日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

(補論・追加版) 大谷翔平選手に絡んだ例の事件を私の語る「システム」論から捉え直すとき

2024-03-30 | 日記
*前回記事(2024,3,29)の(補論)を掲載した後で、その前の記事(2024,3,28)の後に追加して編集し直した方が、私の意をより適切に読者にお伝えできると考えて、今回記事の形にした次第。内容は同じであることを申し添えておきたい。


(補論・追加版) 大谷翔平選手に絡んだ例の事件を私の語る「システム」論から捉え直すときー私は一体どのような社会の実現を目指しているのか7ーそのためには、先ずは私が一体どのような社会の中で生きているのか、それを確認する作業から始めなければならないだろう




 今回記事は、やはり米大リーグをいま激震させている感のあるドジャースの大谷翔平選手に関係している?とされている違法?な多額送金の話題から始めなければならないだろう。勿論その際、私の語る「システム」論からそれを捉え直してみたいのだが、前回記事での「事実」や「真実」に関する認知レベルにおける「原始時代」状態云々の私見を披歴していたが、その時にも大谷氏にまつわる事件?を念頭に入れて書いていたのである。


 結論を先取りして言えば、私の語る「システム」論はいつも「仮説」であり、それゆえいわば「架空」というか「虚構」の世界・セカイの物語であると何度も指摘してきた。それは、私たちが得ている情報のほとんどが事実か眞實かどうかはっきりとしないというかし難い「資料・材料」を基にして語られているからである。しかもそれを私たちに論評したり紹介・伝達しているのが、これまた毀誉褒貶するのを常とした正体不明というか、最後の最後まで掴み切れない厄介な人間を介しているからである、と私はみている。


 だが、それはそうだとしても。だからと言って、何も語れないということでもない。たとえば、確かにその「死因」を巡り錯綜した事実や真実らしき資料の山に直面して迷いに迷いながら死因の特定ができなかったとしても、それでも確かに誰かが死亡したということだけは真実でありまた事実であるのは疑う余地のないことだから。こうして私たちの周りを見渡すとき、そこから確かに「殺し合い」の世界・セカイは存在しているのは疑いを得ない。


 それは私の語る「システム」論がどれほど仮説であるとか虚構の世界・セカイを描いているとしても、それにもかかわらず、その世界・セカイにおいて強者が弱者を支配し服従させる「親分ー子分」関係を前提とした力(暴力)と力(暴力)を介した自己決定権の獲得とその実現を巡る争奪戦の世界・セカイとしての覇権システムの存在を否定することはできないだろう。それは、私たちが覇権国とか超大国として論及してきた国家の存在を疑うことを許さない。


 そこから差別と排除の関係を前提とした世界・セカイの存在も確認できるのではあるまいか。私はそうした事実や真実までも否定するものではない。むしろ、こうした観点から私たちの周りで飛び交う事実や眞實とされてきた「嘘」の情報に接し直すことが肝要であると主張したいのである。こうした観点から先の大谷問題を見直すとき、少なくとも以下のことだけは言えるのではあるまいか。


 先ず、大谷氏がどれほど自らの潔白を、つまり自分は「白」であると語ったとしても、残念ながらその前に語っていた水原氏の主張すべてを覆すことは不可能に近いということだ。つまり、そこには、私たちが水原氏と同じような「共犯」関係の中で生きているということを、私たち自身が覆すことができないということではなかろうか。すなわち、私たちは「白」か「黒」か、はたまた「灰色」であるかを問う前に、あるいは裁判において「有罪」であるか「無罪」であるかを裁かれる前に、、またいかなる裁判と無関係・無縁な存在であるとしても、それ以前において既にある種のそんなに簡単に割り切れない関係の中で生きていることを、どこかでおぼろげながらも感じ取っているのかもしれない。


 それはたとえば、自己決定権の獲得とその実現に際して、つまり個人レベルでは「自由」を、共同体レベルでは主権を獲得してその実現を図る際に、私たちが「親分ー子分関係を前提とした強者と弱者の、差別し排除する側と差別され排除される側の関係を前提とする社会の中で生きているということを、各人はその齢を重ねるごとに、それを意識するかどうかは別としても、各人各様の仕方において、身をもって悟っていくのではなかろうか。私は、そうした差別と排除の関係をつくり出す「親分ー子分」関係を、{[A]→(×)[B]→×[C]}の、あるいは{[B]→(×)[C]→×[A]}の世界・セカイとして描いてきたのである。


 それゆえ、私たちの白か黒か、清と濁とか、善と悪とか、正義と不正義とかに関する二項対立的問題は、既にそれを問う私たち人間自身がその議論の前に、またそれを意識するかどうかは別にしても、先の「親分ー子分」関係と差別と排除の関係から構成される社会の関係を前提として語っていることを、私は強調しておきたいのである。それゆえ、大谷氏と水原氏の白黒対決問題を前にした際の私たちのどこか割り切れない何かが見え隠れする態度なり感情は、そうした私たちが生きている社会の関係がそこに投影されているからではなかろうか。


 その際に私が残念だと思うのは、そうした態度なり感情が引き起こされる原因成り背景にまで、私たちは目を向けようとはしないということだ。それを突き詰めていけば、覇権システムや「システム」の存在とそれが抱える問題にまで行きつくのではあるまいか。もっとも、それをさせないように、逆に覇権システムと「システム」は用意周到に、アレコレの障碍となる妨害物となる様々な情報提供を「システム」ご用達のメディアとその利害関係者として奉仕する知識人やジャーナリストや学者を使って曖昧模糊としていくことを怠らないのは言うまでもないのだが。


