはまた腰を据えて論じてみたい。)

と言うより、システムとその関係の歩みは、70年代以降、Aにおいては、B、Cと連動しながら、世界的な規模での軍産複合体を強化する中で「金の成る木」としてのシステムの格差バネの弾力性を強めようとしている。そうしたAの歩みは、システムとその関係の歩みにおけるBやCの(システムとその関係の歩みにおける)「高度化」の段階に向かう歩みを、相互補完的に支えている。その意味では、Aの現覇権国の米国と、Bの次期覇権国の中国とは、システムとその関係の歩みにおけるAグループとB、Cグループとの相互補完的関係の形成と発展に貢献すべく、米中覇権連合を今日に至るまで発展、強化させているのである。

システムとその関係の歩みから見るとき、チリのアジェンデ政権の誕生はどうしても許されないものであったと言えるだろう。ずっと以前に、ニクソン政権とCIAの政権転覆工作に関する文献資料を読みながら、「陰謀論」の話を頭の中で思いめぐらせたものだが、当時の私にはまだシステムとその関係の歩みを十分に描き切れていなかったために、なぜ転覆したのかに関して、陰謀論の域を出れなかったのだ。すなわち、何でもかんでもがディープ・ステートであり、ロスチャイルド財閥に代表される世界的投資銀行やその系列下に置かれた多国籍企業といった見方で事足れりとしていた感が強い。さらに、その背後にあるなにがしかの関係にまで私は30歳台においては理解できないままであったのだ。

最後に一言。GSOMIAの話で私が感じたのは、日本も韓国も(そこには勿論イギリスやフランスウを始めとするNATO加盟諸国やロシアやイスラエルの他に多数の国家が含まれると私は見ているのだが)相当に軍産複合体国家であるのに、米国のそればかりが喧伝されるのは、やはりおかしいのでは。しかもそこでの話がディープ・ステートと結び付けられただけ(まま)で、それ以上の話の展開とはならない。すなわち、システムとその関係の話と結び付けられないことから、私たちの日々の暮らしとして体現される「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為と結び付けられないことから、他人事みたいに、トランプがディープ・ステートの軍門に下ったとか、いや最初からトランプはその一味だったとか、否そうではなくて、連中が内部分裂しただとかの話で終始してしまい、私とそのように結びつくかが全く見えてこないのだ。

(もっとも、私のシステム論も読者に理解できるほど、話の道筋がわかりやすく具体的かと問われれば、うつむいてしまうのだが。それでも伝えたいのは、具体的な話は読者の誰かにゆだねたい。私は、私なりに自分のできることは少しはしてきた、と。ここまで枠組みを示したら、あとはお願いしたい。特に大事な作業は、中国と中東諸国との関係である。サウジとイラン、アラブ首長国、イエメン、そしてロシア、イスラエルと米国との関係は俎上に載せられるのだが、そこにあるはずの中国の影響力が見えてこないのだ。(記憶が定かでなくなったが、中国(軍)によるイランに対する軍事支援(戦略や戦闘を始めとした軍事教育・訓練を含む)に関する資料を読んだことがあるし、イランだけでなく、その他の中東やアフリカ諸国に対してもそうした関係を描いた資料を目にしたことがある。)何度も言うように、私は{[B]→(×)[C]→×[A]}(省略形、共時態モデル)のセカイとその関係の歩みを形成、発展させていく中で、どうしてもシステムはその「高度化」のために世界各地で地域紛争や戦争を不可避とすると考えてきた。Bグループの先頭を走る中国は、同グループ内のロシアとBグループの下位あるいはCグループの中東諸国、そしてAグループの米国との関係の中で、先のセカイとその関係の歩みに大きく与る(はずだ)と、いつもこうした観点から中東問題に接近してきた。ところが中国ファクターに関する資料が、私の見る限りはあまり見つからなかったのだ。さらに言えば、私が知りたかったのは、世界の工場となった中国の安価な誠製品がどれほど中東やアフリカ諸国に流れ込んだのか。そのことの結果として、当該諸国の経済主権、そして内政上の主権がどれほど浸食されたのか。もしこの流れを確認できたら、20-21世紀転換期から今日に至る以降の中東やアフリカ諸国の地殻変動(その変動は、当然ながらAグループ諸国とCグループ諸国の特にアフリカ諸国もB、C、Aのセカイとその関係の歩みの中で相互に関連させて捉えられるのだが)の説明として、一つの「仮説」を提供できるのではあるまいか、と考えていたのだ。言うまでもなく、私のシステム論、すなわちシステムとその関係の歩み、それに関するモデルとそこで示されているセカイとその関係の歩みも、同様に「仮説」である。そして私なりに関係資料を探ってきたが、残念ながら、読めなくなってしまったのだ。とにかく残念なのだ。 もっとも、そうは言うものの、やはり死ぬまでに、具体的な話をまとめてみたいと考えている。ただし、その前にモデルの精緻化と分かりやすさにこだわりながら、もう少し枠組みにこだわってまとめてみたい。だが、もう自分自身の体の問題から、これは相当に難しいのだが。とにかく、やれる限りはやるしかない。)

