「沖縄が危ない!」とのこと。それならば「東京は危ない!」を通り越して「日本はもうとっくに終わっている!」のではあるまいかー私の語る「システム」論から、「〈開かずの間〉としての政治領域」の黙認によって、「日本」と「日本人」の自滅へと至る歩みは加速する-私の語る「システム」論から、都知事選関連報道を介して垣間見られる「自滅」へと至る身近な問題を考えるとき(続・続・続・続)
(最初に一言)
それにしても次から次へと「中国脅威」論を煽る?ネタは尽きない。今回は仲新城誠(なかしんじょう・まこと)氏による
〈「沖縄が危ない!」本島よりも「リアルな国防最前線」八重山諸島、首長らの切実な声…かき消すメディア、悪と「戦う覚悟」なしに生命や財産を守れるのか〉(2024.6/8 10:00)と〈「沖縄が危ない!」沖縄・玉城知事〝独自の地域外交〟の危険 訪中も領海侵入には一切抗議せず 中国の「駒」に替えられる親中外交に過ぎない〉(zakzak by夕刊フジ / 2024年6月9日 10時0分)の二つの記事を読みながら、私なりに感じた思いを少しだけ述べておきたい。他の記事も含めて、記事の全文を知りたい方は、先の記事タイトルを検索してほしい。
行論の都合上、少し気になったことがあったのでそれについて先ずは述べてみたい。それは上で紹介した二つ目の記事の中でのあるくだりだ。すなわち、ーーー沖縄県・尖閣諸島周辺の領海に7日、機関砲のようなものを搭載した中国海警局の船4隻が相次いで侵入した。中国海警局は同日、「主権を守るための法に基づく活動だ」「管轄海域でのパトロールを今後強化する」との報道官談話を発表した。「台湾有事は日本有事」といわれるなか、中国の野心は確実に沖縄にも向けられている。こうしたなか、沖縄県の玉城デニー知事は昨年、「親中派の重鎮」である河野洋平元官房長官らと訪中していた。八重山日報編集主幹、仲新城誠氏は、玉城知事が進める「独自の地域外交」の危険に迫った。ーーーである。
このくだりは中国の露骨な対応を指摘しているはずなのに、どういうわけなのか、「沖縄県・尖閣諸島周辺の領海に7日、機関砲のようなものを搭載した中国海警局の船4隻が相次いで侵入した。」にあるように、「侵入」とある。私ならこの状況説明の流れからすれば、また後の記事の内容を踏まえれば、当然ながら「侵犯」としなければ不自然ではないかと思うのだが、そうではない。これとの関連からさらに言えば、日本は「領空」「領海」はもとより、「領土」も中国によって「侵犯」されているはずではあるまいか。もっとも、そんなことを言えば、日本の領土は中国のみならず米国やその他の国の多国籍企業によって、目を覆いたくなるような「惨状」であるに違いない、と私ならば、このような立場の論者ならそのように述べるはずだが、と推察するのだが、そのようにはいかない。まるで安倍元首相の言動とそっくりなのだ。勿論、これは安倍氏だけに限定されるものでもない。
日本の領土における侵犯は、侵入でもなく、当然の経済活動における、それこそ市民革命以降、全世界にわたって宣言された交易と経済活動の自由、そしてそれを介した私的財産を天文学的な額へと太らせることのできる自由権とその活動の権の保障。これらの活動は侵犯でも侵入でもなく、普遍的人権によって保障されたものであり、その活動は無罪放免とされるのだ。私には、こちらの問題の方が、私たち国民の命と暮らしを守る安全保障にとっては、はるかに大打撃を与える、まさしく圧倒的な軍事力にも匹敵する攻撃ではあるまいか、とまたまた過敏症の私はそう感じてしまうのだが。本当におかしいものだ。
日本にとって、諸外国との交易・経済活動は必要不可欠なはずだから、そのためには領海や領空の通行を認めざるを得ない。それゆえ、(中国による)軍艦や潜水艦、ミサイル・戦闘機による行動は侵犯とされるのに対して、(中国による)経済活動のそれは合法的かつ正当化されなければならなくなるはずだ。こうしたいわゆる「ネジレ」の関係を、私たちはいとも簡単に受け入れてきたのだが、どうしてそんなことが可能となったのだろうか。この関係にこそ、私たちは目を向けるべきなのだが、どうもそうはならないのだ。
