私の語る「システム」論について、その紹介とモデルの説明
(最初に一言)
久しぶりに、上記のタイトルにあるように、自分のモデルに関して、少し「おさらい・再確認」してみたくなったので、今回は「システム」とそのモデルに関して紹介、説明することにした次第。既にお分かりの読者も今一度私にお付き合いお願いしたい。
それでは早速、取り掛かるとしよう。
いま振り返ると不思議なことだが、1990年の最初の拙著『イギリス病の政治学』の中に、2014年の拙著『21世紀の「日本」「日本人」と普遍主義」』につながる思考の要素が既に詰まっていたように思われる。
私の素朴な疑問は、なぜ素晴らしいとされる「普遍的人権」や「普遍主義」を標榜・喧伝するいわゆる「市民革命」の母国である英国、米国、仏国が、対外的に侵略を繰り返し、多くの植民地や従属地を所有する中で、自ら「帝国」とか「覇権国」となるような歩みを辿ったのか、という「問題」であった。
大学院時代に、出会う人すべてにこの疑問を投げかけたのだが、腑に落ちる明確な答えを与えてくれた人はいなかった。世間から注目された「エライ」研究者という人たちは、いつもきまって私にこたえてくれたものだ。そもそも「自由」とか「民主主義」とか「人権」という問題と、「植民地主義」とか「帝国主義」の問題は、その「次元」が異なるのであり、「両者の関係」云々の問題は少し次元を異にしている、つまりは「水」と「油」の関係だから、両者の「関係」云々と言うその設問自体が「ナンセンス」であるかのような返答だったと記憶している。
そこから読み取れる内容を簡単に言えば、どんなに素晴らしい者であれ、時として悪いことをすることもあるかもしれないが、それはたまたまというか、例外的・偶然的な事象であるということであり、それゆえ両者の間には必然的な関係は見出されない、と言うことなのだ。あるいは、そうした関係を、歴史における「明(正)」と「暗(負)」という具合に位置づけ、それ以上は両者の関係については問わないといった態度なのである。
本当にそうなのだろうか。そんなに簡単に片づけてしまっていいのだろうか。私は要領が悪いというか、頭が悪いというか、そんなに簡単に了解できなかったのだ。一旦、このような思考に陥ると、次から次に「おかしい」としか思われない問題の連続となり、そこから「落ちこぼれ」状態となってしまった。
ただし、そうは言っても、「カメレオン的生き方」を忘れない私だから、心底落ちこぼれることはなかったので、いくつかの「論文」をものにできたし、大学にも職を得ることができたのは「ラッキー」以外の何物でもなかった。それこそ「運」だけなのだ。人生というのは、誰に出会うのか、どんな人間関係に加われるかで、ほとんどすべてが決まってくる、と私は今だからこそ、それがよくわかるのだ。
少し脱線したので、もう少し脱線ついでに言えば、そうした運に欠かせないのは、当人の「性格」であり、その性格には当人と親の関係が大きく影響するということである。親の性格を否が応でも子供は受けることから、素直な親と頑固な融通の利かない親であれば、後者の親のもとに育った子供は、大学院の指導教官とあまり良好な関係を気づけな
いことになる可能性は高くなる。それだけではない。他の院生や、他の大学関係者、他大学の先生、院生との関係もよくないというか、うまく人間関係を大きく広げていくことは不得手であるかもしれない。
すべて世間は「引き」のもとに回っているから、惹かれない者は、その当人の能力が何であれ、それで終わってしまうのが常なのだ。もっとも、それがわかれば、そこから先はそうした世間に怒ることもあるまい。すべて性格のせいだから、あきらめることだ。そうすれば、ひょっとして、また別の素晴らしい人生が待ち受けているかもしれない。上を見ればきりがないし、下を見てもそうだから、今を素直に受け入れるしかないのだ。こんなエラそうなことを言う私も、それが了解できたのは、大学を退職した後だから、笑うしかない。
私は人間関係が下手であった。うまくやれないのはよくわかる。偉そうなのだ。別にそうしているわけでもないが、とにかく頭を下げることがしたくないから、人と関わりたくなくなるのだ。誤解のないように。こんな私でも、頭を下げる、下げたくなる人はいるから、そんなときは素直にそうする。しかし、実際にはそれほど学問的に偉くはないのに、それにもかかわらず、多くの者がヘコヘコ、ペコペコしている、そんな人間には頭を下げたりはしない。勿論、だから駄目なのだ。そんな連中だから力があり、引く力もあるのだから。
もうどうでもいいことだが、それでも時々少し腹が立つのは確かであり、それも仕方がない。性格だから、親の性格を受け継いだのだから。しかし、今は亡き両親には感謝している。その親の性格によって、私は今もああだこうだと、先の両者の関係について考え続けることができたのだから。これ以上に幸せなことがあるだろうか。90%近くは納得しているのだが、問題は後の%。それでもほとんど満足というように、今は自分自身をそのように思わせている。
