日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

(加筆・修正版)「平和で自由な民主主義」(とそれ)を標榜する国家とは、一体どのような仕組みの下でつくり出されてきたのかー私の語る「システム」論から、〈「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち(負け)

2022-03-28 | 日記

(加筆・修正版)「平和で自由な民主主義」(とそれ)を標榜する国家とは、一体どのような仕組みの下でつくり出されてきたのかー私の語る「システム」論から、〈「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち(負け)続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウ〉との関連において、改めて問い直すとき

 

(最初に一言)の前に、話しておきたいこと

NHKの朝9時からの「日曜討論」も、ますます日本政府・米国政府「ヨイショ」の内容が鮮明となってきた。今日(2022,3,27)も、ひどかった。政府ご用達の「先生方」を動員して、大臣の話に合わせる。勿論、司会者もそのように誘導していく。


覇権システムの中で私たちは生きているから、親分の言うことに子分は従わざるを得ない。それはそうだが、今はその親分の交代期であり、中国が親分となった時のことまで考えて、今どうすればいいかの議論を、子分の日本もしておいたほうがいいと思うのだが、今日の話の中には、そんなことなどお構いなしに、米国一辺倒の話だけに終始していた。これまた仕方がない。日本政府も日本経済界も、日本政治学会もそれぞれが「子分」としての「下請け」の役割を担い、米国の親分たちには、頭が上がらないのだから。

彼らは日本と日本人をダシにして、自分たちの出世や利害関係を優先させることで、それで事足れりとなるのだろうが、こんな無茶苦茶な内容に満ちた話を公共の電波で垂れ流すのだから、もうどうにかしてくれと言いたいほどだ。それにしても、ここ1か月近くにも及ぶロシアのウクライナ侵攻を好機とばかりに、、政府はいろいろなことを仕掛けてきている。

唐突な感のある節電要請と思いきや、何やら原発再稼働の声がどこかしらから聞こえてくる。北朝鮮によるミサイル発射が伝えられると、今のウクライナ危機と相まって、日本本土防衛論が日増しに高まっている。まるで今夏の参院選に合わせるかのように、自公政権には好都合な流れが出来上がっているように思えて仕方がない。おそらく、参院選では自公の圧勝だろう。とくに、維新の勢いは増すのは必至ではないか。

社民党は、党勢拡大を望めないだろう。同党は第9条を掲げて選挙戦に臨むとのことだが、国民の支持を得るのは難しいとしか言いようがない。残念なことだが、ウクライナ危機を巡る日本政府とその政府を後押しする大手マス・メディアの情報洪水の中で、第9条の出番はナシといったところではあるまいか。

とくに、格差社会の深化するこの不況期の中で、平和を叫んでも、票には結びつかない。むしろ対岸の戦争での金儲けを支持して、そのオコボレに与る方がましだとの有権者の割合は高いと思われる。第9条を守ることが、生活防衛に直結する「衣食足りて」の営為の在り様を、一刻も早く提示・提言しなければならないと、このブログ記事でもたびたび論及してきたのだが、福島氏にそれを期待しても無理だろう。まあ、彼女の批判をしているわけではないのだが、とにかく、貧すれば鈍するといったところか。


それにしても、フクシマの原発事故は、ある面では、日本が安倍元首相自らの「不作為」により被曝した格好に、私には思われたものだが、チェルノブイリ原発事故と同様に、その被曝の有様を鑑みるとき、何か核攻撃に遭遇した被爆にも思えるのだ。その意味においては、プーチンの発言を待つまでもなく、核攻撃はもはや「想定内」のことだとして考えておいた方がいいのは、勿論なのだ。否、こんな寝ぼけた話を、私もする暇はあるまい。日本と日本人は核攻撃を、もうとっくの昔に受けていたではないのか。

それこそ、ロシアを非難して、ウクライナに多額の武器援助をして、今が稼ぎ時だとする米国様からの核攻撃を、よもや忘れてはいないだろうに。それにしても、これまでの「核による戦争抑止論」とは、よほど間抜けた者の世迷言でしかなかったのだが、ここでも日本と日本人は子分として、言うべきことを言わずに不作為を押し通してきたのは、愚かというしかあるまい。核保有国同士は核を使用しないとしても、その非対称国への使用は当然あり得るのは、疑いないだろうに。私たちがその生き証人であるのだから。

それに関連して言えば、ウクライナ侵攻においてロシア軍が「生物・化学兵器」を使う恐れがあると、最近になってマス・メディアによる情報提供が頻繁に行われているが、これまたおかしな話ではあるまいか。どうして今さらそんなことを、しかも交戦中の相手国だけが使用する可能性云々だとの話であるからこれもにわかには信じられないのだ。

米国にもこうした話は妥当するのではあるまいか。現に、イラク戦争で使用しなかっただろうか。ベトナム戦争では使用していたことを、私たちは忘れてはならないだろう。否、それどころか、今のこのコロナ戦争とは、「コロナ・ウイルス」という生物・化学兵器?の使用を介した戦争ではないのだろうか。これに関しては、多くの論評がなされているが、残念ながら、私にはそのすべてを確かめる能力がない。悔しい限りである。それではいつものように、以下に話を進めていきたい。

 

(最初に一言)

今回のタイトルにあるように、「平和で自由な民主主義」を標榜する国家は、一体どのような仕組み(構造)の下で、つくり出されてきたのかを今一度、考えてみたい。


私にとっては、もう何度もこれに関して論及してきたことだが、今回は少しだけ丁寧に話をしておきたい。結論から先取りして言えば、その〈「平和で自由な民主主義」を標榜する国家〉は、①覇権システム、②世界資本主義システム、③世界民主主義システムの三つの下位システムから構成される一つの「システム」の下において、つくり出されてきたということである。以下において順次、説明しておきたい。

①覇権システム

覇権国を筆頭に、その覇権国も含む中心国、準周辺国、周辺国のみっのグループから構成されている。この分類は、私の語る「システム」論で、これまで提示されてきた1970年代以前のA、B、Cのグループから構成される「システム」と呼応している。中心国はいわゆるAの先進国グループに、準周辺国は、Bの中進国グループに、周辺国は、
Cの後進国グループに、それぞれ呼応する形で位置づけ理解される。

ところが、この「システム」は、1970年代から今日にかけて、その内実が次第に変容していることに注意する必要がある。おそらく、読者にはここが一番ややこしく、またすぐには納得し難いことだと、私には推察できるのだが、これまでのAを筆頭として、その下にB、そしてCが配置される仕組みから、今後はますますその配置関係が変容していき、従来のAに代わりBが、またBに代わりCが、そしてCに代わりAが位置付けられるように、転換・変容していくということなのだ。

換言すれば、従来の中進国グループがこれまでの先進国グループに取って代わり、その変動を受けて、従来の中進国グループの位置に、これまでの後進国グループが位置するように動くのである。そして、従来の先進国グループは、これまで後進国グループが占めてきた位置に移動することになるのだが、この最後の点は少しややこしい話となってくる。

1970年代以前の「システム」は、A、B、Cのすべてにおいて、「システム」の「高度化」を目指す動きにおいて共通していた。だが、その方向性は共通していたものの、その高度化の到達点は、差別と排除の関係が如実に反映されていたことも注意しておいたほうがいい。それこそ、先進国、中進国、後進国と呼ばれる所以でもある。それを、福沢諭吉はその著書である『文明論之概略』で見事に描いている。すなわち、文明、半開、野蛮として。

これに対して、1970年代以降から今日にかけての話は、そのすべてが「システム」の「高度化」を目指すことができなくなったのだ。B、Cのグループは、1970年代以前と同様に、「システム」の高度化を目指しているのに対して、これまでの先進国グループであったAにおいては、もはや高度化ではなく、「低度化」の段階をたどることとなるのである。

その関連から言えば、従来のAグループは、これまでのCが位置していた後進国の地位に配置換えするとしても、それはあくまでも表面的な話であり、その内実は、「システム」の低度化の段階を引き受けるということであり、そこには著しい相違があることに注視すべきである。

これらの話を踏まえて言うならば、B、Cグループにおいて、やっと「システム」の高度化と同時に、その到達点においても、1970年代以前とは異なって、日のあたる段階へと上昇できるところまで来たといえる。それに対して、Aの中心国であった先進国グループは、「システム」の低度化の段階を、転げ落ちるかのように深化していくばかりなのだ。もっとも、高度化であれ、低度化であれ、「システム」を担い支えている普通の人々の生活は苦しいことには、当面は変わりはない。


覇権システムは、自己決定権の獲得とその実現の歩みを巡る力(暴力)と力(暴力)の争奪戦を介して繰り広げられる「親分ー子分」関係を基本とするナショナリズムのぶつかり合いがそのまま体現されたものとして位置づけ理解できる、と私はみているのだが、その覇権システムの、換言すれば、ナショナリズムの担い手であるそれぞれの国家と国民の自己決定権の獲得とその実現に関して、②世界資本主義システム、③世界民主主義システムが密接にかかわっていることに目を向ける必要がある。

すなわち、覇権システムの「力」と、「衣食足りて」の営為と「礼節を知る」の営為におけるそれぞれの「力」は、別言すれば、自己決定権の獲得とその実現を巡る力と力の争奪戦において、自国を相手国よりも、少しでも優位な地点に立たせようとする差別と排除の関係をつくり出す力は、相互に補完し合っているのである。それを踏まえて、いかに②、③について述べていきたい。


