日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

(再論・再考)「あの戦争」は、どうして引き起こされたのか(後)

2021-01-24 | 日記

(再論・再考)「あの戦争」は、どうして引き起こされたのか(後)

前回記事で、今は亡き鬼塚英明さんの話を少し紹介したが、高橋五郎さんの『天皇の金塊』シリーズからも、いろいろなことを教わった。このお二人の著作は、俗に「トンデモ本」と揶揄されるのだが、なお「天動説」が支配している人文・社会科学の世界では、そうした評価も致し方ないだろう。私自身も、彼らの話のすべてにわたって同意するわけではないが、それにもかかわらず、やはり「歴史」について考え直すべきヒントを数多く与えてもらっのは確かなことであった。

ところで、「あの戦争」の原因については、それこそたくさんのことが関連し、また関係しているのは言うまでもないことだが、このお二人が残された研究からも、そうした原因につながると思われる話がいくつも出てくるのだが、そうは言っても、ずっと以前の記事でも語ったように、私は彼らとは異なる観点から、私なりの見解を披歴してきたのである。

私の結論めいた話は、これまたすでに何度も論述してきたように、私の語る「システム」論で展開した内容にまとめられるだろう。私はいわゆる「大枠」に関する物語を述べてきたが、その枠を外してしまった「あの戦争」の原因論は、何も語ったことにはならないということだけは、ここでも再度、強く主張しておきたい。

私の民主主義論や普遍主義論は、木畑洋一氏等からも、「あなたの語っていることは理解できない」、とたびたび言われてきたのだが、私からすれば、今の政治学や国際関係論の研究者が当然のことのように大学で教えている「民主主義」に関する内容こそ、相当な問題をはらんだものだと言わざるを得ないのである。

米国の大統領にバイデン氏が就任したが、彼やその取り巻きの、そして日本のメディアの「民主主義」に関する見方や報道を聞くにつけ、もうそんな戯言はいい加減によしてくれ、とあきれてしまうのだ。もっとも、私の生きている限り、これからもずっと、そのようなオメデタイつくり話に付き合うことを避けられそうもないから、私は私なりに、自分にできる範囲で、思考のバランスを取りながら、発現し続けていくしかないだろう。

 

 


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閑話 幕末から明治維新にかけての流れと「あの戦争」から敗戦後にかけての流れに垣間見える「類似点」から推察できることは何

2021-01-22 | 日記

閑話 幕末から明治維新にかけての流れと「あの戦争」から敗戦後にかけての流れに垣間見える「類似点」から推察できることは何か

今は亡き鬼塚英明さんの明治維新前後と敗戦前後の研究から教えられたことを、私なりにごく簡潔に要約すると、以下のようになるだろう。

アヘン戦争後、幕末期の日本を襲った英国ロスチャイルド財閥の資金の援助の下で、明治維新を指導した維新の英傑たちが、ロスチャイルド財閥の描いた脚本どおりに、日本と日本人を日清・日露戦争へ、そして、やがては「あの戦争」へと導くことになったのである。
日本と日本人は、その後もロスチャイルド財閥の指導の下に、朝鮮半島と中国大陸でのアヘンの栽培と販売に着手して、アヘン帝国を建設するとともに、やがて「あの戦争」へと突入して、敗戦を迎えたのだが、戦後の日本を導いた指導者は、満州国でアヘン取引に従事していた一群の官僚たちであった。その彼らの背後で彼らを指導していたのはロスチャイルド財閥であった。GHQの占領下におかれた戦後日本の歴史は、こうした官僚たちと、彼らを操るロスチャイルド財閥の指導の下に、展開していくのである。

こうして要約してみると、何か身もふたもないつまらない話に想われるかもしれないし、鬼塚さんにも申し訳ないのだが、私の語る「システム」論でも述べているように、〈「システム」とその関係の歩み〉は、何よりも「金の成る木」であることを、その最重要の仕事としていることから、見当はずれのまとめではない、と私は理解している。

鬼塚英明さんの語る世界は、「陰謀論」として簡単に片づけられてしまうのだが、私にはそうは思えないのだ。私の語る「システム」論からみても、鬼塚氏の描く世界は貴重な参照・参考資料を提供してくれる。何より、私の語る「民主主義」論を、そしてまた「システム」論を、直接的、間接的に補強してくれる研究である。

それにしてもなのだ。従来の「明治維新」像が修正を迫られている。維新を指導した英傑の背後にロスチャイルド財閥の影を見た論者等は、司馬遼太郎の描いた維新増を批判するに至る。私もそうした見方を共有している。これに対して、それでは戦後の見方はどうであろうか。

(急いでここで付言しておきたいのは、「司馬史観」には相当の問題点を確認できるものの、司馬が構成の研究者に託した自由主義、民主主義、民族主義、帝国主義の「渾然たる関係」を明らかにしてほしいとの訴えは、この21世紀においてもなんらその重要性を失うものではない、と私はみている。)

戦後の日本の再出発を、平和憲法や戦後民主主義と結び付けて礼賛する論者が存在しているが、私には、それほど礼賛できない事情がある。と言うのも、GHQとその背後に控える米国を動かしている「勢力」の存在に目をやるならば、それこそ東京電力福島原発事故後に流布されていた「原発マフィア」につながるその前身を、この占領下の日本にも確認できるからに他ならない。、

こうした文脈の下で、それでは「護憲派」に位置する人たちは、何を守ろうとしているのだろうか。また「改憲派」の人たちは、何を改めようとしているのだろうか。ここで、福島原発(戦後憲法に対比される)とその背後に存在していると思われている「原発マフィア」(ロスチャイルド財閥勢力に対比される)との関係をもとに少し考えてみたい。

(以下の両者の間には、相互に支持し補完し合う関係にある。)

明治維新体制ーーーーロスチャイルド財閥

戦後憲法体制ーーーーロスチャイルド財閥

福島原発  ーーーー原発マフィア(ロスチャイルド財閥)

