「主因」は「システム」。「ハイド氏の裁判」で告発された問題そのものである。(2)
前回の話を以下に具体的な形でお伝えしたい。それにしてもだ。報告書とは名ばかりのものではないか。当該問題と、その背後にある問題を何も語っていない。語ろうともして宇ない。まるで、東京裁判で、数名の戦犯を儀式の生贄にして、後は我関せずの仕方と形は同じである。戦争の原因がわずか数十名の者達を列挙するのみでで片付けられるはずもない。ましてや「文明に対する罪」「人道に対する罪」で裁くとなれば、ハイド氏のみならずジーキル博士にも大きな原因を見出せるのは間違いないではないか。
私は「主因」は「システム」とみているのだが、そこまで掘り下げて語るのはここではしないつもりだ。しかし、そうは言っても、あまりにも報告書で指摘されているように、主たる原因が5人の中学生だとしても、その5人の生徒をそこまでのさばらせた主たる原因は何だったのかを当然探す必要は残されているのではあるまいか。報告書を作成した者たちと。その作成を依頼した市の教育委員会の構成員たちも、ここで主たる原因だと名指しされた者たちと比べても、その質(たち)の悪さでは一歩も引けを取ることのない悪人たちではあるまいか。
と同時に、この報告書で指弾されてしかるべき「真犯人」が放免されていることにも目を向けなければならない。先ず、主たる原因はこの学校にリーダーシップが存在していなかったことだろう。そのリーダーシップの主たる担い手は、形式上、組織上は、どう考えても南相馬市の教育委員会ではあるまいか。市の教育長が責任を負うべきなのだ。それでは教育長を任命した責任者はだれなのか。仮に市長であるとすれば、市長を選んだ責任はだれが引き受けるべきなのか。最低限、南相馬市の市民が主たる原因となるだろう。
南相馬市の市民全体がこの5人に対して何ら有効な他愛策をとれなかったとすれば、相当におかしな話ではないか。だが、現実にはどうしようもなかったのに違いない。換言すれば、市民がどうすることもできないほどの力を、このわずか14,5歳の生徒らが保持していたということである。それではなぜ彼らにそれができたのか。そこには市民がこのいじめ問題に対して無関心、無気力となるような力が働いていたのだろう。自分たちには関係ない、関係したくないという力である。関係した途端、それによって、自分たちも不利益を受ける(出世しない)、何らかのいじめ状態に置かれることは必至となるに違いない。
市長はもっと上からの圧力におびえ、市の教育庁や教育委員会も、校長も教頭も、学年主任も、担任も、自殺した少女の周りの生徒たちもまた同じような圧力におびえて行動したに違いない。その親たちも同じであろう。結局、かわいそうなことにこの少女の周りには、親身になってかかわろうとしたものが少なすぎたということだろう。
「ハイド氏の裁判」で描かれていた東京裁判で主たる原因というか真犯人として裁かれた者たちも、東条や荒木以下の数名であった。彼らにすべての責任を引き受けさせ、まるでトカゲのしっぽきりで終わらせてしまった。こんなおかしな判決もなかったのだが、一部のもの以外はほとんど誰も意義を挟まないで看過してしまった。裏返せば、彼ら一部の者たちを戦犯にまつりあげた圧力が存在していて、その圧力に逆らえなかったということだろう。もし逆らえれば、自分たちの生存も危ういし、生きていくことさえも危惧されたに違いない。ましてや現状の地位や生活上の権利さえも奪われかねないことを思い知らされていたに違いない。
それではその「圧力」とは、いったいどこから来るものなのだろうか。ここでこの問題をさらに考察するためにも、私自身の体験をもとに話を進めたい。私は中途視覚障碍者として白杖を持ち歩道を歩くたびに、何度も「いじめ」を受けている自分に気が付き、そのたびに落ち込んでしまうのだ。情けないというべきか、腹立たしいことの連続、継続なのだ。私はいつも泣き寝入りのまま。目の不自由なものにとって、点字ブロックは命の綱だが、なんとそこに無造作に放置された自転車やバイク、果ては車まで邪魔している。私も継続していじめにあっている。