 大谷氏も水原氏も、共に私たちと同様に私の語る「システム」の中で生きているということを、彼らの白対黒、あるいは灰色論叢の前に確認しておいた方がいいのである。完全なる白など存在しないのだ。彼はクリーンな人間だという際の「クリーン」は、あくまでも私の語る差別と排除の関係から構成される社会の構成員であることと何ら矛盾しない物言いであることを、私たちは再度確認しておいた方がいいのである。


 それはシステム人である大谷氏も例外ではないのだ。勿論、同じシステム人であっても、そこに白だとか黒のレッテルを張ることはできる。またクリーンだとかダーティイだとかの見方も可能である。だが同時にその際に忘れてならないのは、それにもかかわらず私たちは「白対黒」、「善対悪」、「正義対不正義」の議論の前に、先の「親分ー子分」関係における差別と排除の関係から構成される不条理な社会を構成している一因であることを、二項対立的議論を始める前に自覚しておく必要がある、と私はこれまで何度も主張してきたのである。こうした話を前提としながら、さらに論を展開していきたい。


 大谷氏が属する米大リーグ機構は、覇権システムを構成する一つの要素であるのは否定できないということ、それゆえ大谷氏をはじめ気候に属するメンバーはシステム人であるということ、これはどのような事実や眞實らしきことよりも、疑いを得ない事実であり真実であるということである。それゆえ、覇権システムと「システム」には逆らうことのできないシステム人として存在することを許されているということである。その意味では、私たちも同様な存在として位置づけられるのだ。たとえそこから得られる給料というか年俸にどれほどの開きがあろうとしても。


 ここをまず押さえておくことが何よりも重要となる。大谷選手を巡る「世紀のスキャンダル?」云々の情報を私たちに垂れ流すのは、この覇権システムと「システム」のご用達のメディアとその関係者であることを踏まえれば、彼らの情報は覇権システムと「システム」を攻撃するものではないことは一目瞭然だろう。いつも問題というか元凶は覇権システムと「システム」であるにもかかわらず、そうした点を踏まえた情報の発信は最初から期待できないものばかりなのだ。


 せいぜいが賭博の違法性がどうの、大谷と水原のこれまでの兄弟関係がどうの、大谷の口座から多額の資金を奪い去ることが本当に可能なのか等々の次元の話でおそらくは終始して、それでやがては決着するのではあるまいか。そもそもおかしいというか、どうにもならないことなのだが、賭けごとは賭けごとであり、違法化合法化に関わらず、そこから借金で首が回らなくなる者が出てきて、その結果として家族の悲劇を繰り返させるのは否定できない。これまた事実であり真実ではなかろうか。それをギャンブル依存症問題だけで済ませてしまう私たちの社会も相当におかしいというか怪しい。そこには依存症=病気=異常が、また依存症ではない=健全=正常といった二項対立的思考が見え隠れしている。


 これに関連して言えば、私は以前のブログ記事で、勝新太郎主演の「座頭市シリーズ」番組や中村敦夫主演の「木枯し紋次郎」の番組の中で出てくる「ばくち」の場面を何度も踏まえながら、賭けごとで墓穴を掘って自らの首を絞めたり、娘を身売りさせたり、あるいは一家離散になる場面と現代の私たちの社会の関係を論及していた。今でもパチンコ屋競馬、競艇、その他のスポーツ籤、麻雀、カジノといろいろな賭けごとがある。さらに、安倍元首相襲撃事件での統一教会がらみでのツボ等を介した多額の寄付金?等々、これまた枚挙に暇がないが、こうした話は背後に相当数の泣き寝入りをせざるを得ない家族の姿が思い浮かんでしまう。


 誰がその合法賭博で儲けることができるのか。その儲け金は、確かに米国の州財政にプラスとされるかもしれないが、そもそもギャンブルに依存しなければ州財政が苦しくなる米国の経済状態とは、やはりおかしなことではあるまいか。一部の者だけが潤い、その他大勢は貧困ライン近くに落下していくのを許すような経済の問題こそが問われるべき問題なのだ。そうした社会では、どうしても一か八かの賭けごとに人生の逆転で気を夢見る者が出てきてもおかしくはないだろう。いまや政府をはじめ日本社会全体が賭けごとに興じる様を呈している。


 それに関連して言えば、かつての先進諸国に暮らす私たちの社会の経済は今やカジノ経済と揶揄されるほどの投資に特化した金融・サービス化経済であり、それこそ政府と財務省や日銀が先頭を切って賭けごとに狂奔していると言えるのではあるまいか。そこには米国を始めとするかつての先進諸国における金融・サービス化偏重の経済と金融バブル経済の仕組みが大きくかかわっているのは否定できない。


 さらに、そうした米国を始めとした先進諸国の経済の偏った発展の有様は、先の覇権システムと「システム」の発展(前回記事での{[B]→(×)[C]→×[A]}の、あるいはこれまでの記事で描いてきた{[A]→(×)[B]→×[A]}の歩み)に大きく与っている、と私はみている。そうした歩みの原動力となっているのは、言うまでもなく、「親分ー子分」関係を前提とした差別と排除の関係とそれを基にしてつくり出されてきた過去から現在に至るまで続く私たちの人間社会である、と私はみている。


 ところで、こうして見てくると、合法賭博にまで米国市民の批判の声が及ぶことを覇権システムと「システム」の利害関係者連合グループは危惧したのかもしれない。何しろそこにスーパースターとなった大谷の名前があったのだから。それゆえ、違法化合法賭博問題に話題を絞り込んで、米国民の関心や批判の目をそこに集中させることによって、大谷問題から米国経済の抱える問題へと焦点が移らないように、先の「システム」ご用達のメディアとその関係者は動かされた、と私はみている。