ここで急いで付言すれば、「ネジレ」として位置づけ理解される関係は、見方を変えれば、ネジレではなく、経済活動と私的財産の肥大化を可能とさせる交易の自由と私的財産権の自由を保障するものである。それゆえ、相互に補完しあう関係でもあるのだ。諸外国からの軍事的脅威を煽りながら、同時にそれに対抗する軍事力の整備・増強の必要性を訴えることによって、軍需産業・軍産複合体の発展が導かれることで、経済活動とそれに伴う利権・利害関係の拡大・拡張となる。両者は共存共栄の関係にあり、こうした関係からつくり出された私の語る「システム」の下で、先述したネジレの関係は合法化・正当化されてしまうのだ。
だが、この関係を、「システム」は、「システム」ご用達のメディア関係者や学識経験者を総動員しながら、ネジレの関係として国民に教育するのだ。それはまさに、「民主主義」(平和)と「帝国主義」(戦争)の関係を「水」と「油」のネジレの関係として世界中の人々を洗脳し続けてきたように、である。そんな関係の中で一番割を食うのは、私たち普通の国民であり、今のウクライナでの線上でたたかわされているロシアとウクライナの兵士とその家族である。また海外からいろいろなルートを介して「調達」された多国籍の傭兵とその家族である。そして今後の情勢の変化に伴い、新たな戦火の拡大によって、今の日本人の中からも、その予備軍として「計算」されている人たちがいる、と私は残念ながら思うのだ。
こうしたネジレでもない相互に補完しあう関係を、あたかも水と油のように、ねじれた関係として位置づけ理解する思考の在り方は、「沖縄が危ない」以上に、私にははるかに危ないのだが、どうもそんな関係を俎上に載せて侃々諤々とはならないのである。本来ならば、都知事選においても重要な争点として候補者は訴えてもおかしくはない争点となるはずだが。勿論、もしそんなことがおこりうるならば、まだまだこの日本も大丈夫であると私は思うのだが、そんな風には決してならない。まあ、こんな詮無いことを言うのはもうやめて、そろそろ本論?に入っていくとしようか。。
私は、仲新城氏の述べるように、確かに「沖縄は危ない」と感じている。だからこそ、東京はもっと危ないし、日本は既に終わっていると感じるのだ。私が不思議に思うのは、中国からの沖縄に対する脅威を感じる感性の持ち主ならば、米国からの東京に対する、そして日本に対する脅威を、沖縄と同等に、否それ以上に感じてもいいはずなのだが、どうしてなのかそのような脅威を感じることはないのだ。米国にはあまりにも甘すぎるのに、中国には逆にあまりにも辛すぎる、そんな評価を下して本当にバランスある外交なり政治ができるのだろうか。
東京の横田基地を含む在日米軍基地を拠点として、日本は米国の支配・管理下に置かれている。こうした事態はもう危ないどころか、終わっていると言っても過言ではあるまい。読者に誤解を与えてはいけないので、ここで少し付言しておくならば、私はだからと言って、憲法を改正して必要であると判断されたときにはすぐさま専守防衛に必要な専守攻撃?をも可能とする国家へと変革すべし云々と主張しているわけではない。米国に対してと同様に、中国に対しても同じように「小日本」の態度でもって向き合うべきであると、先ずは言いたいだけなのだ。
ところが、どうしてなのか、こうした「二正面外交」とはいかないのだ。中国脅威論を説く人たちにはできないのである。もっとも、米国は日本にこうした外交を許そうとはしないから、どうしてできないのか云々ではなく、最初から分かり切ったことなのだが。こうしたおかしな否、愚かしい外交を臆面もなく日本の安全保障のためである云々と嘯(うそぶ)き、日本国民を騙し欺くから、これもオレオレ詐欺の一種である、と私は軽蔑するのだ。正直に、日本のためではなく、自分の保身のために、自分がこの世界で生き残るために仕方がないというのならまだしも、なのだ。勿論、私も偉そうなことを言うつもりもないし、そんなことはシステム人として存在する以外に手立てのない私の言えることでもない。だが、どこかに後ろめたさの漂う人間ではありたいものだ。
