日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

オニクタラムの「安保法制」論ー放置された問題(続)

2015-09-21 | 社会 政治
昨日に続いて、今日も書きます。(今回はデスマス調)
少し追加をしておきます。昨日の記事で、私は「総元締め」とか「黒幕」と表現していますが、それは覇権システムそれ自体を指しています。もう少し丁寧に言えば、そのシステムとその秩序を前提としてこれまで織り成されてきた先進国グループ(A)と中進国グループ(B)と後進国グループ(C)における経済発展と民主主義の発展の関係の歩み(関係史)そのものです。(これに関しては、拙著『「日本人」と「民主主義」』(御茶の水書房、2009年)、『21世紀の「日本」と「日本人」と「普遍主義」』(晃洋書房、2014年)を参照してください。)

私の見るところ、山本太郎さんが安倍政権は米国と経団連のコントロールの下に置かれている云々の批判は、仮にそうだとしても、私もそれに同感しますが、それではその米国と経団連は、誰がコントロールしているのかを問わない限り、私たちは、戦い続けることはできないと考えるのです。

私からすれば、米国と経団連は、覇権システムのコントロールの下に置かれていますから、その関係史を構成してきた「経済発展」(衣食足りて〈足りず〉の営為)と「民主主義の発展」(礼節を知る〈知らず〉の営為)の関係とその歩みの問題点を究明する必要があると、私は見ていますが、「自由と民主主義を守れ」、「憲法を、立憲主義を守れ」と最初からそれらの普遍主義を疑うことのない、何ら問題のないものとして「神棚」に上げたままで、安保法制を論じるのであれば、そうした議論は覇権システムを擁護してしまうことになると思うのです。

それゆえ、米国と経団連を批判してそのコントロールから自由になれと主張しても、その批判が覇権システムそれ自体に向かわない限り、つまり自由主義や民主主義や人権、平和といった普遍主義の批判に向かわないのであれば、掛け声倒れで終わってしまうということです。

私がこだわるのは、「礼節を知る」の「礼節」としての普遍主義を導き出す「衣食足りて」の営為を、もう少し私たちは真剣に引き受けることが重要だということなのです。昨日の記事で書きましたが、この「衣食足りて」、あるいは「足りず」の営為のネットワークは、今日では世界的大企業、多国籍企業がそれこそ生産から流通そして消費に至るまでその維持と管理に与っています。

ここで忘れてならないのは、私たちの「電気」も、また「武器」もそのなかに含まれていますから、福島の原発事故とその後の問題や、それこそ安保法制で集団的自衛権云々の問題もこうした脈絡の下で捉え直される必要があるでしょう。そして、何よりも重要なのは、そのネットワークの中で、私たちは、職をえて生活しているということなのです。

私たちは、安倍首相と同じように、こうした観点から言えば、米国と経団連に、さらに覇権システムが創り出してきたネットワークに、コントロールされているわけです。山本太郎さんもすべての者も、この中に組み込まれているのです。世界的大財閥のロスチャイルド家も例外ではありません。この関係は、M・ヴェーバーの『プロテスタンティズムと資本主義の精神』や『官僚制』の著作からも学ぶことができます。

それではどのようにして、どうすれば、このコントロールから抜け出せるのでしょうか。これまでの歴史において、いろいろな例があり、参考になりますが、昨日も指摘したように、相当に大変なことなのです。ガンジーはイギリスからの「独立」闘争に際して、彼自身が手織りで作った服を着て戦いました。有名な話です。中学や高校の歴史で学びました。イギリスと戦う私たちが、イギリス製の綿製品を纏って戦ったら、おかしいだろうと。「ここ」にすべてがあります。凝縮されています。

昨日の記事で述べた「ウォール街を占拠せよ」の運動家たちは、何を着ていたのでしょうか。別に彼らを揶揄するつもりはありませんよ。私にその資格はありませんから。ただ、私たちのやっているのは、最初から嘘なんだということなんです。「衣食足りて」の営為と「礼節を知る」の営為は切り離せないものなんですね、本来ならば。ところが前者は不問に付して、後者だけにこだわって、その礼節で持って、それを戦う武器として、前者を支配する、管理する現代の大富裕層と戦おうとしているのですからね。

しかも、私たちが武器にしている後者の礼節は、かつて前者を支配管理していた大富裕層がいわゆる[市民革命]の前後に提供した武器であったとしたら、正直もう遊びはやめたら、となるのですよ。年寄りはもう人生の経験の中で身体に染み付いていますから、遊びを遊びとして戦っているのです。若い人がこれに気がついていれば、私は何も不安は感じませんが、この点を斟酌したら、それこそほどほどに遊びはそのくらいで、勉強した方がいいですよ。

こうしたことを踏まえた上で、私は昨日も恥をさらしたように、少しでも嘘を嘘でないようにする、そうしたこれまでとは異なる「衣食足りて礼節を知る」の営為の実現に、こだわり続けたいのです。(しかしながら、このように話しながら、これまですでに20年以上も停滞したままなんです。実際のところ、「タラム君、どないするの、どうなっているの」というのが現状です。)

(追記)
共産党の志位委員長が反「安保法制」に向けての国民統一連合?声明を出したそうですが、正直、また東京の都知事選挙の再現かと絶句です。(もっとも、システムそれ自体には、システム内での対立や闘争、あるいは紛争(戦争)は歓迎されるものですから、そのような動きを喜ぶでしょうが。)

なおもう少し、話したいのですが、やめておきます。ただ、最後に、山本太郎さんの言を借りれば、私たちはいつまで既成与党と野党にコントロールされるつもりなのか、という問題にも向き合わなければなりませんかね。まあ、こんなことを言っても仕方のない、どうしようもないことですが。














































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1 コメント

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やっぱり (ダワオオ)
2015-09-21 13:33:16
先生、ブログ拝見しました。

世間はなんとなくみんな「反戦」っぽい
雰囲気出てますね。

この前、生徒にいいました。

『「反戦」を訴えて、お父さんの仕事(重工系)
なくなっていいの?』

って。

みんな生活のことを考えずに
訴えてますよね。

自分の身を切る戦いでなかったら
意味がないですね。

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