これらの関係をもとにして、ここで「護憲派」と「改憲派」について考えてみたい。
護憲派は、たとえて言えば、原発には反対の立場をとると同時に、その背後に存在すると思われる原発マフィアにも敵対の立場を表明している。ただし、そのマフィアの影響力を排除しなければならないのだが、それはどうすればできるのだろうか。現状ではかなり難しいと言えるだろう。これに対して、改憲派は、原発を支持すると同時に、原発マフィアの存在も支持する。と言うよりも、改憲派は、そうした勢力の指示に従って活動してきたと言ってもいいだろう。

ところで、護憲派は戦後憲法体制を支持するのは当然だとしても、その背後に存在すると想定される「勢力」の存在(ロスチャイルド財閥)に対して、いかなる態度を示すのだろうか。私の見る限りでは、護憲派は、そうした勢力の存在をみようとはしていないのではあるまいか。

これは、おかしなことである。もし、原発や明治維新体制との関連を踏まえるとき、護憲派は、ロスチャイルド財閥に対して敵対すると同時に、それと相互に補完し合う関係にある戦後憲法体制に対しても敵対することが論理敵と考えられよう。勿論、そうなれば、護憲派を標榜するのはやめなければならなくなるのだが。

ところが、現実にはそうはならないから、私には不思議と言うよりも、もどかしいこととなる。と言うのも、護憲派は、福島原発の背後に、原発マフィアの存在をみようとしているのに、また、私はおそらくそうだろうとみているのだが、明治維新体制の背後に、ロスチャイルド財閥の存在を見出すに違いないと思うのに、戦後憲法体制の背後には、そうした国際金融勢力の存在を確認できないとするのだから、とてもおかしな態度ではあるまいか。

これに対して、改憲派は、あるいは反・護憲の立場に位置する人たちは、国際金融勢力の存在の支持を受けて、戦後の日本を指導したことから、彼らの指示に従い続けたのである。それゆえ、改憲派も、戦後憲法体制を擁護することが論理的であるから、改憲派を標榜するのをやめる必要に迫られるはずである。その関連から言えば、戦後政治の総決算とか戦後体制の見直しを声高に叫ぶことは、憲法体制の背後にあるロスチャイルド財閥の描く国際秩序に逆らう存在としてみなされる危険性が伴う。

こうした点を鑑みるとき、護憲派は、戦後憲法体制と相互補完的関係にある国際金融勢力と向き合い、戦うことが求められていたはずである。そのためには、戦後憲法体制に対しても、批判的態度で臨むべきであった。と言うのも、こうした国際金融勢力が福島原発に代表される戦後の核開発を、歴代の日本政府に推進させてきたからに他ならない。

このようにみてくるとき、戦後憲法体制と相互に補完し合う国際金融勢力の存在といった観点から、平和憲法や戦後民主主義を見直す作業は、換言すれば、第9条や戦後民主主義を守るという場合、それは国際金融勢力を、同時に支持し守るということではないのかについての確認作業は、当然ながら必要となるに違いない。

こうした(確認)作業を試みるならば、そこから私の語る「システム」論が、ここで紹介した論と、密接に関係・関連していることに気が付くのではあるまいか。願わくば、さらにそこから、さらに覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムの三つの下位システムから構成される一つの〈「システム」とその関係の歩み〉へと、読者の目が向けられることを期待するばかりである。

 


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閑話 いろいろなブログ記事に感謝

2021-01-20 | 日記

閑話 いろいろなブログ記事に感謝

前回の記事の続きの前に、少し話しておきたいことがあったので、今回はそれについて述べておきたい。私は視覚障碍者となって、目に不自由を日々感じている今日この頃だが、そんな私の楽しみの一つは、音声で文章を書いたり、読んだりすることだ。なお、まだ少しだが、私の視力は残っているから、書く際にはおぼろげながらも、自分の目で文章を辿ることは可能である。勿論、それは音声に頼れて出来ることなのだが、これに対して、読む作業は、ほとんど音声に頼るしかない。

今でも、相当なストレスと情けない気持ちを抱きながら、読み書きをしている。そんな私が時々うれしくなるのは、他人の書いたブログ記事を読んでいる際に、勇気をもらったと感じるときである。そこで私が感じる「勇気」とは、記事の書き手から伝わるひたむきさである。善く生きることを目指して、読者に伝えたいとの書き手の思いである。

たとえば、「新聞と嘘、あるいは誤報道」も、そうした記事の一つである。記事は2006年から10年までに書かれたものだそうで、以降、その都度、追記されているとのこと。以下に、目次を貼り付けておきたい。そこにある見出しをクリックすれば、さらに詳しい内容を見ることができる。

とにかく一度、自分の目で確認してほしい。記事の書き手が時々つぶやくような怒りにも似た声を発しているが、私には何とも言えないような書き手の優しさを感じられたのだが、不条理な世界に対する静かな告発として理解できた。もっとも、そうは言っても、私も最近になって、この記事に出会ったのだが、相当に多くのことを教えられた、思い出すことができた。感謝するのみ。


前書き
追加:戦前における日本の新聞記事の捏造に関して
追加:日本は何故、日中戦争をしたか
第二次大戦前の日本の産業構造
中国では誰が麻薬を購入したか ?
経済の破綻
どの程度満州国は麻薬に依存したか、あるいは犠牲者の数は ?
追加:日露戦争に関して
追加:第二次世界大戦における死亡者数
追加:原爆投下が是非とも必要であったこと
追加:マンハッタンプロジェクト
追加:原爆のみが残酷であるか
追加:南京大虐殺の犠牲者数が 30 万人と考えてよい根拠
追加:南京大虐殺の時点で南京城に余剰の人口がいたとするもう一つの根拠
追加:南京城における食料補給に関して上限があることの根拠
追加:中国や東南アジアにおける犠牲者はどのようにして死亡したか ?
追加:日本の国旗に関しての訂正
追加:慰安婦問題に関して
追加:慰安婦問題に関して、その 2
追加:かっての日本の戦争の薄汚さについて
追加:麻薬のもうけはどのように使用されたか ?
追加:生糸を輸出しても産業革命に至らない事
追加:何故ごまかされるのか ?
 冥王星とカイパーベルト
 野口英世
 戊辰戦争
 明治維新 --- 誰が活躍したか ?
 地震と耐震建築 --- 日本は先進国であったか ?
 鉄の製造
 アヘン帝国 --- 汚れた歴史
 アヘン帝国の土壌
 産業革命
 硫黄島の戦い
 鉄の歴史
 もう古くなった記事のこと
 水俣病
 最近のこと