沖縄の歴代の県知事は、日本本土の自公政権の支持をたとえ得ていたとしても、それでも彼らの米国政府に対する「距離」は、日本の政治家と比較してもその隔たりは大きい、と私は感じている。沖縄の現知事の玉城氏は在沖米軍基地の返還運動に際して、日本政府と交渉しているというよりはそのバックに控えている覇権システムの親分の米国を念頭において、ひたすら交渉し続けている、と私はみている。だからこそ、彼は中国を引き込む必要性を感じるのであり、それは沖縄の安全保障のみならず、日本の安全保障にもつながる動きなのだ。こうした点を鑑みるとき、日本本土の政治家連中の中に、特に国会銀の中で、どれほどの者が東京をはじめとした本土の米軍基地の返還を自らの政治家としての重要な任務であると自覚しているのか。私にはほとんど絶望的な思いしか浮かばない。もはや、彼らにはそうした思いすら皆無かもしれない。米国と米軍に媚びへつらい、米国をもはや宗主国として受容する他には何も考えられなくなってしまった本土の政治家に、そもそも安全保障など語る資格はないはずなのだ。
それにしても、沖縄においても物騒な物言いを平気でする首長を前にして、私は驚愕してしまう。たとえば、上に紹介した一つ目の記事に以下のようなくだりがある。ーーー沖縄県・八重山諸島は台湾に近い国境の島々で、尖閣諸島も抱え、今や日本の安全保障問題を一身に背負い込むようなホットスポットになっている。そうした危機感を背景に、最近、八重山の首長から独自の発信が相次いだ。ーーー憲法記念日の5月3日、日本最西端の島・与那国町の糸数健一町長は、東京で開かれた「『21世紀の日本と憲法』有識者懇談会」(櫻井よしこ代表)のフォーラムに出席した。憲法を改正して交戦権を認めてほしいと求め、「平和を脅かす国家に対して、一戦を交える覚悟が問われている」と訴えた。ーーー
この発言は、米国が日本と一緒になって中国と対峙してくれることを当然ながら大前提としているに違いない、と私はみているが、それはいつでも可能なわけではなかろう。たとえば、今のウクライナ情勢のさなかに、米国の支援を期待するのは難しいだろう。米国は対ロシアとの軍事的対立を踏まえるとき、中国を公然たる敵対勢力へと追い込む政治外交策は回避したいはずだ。そんな国際情勢の目まぐるしい変化の中で、日本は勿論のこと米国の安全保障にも害を与える先の首長による発言に対して、不快の念を近似を得ないはずだ。だが、同時にまた、この種の無謀な発言を米国は喜んでいるかもしれない。と言うのも、米国は中国が最前線に出てきた瞬間に、引き下がることができるからだ。あくまでも発言は沖縄からの、また日本側からであると主張できるからだ。
それにしても危ない。中国云々の前に、日本の中から私たちを窮地に追い込む言動が後を絶たないのだ。対中関係を、陰でヒソヒソと各々の私的利権・利害関係の拡張にもっぱら利用しようと勤める感しかしない自公政権のお偉方さんよりも、玉城氏のオープンな対中友好外交の方がどれほどましであるか、少し考えてもわかることではあるまいか。その玉城氏を中国の「駒」というのならば、それこそ小泉、安倍、菅、岸田に続く政権は、米国の走狗ではなかったか。この「駒」発言に関して、今回記事で紹介した先の記事を見るとき、以下のようなくだりが出てくる。すなわち、ーーー玉城知事が言う「独自の地域外交」なるものは、実際には「親中外交」でしかなく、沖縄を中国の「駒」につくり替えてしまう。「外交」と称し笑顔と握手を振りまけば万事丸く収まるような幻想を、県民に与えた罪は大きい。ーーーとあるのだが、果たしてそうだろうか。
そもそも、主権国家としての日本の誕生とその担いいてとしての日本国民の創造の起源を求めるとき、開国以降の歩みの中での明治維新に行き着く。その明治維新を背後で導いたのは当時の覇権国家である大英帝国とその背後に控えたロスチャイルド財閥ということになる。既にこのブログ記事でも書いているように、その文脈で言えば、国家や国民は、「私」的存在でしかなく、決して「公」的な存在ではない、と私はみている。その意味では、私たちは本来公的な関係としての国家や国民などではないのだ。米国をつくり出したのは、この文脈の関連でいえば、英国や仏国と同様に、あくまで私的な利権・利害関係勢力をその中核としてつくり出されてきた私の語る「システム」なのだ。。
