(再論・再考)「あの戦争」は、どうして引き起こされたのか(中)-従軍慰安婦問題→日本の軍部と日本国と日本国民→「あの戦争」→朝鮮半島と中国大陸と大日本帝国→「アヘン」を介した経済発展とA、B、Cグループ間における「自己決定権」の獲得を巡る「三つ巴」の争奪戦→「普遍主義」と「システム」とその関係の歩み
今回のタイトルをみながら、その流れ(→)に含まれる歴史的関係性を考えてほしい。いま従軍慰安婦問題に関する韓国での裁判が取りざたされているが、その従軍慰安婦問題の背後に存在する問題を考えるとき、そこからさらに、日本の軍部と日本国と日本国民による「侵略」戦争となる。
ここで注意したいのは、いわゆる「風化」とは恐ろしいもので、従軍慰安婦問題とその原因を、日本の軍部や一部の暴走軍人、あるいは特定の日本企業に矮小化させるかのような議論が横行し、日本国家の問題と切り離すかのような雰囲気が醸し出されている。ましてや日本国民には関係のないかのような問題とされている。
それゆえ、従軍慰安婦問題の背後に、当然のこととして存在していた「あの戦争」までも、その全体像を把握し理解することができなくなっても不思議ではないだろう。私がここで言う全体像とは、何もすべてにわたり詳しく描かれるそれではなく、おおよその輪郭である。
「あの戦争」についての「全体像」を、私たちの学校教育は教えてこなかったのは確かなことである。私たちは、「太平洋戦争」として「あの戦争」を教えられてきたが、「あの戦争」は何も米国との戦争だけではなかった。むしろ朝鮮半島や中国大陸を拠点として建設された大日本帝国(そこにはもとより日本国と日本国民も含まれている)による戦争であり、その軍資金というか帝国の財源となったのは、朝鮮半島や満州国で栽培されたアヘン取り引きによる巨額の儲けであった。
ところで、そうしたアヘン取引を介した日本の経済発展(「衣食足りて・足りず」)に呼応した当時の日本の民主主義の発展(「礼節を知る・知らず」)を語るとき、いわゆる「大正デモクラシー」を忘れるわけにはいかないのだが、その大正デモクラシーを支えた経済発展がこうしたアヘン取引を介したものであったということにも、私たちは目を向ける必要があるだろう。
さらに、日本の民主主義の発展の段階である「礼節を知る・知らず」と呼応して、Cグループの大日本帝国下の朝鮮国や満州国の民主主義の発展段階、すなわち「礼節を知らず」の状態に据え置かれている両者の関係にも目を向ける必要がある。さらに、そこからAグループの民主主義の発展段階である「礼節を知る」に呼応して、日本の民主主義の発展段階が据え置かれている、そうした両者の関係にも目を向けることが必要である。
(急いで付言すれば、こうした文脈の下で、敗戦後の占領下の日本の民主主義、すなわち戦後民主主義の発展の段階を再考すれば、必ず逆コース以前においても、また以後においても、自己決定権の獲得を巡る争奪戦における差別と排除の関係を前提として、戦後民主主義の実現が可能となったということがわかるのである。)それゆえ、戦後民主主義を守るという場合、つまりは戦後憲法を守るというとき、それは先の図式で描かれる差別と排除の関係を支持し、そうした構造をさらに強化することに与るのである。
そうしたA、B、Cグループ間における民主主義の発展段階の関係に目をやるならば、そこから同時にまた、それらのグループ間の経済発展の関係にも目を向ける必要に気が付くはずである。さらに、それぞれの経済発展と民主主義の発展の関係にも目を向けることが大切となる。たとえば、{[Aの経済発展]→×[Cの民主主義の発展]}、{{Bの民主主義の発展]→×[Cの経済発展]}という関係である。朝鮮半島と中国大陸において、自己決定権の獲得を巡る争奪戦が繰り返されているのである。
