日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

「歴史の〈If〉を考えるー何故、ベトナム戦争と文化大革命は、1960年代の中頃から70年代の中頃に生起したのか。そこに日本の高度経済成長はどうかかわっていたのか。」

2018-04-07 | 社会 政治
「歴史の〈If〉を考えるー何故、ベトナム戦争と文化大革命は、1960年代の中頃から70年代の中頃に生起したのか。そこに(「日本」と「日本人」と)日本の高度経済成長はどうかかわっていたのか。」
(ずっと考えてきたテーマを今回から論述したいと思い、それで行論の都合上、鳥瞰的流れを確認するために、前回の記事で紹介していた拙稿「 「歴史叙述の神話」に関する一考察 」のある下りをそのままここに張り付けた。少し長いのだが、お付き合いお願いしたい。(注)の番号や小見出しの(一)、(二)、(三)、(四)、(五)はそのままにしている。)


.「システム」に「歴史」を語らせる
              (一)
以下の私の「仮説」は前掲拙著でも論じていたように、M・ヴェーバーが彼の著作(マックス・ヴェーバー著 大塚久雄訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波書店 1989年)において、プロテスタントの宗教的倫理と資本主義の勃興とその発展を結び付けながら、システムとしての資本主義の自己完結運動の歴史を描いた着想と、永井陽之助が彼の著書(永井陽之助著『平和の代償』中央公論社 1967年)で指摘した「制約」を元に、そこから「歴史的制約性」という考え方に、私はたどり着いた。私たちが創り出したシステムが、ある時期からそのシステムを構築した創始者達(私はそこに、覇権国やいわゆる「シティ」や「ウォ―ル・ストリート」の国際的な金融勢力の存在も含めている)の思いや願望をよそに、システムそれ自体の「命と暮しを守る」自己完結的な運動を始め出し、そうして私たちはそのシステムの形成と発展とその変容の歩みの「制約」の中で生き続けるしかないというシステム中心史観と呼べる見方である。(20)
こうした見方からこれまでの私たちの歴史とそれに関する歴史叙述を見直していくと、いくつかの神話が創られてきたことに気が付くのである。こうした点を念頭に置きながら、まずはシステムそれ自体に語らせてみよう。
システムが、ここでいうシステムとは、既に指摘していたように、覇権システムそれ自体を意味するものではない。「三つ」の帝国主義関係としてのシステムが総体として「一つ」のシステムを構成していると位置づけられるものである。私が何度も言及しているところのあのセカイとその関係の歩みとして位置付けられるシステムである。システムは、その誕生からその死滅に至るまで、自己完結運動を繰り返すと捉えたとき、そのことが歴史に与える意味は一体何であろうか。そこから以下のようなシナリオが考えられる。
まずこのシステムの中で生きていくのは、相当に大変であることが予想されるだろう。「勝ち続けなきゃならない」システムである。Aの[ ]→(×)Bの[ ]→×Cの[ ]の中で、先ずは、[ ]で示される共同体の、つまり主権国家、国民国家の建設に成功しなければならないことが理解される。それができないで、負け続けることはCグループに絶えず甘んじることを意味する。勿論、だからと言って、Cグループから、BそしてAグループに「上昇」することも厄介であろう。このシステム自体が差別と排除の関係から成り立っていることから、そうした差別と排除の関係を打ち破る力を持たない限り、それは実現不可能である。Aグループに属する国も最初からそこに当然のように、位置していたわけではない。この「勝ち続けなきゃならない」システムの中に放り込まれた国は、自らの力で、差別と排除の関係を打破して、Aグループを目指したのである。(もっとも、この見方は逆である。システムとその自己完結運動の歩みが、このシステムに組み込まれた共同体に、そうしろと命じるのである。)その意味では、差別と排除の関係を打ち破る力が最も大きかった国が、Aグループの先頭に位置できたといえるだろう。これが私のモデルのセカイとその関係の歩みを自己完結的に支えるプレイヤーである親分となる。この親分の下で、子分が創られていく。正確に言えば、子分を造りながら親分になる。つまり覇権国となる。(もっとも、ここでもすぐ上で指摘したように、システムが、その自己完結運動の歩みが、覇権国の登場を求める。つくり出すのである。)その覇権国となる中で、つまり「親分―子分」関係を形成する中で、覇権システムが創られていく。親分にとって、子分の存在は重要ではあるが、しかし、いつも物分かりのいいだけの子分だけであれば、このシステムは緊張感をなくし、システムそれ自体の力を弱めてしまうだろう。と同時に、極度の緊張が続くとなると、それはシステムの安定を損なうこととなる。そうした点で、このシステムは、相互に差別と排除の関係に位置する三つのグループに分かれていくことが予想される。先のモデルにあるように、Aグループ、BグループそしてCグループである。システムの存続と安定のために、適度の緊張をシステムに与えるために、用意される「嫌われ役(敵役)」は、Bグループのいずれかの国が引き受けざるを得ない。Aグループにそうした国を置いてしまうと、その緊張は逆にAグループをかく乱させ、システム全体の安定を損なう恐れが出てくるだろう。その為に嫌われ役は、Bグループか、Cグループに位置づけられるだろう。と同時に、そうした嫌われ役を牽制し、行き過ぎたストレスとならないように、同じBグループの中に、Aグループの指導、支持を受けた監視役を担う国が創り出されることも、システムはその自己完結運動のために忘れていない。(21)
同様に、システムは自己完結運動を順調に促すために、Aグループから複数の次期覇権国候補を用意するような歩みを創り出す。なぜなら、システム全体の永続的な維持安定には、一国の覇権国だけでは到底無理だということであり、そのために複数の覇権国がその役割であるシステムの維持、安定に奉仕しなければならなくだろう。そこから歴代の覇権国の興亡史の歩みが導き出される。(22)そのことは覇権国の重要な役割として必ず次期覇権国を見つけ出し、覇権のバトンの禅譲が求められるということである。それではなぜ、覇権国の興亡史がAグループだけでなく、Bグループへと継承されていくのかという問いにも答えておかなければならないだろう。
              (二)
こうした一連の考察と問いかけに対して、システムは、その自己完結運動の歩みは、私たちにどのような答えを示すのだろうか。それを論究する前に、次の私の問いかけに耳を傾けてほしい。なぜシステムは、1970年代を分水嶺として再編、変容したのか、なぜ1970年代以降の歩みが生み出されなければならなかったのか。戦後の廃墟の中から歯を食いしばって日本国民一丸となって実現した戦後の繁栄と「平和な民主主義」社会の果実を、あっという間に、しかも自ら進んで手放すかのような歩みを、(その歩みはまさに1990年代以降に顕著となるが)突き進んでいったのは一体なぜなのか、という問いである。システムとその自己完結運動からみた場合、いかなる答えが返ってくるのだろうか。
こうした問いかけに対して、私は戦後日本におけるGHQの占領政策や戦後の平和憲法や民主主義と高度経済成長に関する従来、常識的とされてきた諸議論を徹底的に、かつ根底から見直す、捉え直す必要性を感じている。システムとその自己完結運動の観点から、従来よく論じられてきた勝者とか敗者がどうのとか、押しつけられたのは当時の為政者であったとか、戦後民主主義は日米の合作であったとか、戦後民主主義の下で高度経済成長が初めて実現した云々の次元でもって論究されてきた諸見解に向き合うとき、私たちはいかなる声を聴きだせるのだろうか。結論を先取りして言えば、こうした見解に対して、私たちは、もうそろそろ「さよなら」をいうべき時が来たことを、読者に伝えたいのである。すなわち、そうした主張は、歴史の歩みを的確に描こうとする人々の目を曇らせることにもっぱら与るだけに過ぎないのだ、と。それゆえ、残念ながら、私たちは戦後70数年にわたって、「木を見て森を見ない」ままに、歴史を語ってきたのである、と。
 ところで、上記の問いかけは、次のような話と重なってくる。すなわち、システムの「命と暮らしを守る」安全保障の観点から、「民主主義の発展」の歩みを考えるとき、私のモデルで描く1970年代までの民主主義の発展の歩み、つまりⅠ期からⅡ期そしてⅢ期に至る歩みが、「一つ」のサイクルとして位置づけられる。つまり、[権威主義的性格の政治→経済発展]の段階から[分厚い中間層の形成→民主主義の発展〈高度化〉]の段階までのそれである。このように、民主主義の発展の歩みは、低度化の段階から高度化の段階に至って、「一つの波」を終える。と同時に、またそこから新たなる「第二の波」というかサイクルが生み出される、と私は理解している。ここでいう第一の波、第二の波という表現は、言うまでもないことだが、S・ハンチントンのそれとは異なるものである。(23)
 ここで考えなければならないのは、民主主義の発展の歩みは低度化から高度化の段階に達したときに、なぜそこで一応その歩みが終焉して、再度また形を変えながら、低度化から高度化へと向かうのかという問題についてである。換言すれば、それこそこの問いは、私のモデルで描くセカイが1970年代を分水嶺として{[A]→(×)→[B]→×[C]}から{[B]→(×) [C]→×[A]}へと変容するに至るのかという問題でもあるからだ。(24)
 本稿で以下に語られる大きな二つの流れ―それらは、いわば本論文において、縦軸と横軸を構成している。前者は、私がこれまで語ってきた話の一つであるシステムそれ自体の「命と暮らしを守る」次元のものであり、後者はそのシステムを構成する各々の主権国家、国民国家を前提とした「民主主義の発展」の歩みに関わるものである。以下でも詳しく語られるように、1970年代を分水嶺として、覇権システムは、個人や諸個人の集団やそうした諸集団から構成される共同体(国家)の「命と暮らしを守る」安全保障に呼応する形で、そのシステム全体の「命と暮らしを守る」ために、その意味では、システム全体が一つの共同体として位置づけられるのだが、システムの改編を図るのだが、それは主権国家、国民国家を担い手とした「民主主義の発展」の高度化の段階において、あたかも「成人病」の患者が身体のあちこちが種種の病気の合併症から見動きが取れなくなってきた、自らの身体を改造する必要に迫られていく歩みと相互に補完的な関係を取る歩みでもあった。大きく肥大化した身体をスリムにすることを余儀なくされる、そうした歩みである。私は、その病気の原因は、大きくなっていくその歩みそれ自体にあったとみている。換言すれば、覇権システムの形成と発展の歩みと、それを前提としながら、その内部で主権国家、国民国家を担い手とした(経済発展と)民主主義の発展の歩みそれ自体に内在していたと診断するのである。すなわち、上述してきたように、覇権システムをその内に含む「三つ」の次元から構成された「一つ」のシステムとその自己完結運動である。この点に関して、以下でも詳しく論及していくが、ここでそれを別の観点から述べてみよう。
            (三)