そうした「システム」の下で、私たちは「歴史叙述の神話」としての〈「私」と「公」の関係〉を信じ込まされてきたのである。「私」をいくつ集めてみたところで、それは「私」の域を出ることはできないのである。それでは困ると考えた一群の巨大な指摘利権・利害関係者によって、本来であれば私的な利権・利害関係を表すだけの関係を、あたかもそれを隠蔽するかのように、その表面をカムフラージュする形で、創造されたのが、国家であり国民という創造物であったのだ。それゆえ、そもそも国を守るとは、私的な利権・利害関係とその勢力を守ることを意味しているだけなのである。
おかしな話に聞こえるかもしれないが、私はそのような結論にたどり着いたのだ。こうした私のような見方からすれば、中国であろうと、米国であろうと、また日本であろうと、私には相当に脅威であるのは言うまでもない。だが、同時にそうした私的なネットワークの中で生き残りをかけて悪戦苦闘せざるを得ないから、「こっちの水は甘いぞ。あっちの水は辛いぞ」的な二項対立図式に騙されたくはない。もっとも、この日本で生きていくためには、誤解を恐れずに言うと、今の米国ヨイショ政権に嫌々ながらも、媚びへつらうことも致し方ないのだが。それはまた米国にも中国にも、その他の国に対しても同じ態度で接するべし、を意味している。相当に神経の参ることだが、私たちはこうした私的な利権・利害関係とそのネットワークのいずれかの中で、生きることを選択するように迫られているし、事実そうして生きているのである。だが、私はいずれの関係に対しても、必要以上に礼賛したり、ましてや心中するつもりなど毛頭ないし、できない相談だ。あくまでも、生きるために、である。
こうした関連から蓮舫氏の「二重国籍」問題に関して付言すれば、私に能力があるならば、多国籍企業と同様に、二つ以上の国籍を持ちたいものだ。戦争に巻き込まれる危険を避けるためにも、それは必要不可欠な最低条件でもある。世界中の国民が多国籍的な生き方が可能となるのならば、それこそ戦争はプーチンとバイデン、そしてその両者の取り巻き連中だけが直接対峙して戦うことになるに違いない。今よりも、どれほど「平和」になるだろうか。もっとも、それを許さないように、「システム」は一つの国籍を保持するのは国民の当然の守るべき義務であるかのように、これまた歴史叙述の神話から逃れられな
いように、国民を教育・洗脳するのだ。このように、私はそうみているし、また論述してきたのである。(続)
(最初に一言)
それにしても次から次へと「中国脅威」論を煽る?ネタは尽きない。今回は仲新城誠(なかしんじょう・まこと)氏による
〈「沖縄が危ない!」本島よりも「リアルな国防最前線」八重山諸島、首長らの切実な声…かき消すメディア、悪と「戦う覚悟」なしに生命や財産を守れるのか〉(2024.6/8 10:00)と〈「沖縄が危ない!」沖縄・玉城知事〝独自の地域外交〟の危険 訪中も領海侵入には一切抗議せず 中国の「駒」に替えられる親中外交に過ぎない〉(zakzak by夕刊フジ / 2024年6月9日 10時0分)の二つの記事を読みながら、私なりに感じた思いを少しだけ述べておきたい。他の記事も含めて、記事の全文を知りたい方は、先の記事タイトルを検索してほしい。
行論の都合上、少し気になったことがあったのでそれについて先ずは述べてみたい。それは上で紹介した二つ目の記事の中でのあるくだりだ。すなわち、ーーー沖縄県・尖閣諸島周辺の領海に7日、機関砲のようなものを搭載した中国海警局の船4隻が相次いで侵入した。中国海警局は同日、「主権を守るための法に基づく活動だ」「管轄海域でのパトロールを今後強化する」との報道官談話を発表した。「台湾有事は日本有事」といわれるなか、中国の野心は確実に沖縄にも向けられている。こうしたなか、沖縄県の玉城デニー知事は昨年、「親中派の重鎮」である河野洋平元官房長官らと訪中していた。八重山日報編集主幹、仲新城誠氏は、玉城知事が進める「独自の地域外交」の危険に迫った。ーーーである。