こうした自己決定権の獲得を巡る争奪戦は、何も朝鮮半島や中国大陸に限定されない。それは、「あの戦争」の時期、ヨーロッパやアフリカ、中東、南アジアや東南アジア、アメリカ(北・中・南・米)に至る全世界において、展開されていたのである。そうした争奪戦の原因を考えていくとき、そこには、いわゆる自由や民主主義、市民的権利、法の支配、平和と言った「普遍的価値」を、人種や肌の色や国家や国民を問わず、全世界の老若男女に受容させようとする動き、すなわち普遍主義が与っていたことがわかるのである。
その代表的例が、通商の自由、すなわち営業の自由とそれにより獲得された富の安全を保障する私的財産権の自由が挙げられる。不思議というかおかしなことに、そうした普遍的価値の「一部」の実現は不平等条約の締結を迫られた清朝下の中国や幕末期の日本においても実現した、認めさせられたのだ。ただし、国家の主権は認められないままに半植民地状態に置かれたのである。
ところで、清朝下の中国や幕末期の日本において、普遍的価値の一部は上から認めさせられたのに対して、治外法権の廃止や関税自主権の撤廃は許されないままにおかれたのだが、そこには、こうした普遍的価値と普遍主義を背後でつくり出し、それを支える構造(仕組み)が存在していた。私のモデルで描く「システム」とその関係の歩みがそれである。
そうした構造によって、竹山道雄が「ハイド氏の裁判」で述べていたように、「文明」は、(すなわち、そこには先の普遍的価値が含まれていると理解してもかまわないが、)「富める国」においては神々しいい「ジーキル博士」の様相を帯びるのに対して、「貧しい国」においては、どう猛な形相を示す「ハイド」が生み出されるのだ。
こうしたジーキルとハイドの関係における「文明」の、すなわち普遍的人権(市民的権利)における「格差(カクサ)」をつくりだす構造、換言すれば、私の語る「システム」論で描く「システム」とその関係の歩みこそが、従軍慰安婦問題を考える際に、俎上に載せられるべき問題なのだが、それを期待することはとても望めないのは、私にも悲しいけれど、よくわかっている。
孫文の三民主義と私のモデルとの相違点
それでは、少し気を取り直して、前回の話の補足をしておきたい。私の語る「システム」論のモデル(それはすべてのモデルを示してはいないが、前回記事で紹介した図式③④のみを今は取り上げている)と、孫文の三民主義の違いについて、ここでまた少し考えてみたい。既に以前の記事でも、それに関しては触れていたが、以下に図式のモデル③を基に、孫文の三民主義と結び付けて述べてみたい。
{[Aの経済発展→Aの民主主義の発展]→(×)[Bの経済発展→Bの民主主義の発展]→×[Cの経済発展→Cの民主主義の発展]}-③
孫文の三民主義とは、民族主義、民生主義、民権主義ノミッの要素から構成されていたが、これらをすぐ上の私のモデルと結び付けて語るとき、以下のように要約できる。まず、孫文の三民主義には、覇権システムが含まれていない。つまり帝国主義が語られないことになる。こうした点を踏まえて、さらに論を展開してみよう。
前回、引用紹介した中国ナショナリズムの歩みに関する拙論から理解できるのは、中国が民族主義を実現する歩みは、同時に中国による中国を抑圧してきた欧米列強や日本等の他国(諸外国)の三民主義実現の歩みとそれにより引き起こされる構造的圧力から、自らを解き放つ、すなわち「解放」闘争として描き直されるということである。(付言すれば、香港の民主化運動、パレスチナにおける対イスラエル独立闘争、アイルランドの対英独立闘争も、こうした「解放」を目指すうごきに他ならない、と私はみている。)
それは、Cの中国によるBの独・伊・露国と日本、Aの英・米・仏における三民主義の実現の歩みとそれにより引き起こされる構造的圧力からの解放闘争を意味していた。より具体的に言えば、前回の記事で紹介した③④の図式の全体像から、Cの中国の[経済発展→民主主義の発展]を、別言すれば、[衣食足りず礼節を知らず]の関係を、Cの中国と中国人が自らの手によって、抜き出す(取り出す)ことを意味していたのである。
