(ずっと考えてきたテーマを今回から論述したいと思い、それで行論の都合上、鳥瞰的流れを確認するために、前回の記事で紹介していた拙稿「 「歴史叙述の神話」に関する一考察 」のある下りをそのままここに張り付けた。少し長いのだが、お付き合いお願いしたい。(注)の番号や小見出しの(一)、(二)、(三)、(四)、(五)はそのままにしている。)
.「システム」に「歴史」を語らせる
(一)
以下の私の「仮説」は前掲拙著でも論じていたように、M・ヴェーバーが彼の著作(マックス・ヴェーバー著 大塚久雄訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波書店 1989年)において、プロテスタントの宗教的倫理と資本主義の勃興とその発展を結び付けながら、システムとしての資本主義の自己完結運動の歴史を描いた着想と、永井陽之助が彼の著書(永井陽之助著『平和の代償』中央公論社 1967年)で指摘した「制約」を元に、そこから「歴史的制約性」という考え方に、私はたどり着いた。私たちが創り出したシステムが、ある時期からそのシステムを構築した創始者達(私はそこに、覇権国やいわゆる「シティ」や「ウォ―ル・ストリート」の国際的な金融勢力の存在も含めている)の思いや願望をよそに、システムそれ自体の「命と暮しを守る」自己完結的な運動を始め出し、そうして私たちはそのシステムの形成と発展とその変容の歩みの「制約」の中で生き続けるしかないというシステム中心史観と呼べる見方である。(20)
こうした見方からこれまでの私たちの歴史とそれに関する歴史叙述を見直していくと、いくつかの神話が創られてきたことに気が付くのである。こうした点を念頭に置きながら、まずはシステムそれ自体に語らせてみよう。
システムが、ここでいうシステムとは、既に指摘していたように、覇権システムそれ自体を意味するものではない。「三つ」の帝国主義関係としてのシステムが総体として「一つ」のシステムを構成していると位置づけられるものである。私が何度も言及しているところのあのセカイとその関係の歩みとして位置付けられるシステムである。システムは、その誕生からその死滅に至るまで、自己完結運動を繰り返すと捉えたとき、そのことが歴史に与える意味は一体何であろうか。そこから以下のようなシナリオが考えられる。
まずこのシステムの中で生きていくのは、相当に大変であることが予想されるだろう。「勝ち続けなきゃならない」システムである。Aの[ ]→(×)Bの[ ]→×Cの[ ]の中で、先ずは、[ ]で示される共同体の、つまり主権国家、国民国家の建設に成功しなければならないことが理解される。それができないで、負け続けることはCグループに絶えず甘んじることを意味する。勿論、だからと言って、Cグループから、BそしてAグループに「上昇」することも厄介であろう。このシステム自体が差別と排除の関係から成り立っていることから、そうした差別と排除の関係を打ち破る力を持たない限り、それは実現不可能である。Aグループに属する国も最初からそこに当然のように、位置していたわけではない。この「勝ち続けなきゃならない」システムの中に放り込まれた国は、自らの力で、差別と排除の関係を打破して、Aグループを目指したのである。(もっとも、この見方は逆である。システムとその自己完結運動の歩みが、このシステムに組み込まれた共同体に、そうしろと命じるのである。)その意味では、差別と排除の関係を打ち破る力が最も大きかった国が、Aグループの先頭に位置できたといえるだろう。これが私のモデルのセカイとその関係の歩みを自己完結的に支えるプレイヤーである親分となる。この親分の下で、子分が創られていく。正確に言えば、子分を造りながら親分になる。つまり覇権国となる。(もっとも、ここでもすぐ上で指摘したように、システムが、その自己完結運動の歩みが、覇権国の登場を求める。つくり出すのである。)その覇権国となる中で、つまり「親分―子分」関係を形成する中で、覇権システムが創られていく。親分にとって、子分の存在は重要ではあるが、しかし、いつも物分かりのいいだけの子分だけであれば、このシステムは緊張感をなくし、システムそれ自体の力を弱めてしまうだろう。と同時に、極度の緊張が続くとなると、それはシステムの安定を損なうこととなる。そうした点で、このシステムは、相互に差別と排除の関係に位置する三つのグループに分かれていくことが予想される。