②世界資本主義システム

このシステムは、先の福沢に従うとき、1970年代以前においては、文明ー半開ー野蛮の関係から構成されていることがわかる。その際、文明は「製物の国」(現代の産業構造で言うならば、第二次産業に該当するだろうが、今日的な表現で言い表すならば、金融・サービス業に該当している。もっとも、それもさらに細分化されて複雑になっている。)として、半開、野蛮は、とくに後者は「産物の国」(これは第一次産品国に該当する。天然資源の採掘に従事している国である。)として位置づけられる。

福沢は、この関係を、差別と排除の関係として見事に描いていたのだが、近代経済学においては、この関係はさらりと分業とか、比較優位の法則とか、これまた見事に私たちの人間関係である差別と排除の関係をつくり出す力と力のぶつかり合いを前提とした現実世界・セカイの生き様を糊塗するかのように、無色透明化するのに寄与している。

私たちは少しでも他人より楽して、金を稼げることを、この世に生を受けた瞬間から、目指すのだが、そこには言うまでもなく覇権システムというかナショナリズムの担い手としての国民の性(さが)が色濃く投影されている。相手よりも少しでも優位・優越した地歩を占めようとして、他人や他国を差別し、排除してでも、自分の・自国の生存競争を勝ち抜こうと日々、努めるのだ。

その「成果」が、{[衣食足りて]→(×)[衣食足りて・足りず]→×[衣食足りず]}の営為の関係として示されるのだ。どの人であれ、どの国であれ、より優位な地点を目指すのだが、その争奪戦に負けたものは、不利な・不利益となる地位に甘んじることとなる。その関連で言えば、かつての先進国グループのAは、負けてしまったということになる。とくに、日本においては、これまでの親分であった米国とこれからの親分である中国との「親分ー子分」関係の下で、その負け方が今後一層、いろいろな形で明らかとなってくるのではあるまいか。

もっとも、そうは言うものの、この関係において、誰しも、いずれの国も。そのほとんどにおいて、今よりは少しでもましな地位を得ようとして、その上昇志向の歩みをやめようとはしないことから、このシステム内における差別と排除の関係は一層、強まってくるのは言うまでもない。とくに、これまで先進国グループを構成したAにおいては、その上昇志向が、1970年代以降から今日にかけて形成発展中の「システム」における構造的圧力の下で、「システム」の低度化を担い引き受けざるを得ないことと相まって、相当なストレスとなって跳ね返ってくることが予想される。その反応の例として、移民排斥や右翼的政治指導者の待望、ポピュリズム等の動きと結びついている。

*なお、かつての先進国グループのAの国家・政府や企業(世界的な多国籍企業や大企業をはじめ中小企業等)は、Bの中国やインド、ブラジルに、そしてウクライナ危機以前のロシアに対して、多額の資金供給や技術提携を介した投資・技術支援を行いながら、Bグループやその傘下にあるCグループの「衣食足りて」の営為(経済発展)に貢献している一方で、自国の産業空洞化とそれに伴う雇用喪失の流れに手を貸している。こうした両者の関係における優劣の変化・変動は、1970年までのA、B、Cの「システム」を支えてきた差別と排除の関係によって導かれたものである、と私はこれまで語ってきた。

③世界民主主義システム

何はともあれ、ロシアのウクライナ侵攻を巡る国際メディア機関による「民主主義」に関連した情報提供に接するたびに、私は「原子力村」とか「原子力マフィア」で指し示される国際的な原発利害勢力のネット・ワークに対比される「民主主義村」とか「民主主義マフィア」とでも称せられる国際的な民主主義利害勢力のネット・ワークの存在を思い浮かべてしまう。両者のネットワークは、相互に補完し合う関係にある、と私はみている。

一先ずこのことを指摘しておきたい。民主主義を守れという際、すなわち民主主義という「礼節」を守るに関連する「礼節を知る」の営為に呼応した「衣食足りて」の営為を、私たちはすぐさま銘記しなければならない。その際、資本主義云々の平板な話はやめて、②でも述べていたように、少なくとも「史的」レベルにおける世界資本主義システムと結び付けて考察したいものである。

その際、そこから関連して抑えておかなければならないことは、理念や価値観レベルの話とは異なり、「史的」レベルにおける「民主主義」は一つの民主主義システムとして、さらにそこから世界民主主義システムとして、把握できるということである。と同時に、福沢の産物の国と製物の国に対応して、野蛮屋半開の民主主義の状況・状態と、文明の民主主義の状況・状態があり、その両者を関係づける一つの世界民主主義システムがあると位置付けてみるということである。

逆に言えば、文明の民主主義がもし「良好な」状況・状態にあり、それに対して野蛮や半開のそれが良くない、例えば人権を抑圧したり弾圧しているといった具合に、褒められた内容ではないときに、両者を相互に関係した「一つの」民主主義として位置づけ直し、それを関係づけることによって、良好な民主主義とそうでない民主主義の関係を、一つの民主主義システムという全体の関係から捉え直すことの必要性に気づかせてくれるのである。

少しややこしい話となったが、文明の良好とされる民主主義それ自体の中にも、相当な問題があることを、良好ではない民主主義と結び付けて考察することにより、私たちは確認できると同時に、合わせて世界民主主義システムという全体としての民主主義システムの抱える問題も見えてくるということである。

ところが、その民主主義システムが抱える問題究明を、これまでの民主主義研究では問うことはできないのだ。否、許されないというのが適切であろう。おかしなことだ。最初に、前もって守るべき民主主義の定義を勝手にしておいて、それを基準として、ある体制を権威主義体制とか全体主義体制として位置づけてしまい、それぞれの体制には。まったく相互の関係が存在していないかのように語るのだから、これではもう駄目だろう。

あのBSNHKの番組ですら、第一次世界大戦から以降、「民主主義を全体主義から守れ」と世界に訴え続けてきた民主主義国である米国の金融勢力が、ナチスドイツ下のドイツ製造業利害を後押ししていた云々と、米国の民主主義下の経済界と、全体主義を推進するナチス・ドイツ下の経済界との「怪しい蜜月関係」を描いているのだ。それを鑑みても、世界の、とりわけ米国とその下請け機関である日本の政治学会の民主化・民主主義研究は、相当な問題を孕んでいるのではあるまいか。

②の世界資本主義システムを、「衣食足りて」の営為の関係と結び付けて述べていたように、ここで世界民主主義システムを、「礼節を知る」の営為の関係から描き直しておきたい。それは、{[礼節を知る]→(×)[礼節を知る・知らず]→[礼節を知らず]}の営為の関係として位置づけ理解される。この関係も、差別と排除の関係をもとにしてつくり出されたシステムであることは言うまでもない。その理由も、②で述べた話の内容と何ら変わるところはない。

**今後の見通しとしては、これまで「礼節を知る」の営為(民主主義の発展)において、その高度化の恩恵に与ってきた先進国で、今後はそれとは正反対の状況・状態としての低度化の深化にますます直面すると同時に、自由や民主主義、人権のそれぞれのレベルにおいて、その劣化(低度化)は避けられなくなるのは必至である。それは福祉国家の破綻として、すでに私たちの知るところでもあることだが、労働権や安定した給料面での保障等の生活関連の安全保障に支障をきたしているところにも、明らかであろう

***こうしたかつてのAの先進国グループに対して、従来のBやCに位置していたグループにおいて、これから紆余曲折はあれども、これら両グループは、「礼節を知る」の営為(民主主義の発展)においてその高度化に向かうのは否定できないことである。これから2、30年の内に、これら諸国では「衣食足りて礼節を知る」の営為の実現の可能性は高い、と私はみている。中国は名実ともに覇権国となり、そして民主主義国となるであろう。その関連から言えば、歴代の覇権国も、そうした歴史を辿ってきたことを、思い起こすべきであろう。

なお、念のために付言すれば、図式の外側の{ }は覇権システムを、[ ]は主権国家、国民国家をそれぞれ示している。ここでは、②と③を相互に結び付けたモデルは省略しておく。以前の記事を参照されたい。


(最後に一言)

いずれにしても、民主化・民主主義研究は、世界民主主義システムとの関連から、そして同時にまた、世界資本主義システムと相互に結び付けながら、再考されてしかるべきなのである。私たちが国際メディア機関から提供されている民主主義に関連した情報は、誤解を恐れずに言うならば、それこそ「みんな嘘だったんだぜ」ということになる、と私は言わざるを得ないのだ。そこには原子力村に対比される民主主義村の存在があるのは言うまでもない。

****なお、ここで私が述べている「民主主義村」には、それこそ自公政権を構成する政治家や維新の会は勿論のこと、野党の社民党や共産党、立憲民主党の政治家もも含まれていると同時に、その応援団を成している大学や研究機関の研究者やさらにはメディア関係者のほとんどが含まれているということを、私はここでも強調しておきたい。

それにしても、覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムといった三つの下位システムから構成される一つの「システム」の下で、平和で自由な民主主義とそれを標榜する国家がつくられるというのだから、それは恐ろしいを超えたオドロオドロシイ〈平和で、自由な、民主主義を標榜する国家〉ということには変わりはないだろう。今の米国を見ても、ウクライナを見ても、そして日本を見ても、まったく何ら変わるところはない。

 


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(加筆・修正版)「戦争なんかダメ!」と、「ロシア侵攻」に対するウクライナ支援のために、「迅速に熱い連帯を」訴える田中真紀子元外相だが、これではまた火に油を注ぐだけの外交オンチをさらけ出す愚の骨頂でし