(最後に一言)

今日は、特に目が駄目なので、このくらいにしておきたい。前回記事の私の話は、今日ここで紹介した記事(アヘン帝国に関するくだり)に触発される形で書くことができた、と言っても過言ではない。

 


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(再論・再考)「あの戦争」は、どうして引き起こされたのか(中)

2021-01-18 | 日記

 

(再論・再考)「あの戦争」は、どうして引き起こされたのか(中)-従軍慰安婦問題→日本の軍部と日本国と日本国民→「あの戦争」→朝鮮半島と中国大陸と大日本帝国→「アヘン」を介した経済発展とA、B、Cグループ間における「自己決定権」の獲得を巡る「三つ巴」の争奪戦→「普遍主義」と「システム」とその関係の歩み

今回のタイトルをみながら、その流れ(→)に含まれる歴史的関係性を考えてほしい。いま従軍慰安婦問題に関する韓国での裁判が取りざたされているが、その従軍慰安婦問題の背後に存在する問題を考えるとき、そこからさらに、日本の軍部と日本国と日本国民による「侵略」戦争となる。

ここで注意したいのは、いわゆる「風化」とは恐ろしいもので、従軍慰安婦問題とその原因を、日本の軍部や一部の暴走軍人、あるいは特定の日本企業に矮小化させるかのような議論が横行し、日本国家の問題と切り離すかのような雰囲気が醸し出されている。ましてや日本国民には関係のないかのような問題とされている。

それゆえ、従軍慰安婦問題の背後に、当然のこととして存在していた「あの戦争」までも、その全体像を把握し理解することができなくなっても不思議ではないだろう。私がここで言う全体像とは、何もすべてにわたり詳しく描かれるそれではなく、おおよその輪郭である。

「あの戦争」についての「全体像」を、私たちの学校教育は教えてこなかったのは確かなことである。私たちは、「太平洋戦争」として「あの戦争」を教えられてきたが、「あの戦争」は何も米国との戦争だけではなかった。むしろ朝鮮半島や中国大陸を拠点として建設された大日本帝国(そこにはもとより日本国と日本国民も含まれている)による戦争であり、その軍資金というか帝国の財源となったのは、朝鮮半島や満州国で栽培されたアヘン取り引きによる巨額の儲けであった。

ところで、そうしたアヘン取引を介した日本の経済発展(「衣食足りて・足りず」)に呼応した当時の日本の民主主義の発展(「礼節を知る・知らず」)を語るとき、いわゆる「大正デモクラシー」を忘れるわけにはいかないのだが、その大正デモクラシーを支えた経済発展がこうしたアヘン取引を介したものであったということにも、私たちは目を向ける必要があるだろう。

さらに、日本の民主主義の発展の段階である「礼節を知る・知らず」と呼応して、Cグループの大日本帝国下の朝鮮国や満州国の民主主義の発展段階、すなわち「礼節を知らず」の状態に据え置かれている両者の関係にも目を向ける必要がある。さらに、そこからAグループの民主主義の発展段階である「礼節を知る」に呼応して、日本の民主主義の発展段階が据え置かれている、そうした両者の関係にも目を向けることが必要である。

(急いで付言すれば、こうした文脈の下で、敗戦後の占領下の日本の民主主義、すなわち戦後民主主義の発展の段階を再考すれば、必ず逆コース以前においても、また以後においても、自己決定権の獲得を巡る争奪戦における差別と排除の関係を前提として、戦後民主主義の実現が可能となったということがわかるのである。)それゆえ、戦後民主主義を守るという場合、つまりは戦後憲法を守るというとき、それは先の図式で描かれる差別と排除の関係を支持し、そうした構造をさらに強化することに与るのである。

そうしたA、B、Cグループ間における民主主義の発展段階の関係に目をやるならば、そこから同時にまた、それらのグループ間の経済発展の関係にも目を向ける必要に気が付くはずである。さらに、それぞれの経済発展と民主主義の発展の関係にも目を向けることが大切となる。たとえば、{[Aの経済発展]→×[Cの民主主義の発展]}、{{Bの民主主義の発展]→×[Cの経済発展]}という関係である。朝鮮半島と中国大陸において、自己決定権の獲得を巡る争奪戦が繰り返されているのである。

こうした自己決定権の獲得を巡る争奪戦は、何も朝鮮半島や中国大陸に限定されない。それは、「あの戦争」の時期、ヨーロッパやアフリカ、中東、南アジアや東南アジア、アメリカ(北・中・南・米)に至る全世界において、展開されていたのである。そうした争奪戦の原因を考えていくとき、そこには、いわゆる自由や民主主義、市民的権利、法の支配、平和と言った「普遍的価値」を、人種や肌の色や国家や国民を問わず、全世界の老若男女に受容させようとする動き、すなわち普遍主義が与っていたことがわかるのである。

その代表的例が、通商の自由、すなわち営業の自由とそれにより獲得された富の安全を保障する私的財産権の自由が挙げられる。不思議というかおかしなことに、そうした普遍的価値の「一部」の実現は不平等条約の締結を迫られた清朝下の中国や幕末期の日本においても実現した、認めさせられたのだ。ただし、国家の主権は認められないままに半植民地状態に置かれたのである。

ところで、清朝下の中国や幕末期の日本において、普遍的価値の一部は上から認めさせられたのに対して、治外法権の廃止や関税自主権の撤廃は許されないままにおかれたのだが、そこには、こうした普遍的価値と普遍主義を背後でつくり出し、それを支える構造(仕組み)が存在していた。私のモデルで描く「システム」とその関係の歩みがそれである。

そうした構造によって、竹山道雄が「ハイド氏の裁判」で述べていたように、「文明」は、(すなわち、そこには先の普遍的価値が含まれていると理解してもかまわないが、)「富める国」においては神々しいい「ジーキル博士」の様相を帯びるのに対して、「貧しい国」においては、どう猛な形相を示す「ハイド」が生み出されるのだ。