先のモデルにあるように、Aグループ、BグループそしてCグループである。システムの存続と安定のために、適度の緊張をシステムに与えるために、用意される「嫌われ役(敵役)」は、Bグループのいずれかの国が引き受けざるを得ない。Aグループにそうした国を置いてしまうと、その緊張は逆にAグループをかく乱させ、システム全体の安定を損なう恐れが出てくるだろう。その為に嫌われ役は、Bグループか、Cグループに位置づけられるだろう。と同時に、そうした嫌われ役を牽制し、行き過ぎたストレスとならないように、同じBグループの中に、Aグループの指導、支持を受けた監視役を担う国が創り出されることも、システムはその自己完結運動のために忘れていない。(21)
同様に、システムは自己完結運動を順調に促すために、Aグループから複数の次期覇権国候補を用意するような歩みを創り出す。なぜなら、システム全体の永続的な維持安定には、一国の覇権国だけでは到底無理だということであり、そのために複数の覇権国がその役割であるシステムの維持、安定に奉仕しなければならなくだろう。そこから歴代の覇権国の興亡史の歩みが導き出される。(22)そのことは覇権国の重要な役割として必ず次期覇権国を見つけ出し、覇権のバトンの禅譲が求められるということである。それではなぜ、覇権国の興亡史がAグループだけでなく、Bグループへと継承されていくのかという問いにも答えておかなければならないだろう。
(二)
こうした一連の考察と問いかけに対して、システムは、その自己完結運動の歩みは、私たちにどのような答えを示すのだろうか。それを論究する前に、次の私の問いかけに耳を傾けてほしい。なぜシステムは、1970年代を分水嶺として再編、変容したのか、なぜ1970年代以降の歩みが生み出されなければならなかったのか。戦後の廃墟の中から歯を食いしばって日本国民一丸となって実現した戦後の繁栄と「平和な民主主義」社会の果実を、あっという間に、しかも自ら進んで手放すかのような歩みを、(その歩みはまさに1990年代以降に顕著となるが)突き進んでいったのは一体なぜなのか、という問いである。システムとその自己完結運動からみた場合、いかなる答えが返ってくるのだろうか。
こうした問いかけに対して、私は戦後日本におけるGHQの占領政策や戦後の平和憲法や民主主義と高度経済成長に関する従来、常識的とされてきた諸議論を徹底的に、かつ根底から見直す、捉え直す必要性を感じている。システムとその自己完結運動の観点から、従来よく論じられてきた勝者とか敗者がどうのとか、押しつけられたのは当時の為政者であったとか、戦後民主主義は日米の合作であったとか、戦後民主主義の下で高度経済成長が初めて実現した云々の次元でもって論究されてきた諸見解に向き合うとき、私たちはいかなる声を聴きだせるのだろうか。結論を先取りして言えば、こうした見解に対して、私たちは、もうそろそろ「さよなら」をいうべき時が来たことを、読者に伝えたいのである。すなわち、そうした主張は、歴史の歩みを的確に描こうとする人々の目を曇らせることにもっぱら与るだけに過ぎないのだ、と。それゆえ、残念ながら、私たちは戦後70数年にわたって、「木を見て森を見ない」ままに、歴史を語ってきたのである、と。
ところで、上記の問いかけは、次のような話と重なってくる。すなわち、システムの「命と暮らしを守る」安全保障の観点から、「民主主義の発展」の歩みを考えるとき、私のモデルで描く1970年代までの民主主義の発展の歩み、つまりⅠ期からⅡ期そしてⅢ期に至る歩みが、「一つ」のサイクルとして位置づけられる。つまり、[権威主義的性格の政治→経済発展]の段階から[分厚い中間層の形成→民主主義の発展〈高度化〉]の段階までのそれである。このように、民主主義の発展の歩みは、低度化の段階から高度化の段階に至って、「一つの波」を終える。と同時に、またそこから新たなる「第二の波」というかサイクルが生み出される、と私は理解している。ここでいう第一の波、第二の波という表現は、言うまでもないことだが、S・ハンチントンのそれとは異なるものである。(23)
ここで考えなければならないのは、民主主義の発展の歩みは低度化から高度化の段階に達したときに、なぜそこで一応その歩みが終焉して、再度また形を変えながら、低度化から高度化へと向かうのかという問題についてである。換言すれば、それこそこの問いは、私のモデルで描くセカイが1970年代を分水嶺として{[A]→(×)→[B]→×[C]}から{[B]→(×) [C]→×[A]}へと変容するに至るのかという問題でもあるからだ。(24)