2022-03-20 | 日記

(加筆・修正版)「戦争なんかダメ!」と、「ロシア侵攻」に対するウクライナ支援のために、「迅速に熱い連帯を」訴える田中真紀子元外相だが、これではまた火に油を注ぐだけの外交オンチをさらけ出す愚の骨頂でしかない。「日本を戦争へと引き込もうとする・巻き込もうとする」こんな「戦争ダメ」論を誠しなやかに訴える人とは、「連帯」なんか絶対にできないし断じてしない!ー私の語る「システム」論から、〈「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち(負け)続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウ〉との関連において、改めて「戦争」と「センソウ」を再考するとき(続)


(最初に一言)

昨日の記事投稿後に、下に貼り付けた田中真紀子元外相の「戦争なんかダメ!」の記事を知って、急いで私のそれに対する反対の主張を示しておきたいと感じた次第。


以下の記事は、「〈阿修羅〉総合アクセスランキング(瞬間)」で紹介されていた田中真紀子元外相の戦争反対に関してのそれである。〈「戦争なんかダメ!」ウクライナ戦争で田中眞紀子が動き出した 迅速に熱い連帯を示した元外相の「愛」と、集まる「期待」(FRIDAY)http://www.asyura2.com/22/senkyo285/msg/796.html投稿者 赤かぶ 日時 2022 年 3 月 15 日 00:10:05: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU〉


私は、こうした危なっかしい戦争反対論者には警戒している。田中氏も含めてこんな連中は、ロシア侵攻を非難しながらウクライナとの、その実は米国との連帯を訴えるのだが、それはまた、新たな戦争へと日本と日本人を巻き込んでしまう公算が大ではあるまいか。否、もうかなり巻き込まれてしまっている、と私はみている。

「どっちつかず」だ、と批判されても、こんな時にこそ、憲法第9条を世界に向かって掲げるべきなのだ。どちらにも与しない、「戦争反対」論でなければ、結局のところ、戦争へと引きずり込まれる・巻き込まれてしまうのだ。


*これまでも何度も指摘してきたところだが、私たちは、私の語る「システム」の中で生きていることから、その覇権システムとの関係から、戦争・センソウ状態の中に、ただでさえ置かれていることに留意する必要性を説くと同時に、それゆえ、「してはならないことをしてはならない」云々の話をしてきたのだが、今回のウクライナ危機における田中氏の言動はそうした「してはならない」端的な例として挙げることができよう。

**衰退期にある現覇権国の親分の米国と、次期覇権国として、もうすぐ覇権のバトンをその米国から譲り受けようとしている親分最有力候補たる中国との間において、ますますその姿がはっきりとしてきた「米・中覇権連合」の歩みの中で、{[B]→(×)[C]→×[A]}の図式で描かれる、私の語る「システム」の下で仕掛けられた、今回のウクライナ危機に引きずり込まれた地域覇権国としての親分であるロシアとウクライナの攻防戦は、米国の子分であり、その後は中国の子分とならざるを得ない日本と日本人にとって、この上なく厄介極まりない戦争であるのに違いない。

***日本と日本人は、覇権システムの中で、子分であることを、しっかりとわきまえておく必要がある。とにかく必要以上に出しゃばらない、目立たない、騒がない、関わりすぎないことだ。敗戦後の占領下にある日本が米国から押し付けられた第9条を、たとえもう、垢まみれになってしまっているとはいえ、それを盾にして時間の過ぎるのを待つしかない。親分同士の争いに、しかもセンソウしながら、親分たちに都合のいい次のもっともらしい秩序づくりを、その間にも多数の犠牲者が出ているにもかかわらず、あれやこれやと時間をかけながら、興じている様を前にして、なお更のこと、子分である日本は、動いてはダメなのだ。勿論、私の語る「システム」は、米国を使いながら、日本と日本人を戦争へ引きずり込もう・巻き込もうとして、あらゆる手段を駆使して「誘惑」し続けるのは間違いない。

****これまた、ダメモト論だが、私たちの次の、またその次の世代のことを鑑みれば、それでも訴えておかなければならない。


(最後に一言)

その理由に関しては、ここ何回かの記事において、私なりの見解を示してきたので、斜め読みでいいから、少し目を通してほしい。今回はこれで失礼。

 


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ここ最近の記事を振り返って、私が改めて伝えておきたいことー私の語る「システム」論から、〈「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち(負け)続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウ〉

2022-03-18 | 日記

ここ最近の記事を振り返って、私が改めて伝えておきたいことー私の語る「システム」論から、〈「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち(負け)続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウ〉との関連において、改めて「戦争」と「センソウ」を再考するとき


(最初に一言)の前に、吐き出しておきたいこと


最近の私は、まるで熱にでも浮かされたかのように、記事を書いている。何か支離滅裂といったくだりも、書きながらわかるときでさえ、それ以上に、伝え残しておかねばという思いが先走って、そのまま書き進めているという状態だ。

今の私は、私自身が生きる上での私の人としてのお務め(人としての義務)を果たさなければとの一心である。いくらなんでも今の日本と日本人を取り囲んでいる、この時代の空気はおかしいし、危ないだろう。それこそ、馬淵睦夫氏や植草一秀氏の指摘するとことである。

今の日本は、「あっという間に」おかしくなるのは必至だろう。BSNHKの朝8時からの国際報道を見ても、これはもう、オカシイを通り越している。国際メデイア機関から提供される「偏向」した情報を、そのまま垂れ流しているだけだから、これではどうしようもない。戦前の日本政府・軍部の「大本営」発の出所がそっくりそのまま、まるで「ジキル」と「ハイド」の関係のように、連合国のそれに裏返っただけの感じである。

それはそうだとしても、さすがに米・英主導の連合国の仕掛ける情報戦は凄まじく、彼ら御用達の国際メデイア機関を介して、あっという間に日本人は洗脳状態の真っただ中。日本のメディアと言っても、そのほとんどがその下請けばかりだから、その効果は絶大だろう。あのテリー伊藤氏の「見解」も、あっという間に封印してしまったから、私たちは口をはさむ機会を逃がしてしまった感はありありなのだ。

それはさておき、私が何度も繰り返し語っているように、今のウクライナ危機の動向は、自己決定権の獲得とその実現のための力(暴力(と力(暴力)のぶつかり合いを介した争奪戦に見る「親分ー子分」関係の下で展開されてきた、まさに覇権システムの抱える問題が、私たちの目の前に差し出されているといったところではあるまいか。

それに関連して、ここで私のブログから削除した(2022,3,14)の投稿記事を、ここにもう一度貼り付けておきたい。正直、そこでの私の話に、それ以後も引っ掛かりを覚えて、気になっているのである。


ーーー

(2022,3,14)

〈ロシアの土着的・反欧米派ナショナリスト=グローバリストのプーチン(VS<=)中国の親欧米派ナショナリスト=グローバリストの習近平(VS>=)ウクライナの親欧米派グローバリストのネオナチ・ネオコン支持のゼレンスキー(VS<=)世界平和を希求する反ロシア・反中国の親欧米派ナショナリスト=グローバリスト〉の関係と、それらの関係を結び付ける「システム」と、そこでの関係を問い直すとき(続・続)ー私の語る「システム」論から、〈「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち(負け)続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウ〉との関連において、改めて「戦争」と「センソウ」を再考するとき


①今回は早速、以下の問いかけから始めたい。維新の鈴木宗男氏と植草一秀氏はその政治的立場を異にしているにもかかわらず、どうしてウクライナ危機を巡るメディア報道においては、類似したように思える立場を表明しているのだろうか。

②その植草氏は、ウクライナ危機に関して、「米国の正義」の胡散臭さを批判しているのだが、その米国の歴史が体現してきた「市民革命」発の「普遍的価値」とその実現の歩みとしての「普遍主義」を批判しないのはどうしてなのか。ここには、明らかな論理の「矛盾」が見られるのではなかろうか。

③そうした「矛盾」は、馬淵睦夫氏の「グローバリズム」批判の中にも垣間見られると同時に、中野剛志氏の著作(『世界を戦争に導くグローバリズム』 (集英社新書) にも見られる。彼らはグローバリズムを批判するのだが、そこから普遍的価値や普遍主義を批判するまでには至らないのである。

*勿論、このような私の物言いに対しては、それは「見解の相違だ」と一蹴されるかもしれないが、それを踏まえた上で言うならば、私は、普遍的価値の実現の歩みとしての普遍主義こそが、このグローバリズムにも、またその関連からナショナリズムにも、そして、グローバリゼーションにも、またインターナショナリゼーションにも、密接に関係・関連している、とみているのである。なお、これに関しては、拙稿〈「グローバリゼーション」の波間に漂い続ける「民主主義」社会 : 「ポスト・グローバリゼーション」の時代ははたして到来するのか〉(神戸市外国語大学外国学研究,84,89-115 、2013)や拙著『21世紀の「日本」と「日本人」と「普遍主義」』を参照されたい。

今回はこの①から③、とくに①②について話してみたい。③に関しては、拙稿〈「歴史叙述の神話」に関する一考察ー「システム」とその自己完結運動から「歴史」を語り直す〉『神戸外大論叢』66(3)を参照されたい。なお、もう少し体調がよくなれば、これに関しても論及したい。そんな事情もあり、今回記事は、あまり深くは掘り下げることができないことを、予めここで断っておきたい。なお、今回記事もこれまでの拙論の焼き直しであることを指摘しておく。