こうしたジーキルとハイドの関係における「文明」の、すなわち普遍的人権(市民的権利)における「格差(カクサ)」をつくりだす構造、換言すれば、私の語る「システム」論で描く「システム」とその関係の歩みこそが、従軍慰安婦問題を考える際に、俎上に載せられるべき問題なのだが、それを期待することはとても望めないのは、私にも悲しいけれど、よくわかっている。

孫文の三民主義と私のモデルとの相違点

それでは、少し気を取り直して、前回の話の補足をしておきたい。私の語る「システム」論のモデル(それはすべてのモデルを示してはいないが、前回記事で紹介した図式③④のみを今は取り上げている)と、孫文の三民主義の違いについて、ここでまた少し考えてみたい。既に以前の記事でも、それに関しては触れていたが、以下に図式のモデル③を基に、孫文の三民主義と結び付けて述べてみたい。

{[Aの経済発展→Aの民主主義の発展]→(×)[Bの経済発展→Bの民主主義の発展]→×[Cの経済発展→Cの民主主義の発展]}-③

孫文の三民主義とは、民族主義、民生主義、民権主義ノミッの要素から構成されていたが、これらをすぐ上の私のモデルと結び付けて語るとき、以下のように要約できる。まず、孫文の三民主義には、覇権システムが含まれていない。つまり帝国主義が語られないことになる。こうした点を踏まえて、さらに論を展開してみよう。

前回、引用紹介した中国ナショナリズムの歩みに関する拙論から理解できるのは、中国が民族主義を実現する歩みは、同時に中国による中国を抑圧してきた欧米列強や日本等の他国(諸外国)の三民主義実現の歩みとそれにより引き起こされる構造的圧力から、自らを解き放つ、すなわち「解放」闘争として描き直されるということである。(付言すれば、香港の民主化運動、パレスチナにおける対イスラエル独立闘争、アイルランドの対英独立闘争も、こうした「解放」を目指すうごきに他ならない、と私はみている。)

それは、Cの中国によるBの独・伊・露国と日本、Aの英・米・仏における三民主義の実現の歩みとそれにより引き起こされる構造的圧力からの解放闘争を意味していた。より具体的に言えば、前回の記事で紹介した③④の図式の全体像から、Cの中国の[経済発展→民主主義の発展]を、別言すれば、[衣食足りず礼節を知らず]の関係を、Cの中国と中国人が自らの手によって、抜き出す(取り出す)ことを意味していたのである。

それはすぐさま、親分ー子分の力と力の暴力関係に象徴される帝国主義からつくり出された覇権システムからの解放を意味していたのだが、そのためには、まずは独立できなければならないことを意味していた。これは非常に厄介な問題を導くことになるのである。なぜなら、自らを解き放つ、図式全体の関係から引き起こされる構造的圧力から自らを開放するためには、おかしなことなのだが、その図式全体の関係の中に、そして中国が引き受けざるを得なかった図式のCの発展段階を、結局は引き受けることを余儀なくされたからである。

中国にすれば、それは仕方のないことであった。力のある者との関係の中で、力のない者は、無条件に前者の要求を呑まざるを得なかったために、図式全体のCに位置づけられたことから、まずはそこからの解放闘争とならざるを得ないということである。そのために、図式全体の関係とその下で引き起こされる構造的圧力を、抗いながらも、どうしても受容していく、いかざるを得ないのである。

そして、それに従う中で、やがてはそうした関係全体の支配ー従属関係とそれに伴う差別と排除の関係を、自らも学習する内に、私のモデルで語る「システム」とその関係の歩みを支え、担うことを避けられなくなっていくのである。こうして、かつての侵略された歴史を持つ国も、侵略する側に回っていくのだ。こうした関係を十分に理解しないままに、戦争を巡る戦争犯罪、加害と被害、謝罪、戦争責任等に関する議論は皮相的となるのは必至とならざるを得ない。

それでは最後に、次回の話との関連から、拙論の〈3(一)(二)(三)(四)〉を、以下に引用してぉきたい。

(引用、始め)

3「中国は一つ」という主張と中国と台湾の「民主化」論の整合性について

                     (一)

しかしながら、現実の比較政治学では、相も変わらず丸山の「幸福な結婚」論やR・ダ-ルのポリアーキーや、ユルゲン・ハーバーマスの「憲法愛国主義」にあるような「(自由主義的)民主主義」を比較の「物差し」として、換言すれば、われわれの目指すべき、また選択すべき「正しい軌道」として、採用され続けている。たとえば中国と台湾における「民主主義」の実現の歩みに関する研究にも、そうした物差しを採用していることが窺える。比較の作業のためには、同じ物差しを使う必要があるのは当然だとしても、問題は、その物差しとして従来のように「一国枠」モデルを、そのまま、採用してもかまわないのかという問題が残るのではあるまいか。
 ここでは二つの事例をあげておきたい。最初に、台湾の民主化と、中国の民主化の歩みを、比較政治学の民主化を測定する物差しであるポリアーキーを使って測る際、どのような問題が生起するのだろうか。それについて少し考えて欲しい。たとえば、台湾政治研究者の民主化の歩みを見る眼をみてみよう。若林の著作において採用されている民主主義の実現を測定する物差しは、R・ダ―ルのポリアーキー(概念)であることがわかる。また、これは丸山の「幸福な結婚」論のそれと同じものだとみることができる。これに対して、次に中国政治研究者の民主化の歩みを見る眼についてみてみるとき、以下のようなことがわかる。すなわち、毛里和子やその他の研究者の物差しをみれば、やはりポリアーキーなのである。それでは、そこから次に、一体どのような問題が導かれることになるのだろうか。
 簡単なところからみていきたい。たとえば、中国と台湾での「中国は一つ」というナショナリズムの、とりわけ国権の歩みについての、主張を、筆者はこれまでたびたび耳にしてきたが、それではここにある「中国は一つ」というナショナリズムのスローガンは、当然ながら、中国と台湾における民主化の歩みと相互に共時的に関係したものとして位置づけられなければならないはずである。ところが、先の台湾と中国の民主化を語る研究者においては、台湾と中国のナショナリズムの、国権と民権(ポリアーキー)の実現の歩みが、切り離されてしまっていることがわかる。
 すなわち、中国のポリアーキーを目指す歩みは、台湾の国権の歩みと、また台湾のポリアーキーを目指す歩みは、中国の国権の歩みと、切り離されて語られている。中国のポリアーキーを目指す歩みにより、台湾の「独立」が妨害されている。逆から見れば、台湾のポリアーキーを目指す歩みが、中国の「独立」を妨害しているのだが、残念ながら、台湾と中国の民主化研究者は、こうしたナショナリズムにおける、国権と民権の、両者の共時的関係の歩みに垣間見られる、重要な論点を提示できないのである。

