日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

(追加修正版)日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える(4)

2020-05-01 | エッセイ
(追加修正版)日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える(4)

わからないことだらけと言えば、それこそ「主権者」たる権利も義務もなくなってしまい、主権者としての存在もなくなる云々と述べるとき、これもまた嘘だなあ、と思うのだ。

どこに主権者がいるのか。国会議員も主権者だが、今の国会をもっと多くの国民に見せろという声が聞こえてこないのは、どうしてなのか。国会中継がNHKでないとしたら、どこの放送局が行うのか。(このくだりも、誤解のないように一言。まったく中継されないということではない。ただし、やはり、もっと時間を増やすべきではないか、と思うのだ。)

みたくないし、見る価値のない者だ。それでも、そんな主権者が多数であったとしても、中継は大事だろう。今のコロナ禍だからこそ、見えるものがあるのだ。わかることが出てくるのだ。

それにしてもだよ、アビガン、アビガンと首相をはじめ、口をそろえて叫んでいたかと思えば、今度はレム何とかだ。もう最初から結論が見えている。米国の製薬会社の薬を使うことが、あの「米国の対日要望書」以来の在日米国商工会議所の日本に対する「要求」なのだろう。それをわかりながら、長い時間をかけてサルにも劣る芝居をするのだから、国民も引けてしまうのだ。

誰かいないのか。アビガンだろ、と不服従の姿勢を示すものは。情けないことに、誰もいない。

それにしてもおかしな話だ。特措法何とかが成立する前には、あたかも私権が、無論それは私権ではない、正確には普遍的人権というものである。私権の制限と言いながら、パチンコ店の「営業の自由」とそこから手にする「私的財産権」には、何ら公的制限、締め付けができないのだから、それでは、その法律は、何のために存在しているのか。

それ(パチンコ店)以外の企業とその営業活動も、本来ならば、法律で縛られるものではなく、政府や自治体からの、要請ないしはお願いなのだ。そこに、私たちの有形無形の圧力が加わり、自粛となるのだろう。何しろ相手はコロナウイルスだから、そこに経済活動やその利益とか利潤何某という話を持ち込んだら、ダメみたいな空気が醸成されているのだが、これもまた妙な話ではあるまいか。

自粛中でも、株式市場では通常通りの経済活動が行われている。それに、今日(30日)の株式市場は、大恐慌期以来の大倒産時代が到来するとの予測がされているにもかかわらず、株価は上昇との話だから、これまたおかしなこととなる。そこに、先のレム何とかの薬を製造する製薬会社の株が上がったとくれば、もうここは別世界ではあるまいか。

営業の自由とそこから手にする私的財産権を侵害することは、コロナウイルスでも許されない、とされる世界があるのは間違いなさそうだ。それにしてもおかしいのは、パチンコ店の営業自粛と、株式市場の営業自粛のどちらが、私たちのコロナ感染を助長する者なのだろうか。

それはもう読者にはお分かりだろう。株式市場だ。だが、ここに東京都の職員が言って、自粛してもらえるだろうか。東京市場は、日本の東京だけのものではない、当たり前の話だが、グローバルな空間である。そこには世界の大富豪や世界的多国籍企業や世界的投資銀行家が群がっている。彼ら世界的超富裕層の命と安全を保障するための各国政府が存在している。その政府の下に、軍隊と警察がある。

それゆえ、私たち庶民というか、普通のまた普通でない人々の命と暮らしの安全保障は、究極のところ、そうした世界的大富豪の意向の下で、いいように動かされている、あしらわれているのだ。面白くもない話だが、私たちはパチンコ店の営業を、自粛しないことを、これでもかと叩き続けるのに、どうしたことか、株式市場に対する営業の自粛は求めない。

その理由は、すぐに分かる。感染リスクが高くないとか、コンピューター処理だとか、とにかく何でも理屈はつけれるに違いない。ところが、一番肝心な話はそんなところにはないのだ。

コロナ・ウイルスの感染者拡大と死者数の増大が、株式市場の経済的利益を増大させているという事実なのだ。つまり、私たちは、命と経済活動のバランスが大事だとか、どちらかを優先すれば、どちらかがおかしくなるとか、もっともらしい話を繰り返しているのだが、世界の株式市場では、世界的な製薬会社の株の値動きによって、つまり株式の売買による利益の確保のために、死ななくてもよかったはずの多くの命が奪われ続けているのである。

そこには、これまで同様に、ごく一部の超富裕層に奉仕する「営業の自由」とそこから手にする「私的財産権」の保障のために、命を落とさざるを得ない人々が多数生み出されていくという、まさに「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち(負け)続けなきゃならない」セカイ・世界とそこでのセンソウ・戦争が繰り返されているという、「面白くもない、つまらない現実」があるのだ。