こうした私のいじめ問題に関する報告書が出されたとした時、主たる原因は点字ブロックの上に自転車を放置したり、車を駐車する心ない数人の仕業だと断定して、それで終わりになるのだろうか。そうしたいじめを数少ない良心的市民が自らの心のうちにしまい込み、多くの者にそうした問題を周知させる努力を怠ったとして、彼らだけにいじめの責任を負わせてそれでお開きとして問題は解決されるのだろうか。お笑い草だ。しかしながら、いつでもそうなのだ。中途視覚障碍者となった私は、健常者の時以上に、こうした問題を感じることができるようになった。
誰も私を助けてくれないのだ。寂しい限りだが、現実なのである。ただ、自殺した少女と異なるのは、私が歳をとって少し図太くなっていることと、何よりも、私の横で私の抱えている問題を共に受け止めてくれる歩行訓練士の先生や、一緒にいじめを経験している仲間がいるからだ。
もし何の準備もないまま、こうしたいじめに遭遇していたら、おそらく、とてもつらい思いを一人で抱え込んでしまってただろう。私は歩道を歩く際に、そこがいろいろな人生の場面として置き換えて考えるのだが、そこには学校現場も含まれている。いじめられていることに悲しくなったり、どうにもならないままに絶望感をいだいたりするのは当然だとしても、そうした現場に居合わせながら何もかかわろうとしないで、賢くふるまう質の悪い人間だらけしかいないことに気が付くことのほうが、もっと悲惨なのだ。誰も体を張って助けてくれない。その場その場でいいことを言うけど、ただいうだけで行動しない。みんな自分がかわいいから、どうにもならない。
そうした現実を前提とした対応をすべきなのに、きれいごとばかりの儀式の連続で、お茶を濁すことばかり。おそらく、読者にとっても、ここまで述べたくだりに関しては、その見方に賛成か反対は別にしても、想定内のことだろう。
前回の話を以下に具体的な形でお伝えしたい。それにしてもだ。報告書とは名ばかりのものではないか。当該問題と、その背後にある問題を何も語っていない。語ろうともして宇ない。まるで、東京裁判で、数名の戦犯を儀式の生贄にして、後は我関せずの仕方と形は同じである。戦争の原因がわずか数十名の者達を列挙するのみでで片付けられるはずもない。ましてや「文明に対する罪」「人道に対する罪」で裁くとなれば、ハイド氏のみならずジーキル博士にも大きな原因を見出せるのは間違いないではないか。
私は「主因」は「システム」とみているのだが、そこまで掘り下げて語るのはここではしないつもりだ。しかし、そうは言っても、あまりにも報告書で指摘されているように、主たる原因が5人の中学生だとしても、その5人の生徒をそこまでのさばらせた主たる原因は何だったのかを当然探す必要は残されているのではあるまいか。報告書を作成した者たちと。その作成を依頼した市の教育委員会の構成員たちも、ここで主たる原因だと名指しされた者たちと比べても、その質(たち)の悪さでは一歩も引けを取ることのない悪人たちではあるまいか。
と同時に、この報告書で指弾されてしかるべき「真犯人」が放免されていることにも目を向けなければならない。先ず、主たる原因はこの学校にリーダーシップが存在していなかったことだろう。そのリーダーシップの主たる担い手は、形式上、組織上は、どう考えても南相馬市の教育委員会ではあるまいか。市の教育長が責任を負うべきなのだ。それでは教育長を任命した責任者はだれなのか。仮に市長であるとすれば、市長を選んだ責任はだれが引き受けるべきなのか。最低限、南相馬市の市民が主たる原因となるだろう。