それはすぐさま、親分ー子分の力と力の暴力関係に象徴される帝国主義からつくり出された覇権システムからの解放を意味していたのだが、そのためには、まずは独立できなければならないことを意味していた。これは非常に厄介な問題を導くことになるのである。なぜなら、自らを解き放つ、図式全体の関係から引き起こされる構造的圧力から自らを開放するためには、おかしなことなのだが、その図式全体の関係の中に、そして中国が引き受けざるを得なかった図式のCの発展段階を、結局は引き受けることを余儀なくされたからである。
中国にすれば、それは仕方のないことであった。力のある者との関係の中で、力のない者は、無条件に前者の要求を呑まざるを得なかったために、図式全体のCに位置づけられたことから、まずはそこからの解放闘争とならざるを得ないということである。そのために、図式全体の関係とその下で引き起こされる構造的圧力を、抗いながらも、どうしても受容していく、いかざるを得ないのである。
そして、それに従う中で、やがてはそうした関係全体の支配ー従属関係とそれに伴う差別と排除の関係を、自らも学習する内に、私のモデルで語る「システム」とその関係の歩みを支え、担うことを避けられなくなっていくのである。こうして、かつての侵略された歴史を持つ国も、侵略する側に回っていくのだ。こうした関係を十分に理解しないままに、戦争を巡る戦争犯罪、加害と被害、謝罪、戦争責任等に関する議論は皮相的となるのは必至とならざるを得ない。
それでは最後に、次回の話との関連から、拙論の〈3(一)(二)(三)(四)〉を、以下に引用してぉきたい。
(引用、始め)
3「中国は一つ」という主張と中国と台湾の「民主化」論の整合性について
(一)
しかしながら、現実の比較政治学では、相も変わらず丸山の「幸福な結婚」論やR・ダ-ルのポリアーキーや、ユルゲン・ハーバーマスの「憲法愛国主義」にあるような「(自由主義的)民主主義」を比較の「物差し」として、換言すれば、われわれの目指すべき、また選択すべき「正しい軌道」として、採用され続けている。たとえば中国と台湾における「民主主義」の実現の歩みに関する研究にも、そうした物差しを採用していることが窺える。比較の作業のためには、同じ物差しを使う必要があるのは当然だとしても、問題は、その物差しとして従来のように「一国枠」モデルを、そのまま、採用してもかまわないのかという問題が残るのではあるまいか。
ここでは二つの事例をあげておきたい。最初に、台湾の民主化と、中国の民主化の歩みを、比較政治学の民主化を測定する物差しであるポリアーキーを使って測る際、どのような問題が生起するのだろうか。それについて少し考えて欲しい。たとえば、台湾政治研究者の民主化の歩みを見る眼をみてみよう。若林の著作において採用されている民主主義の実現を測定する物差しは、R・ダ―ルのポリアーキー(概念)であることがわかる。また、これは丸山の「幸福な結婚」論のそれと同じものだとみることができる。これに対して、次に中国政治研究者の民主化の歩みを見る眼についてみてみるとき、以下のようなことがわかる。すなわち、毛里和子やその他の研究者の物差しをみれば、やはりポリアーキーなのである。それでは、そこから次に、一体どのような問題が導かれることになるのだろうか。
簡単なところからみていきたい。たとえば、中国と台湾での「中国は一つ」というナショナリズムの、とりわけ国権の歩みについての、主張を、筆者はこれまでたびたび耳にしてきたが、それではここにある「中国は一つ」というナショナリズムのスローガンは、当然ながら、中国と台湾における民主化の歩みと相互に共時的に関係したものとして位置づけられなければならないはずである。ところが、先の台湾と中国の民主化を語る研究者においては、台湾と中国のナショナリズムの、国権と民権(ポリアーキー)の実現の歩みが、切り離されてしまっていることがわかる。