 ここでの縦軸と横軸の二つの軸からなるシステムは卑俗な言い方をすれば、システムそれ自体が、いわゆる「金の生る木」なのである。すなわち、民主主義の発展の高度化を目指す歩みは、同時に、覇権国を頂点に抱くAグループがB、Cの両グループに対して差別と排除の関係を下に、収奪して利益を獲得していく歩みと重なるのである。これに関しても、既に形を代えて拙論において開陳し続けてきたが、その中にはたとえば西川潤『飢えの構造(改訂版)』で紹介されていたフランス革命の推進者(担い手)と、当時の三角貿易とそれを介した富の流れとが結び付けられていたくだりを、私のモデルのセカイの中に、いま一度おき直して考察したことがある。(25)こうしたことを私が考えるに至ったのは、その意味では、民主主義の発展の段階が高度化することは、システムとして、また制度としての「一つのシステム」にとって、利益になるということである。それゆえ、常に高度化の実現を確保しなければ、システムは制度として、その命と暮らしを守ることができなくなる。それゆえ、そこからシステムは、覇権国の興亡史を演出する必要に迫られることとなった、と私は仮説を立てたのである。そしてスペイン、ポルトガルから始まって、アメリカに至る覇権国の興亡史の歩みが1970年代まで続いたのである。その間に、システムは、Aグループの覇権国を中心としながら、{[A]→(×)[B]→×[C]}のシステムの関係史の中で、絞れるだけ利益を収奪したのである。そしてもはやそれが難しくなるにつれて、システムは1970年代以降に、今度は新たな覇権国を見つけ出し、その覇権国の指導の下で、新たなシステムの形成と発展に乗り出すのである。それが、{[B]→(×)[C]→×[A]}のシステムの形勢となり、そのシステムの差別と排除の関係を高度化して、つまり強度化して、そこでの利益の収奪が極限に達するまで、民主主義の発展の高度化が目指されることになるのである。それゆえ、Bグループの中で、これからは覇権国の興亡史が繰り返されることとなり、その第一番目として中国が登場したと位置づけられるのではあるまいか。
これらの話を踏まえて、もう少し論を展開していこう。私の脳裏にまだ離れずに残っている記憶、それはお立ち台の上で踊り続ける一群の女性たち。まさに日本のバブルの象徴であった。お金が余りすぎてしまったのだ。いろいろな事情により、実体経済に投下されずに、行き場のないお金が、土地や株などに投資され、そこから投機ブームが起こり、バブルとなる。それをひき起した少し前の事情を考えれば、それは1985年のプラザ合意に行きつく。円高で国内製造業の勢いを削ぐ、そして輸出より、輸入を盛んとしていく流れである。そこからさらにそうした原因を探していくと、1980年のレーガン政権の登場となる。いわゆる、「小さな政府」を創り出す政権である。そこで減税と金融緩和による消費の拡大、輸入体質が強化されることとなる。つまり、従来の製造業の振興ではなく、金融・サービスを振興させる流れが出来上がる。なぜそうした流れが- - -と考えていくと、1978、79年の中国の改革開放政策との関連性が、そして1979年の米・中国交正常化と結び付いていく。そこからさらに遡ると、1971年の「ニクソン・ショック」と中国の国連加盟とニクソン訪中に辿りつく。そこからさらに、欧米先進諸国のいわゆる「先進国病」と先進諸国の経済停滞、低迷の長期化となる。
さらに、こうした原因を遡るとき、私がこれまで繰り返し論述してきた覇権システムとその秩序をもとに織り成されてきた経済発展と民主主義の発展の関係史で描かれるセカイに、すなわちシステムとその自己完結運動として描かれる{[A]→(×)[B]→×[C]}から{[B]→(×)[C]→[A]}(省略形、共時態モデル)へのシステムの再編、変容に、行きつくのである。それゆえ、こうしたシステムとその自己完結運動に、これまで私たちが教えられ、受容してきた歴史の再検討、再検証をさせるならば、従来とは全く異なる歴史叙述となるのは必至である。Aグループの日本の「踊り場の女の子」を生み出したのは、そしてその後の格差社会の中で呻吟し続ける多くの生活困窮者を生み出したのは、私たちがこれまで創り出してきた(経済発展と)「民主主義の発展」の歩み、それ自体であるということなのである。
 こうした私の「仮説」と、S・ハンチントンが彼の著作(S・P・ハンチントン著 坪郷實 中道寿一 薮野祐三訳『第三の波-20世紀後半の民主化』三嶺書房 1995年)で論究した民主化の「第1の波」とその反動の波(第1の逆行の波)」と第2、第3のそれぞれの波を結びつけて論じるならば、第1の波は、パクス・ブリタニカの盛衰の歩みに、第2の波は、パクス・アメリカーナの盛衰期に、そして第3の波はパクス・チャイナの盛衰期に(もちろん、中国はまだ覇権国の地位についていない、その途上にあるのだが)、それぞれ呼応している、とみている。また、第1の反動の波は、英米覇権連合の形成と発展の時期に、第2の反動の波は、米中覇権連合の形成と発展の時期に呼応している。この覇権連衡の形成と発展の時期は、現覇権国がその力を喪失していく中で、次期覇権国もまだその力を十分に備えていない時期であり(それゆえ多くの論者はこうした歩みを的確に理解出来ないことから、私がここで言う覇権連合の形成期を「多極化」とか「無極化」と呼ぶのであろうが、歴史の歩みを学んでいないと言わざるをえないのだが)、国際政治の不安定期であることから、そうした民主化の反動の波が導かれると、私は理解している。ハンチントンのいう民主化の第3の波は、まさにパクス・チャイナの盛衰期と重なることを銘記しておく必要があるだろうし、こうした歴代の覇権国の盛衰(興亡)史と、私のモデルのセカイの変容、転換とは密接に関連していることを、ここでも留意しておきたい。(なお。これについては、前掲拙著『21世紀の日本と日本人と普遍主義』の88-91頁、とくに91頁のモデルを参照されたい。)
              (四) 
さて、ここで上述した「金の成る木」の話を、システムとその自己完結運動の再編、変容({[A]→(×)[B]→×[C]}から{[B]→(×)[C]→×[A](省略形、共時態モデル)と結びつけて論じておきたい。先述したように、私の仮説は、このモデルのセカイとその関係の歩みは、すなわちシステムとその自己完結運動は、まさに「金の成る木」であり、そのために1970年代までのシステムとその自己完結運動が貢献したのだが、1970年代を境にして、その金の成る木の役割、すなわち、AグループのBやCグループに対しての「富の吸い上げポンプ」(26)としての役割をもうこれ以上、担えなくなったことである。{[A]の民→(×)[B]の民→[C]の民}の関係が力を失い、富を吸い出すことができなくなったということである。換言すれば、市民的権利の関係がシステムの想定するようには、その機能を果たせなくなったということである。以下に詳しく論及するように、ここにAからBグループへの覇権のバトンの禅譲が行われる必要が生じることになる。
当然ながら、システムはその自己完結運動を円滑に導くために、覇権国の米国にこれまでのような金の成る木を、Bグループの次期覇権国を中心とした勢力に、担わせるように迫るのである。こうしたシステムの自己完結運動が、以下のくだりで私が描いた歴史を創作、演出させるのである。
ベトナム戦争がなぜ1965年から75年まで米国主導で行われたのか。私のモデルのセカイの{[A]の経→(×)[B]の経→×[C]の経}と{[A]の民→(×)[B]の民→×[C]の民}の関係における力の優劣関係を、つまりは格差を最大にすることであった。その結果として、約10年以上続く戦争を必要としたのである。逆に言えば、もしシステムとその自己完結運動が格差を最大限にできる期間が5年で済むのなら、そうなったということである。軍産複合体が、軍需産業が戦争は金儲けとなるから、「長期化」させたわけではないことに、注意すべきだと、システムとその自己完結運動は、私たちに語るのである。システムとその自己完結運動は、先に紹介した経済発展の関係を最大限にするために、米国を戦争体制(軍産複合体国家)へと導いた。またこうしたセカイとその関係の歩みは、すなわちシステムとその自己完結運動は、西側先進国に福祉国家を創り出した。福祉国家は、北の先進国と南の途上国との格差が最も拡大する関係の中で導き出された、北の先進国のAグループの民主主義の発展段階として位置付けられるのである。
そうした仕組みを完成するために、アジアでは開発独裁体制の下での経済発展が準備された。Bの経済発展の「段階」として理解される。日本の高度経済成長は、このBグループの経済発展と結び付けられる形で、Bの先頭に立ちながら、同グループ内のソ連を牽制し、「封じ込め」る形で、システムの安定的な発展を支えるのである。このBグループの経済発展は、中国の文化大革命と連動する形となるように、システムによって導かれたのである。こうしてAグループの主導するシステムが富を最大限に搾り取り出す、システムとしての機能がその役割を終えることとなる。
そしてそのことは、覇権国の交代を意味していたが、もはやAグループの中には次期覇権国の資格を備えた国を見つけられなかった。Aグループの覇権国米国の重要な役割は、次期覇権国を見つけ出し、その国に覇権のバトンを禅譲することであった。その期待に応えるために米国が探し出したのが中国である。(もっとも、ここでも正確に言えば、システムが米国にそうするよう迫ったのである。)そのために中国では、ちょうどベトナム戦争と連動する形で、文化大革命が準備されたのである。文革により、中国は、主権国家、国民国家としての基盤を強化すると同時に、やがて改革・開放の波に乗って、米国を中心とした西側先進国からの巨大資本の流入とそれがもたらす中国国内に与える衝撃とそれにともなう社会の混乱と不安定化に持ち堪えるだけの力を備えた国家を、システムとその自己完結運動は必要としたのである。その為に、中国は文革という名の[権威主義的性格の政治→経済発展]の「段階」の政治を引き受けさせられたのである。付言すれば、こうした中国の[権威主義的性格の政治→経済発展]のⅠ期の「民主主義の発展」段階を、日本はちょうど高度経済成長を実現する形で相互に支え合う関係を創り出しながら、システムとその自己完結運動の「順調」な歩みを導くことに寄与した。日本はこの時期、[経済発展→分厚い中間層の形成]として描かれる「民主主義の発展」のⅡ期の段階にあり、米国はⅢ期の[分厚い中間層の形成→民主主義の発展(高度化)]で示される「民主主義の発展」の段階をたどっていた。システムとその自己完結運動は、このような形で中国と日本と米国の民主主義の発展における関係史をつくり出したのである。
この間、米ソ冷戦とソ連の米国と拮抗するイメージを醸成した超大国との位置づけ方(27)は、米ソの対立と敵対の関係をいたずらに煽り立てることに、西側陣営の軍事産業の振興を助けることで、米国同様の軍産複合体の形成を西側陣営にも作らせることにより、システムとその自己完結運動は、すなわち、モデルで描くセカイとその関係の歩みは、A、B、Cの各グループにおける経済発展と民主主義の発展にみられる差別と排除の関係を、さらに拡大、強固にすることで、1970年代以降のシステム内における再編、変容を促すことに寄与したと考えられる。