これ以上の贅沢を望んではいけないのだ。周りには、それこそ、たとえ能力があっても、ほとんど正当な評価もされないで消えていく人がゴマントいるではないか。現実はいつもそうなのだから。ただし、そうした人たちの性格は想像できると言えば、傲慢な物言いだろうか。
それでは、先の問題に戻ろう。私のブログ記事でもしつこいほどに論述してきたように、誰もこの両者の関係を、それこそ「関係」づけて論じた者はいないのである。その理由はすぐに分かるだろう。「自由の女神」の「自由」がアメリカ・インディアンの追放・虐殺と「関係」することがわかれば、誰もそんな「自由」など手にはしたくないだろうから。
もっとも、現実には少し違うようだ。仮にそうだとしても、そんなことを考える暇な人間は大学かその他の研究機関の関係者に任せておけばいいことだし、そんなこといくら考えたとしても、今を生きている自分の生活を守ることにも、糧にもならないのだから、とそんな声が聞こえてきそうである。
残念ながら、大学や研究機関に、こうした問題を真面目に捉えて究明しようとする者は見当たらない。「岩波新書」の『昭和史』(青版)にある「あの戦争」を巡る「三つの性格」が意味しているように、それぞれ個々バラバラに、それこそ「水」と「油」の性格として位置付け語られていた内容が、この21世紀においてもいまだ何ら問われることなく、大手を振ってまかり通っているのであるから、私には憤懣やるかたない問題とならざるを得ない。これに関しては拙著や拙論、またこのブログ記事でも述べているところだ。付言すれば、この『昭和史』を批判的に論評した亀井勝一郎も、こうした関係に関する問題は素通りしたままであった。
さらに、私にはそんなややこしい問題は、ただ腹がへるばかりで、一銭の儲けにもならないから、まったく役に立たない、と嘯(うそぶ)いていた先のあなたにも、実は本当はそれこそ死活問題としてかかわる話だということに、気が付いてもらわないと私は困るのだ。ところが、研究者はもとより、メディア関係者も、こうした問題に向き合おうとはしないから、どうにもならないのである。
格差社会の問題を、それこそハーバード大学の研究者や有名なジャーナリストが取り上げ、それをメディアで特集番組として、それこそ大々的に報道していたのだが、私は驚いたものだ。理由は簡単だ。ほとんどの者が、真面目に「民主主義を取り戻せ」、「ニューディール期のアメリカの黄金時代に戻ろう」云々の話ばかりで、それこそタマゲタと言うか、もう絶句なのだ。トマス・ピケティやあのネグリとハートも民主主義を取り戻せの主張だから、「システム」は笑うしかないだろう。
私は思うのだ。その「民主主義」を取り戻せとか、アメリカの「黄金時代」である1950,60年代に戻ろうといった瞬間に、それこそ素朴な疑問なり質問が起こらないのだろうか、と。そもそも取り戻そうとしている民主主義はどのようにして実現できたのか。世界を見渡すとき、その取り戻そうとしている民主主義を、まったく手に入れることなどできない諸地域や人々が存在していることを、私たちはテレビの映像をとおして見つけることができるのだが、そもそもそうした諸地域やそこに暮らす人々が民主主義を実現できないのは、どうしてなのか、と考えるに違いない。
その理由として、彼らの「教育」に問題があるという人がいるのだが、考えないでもわかるのは、彼らは住む家もない、水もない、そんな彼らに教育など無理だろう。私たちが当然としている共同社会なり国家さえつくられていない。彼らは取り戻さなければならないと叫ぶ諸国が宗主国であったところの植民地や従属地の状態に、それこそ気の遠くなるほどの期間、据え置かれていたのである。
その宗主国の民主主義社会の教育は、どうして途上国地域やそこに住む人々の独立や人権を尊重するそれではなかったのだろうか。そうした教育に支えられた民主主義だったからこそ、ある時期にそれを失うこととなったのではあるまいか。そうした関係性を問わないままに、すぐさま、やれネオ・コンだ、新自由主義のせいだとするのはいかがなものだろうか。勿論、それも原因の一つには違いないかもしれないが、取り戻そうとしている民主主義とその実現の歩みの中に、さらなる大きな原因があったのではないか、と問うことも大事ではあるまいか。
すなわち、取り戻そうとしている民主主義と、その民主主義を標榜していたかつての宗主国と、その民主主義の旗の下に侵略・蹂躙されてしまい植民地や従属地に置かれていた諸地域とそこに生きる人々の関係に関しての考察である。すなわち、自由や民主主義と植民地や従属地に象徴される帝国主義との関係である。さらに、そこにはナショナリズム(つまりは主権国家や国民国家)の関係が組み込まれてくるであろう。
アメリカの黄金時代には、分厚い中間層が生み出され、彼らを中心としてアメリカの民主主義の発展はその「高度化」を見た。そのアメリカを始めとした豊かな先進国が出現した時代は、同時にまた「南北関係」が深化した時期と重なっていた。ヨハン・ガルッゥングの説いた「構造的暴力」は、まさにこの南北関係をさしている。それは経済発展の、換言すれば、「衣食足りて」の営為に該当するが、つまりは世界資本主義システにおける豊かな「北」と貧しい「南」の「格差」を問い質す見解であった。そこには、世界資本主義システムにおける「北」と「南」の関係を個々別々にみるのではなく、両者の相互の「一体的」関係を捉える目が垣間見られた。