 こうした争点のすり替えは、今のロシアやウクライナ、イスラエルとパレスチナ等々の問題を巡る報道にもはっきりとみられるのではあるまいか。ここでもまた、どちらかが善であり、正義を体現しているとの話を前提としながら、ロシアやパレスチナのハマスが「ウ」ソを垂れ流している云々の話で満載のメディア上方のオン・パレードだ。それは上で紹介した大リーグ機構のドジャースの水原氏と大谷選手との二人のやり取りに関する情報を踏まえた時にも、そうしたウソというかどこに眞實や事実があるのかどうかの問題に関しても該当するのではあるまいか。


 こうした点をさらに論究する前に、今一度これまで述べてきたことを少し整理し直しておきたい。私たちの多くは一般には、最初に報じられた情報に対して、私たちはその真偽の如何を問わず大きく影響されてしまうのは致し方ない。さらに、その第一報を流したとされる当の本人が、嘘だったと前言を翻してしまうと、これは相当に何かの圧力が働いたのではないか、何かの取引がなされたのではないか等々と、もうそこから制御できないほどの情報の受け手側において、想像というか憶測が次の想像、そしてそこからまた次の憶測へと次々に繰り返されることになる。


 そうする中で、何が真実だったのか事実は何であったのかさえ分からなくなってしまう。もし、大谷選手を貶めたいと願う者たちが背後にいて、水原を使って世紀のスキャンダルに仕立て上げたとすれば、そしてそれによりこれまで彼らが奪われてきた諸価値を取り戻そうとしているとすれば、と私は推測してしまうのだ。いずれにしても、大谷選手本人には何の非もないとしたとしても、これでこれまで積み上げてきた「クリーンな」イメージの失墜は免れないだろう。


 これに関連して言うならば、先日のロシアモスクワ郊外でのISによるとされる銃乱射事件とそれによる多数の市民の死傷、さらにそれに関連したプーチンの事前に襲撃計画の把握、そこにウクライナが、つまりは米国やNATOが絡んでいたのかどうか云々の情報と、これまた事実というか眞實がどこにあるのかといった話とも類似している。それこそ枚挙に暇がないほどに、「真実」や「事実」とされる情報の大洪水の中で、私たちはその真偽を確かめようがないはずなのだ。ところが、やがて、その中からこれが事実だとか真実だという何かが報道され、それで一応は落ち着く。


 そうしたことを踏まえるとき、私たちはどうしても本当にそれを信じてしまっていいのかという大きな問題に直面してしまい、そのためにその後もああだこうだとの論争というか議論が続いていく。だが、それにもかかわらずはっきりとした事実や真実は存在している、と私は強調しておきたい。それは以下のような話だ。すなわち、絶えず「殺し合い」の世界・セカイの中で私たちは生きてきたし、今も生きているということだ。


 その代表的事例として戦争が挙げられよう。その戦争によってその当事者の中の誰かが勝利品を獲得し、逆に敗北した側が勝者のルールを強要されるということである。そして戦争は大きな利益を社会の中の誰かにもたらすということだ。戦争には武器は必要であり、その武器はどこかの企業が生産と販売に与ることから、そうした兵器・軍需産業に関連した企業は大きな利益を戦争を介して獲得するのは言うまでもなかろう。


 このような観点から見るならば、戦争で命と暮らしを犠牲とされる者があるのも否定できない事実だが、それに対比される犠牲を強いる側には、領土を拡張したり、戦利品としての巨額な賠償金や相手国の領土内に勝利した側が欲する鉄道や鉱山や港湾を自由に使用できる権利を何十年、数百年にも及び獲得するといった事実や真実が確認できる。そして、そうした勝利を決定づける大きな要因として、優れた武器・兵器を生産できる防衛とその各種関連産業の発展は必要不可欠となる。そしてそうした産業が社会の中核を占めるにつれて、戦争を絶えず必要とするのも否定できなくなる。


 先ずはこうした動かしがたい眞實や事実を基にして、私たちの生きている社会を捉え直すことが何よりも大切な作業である、と私は言いたいのだ。その際、いきなりある戦争を「デモクラシーを全体主義勢力の暴力から守るための戦争」であったと位置づけ理解する前に、すぐ上で述べた戦争に関する事実というか眞實にこそ目を向けるべきである、と私は強調しておきたい。そうした戦争に関する事実を鑑みるとき、そこから次のようなことが引き出されるのではなかろうか。


 すなわち、戦争はまさに自己決定権の獲得とその実現を巡る争奪戦であるという事実であり真実であるということだ。勝者は敗者を彼らの自由に扱うことができる。つまり勝者に従属させることができる。彼ら敗者を奴隷とすることもできる。勝者は彼らに都合のいいような「衣食足りて礼節を知る」営為の関係を敗者との間において創ると同時に、その営為の関係を敗者や従属者たちに押し付けるのだ。当然ながら、その営為の関係は、敗者には受け入れ難い「衣食足りて」の営為であり、また「礼節を知る」の営為であるのは否定できない。


 そこから差別し排除する側と差別され排除される側の関係がつくられていく。その関係の中で前者は親分としての地位を、後者は子分としての地位をそれぞれ引き受けることになる。これこそが私たちの古代ギリシャの時代から21世紀の今日まで続く眞實・事実として描かれる社会ではあるまいか。先ずはこうした点にこそ私たちは目を向けるべきなのだ。それはロシアのウクライナ侵攻とウクライナに味方する米英諸国連合においても、イスラエルのガザ攻撃とその両者にそれぞれ味方する勢力関係においても、何ら変わるところはない、と私はみている。


 すなわち、私が言いたいのは、私たちの世界・セカイを語る際に、「脚色」されることの少ない出来事を、事実とか眞實といった検証・検討作業を行うときには、それを基にして議論を始めた方がいいとのことなのだ。それが何ら見直しもされないままに、私たちはこれまであまりにも勝手な論争を繰り返してきたと、私は言わざるを得ない。本当におかしなことなのだが、それをさももっともらしく私たちはしてきたというのが、私には事実であり真実ということである。