鈴木宗男氏の〈「ウクライナにも責任」=維新・鈴木氏、ロシア侵攻めぐり 2022年03月13日 20時01分 時事通信〉に目を通しながら、私はこれに似た植草氏の記事〈正義に成りすます米国の正体(植草一秀の『知られざる真実』2022年3月 7日 (月)〉を思い浮かべていた。

植草氏は、今回のウクライナ危機を巡り、米国のイラク戦争での出来事等を再検討する必要性を説くのだが、そこからどうしてなのか、そうした米国の正義のための戦争を背後で支えてきた、いわゆる「市民革命」発の米国が体現する普遍的価値や米国による普遍主義を真正面に据えて、それと徹底的に格闘しようとはしないのだ。


その理由はすぐにわかる。その検証・検討をしていくと、すぐさま日本国憲法に体現される「市民革命」発の普遍的価値と普遍主義を批判しなければならなくなるからだ。それはまずい。となる。あるいは、最初からその関連性が理解できないのかもしれないとも想定されようが、おそらくそんなことはないはずだ。少し考えればわかることだから。

欧米の礼賛してきた普遍的価値と普遍主義の抱える問題を考察したものならば、おそらくわかることなのだが、今回のウクライナ危機に関するロシアを「悪」として米国やウクライナを「善」とする議論は問題である云々の論評などは決してしないだろう。〈ロシアのウクライナ攻撃を批判する前に、ウクライナのロシアに対しておこなってきた「許しがたい行動」をを、先ずは考えてみなさい〉式の話は、さらにそこから、これまた当然のことだが、その〈ウクライナの「許しがたい行動」を批判する前に、ロシアの「(さらに)許しがたい行動」を、先ずは考えてみなさい〉式の、それこそ「イタチごっこ」の議論の応酬となるだけだろう。

もしそれを避けたいのであれば、今の欧米がロシアを批判する際に、私たちは自由な民主主義の国であるのに対して、ロシアは、あるいは中国は、その自由や民主主義を許さない認めない国だとの議論を俎上に載せて、それを検証・検討する作業をおこなえばいいだけの話ではあるまいか。

ここで留意すべき問題は、私たちはいつも議論を「すり替えられている」ことに気が付くべきだということだ。すなわち、彼らは、欧米の自由な民主主義という「価値(観)」を共有する云々の話に終始しているだけで、決してその価値(規範)や価値観がどのようにして現実のものとなるかに関しては語らないのである。

この次元でやめておかないと、まずいことになるのを、彼ら欧米産の民主主義を高く評価する者たちはよく理解しているからだ。つまり、私の語る「平和な民主主義」社会の実現のためには、あからさまな暴力が帝国主義が必要となるからだ。それこそ、私たちの「あの戦争」とその後の占領期の出来事を理解すればすぐにわかることであろう。

付言すれば、今のウクライナとロシアの交渉を見てもわかるように、「戦争」を一方で遂行しながら、その間に、お互いに有利となるような「落としどころ」としての「平和」の地点を探しているではないのか。私たちもそうであった。途中からは、もう戦争から足を洗うなんてことは許されなくなり、最後の最後まで引きずられてしまい、挙句は原爆を二発も投下される始末。そこにも見られるように、徹底的に暴力でもって相手をこれでもかと殴り続け、殺しながら、その挙句、私たちの欧米産の「平和」で自由な民主主義社会に、あなた方も加入できて良かったね、なんて、これほど馬鹿にされた話などないではないか。

さらに、それ以上に、アホというかおかしいのは、そんなことをされても喜々として、私たちは騙されていたのだ、私たちはどこかおかしかったのだ、あの人たちはやはりすごいし、素晴らしい人たちだよ、解放軍だよ、なんて。そうなんだよ、やはり自由な民主主義はいいもんだよ。その民主主義社会になれたから、私たちは戦後の豊かで平和な社会を実現できたのだよ云々と、もう歯止めなく戯言の繰り返しをして、あれからもう何十年たったのだろうか。

その間、私たちは決して問わなかったのだ。その平和な、自由な民主主義の社会は、どうやって実現できたのかという問いかけを、私たちは自らに向けて発すことはなかったのだ。私たちは自らの身体でもって、自らを傷つけ、相手を傷つけ、血を流しながらも、その歴史を、自らの頭で、言葉でもって書き留めることをしなかったのだ。その代わりに、私たちがこれまでおこなってきたのは、先の欧米産の自由な民主主義という価値(観)でもって書き直す作業であったのだ。

それゆえ、価値(規範)のレベルの話だから、決してあからさまな力というか暴力とは、つまり帝国主義とは、覇権システムとは結び付けられないままに、民主主義の話が語られてきたのである。私たちが「せっかく」自らの手を汚し、近隣諸国を侵略して、気づつけ殺しあいながらも、そうした「貴重な体験・経験」としての「帝国主義」が何らいかされないままに、片隅に放置されたままに、時間ばかりが過ぎてしまったのである。


(最後に一言)

どうしようもない「民族」「階級」「市民」「個々人」「個人」といえばそれまでだが、今のウクライナ危機を巡るロシア発、ウクライナ発の情報戦にも示されるように、私たちはグローバルな巨大な権力・利害集団(勢力)の所有するメディアによる情報操作とその影響から何とか免れながら、私たちの知・情・意のバランス感覚を保つのは至難の業だと言えよう。

私は今まで、護憲論者や第9条論者、さらには野党勢力の批判は、これでも自重してきたつもりなのだが。もうそんなことを言っている段階ではなかろう。彼らは、それこそ自公勢力や改憲勢力を批判したり非難するのだが、それは確かに彼らの仕事ではあるとしても、彼らこそ、改めて「市民革命」発の普遍的価値や普遍主義について真正面から向き合い、その抱える問題というか宿痾について、検証・検討すべきではなかろうか。

勿論、この私の「お願い」は、ダメモト話だ。もし、彼らがそんなことをしでかしてくれたならば、私は本当にうれしいのだが、それこそ彼ら自身が、これまで築いてきたすべての基盤を崩壊させ、そのほとんどを失うのは必至となるから。それは、翻って見るとき、欧米社会がもし、そんなことをするならば、それこそ欧米社会が積み上げてきた文明それ自体の瓦解を意味するだろうし、私の語る「システム」とその下でつくり出されたグローバルな巨大な「権力・利害集団(勢力)」も跡形もなく消え去るに違いない。

もっとも、この話もダメモト論だが。さらに、もしそんなことがおこったとしても、そのあとに導かれる社会もまた、差別と排除の関係から構成される別の「システム」が創造されるのに違いない。それはそうだとしても、その前に私たちの向き合うべき問題というか課題は山積している。いずれにしても気の滅入ることだが、私にできることは、最後まであきらめないで、少しでも書き続けることしか、もう他にはない。


ーーー


私は、この上に貼り付けた記事を、いろいろと考慮して、削除したのだが、すぐその後から、(2022,3,15)の記事に、(加筆。修正版)の形で、記事の前半部分をカットすると同時に、後半の部分を残しながら、改めて書き直したのである。その理由としては、やはり今の状況下において、グローバリゼーションやグローバリズムを批判する論者との「連帯」が必要」だとの私の思いが強かったからに違いない。

グローバリズムの批判が、それこそ普遍的価値や普遍主義の批判に至るまで、結び付いていない云々の私の議論は、こんな時にしてもどうにもならないとの思いの中で、ひっこめた感が強いのだ。今はそれよりも、とにかく米・英主導の「国際世論」の危うさに対峙するときなのだから、が最優先されるべきなのだ。

そんな気持ちの中で、「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎し」的な私の従来のこれでもか論の問題にも、改めて気が付いた次第だ。勿論、そうは言うものの、どうしても私の戦うべき相手は、「市民革命」発の普遍的価値と普遍主義であることから、「連帯」云々と言いながらも、私の「我」が出てくることも否定できない。

それは、同時にまた、私の語る「システム」論とそこで提示される〈「システム」とその関係の歩み〉を隠すことまでは、どうしてもできないことから、普遍的価値や普遍主義云々の議論が、話の端々で出てこざるを得ないのも確か。それが、私の話をある面で、中途半端なものにしているともいえ角田が、そこはやはり、研究というか学問の性格と絡んでいる。机上の空論としての議論は、たとえ信条倫理の側面に傾きやすいとしても、必要なのだ。もしそれがなければ、責任倫理という空虚に響く言葉だけが蔓延した、誰一人として責任など引き受けようともしない現実世界を、批判的に考察するのもできなくなるから。

それを踏まえて、私の前半部から中盤部にかけての「イタチごっこ」云々の話も、削除したのだが、それに関しては、今回記事の終わりのほうで、その理由について述べているので、それを念頭に置きながら、ここでは次のような指摘をしておきたい。

結局は、その繰り返されるウクライナというかウクライナにそれを言わせている米国とロシアの正義を巡る応酬合戦を、イタチごっことして私たちが俎上に載せ手検証・検討しない限り、国際政治というか国際関係の力(暴力)というか軍事力の行使とそれを介した「平和」的結着へといういつもの落としどころへと至る歩みを、つまりは覇権システムを前提としたこれまで通りのヤクザの儀式である「手打ち」を、永久に認めてしまうことになってしまう。


(最初に一言)

それではいつものように、話を始めたい。今回は特に、ややこしい話となるので、読者にはその旨を伝えておきたい。もうここまでに、ややこしい話をしているのも確かなのに、申し訳ないのだが、もう少しお付き合いお願いしたい。