              (五)
 さて、ここでこれまでの議論を踏まえながら、もう少しだけ論の補足をしておきたい。私のモデルで描くセカイとその関係の歩みが「一つ」の「システム」として、その形成と発展に向けた歩みが実現するためには、まず何よりも、モデルの一番外側の記号({ })で示される覇権システムの構築が重要となる。その覇権システムの中心的指導国は、覇権国である。この覇権国はAグループから登場するのであるが、その意味では、Aグループ内における力の優劣関係が覇権国を創り出す大きな要因を構成している。と同時にAグループ内で覇権国とその他の中心国として力の優劣関係が生み出されるに際して大きな影響を与えるのは、Cグループとの関係構築が大切なことが予想されるだろう。
簡単に言えば、Cグループ内の政治共同体との関係から一番搾取できた国がAグループでの覇権国となる公算が高くなる。たとえば、イギリスは当時の世界で豊かであったインドや中国との力の優劣関係を構築する中で、両国(地域)をCグループに組み込むことに成功した結果、このシステムを強固にすると同時に、Aグループにおける覇権国としての力を獲得できた。もっともここには、オランダとの覇権のバトンの継承に見るもう一つの重要な覇権国の興亡史における力の優劣関係の構築がともなう。
ここで簡単にシステムとその自己完結運動という観点から、歴史を振り返ってみよう。Aグループのイギリスはイギリスよりも先に覇権国として君臨していたオランダとの覇権国の興亡史における「三位一体的」相互補完的関係の中で力をつけていく(28)のと関連して、先に見たインドと中国に対する東インド会社を中心とする東洋貿易で、力の優劣関係の構築に成功していった。こうした関係構築の過程で、イギリスはやがて「パクス・ブリタニカ」として語られてきた「覇権国イギリスの秩序の下での平和」を構築したわけであるが、そのパクス=平和とは先のモデルのセカイとその関係の歩みが順調に発展していくことを意味していた。その意味において、この平和の構築には常に戦争が必要とされた。戦争により多くの共同体が植民地、従属地として、Cグループに組み込まれていきながら、覇権国とその他のAグループの力を高め、そのことがBグループに対する力の優劣関係を維持、継続させながら、全体として見た場合に、「一つのシステム」のセカイとその関係の順調な歩みを導き出したのである。
こうしたセカイとその関係の歩みの中に、オスマントルコ帝国の支配下にあったエジプトも、開国以降の日本も力の優劣関係の中で、結局のところ組み込まれていくのだが、両者がその後たどった道は大きく異なるのである。エジプトはイギリスとの力の優劣関係を介して、Cグループに組み込まれていく(29)のに対して、日本は日清戦争、日露戦争の勝利や日英同盟の締結を介して、何とかBグループに組み込まれたのである。Aグループの覇権国であるイギリスがCグループのインドや中国との間に構築した力の優劣関係は、「1 はじめに」でも述べるように、「三つ」の次元から構成、構築されていたが、同じくBグループの日本がAグループのイギリス、アメリカの協力や後押しを介して、Cグループの韓国(朝鮮半島)、中国東北地方との間に形成発展させた力の優劣関係と同じ関係であった。こうして、イギリスとインド、中国との関係に代表されたAグループとCグループとの関係は、日本と韓国、中国東北地方との関係に代表されるBグループとCグループとの力の優劣関係と関連、関係づけられながら、先に示した一つのシステムの構成、構築する関係として位置付けられるのである。
このシステムの「平和」的安定的発展(いわゆる「ヨーロッパにおける長い平和」)が19世紀末から20世紀初頭の世紀転換期において、Bグループに組み込まれていたドイツ帝国に主導される三国同盟陣営により、挑戦を受ける。第一次世界大戦である。(もちろん、システムとその自己完結運動の歩みが第一次世界大戦を引き起こした、要請したのである。システムとその自己完結運動の原動力としての差別と排除の関係を、戦争によってさらに強化させることで、システムとしての金の成る木としての機能を高めるように、導いたのである。)自己完結運動のである。結論を先取りして述べると、「総力戦」の様相を呈した第一次世界大戦により、ヨーロッパ諸国の戦争被害は甚大であったものの、このモデルで描くセカイとその関係の歩みそれ自体に、大きな打撃とはならなかった。確かに一時的には、このセカイとその関係の歩みは一時的には中断を余儀なくされたが、なお、このシステムは、そのシステムとしての機能のレベルの面では、十分に作動していた。その象徴が戦後のヴェルサイユ講和条約の締結とヴェルサイユ体制の発足、さらにはワシントン体制の成立を見たのである。
と同時に、そうはいっても、Aグループの覇権国イギリスのシステム構築と安定化に向けての力の衰えは隠せなかった。Aグループ内における覇権国の興亡史がなお見えないままで、そのセカイとその関係の歩みは続けられたことから、一つのシステムとしての力の優劣関係にも従前のような安定性が見られなくなかったのである。その「しわ寄せ」は、Bグループで顕在化した。それは一つにはこのシステム内で、Bグループが受ける構造的圧力が一番大きいことが考えられるだろう。Bグループを構成する諸国は、隙あらばなんとかAグループへと上昇して、Aグループへの仲間入りを考えるだろう。そのためには、どうしてもAグループとCグループとの間に構築されてきた力の優劣関係にくさびを打たなければならない。そのことは、BグループのCグループに対する力の優劣関係をこれまで以上に拡大することを意味した。当然ながら、それはAグループとBグループとの対立、衝突を意味したであろう。
Aグループ内にもいつも小さな対立、衝突はあるものの、BグループによるAグループがこれまで支配してきたCグループを横取り、分捕ろうとする動きに対しては、一致団結しながら、彼らAグループの既得権益を擁護しようとする。システム自体が金の成る木であるから、覇権国とAグループは簡単には彼らの地位を譲り渡さない。これを死守するために、AグループはCグループとの連携を強化しながら、Bグループにぶつかろうとするから(システムとその自己完結運動におけるこうしたぶつかり合いを私たちの歴史では第一次世界大戦、第二次世界大戦と呼んできたのだが)、そのぶつかり合いにおける圧力は、すなわち{[A]→×[C]}の{[B]→[C]}に対する構造的圧力は相当に強力なものとなるだろう。Aグループが支配、保持しているCグループの範囲は、Bグループのそれよりも力の優劣関係において勝っている。そうした構造的圧力に対抗するために、Bグループの政治支配の様式は、国民の挙国一致体制をつくり出すために、どうしても抑圧的体制にならざるを得ない。Cグループの政治支配の様式も、抑圧体制であるが、Bグループの抑圧体制はそれ以上に破壊的、強力とならざるを得ない。Cグループの抑圧は{[A]→×[C]}の民主主義の発展の関係からつくり出されるのに対して、Bグループの抑圧は、{[A]→×[C]→(×)[B]}の関係として描かれる民主主義の発展の段階と関係してくるのである。戦前の枢軸陣営と呼ばれたドイツ、イタリア、日本もファシズム陣営として、またソ連も全体主義体制として、このBグループに位置していたが、そうした諸国が強力な抑圧体制をとったのは、決して偶然のなせる業ではなかったのである。こうした一つのシステムを構成したセカイとその関係の歩みの中で繰り広げられる「三つの」力の優劣関係としての「帝国主義」関係がそうした政治体制を選択させてきたのである。(30)
 何度も言うのだが、その普遍主義がどのような生活空間の中で実現してきたのかの確認が大事だと私は考えている。逆に見れば、いかなる仕組み(構造)の中から、これまで私たちが大切だと教えられ、受容してきた普遍主義がうみ出されてきたか、創作されてきたのかに関する「気づき」が大切ではあるまいか。(8)と私のこれまでの研究は語ってきた。(私が主張してきたのは、普遍主義を創り出し、支えてきたのはまさに{[A]→(×)[B]→×[C]}、{[B]→(×)[C]→×[A]}のモデルで描かれるセカイとその関係(史)モデルにすべて描かれている。私が論究してきたことは、そうした気づきを容易に許さないセカイがあり、その世界の中でこれまでずっとおこなわれてきたのが、まさに普遍主義という歴史認識や見方に関する叙述とその神話の創作であったということである。

ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。次回の記事はおそらく遅れると思いますが、しばらくお待ちください。



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「システム」の歩みから今日の東アジア情勢を読むとき

2018-04-03 | 社会 政治


「システム」の歩みから今日の東アジア情勢を読むとき
 何やら最近の朝鮮半島情勢はめまぐるしく動いているように見える。そうした中で、天木直人氏の以下の記事が目についたので、全文引用しておきたい。
★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK242 > 397.html <共同が大スクープを配信した!>「米中南北による平和協定」という習近平構想の衝撃  天木直人 
http://www.asyura2.com/18/senkyo242/msg/397.html
投稿者 赤かぶ 日時 2018 年 4 月 01 日 13:05:05: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU
「米中南北による平和協定」という習近平構想の衝撃
http://kenpo9.com/archives/3503
2018-04-01 天木直人のブログ
 ワシントン発共同が大スクープを配信した。すなわち、3月9日に習近平主席がトランプ大統領と電話会談をして、朝鮮戦争の当事国である米中と韓国、北朝鮮の4カ国による平和協定の締結を含む、「新たな安全保障の枠組み」の構築を提案していたことが、きのう3月31日にわかったというのだ。複数の米中外交筋が明らかにしたという。これは衝撃的なニュースだ。私は3月29日のメルマガ第240号で大胆な予測をした。非核化合意の内容こそ最大の問題だと。そして究極の非核化は朝鮮戦争の終結宣言だと。この習近平提案はまさしく朝鮮戦争の休戦協定を平和協定に移行する事を念頭に置いているものだ。しかし、それだけではない。単なる朝鮮戦争の終結にとどまらず、朝鮮半島のあらたな安全保障の枠組みづくりを米国と中国で作ろうと呼び掛けたものに違いない。そして、習近平は、朝鮮半島にとどまらず、東アジアのあらたな安全保障政策の枠組みをも念頭に置いているに違いない。もし、このような提案にトランプ大統領が応じるなら、中国、日本と韓国、北朝鮮の4カ国による、いわゆる東アジア集団安全保障体制の構築構想は吹っ飛んでしまう。憲法9条持つ日本の出番はなくなる。まさしく軍事覇権国の米国と中国による世界の二分割統治につながりかねない構想だ。この提案に対してトランプ大統領は明確な賛否を示さなかったらしいが、今後の進展次第ではトランプ大統領が習近平主席と取引することは大いにあり得る。トランプ大統領が最優先する自国経済・雇用ファーストに習近平が協力し、貿易規制問題で譲歩すれば、アジアの平和は中国に任せるとトランプ大統領が言い出しても私は驚かない。いま我々が目にしているのは、誰も予測できないほどの戦後の国際政治のダイナミックなパラダイムシフトだ。しかもトップがみずから直接にそれを作ろうとしている。文字通り首脳同士で駆け引きしている。安倍首相の日本が取り残されるのは当然だ。いま日本外交は戦後最大の危機にある。いや、本来は日本にとって対米従属から自立できる戦後はじめてのチャンスであるというのに、それを活かせない愚を犯している。その戦犯はもちろん安倍首相であるが、野党もメディアも有識者も、みな共犯だ。誰一人、日本の取るべき正しい外交・安保政策を提言する者はいない。これこそが日本の本当の危機である。いまほど新党憲法9条外交が求められる時はない。待ったなしにその時が来ている。私一人が言うだけではなく、影響力のある誰か一人でも、それを言い出す者が出て来なくてはいけないのである(了
(習氏、トランプ氏に新安保を提唱 米中南北の平和協定も
https://this.kiji.is/352860349210477665
2018/4/1 02:01 共同通信
中国の習近平国家主席、トランプ米大統領(AP=共同)
【ワシントン共同】中国の習近平国家主席が3月9日にトランプ米大統領と電話で北朝鮮情勢を協議した際、朝鮮戦争の主要当事国である米中と韓国、北朝鮮の4カ国による平和協定の締結を含む「新たな安全保障の枠組み」の構築を提唱していたことが31日、分かった。複数の米中外交筋が明らかにした。国連軍と北朝鮮、中国が1953年に締結した朝鮮戦争休戦協定の平和協定への移行を念頭に置いているとみられる。習氏は日本に言及しておらず、南北、米朝の首脳会談後の交渉を、4カ国を中心に進める考えを示唆した可能性がある。トランプ氏は明確な賛否を示さず、圧力維持を習氏に求めたもようだ。)

 上で紹介した天木氏のブログ記事を、私のモデルを使って論評してみたい。まず最初に、ごく簡単なモデルをここに示しておく。以前のブログ記事において、何回か紹介しているので、それも参照されたい。
 私は二つの図式で、大航海時代から今日に至る近代化の流れ(それは、ヘーゲルの言う「世界史」に該当する)を、「覇権システム」と「経済発展」と「民主主義の発展」の関係の歩み(関係史)という観点から描いた。その際、私は1970年代が、それ以前と以後を画する「分水嶺」だった、と述べた。つまり、それ以前までのシステムの構造、すなわち{[Aの経済発展→Aの民主主義の発展]→[Bの経済発展→(×)Bの民主主義の発展]→[Cの経済発展→×Cの民主主義の発展]}の関係から、70年代以降から今日に続くシステムの構造、すなわち{[Bの経済発展→Bの民主主義の発展]→[Cの経済発展→(×)Cの民主主義の発展]→[Aの経済発展→×Aの民主主義の発展]}の関係へと変容・転換していくのである、と。(なお、モデルは共時態の関係モデルである。私は、「経済発展」を、「衣食足りて(足りず)」の営為に、「民主主義の発展」を「礼節を知る(知らず)」の営為に置き換えて論じることもある。省略形として{[A]→(×)[B]→×[C]}、{[B]→(×)[C]→×[A]}としている。なお、さらに詳しいことは私のブログ記事で紹介してきた拙著や拙論を参照されたい。特に、拙論〈「「歴史叙述の神話」に関する一考察 」〉『外大論叢』を参照してほしい。)
 70年代以降のモデルで描くBの先頭に中国を、Bの下位グループに韓国を、Cグループの中間付近にに北朝鮮を、Aグループの先頭に米国を、Aグループの中位以下に日本をそれぞれ当てはめて、改めてモデルの図式を見てもらいたい。