                     (二)

 ところで、すぐ上で指摘したように、台湾と中国における国権と民権の、両者の歩みを、共時的関係として位置づけ、捉え直せないままにあった、台湾と中国の民主化研究者の姿勢は、19世紀中葉から20世紀の前半に至る中国の治外法権撤廃運動、関税自主権回復運動の歩み(すなわちナショナリズムの国権の歩みに他ならない)を(15)、欧米列強のポリアーキーに向けての、(すなわち、民権の実現目指す)歩みと、共時的関係として位置づけ、捉え直すことのできない、現在の研究姿勢に、そのまま、直結している。ここでも彼らは、両者の共時的関係を、個々別々に切り離して語る従前の姿勢を保持したままである。
 それゆえ、彼らの研究は、イギリスのポリアーキーを目指す歩みと、中国における国権の歩み(すなわち中国統一を目指す歩み)を、共時的関係として捉えることに代えて、各々を切り離して取り上げ、個別の問題として論じることに甘んじてしまう。(16)ポリアーキーを目指す、日本の1910年代、20年代における大正デモクラシーの歩みと、日本の朝鮮および中国東北部への「侵略」との間には、なんら関係が存在しないかのような見方を、当然のこととして許してしまう。換言すれば、イギリスや、日本における「異議申し立て」と「参加」の質量ともに「高度化」させていく歩み(すなわち自由に政治に参加して自らの代表者を選ぶ政治の仕組みを実現する歩み)には、中国や朝鮮における国権の歩みを、妨害し、許さないような共時的関係は、何一つ見いだせないとしてしまう。さらには、中国や朝鮮におけるポリアーキー(民権)を目指す歩みを妨害し、許さないのは、両国の国内的要因以外には、一切考えられないこととしてしまうのである。

                      (三)

 ここで議論を整理しておきたい。従来の見方に関して、筆者は、以下のように要約できるとみている。すなわち、中国のナショナリズムの歩み(たとえば治外法権撤廃、関税自主権回復運動をとおして主権国家や国民国家の、またそこから民主主義の実現を目指す歩み)を、阻害し、妨害する要因として、従来の見方は、欧米列強の帝国主義(植民地支配)の歩みが存在しているとの立場である。そうした見方は、欧米列強の帝国主義と、それを生み出す歩みが、中国の主権国家とそれを前提として民主主義実現に向かう歩みを妨害ないし阻止していると理解し、捉える傾向にある。そこには、その帝国主義の動きを、もっぱら製品、資本の輸出先や原料・食料の供給地等の確保といった経済的要因に求める見方が確認できる。しかし、そうした経済的要因は、どうして生み出されるのか、と問うていくならば、確かに独占資本家や独占資本主義の利益、利潤の追求という経済的欲求を無視できないものの、問題はそれだけにとどまらない。
 こうした従来の見方に対して、筆者は、次のような見方もできるのではないかと思案している。すなわち、列強を構成する諸国の主権国家、国民国家の「壁」のさらなる強化のためにも(すなわち主権国家、国民国家の安定かつ確固とした歩みのためにも)、またそれを介して国民が各人の「衣食足りて」の営為に、よりスムーズに与れるためにも(すなわち、国民経済の安定的発展のためにも)、またそうした動きと連動した国民のさらなる人権と福祉の向上のためにも(すなわち、「(自由主義的市民的自由を前提とした)民主主義の発展」の「高度化」のためにも)、必要不可欠なものとして位置づけ、理解できる、いやそのように理解しなければならないとみている。  
 このように考えるとき、中国における国権の歩みと、民権(ポリアーキー)の歩みを妨害、あるいは阻止していたのは、欧米列強を構成した諸国の帝国主義の動きだけではなく、それと密接に結びついた、それら諸国の主権国家、国民国家、国民経済の発展に見る国権の歩みと、自由主義、民主主義の発展に見る民権の歩みではなかったのか。すなわち、中国と欧米諸国との間には、主権国家、国民国家の歩みとポリアーキーの歩みが、まさしく共時的関係として構成されてきたのであり、そうした関係の存在こそが、中国における国権と民権の「幸福な結婚」を許さなくさせていたのではないか、このように筆者は考えるのである。

                    (四)