私は、あれほど普遍的価値や普遍主義を批判しながら、それにもかかわらず、現実世界においては、私も仕方なくそれを受容というか甘受している云々のことを述べていたが、そうしないと様々な恩恵にあずかれないからだ。年金受給もできないし、視覚障碍者としての各種サービスも受けられない。

そのような意味において、私は「国民」をまさに体現して生きている。国民となるということは、私の語る「システム」の世界・セカイを受け入れることから、世界民主主義システムの「規範」とされる普遍的価値を、そしてその実現の歩みとしての普遍主義を、受け入れるということでもある、と私は述べていた。

それゆえ、そこから同時に、私は、その「システム」を構成する覇権システムの下に組み込まれている以上、国民として、日本国家が巻き込まれる戦争にも動員されることを避けられなくなる、と言わざるを得ない。さらに付言すれば、私の語る「システム」の下においては、私たちは常在戦場としての覇権システムの下で生きているということから、いつも「総力戦体制」の下に、戦争・センソウへと総動員される仕組みの中で、現実には生きているということであることから、日本国家や日本政府の動員「発令」云々にかかわらず、巻き込まれながら、生きているということなのだ。

ところが、前回記事の最後のほうでも述べていたように、私たちは、私の語る「システム」と覇権システムの提供する「パックス」と何ら矛盾しない、その意味では相当に恐ろしい「平和」であるのだが、それにもかかわらず、その「平和」の中で惰眠を貪ることを一時的であれ、許されていることから、戦争・センソウ状態と背中合わせであることに気が付くのが難しいということなのだ。

いずれにせよ、私は、国民として様々な「恩恵」に与りながら、もし私が国民として戦争へと国家が動員しようとしたとき、それに対して、「私は戦争には反対であり、もし戦争をするのであれば、私はこの国から一時的に退避・避難します」云々の異議申し立てをすれば、当然ながら、「お前は国民の権利だけはちゃっかりと主張しながら、他方で国民としての国を守るという義務を放棄するような、そんな勝手が通るとでも思っているのか」云々の避難・批判の大合唱となるかもしれない。


勿論、私はそれに対して異議申し立てをする。私は確かに国民として生きてきたし、それは同時に、私の語る「システム」の提供する普遍的価値や普遍主義を受容する・甘受するということであるのは、認めよう。だが、その「システム」が普遍的価値や普遍主義を掲げながら、「平和で自由な民主主義」社会が、今まさに専制主義を信奉する国から攻撃されている云々の理由で、国民としての私を戦争へと巻き込むときには、あえてその普遍的価値と普遍主義の掲げる正義に対して、私は異議申し立てをせざるを得ない。


もともと、私が普遍的価値や普遍主義を甘受したのは、国民としての権利を保障されるためだった。勿論、国民としての義務も果たすことを忘れてはいない。だが、たとえ国民だとしても、「国家の戦争」を、私もその国家を構成する国民の一因だから、お前も国民の「当然の」義務として、戦争遂行に協力しろと言う「命令」に対して、どうして私は従わないといけないのか。やはりそれはおかしなことだろう。

国を守るということが、どうしてすぐさま国家の戦争を前提とした、戦争防衛ともっぱら結び付けられてしまうのか。国を守るというのは、国民として私の属する国家が国民の命と暮らしを守っているかということであり、戦争に巻き込まれることのないように、努めることである。私の国民としての義務は、まさに国家が戦争へと巻き込まれないように、同時に国家が国民を戦争へと巻き込まないように尽力することであり、その意味における義務なのだ。

もし、戦争ともなれば、私はもうそれ以上、国民として担う義務は、私にはないと考える。あまつさえ、馬鹿な政府によって無謀な戦争へと巻き込まれようとするときにおいて。
当然ながら、私の国民としての権利もないのは確かだろう。ウクライナの惨状を見ればわかる。住んでいた住居は爆破され、もうそこで暮らすのも難しい。たとえ戻れたとしても、私の国家との権利義務関係は、改めて作り直されなければならないのは、当然のこととなるから。

もうそんな政府が体現する国家に対する私の忠誠義務などmまっぴら御免だ。たとえ、ソクラテスが私に向かって、「悪法と言えども国の法律に従うのが筋」だと諭したとしても、である。私は戦争に国民を巻き込む法律は、たとえそれが「平和な民主主義」社会を、抑圧政権の暴力から守るためだといわれても、それには断固として反対するのみである。

なぜなら、そうした国家の、また今回の米国やEUそしてNATO加盟国が扇動する国際世論の、とくに自由な民主主義が無法な専制主義の国から攻撃されている云々の「嘘」がはっきりと、私にはわかるからだ。私の語る「システム」論の観点から見るとき、いずれの側の主張にも私は組することはできないのである。

その時、国民は義務として、そんな戦争は止めなさいという声を、政治に対して発することこそ、必要ではあるまいか。私は、いつもそう思ってきたし、私の語る「システム」論を自分自身で、さらに考察すればするほど、その重要性に気が付いたのである。そして今回のウクライナ危機に際して、改めて私は、私の語る「システム」論との関連から、普遍的価値と普遍主義の、とくに後者の抱える宿痾を何とか白日の下に曝す必要性を痛感したのだ。


それを踏まえて付言すれば、国連憲章や、日本国憲法の中に体現されている普遍的価値・普遍主義を、現実の世界において活動している政治家や公務員等は受容・甘受せざるをえないとか、私自身もそうするのは仕方がない云々の話は、もしいきなりそんなことを公然と日本国家と日本国民が世界に向かって公言した瞬間、それは国連という戦勝国の「連合国」がリードしてきた世界を敵に回すことを意味し、それこそ国連憲章の敵国条項に対する違反として、戦争を吹っ掛けられる危険性が大であると考えるからなのだ。日本はロシアや中国と異なり、「敗戦国」なのだ。

さらに今回のウクライナ危機を政府やその取り巻きの戦争屋が、ここぞとばかりに戦争を、国防を煽る口実として使う機会が増加してくると、私は考えるから、「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎し」的な私のこれまでの立場を改めることの必要性と重要性に気が付いたからなのだ。とにかくどのような理由があるにせよ、わざわざこちらから進んで巻き込まれるような戦争は、絶対に避けるべしであり、そのための連帯が求められるのだ。


ところで、上述のくだりでも述べていたように、ウクライナ危機を巡るロシアとウクライナの「正義はこちらにこそある」云々の激しい応酬劇に関して、私はそれは結局は「イタチごっこ」であると述べていた。それは今でもそのように理解している。それゆえ、もう一度、歴史を遡って、そこで語られる「正義」を再考する必要性を説いたのだ。

その作業を、もし試みたならば、そこから、どうしても「市民革命」発の普遍的価値とその実現の歩みとしての普遍主義が体現してきた「正義」を改めて問い直すことになり、それゆえ、私はそうした普遍的価値、とくにその実現の歩みとしての普遍主義の正義に関して検証・検討する際には、私の語る「システム」論は、手前みそながら、それこそ格好の手引きとなる、と私は述べていたのだ。

だが、それをたとえおこなってみたとしても、現実政治には、戦争や紛争を巡り、それなりの起点と展開点があり、そこに立ち戻らない限りは、紛争終結に対する何らの有効な打開策を提供することはできないのは確かであろう。それを踏まえて言うならば、それは馬淵氏や植草氏が的確に指摘しているように、2014年の政変劇であるのは間違いなかろう。付言すれば、それはまた、覇権システムを、そして私の語る「システム」を受容・甘受してしまうことを意味してしまうのだが、それこそ責任倫理の立場に立てば、致し方がないことを、私も認めざるを得ないのだ。

既に、冒頭近くでも触れていたように、私はこの「イタチごっこ」云々の記事は削除して、それに代わる記事を投稿したのだが、そこではこの点には触れていなかったのだ。それがずっと気になっていたので、今回やっとここで言及できたことにほっとしている。


(最後に一言)


結局は、私が何度も論及してきたように、市民革命を期限とした普遍的価値とその実現の歩みとしての普遍主義の抱える問題に突き当たるのだ。それを私たちは忘れてはならないし、とくに日本と日本人はその問題、つまり普遍主義から逃げてはならないのだ。

あの戦争から戦後の日本の旅立ちにおける歴史を鑑みるとき、私たちはポツダム宣言を受諾して、米国の占領統治の下で日本国憲法の制定と施行に関わった当事者としての存在から、普遍的価値や普遍主義を、当然のこととして、何ら疑うことなく受容してきたのだが、それはそこから、「第9条」の有無にかかわらず、国民の義務としての戦争に巻き込まれてしまうということを、この際はっきりと再確認しておいた方がいいのである。

その理由に関しては、私の語る「システム」論で描いたように、国民としての存在を受け入れる限りにおいて、私の語る覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムの三つの下位システムから構成される、差別と排除の関係を前提としてつくり出されてきた一つの「システム」の中に追いやられてしまうことを意味すると同時に、その「システム」の空間で生きている限りは、〈「平和な民主主義」社会の実現のために、「勝ち(負け)続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウ〉から、永久に逃れられないということを、意味しているからである。

*(付記)

記事投稿後に、大事なことを言い忘れていたのに気が付いたので、(付記)しておきたい。改めて言うまでもないことだが、戦争反対を叫ぶ者との連帯というとき、当然ながら、護憲論者であれ、第9条論者であれ、私にとっては、同じ仲間となる。それは、保守であれ、中道であれ、同じことである。もっとも、これまでさんざん批判してきたことを鑑みれば、相手側はどう見ているかはわからないのだが、それは私には、私の方からは、もう問題ではない。そんなことにこだわっている時ではなくなったのだ。相当に危なくなってきた。