 「民主主義の発展」という観点から見るとき、B、Cグループは今後その「高度化」が、Aグループはその「低度化」がますます顕在化するだろう。高度化の特徴は分厚い中間層の形成であり、低度化のそれは分厚い中間層の解体である。中国や北朝鮮にモデルが該当するのはなお先だが、それでも2040,50年代には高度化が実現されているのではあるまいか。もっとも、その時期までには、北朝鮮も韓国も統一されているだろう。いましばらくは、一国二制度的なやり方で、やがて統一される朝鮮国(一国)を見据えながら、北と南が二制度的な国家として共存できる統一に至る妥協点が模索されるのではあるまいか。
 私がこのモデルで強調したいのは、まずは「森」がどのように描けるかを構想するのが大切だということである。その際、資本主義と民主主義の関係がどのようになるのかを抑えておくのが大事だということである。私の見る限りほとんどの社会科学の研究者はそれができないとみている。「民主主義で資本主義の暴走を制御すべきだ」とか、「分厚い中間層を取り戻せ」とか、この種の主張は、あたかもそれが可能かのように考えているが、それは彼らが私たちがシステムの歩み(歴史)の中のどの地点(段階)に位置しているかを確認できない、換言すれば、確認できる座標軸を持っていないからということではあるまいか。
 次に、以下に述べる点が、おそらく一番大事だと私は思うのだが、日本人の護憲論者、特に第9条論者が見落としているのは、私たちが覇権システムの中で生きているという当たり前の「現実」である。どの時代にもその時代を指導監督する「親分」がいる、あるいはそうした親分を求め続けているということだ。当然ながら、親分は子分を作る。親分ー子分の関係を基本とした世界を創造していく。そして今や米ー中覇権連合を形成発展させながら、中国と米国は、両国が主導する21世紀の国際「秩序」と「平和」を構築している。すなわち、それは{[B]→(×)[C]→×[A]}で描かれるシステムである。この関係が秩序であり、その秩序の維持・安定と発展が平和である。この平和を守ることがシステムの歩みにとって、何よりも大事なことととなる。
 付言すれば、現下の朝鮮半島の出来事は、このシステムの中で位置づけ、理解されない限り、何も語ったことにはならないのだが、残念ながら、ほとんどの議論はシステムの歩みと切り離されたままである。それゆえ、私の安全保障の問題に結びつかないものとならざるを得ない。その際、決まって、「日本」は「日本人」はどうなるとか、どうすべきかが論じられるのだが、肝心かなめの日本と日本人は、70年代以前のそれと全く同じ状態であるかのように、語られているのだ。日本と日本人が歩んでいる歴史の段階(位置)は、当然ながら異なっているだろうし、それは韓国や北朝鮮、米国も中国もそうであろう。
 ところで、戦前の日本もそうであったように、戦後の日本は覇権国の米国に追随しながら自らの生存と安全保障を実現してきたのではあるまいか。沖縄をはじめ日本の各地に米軍が駐留していた。第9条にある「戦力」を日本は戦後ずっと排除できないままにあったのではあるまいか。排除する(戦力の不保持を実現する)ためには、米国と戦う気概を持つことが最低限必要だが、気概だけではどうにもならない。
 覇権システムの中で生きることを余儀なくされている日本と日本人が第9条を実現するのはほとんど不可能だろうし、今まさに米ー中覇権連合の下で中国が次期覇権国として台頭する中で、第9条を声高に叫んだとしても、だれも聞いてくれないし、だれからも相手にされないだろう。覇権システムの中で、日本がどの位置にあるのかを確認することは大事だろう。日本はずっと米国の「属国」であったし、「51番目の州」に甘んじてきたのではなかったか。東アジアにおいて、中国の力はもう日本が単独で何かできるというレベルではない。それでは日本にどのくらいの「友人」がいるのだろうか。中国の声を無視してまでも日本を支持する国はどの程度いるのだろうか。その前に、日本の大企業や多国籍企業の中で、また日本(人)の株主の中で、日本を中国よりも最優先するそんな決意と覚悟を示す者が一体どの程度いるのだろうか。
 こうした点を踏まえた上で、先の天木氏の見解を読み返すとき、私は以下の点を強調しておきたい。天木氏は今が大きなパラダイムの転換時とみているが、私はそれは70年代の「ニクソン訪中」にみている。その意味では、転換点どころか、中間点に差し掛かったところではあるまいか。また、覇権システムの中にいることは、親分の意向を無視できないことを意味している。日本が単独で、あるいは出しゃばって、世界に向かって物申すことは覇権国である親分の逆鱗に触れることとなる。それは避けなければならない。そして親分の米国は70年代の初頭から、次期覇権国を中国とするために、米ー中覇権連合の形成と発展に努めてきたのである。その意味では、覇権システムの歩みに断絶はない。天木氏は中国の習近平氏のトランプ米大統領の呼びかけが実現すれば、日本が第9条を掲げて日本外交の新機軸を東アジアで展開する余地がなくなると述べているが、システムの歩みの観点からするとき、そんな時点は最初からなかったと、私は見ている。
 覇権システムの中で私が生き残るためには、「日本」と「日本人」がどうすべきか、どのようにあってほしいのかを考えている。ここで注意してほしいのは「日本」とか「日本人」が生き残ることを「主題」として、私は述べてはいない。最初からそれは無理なのだ。日本も日本人も独力でつくられたものではない。システムが、その関係の歩みがつくり出したものである。その意味で、私の安全保障を語るしかないのだが、覇権システムの中で、特に今の米ー中覇権連合の下での東アジアの新たな関係構築がなされているときに、私は日本がしゃしゃり出ないことを望むのだ。それゆえ、安倍外交にもいつもひやひやしている。勘違いがはなはだしい。目立たないように、おとなしくをモットーとした日本外交が望まれるのだ。慰安婦問題も、竹島問題も、教科書問題も、相手側に言質を取られないように、必要以上に余計なことは言わない、だんまりが基本である。もしこのまま朝鮮半島が統一されて、そこに中国が加われば、日本は何を言われるか、たまったものではない。言われるだけならばまだしも、おそらくそれ以上のことが今から予想されて仕方がない。
 同じことは、天木氏にも該当する。第9条が東アジアの平和構築云々などと声高に叫んだ瞬間、日本と日本人が必要以上に憎まれてしまう。平和の構築云々と、覇権システムの中の劣位に位置している国が偉そうに口を出すことは、私の安全保障を脅かしてしまうのだ。(もっとも、こちらから進んで、集団的自衛権の行使容認のために、第9条改正を声高に叫ぶ必要もなかったし、する必要もない。おとなしく目立たないようにふるまうことが何よりも懸命なのだが、それができないのも致し方がないとしても、こちらから喜び勇んで出しゃばってなすことではなかっただろう。)その前に、中国や韓国そして北朝鮮、さらにはアジアの他の諸国も言うだろう。「日本に平和云々を語る資格はない。、まだあの戦争の後片付けもできていないし、謝罪もないではないか。」米国がやがて日本から手を引いた瞬間を、今から考えておかなければならないだろう。それと、第9条はそれほど素晴らしいものかを再考すべきだろう。戦後の日本の復興と高度経済成長は中東の石油や世界各地の天然資源を必要としたが、そうした地域や諸国の紛争や戦争に間接、直接かかわりながら、「私たちは第9条があります」ので、では通用しないだろうし、声高に叫ぶ恥ずかしさを感じなければならないのではあるまいか。
 さらに、米ー中覇権連合が主導する非核化や東アジアの平和構想がどれほど矛盾に満ちたものであれ、それに対抗するのは相当に難しい。と言うのも、私たちの今後の世界は、{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係の中で生きていくことを余儀なくされているからである。米国も中国も、また先進国も、大企業も多国籍企業もこの関係をより安定した確固としたものに導くように、相互に支えあっている。もし、天木氏が説く第9条を手にした日本外交の在り方を考えるとしたならば、まずは私のモデルで描く世界、すなわちシステムの歩みを的確に掴み取る必要があるだろう。その上で、先の関係史に替わる経済発展と民主主義の発展の関係の在り方を提示する必要があるだろう。これは大変に厄介なことだ。なぜなら私たちは今、米ー中覇権連合が積極的に推進する{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係の中で生きていることから、米・中の敵意や反感を受けざるを得ないし、相当に危うい状況に直面する恐れがある。また、日本人の多くは、そのシステムの中で、なんとかして生活の安定を図りつつ、さらに一獲千金を夢見て、株や不動産に投資して、金融・サーヴィス化の経済を(そしてそれはまた{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係を)支える担い手となっている。格差社会が進行して更なる生活不安が増す中で、自分だけは何とかして「蜘蛛の糸」に縋り付こうとするのである。そんな中で、天木氏や枝野氏などは護憲や第9条を説くのだが、(ご両人には誠に申し訳ない話なのだが、)正直なところ、この人たちの老後は守られているから、先のモデルの関係を心底真剣に、替えようとはしないのである。(勿論、替えられはしないのだが、それはそうだとしても、何ができるかはやはり考えておく必要はあるだろう。私の安全保障の実現のためには、先のモデルの関係史の中で、どのようにすれば「衣食足りて」の営為の実現に近づけられるか、その可能性を熟考すべきではなかろうか。前回の私のブログ記事はこうした文脈の中で考えてきたことを述べたものである。
 第9条や護憲の主張が、先の{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係を問いただすことにつながる、従来の経済発展と民主主義の発展の関係史が抱える問題点をあぶり出すのならば、もっと多くの有権者の支持を得たかもしれないだろうが、ただ第9条を守れや憲法を守れと繰り返すだけでは、今日1日のパンに事欠く者の心には響かないのも当然だろう。天木氏が日本の外交・安全保障についての提言を云々と説いているが、私にとって、それは何よりも先進諸国における解体されていく中間層の生活破壊を食い止めるための社会福祉政策の提言である。これ以上の生活不安に落ち込まないために、どのような手立てが今後講じられるのかを検討することが大事だろう。それがこれまで先進諸国で有効に対処できないからこそ、難民問題やテロ問題となって、当該国の外交・安全保障の問題として置き換えられるのではあるまいか。勿論、その際、私たちがシステムの歩みの中で、どの段階に位置しているかを再確認しながらである。すなわち、何度も言うのだが、{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係を理解した上でのことである。それを踏まえるならば、相当に難しいことなのだ。安易な所得再配分論や、ベイシック・インカム論を説くばかりではどうにもならない、と私は考えるのだ。
 それにしても不思議なのは、天木氏が第9条を東アジアの平和構想に云々と主張するとき、天木氏の後ろに何故かある種のナショナリストの顔を見てしまうのだ。おそらくそれは、「世界」の第9条ではなく、「日本」の第9条をと叫ぶからであろう。それも軍事大国の中国に「対抗」「対決」するために、である。そもそも第9条の射程は世界であるはずなのに、なぜか日本の、日本固有の、といった具合に変にナショナリスティックな臭いが醸し出されてくるのだが、これこそ乗り越えるべき課題ではないのか、と私は思うのだ。
 その意味では、「不思議な」ことではない。元々、第9条は、戦後の覇権国となった米国が当時の覇権システムを維持安定させるために、日本に押し付けたものだったからである。覇権システムと何ら矛盾するものではなかったのだ。非核化や核なき世界が実現されたとしても、それで覇権システムが解体・崩壊することには至らない。つまり、両者の間には矛盾した関係は存在しない。同様に、ナショナリズムは、またそれが実現された主権国家、国民国家も覇権システムを構成する単位である。こうしたことからも、日本が提唱する第9条云々と言った瞬間、覇権システムは第9条を大歓迎するだろうし、同時に、第9条は覇権システムを支える、というより、無害無益な関係を構成するだろうが。既に私は、覇権システムの中で生きるしかないから、これ以上もう余計な重荷を背負いたくはないのだ。
 