 すぐ上で指摘したデモクラシーによる全体主義の暴力からの防衛と解放云々の話は、今日においても当然のごとく論じられているのだが、その反面において、私たちはそうしたデモクラシーなり全体主義がどのような社会を前提としてつくり出されてきたかという問題に対して、あまり真剣には向き合うことなく、むしろスルーしてきたのではあるまいか。いずれの陣営においても、武力を前提として力を増大・増強させながら、彼らの支配地域を拡張してきたという事実は否定できないだろう。


 ところがそれらの事実を、それぞれ異なった解釈によって、誰かに都合のいいような「歴史」とその解釈を創っていくのではあるまいか。たとえば、先のデモクラシーによる全体主義の勝利とかのように、である。だが、そうした武力・暴力を介した軍事的侵攻というか戦争と結びついた帝国主義と自由や民主主義の実現との関係についての議論は入り口からスルーされたままである。


 それは最近のネット記事で紹介されていた東京新聞に掲載の矢部武(ジャーナリスト)氏による中野博文著『暴力とポピュリズムのアメリカ史 ミリシアがもたらす分断』の書評、東京新聞 提供にも垣間見られるのだ。その諸表において、ーーー本書の最後には、「合衆国憲法で銃の所有を市民の権利として認めるアメリカには、自由を守るためなら、暴力の行使もいとわない気風が満ちている」と書かれているが、ーーーのくだりから、私は以下のような問いを発する必要性を感じた次第だ。


 それは、「合衆国憲法」→「銃の所有を市民の権利として認めるアメリカには、自由を守るためなら、暴力の行使もいとわない」云々の関係を前にしたときに、それではその暴力の行使を厭わない」アメリカ社会をつくり出した合衆国憲法を誕生させたものを考えるとき、それもまた市民革命という独立戦争を介した暴力ではなかったのかという問題である。すなわち、〈暴力→憲法→暴力を許容する自由〉という流れが浮かび上がってくる。


 私はこうした流れを、今回記事で述べていた「親分ー子分」関係を前提とした差別と排除の関係の中で、すなわち覇権システムと「システム」の中でとらえ直すことを主張したいのだ。すなわち、私たちが手にしている自由や民主主義、人権は戦争や侵攻を介した暴力行使を抜きにしては実現されなかったという事実であり、それは揺るがしようのない真実であることを、先ずは了解事項とすべきなのだ。なお、矢部氏の書評の内容に関しては、何ら異を唱えるものではないことを、ここに記しておきたい。




*(補論)大谷翔平選手は、言うまでもなく「真っ白」だ。かれの潔白を信じきれないのは「システム人」の性(さが)でしかない
〈(2024,3,29)の記事を前回記事の続きとして貼り付ける。〉
 今回はできるだけ短く述べるとしたい。前回記事の補論として話しておきたい。残念ながら、私たちは覇権システムと「システム」の中で生きていることから、システム人としての性というか、どうしようもないほどに、心底信じあうことができないのだ。それは無理もない。「親分ー子分」関係の中で、差別と排除の関係を前提とした社会の中で暮らしていることから、いつも周りの人たちを警戒しながら生きざるを得ない。そんな人間は絶えず他の人たちに対して嫉妬したり、蔑(さげす)んだりするのを当然としている。逆に、そうされることを予知・予想しながら身構えて生きている。、


 いつも自分よりも力の強い者には媚び諂い、平身低頭で我慢しつつ、自他ともに偽りながら、逆に力の弱い者に対しては傲慢・横柄な態度で見下しながら、誰かに抑圧されたり、逆に抑圧したり、差別され排除されたり、逆に差別したり排除したりと、情けない生き方を基本とした私たちの人間関係を鑑みれば、大谷翔平選手は手の届かない素晴らしい人間であることを誰も疑いを得ないはずなのだが、逆にそうだからこそであろう。少しでも何か問題が生じたりすると、私たちの尊敬の念は、所詮こうしたシステム人の性を免れないことが、今回の騒動を契機として露呈された、と私はみている。


 大谷翔平選手は真っ白だ。もし少しでも疑いをはさんでいる人がいれば、すぐさまそんな悲しい性根は見直した方がいい、と私自身もどうしようもないシステム人ながらも、今回記事において、彼らに訴えておきたい。



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私は一体どのような社会の実現を目指しているのか6

2024-03-22 | 日記
 私は一体どのような社会の実現を目指しているのか6ーそのためには、先ずは私が一体どのような社会の中で生きているのか、それを確認する作業から始めなければならないだろう




 前回記事を書いてから、また気分は落ち込んでしまった。ロシアによる戦争とイスラエルによる「ホロコースト」を彷彿とさせる暴力行使を、誰も止められないという現実を前にして、これまで私たちが「常識」としてきた歴史教育の抜本的・根本的修正ないしは改変が求められているのではないか、と私は言わざるを得ない。それを一口で言うならば、ある特定の歴史の再認識や再解釈を前にしたとき、それらをこれまで「歴史修正主義」として批判する側に位置していた「あるべきとされる歴史像」の「修正」こそが先ずは必要だということに尽きる。


 私が何よりも危惧しているのは、たとえば私の語る「システム」論で問題提起してきたいわゆる市民革命時に発せられた「普遍的価値」とその実現の歴史である「普遍主義」を真っ向から批判する拙論それ自体も、歴史修正主義として批判される日が来るのではないかということなのだ。さらに、市民革命以降の近代憲法や国連憲章、日本国憲法等の一連の批判も厳禁とされるかもしれない。