本稿で以下に語られる大きな二つの流れ―それらは、いわば本論文において、縦軸と横軸を構成している。前者は、私がこれまで語ってきた話の一つであるシステムそれ自体の「命と暮らしを守る」次元のものであり、後者はそのシステムを構成する各々の主権国家、国民国家を前提とした「民主主義の発展」の歩みに関わるものである。以下でも詳しく語られるように、1970年代を分水嶺として、覇権システムは、個人や諸個人の集団やそうした諸集団から構成される共同体(国家)の「命と暮らしを守る」安全保障に呼応する形で、そのシステム全体の「命と暮らしを守る」ために、その意味では、システム全体が一つの共同体として位置づけられるのだが、システムの改編を図るのだが、それは主権国家、国民国家を担い手とした「民主主義の発展」の高度化の段階において、あたかも「成人病」の患者が身体のあちこちが種種の病気の合併症から見動きが取れなくなってきた、自らの身体を改造する必要に迫られていく歩みと相互に補完的な関係を取る歩みでもあった。大きく肥大化した身体をスリムにすることを余儀なくされる、そうした歩みである。私は、その病気の原因は、大きくなっていくその歩みそれ自体にあったとみている。換言すれば、覇権システムの形成と発展の歩みと、それを前提としながら、その内部で主権国家、国民国家を担い手とした(経済発展と)民主主義の発展の歩みそれ自体に内在していたと診断するのである。すなわち、上述してきたように、覇権システムをその内に含む「三つ」の次元から構成された「一つ」のシステムとその自己完結運動である。この点に関して、以下でも詳しく論及していくが、ここでそれを別の観点から述べてみよう。
(三)
ここでの縦軸と横軸の二つの軸からなるシステムは卑俗な言い方をすれば、システムそれ自体が、いわゆる「金の生る木」なのである。すなわち、民主主義の発展の高度化を目指す歩みは、同時に、覇権国を頂点に抱くAグループがB、Cの両グループに対して差別と排除の関係を下に、収奪して利益を獲得していく歩みと重なるのである。これに関しても、既に形を代えて拙論において開陳し続けてきたが、その中にはたとえば西川潤『飢えの構造(改訂版)』で紹介されていたフランス革命の推進者(担い手)と、当時の三角貿易とそれを介した富の流れとが結び付けられていたくだりを、私のモデルのセカイの中に、いま一度おき直して考察したことがある。(25)こうしたことを私が考えるに至ったのは、その意味では、民主主義の発展の段階が高度化することは、システムとして、また制度としての「一つのシステム」にとって、利益になるということである。それゆえ、常に高度化の実現を確保しなければ、システムは制度として、その命と暮らしを守ることができなくなる。それゆえ、そこからシステムは、覇権国の興亡史を演出する必要に迫られることとなった、と私は仮説を立てたのである。そしてスペイン、ポルトガルから始まって、アメリカに至る覇権国の興亡史の歩みが1970年代まで続いたのである。その間に、システムは、Aグループの覇権国を中心としながら、{[A]→(×)[B]→×[C]}のシステムの関係史の中で、絞れるだけ利益を収奪したのである。そしてもはやそれが難しくなるにつれて、システムは1970年代以降に、今度は新たな覇権国を見つけ出し、その覇権国の指導の下で、新たなシステムの形成と発展に乗り出すのである。それが、{[B]→(×)[C]→×[A]}のシステムの形勢となり、そのシステムの差別と排除の関係を高度化して、つまり強度化して、そこでの利益の収奪が極限に達するまで、民主主義の発展の高度化が目指されることになるのである。それゆえ、Bグループの中で、これからは覇権国の興亡史が繰り返されることとなり、その第一番目として中国が登場したと位置づけられるのではあるまいか。