このくだりは中国の露骨な対応を指摘しているはずなのに、どういうわけなのか、「沖縄県・尖閣諸島周辺の領海に7日、機関砲のようなものを搭載した中国海警局の船4隻が相次いで侵入した。」にあるように、「侵入」とある。私ならこの状況説明の流れからすれば、また後の記事の内容を踏まえれば、当然ながら「侵犯」としなければ不自然ではないかと思うのだが、そうではない。これとの関連からさらに言えば、日本は「領空」「領海」はもとより、「領土」も中国によって「侵犯」されているはずではあるまいか。もっとも、そんなことを言えば、日本の領土は中国のみならず米国やその他の国の多国籍企業によって、目を覆いたくなるような「惨状」であるに違いない、と私ならば、このような立場の論者ならそのように述べるはずだが、と推察するのだが、そのようにはいかない。まるで安倍元首相の言動とそっくりなのだ。勿論、これは安倍氏だけに限定されるものでもない。
日本の領土における侵犯は、侵入でもなく、当然の経済活動における、それこそ市民革命以降、全世界にわたって宣言された交易と経済活動の自由、そしてそれを介した私的財産を天文学的な額へと太らせることのできる自由権とその活動の権の保障。これらの活動は侵犯でも侵入でもなく、普遍的人権によって保障されたものであり、その活動は無罪放免とされるのだ。私には、こちらの問題の方が、私たち国民の命と暮らしを守る安全保障にとっては、はるかに大打撃を与える、まさしく圧倒的な軍事力にも匹敵する攻撃ではあるまいか、とまたまた過敏症の私はそう感じてしまうのだが。本当におかしいものだ。
日本にとって、諸外国との交易・経済活動は必要不可欠なはずだから、そのためには領海や領空の通行を認めざるを得ない。それゆえ、(中国による)軍艦や潜水艦、ミサイル・戦闘機による行動は侵犯とされるのに対して、(中国による)経済活動のそれは合法的かつ正当化されなければならなくなるはずだ。こうしたいわゆる「ネジレ」の関係を、私たちはいとも簡単に受け入れてきたのだが、どうしてそんなことが可能となったのだろうか。この関係にこそ、私たちは目を向けるべきなのだが、どうもそうはならないのだ。
ここで急いで付言すれば、「ネジレ」として位置づけ理解される関係は、見方を変えれば、ネジレではなく、経済活動と私的財産の肥大化を可能とさせる交易の自由と私的財産権の自由を保障するものである。それゆえ、相互に補完しあう関係でもあるのだ。諸外国からの軍事的脅威を煽りながら、同時にそれに対抗する軍事力の整備・増強の必要性を訴えることによって、軍需産業・軍産複合体の発展が導かれることで、経済活動とそれに伴う利権・利害関係の拡大・拡張となる。両者は共存共栄の関係にあり、こうした関係からつくり出された私の語る「システム」の下で、先述したネジレの関係は合法化・正当化されてしまうのだ。
だが、この関係を、「システム」は、「システム」ご用達のメディア関係者や学識経験者を総動員しながら、ネジレの関係として国民に教育するのだ。それはまさに、「民主主義」(平和)と「帝国主義」(戦争)の関係を「水」と「油」のネジレの関係として世界中の人々を洗脳し続けてきたように、である。そんな関係の中で一番割を食うのは、私たち普通の国民であり、今のウクライナでの線上でたたかわされているロシアとウクライナの兵士とその家族である。また海外からいろいろなルートを介して「調達」された多国籍の傭兵とその家族である。そして今後の情勢の変化に伴い、新たな戦火の拡大によって、今の日本人の中からも、その予備軍として「計算」されている人たちがいる、と私は残念ながら思うのだ。
こうしたネジレでもない相互に補完しあう関係を、あたかも水と油のように、ねじれた関係として位置づけ理解する思考の在り方は、「沖縄が危ない」以上に、私にははるかに危ないのだが、どうもそんな関係を俎上に載せて侃々諤々とはならないのである。本来ならば、都知事選においても重要な争点として候補者は訴えてもおかしくはない争点となるはずだが。勿論、もしそんなことがおこりうるならば、まだまだこの日本も大丈夫であると私は思うのだが、そんな風には決してならない。まあ、こんな詮無いことを言うのはもうやめて、そろそろ本論?に入っていくとしようか。。
私は、仲新城氏の述べるように、確かに「沖縄は危ない」と感じている。だからこそ、東京はもっと危ないし、日本は既に終わっていると感じるのだ。私が不思議に思うのは、中国からの沖縄に対する脅威を感じる感性の持ち主ならば、米国からの東京に対する、そして日本に対する脅威を、沖縄と同等に、否それ以上に感じてもいいはずなのだが、どうしてなのかそのような脅威を感じることはないのだ。米国にはあまりにも甘すぎるのに、中国には逆にあまりにも辛すぎる、そんな評価を下して本当にバランスある外交なり政治ができるのだろうか。