 私からすれば、それこそまともな歴史研究なり解釈を伴わない歴史を神棚に祀り上げて、それを前提として「システム」に不都合な歴史研究や解釈を、歴史修正主義として一括りに批判されるとすれば、私にはどうしても許しがたい暴力であると言わざるを得ない。いわゆる歴史修正主義とされてきた主張や解釈の検討や検証は、これまであるべきとされてきた歴史像の検討なり検証作業を経た後に初めて行われるべきである、と私はみている。




 ところで、不謹慎な物言いであることを承知の上で言うならば、今のこの時点は、私たちが辿ってきた市民革命以降の「歴史」を捉え直すことのできる格好のチャンスとでもいえる時期なのではあるまいか。これまで私たちの常識とされてきた歴史認識とその解釈が、根底から揺らぎ始めている。ナチス・ドイツに代表される「全体主義」体制を打倒したとされる「自由民主主義」体制も、無慈悲な暴力行使によって多くの民間人の命を奪ってきたことを、私たちはイスラエルによる残虐非道な戦争を介して学び直している最中である。


 言うまでもなく、今のイスラエルによるパレスチナ人に対する虐殺行為を始め、冷戦崩壊以降の中東湾岸諸国での米国による無謀な戦争、さらには第二次世界大戦中における日本に対する原爆投下の歴史を、私たちは書き改めなければならないのではあるまいか。ところが、当のかつては西側先進諸国とされた欧米社会も日本社会も、それを引き受けることは絶望的と思われるほどに、「グチャグチャ」状態と化しているのである。


 誠に残念至極というしかあるまい。社会の混乱に加えて、私の語る「システム」の提供する「システム」ご用達のメディアとそこに加わる知識人は相も変わらぬ無責任な情報伝達を繰り返すのだから、どうしても格好というか絶好の機会を活かすことは難しいとなるのも仕方はないのだが、それにしても残念というか口惜しい限りだ。これほどまでにネット情報を利用できるにもかかわらず、そこから描かれる私たち庶民を主人公とする物語が、せいぜいなところ「陰謀論」談議に終始してしまい、そこから「歴史」の全体像を検討・検証する作業へと私たちを導く論の展開とはならないのである。


 それにしても、ここまで社会がグチャグチャ状態と化してしまうと、一体どこに眞實や事実とされるものがあるのかというコミュニケーションが最初から成立しない認知レベルにおける原始時代の中に私たちはおかれているということではあるまいか。だが、それにもかかわらず、私たちは今AIに象徴されるIT時代に生きている。このギャップ を埋め合わせる力を私は保持していない。残念ながら、時代のスピ-ドについていくことができないのだ。そこには目の不自由さや高齢者となってしまったことも与っているのは間違いないのだが、もはやコミュニケーションというか会話が成立しないことが大きな原因である、と私はみている。


 国会でのあれほどのウソの大洪水を前にして、それでも社会はそれなりに一日一日と過ぎていく。不思議なことに、あれだけのウソをつきながらも、またこれほどのホロコースト犯罪をしでかしながらも、社会は外見的には保たれている。おかしなことだが、そんな社会に生きていると、もう何でもありとなってくる。そんな中で、たとえ理不尽極まりない言動や行動であるにもかかわらず、ある者にはそれが罪とならないで許されてしまう。多くの者にはそれはオカシイと知りながら、そんな理不尽さがまかり通る社会の中で生き続けてしまう。本当におかしな社会である。


 そんな社会で暮らしている人間は、いつしか自分の判断基準というか物差しを使うことの愚かしさというかバカらしさを覚えてしまい、もうエエカッコウしながら生きていくことをやめてしまう。換言すれば、押し付けられてきた社会道徳規範に従って生きることのアホらしさを卒業しようとする。国会議員や総理大臣や官僚を筆頭に、彼ら自ら率先して自己保身の塊となって、自分とその身内だけの命と暮らしを守る安全保障を最優先課題として、金儲けに邁進している姿をいやというほど見せつけられる中で、庶民もまた自らの生活防衛に努めようとする。


 勿論、庶民の多くにとってそれは難しいことから、どうしても「寄らば大樹の陰」を目指すこととなる。これは相当に危険というか怖い傾向であるのだが、その流れは押しとどめられそうにもない。何か大きな力を持った人間集団の後についていく、そんな生き方をせざるを得なくなる。その力を得た後で、自分たちよりも弱い者を見つけては攻撃して、これまでの憂さ晴らしをしようと努めるのだ。これらの動きは、既に右や左のポピュリズムや移民排斥運動等々に示されている。


 私の語る〈「システム」とその関係の歩み〉によれば、先の自己破壊・破滅的運動は、1970年代以降から今日に続く{[B]→(×)[C]→×[A]}(なお、モデルは共時態型、省略形)の世界・セカイの中でのAのかつての先進諸国が引き受けている「システム」の「段階」における低度化の特徴であるⅡ’期の[経済発展→分厚い中間層の解体]を経て、Ⅲ’期の[分厚い中間層の解体→民主主義の発展(低度化)]へと社会の姿が変貌している真っただ中にあるのだ。


 これに対して、Bの先頭を走る中国やその他のブリックス諸国とCの諸国を含めたいわゆる「グローバル・サウス」を構成する国々は、「システム」の高度化の段階に位置している。Ⅰ期の特徴である[権威主義的性格の政治→経済発展]の段階から、Ⅱ期の[経済発展→分厚い中間層の形成]の段階に至る範疇に区分される中で、各国はしのぎを削りながら、来るべき社会の実現に向けて、悪戦苦闘しながらも邁進中である。


 こうした{[B]→(×)[C]→×[A]}の世界・セカイの中で、Aにおけるかつての先進諸国の庶民の多くは、面白くもない世の中で面白くない日々を生きているということになる。その現実はこれからも変わることなく続いていく、と私はみている。それゆえ、そんなAの低度化がますます深刻化する中で、私はたとえどれほど社会がグチャグチャ状態と化しているとしても、その低度化の中でも、なんとかして私たちが生き残れるための社会の条件を考えてみたいのである。