これらの話を踏まえて、もう少し論を展開していこう。私の脳裏にまだ離れずに残っている記憶、それはお立ち台の上で踊り続ける一群の女性たち。まさに日本のバブルの象徴であった。お金が余りすぎてしまったのだ。いろいろな事情により、実体経済に投下されずに、行き場のないお金が、土地や株などに投資され、そこから投機ブームが起こり、バブルとなる。それをひき起した少し前の事情を考えれば、それは1985年のプラザ合意に行きつく。円高で国内製造業の勢いを削ぐ、そして輸出より、輸入を盛んとしていく流れである。そこからさらにそうした原因を探していくと、1980年のレーガン政権の登場となる。いわゆる、「小さな政府」を創り出す政権である。そこで減税と金融緩和による消費の拡大、輸入体質が強化されることとなる。つまり、従来の製造業の振興ではなく、金融・サービスを振興させる流れが出来上がる。なぜそうした流れが- - -と考えていくと、1978、79年の中国の改革開放政策との関連性が、そして1979年の米・中国交正常化と結び付いていく。そこからさらに遡ると、1971年の「ニクソン・ショック」と中国の国連加盟とニクソン訪中に辿りつく。そこからさらに、欧米先進諸国のいわゆる「先進国病」と先進諸国の経済停滞、低迷の長期化となる。
さらに、こうした原因を遡るとき、私がこれまで繰り返し論述してきた覇権システムとその秩序をもとに織り成されてきた経済発展と民主主義の発展の関係史で描かれるセカイに、すなわちシステムとその自己完結運動として描かれる{[A]→(×)[B]→×[C]}から{[B]→(×)[C]→[A]}(省略形、共時態モデル)へのシステムの再編、変容に、行きつくのである。それゆえ、こうしたシステムとその自己完結運動に、これまで私たちが教えられ、受容してきた歴史の再検討、再検証をさせるならば、従来とは全く異なる歴史叙述となるのは必至である。Aグループの日本の「踊り場の女の子」を生み出したのは、そしてその後の格差社会の中で呻吟し続ける多くの生活困窮者を生み出したのは、私たちがこれまで創り出してきた(経済発展と)「民主主義の発展」の歩み、それ自体であるということなのである。
こうした私の「仮説」と、S・ハンチントンが彼の著作(S・P・ハンチントン著 坪郷實 中道寿一 薮野祐三訳『第三の波-20世紀後半の民主化』三嶺書房 1995年)で論究した民主化の「第1の波」とその反動の波(第1の逆行の波)」と第2、第3のそれぞれの波を結びつけて論じるならば、第1の波は、パクス・ブリタニカの盛衰の歩みに、第2の波は、パクス・アメリカーナの盛衰期に、そして第3の波はパクス・チャイナの盛衰期に(もちろん、中国はまだ覇権国の地位についていない、その途上にあるのだが)、それぞれ呼応している、とみている。また、第1の反動の波は、英米覇権連合の形成と発展の時期に、第2の反動の波は、米中覇権連合の形成と発展の時期に呼応している。この覇権連衡の形成と発展の時期は、現覇権国がその力を喪失していく中で、次期覇権国もまだその力を十分に備えていない時期であり(それゆえ多くの論者はこうした歩みを的確に理解出来ないことから、私がここで言う覇権連合の形成期を「多極化」とか「無極化」と呼ぶのであろうが、歴史の歩みを学んでいないと言わざるをえないのだが)、国際政治の不安定期であることから、そうした民主化の反動の波が導かれると、私は理解している。ハンチントンのいう民主化の第3の波は、まさにパクス・チャイナの盛衰期と重なることを銘記しておく必要があるだろうし、こうした歴代の覇権国の盛衰(興亡)史と、私のモデルのセカイの変容、転換とは密接に関連していることを、ここでも留意しておきたい。(なお。これについては、前掲拙著『21世紀の日本と日本人と普遍主義』の88-91頁、とくに91頁のモデルを参照されたい。)
(四)
さて、ここで上述した「金の成る木」の話を、システムとその自己完結運動の再編、変容({[A]→(×)[B]→×[C]}から{[B]→(×)[C]→×[A](省略形、共時態モデル)と結びつけて論じておきたい。先述したように、私の仮説は、このモデルのセカイとその関係の歩みは、すなわちシステムとその自己完結運動は、まさに「金の成る木」であり、そのために1970年代までのシステムとその自己完結運動が貢献したのだが、1970年代を境にして、その金の成る木の役割、すなわち、AグループのBやCグループに対しての「富の吸い上げポンプ」(26)としての役割をもうこれ以上、担えなくなったことである。{[A]の民→(×)[B]の民→[C]の民}の関係が力を失い、富を吸い出すことができなくなったということである。換言すれば、市民的権利の関係がシステムの想定するようには、その機能を果たせなくなったということである。以下に詳しく論及するように、ここにAからBグループへの覇権のバトンの禅譲が行われる必要が生じることになる。