 それゆえ、次に問題となるのは、そうした「渾然とした関係」を、どのように描けばいいのかということになる。付言すれば、その問題は、まさに孫文のいう三民主義がどのような関係の下に実現するかを描くことでもある、と筆者は理解している。筆者は、いわゆるナショナリズムとは、孫文のいう三民主義を、その構成要素としている、と位置づけ、理解している。それは、民族主義、民生主義、民権主義の三つの主義から成るが、そこでいう民族主義とは国権(主権国家、国民国家の建設の歩みに、民生主義とは、国民経済の建設に、そして民権主義とはポリアーキーの歩みに、それぞれ重なっているのがわかるであろう。
 こうした点を確認した上で、さらに論を展開していきたい。これまで筆者の話にお付き合いいただいた読者には、よくお分かりのことだと推察するのだが、筆者は、例の普遍主義に関するモデルを構想することによって、以下のように、「民主主義」の実現に際して、引き起こされるいくつかの深刻な問題の存在に、目を向ける必要性に気がついたのである。先進諸国における民主主義の発展の歩み。換言すれば、民権の歩みは、中進諸国、後進諸国の[  ]で示した、主権国家と国民国家の形成、発展に向かう歩みを、換言すれば、国権の歩みを、妨害ないし阻止する、そうした関係を構成しているということである。清朝末以降の、そして中華民国成立以降の中国における[  ]の形成と発展は、先進諸国の民主主義の発展の歩みにより大きく損なわれてしまう。さらにそれは中華人民共和国の成立以降の中国本土においても、また蒋介石率いる台湾においても、同様に妨害ないし阻害され続けていく。中国と台湾における「一つの中国」に向かう歩みをつくりだしたそもそもの原因は、すなわち、中国における「内戦」「国共合作」の歴史も含んでいるが、その原因となっているのは、まさに筆者の普遍主義に関するモデルで描く例のセカイと、そこでのAの民主主義(民権)の発展の歩みにあったといっても過言ではない。
ところが、こうした筆者の見方は、ほとんど支持を得られないのである。「一つの中国」を目指す歩みは、すなわち、中国におけるナショナリズムの歩みは(また、それを構成する一つの要素である国権の歩みは)、中国と台湾の両者に限定された「固有の(国内的)」問題であるかのように取り扱われてきた。つまり、筆者のモデルのあのセカイから、同時にまた、そこにあるAの民主主義の発展からも、切り離されてしまったのである。もっとも、こうした両者の関係を切り離すことによって、中国と台湾の民主主義の実現に向かう歩みを、ポリアーキーを物差しとして、測定することが可能となったのである。もし、これまで筆者が指摘してきたように、A、B、Cにおける国権と民権の各々の歩みを、共時的関係として位置づけ理解したならば、そうした関係に刻印される差別と排除の仕組みを前提として形成、発展してきた、Aの先進諸国の民主化の歩みをもとに構想されたポリアーキー(概念)を、民主化の比較の物差しとして採用することには、おそらく躊躇したのではなかろうか。ところが、これに対して、多くの台湾、中国研究者における民主化研究は、筆者のモデルで描かれているA、B、Cにおける国権と民権の歩みに見られた共時的関係が個々ばらばらに切り離されて、位置づけ理解されてきたのである。やはり、この物差し(ポリアーキー)に代わる、あらたな物差しが求められなければならないのではなかろうか。

(引用、終わり)

(今回の記事はここまで)

 


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(再論・再考)「あの戦争」は、どうして引き起こされたのか(前)

2021-01-10 | 日記

 


(再論・再考)「あの戦争」は、どうして引き起こされたのか(前)


(最初に一言)

前回記事の(最後に一言)において、次のように述べていたくだりがある。すなわち、〈その米国の三民主義の実現の歩みと日本のそれが、その歩みの途上における自己決定権の獲得を巡る争奪戦としての「あの戦争」に導かれていくのである。〉のくだりだが、勿論、そこでの米国と日本の三民主義実現の歩みと自己決定権を巡る争奪戦には、には、さらに中国を始めとした東アジアや東南アジア諸地域とその宗主国の欧米列強やその他、世界の諸国と諸地域の三民主義実現の歩みと自己決定権を巡る争奪戦が、相互に関係しながら含まれているのが、想像できるのではあるまいか。


こうした点を鑑みるとき、「あの戦争」はデモクラシーを全体主義体制から守るための戦争として、簡単に位置付けることはできないし、そこで語られている「デモクラシー」や「全体主義」なるものを、私が論述してきたような三民主義の実現の歩みとその歩みにおいて繰り返されてきた自己決定権を巡る争奪戦の関係史の中で、再確認すると同時に、再定義し直す必要性に迫られるのではなかろうか。

それを踏まえながら、今一度ここで、私の語る「システム」論で提示した「普遍主義」モデルに依拠して改めて「全体主義」国の脅威から守ろうとした「デモクラシー」国を図式で描き直すとき、以下のように示される。たとえば、それは

{[Aの民主主義の発展]→(×)[Bの民主主義の発展]→×[Cの民主主義の発展]}ー①(言うまでもないことだが、この図式は、「発展」における「格差(カクサ)」を示すと同時に、差別と排除の関係を示している。)

この①で描かれる関係全体を前提として実現した[Aの民主主義の発展]段階を引き受ける諸国ということになる。ここにある民主主義の発展は、三民主義の民権主義と関係している。

なお、図式の一番外側にある記号{ }は、覇権システムを示している。またA、B、Cの外側にある[ ]は、主権国家、国民国家を示している。三民主義の民族主義と関連している。Cは植民地や従属地状態に置かれていることから、記号ではっきりと示されない場合がほとんどである。これに対して、Aは一番しっかりとした形で描かれる。BはAと比べれば、なお国家の「壁」(国境線)は薄いと考えていい。

それに対して、「全体主義」国とは、①の関係全体を前提とした[Bの民主主義の発展]段階を担う諸国である。

またこの図式に、三民主義の民生主義と関係する経済発展を示すとき、次のようになる。

{[Aの経済発展]→(×)[Bの経済発展]→×[Cの経済発展]}-②

そして、ここに示した「民主主義の発展」と「経済発展」の関係を、「衣食足りて礼節を知る」、[衣食足りず礼節を知らず]、その両者の中間として「衣食足りて・足りず礼節を知る・知らず」と呼応させて改めて描くとき、以下のようになる。

{[Aの経済発展→Aの民主主義の発展]→(×)[Bの経済発展→Bの民主主義の発展]→×[Cの経済発展→Cの民主主義の発展]}-③

なお、この図式は逆にCからB、そしてAへとなるように図式できるのだが、ここでは省略しておく。

さらに③の図式を、「衣食足りて礼節を知る」に置き換えるとき、以下のようになる。

{[Aの衣食足りてAの礼節を知る]→[Bの衣食足りて・足りずBの礼節を知る・知らず]→[Cの衣食足りずCの礼節を知らず]}-④

なお、この図式はもまた、逆にCからB、そしてAへとなるように図式できるのだが、ここでは省略しておく。

ここで注意してほしいのは、①から④の図式はすべて共時態型モデルであるという点である。すなわち、①の図式の関係全体の中で、「Aの民主主義の発展」が初めてつくり出されるという意味である。同様に、B、Cの民主主義の発展に関してもそうだということである。