 そんな私の思いを踏まえるとき、今の国会に示される国内政治の惨状は、また国際政治における袋小路というか八方塞がり状態は、それこそ前途多難というか展望はあまり見えてこないというのが正直なところである。この状態から脱するのは、たとえば政権交代を実現したところで、どうにもならない話である。さらにはどこかの国の大統領が別の誰かに替わったとしても、何ら変わるところはないだろう。


 私たちが向き合うべき対象は、あくまでも{[B]→(×)[C]→×[A]}の世界・セカイであると同時に、その中のAの社会である。こうした〈「システム」とその関係の歩み〉をその視野の内に含む政権交代論でない限り、またそれは米中関係問題を巡る議論においてもそうなのだが、ほとんど何も意味を持たない、と私は言わざるを得ない。それゆえ、今一度、このあたりで自由な民主主義体制はどのようにして形成され発展してきたのかについて、私たち一人一人が真正面から格闘する時期に来ているのではあるまいか。何度も言うのだが、今まさにそうした作業をする上で、好都合な時期に私たちは位置しているのだ。



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(追記・追加版) 私は一体どのような社会の実現を目指しているのか5

2024-03-10 | 日記
私は一体どのような社会の実現を目指しているのか5ーそのためには、先ずは私が一体どのような社会の中で生きているのか、それを確認する作業から始めなければならないだろう




 たとえばカントの『永遠平和のために』を、あるいはトルストイの『戦争と平和』を、
サルトルの「実存主義」やガンジーの「非暴力主義」に関する「ユーチューブ」での(解説・紹介)を念頭におきながら、パレスチナのガザ地区での筆舌に尽くしがたいと思われる凄惨な人殺し現場の前で、あるいは東京電力福島原発とそこでの処理済み原発汚染水の海洋放出の現場を目の当たりにしながら、あれこれと思案するとき、正直なところ、私には何も思い浮かぶことはないのだ。


 先の著作に関して詳しくいろいろと教えてくれるそれらの開設・紹介が悪いというのではない。むしろありがたいと感じているくらいだ。問題はそこにあるのではない。それらの内容が戦争現場や原発現場を端的に象徴している差別と排除の関係を前提として展開されてきた自己決定権の獲得とその実現を巡る暴力とその集約としての覇権システムとその抱える問題に対して、何も有効なメッセージを提示してはいないということである。


 もっとも、これは私はそう感じるとの独断であるに過ぎない。読者はおそらくはそんな風には思わないかもしれないし、また私のような上にある条件設定などはしないかもしれない。さらに誤解のないように付言すれば、これらの著作やそこでの主張は、それはそれだけで意味のある内容であるのは私も認めるというか、世間一般の評価は高いのだが、それにもかかわらず、先に取り上げた戦争や原発問題に対して、彼らの教えを手にしながら、なんとかアプローチを試みても、何も考えが出てこないのだ。それはどうしてなのか。




 私は議論の出発点として、いつも私の語る「システム」の「歴史的制約制」を前提としている。すなわち、私たちが哲学的思想的営為を試みるときに、私たちは〈「システム」とその関係の歩み〉のどの「地点」に位置していて、どのような「段階」の中で生きているのかを、議論の大前提としなければならない、と私はみている。すなわち、私たちはこの世に生を受けた時には、私の語る「システム」の差別と排除の関係の中に放り出されるのだが、その地点と段階は一様ではなく、それこそ差別と排除の関係を甘受せざるを得ない、と私は考える。


 私が拘泥するのは、哲学的・思想的営為には当然ながらこのような歴史的制約性を所与の前提とした論の展開が要請されるということだ。換言すれば、もしそうでない営為だとすれば、それは最初から「システム」の差別と排除の関係とそれがつくり出す宿痾に向き合う論の展開など不可能だということである。それゆえ、「システム」から見れば、それらの営為は痛くもかゆくもない、むしろ大歓迎される代物なのだ。つまりは、私たちの命と暮らしを守る安全保障に危害を加える「システム」に対する哲学・思想上の防波堤というか制御柵となることができないことを意味している。 


 勿論、だからと言ってそうした営為が無意味であるということでもあるまい。それが証拠に、今でも多くの読者がそれらの著作や主張に賛辞を贈るのを惜しまないのだから。だが、私はそうであるからこそ、「システム」は今後も、その維持とさらなる発展を約束されているというしかないのだ。それは「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウを不可避とする私たちの社会が今後も続いていくということを意味している。それは戦争や原発を金の成る木として組み込んできた「システム」の存続に手を貸すことを意味している。


 (追記)


 私がこれまで訴え続けてきたのは、たとえば近代について、自由主義について、民主主義について、社会主義や共産主義、権威主義や全体主義について、あるいは普遍的価値や普遍主義について、正義や善について、さらにはナショナリズムとか「民主と愛国」とか、三民主義や歴史等々について語るとき、私たちの社会を刻印付けている差別と排除の関係とそうした関係をつくり出す自己決定権の獲得と実現を巡る暴力を介した争奪戦とその集約である覇権システムを、所与の前提としてそれらの議論の内に組み込まない限りは、結局は何も語ってはいないとの私の主張であった。


 おそらく、それゆえ私からすれば、これまでの哲学・思想の多くの著作物は私たち人間社会における根源的関係としての差別や排除の関係とそれをつくり出す「親分ー子分」の暴力関係を、議論の最初から不問に付すような類のそれらであったようにしか私には思われないのだ。それゆえ、私たちが呻吟してやまない人間世界の暴力関係を介した先の諸問題に対する踏み込んだ議論ができないままにある、と私はみている。