それでは、こうした世界資本主義システムにみられた構造的暴力の関係は、民主主義の発展には、換言すれば、「礼節を知る」営為に該当するが、つまりは世界民主主義システムにおける「北」と「南」の関係における「格差」ということになろうが、これに関してはどうなのだろうか。
私は、民主主義の発展の関係にも、こうした構造的暴力関係が存在しているとみている。民主主義の発展を、つまりはその「礼節」をわかりやすく言えば、そこには、自由や市民的権利・人権が含まれている。そうした自由なり市民的権利・人権は、「北」と「南」の間で「格差」が存在しており、その「北」と「南」の両者の間には、自由や市民的人権・権利の「格差」が、相互に「一体的」関係として形成されていたと考えている。
こうした「北」と「南」における経済的発展と民主主義の発展の次元における「格差」は、さらに、単に「北」と「南」の個々の格差関係のみならず、両者の、すなわち「衣食足りて」の営為と「礼節を知る」営為の相互の「一体的」関係を(それは「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係として表現される)を構成する、と私は理解している。
こうした観点に立つとき、アメリカの民主主義の黄金時代と、つまりは先進諸国の第2次世界大戦後の2,30年間における民主主義の黄金時代と、同時期の「南」の貧しい飢えに直面した貧困状態との間にはどのような関係が見いだされたのだろうか。そこには両者の「一体的」関係がつくり出されていたのだろうか。
こうした問いにこたえるためには、何よりも私が拙著や拙論で展開してきた「システムとその関係の歩みに関する「モデル」が必要となるのではあるまいか。つまり、「民主主義の発展」と、「構造的暴力」(私はその用語に替えて「構造的圧力」として論じているが、ここではあまりその理由については触れないでおこう。)、つまるところそれは「帝国主義」となろうが、これらの関係を問い質すモデルが必要となるのである。
ところが、これまた驚くべきことに、私たちは、この両者を「水」と「油」の問題として神棚に祀り上げたままであったから、どうにもならない。最初から行き詰ってしまうのだ。誰もそんな問題を考えないままで今日にまで至ったから、当然のことだと言えばそれまでだが、やはりお粗末すぎないだろうか。
両者の関係を「水」と「油」としてとらえる代わりに、2,3歩譲って、「水と油」の関係として「仮定」して新たにこの問題に取り組んでみたらいいのである。その時、どうすれば、少しでも満足のいくような解党が見いだされるのか、そのためのモデルをどのように作ればいいのか、そうした問いに向き合うはずである。そうなって初めて、私の苦労も理解できるだろう、と私はひそかに思うのだ。「仮定」として取り組んでほしいと切に祈る。
その際に重要なことは、まずは「あらゆるものを疑え」ということなのだ。そう言った瞬間、すぐさまわかるのではあるまいか。「自由」や「民主主義」や「人権」などを疑うことなどできないということが。私が言いたいのは、それらを「否定」白ということなどではない。それらをもし大切だと考えるのならば、それらがどのような「関係」の中で実現され、獲得されたかに関して、徹底的な分析が求められてしかるべきだということなのだ。
こうした作業を経たその先に、上で述べた「経済発展(衣食足りての営為)」と「民主主義の発展(礼節を知る営為)」における「北」と「南」の「格差」関係に存在する「一体的」関係が、いつしか転換・変容せざるを得なくなることに気が付くはずである。そうした作業の中で、覇権国を頂点とする「力」と「力」の暴力関係から構成される覇権システムの存在に出会うこととなり、そこでさらなる失意のどん底に陥ることは必至となるに違いない。
そうした思いを経験した後で、これまでとは異なる「理解」というか「苦い味わい」の仕方を身をもって体験するに違いない。「帝国主義」の意味は、ただ単に経済的資本主義の「進化」において見出される、そのような薄っぺらい、皮相的な現象ではなく、「私」自身の存在が、また「私」と「あなた」と「私たち」の関係それ自体が、まさにその象徴だということに、今さらながらの思いの中で、嫌というほどに打ちのめされるだろう。(続)
(最後に一言)
「システム」の「外」というか「横」の「共同体」の在り方を考えるのは、少しだけそのまねごとみたいな、真似事にもならない経験をしたので、やはり正直、私には書けそうもない。そんな思いが今なお、残存しているせいか、前回の米中関係に関する記事にやはり何かしら思いが残り、今回また、このような話となった次第である。次の記事で、おおよその「おさらい」ができると考えている。今回かきながら、同じような話をしているのだが、伝え方が以前とは「少しだけ」、あるいは「大いに」違っていることに、我ながら感じるのが、何よりの楽しみである。勿論、世の中はすさまじく厳しさを増していることは自覚し自戒すべきだが。