東京の横田基地を含む在日米軍基地を拠点として、日本は米国の支配・管理下に置かれている。こうした事態はもう危ないどころか、終わっていると言っても過言ではあるまい。読者に誤解を与えてはいけないので、ここで少し付言しておくならば、私はだからと言って、憲法を改正して必要であると判断されたときにはすぐさま専守防衛に必要な専守攻撃?をも可能とする国家へと変革すべし云々と主張しているわけではない。米国に対してと同様に、中国に対しても同じように「小日本」の態度でもって向き合うべきであると、先ずは言いたいだけなのだ。
ところが、どうしてなのか、こうした「二正面外交」とはいかないのだ。中国脅威論を説く人たちにはできないのである。もっとも、米国は日本にこうした外交を許そうとはしないから、どうしてできないのか云々ではなく、最初から分かり切ったことなのだが。こうしたおかしな否、愚かしい外交を臆面もなく日本の安全保障のためである云々と嘯(うそぶ)き、日本国民を騙し欺くから、これもオレオレ詐欺の一種である、と私は軽蔑するのだ。正直に、日本のためではなく、自分の保身のために、自分がこの世界で生き残るために仕方がないというのならまだしも、なのだ。勿論、私も偉そうなことを言うつもりもないし、そんなことはシステム人として存在する以外に手立てのない私の言えることでもない。だが、どこかに後ろめたさの漂う人間ではありたいものだ。
沖縄の歴代の県知事は、日本本土の自公政権の支持をたとえ得ていたとしても、それでも彼らの米国政府に対する「距離」は、日本の政治家と比較してもその隔たりは大きい、と私は感じている。沖縄の現知事の玉城氏は在沖米軍基地の返還運動に際して、日本政府と交渉しているというよりはそのバックに控えている覇権システムの親分の米国を念頭において、ひたすら交渉し続けている、と私はみている。だからこそ、彼は中国を引き込む必要性を感じるのであり、それは沖縄の安全保障のみならず、日本の安全保障にもつながる動きなのだ。こうした点を鑑みるとき、日本本土の政治家連中の中に、特に国会銀の中で、どれほどの者が東京をはじめとした本土の米軍基地の返還を自らの政治家としての重要な任務であると自覚しているのか。私にはほとんど絶望的な思いしか浮かばない。もはや、彼らにはそうした思いすら皆無かもしれない。米国と米軍に媚びへつらい、米国をもはや宗主国として受容する他には何も考えられなくなってしまった本土の政治家に、そもそも安全保障など語る資格はないはずなのだ。
それにしても、沖縄においても物騒な物言いを平気でする首長を前にして、私は驚愕してしまう。たとえば、上に紹介した一つ目の記事に以下のようなくだりがある。ーーー沖縄県・八重山諸島は台湾に近い国境の島々で、尖閣諸島も抱え、今や日本の安全保障問題を一身に背負い込むようなホットスポットになっている。そうした危機感を背景に、最近、八重山の首長から独自の発信が相次いだ。ーーー憲法記念日の5月3日、日本最西端の島・与那国町の糸数健一町長は、東京で開かれた「『21世紀の日本と憲法』有識者懇談会」(櫻井よしこ代表)のフォーラムに出席した。憲法を改正して交戦権を認めてほしいと求め、「平和を脅かす国家に対して、一戦を交える覚悟が問われている」と訴えた。ーーー
この発言は、米国が日本と一緒になって中国と対峙してくれることを当然ながら大前提としているに違いない、と私はみているが、それはいつでも可能なわけではなかろう。たとえば、今のウクライナ情勢のさなかに、米国の支援を期待するのは難しいだろう。米国は対ロシアとの軍事的対立を踏まえるとき、中国を公然たる敵対勢力へと追い込む政治外交策は回避したいはずだ。そんな国際情勢の目まぐるしい変化の中で、日本は勿論のこと米国の安全保障にも害を与える先の首長による発言に対して、不快の念を近似を得ないはずだ。だが、同時にまた、この種の無謀な発言を米国は喜んでいるかもしれない。と言うのも、米国は中国が最前線に出てきた瞬間に、引き下がることができるからだ。あくまでも発言は沖縄からの、また日本側からであると主張できるからだ。