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「公」的空間とは何か。「公」と「私」の関係を考える(3)

2018-04-01 | 社会 政治

「公」的空間とは何か。「公」と「私」の関係を考える(3)
 前回の記事の続きをと思い、あれこれ考えていたとき、以下のネットの記事を教えてもらった。記事の見出しは、〈「命を犠牲にするしか」包丁持ち役所へ 盲目の80歳男性、社会への怒り募り…高齢の粗暴犯、表面化しづらく〉である。ネットの記事(『西日本新聞』2018年3月28日)私は思わず、「明日は我が身」の可能性のある多くの高齢者の姿が目に浮かんだ。以下に全文を引用しておく。

--社会面の片隅にベタ記事が載った。〈役所で包丁持ち/暴れた80歳男逮捕〉。動機は何か。自宅を訪ねると、サングラス姿で現れ、取材に応じるという。「自殺しに行ったんですよ」。声には怒りが満ちていた。ー外出には白杖(はくじょう)が手放せない。15歳の時、草野球をしていてバットが目を直撃した。それでも悲観せず、26歳で鍼灸(しんきゅう)マッサージの店を開いた。妻を亡くしてからも身の回りのことは1人でこなし、穏やかに暮らしてきた。怒りが募り始めたのは、5年ほど前に難聴を発症し、命綱の耳が聞こえにくくなってからだった。家にこもりがちになる一方、火事にでもなれば逃げ遅れるため、一軒家から公営住宅へ移ることにした。そのあたりから怒りが沸騰しだした。ーー入居手続きが煩雑で職員の説明も不親切に感じられた。「高齢で全盲だから住まわせたくないのか」。どうにか転居できたが、公共料金を滞納扱いにされた。「請求書を送られても読めない」。愚痴をこぼそうにも住み慣れた場所を離れ、近所付き合いもなかった。ーー 犯行の2日前、社会への不満をテープに録音し、報道各社に郵送した。一部の社には電話もしたが「事件にならないと取り上げられない」。突き放された思いだった。--「わが命を犠牲にするしかない」と役所へ。玄関先で包丁を自分の腹に向けたところで取り押さえられた。容疑は警備員への威力業務妨害と銃刀法違反だったが、処分保留で釈放された。「現役時代は社会に精いっぱい貢献した。人助けもした。なぜ今になって肩身の狭い思いをしなくてはならないのか。悔しいを通り越し、みじめだ」ーー盲目の男性も逮捕後に精神科を受診させられたが、問題はなかったという。その際、医師は話にじっくり耳を傾け「いろいろ経験したんですね」と共感してくれた。「十数年ぶりに人の温かさに触れて心がじんわり熱くなった。地獄に仏とはこのことだなぁ」。つかの間、光が差した気がした。(引用、終わり。)

 最近こうした事件をよく聞く。障碍者、健常者に関係なく、高齢者が当事者となる問題が多発している。そこには、やはり孤独というか、話し相手がすぐそばにいれば防げたであろうといった問題が付随しているように思われる。若い頃から親や子供、近隣者とうまく人間関係が持てない人が高齢者となってーーーという事情が見え隠れする。
 記事で見たこの男性が、社会に対する不満や怒りを覚えると言うとき、この男もその社会の構成員であるとの自覚はどの程度あったのだろうか。先の記事からはわからないことも多々あるのだが、包丁を自分の腹に突きつける前に、もっとやるべきことがたくさんあっただろうに、と自戒を込めて、これから私自身が取り組まなければならない問題を再確認した次第である。それは「居場所」造りの問題だ。できればたくさんあれば、それにこしたことはないだろう。
 