 


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この期に及んで、「NATO加盟を取りやめたい」とのゼレンスキー大統領。どうして今さらそんな寝言を言うのか、最後まで戦って、あなただけでも「玉砕」するべきではないのか。あなたの致命的な判断の誤りによって

2022-03-17 | 日記

この期に及んで、「NATO加盟を取りやめたい」とのゼレンスキー大統領。どうして今さらそんな寝言を言うのか、最後まで戦って、あなただけでも「玉砕」するべきではないのか。あなたの致命的な判断の誤りによって、どれほどの命が奪われたことか。「あの(悲惨な)戦争」の歴史の教訓を、「日本人」だからこそ、世界に向けて発信するべき時ではあるまいか。ー〈ロシアの土着的・反欧米派ナショナリスト=グローバリストのプーチン(VS<=)中国の親欧米派ナショナリスト=グローバリストの習近平(VS>=)ウクライナの親欧米派グローバリストのネオナチ・ネオコン支持のゼレンスキー(VS<=)世界平和を希求する反ロシア・反中国の親欧米派ナショナリスト=グローバリスト〉の関係と、それらの関係を結び付ける「システム」と、そこでの関係を問い直すとき(続・続・続・続)ー私の語る「システム」論から、〈「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち(負け)続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウ〉との関連において、改めて「戦争」と「センソウ」を再考するとき


(最初に一言)

やっぱりなあ、なのだ。米国との日本の「あの戦争」の流れと酷似している。我々は最後まで戦いウクライナを守り抜く。今のウクライナはまだ負けてはいない。ロシアの無法な要求には決して「妥協」などしない等々と繰り返していたゼレンスキーだが、この間にも犠牲者は増えるばかり。

あの戦争時の日本の指導者も同様なことを繰り返していた。そして、その指導者の意向を汲んだ国民の中から、指導者と一致団結して戦うとの決意表明として、「欲しがりません、勝つまでは」との大合唱となっていく。日本国内では、戦争に反対表明する者など、誰一人としていないかのような空気が醸成されていく。

結局、指導者もそれに従った国民も、最後まで戦うことをしないで、途中で降参となったのだ。それは仕方がない。どんなに威勢のいいことを言っても、大きな力の前ではどうにもならないのだから。たとえウクライナや日本が闘わないでも済むような道を選ぼうとしても、先ずは戦えと、その後で、何某かの落ちどころというか妥協点を、何とかして見つけてやるから、とにかく戦えという具合に、戦争へと引き込まれてしまう。そうすることによって、金儲けに与れる勢力が存在しているのだ。

それはそうだとしても、そんなにまでして戦いながら、その間にも多くの者が命を落とすことを余儀なくされたことに、この指導者やその指導者を支持した国民は、犠牲となった国民に対して、一体どのような「言葉」がかけられるのだろうか。彼らに仕方なく従うしかなかった国民もいただろうし、それどころか戦争に反対していた国民もいたであろう。

これに関連して言及すれば、ウクライナにおけるロシアとの戦争に反対する国民の声はほとんどまったく、国際世論には反映されることもないのは、どうしてだろうか。ウクライナ国内には、戦争反対を叫ぶ国民は誰一人として存在しなかったのだろうか。そんなことはない。ところが、国際メディア期間を介して報道される情報は、ロシアにおける反戦を訴える人たちが弾圧されているという情報だけが流されるのみで、ウクライナのそれは、まったく知る術もない。

それはともかくとして、そんな国民を力でもって、戦争へと追いやった責任を、彼らウクライナ指導者は、どのようにして引き受けるというのだろうか。もっとも、彼らは米国の操り人形であるから、その責任を自分たちだけが引き受けるのはできないと、最後の最後になって、悪足掻きをするかもしれない。哀れなのはウクライナを離れざるを得なかった国民同様に、今もとどまっているウクライナ国民というしかあるまいが、いずれにせよ、戦争へと引き込まれてしまったのだ。それが今回のウクライナ危機とその後のあのムゴイ戦争である。


この話は、日本の原発事故を巡る、原発支持者とその反対者、そのいずれに対しても判断を示せないで、事故後私たちは騙されてしまった、私たちは安全だといわれてそれに従っただけ云々と自らの卑怯な正当性を訴える人たちから成る人間関係の下で、事故後に、どのような責任の所在を巡る「犯人捜し」が展開されたか。その間も、それから今に至るまでも、原発事故の放射能汚染による身体被曝(被爆)により、多くの人々が苦しみ続けている。

私には、あの戦争も、あの原発センソウも、その責任の取り方というか、ほとんど責任の所在が曖昧模糊とされてしまい、誰も責任を取ろうとしないままに、無責任な結末を迎えて、しばらく経つと、あとはそのまま、何もなかったかのように、以前の状態に戻ってしまった、としか見えないのだが。

だが、これまた、仕方がないことだろう。それはそうだとしても、だからこそ、こんなバカな歴史の繰り返しに対して、もしまたそれが引き起こされようとしたときには、私たちは声を大にして、「もうそんな愚は避けたほうがいい」と叫ばなければならない、と私は言わざるを得ないのである。そして、そのためには、その思いを共有できる者たちとの「連帯」は、どうしても避けられなくなる。たとええ「坊主憎けりゃ、袈裟まで憎し」の私のような者であれ、そうすることに躊躇はしない。今後、こうした連帯の必要性は日に日に増してくる、そんな政治情勢の展開が予想されるのではあるまいか。


勿論、こんなことを言ったとしても、またまた悲劇・喜劇は、今回のウクライナ危機に際しても繰り返されてしまった。日本があの戦争で米国には勝てない、結局は負けてしまうとわかりながら、それでも戦争へと突入して、そしてその通りとなってしまった。同じ轍をウクライナもロシアとの戦争で踏むに違いない。

もっとも、あの戦争時の日本と異なり、今のウクライナには、米国を筆頭としたあれやこれやの支援が提供されているのだが。それは連日の報道にもあるように、米国政府・議会におけるウクライナへの武器提供や資金援助にも示されている。問題は、誰がそれを負担するというのか。ロシアだけが財政難で苦しんでいるのではない。それは米国とて同じなのだ。その財政難の米国が国民の税金で賄えないような負担を、誰に一時的に、イヤ永続して補填・補充してもらっているのか。それこそ、グローバルな巨大な権力・利害集団(勢力)を構成する戦争屋の中心勢力である「ウォール街」の国際金融資本勢力なのだ。

それに関連して、ここで付言しておきたいことがある。日本対米国の戦争というとき、日本を、また米国を戦争へと積極的に巻き込もうとする勢力が存在していたということである。私の場合は、私の語る「システム」の下でその勢力が作り出され、そうした勢力を、「システム」が戦争を引き起こすように使っている、とみているのだが。

いずれにせよ、今回のウクライナ危機においても、あの戦争を引き起こしたのと同様な動きが確認できるのではあるまいか。それに関して付言すれば、あの戦争は、私の語る「システム」論で描かれる{[Aの衣食足りて(経済発展)→Aの礼節を知る(民主主義の発展)]→(×)[Bの衣食足りて・足りず(経済発展)→Bの礼節を知る・知らず(民主主義の発展)]→×[Cの衣食足りず(経済発展)→Cの礼節を知らず(民主主義の発展)]}の〈「システム」とその関係の歩み〉に貢献するものであったということだ。

そして今回のウクライナ危機におけるロシアとウクライナ(アメリカ)の戦争は、{[Bの衣食足りて(経済発展)→Bの礼節を知る(民主主義の発展)]→(×)[Cの衣食足りて・足りず(経済発展)→Cの礼節を知る・知らず(民主主義の発展)]→×[Aの衣食足りず(経済発展)→Aの礼節を知らず(民主主義の発展)]}の〈「システム」とその関係の歩み〉に貢献するものとして、同時に、そのために仕掛けられた戦争である、と私は理解している。

*なお、このモデルは1970年代以前と1970年代以降の共時態型モデルである。それに関連した他のモデルは省略している。詳しくは拙著『21世紀の「日本」と「日本人」と「普遍主義」-「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウ』(晃洋書房 2014年)の88-91頁のモデルを参照されたい。

そこで私が読者にお伝えしたいのは、戦争は、一人や二人の指導者等によって、また彼らの個人的な野望とか征服欲云々でもって、引き起こされたりはしないということである。あの戦争を、A級戦犯や、東条英機の、また天皇による戦争として、あるいは今回のウクライナ危機を巡る戦争をプーチンと彼の個人的野心とか精神的な病?が引き起こした戦争としてもっぱら描くだけでは、私がここで示した〈「システム」とその関係の歩み〉の抱える戦争を導く大きな原因というか宿痾などは、さらさら見えてこない、と私は言わざるを得ない。

もっとも、それこそが、私の語る「システム」が望んでいることに違いないのだ。その好例は、「システム」が国際メディア機関やバイデン米国大統領を使って、何度もプーチンによる戦争とか、プーチンによる犯罪云々の話を、繰り返し繰り返しさせているところにも示されよう。


(最後に一言)