当然ながら、システムはその自己完結運動を円滑に導くために、覇権国の米国にこれまでのような金の成る木を、Bグループの次期覇権国を中心とした勢力に、担わせるように迫るのである。こうしたシステムの自己完結運動が、以下のくだりで私が描いた歴史を創作、演出させるのである。
ベトナム戦争がなぜ1965年から75年まで米国主導で行われたのか。私のモデルのセカイの{[A]の経→(×)[B]の経→×[C]の経}と{[A]の民→(×)[B]の民→×[C]の民}の関係における力の優劣関係を、つまりは格差を最大にすることであった。その結果として、約10年以上続く戦争を必要としたのである。逆に言えば、もしシステムとその自己完結運動が格差を最大限にできる期間が5年で済むのなら、そうなったということである。軍産複合体が、軍需産業が戦争は金儲けとなるから、「長期化」させたわけではないことに、注意すべきだと、システムとその自己完結運動は、私たちに語るのである。システムとその自己完結運動は、先に紹介した経済発展の関係を最大限にするために、米国を戦争体制(軍産複合体国家)へと導いた。またこうしたセカイとその関係の歩みは、すなわちシステムとその自己完結運動は、西側先進国に福祉国家を創り出した。福祉国家は、北の先進国と南の途上国との格差が最も拡大する関係の中で導き出された、北の先進国のAグループの民主主義の発展段階として位置付けられるのである。
そうした仕組みを完成するために、アジアでは開発独裁体制の下での経済発展が準備された。Bの経済発展の「段階」として理解される。日本の高度経済成長は、このBグループの経済発展と結び付けられる形で、Bの先頭に立ちながら、同グループ内のソ連を牽制し、「封じ込め」る形で、システムの安定的な発展を支えるのである。このBグループの経済発展は、中国の文化大革命と連動する形となるように、システムによって導かれたのである。こうしてAグループの主導するシステムが富を最大限に搾り取り出す、システムとしての機能がその役割を終えることとなる。
そしてそのことは、覇権国の交代を意味していたが、もはやAグループの中には次期覇権国の資格を備えた国を見つけられなかった。Aグループの覇権国米国の重要な役割は、次期覇権国を見つけ出し、その国に覇権のバトンを禅譲することであった。その期待に応えるために米国が探し出したのが中国である。(もっとも、ここでも正確に言えば、システムが米国にそうするよう迫ったのである。)そのために中国では、ちょうどベトナム戦争と連動する形で、文化大革命が準備されたのである。文革により、中国は、主権国家、国民国家としての基盤を強化すると同時に、やがて改革・開放の波に乗って、米国を中心とした西側先進国からの巨大資本の流入とそれがもたらす中国国内に与える衝撃とそれにともなう社会の混乱と不安定化に持ち堪えるだけの力を備えた国家を、システムとその自己完結運動は必要としたのである。その為に、中国は文革という名の[権威主義的性格の政治→経済発展]の「段階」の政治を引き受けさせられたのである。付言すれば、こうした中国の[権威主義的性格の政治→経済発展]のⅠ期の「民主主義の発展」段階を、日本はちょうど高度経済成長を実現する形で相互に支え合う関係を創り出しながら、システムとその自己完結運動の「順調」な歩みを導くことに寄与した。日本はこの時期、[経済発展→分厚い中間層の形成]として描かれる「民主主義の発展」のⅡ期の段階にあり、米国はⅢ期の[分厚い中間層の形成→民主主義の発展(高度化)]で示される「民主主義の発展」の段階をたどっていた。システムとその自己完結運動は、このような形で中国と日本と米国の民主主義の発展における関係史をつくり出したのである。
この間、米ソ冷戦とソ連の米国と拮抗するイメージを醸成した超大国との位置づけ方(27)は、米ソの対立と敵対の関係をいたずらに煽り立てることに、西側陣営の軍事産業の振興を助けることで、米国同様の軍産複合体の形成を西側陣営にも作らせることにより、システムとその自己完結運動は、すなわち、モデルで描くセカイとその関係の歩みは、A、B、Cの各グループにおける経済発展と民主主義の発展にみられる差別と排除の関係を、さらに拡大、強固にすることで、1970年代以降のシステム内における再編、変容を促すことに寄与したと考えられる。