こうした関係は、A、B、Cの「経済発展」の関係においても、また「経済発展→民主主義の発展」、「衣食足りて礼節を知る」の関係においても、等しく該当している。たとえば、「Cの衣食足りずCの礼節を知らず」の関係は、④の図式全体の中で、初めてつくり出されることから、Cにそうした関係が一方でつくられるのと相呼応する形で、他方において、「Aの衣食足りてAの礼節を知る」、あるいはまた、[Bの衣食足りて・足りずBの礼節を知る・知らず]の関係がつくられていくのである。

さらに付言すれば、[ ]の記号で示す民族主義の関係においても、①から④の図式で描かれる全体像と同じように、民族主義の発展においても、そうした全体像がつくられているのである。すなわち、それは以下のように示される。
{Aの[ ]→(×)Bの[ ]→×Cの[ ]}-⑤

この⑤は、さらに以下のようにも図式できる。
{[A]→(×)[B]→×[C]}-⑥

その際、ここで読者に注意してほしいのは、以前の記事の中で、たびたび(省略形、共時態型もでる)として、すぐ上の図式⑥と同じようなモデルを提示していたのだが、そこで私が意味していたのは、③と④の図式の全体像を省略した形で示すときのモデルであることに、留意してほしい。断りのない限り、民族主義の関係の全体像は、⑤の図式で示すこととする。

これらの図式のモデルを念頭におきながら、以下に中国の治外法権撤廃と関税自主権の廃止を求めるナショナリズムに関わる動きを改めて語り直すとき、次に引用した拙論のくだり〈2(一)(二)(三)(四)〉となる。正確には、第2段落目のくだり(二)からになる。なお、第1段落目のくだりの内容に関しては、いずれ別の機会で触れることとしたい。

以下の拙論でも指摘しているように、話をわかりやすくするために、Aグループには欧米列強のうち、「市民革命」と「産業革命」を経験したとされる英・米・仏国を、Bグループには、欧米列強の独・伊・露国と日本を、Cグループに中国をそれぞれ位置付けていることを、断っておきたい。


(拙論の引用、始め)


2 筆者の「普遍主義」モデルからみる中国の「ナショナリズム」(論)の問題点

                     (一)

そもそも、それではこうした差別と排除の関係を前提としない、民主主義実現の歩みとは、どのようなものなのか。そのためには何よりも筆者の普遍主義に関するモデルで描くAの国権とBの国権またCの国権の関係を、従来の差別や排除のそれに代わるものにする必要がある。また、そのためには、これまでの世界的な「衣・食・住」のネット・ワークのあり方を見直す必要がある。そのことは、従来の民主主義(論)のあり方を、関係としての民主主義論に、置き換えていかなければならない。付言するならば、この作業は民主主義のみならず、普遍主義についても等しく該当すると筆者はみている。「一国枠」の「幸福な結婚」論ではない、「関係」を前提とした「幸福な結婚」論を提示しなければならないだろう。そうすることによって、初めて関係論の観点から民主化の比較を行う物差しを手に入れることが可能となるのではなかろうか。その意味では、筆者の普遍主義に関するモデルは、そうした一つの物差しを提供するものである。(9)
 もちろん、この作業は果てしなく困難の連続に直面し続けることは必至である。中国研究者のみならず、当の中国人が、これまで述べてきた(国造り)における差別や排除の問題を、疑問視ないし批判するというよりは、それを当然とするグローバル化の世界に入ってきている。中国とアフリカ諸国との国権と民権の関係の歩みをみるとき、そうした差別と排除の関係が至る所で顕在化している。(10)もちろん忘れてならないのは、その関係には、当然ながら中国を拠点として展開する先進諸国の多国籍企業とその国民もそうした国権と民権の関係を担っている。この関係を、筆者のモデルで描くならば、{[B]→(×)[C]→×[A]}である。その中で、それを所与の前提としながら、「公的異議申し立て」や「参加」を要求する「段階」に至ったのである。その意味では、中国人の人権活動家に対するノーベル平和賞の授与は、筆者のモデルで描く、B、C、Aの国権と民権の三者の関係の歩みを、中国政府が忠実に辿ってきたことに対する「ご褒美」だと理解するのも可能ではあるまいか。すなわち、本当の受賞者は、西側先進諸国から常日頃、一党独裁だと揶揄されてきた共産党指導下にある中国政府・国家であった、と筆者は理解している。

                      (二)

 ところで、19世紀中葉から20世紀の半ばにかけて、ほぼ1世紀にわたる中国の治外法権撤廃運動、関税自主権回復運動は、まさに中国における国権の歩みに他ならないのだが、それらの運動は、主権国家、国民国家、国民経済の確立と、その維持、発展に関わるものであった。ここでの問題は、そうした中国における国権の歩みは、当時の先進諸国、中進諸国、後進諸国との国権の歩みと、共時的関係に置かれていたと同時に、それら諸国における、民権の(高度化を目指す)歩みとも、共時的関係におかれていたということである。そのことは、イギリス、フランスの国権の歩みが、また日本のその歩みが、中国における国権の歩みを差別、排除する(具体的には阻止、妨害する)のみならず、中国における民権の歩みを差別、排除していく(具体的にはそれを阻止、妨害する)と同時に、イギリス、フランスなど先進諸国の民権の歩みが、また中進諸国の日本の歩みが(日本は第一次世界大戦後のべルサイユ講和会議において「一等国」の仲間入りを果たしたと自認していたが)、中国における国権の歩みを阻止、妨害するような共時的関係を、つくり出していることを、意味していた。日本の中国への「侵略」により、中国はその国民経済の基盤づくりの上で、多くの障害に直面していたことが理解できる。もちろん、そこには、欧米列強といわれた諸国の存在も同様に、中国の国づくりを妨げていたことを、忘れてはならない。
 それではここで、こうした問題を筆者のモデルを使いながら、もう少し論究しておきたい。先ずは国権の歩みに関するモデルである。筆者はそれを「自己決定権」を意味する者として、[  ]で描いている。こうした国権の共時的関係の歩みのなかで(Aをイギリスやフランス、アメリカに、Bを日本に、そしてCを中国に置き換えてみるとき、よくその関係が理解できるが)、同時にまた「衣食足りて礼節を知る」という経済発展と民主主義の発展の共時的関係の歩みが(ここでもAをイギリス、フランス、アメリカに、Bを日本に、そしてCを中国に置き換えてみればよくわかるが)、すなわち民権の歩みが、展開していく。こうした両者の歩みにおいて、丸山真夫が述べている「幸福な結婚」を実現できる諸国(Aグループ)と、そうでない諸国、諸地域(Cグループ)が、共時的につくり出されている、と筆者はみている。