前回記事でも指摘したように、私はあの戦争について、改めて学び直す必要性を痛感している。もっともそこでの私の関心は、歴史のどの「地点」で、私たちが戦争から逃げられなくなったのかを、逆に言えば、その地点に至るまでは逃げられるかもしれないということでもあるが、を確認するためである。もっとも、この物言いは、それ自体おかしいことである。なぜなら、私はしばしば、私たちは私の語る「システム」の中に、あたかも「総力戦体制」の下に総動員されているかのような姿で、生きている云々と、語ってきたのだから。

それはそうなのだ。私たちは「システム」の中で、いつも戦時体制状態に置かれている。その中での「平和」であるから、恐ろしい平和な社会ともいえよう。それゆえ、なおさら、私たちは、戦争をすぐそこに迎えようとするときにおいても、その始まりを確認する嗅覚が鈍くなるのも当然のことのように、私には思えてくる。それゆえ、そこからアレヨアレヨといったこととなり、うろたえるばかりとならざるを得なくなる。

それゆえ、戦争が実際の戦闘を介して、誰の目にも明らかとなった時には、その戦争から逃げおおせるのは難しくなる。戦争がはっきりとわかった時には、大変な状況・状態にあるに違いない。しかも、日本は島国で、どこへもそう簡単には、逃げられない。

それを踏まえるとき、私たちは政治に対してしっかりと向き合う必要があることは言うまでもないはずだが、ここでもまたこの政治がどうにもならない始末だから、ーーー。だが、もし戦争に巻き込まれないように、戦争から逃げおおせたいと考えるのならば、私たちは目の前の政治が、たとえどんなに腐ったものだとしても、そこから断じて逃げてはダメだろう。逃げずに、政治と向き合い、政治に対して、私たち一人一人が、自らの声を発するべきであろう。たとえ、それがダメモトだとしても、それを続けていく事が大事ではあるまいか。

 


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私はテリー伊藤氏の「見解」を支持する。「あの(悲惨な)戦争」の歴史の教訓を、「日本人」だからこそ、世界に向けて発信するべき時ではあるまいか。ー〈ロシアの土着的・反欧米派ナショナリスト=グローバリスト

2022-03-16 | 日記

私はテリー伊藤氏の「見解」を支持する。「あの(悲惨な)戦争」の歴史の教訓を、「日本人」だからこそ、世界に向けて発信するべき時ではあるまいか。ー〈ロシアの土着的・反欧米派ナショナリスト=グローバリストのプーチン(VS<=)中国の親欧米派ナショナリスト=グローバリストの習近平(VS>=)ウクライナの親欧米派グローバリストのネオナチ・ネオコン支持のゼレンスキー(VS<=)世界平和を希求する反ロシア・反中国の親欧米派ナショナリスト=グローバリスト〉の関係と、それらの関係を結び付ける「システム」と、そこでの関係を問い直すとき(続・続・続)ー私の語る「システム」論から、〈「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち(負け)続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウ〉との関連において、改めて「戦争」と「センソウ」を再考するとき

(最初に一言)

日本は、今も「戦争・戦時」下にある。日本は戦後一貫して国際社会から国連憲章の規定する「敵国条項」の下にあり、それによって「第二次大戦中に連合国の敵国だった国が、第二次大戦で確定した事項に反したり、侵略政策を再現する行動等を起こした場合、国際連合加盟国や地域安全保障機構は、安保理の許可がなくても当該国に対して軍事制裁を科すことができる」という、あまりにも物騒な条項の下に置かれている。つまりその条項に違反したとみなされるときには、いついかなる時にも攻撃を受けても「文句」も言えないのが現実だということである。やっとその条項の削除が約束されたものの、なお実際は、継続中なのだ。


さらに、あの東京電力・福島原発の事故以降、日本人は未だに「原発戦争」の真っただ中に置かれているといっても過言ではない。放射性物質は未だ大気中に飛び散り、処理済み原発汚染水はたまるばかり。挙句は原子炉の解体作業を完全に安全なものとして終了できるかどうかのメドすらも見通せない始末なのだ。

あの事故以来、福島を離れての生活を余儀なくされ、将来の見通しが立たない者や、放射能汚染や被曝による様々な病気を抱えて苦しむ人々とその家族、第一次産業に従事する人たちの生活不安等々、さらにはこれこそ忘れてはならないことだろうが、原発事故以前のそれ以上に、被曝の可能性の高い原発作業員の存在を前にしたとき、その現実を忘却・無視したかのように、ウクライナ危機におけるウクライナの原発報道に心配の声を上げるのは、やはりこれもおかしな話ではあるまいか。


これら二つの事例を取り出しただけでも、私たちは身の回りの戦争・センソウに対して、あまりにも無頓着・無責任すぎるのが分かるというものだ。ただただメディア報道に煽られている間の話で終わるだけの繰り返しだから。それは今のウクライナ危機を巡る報道合戦に巻き込まれてしまって、右往左往している今の私たち日本人にそっくりそのまま該当する。


今のウクライナ危機をあそこまで長引かせている張本人は、米国のバイデン大統領と彼の取り巻きの戦争屋連中だ。彼らはウクライナに米国製の武器を売り渡し、外国人傭兵を送り込み、ウクライナをさらなる悲惨な戦争へと追い込んでいるだけではあるまいか。その意味ではやっと今回のウクライナ危機における戦争の正体が見えてきたのだ。ずっとロシアと、ウクライナを背後で操ってきた米国の戦争だったのだ。

そんな米国がよくも中国に言えたものだ。「ロシアを支援してはならない、と。おかしな物言いではあるまいか。自らはウクライナに対して、武器や資金そして傭兵を提供しながら、それと同じことを中国がもししようとすれば、それは許さないといわんばかりなのだから。

何か似ている。北朝鮮やイランが核兵器開発をするとなれば、国際平和や国際秩序に脅威となるから、それは許さないと公言するのだが、自らはちゃっかりと世界に先駆けて核開発に乗り出し、その成果を、あの戦争末期の日本で投下実験したのだから。恐れ入るのみだ。

親分には許されることが子分には許されない。それが覇権システムを前提とする国際政治・国際関係における現実だろう。その際、親分は自らの正当性と合法性を、自らに都合のいい情報提供を可能とする彼らご用達の国際メディア機関をフル稼働させて、国際世論を操作しながら、宣うことを忘れない。

自由と民主主義を守らなければならない、人権と平和が今攻撃されている等々。彼らこそ、その自由や民主主義を壊してきた張本人であることなど、思い知る由もない。と言うよりは、私たちはここで次のように問い直す必要があるのかもしれない。そもそも自由や民主主義に関して、私たちはどれほどしっいるのだろうか、と。ひょっとして、私たちが受け入れてきた自由民主主義や人権、平和は、それこそこのような暴力や戦争を、常にその中に含み込んでいたのではないのだろうか。

そもそもこの世界を動かしているのは私たち普通の者たちだろうか。それは違うだろう。特権階級を構成する権力者たちではないか。国でいえば、歴代の覇権国だ。そう、親分たちだ。市民革命を経験した国々は、そのほとんどが歴代の親分であり覇権国であった。フランスも強大国であった。彼らは、日本の時代劇に出てくるヤクザの親分に似て、一方で十手(普遍的人権)を掲げ、他方の手に刀(軍事力)を持って、意に従わない者をぶん殴り、殺すのだ。


それはさておき、話を先のくだり、すなわち、〈その際、親分は自らの正当性と合法性を、自らに都合のいい情報提供を可能とする彼らご用達の国際メディア機関をフル稼働させて、国際世論を操作しながら、宣うことを忘れない。〉に戻すとき、そうした仕組みの存在が、あの戦争における〈戦前・戦中・戦後〉の情報戦となって、大きな成果を上げたことを、私たちは今では知ることができるのだ。そんな日本人にとって、ウクライナ危機を巡るロシアとウクライナの、と言うよりは、その背後に控えていたが、しびれを切らしてとうとう表に出ざるを得なくなったアメリカ間の戦争は、他人事としては済まされない。


日本人の教訓として何よりも大切なことは、戦争をおこさない、つくらない、もちこませないの、まさに非核三原則にも似た鉄則だ。ところが、これを日本政府自らが破るのだ。破らざるを得ない。日米安保体制下の中、覇権システムの維持管理を担う覇権国としての親分である米国の力の前には逆らえないからだ。と同時に、その米国にイソギンチャクのように唯々諾々と従いたい日本人の権力・利害集団(勢力)が存在しているからだ。

今のウクライナのゼレンスキー大統領は誰のおかげで誕生したのだろうか。ウクライナの国民の投票によってだとしても、その誕生を可能とさせたのはその背後に控える米国であったということは、これまた多くの人の知るところである。その米国がゼレンスキーに徹底抗戦を要求し、彼はそれに従うことこそ、彼の安全保障を含む利害関係に適合する。彼にもはや選択肢はないのだ。

それゆえ、彼は彼の仲間を募る。そしてその仲間たちは、国際メディア機関の前で、米国の指示に従いながら、ロシアの一方的な侵略は悪であり、我々はウクライナを守るために最後まで戦い抜く、ウクライナ人の誇りを忘れない等々、語り続けている。それとともに、子供や女性の無残な姿がメディアを介して、延々と映し出される。

おかしな報道であるにもかかわらず、それをおかしいと思わせないのだ。戦争それ自体を許さない・許してはならない、戦争遂行者はロシア側であれ、ウクライナ側であれ、両者ともに許してはならない・許されるべきではない、とにかくロシアもウクライナも停戦すべきなのだ云々のメッセージは、どういうわけなのか国際メディア機関が提供する情報からは伝わってこないのだ。その理由は明白だ。もっつと戦争を継続させることで、武器が売れる、在庫が一掃され、新たな武器の開発のための政府予算が組める等々。