 この記事の80歳老人が私だったらという観点から、もう少し考えてみたい。私は今64歳で、2級の視覚障碍者だが、支台歯台に目が見えなくなっているのがわかるこの頃だ。耳も加齢のために、聞き取りができない瞬間がたびたびある。あと10年で、私もこの老人のような目も耳も不自由になる公算は大である。それゆえ、今から最悪の場合を想定して日常生活を送ることが大切だろう。そのためにも、今から、似たような境遇の者が日ごろから集まって、よもやま話のできる公的空間をつくっておくことだ。
 その際、私がこだわっているのは、多数が寝泊や食事、入浴をはじめ日常の身の回りのことができて、一緒に各人の仕事ができる仕事場を提供しながら、お互いを支え合う居場所が創れたら、ということである。その空間は、各人が主体的に、各人のできる範囲で各人の役割を担い、既存の公的権力の支援に頼らないことを大前提とした居場所である。私の場合、ここでの仕事は鍼灸・あんまマッサージに従事する者を念頭に置いている。障碍者と健常者の区分けはしない、お互いの手助けが必要だから。
 勿論、言うは易しーーである。大変なことだろうが、おそらくそれ以外に私の生活上の安全保障を実現する道はないと確信している。ところが、私たちの教育はこうした公的空間を創造するのには不向きなものとなっているのではあるまいか。私たちが受けてきた従来の教育は、私のモデルで描いたセカイを前提とした教育ではなかろうか。それを如実に示しているのが、トマ・ピケティの著作『21世紀の資本』だろう。フランス革命以来続く経済格差を前提とした教育が行われてきたことを、彼の著作は示している。すなわち、彼の著作は、フランスの高等教育が、数百年にわたり、構造的経済格差を放置し続けてきたということを端無くも示したのではあるまいか。教育の中身が問われている。たとえサルトルやレヴィ=ストロースに代表される世界的哲学者の研究であっても、そうした研究が私の提示したシステムと向き合わない、その問題点を問えない研究の中身だとすれば、いくら哲学云々を叫んでも、どうにもならないではないか。
 同じことはパキスタン出身のマララさんが説く人権や教育の重要性云々の話にも該当するのではあるまいか。ノーベル平和賞を受賞した彼女の人権や教育に関する話は、システムが大歓迎する内容だと、私は理解している。まったく中身を語っていないのだ。どのようにして、〈「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち続けなきゃならない:世界・セカイとそこでの戦争・センソウ〉に向き合えばよいのか、そうした「おかしな」仕組みの中で、その問題点を問い続けられる人権や教育の在り方とは一体何であるのか。こうした論点が提示されないとしたら、結局はシステムが提供し続けてきた人権や教育を受容するしかないのではあるまいか。
 こうした問題提起を踏まえながら、今回は、前回に述べていた、「教養」のある人たちが形成してきた社会の特徴と、そこでの教育と、その教育が涵養する「性癖」に関して述べておきたい。私たちが組み込まれている社会の「衣食足りて礼節を知る」営為の仕組みは、「親分ー子分」関係を基本とする「帝国主義」関係を体現した覇権システムと、その覇権システムの下で創造された資本主義システム、民主主義システムの三つのシステムそれら自体が「公」的存在として理解されている。
 そのため、その社会では、いつも{[衣食足りて→礼節を知る]→[衣食足りて・足りず→礼節を知る・知らず]→[衣食足りず→礼節を知らず]}の営為の関係を構成する「私」と「私」と「私」の関係から構成されている「私」ということを理解しておく必要がある。付言すれば、民主主義体制であれ、非民主主義体制であれ、異なる政治体制も、その体制が最初に創造されるのは、この「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係から構成される同じ社会の下でつくられるのだ。
 私たちの教育が涵養する教養は、たとえば、繰り返しになるが、サルトルの実存主義や、自由や責任論も、レヴィー=ストロースの「野生の思考」も、あるいは、カントやヘーゲルの思想も、私がモデルで描くシステムとその関係(史)と、換言すれば、システムの自己完結運動の歩み(歴史)と批判的にに向き合うものではないのである。私はそう理解している。それゆえ、私のような問題意識をもって新たな公的空間を創造しようとする者にとっては、彼らの哲学や思想がいかに素晴らしいものだと言われても、どうにもならないのだ。
 さらに付言すれば、「無関心」の性癖が、ホームでの視覚障碍者が柵のない空間に置かれていることに何ら違和感も抱かない「残酷さ」を生み出しているのかもしれない、と私は自らが中途障碍者となって、健常者のころの私の視覚障碍者に対する向き合い方を振り返る中で、私自身の残酷さ、すなわち視覚障碍者に対する無関心さを、痛感するに至ったのである。正直なところ、その感覚は、青天の霹靂に似た、ある種の驚愕に似た感情を私の心の中に掻き立てた。逆に言うと、この頃の私は、たいていのバリアを確認できるとの自信があったし、またよく見えていたのだ。だからこそなのだ。何故、駅のホームに柵がないのを見過ごしてきたのか、と。痛恨の極みである。これまでの私の関係論的見方がどうのといった物言いをあざ笑うかのように、所詮、お前の研究のレベルはその程度なのだと、宣告された思いを感じたのだ。
 本来、私たちは先に示したような「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係の中で「私」として生活しているはずなのに、何故か自分自身の力で、努力でその位置(地位)を獲得したかのように思ってしまい、「衣食足りず礼節を知らず」の営為に甘んじているものは、彼らが努力しないで遊んでいる、無駄に時間を浪費していると考えるのである。(勿論、こうした指摘はすべて誤っているわけではない。「成功」する者のすべてではないとしても、血のにじむような努力を怠らない者が大勢いるのも確かだ。それは私も理解しているつもりだ。)もっと彼らも教育に励み教養を高めるべきだとみているのだ。しかし、その教育や教養は、先の関係を別の関係に改めたり、替えようとするものではなく、常に「文明ー半開ー野蛮」の仕組みをつくり出す、そうした関係を支える{[衣食足りて→礼節を知る]→[衣食足りて・足りず→礼節を知る・知らず]→[衣食足りず→礼節を知らず]}の営為の関係としての担い手である「私」とその「私」からなる「公」的存在を何ら疑うことなく礼賛し続けてきた、と私は理解している。勿論、同情したり、憐憫の情にあふれた優しさは満ち満ちてはいるが、先の関係にまで目を向けようとしない残酷さを自覚することには至らない、教育であり教養である。
 それゆえ、私のような「私」が一緒になって他の「私」とともに、「親分ー子分」関係ではない「バリア・フリー」関係を構築するためにはどうしても、こうした教育や教養とは違う、異なる教育と教養を、すなわち従来のような「衣食足りて礼節を知る」→「衣食足りず礼節を知らず」の関係から創られる「礼節を知る」を拒否する「礼節を知る」営為とその「礼節」を模索することがどうしても必要となるのだ。そしてまたその礼節を知るから導かれる「衣食足りて」の営為が模索される必要があるだろう。
 しかしながら、ここまで論じてきたように、私自身がシステムが提供してきた様々な「バリア」とその関係に縛られていることから、先の居場所を創造するのはとてもではないが厄介極まりないことだろう。だが、同時にまた、そうした縛りがどのように張り巡らされているかが少しは見えてきた以上は、やはり前を向いて一歩一歩歩んでいくしかないのも確かなことなのだ。

 

(2023,3,20)

№24私の語る「システム」論から、改めて以前のブログ記事で論じた「公」と「私」の関係に関する記事内容を、読み直すとき(3)


(最初に一言)

 それでは早速、前々回、前回と同じようなやり方で、以下に記事を引用貼り付けておく。私は、今回のブログ記事をまとめるに際して、以前の記事を読み直しながら、改めて私自身の傲慢さを思い知らされた。そして、改めて、他人の抱える悩みや苦しみに思いをはせることの難しさを感じた次第だ。本当に優しくないのだ。私自身も、これまで何度となく、中途視覚障碍者ゆえに、つらい思いをしてきたはずなのに。


―ーー記事の引用貼り付け開始


(2018,4,1)

「公」的空間とは何か。「公」と「私」の関係を考える(3)
 前回の記事の続きをと思い、あれこれ考えていたとき、以下のネットの記事を教えてもらった。記事の見出しは、*〈「命を犠牲にするしか」包丁持ち役所へ 盲目の80歳男性、社会への怒り募り…高齢の粗暴犯、表面化しづらく〉である。ネットの記事(『西日本新聞』2018年3月28日)私は思わず、*「明日は我が身」の可能性のある多くの高齢者の姿が目に浮かんだ。以下に全文を引用しておく。


(引用、始め)ーー社会面の片隅にベタ記事が載った。〈役所で包丁持ち/暴れた80歳男逮捕〉。動機は何か。自宅を訪ねると、サングラス姿で現れ、取材に応じるという。「自殺しに行ったんですよ」。声には怒りが満ちていた。

ー外出には白杖(はくじょう)が手放せない。15歳の時、草野球をしていてバットが目を直撃した。それでも悲観せず、26歳で鍼灸(しんきゅう)マッサージの店を開いた。妻を亡くしてからも身の回りのことは1人でこなし、穏やかに暮らしてきた。*怒りが募り始めたのは、5年ほど前に難聴を発症し、命綱の耳が聞こえにくくなってからだった。

 家にこもりがちになる一方、火事にでもなれば逃げ遅れるため、一軒家から公営住宅へ移ることにした。*そのあたりから怒りが沸騰しだした。ーー入居手続きが煩雑で職員の説明も不親切に感じられた。*「高齢で全盲だから住まわせたくないのか」。どうにか転居できたが、公共料金を滞納扱いにされた。「請求書を送られても読めない」。

*愚痴をこぼそうにも住み慣れた場所を離れ、近所付き合いもなかった。ーー *犯行の2日前、社会への不満をテープに録音し、報道各社に郵送した。一部の社には電話もしたが*「事件にならないと取り上げられない」。突き放された思いだった。--*「わが命を犠牲にするしかない」と役所へ。玄関先で包丁を自分の腹に向けたところで取り押さえられた。

 容疑は警備員への威力業務妨害と銃刀法違反だったが、処分保留で釈放された。*「現役時代は社会に精いっぱい貢献した。人助けもした。*なぜ今になって肩身の狭い思いをしなくてはならないのか。悔しいを通り越し、みじめだ」ーー盲目の男性も逮捕後に精神科を受診させられたが、問題はなかったという。その際、*医師は話にじっくり耳を傾け「いろいろ経験したんですね」と共感してくれた。*「十数年ぶりに人の温かさに触れて心がじんわり熱くなった。地獄に仏とはこのことだなぁ」。つかの間、光が差した気がした。ーー(引用、終わり)


 最近こうした事件をよく聞く。障碍者、健常者に関係なく、高齢者が当事者となる問題が多発している。そこには、やはり孤独というか、話し相手がすぐそばにいれば防げたであろうといった問題が付随しているように思われる。若い頃から親や子供、近隣者とうまく人間関係が持てない人が高齢者となってーーーという事情が見え隠れする。

 記事で見たこの男性が、社会に対する不満や怒りを覚えると言うとき、*この男もその社会の構成員であるとの自覚はどの程度あったのだろうか。先の記事からはわからないことも多々あるのだが、包丁を自分の腹に突きつける前に、*もっとやるべきことがたくさんあっただろうに、と自戒を込めて、これから私自身が取り組まなければならない問題を再確認した次第である。それは「居場所」造りの問題だ。できればたくさんあれば、それにこしたことはないだろう。
 
 この記事の80歳老人が私だったらという観点から、もう少し考えてみたい。私は今69歳で、1級の視覚障碍者だが、支台歯台に目が見えなくなっているのがわかるこの頃だ。耳も加齢のために、聞き取りができない瞬間がたびたびある。あと10年で、私もこの老人のような目も耳も不自由になる公算は大である。それゆえ、今から最悪の場合を想定して日常生活を送ることが大切だろう。そのためにも、今から、似たような境遇の者が日ごろから集まって、よもやま話のできる公的空間をつくっておくことだ。

 その際、私がこだわっているのは、多数が寝泊や食事、入浴をはじめ日常の身の回りのことができて、一緒に各人の仕事ができる仕事場を提供しながら、お互いを支え合う居場所が創れたら、ということである。その空間は、各人(=「私))が主体的に、各人(=「私」)のできる範囲で各人(=「私」)の役割を担い、既存の公的権力の支援に頼らないことを大前提とした居場所である。私の場合、ここでの仕事は鍼灸・あんまマッサージに従事する者を念頭に置いている。障碍者と健常者の区分けはしない、お互いの手助けが必要だから。