ところで、日韓米の軍事に関する相互協定は何のためかと問われれば、嘘でも私たちの命と暮らしを守るためだと答えるはずだが、その命と暮らしを守るために、世界的規模での軍産複合体を強固にしていくしかないとすれば、次から次へと(仮想)「敵(国)」を求め、つくり出していくしかないだろう。そこからさらに軍産複合体が大きくなり、(国際・国内)社会の隅々にその根を張っていくとしたら、そしてまた更なる巨大な敵の存在がつくられていくとしたら。そうしたなかで、覇権システムが強固となり、そのシステムの中で、私たちの「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為のシステムとその関係の歩みがつくられていくとしたら、システムとその関係の歩みの全体像をみないままに、またみることもしないままに、そこから勝手に自分たちに都合のいいように、資本主義がどうであるとか(たとえば、中国の、米国の、またイギリスのと言うように)民主主義がどうのと(たとえば、格差社会の侵攻の中で民主主義が危ないとか、中国は民主化できるのかと)言う上辺だけの話では到底済まないものとなるのではあるまいか。私から見れば、相当にやばい所まで私たちは来ているのだが。

今回もまったく目新しい話はなく、私の記事に目を通してくださっている読者には申し訳ない。昨年の帯状疱疹がぶり返したかのようで、何もしたくないのだ。昨日に続いて今日も盲学校を休んでしまった。救いは、昨年とは違い、痛みをそれほど感じないこと。ただし、身体が自分の体ではないかのように、動かない、何もやる気が怒らないのだ。いつお迎えが来てもおかしくないような感じ。もしこれで長生きしたら、申し訳ないが、ほんとにそうなのだ。それでも何とか記事をまとめたが、新しいものは何もない。ご容赦を。

 


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「システム」論から日本と韓国、北朝鮮の「民主化」について考えるとき

2019-09-16 | 社会 政治

「システム」論から日本と韓国、北朝鮮の「民主化」について考えるとき

前回の記事で、中国の民主化について少しだけ触れたが、日本や韓国、そして北朝鮮の民主化を論じるとき、私のモデルで描いたシステムとその関係の歩みを前提として、これらの諸国の民主化が実現した、あるいは実現する(できない)ということである。その意味では、民主化とか民主主義の実現で「めでたしめでたし」の話で終わらないし、終われないはずなのだ。というのも、1970年代以前は、{[A]→(×)[B]→×[C]}、70年代以降は、{[B]→(×)[C]→×[A]}(いずれも省略形、共時態モデル)のセカイとその関係の歩みを前提としているから、差別と排除の関係に支えられた民主化であり、民主主義の実現だから。戦前も戦中も戦後も一貫してシステムとその関係の歩みに見る差別と排除の関係は不変なのだ。

なお、モデルについては、拙著『21世紀の「日本」と「日本人」と「普遍主義」-「平和」な「民主主義」社会の実現のために「勝ち続けなきゃならない」セカイ・世界とそこでのセンソウ・戦争』晃洋書房 2014年の88-91頁の図表を参照されたい。この図表にあるモデルを理解できたならば、それこそ今後の世界の「へいわ」にすこぶる貢献するはずだ。ただし、その「平和」は今ある状態、状況よりもさらに悪くならないように、何をしてはならないかを提言・提唱できる以上のものではないが、おそらくシステムとその関係の歩みを理解できれば、それこそが何よりも私たちが心掛けなければならないことに気が付くはずだ。)

もし、システムとその関係の歩みの中で日本や韓国、北朝鮮の民主化や民主主義が実現できる(できない)ということを理解したならば、何も考えないままに、「平和」憲法を守れとか。「民主主義」が「危機」に直面しているとかの「戯言」(世迷言)を吐くことはないだろうし、もっと賢い話を楽しめるのに、残念至極だ。

もしシステムとその関係の歩みの中で民主化や民主主義がはじめて実現可能となることを理解できたならば、歴史教科書問題や徴用工問題、戦争犯罪の問題を、「システム人」の立場から冷静に考えられたはずだ。あまりにも愚かしい議論が横行しているので、私は沈黙するしかないと決めてはいたが、そういう自分の態度にも何か物足りなさを感じて情けないのも確かなのだ。

前回の記事で紹介した馬淵睦夫氏の話の中に、学者が「米ソ冷戦」とか「日米戦争」「ロシア革命」「中華人民共和国の誕生」に関する「本当の話」をしないと嘆いていたが、(そして、もし本当の話をしたら、学者としての名声を博することもないから、と付言していたが)、それは「民主化」や「民主主義」の話においても然りなのだ。

しかしながら、「本当の話をしない」と言う前に、本当の話をする、できるためには、それこそ頭がおかしくなるくらいに、次から次へと導かれる「何故そうなるのか」の問いかけに対して、何十年も自問自答し続けない限りは到底無理な話なのだ。私には残された時間はもうあまりないから、私の後をしっかりと考えてくれる研究者(後継者)に出会いたいと、焦っているのだ。(勿論、既に私の周りに何人かいるが、あまりにも少ないのだ。)何も研究者は大学とか研究機関に属する者に限られない。どこにいても、どんな立場にあっても、問題意識を持って、自問自答し続けるものは研究者なのだ。それを忘れてほしくない。

