日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

モデルのセカイからみる「民主主義の発展」という名の「世界の富」の絞り出しの歩み

2015-10-04 | 社会 政治
最初に投稿した後しばらくして今また、タイトルを手直しし、文章を追加しました。

オニクタラムの例の図式で描くセカイについて、またここで少し補足しておきます。
1970年代までのセカイを描いた図式{[A]→(×)[B]→×[C]}ですが、このセカイが現実に適用できたのは、1940年代から1970年代のほんの数十年でした。

同様に、1970年代以降のセカイ{[B]→(×)[C]→×[A]}が、現実の世界となるのは、2040,50年代になるとみています。しかしここでも留意される大事な点がありますが、その大まかな話を少し述べておきます。

Bの中国は、2040,50年代に民主主義の発展の高度化がようやく実現されますが、そのことから直ちに、Bグループ全体がすべて民主主義の実現に成功することを意味しません。むしろ、そうなってしまっては、システム全体としては困るのです。かつてのAグループにおいても、スペイン、ポルトガル、その次にオランダ、その次にイギリス(フランス)、そして米国が順番にその「高度化」(換言すれば、自由、民主主義、人権、平和といった「普遍主義」の高度化の実現)の役割を担うことで、覇権システムの維持と発展、そしてその安定に寄与し、そこからシステムの変容にと結びついたのです。

そうしながら、システム全体を、たとえば濡れたタオルにたとえてお話ししますと、歴代の覇権国が相互に対立、協力しながら、絞りに絞って、もうこれ以上絞り切れなくなるまで、濡れたタオルにたとえられる世界中の富を、民主主義(普遍主義)の発展(民主化)を実現するという大原則の名の下で、吸い上げ切ったのですね。(これも拙論を参照してください。)

その1サイクルが1970年代で終わったのです。それで、2サイクル目に向かうために、すなわち、新たな絞り出せる若い、荒々しい国を求めて、システムの転換、変容が求められたのです。その先陣を切った、切らされたのが中国ということになります。それゆえ、中国の次に、「世界の工場」を目指す動きが必ずやBグループの中から次に出てくると、私は見ています。

ロシアだって、その例外ではありません。世界の工場という「段階」の経済発展を担う国の政治体制は、自由民主主義ではありません。私のモデルでは、Ⅰ期の段階で描かれる、「権威主義的性格の政治」の段階にあります。ロシアの政治は当分の間、民主主義を実現できないことが予想されます。そうなっつては、このシステムの富を絞り出す力が弱まるからです。システム全体としては、困るのです。とにかく恐ろしいシステムです。これについては、また後日お話しします。

私のモデルは、たとえば、1970年代までのモデルをもとに説明しますと、Aの[経済発展→民主主義の発展]の関係が実現するためには、Bの[経済発展→(×)民主主義の発展]とCの[経済発展→×民主主義の発展]の関係が「共時的」、「相互補完的」に創り出されなければならない、ということを示すために、同時にそのような民主主義(普遍主義)の抱える問題点を読者に考えていただくために、考案したモデルです。

これまで何度も断ってきましたように、モデルを参照される際は、その点に留意してください。

それとの関連から、モデルに関連したいくつかの重要な点を、述べておきます。1970年代以降のセカイとその関係を維持しながら、発展させるためには、Bグループの政治体制には一般的に共通の傾向が見られます。

それは、Bグループは、セカイとその関係(史)として描かれる覇権システムを安定化させなければいけませんから、Bグループでは、その当初においては、非常に抑圧的、強権的な政治手法が「選択」される傾向があります。そうした政治手法を選択させるのは、それでは何かに関する問題について、私はシステム全体の関係の形成と発展とその変容から、考えてきました。そのために、いくつかの別のモデルの図式が必要だったのですが、今回はそれは省略します。(詳しいことを知りたくなりましたら、このブログで紹介してきました拙著を参照してください。)

Bグループの中国やロシアや、インドやブラジル、あるいは韓国、台湾、インドネシア、ミャンマーなどの政治体制を評価する際には、私のこのモデルのセカイと結びつけることが重要だと言いたいのですね。

ロシアの89年以降の政治体制を見るときも、私はこのモデルのセカイを前提にして考察します。いまのプ―チンが、なぜ「普遍主義」に背くのか。それは1970年代以降の、このセカイの形成と発展に貢献するためなのです。その意味では、馬渕睦夫さんがいろいろなところで語られている「グローバリズム」と「ナショナリズム」の「対立」関係として位置づける見方は、私のモデルのセカイのAとBの「相互補完的」関係として、描き直されるのです。

こうしたモデルとそれに関した話を、もっとわかりやすく詳しく肉付けしていくことが、今後の私の大切な作業となると、自覚していますが、正直なところ大変です。ただ、最近はネットに扱えきれないほどの貴重な情報が見出されますから、そこから学びながら、より納得のいく論を展開したいと、切に思っています。
















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