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私は一体どのような社会の実現を目指しているのか4

2024-03-09 | 日記
私は一体どのような社会の実現を目指しているのか4ーそのためには、先ずは私が一体どのような社会の中で生きているのか、それを確認する作業から始めなければならないだろう




 「神は死んだ」とされてから久しい。だが、私からすれば、「人間も既に死んでいる」ように思われて仕方がない。人間が神を創ったとしても、だからと言って、その人間が何でもできるとなった瞬間に、絶対に譲り渡すことのできない何かを、人間は自ら葬り去ったのだ。その絶対に譲り渡すことのできないという生き方というのか、そこに込められた生きる姿勢とでもいうべきなのか、それを手放した瞬間に人間は人間ではなくなったのだ。もはや人間の尊厳がどうの、基本的人権がどうのと言ってもそれが先の人間の生きる姿勢を失ってしまった社会においては意味をなさないのである。


 こんな社会の中でいくら生への肯定を叫んでも、あるいはどう生きるべきかを説いたとしても、もはや意味をなさない。というのも、既に人間は死んでしまっているからだ。もしそうであるとすれば、それではこうした死んでしまった人間を取り戻すというのか生き返らせることが、私たちの今の社会において、はたして可能なのだろうか。AIや遺伝子組み換えが当然とされる社会において、はたして可能なのだろうか。




 もはや誰も人間の作った信号機を守ろうとはしない。横断歩道を歩いている人間の横を、赤信号であるにもかかわらずそれを無視して突っ込んでくる一群の生徒たち、大人たち、挙句はスマホを片手に、人間を見ようともしない既に死んでいる人間たち。そんな光景を目の当たりにしながらも、誰も中位さえしないで、「危ないなあ」と思う、これまた死んでいる者たち。そんな既に死んでしまった社会の中で何か生きる意味を持とうとする人たちがいるとすれば、もうこれほどに滑稽な社会はないはずだろうが。


 人間であるとすれば、絶対に譲り渡すことをしてはならないはずの生きるこだわりというのか、こだわるふりをまずは取り戻すべきことから始め直す必要がある。それは赤信号では止まる。青・緑になるまで待つということから始め直すことだ。これができて初めて死んだ人間から生き返られるのだ。ルールというか規則は守らなければならない。


 もし「人を殺すなかれ」という規範を破る者がいれば、それは直接的であるか間接的であるかを問わず、それに見合った天罰が当然のごとく与えられ罰せられなければならない。そこに例外を認めてはいけない。たとえ社会の指導者であっても、たとえ戦時の社会であっても、それが適用されなければならない。先ずはここから見直さなければならない。プーチンであれ、ゼレンスキーであれ、ネタニヤフであれ、ハマスの指導者であれ、バイデンであれ、オバマであれ、岸田であれ、すべて例外なく扱われるべきなのだ。




 これが人間の存在や尊厳にとって、すなわち死んだ人間ではなく生きている人間の社会においては、絶対に譲渡すことのできない生きている人間の集まる社会における生き方であるとされなければならない。これを守らなければ何も始まらないということだ。ところが、今の私たちの社会はどうであろうか。ルールはあるにせよ、守らない者の方が多い社会となってはいないだろうか。上から下まで社会のどこを見てもそんな死んだ人間ばかりで溢れているではないか。もうこれ以上、こんな社会の中で死に続けるのはまっぴらごめんだと叫ばなければならないはずだ。それができて初めて生きている人間に生まれ変われるに違いない。末人でもなく超人でもない、その人を取り戻すことからやり直す。それこそ私たち死んでしまった人間から構成される社会の死んでしまった者たちの取り組むべき課題ではあるまいか。




 人間がつくったルールというとき、それはただの人間ではない。いわゆる人間社会における親分が子分との間でつくったのである。それゆえ、親分は彼らの都合に合わせていつでも好き勝手にその決まりを変えようとするのが常だ。その最たるものは例外を作ることだ。この例外によって、私たちは生きている人間から死んだ人間に代えさせられてしまった。たとえば、平時の殺人は罰せられても、戦時は例外となる。また千時でも例外がつくられ、平時と同じ扱いを受ける場合がある。


 こんな親分たちを、人間たちを野放しにしてしまったら最後、私たちは全て生きる屍とされてしまう。それを許さないためにも、身近な交通規則から守ることが大事なのだ。それが私たちの人間社会の中に緊張感をもたらすことになる。親分たちに対する無言の圧力となるのだ。ルールは守らなければならない、と。たとえ親分であろうと、ルールは破るためにあるなんてアホなことを言わさないためにも、そうすべきなのだ。そんな誰にもできる社会参加こそが「親分ー子分」関係を前提としてつくられてきた覇権システムに、そして「システム」に楔(くさび)を打ち込むことができるということを、力のない庶民の革命的行動であることを、肝に銘じておかなければならない。


 哲学や思想を学ぶ者たちはまずはこの地点から語るべきではあるまいか。ゆめゆめ忘れてはならない。。人間がつくったものであれば、その主人公である人間は、いついかなる時でもその「合理性」や「科学性」の観点から、社会の規則・規範を改変できると認めてしまってはダメなのだ。絶対に譲り渡すことのできない、人間の生きる姿勢を保持しなければならないのだ。


 それこそが人間を死んだ状態から生き返らせるものであり、そこから初めて人間の尊厳も生まれてくるということである。いま私たちはずっと死んだままであるということを、お互いに確認し合うことから始めなければならないのではあるまいか。私がこれまで格闘し続けてきた私の語る〈「システムとその関係の歩み〉はその点について、私にますます強く教えてくれるのだ。