南相馬市の市民全体がこの5人に対して何ら有効な他愛策をとれなかったとすれば、相当におかしな話ではないか。だが、現実にはどうしようもなかったのに違いない。換言すれば、市民がどうすることもできないほどの力を、このわずか14,5歳の生徒らが保持していたということである。それではなぜ彼らにそれができたのか。そこには市民がこのいじめ問題に対して無関心、無気力となるような力が働いていたのだろう。自分たちには関係ない、関係したくないという力である。関係した途端、それによって、自分たちも不利益を受ける(出世しない)、何らかのいじめ状態に置かれることは必至となるに違いない。
市長はもっと上からの圧力におびえ、市の教育庁や教育委員会も、校長も教頭も、学年主任も、担任も、自殺した少女の周りの生徒たちもまた同じような圧力におびえて行動したに違いない。その親たちも同じであろう。結局、かわいそうなことにこの少女の周りには、親身になってかかわろうとしたものが少なすぎたということだろう。
「ハイド氏の裁判」で描かれていた東京裁判で主たる原因というか真犯人として裁かれた者たちも、東条や荒木以下の数名であった。彼らにすべての責任を引き受けさせ、まるでトカゲのしっぽきりで終わらせてしまった。こんなおかしな判決もなかったのだが、一部のもの以外はほとんど誰も意義を挟まないで看過してしまった。裏返せば、彼ら一部の者たちを戦犯にまつりあげた圧力が存在していて、その圧力に逆らえなかったということだろう。もし逆らえれば、自分たちの生存も危ういし、生きていくことさえも危惧されたに違いない。ましてや現状の地位や生活上の権利さえも奪われかねないことを思い知らされていたに違いない。
それではその「圧力」とは、いったいどこから来るものなのだろうか。ここでこの問題をさらに考察するためにも、私自身の体験をもとに話を進めたい。私は中途視覚障碍者として白杖を持ち歩道を歩くたびに、何度も「いじめ」を受けている自分に気が付き、そのたびに落ち込んでしまうのだ。情けないというべきか、腹立たしいことの連続、継続なのだ。私はいつも泣き寝入りのまま。目の不自由なものにとって、点字ブロックは命の綱だが、なんとそこに無造作に放置された自転車やバイク、果ては車まで邪魔している。私も継続していじめにあっている。
こうした私のいじめ問題に関する報告書が出されたとした時、主たる原因は点字ブロックの上に自転車を放置したり、車を駐車する心ない数人の仕業だと断定して、それで終わりになるのだろうか。そうしたいじめを数少ない良心的市民が自らの心のうちにしまい込み、多くの者にそうした問題を周知させる努力を怠ったとして、彼らだけにいじめの責任を負わせてそれでお開きとして問題は解決されるのだろうか。お笑い草だ。しかしながら、いつでもそうなのだ。中途視覚障碍者となった私は、健常者の時以上に、こうした問題を感じることができるようになった。
誰も私を助けてくれないのだ。寂しい限りだが、現実なのである。ただ、自殺した少女と異なるのは、私が歳をとって少し図太くなっていることと、何よりも、私の横で私の抱えている問題を共に受け止めてくれる歩行訓練士の先生や、一緒にいじめを経験している仲間がいるからだ。
もし何の準備もないまま、こうしたいじめに遭遇していたら、おそらく、とてもつらい思いを一人で抱え込んでしまってただろう。私は歩道を歩く際に、そこがいろいろな人生の場面として置き換えて考えるのだが、そこには学校現場も含まれている。いじめられていることに悲しくなったり、どうにもならないままに絶望感をいだいたりするのは当然だとしても、そうした現場に居合わせながら何もかかわろうとしないで、賢くふるまう質の悪い人間だらけしかいないことに気が付くことのほうが、もっと悲惨なのだ。誰も体を張って助けてくれない。その場その場でいいことを言うけど、ただいうだけで行動しない。みんな自分がかわいいから、どうにもならない。
そうした現実を前提とした対応をすべきなのに、きれいごとばかりの儀式の連続で、お茶を濁すことばかり。おそらく、読者にとっても、ここまで述べたくだりに関しては、その見方に賛成か反対は別にしても、想定内のことだろう。