読者にお尋ねしたい。「この糞くらえ」と、下品な物言いで申し訳ないが、ののしりたい「現実」に対して、一体いかなる「武器」が、私たちの手に残されているのか、と。「平和憲法」、「平和主義」の思想がどうたらなのか。違うだろう。

それでは、日本が核武装して、どこの国からも攻められない国家となることなのか。これも違うだろう。コロナ・ウイルスというか、これからも何度でも手を変え品を変えて世界を日本を襲ってくるだろうウイルスに勝てる兵器など見当たらない。

それどころか、私たちのありとあらゆる生命維持活動と生活分野において、これまで通用していた、常識とされてきた多くの事物が、ほとんど通用しなくなったと言っても、過言ではなかろう。それは、私たちの安全保障の問題においても例外ではない。ハード面がなんとか、またソフト面がどうのといった類の話も、もはや通用しない。そもそも「軍事力」の概念が変わってしまった。それは「平和」と「戦争」に関しても同様ではあるまいか。

「常時戦場」という言葉があるが、まさにコロナ・ウイルスは世界を戦場へと変容させてしまった。私たちの語る「平和」は、そうした戦場を舞台として、初めて現実味のある言葉となりえるのだ。その意味では、私がこれまで論及してきたシステムとその関係の歩みの中で生きる、生きていることと、まったく異ならない。コロナ・ウイルスの登場による世界の変容とそこで語られる「現実」が、やっと私の述べてきたモデルのセカイ・世界とそこでのセンソウ・戦争を直視することになったとすれば、私はなるべく早く、それでは私たちはどう対処すべきかについて、語らなければならないだろう。

(加筆修正のお知らせ)

上記の記事の中で、私は以下のように述べている。すなわち、〈それにしてもおかしな話だ。特措法何とかが成立する前には、あたかも私権が、無論それは私権ではない、正確には普遍的人権というものである。私権の制限と言いながら、パチンコ店の「営業の自由」とそこから手にする「私的財産権」には、何ら公的制限、締め付けができないのだから、それでは、その法律は、何のために存在しているのか。〉、と。そこにある「ーーー。あたかも私権が、無論それは私権ではない、正確には、普遍的人権というものである。ーーー」のくだりは、やはり誤解を受けると思ったので、今またここでもう少し、補足説明をしておきたい。

いきなり「私権」などと簡単に言ってしまうと、誰にも公平に、等しく(私権が)存在しているように思われては、今回の事の顛末も見えてこないように理解されたので、あえて、上記のように述べた次第である。誤解を恐れないで言えば、まさに「私権」に他ならないのだが、その「私」は、フランス革命や、イギリス、アメリカの市民革命当時のそれと同じように、当時の「大富豪」に許されていた「私」の「権利」、「特権」であり、私たちは、その特権であった私権を「普遍的人権」と呼ばされてきたことに、注意を喚起したいがために、あえてそのような話を展開した事情によることを、ここで断っておきたい。

なお、ここでも、「わたし」と「あなた」という「私」が集合して、「私たち」という「公(公的空間)」が形成されていく際に、忘れられていく、A、B、Cを、またB、C、Aを構成する「最小単位」である私たちの人間関係の在り様を、すなわち差別と排除の関係を前提としながらつくり出されてきた「システム」とその「関係史」を銘記してほしいがために、念を押して述べている。

今次のコロナ危機という非常事態において、私たちが手にする市民的権利、人権の化けの面が剥がされているにもかかわらず、それさえもマスコミは見抜けない、野党はそれこそ、特権層に成り下がってしまっている」ことを、国会中継を聴きながら、ひょっとして感じられたらいいのに、と思っていたのであるが、これまた無駄の無駄だろうが、それでもあきらめてはいけないとの自責の念も込めて述べていたという訳であった。また機会があれば、もっと頭が爽やかな?時にでも、お話しさせてもらいたい。

またまた、あとからの追加であるが、念のために一言。
先の株式市場に対する話で、もう不要だとは思ったのだが、政府による株価の維持のために、私たちの税金が事あるごとに、投入されている。これは、すなわち、私たちもシステム人として、見事に、自粛の有形無形の圧力にもかかわらず、経済活動にせっせと励んでいることの証に他ならない。あの紋次郎のセカイと、基本的には、根本的には何ら変わるところはないのだが、紋次郎のはく言葉とは意味の異なる声が、「あっしには関りございません」の声が聞こえてきそうで、これもコロナ・ウイルスに負けずと劣らず、怖ろしいことではあるまいか。
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