「嫌韓」「嫌中」あるいは「反日」を叫ぶ声が喧しいが、私はそれ等が「嫌システム」や「反システム」につながるのであれば大歓迎である。ところが現実にはそうならない。その前の段階で、「嫌」や「反」ではなく、「好」「親」が望ましいとして、それで幕引きなのだ。この繰り返しの中で、システムとその関係の歩みは「アンタッチャブル」となるから、どうにもならない。だが、「それにもかかわらず」なのだ。

なお、前掲拙著『21世紀のーー』の前半に紹介したシステムとその関係の歩みの中でとらえ直した「日清・日露戦争」、「韓国併合」のくだりを一読いただければ、今日の日韓関係の背後にある問題を理解できるのではと、みている。目が悪いので、もう自分の書いたものを読めないから、正確な箇所を指摘できない。ご容赦を。ただし、88-91頁は今も覚えている。

前回と言うか、昨日のブログ記事でも触れたが、馬淵睦夫氏に刺激されて今日もまた雑文を少し書いてしまった。昨日の記事で、馬淵氏には失礼な言い方をした。民主主義に関しての話が素人同然云々と。そこで思い出したのが拙著『史的システムとしての民主主義』(晃洋書房 1999年)の中で、引用参照した研究者の民主主義論についても、同じようなことを書いていた、と。今でもまだ「ノーマル(正常な)」「アブ・ノーマル(不正常な)」政治体制の話をする学者は多いが、彼らは、ノーマルな「定義」をするだけで、その定義された中身がどのようにすれば実現するのか、したかに関して、何も論じないのだから、もうどうにもならないではないか。こんな「初心者」が世界各国の「帝国大学」で学生相手に講義をしているから、香港デモや天安門事件や東欧諸国や中東・アフリカ諸国の「民主化」の話が、耳を覆いたくなるほどに単純な「黒・白」の二項対立的な陳腐な議論となるのは最初から分かっている。ああ、それにしてもだが、「普遍主義」の呪縛は怖ろしいものだ。私からすれば、これも私を窒息状態に置く「圧政」に他ならない。

念のためにもう一言。普遍主義という場合、それは独り歩きできない。普遍主義はシステムとその関係の歩みの中で創り出されてきたものであるし、これからも創られていくから。そしてシステムとその関係の歩みと言う場合、何度もモデルで描いてきたように、いちばん外側には覇権システムが存在している。覇権システムの構成要素の中には世界各国の軍産複合体が含まれている。中国と米国の軍産複合体は、両国の対立関係を超えて、覇権システムを構成している。握手している。その握手の中で、私は窒息状態に置かれているのだが、日々の暮らしの中で、その状態にあることをいつしか忘れてしまい、気が付いたらさらに自分の首を絞めるように、覇権システムの強靭さに手を貸すように生きている。日韓関係や日北朝鮮関係、日中関係の中で飛び交う「嫌」や「反」の大合唱の中で、軍産複合体はますます格好のビジネスチャンスを得て、ほくほく顔である。彼らは各国の対立・敵対関係をあおりながら、世界的規模での軍産複合体のネットワークを形成していく。それと連動して、当然ながら、世界的規模の銀行・保険の大企業間ネットワークが、またマスメディア(広告)のネットワークが形成されていく。これらは覇権システムをますます強固にする。

こうした覇権システムの外堀の中に、世界的資本主義システムと世界的民主主義システムのネットワークが構築されてきたのである。何度も述べてきたように、三つの下位システムから成る一つのシステムとその関係の歩みとなるのである。少し話が広がりすぎてしまったが、私がここで強調したかったのは、日韓問題や、米中貿易戦争問題や香港デモ問題や、さらには中東のサウジやイラン問題は、システムとその関係の歩みと切り離して語れないということなのだ。徴用工問題を語るとき、日本と韓国の日韓基本条約とだけ結び付けても何もそこからは出てこない。なぜ1965年だったのか。米国とベトナムの関係、中国の文化大革命、アセアンの成立、日本と西ドイツの高度経済成長、アジア諸国における軍事独裁体制の成立とアジア・ニーズとの関係、香港と英国の関係をこのアジア・ニーズの脈略の中でとらえ直す必要、さらにそうした軍事独裁体制と日本の戦後民主主義と欧米諸国の民主主義体制の成熟との関係、少し時間は前後するが、伊達判決を砂川判決に置き換える必要性をシステムとその関係の歩みからどうしても見る必要に関して、そして米ソ冷戦の「ウソ」(これに関しては馬淵睦夫氏の見解は傾聴に値する)等々。いずれにせよ、こうしたシステムとその関係の歩みの中でとらえ直されるべき様々な問題と、徴用工問題は、両者をここバラバラに切り離して語れない、それは許されないということなのである。今回はこの辺で。


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