(五)
さて、ここでこれまでの議論を踏まえながら、もう少しだけ論の補足をしておきたい。私のモデルで描くセカイとその関係の歩みが「一つ」の「システム」として、その形成と発展に向けた歩みが実現するためには、まず何よりも、モデルの一番外側の記号({ })で示される覇権システムの構築が重要となる。その覇権システムの中心的指導国は、覇権国である。この覇権国はAグループから登場するのであるが、その意味では、Aグループ内における力の優劣関係が覇権国を創り出す大きな要因を構成している。と同時にAグループ内で覇権国とその他の中心国として力の優劣関係が生み出されるに際して大きな影響を与えるのは、Cグループとの関係構築が大切なことが予想されるだろう。
簡単に言えば、Cグループ内の政治共同体との関係から一番搾取できた国がAグループでの覇権国となる公算が高くなる。たとえば、イギリスは当時の世界で豊かであったインドや中国との力の優劣関係を構築する中で、両国(地域)をCグループに組み込むことに成功した結果、このシステムを強固にすると同時に、Aグループにおける覇権国としての力を獲得できた。もっともここには、オランダとの覇権のバトンの継承に見るもう一つの重要な覇権国の興亡史における力の優劣関係の構築がともなう。
ここで簡単にシステムとその自己完結運動という観点から、歴史を振り返ってみよう。Aグループのイギリスはイギリスよりも先に覇権国として君臨していたオランダとの覇権国の興亡史における「三位一体的」相互補完的関係の中で力をつけていく(28)のと関連して、先に見たインドと中国に対する東インド会社を中心とする東洋貿易で、力の優劣関係の構築に成功していった。こうした関係構築の過程で、イギリスはやがて「パクス・ブリタニカ」として語られてきた「覇権国イギリスの秩序の下での平和」を構築したわけであるが、そのパクス=平和とは先のモデルのセカイとその関係の歩みが順調に発展していくことを意味していた。その意味において、この平和の構築には常に戦争が必要とされた。戦争により多くの共同体が植民地、従属地として、Cグループに組み込まれていきながら、覇権国とその他のAグループの力を高め、そのことがBグループに対する力の優劣関係を維持、継続させながら、全体として見た場合に、「一つのシステム」のセカイとその関係の順調な歩みを導き出したのである。
こうしたセカイとその関係の歩みの中に、オスマントルコ帝国の支配下にあったエジプトも、開国以降の日本も力の優劣関係の中で、結局のところ組み込まれていくのだが、両者がその後たどった道は大きく異なるのである。エジプトはイギリスとの力の優劣関係を介して、Cグループに組み込まれていく(29)のに対して、日本は日清戦争、日露戦争の勝利や日英同盟の締結を介して、何とかBグループに組み込まれたのである。Aグループの覇権国であるイギリスがCグループのインドや中国との間に構築した力の優劣関係は、「1 はじめに」でも述べるように、「三つ」の次元から構成、構築されていたが、同じくBグループの日本がAグループのイギリス、アメリカの協力や後押しを介して、Cグループの韓国(朝鮮半島)、中国東北地方との間に形成発展させた力の優劣関係と同じ関係であった。こうして、イギリスとインド、中国との関係に代表されたAグループとCグループとの関係は、日本と韓国、中国東北地方との関係に代表されるBグループとCグループとの力の優劣関係と関連、関係づけられながら、先に示した一つのシステムの構成、構築する関係として位置付けられるのである。
このシステムの「平和」的安定的発展(いわゆる「ヨーロッパにおける長い平和」)が19世紀末から20世紀初頭の世紀転換期において、Bグループに組み込まれていたドイツ帝国に主導される三国同盟陣営により、挑戦を受ける。第一次世界大戦である。(もちろん、システムとその自己完結運動の歩みが第一次世界大戦を引き起こした、要請したのである。システムとその自己完結運動の原動力としての差別と排除の関係を、戦争によってさらに強化させることで、システムとしての金の成る木としての機能を高めるように、導いたのである。)自己完結運動のである。結論を先取りして述べると、「総力戦」の様相を呈した第一次世界大戦により、ヨーロッパ諸国の戦争被害は甚大であったものの、このモデルで描くセカイとその関係の歩みそれ自体に、大きな打撃とはならなかった。確かに一時的には、このセカイとその関係の歩みは一時的には中断を余儀なくされたが、なお、このシステムは、そのシステムとしての機能のレベルの面では、十分に作動していた。その象徴が戦後のヴェルサイユ講和条約の締結とヴェルサイユ体制の発足、さらにはワシントン体制の成立を見たのである。