それにしても危ない。中国云々の前に、日本の中から私たちを窮地に追い込む言動が後を絶たないのだ。対中関係を、陰でヒソヒソと各々の私的利権・利害関係の拡張にもっぱら利用しようと勤める感しかしない自公政権のお偉方さんよりも、玉城氏のオープンな対中友好外交の方がどれほどましであるか、少し考えてもわかることではあるまいか。その玉城氏を中国の「駒」というのならば、それこそ小泉、安倍、菅、岸田に続く政権は、米国の走狗ではなかったか。この「駒」発言に関して、今回記事で紹介した先の記事を見るとき、以下のようなくだりが出てくる。すなわち、ーーー玉城知事が言う「独自の地域外交」なるものは、実際には「親中外交」でしかなく、沖縄を中国の「駒」につくり替えてしまう。「外交」と称し笑顔と握手を振りまけば万事丸く収まるような幻想を、県民に与えた罪は大きい。ーーーとあるのだが、果たしてそうだろうか。
そもそも、主権国家としての日本の誕生とその担いいてとしての日本国民の創造の起源を求めるとき、開国以降の歩みの中での明治維新に行き着く。その明治維新を背後で導いたのは当時の覇権国家である大英帝国とその背後に控えたロスチャイルド財閥ということになる。既にこのブログ記事でも書いているように、その文脈で言えば、国家や国民は、「私」的存在でしかなく、決して「公」的な存在ではない、と私はみている。その意味では、私たちは本来公的な関係としての国家や国民などではないのだ。米国をつくり出したのは、この文脈の関連でいえば、英国や仏国と同様に、あくまで私的な利権・利害関係勢力をその中核としてつくり出されてきた私の語る「システム」なのだ。。
そうした「システム」の下で、私たちは「歴史叙述の神話」としての〈「私」と「公」の関係〉を信じ込まされてきたのである。「私」をいくつ集めてみたところで、それは「私」の域を出ることはできないのである。それでは困ると考えた一群の巨大な指摘利権・利害関係者によって、本来であれば私的な利権・利害関係を表すだけの関係を、あたかもそれを隠蔽するかのように、その表面をカムフラージュする形で、創造されたのが、国家であり国民という創造物であったのだ。それゆえ、そもそも国を守るとは、私的な利権・利害関係とその勢力を守ることを意味しているだけなのである。
おかしな話に聞こえるかもしれないが、私はそのような結論にたどり着いたのだ。こうした私のような見方からすれば、中国であろうと、米国であろうと、また日本であろうと、私には相当に脅威であるのは言うまでもない。だが、同時にそうした私的なネットワークの中で生き残りをかけて悪戦苦闘せざるを得ないから、「こっちの水は甘いぞ。あっちの水は辛いぞ」的な二項対立図式に騙されたくはない。もっとも、この日本で生きていくためには、誤解を恐れずに言うと、今の米国ヨイショ政権に嫌々ながらも、媚びへつらうことも致し方ないのだが。それはまた米国にも中国にも、その他の国に対しても同じ態度で接するべし、を意味している。相当に神経の参ることだが、私たちはこうした私的な利権・利害関係とそのネットワークのいずれかの中で、生きることを選択するように迫られているし、事実そうして生きているのである。だが、私はいずれの関係に対しても、必要以上に礼賛したり、ましてや心中するつもりなど毛頭ないし、できない相談だ。あくまでも、生きるために、である。
こうした関連から蓮舫氏の「二重国籍」問題に関して付言すれば、私に能力があるならば、多国籍企業と同様に、二つ以上の国籍を持ちたいものだ。戦争に巻き込まれる危険を避けるためにも、それは必要不可欠な最低条件でもある。世界中の国民が多国籍的な生き方が可能となるのならば、それこそ戦争はプーチンとバイデン、そしてその両者の取り巻き連中だけが直接対峙して戦うことになるに違いない。今よりも、どれほど「平和」になるだろうか。もっとも、それを許さないように、「システム」は一つの国籍を保持するのは国民の当然の守るべき義務であるかのように、これまた歴史叙述の神話から逃れられな
いように、国民を教育・洗脳するのだ。このように、私はそうみているし、また論述してきたのである。(続)