 勿論、言うは易しーーである。大変なことだろうが、おそらく*それ以外に私の生活上の安全保障を実現する道はないと確信している。ところが、私たちの教育はこうした公的空間を創造するのには不向きなものとなっているのではあるまいか。私たちが受けてきた従来の教育は、私のモデルで描いたセカイを前提とした教育ではなかろうか。それを如実に示しているのが、トマ・ピケティの著作『21世紀の資本』だろう。

 フランス革命以来続く経済格差を前提とした教育が行われてきたことを、彼の著作は示している。すなわち、彼の著作は、フランスの高等教育が、数百年にわたり、構造的経済格差を放置し続けてきたということを端無くも示したのではあるまいか。教育の中身が問われている。たとえサルトルやレヴィ=ストロースに代表される世界的哲学者の研究であっても、そうした研究が私の提示したシステムと向き合わない、その問題点を問えない研究の中身だとすれば、いくら哲学云々を叫んでも、どうにもならないではないか。

 同じことはパキスタン出身のマララさんが説く人権や教育の重要性云々の話にも該当するのではあるまいか。ノーベル平和賞を受賞した彼女の人権や教育に関する話は、「システム」が大歓迎する内容だと、私は理解している。まったく中身を語っていないのだ。どのようにして、〈「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち続けなきゃならない:世界・セカイとそこでの戦争・センソウ〉に向き合えばよいのか、そうした「おかしな」仕組みの中で、その問題点を問い続けられる人権や教育の在り方とは一体何であるのか。

 こうした論点が提示されないとしたら、結局は「システム」が提供し続けてきた人権や教育を受容するしかないのではあるまいか。こうした問題提起を踏まえながら、今回は、前回に述べていた、「教養」のある人たちが形成してきた社会の特徴と、そこでの教育と、その教育が涵養する「性癖」に関して述べておきたい。

 私たちが組み込まれている社会の「衣食足りて礼節を知る」営為の仕組みは、「親分ー子分」関係を基本とする「帝国主義」関係を体現した覇権システムと、その覇権システムの下で創造された資本主義システム、民主主義システムの三つのシステムそれら自体が「公」的存在として理解されている。*だが、それは決して「公」的空間ではない。どこを見渡してみても、私的空間に過ぎないのである。
 
 それゆえ、その社会では、いつも{[衣食足りて→礼節を知る]→[衣食足りて・足りず→礼節を知る・知らず]→[衣食足りず→礼節を知らず]}の営為の関係を構成する「私」と「私」と「私」の関係から構成されている「私」的空間である、ということを理解しておく必要がある。付言すれば、民主主義体制・非民主主義体制と、たとえ政治体制を異にしていても、それら両体制をつくり出すのは、{[衣食足りて→礼節を知る]→[衣食足りて・足りず→礼節を知る・知らず]→[衣食足りず→礼節を知らず]}の営為の関係であるということなのだ。


 私たちの教育が涵養する教養は、たとえば、繰り返しになるが、サルトルの実存主義や、自由や責任論も、レヴィー=ストロースの「野生の思考」も、あるいは、カントやヘーゲルの思想も、私がモデルで描く「システム」とその関係(史)と、換言すれば、「システム」の自己完結運動の歩み(歴史)と批判的にに向き合うものではないのである。私はそのように理解している。それゆえ、私のような問題意識をもって、新たな公的空間を創造しようとする者にとっては、彼らの哲学や思想がいかに素晴らしいものだと言われても、どうにもならないのだ。

 さらに付言すれば、「無関心」の性癖が、ホームでの視覚障碍者が柵のない空間に置かれていることに、何ら違和感も覚えない「残酷さ」を生み出しているのかもしれない。私は自らが中途視角障碍者となって、健常者とされていた頃の、視覚障碍者に対する私自身の向き合い方を振り返る中で、私が体現していた残酷さ、すなわち視覚障碍者に対する無関心さを、痛感するに至ったのである。

 正直なところ、その感覚は、青天の霹靂に似た、ある種の驚愕に似た感情を私の心の中に生み出すに至った。逆に言うと、この頃の私は、社会に張り巡らされたた多種多様の「バリア」を確認できるとの自信があったし、またよく自覚できていたはずなのだ。だからこそ、なのだ。何故、駅のホームに柵がないのを見過ごしてきたのか、と。痛恨の極みである。これまでの私の関係論的見方がどうのといった物言いをあざ笑うかのように、所詮、お前の研究のレベルはその程度なのだと、宣告された思いを感じたのだ。


 本来、私たちは先に示したように、{[衣食足りて→礼節を知る]→[衣食足りて・足りず→礼節を知る・知らず]→[衣食足りず→礼節を知らず]}の営為の関係の中で、「私」として生活しているはずなのに、何故か自分自身の力で、努力でその位置(地位)を獲得したかのように思ってしまい、〈{[衣食足りて・足りず→礼節を知る・知らず]→[衣食足りず→礼節を知らず]}〉の営為に甘んじている者たちは、彼らが努力しないで遊んでいる、無駄に時間を浪費していると考えるのである。この関係がわかる読者ならば、そんな不遜な「私」に、できるならばサヨナラしたいはずだ。

 勿論、こうした指摘はすべて誤っているわけではない。「成功」する者のすべてがそうではないとしても、血のにじむような努力を怠らない者が大勢いるのも確かだ。それは私も理解しているつもりだ。それゆえ、私たちも成功者を見習って、今以上にもっと、教育に励み教養を高めるべきだとの思いも強いはずだ。しかしながら、その成功者と彼らの教育や教養は、{[衣食足りて→礼節を知る]→[衣食足りて・足りず→礼節を知る・知らず]→[衣食足りず→礼節を知らず]}の営為に見られる〈差別と排除〉の関係を前提としたものであり、その関係を、別の関係に改めたり、替えようとするものではない。これも確かなことではあるまいか。

*すなわち、常に〈「文明ー半開ー野蛮」〉の仕組みをつくり出す、そうした関係を支える{[衣食足りて→礼節を知る]→[衣食足りて・足りず→礼節を知る・知らず]→[衣食足りず→礼節を知らず]}の営為の関係としての担い手である「私」とその「私」からなる「公」的存在を何ら疑うことなく礼賛し続けてきた、と私は理解している。勿論、同情したり、憐憫の情にあふれた優しさは満ち満ちてはいるが、先の関係にまで目を向けようとしない残酷さを自覚することには至らない、教育であり教養である。

*それゆえ、私のような「私」が一緒になって他の「私」とともに、「親分ー子分」関係ではない、差別と排除の関係のない、「バリア・フリー」関係を構築するためにはどうしても、*これまで私たちが当然の如く受け入れてきた教育や教養とは違う、異なる教育と教養が必要となってくるのは、言うまでもなかろう。

 換言すれば、*従来のような{[衣食足りて→礼節を知る]→[衣食足りて・足りず→礼節を知る・知らず]→[衣食足りず→礼節を知らず]}の関係から創られる「礼節を知る」を拒否する「れいせつをしる」営為とその「れいせつ」を模索することがどうしても必要となるのだ。そしてまた、*その「れいせつをしる」から導かれる「いしょくたりて」の営為が模索される必要があるだろう。

 しかしながら、ここまで論じてきたように、私自身が「システム」が提供してきた様々な「バリア」とその関係に縛られていることから、先の居場所を創造するのはとてもではないが、厄介極まりないことだろう。だが、同時にまた、そうしたバリアを介した縛りが、どのように張り巡らされているかについて、少しは理解できるようになった以上は、やはり前を向いて一歩一歩歩んでいくしかないのも確かなことなのだ。


ーーー記事の引用貼り付け終わり


(最後に一言)

 今回記事で指摘した*〈「居場所」づくり〉の問題は、私には大変重要な今後の課題となるとみている。既に、私のブログ記事においても、最初の報の記事において、また「盲学校が終の棲家であれば」云々の記事においても述べていたように、*残りの21世紀の時代において、私たちが一刻も早く取り組むべき、私たちの生き方が問われている大問題となるに違いない。

 私にとっては、それこそが「革命」なのだ。そして、その取り組みは至る所で展開されている。たとえば、捨て猫や犬を、空き家を借りて、そこに住まわせて彼らの生活全般の世話を、ボランティアがおこなっている。また、不登校の子供たちの面倒を見る「寺子屋」や、家庭に居場所を見つけられない青少年のための非難所も、最近では多くつくられている。この段落のくだりは、すぐさま誤解というか批判に直面しそうだ。それらを一応、念頭に置いたままで、先に行くことを断っておきたい。

 こうした仕組みの少し先に、今回記事で紹介した行き場のない高齢者の居場所がつくられるとすれば、それは素晴らしいことに違いない。また高齢者と他の若い世代との共同生活も考えられる。とにかく、いろいろなやり方があるはずだ。同時に、すぐさま、これもダメ、あれもダメの流れにも向かいそうでもあるが、おそらく、既にモデル・ケースが存在しているかもしれない。少し調べてみたい。

 それにしてもだが、前回記事の投稿からもう5年となる今のこの時点で、「少し調べてみたい。」とは。どうして、もっと早く頭が回らなかったのか、と我ながら落ち込むのだが。


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