                     (三)

 筆者のように、ナショナリズムの主要な構成要素である、国権と民権の両者の歩みを、相互に、共時的関係の観点から描く者からすれば、中国研究者による、民主主義論や民主化論は、たとえ便宜的な事情を考慮しても、(たとえば、当該研究者が取り扱うテーマが国権の(歩み)に限定して論じているとか、または民権の歩み(民主主義やポリアーキー)に限定して考察していることを、了解したとしても)、国権の歩みと民権の歩みを、あまりにもそれぞれを個別に取り上げながら、各々を分離独立した歩みとして位置づけ捉えているために、国権と民権の、両者の歩みが、相互に関連、関係しながら実現するという重要な視角ないし視点が、最初から欠落していると言わざるをえない。そうした意味では、中国研究者による中国のナショナリズムに関する論考は、筆者からすれば、多くの問題を抱えていると言わざるをえないのである。
 もっとも、そうは言うものの、多くの中国研究者にとって、自由主義、民主主義、民族主義、帝国主義の歩みは、それぞれ独立した歩みとして、学習され理解されてきたことからこそ、上述したように、筆者にとっては安易に許されないような差別と排除の関係を前提とする国権と民権の関係の歩みを、平気で、また無頓着に受容することによって、そうした関係からつくり出された(自由主義的)民主主義を、比較政治学や国際関係論における民主化研究の物差しとして、採用してきたのであり、また採用できるのだとみている。
しかしながら、筆者は、ポリアーキーを中国における民主化研究の物差しとして採用する中国研究者に対して、一言申し述べたいのである。たとえ採用するにしても、それでもそうした採用の前提作業として、その物差しが、筆者がこれまで論及してきたように、差別と排除の関係を前提として成立するのか、あるいは、しないのかに関して、やはりどうしても証明しなければならないのではあるまいか。これについては、司馬遼太郎もかつて自由主義、民主主義、民族主義、帝国主義の間には「渾然とした関係」が存在していることを認めていた。(11)もっとも、彼はそう指摘するだけで、それ以上は語ってはいないが、非常に重要な指摘である、と筆者はみている。これに対して『昭和史』の論者たちが「あの戦争」の原因として「三つの性格」を各々独立したもの(性格)として描いているのとは、対照的である。

                     (四)

 こうした点を踏まえて、さらに論を展開したい。先の日本の中国への「侵略」は、あるいはイギリス、アメリカ、フランスなどの「侵略」は、筆者のモデルのどこに示されるか、あるいは、モデルでどのように描けるかを考えてほしいものである。アヘン戦争から第二次世界大戦までの当時の中国を、Cとみるか、Bの下位に位置しているとみるか、この問題も大事なのだが、ここでは議論をわかりやすくするために、Cの上位グループに位置づけておきたい。そうすると、筆者のモデルの{[A]→×[C]}、{[B]→×[C]}の関係それ自体のなかに、「侵略」が組み込まれていることが理解されよう。そのことは、{[A]の経済発展(衣食足りて)→[C]の経済発展(衣食足りず)}、{[B]の経済発展(衣食足りて・足りず)→[C]の経済発展(衣食足りず)}および{[A]の民主主義の発展(礼節を知る)→×[C]の民主主義の発展(礼節を知らず)}、[B]の主主義の発展(礼節を知る・知らず)→×[C]の民主主義の発展(礼節を知らず)}の関係のなかに、「侵略」が組み込まれていることを表している。(12)
 筆者が読者にいい続けてきたのは、このような関係(J・ガルトッングの「構造的暴力」にならって「構造的圧力」とでも呼びうる関係)(13)は、誰の目にもそうだとわかる「侵略」とか、「抑圧」の出来事(事実)に関係なく、存在しているということを物語っている。また、それは「全体主義体制」、「(官僚主義的)権威主義体制」「軍国主義体制」の存在の有無に関係なく続いているのであり、その意味では、目に見えない「侵略」が、「侵略戦争」とはみなされないとしても、まさに「民主主義」の実現する歩みのなかで生じているのである。
 付言すれば、アメリカのイラクやアフガニスタンに対する「戦争」は、「ブッシュによる戦争」とか「帝国主義」の戦争としてよく批判されるのだが、筆者がこれまで主張してきたのは、「(自由主義的)民主主義」の実現に向かう歩みの中で、換言すれば、「正しい軌道」を歩む上で、そうした戦争・センソウがつくり出されてきたということであり、それゆえ、そうした民主主義を目指すことを望ましいとすることに対して、異議申し立てをしなければならないということであった。(14)またその際、アメリカによる、ブッシュによる「単独行動主義」は問題だが、「多国(極)間行動主義」であれば問題はないとの見方も「木を見て森を見ない」議論であったといわざるをえない。ある時は単独で、またあるときは多国間で、筆者がここで非難、批判し続けてきた「民主主義」とその実現を支えてきたという点ではなんら変わりない。

(以上、引用、ここまで)

(最後に一言)

少しややこしくなってしまったかもしれない。中国ナショナリズムに関する拙論の引用と紹介、そして解説が主たる目的ではあるが、さらに、そこに「あの戦争」を引き起こした原因を探る意図を重ねながら、語り直してみようと考えている。もともと拙論を書いていたときにも、戦間期の中国ナショナリズムと「あの戦争」を結び付けようとしていたのは確かであったが、もう少しこだわって論じていきたい。

(今回記事、ここまで)


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