すなわち、中国のポリアーキーを目指す歩みは、台湾の国権の歩みと、また台湾のポリアーキーを目指す歩みは、中国の国権の歩みと、切り離されて語られている。中国のポリアーキーを目指す歩みにより、台湾の「独立」が妨害されている。逆から見れば、台湾のポリアーキーを目指す歩みが、中国の「独立」を妨害しているのだが、残念ながら、台湾と中国の民主化研究者は、こうしたナショナリズムにおける、国権と民権の、両者の共時的関係の歩みに垣間見られる、重要な論点を提示できないのである。
(二)
ところで、すぐ上で指摘したように、台湾と中国における国権と民権の、両者の歩みを、共時的関係として位置づけ、捉え直せないままにあった、台湾と中国の民主化研究者の姿勢は、19世紀中葉から20世紀の前半に至る中国の治外法権撤廃運動、関税自主権回復運動の歩み(すなわちナショナリズムの国権の歩みに他ならない)を(15)、欧米列強のポリアーキーに向けての、(すなわち、民権の実現目指す)歩みと、共時的関係として位置づけ、捉え直すことのできない、現在の研究姿勢に、そのまま、直結している。ここでも彼らは、両者の共時的関係を、個々別々に切り離して語る従前の姿勢を保持したままである。
それゆえ、彼らの研究は、イギリスのポリアーキーを目指す歩みと、中国における国権の歩み(すなわち中国統一を目指す歩み)を、共時的関係として捉えることに代えて、各々を切り離して取り上げ、個別の問題として論じることに甘んじてしまう。(16)ポリアーキーを目指す、日本の1910年代、20年代における大正デモクラシーの歩みと、日本の朝鮮および中国東北部への「侵略」との間には、なんら関係が存在しないかのような見方を、当然のこととして許してしまう。換言すれば、イギリスや、日本における「異議申し立て」と「参加」の質量ともに「高度化」させていく歩み(すなわち自由に政治に参加して自らの代表者を選ぶ政治の仕組みを実現する歩み)には、中国や朝鮮における国権の歩みを、妨害し、許さないような共時的関係は、何一つ見いだせないとしてしまう。さらには、中国や朝鮮におけるポリアーキー(民権)を目指す歩みを妨害し、許さないのは、両国の国内的要因以外には、一切考えられないこととしてしまうのである。
(三)
ここで議論を整理しておきたい。従来の見方に関して、筆者は、以下のように要約できるとみている。すなわち、中国のナショナリズムの歩み(たとえば治外法権撤廃、関税自主権回復運動をとおして主権国家や国民国家の、またそこから民主主義の実現を目指す歩み)を、阻害し、妨害する要因として、従来の見方は、欧米列強の帝国主義(植民地支配)の歩みが存在しているとの立場である。そうした見方は、欧米列強の帝国主義と、それを生み出す歩みが、中国の主権国家とそれを前提として民主主義実現に向かう歩みを妨害ないし阻止していると理解し、捉える傾向にある。そこには、その帝国主義の動きを、もっぱら製品、資本の輸出先や原料・食料の供給地等の確保といった経済的要因に求める見方が確認できる。しかし、そうした経済的要因は、どうして生み出されるのか、と問うていくならば、確かに独占資本家や独占資本主義の利益、利潤の追求という経済的欲求を無視できないものの、問題はそれだけにとどまらない。
こうした従来の見方に対して、筆者は、次のような見方もできるのではないかと思案している。すなわち、列強を構成する諸国の主権国家、国民国家の「壁」のさらなる強化のためにも(すなわち主権国家、国民国家の安定かつ確固とした歩みのためにも)、またそれを介して国民が各人の「衣食足りて」の営為に、よりスムーズに与れるためにも(すなわち、国民経済の安定的発展のためにも)、またそうした動きと連動した国民のさらなる人権と福祉の向上のためにも(すなわち、「(自由主義的市民的自由を前提とした)民主主義の発展」の「高度化」のためにも)、必要不可欠なものとして位置づけ、理解できる、いやそのように理解しなければならないとみている。