 ルールは守らなければならない。たとえ親分であろうと、人間がつくったとしても、それは守られなければならないのだ。それを守ることのできない者が、次のルールを云々なんての話は、ちゃんちゃらおかしなことではあるまいか。今そのおかしなことが、日本の国会をはじめ世界の議会で行われているとすれば、それはもう怖ろしいことだ。そして世界の戦場においても、それは例外ではない。ルールは破ってはならない、つまりはしてはならないことはしてはならないということである。それができて初めて、人は生きている人間となれるのだ。

 
 追記


 今日の記事はいつもの私ではない、誰か別の人の手によるそんな感じ。何か気色の悪い最初からできそうもない話のような感じ。だが、私は交通ルールだけはほとんど例外なく守ってきたものである。以前のというかずっと前の記事でも書いていたのだが、誰もいない信号機の前で、信号が赤から青になるまできちんと守っていた。


 その間はその都度、マルクスの「宗教は民衆のアヘンである」とか、「神が人間をつくったのではなく、人間が神を創ったのだ」と述べたフォイエルバッハを思い出していた。そこから、共産主義による政治の暴走に対して、また人間・親分集団による、そしてそこから覇権システムや「システム」による政治の無法に対して、それでは何が防波堤となるのかについて、あれこれと考えるのが常であった。



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私は一体どのような社会の実現を目指しているのか3

2024-03-08 | 日記
私は一体どのような社会の実現を目指しているのか3ーそのためには、先ずは私が一体どのような社会の中で生きているのか、それを確認する作業から始めなければならないだろう




(最初に一言)


 前回記事の(最後に一言)にいま目を通したところ。情けない話だが、最近の私は思考の持続性というのか、前回記事での問いかけに対する悶々としたこだわりというのか執着というのか、ある種の粘着性を失いかけている。さすがにもう限界なのかもわからない感じ。そう、もうこの辺で「修業」は終わりにすべきではとの内なる声が聞こえてくるような感じ。




 それにしても最近のニュースには驚くばかり。小学生が100万近くの大金を別の小学生にだまし取られたとか、中学生の男女が美人局で大学生を死亡させたとか、もうこの世の終わりが何度も繰り返されて切りがないかのような話が続いている感じ。そんな出来事を前にして、私たちはもはやどうすることもできない。否、何も考えようとはしないという感じ。


 国会は相も変わらずに「本筋」を見事に逸らせたままに、もうメチャクチャ状態。こんなどうにもならないダラシナイ茶番を前にして、私たちは何も打つ手なしという感じ。否、もう何もやる気が起きないというか、最初から何もする気もないという感の国民ばかりかも。私もその一人という感じ。相当に凄いというかやばすぎる社会が到来している感じ。ちょっとやそっとでは、立て直すことは不可能という感じ。否、もうそんな気分など感じられない社会の雰囲気。


 朝から晩まで、乱痴気騒ぎといった感のあるテレビ番組の中で、やたら目に付くというか時間の長く感じられる天気予報の繰り返し。少し前には感じられなかったようなテレビ出演者のバカ笑い・高笑いがひどすぎる感じ。とにかく暇つぶしでしかない。そんなに目くじら立てることもない。みんなと同じようにバカ騒ぎに加わって、正真正銘のバカとなることが、今の日本の中で生きていく上での最良の精神を保つ方法ではあるまいかという感じ。


 それができない人は何とかできるように自己「啓発」の努力をすべきである。勿論、この啓発とは皮肉を込めたというか、やるせない物言いなのだが、ここまで読者にお付き合いさせてしまったことを謝らざるを得ないのだが。ここまでのくだりを何日間も考え、そして考えあぐねていたのを踏まえた時、読者にもご同情していただければ幸いである。この間、私はずっとユーチューブで哲学や仏教、現代思想、文学に関する話を聞きながら、少し頭を癒していたが、そこで「発見」したことを以下に述べておきたい。




 本当に便利な時代と言えばそれまでだが、何年も、あるいは何十年費やしたところで理解できない内容の著作を、こうも簡単にわかりやすく教えられるとき、本当にこの後の勉強を省略してしまう危険性が大なることにも気がつくのは、私が年老いたことの証であると同時に、もうそんなにこだわる時代でもないことは、上述したいろいろな「感じ」からも推して知るべしかもしれない。それを前提としながら、たとえば私の語る「システム」論と先のユーチューブの話をコラボさせた時、私は次のような重要な発見をしたような感じ。


 それは、私自身もこれまで何十年にもわたり自分で自分の首を絞めるというべきか、命を削る思いで私の「システム」論を論及しながら、どうやれば少しでも私がもがき苦しんでいた問題から解放されるのかと、ああだこうだと、のたうち回りながら、それこそニーチェやトルストイ等々の人生における心構えについてのアドバイスと類似した「境地」に達したかのような錯覚を幾度も覚えてきたのだが、それにもかかわらず、彼らのアドバイスを持ってしても、私の語る「システム」とどのように向き合い、そこから少しでも足を洗えるのかについての、私にとって一番大事なアドバイスは得ることができなかったのを感じた次第である。


 こうして見てくるとき、ソクラテス、プラトン、アリストテレスから現代に至る哲学・思想論は、私の語る「システム」論と何ら切り結ぶものではなかったことを再確認する感じ。換言すれば、「システム」と向き合うものではないという感じ。「システム」と格闘して疲れ果てた私の心を癒してくれるのは確かではあるのだが、それは私も「システム」との悪戦苦闘の中でつかんだ心の持ち方とそれほど変わるところはないという感じ。そんな感じだとしても、「システム」の差別と排除の関係を少しでも和らげる何かの具体策を提示してはくれないのは確かな感じ。




(最後に一言)


 やはり、私自身がこれからの残り少ない人生の中で、私が掴み取るしかない問題であるという感じ。元より、それは容易ではないし、ほとんど絶望的な感じ。だが、それでもなんとかかんとか、手探りしながらもがき苦しむ・楽しむしか他に選択肢はない感じ。



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