と同時に、そうはいっても、Aグループの覇権国イギリスのシステム構築と安定化に向けての力の衰えは隠せなかった。Aグループ内における覇権国の興亡史がなお見えないままで、そのセカイとその関係の歩みは続けられたことから、一つのシステムとしての力の優劣関係にも従前のような安定性が見られなくなかったのである。その「しわ寄せ」は、Bグループで顕在化した。それは一つにはこのシステム内で、Bグループが受ける構造的圧力が一番大きいことが考えられるだろう。Bグループを構成する諸国は、隙あらばなんとかAグループへと上昇して、Aグループへの仲間入りを考えるだろう。そのためには、どうしてもAグループとCグループとの間に構築されてきた力の優劣関係にくさびを打たなければならない。そのことは、BグループのCグループに対する力の優劣関係をこれまで以上に拡大することを意味した。当然ながら、それはAグループとBグループとの対立、衝突を意味したであろう。
Aグループ内にもいつも小さな対立、衝突はあるものの、BグループによるAグループがこれまで支配してきたCグループを横取り、分捕ろうとする動きに対しては、一致団結しながら、彼らAグループの既得権益を擁護しようとする。システム自体が金の成る木であるから、覇権国とAグループは簡単には彼らの地位を譲り渡さない。これを死守するために、AグループはCグループとの連携を強化しながら、Bグループにぶつかろうとするから(システムとその自己完結運動におけるこうしたぶつかり合いを私たちの歴史では第一次世界大戦、第二次世界大戦と呼んできたのだが)、そのぶつかり合いにおける圧力は、すなわち{[A]→×[C]}の{[B]→[C]}に対する構造的圧力は相当に強力なものとなるだろう。Aグループが支配、保持しているCグループの範囲は、Bグループのそれよりも力の優劣関係において勝っている。そうした構造的圧力に対抗するために、Bグループの政治支配の様式は、国民の挙国一致体制をつくり出すために、どうしても抑圧的体制にならざるを得ない。Cグループの政治支配の様式も、抑圧体制であるが、Bグループの抑圧体制はそれ以上に破壊的、強力とならざるを得ない。Cグループの抑圧は{[A]→×[C]}の民主主義の発展の関係からつくり出されるのに対して、Bグループの抑圧は、{[A]→×[C]→(×)[B]}の関係として描かれる民主主義の発展の段階と関係してくるのである。戦前の枢軸陣営と呼ばれたドイツ、イタリア、日本もファシズム陣営として、またソ連も全体主義体制として、このBグループに位置していたが、そうした諸国が強力な抑圧体制をとったのは、決して偶然のなせる業ではなかったのである。こうした一つのシステムを構成したセカイとその関係の歩みの中で繰り広げられる「三つの」力の優劣関係としての「帝国主義」関係がそうした政治体制を選択させてきたのである。(30)
何度も言うのだが、その普遍主義がどのような生活空間の中で実現してきたのかの確認が大事だと私は考えている。逆に見れば、いかなる仕組み(構造)の中から、これまで私たちが大切だと教えられ、受容してきた普遍主義がうみ出されてきたか、創作されてきたのかに関する「気づき」が大切ではあるまいか。(8)と私のこれまでの研究は語ってきた。(私が主張してきたのは、普遍主義を創り出し、支えてきたのはまさに{[A]→(×)[B]→×[C]}、{[B]→(×)[C]→×[A]}のモデルで描かれるセカイとその関係(史)モデルにすべて描かれている。私が論究してきたことは、そうした気づきを容易に許さないセカイがあり、その世界の中でこれまでずっとおこなわれてきたのが、まさに普遍主義という歴史認識や見方に関する叙述とその神話の創作であったということである。
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。次回の記事はおそらく遅れると思いますが、しばらくお待ちください。