このように考えるとき、中国における国権の歩みと、民権(ポリアーキー)の歩みを妨害、あるいは阻止していたのは、欧米列強を構成した諸国の帝国主義の動きだけではなく、それと密接に結びついた、それら諸国の主権国家、国民国家、国民経済の発展に見る国権の歩みと、自由主義、民主主義の発展に見る民権の歩みではなかったのか。すなわち、中国と欧米諸国との間には、主権国家、国民国家の歩みとポリアーキーの歩みが、まさしく共時的関係として構成されてきたのであり、そうした関係の存在こそが、中国における国権と民権の「幸福な結婚」を許さなくさせていたのではないか、このように筆者は考えるのである。
(四)
それゆえ、次に問題となるのは、そうした「渾然とした関係」を、どのように描けばいいのかということになる。付言すれば、その問題は、まさに孫文のいう三民主義がどのような関係の下に実現するかを描くことでもある、と筆者は理解している。筆者は、いわゆるナショナリズムとは、孫文のいう三民主義を、その構成要素としている、と位置づけ、理解している。それは、民族主義、民生主義、民権主義の三つの主義から成るが、そこでいう民族主義とは国権(主権国家、国民国家の建設の歩みに、民生主義とは、国民経済の建設に、そして民権主義とはポリアーキーの歩みに、それぞれ重なっているのがわかるであろう。
こうした点を確認した上で、さらに論を展開していきたい。これまで筆者の話にお付き合いいただいた読者には、よくお分かりのことだと推察するのだが、筆者は、例の普遍主義に関するモデルを構想することによって、以下のように、「民主主義」の実現に際して、引き起こされるいくつかの深刻な問題の存在に、目を向ける必要性に気がついたのである。先進諸国における民主主義の発展の歩み。換言すれば、民権の歩みは、中進諸国、後進諸国の[ ]で示した、主権国家と国民国家の形成、発展に向かう歩みを、換言すれば、国権の歩みを、妨害ないし阻止する、そうした関係を構成しているということである。清朝末以降の、そして中華民国成立以降の中国における[ ]の形成と発展は、先進諸国の民主主義の発展の歩みにより大きく損なわれてしまう。さらにそれは中華人民共和国の成立以降の中国本土においても、また蒋介石率いる台湾においても、同様に妨害ないし阻害され続けていく。中国と台湾における「一つの中国」に向かう歩みをつくりだしたそもそもの原因は、すなわち、中国における「内戦」「国共合作」の歴史も含んでいるが、その原因となっているのは、まさに筆者の普遍主義に関するモデルで描く例のセカイと、そこでのAの民主主義(民権)の発展の歩みにあったといっても過言ではない。
ところが、こうした筆者の見方は、ほとんど支持を得られないのである。「一つの中国」を目指す歩みは、すなわち、中国におけるナショナリズムの歩みは(また、それを構成する一つの要素である国権の歩みは)、中国と台湾の両者に限定された「固有の(国内的)」問題であるかのように取り扱われてきた。つまり、筆者のモデルのあのセカイから、同時にまた、そこにあるAの民主主義の発展からも、切り離されてしまったのである。もっとも、こうした両者の関係を切り離すことによって、中国と台湾の民主主義の実現に向かう歩みを、ポリアーキーを物差しとして、測定することが可能となったのである。もし、これまで筆者が指摘してきたように、A、B、Cにおける国権と民権の各々の歩みを、共時的関係として位置づけ理解したならば、そうした関係に刻印される差別と排除の仕組みを前提として形成、発展してきた、Aの先進諸国の民主化の歩みをもとに構想されたポリアーキー(概念)を、民主化の比較の物差しとして採用することには、おそらく躊躇したのではなかろうか。ところが、これに対して、多くの台湾、中国研究者における民主化研究は、筆者のモデルで描かれているA、B、Cにおける国権と民権の歩みに見られた共時的関係が個々ばらばらに切り離されて、位置づけ理解されてきたのである。やはり、この物差し(ポリアーキー)に代わる、あらたな物差しが求められなければならないのではなかろうか。
(引用、終わり)
(今回の記事はここまで)