逆に、ロシアが悪い。一方的にグルジアやクリミア半島を併合したり、ウクライナの東部二州を自らの支配下に置いている。こんな非道な無法なやり方はおかしい、ロシアがウクライナの原発を占拠して、そこでの爆発があり、電源も切れたままで、このままでは危ない云々の情報ばかりが提供されるのだから、日本人はそれを信じて情報操作されてもおかしくはないだろう。

そう言えば、東京電力の福島原発の事故の際も電源が切れて、相当な問題となったのだが、あの責任は一体、誰にあったのか。安倍元首相にあるとの批判がなされたのだが、これもいわゆる「原子力村」・「原子力マフイア」の存在や東京オリンピック開催に向けての動きの中で黙殺されてしまった感がある。その安倍元首相と言えば、何より東京オリンピックの誘致のために、東北の原発は「アンダー・コントロール」だと世界に向けて発信したのだが、これは嘘八百であったのは間違いない。だが、国民の多くも、メディアもそれほど騒ぐことはなかったのだ。

元々、原発は安全だとの安全神話に反対して、原発の誘致の以前からそして誘致された後も、地道に原発反対を訴えていた地元の人たちに対して、私たちはどのような態度を示していたのだろうか。そして事故後も、またそうである。あまつさえ、あれほどの悲惨な事故をおこしながら、さらに今もなお多くの婦女子や女児が甲状腺ガンを患い、その治療で大変な状況・状態にあるにもかかわらず、もうそんなことなどなかったかのように、再稼働であるから、これではもう、あの戦争の教訓を忘れてはならないなんて叫んでみたところで、話にもならない。

そうした愚か者たちの日本人が多数を占めるこの日本から、ウクライナに向かって、いやその前に、当の日本に向かって、テリー伊藤氏のような発言をすれば、どのような結末というか、大炎上となるのは明らかなことだろう。本当に忸怩たる思いだ。

今の国際世論のおかしさというか危うさは、処理済み原子炉汚染水の海洋放棄(「放出」という言葉はやはり、何かを隠している。そう、私たちの作為と不作為を)に対して、それこそ米国のバイデン大統領が、そんな無法は断じて許さないなんてことを、決して言わないことにもある。私たち日本人も、それほど騒がないのだ。それでいて、国際世論の垂れ流すSDGs云々の大合唱となるから、これまた首をかしげざるを得なくなる。もっとも、それがメディアに洗脳された者たちの病気の症状であるから、いまさらおかしいことだなんて言うのも、これまたオカシイ話だが。


それではこれらの点を踏まえて、テリー伊藤氏の発言とそれに対する反論を吟味しながら、そこから見えてくることに関して述べてみたい。その際、読者には申し訳ないのだが、私の語る「システム」論で提示されている例の{[Aの衣食足りて(経済発展)→Aの礼節を知る(民主主義の発展)]→(×)[Bの衣食足りて・足りず(経済発展)→Bの礼節を知る・知らず(民主主義の発展)]→×[Cの衣食足りず(経済発展)→Cの礼節を知らず(民主主義の発展)]}(なお、このモデルは1970年代以前の共時態型モデルであり、それに関連した他のモデルは省略している。詳しくは以下の拙著のモデルを参照してほしい)を念頭においてお付き合いお願いしたいのだ。さらに厚かましいことを言えば、拙著『21世紀の「日本」とーーー』の88-91頁のモデルを参照しながら、以下の話を聞いてほしい。


さて、今日の早朝、私は以下の記事〈テリー伊藤が大炎上! ウクライナ人へ降伏提案…「日本人として恥ずかしい」2022年03月15日 10時31分 まいじつ〉に気が付いたところ。それによると、〈テリー伊藤が大炎上! ウクライナ人へ降伏提案…「日本人として恥ずかしい」演出家でタレントのテリー伊藤が、3月14日放送のラジオ番組『垣花正 あなたとハッヒ?ー!』(ニッポン放送)に出演。ロシアのウクライナ侵攻について持論を展開したのだが、その内容に批判が続出し、炎上している。〉とのことだ。

その記事は続けて以下のように伝えている。すなわち、〈テリーは、連日続くロシアの攻撃によって、多くの人々が亡くなっていることを懸念。ウクライナの女性に対し「今の状況としてはウクライナに厳しいと思う。さらに攻撃が続けば民間人の死者がどんどん増えていくことが現実になった時に、それは一番いけないことだと思う。この戦争、5年、10年、20年続きます。ですから今は安全な場所に一度移動して、もう一度立て直したらどうか?」と提案した。〉、とある。

それに対して、〈女性は、「テリーさんの仰ってることよく分からないです。別に避難できる人は避難しています。小さい子どもやお年寄りが戦っているわけではないです。じゃあ、ウクライナは戦わないでそのまま殺されていいって事ですか?」と声を荒らげ、口論となる場面があった。〉とのこと。

それに続いて、〈一連のやり取りを聞いていたリスナーからは、《テリーの言うことも分かる。圧倒的な軍事力の差があるし、このまま無駄に死者を出すことはない》
《民間人が巻き添えになってる。このままではドンドン死者が増えるだけ》《ウクライナの人の気持ちもわかるけど、じゃあロシア攻撃して第三次世界大戦になってもいいの? テリー伊藤はそこまでは言わないけど、それが言いたいんだよ》といった、テリーの発言を支持する声が上がった。〉とさらに続いていく。


ところで、今回の私の話はとくに、〈「命が第一」テリー伊藤の主張が炎上…
しかし一方で、ウクライナ人の心情を逆なでするかのような発言に、ネット上では〉のテリー氏に対する批判を中心として述べていることをここで断っておきたい。先ずは、以下の記事にあるコメントに対して、そのすぐ下に、私なりのコメントを付け加えてみたので、それを見てほしい。


《いくらなんでもウクライナの人に降参しろはないわ。祖国が奪われたらロシアのやりたい放題にされるだけだぞ》

戦後の日本を鑑みれば、この人の言う通り。だが、この人はそうした日本を見ながら、親分の米国とどのように向き合い、どんな主張をぶつけてきたのだろうか。おそらく、この人は日本が米国によって好き勝手にされてきたとは見ていないし、そんなことを考えたこともなかった人かもしれない。逆に、日本は自由と民主主義を守るために、同じ価値観を共有するウクライナ人を応援したい、そんな思いを抱いているのかもしれない。

もしそうであるなら、この人は、それでは自由と民主主義はどのようにして実現したかに関して、自分なりの考えを持って、語ることをまずはしてほしい、と私は思うのだが。


《ウクライナ人は死ぬことを覚悟した上で、ロシアの侵略を防ごうとしてる。そういう人たちに向かって降参しろはないでしょ》

そんなあなたは、実際に何人のウクライナ人と一緒に暮らしたことがるのだろうか。すべてのウクライナ人が死ぬことを覚悟をしていると、どうやって証明するのだろうか。死ぬことを覚悟しているウクライナ人なのに、どうして子供や妻や親たちを、国外に避難させたのか。ロシアの侵略というとき、それではウクライナはロシア人を傷つけたり殺したりはしなかったのか。これに関してどのように考えているのか、聞きたいものだ。


《ウクライナ人女性に対して非常に失礼。仮に抵抗せずに降参したからといって、命の保証があるかすらわからないんだよ?》

それはその通りかもしれないが、あの戦争で敗北した日本は降伏して、日本人は生き残ることができたのも事実だ。それと、あの映像に出てくるウクライナ人は、かつての湾岸戦争時のかわいそうな女の子と同様に、もしかしてウクライナ政府関係者の人かもしれない。おかしなもので、こんな時は男性よりも女性を使う頻度が高いのだが、それこそLGBTの時代にあって、「女性に失礼だ」なんて、この物言いはどこかしっくりこないのだが。


《テリーの平和脳に呆れた。日本人としてとても恥ずかしくウクライナの方々に申し訳ない思いでいっぱいです。あまりの恥ずかしさに涙が出てくる》

私は、あなたの発言にこそ、涙も枯れて、あきれてしまう。あなたが日本人というとき、それは誰を頭に思い浮かべているのか、それが知りたい。「平和脳」の「平和」をあなたはどのように説明するのか、これも聞いてみたい。ついでに「戦争脳」とそこでの「戦争」についても。私の語る「システム」の下でつくられる「平和」は、あなたの想像を絶した平和なのだが。それは私の前掲拙著の副題からもわかるはずだ。この方にはぜひとも、ご一読お願いしたいものだ。


それを踏まえた上で、以下の「芸能ライター」氏の批判に対しても、私なりのコメントを付け加えた次第。

〈「テリーは太平洋戦争末期を引き合いに出し、日本がもう少し早く降参していれば、原子爆弾の投下や沖縄戦で命を落とす人がいなかったのではないかと、あくまでも人命が優先されるべきだと主張。女性に撤退の考えがないことを非難しました。しかし、仮にテリーの言うように一時的に命を救われる人が出てきたとしても、その後、ウクライナの人たちの安全が保証されるとは限りません。これでは命を捨てる覚悟で母国を守っている人に対し、あまりにも失礼と言わざるを得ないでしょう」(芸能ライター)〉

この方の年齢はわからないのだが、もしあの戦争を教科書でも学んだ者ならば、戦後の日本人を思い浮かべればいいだけの話ではあるまいか。命を捨ててまでも母国を守る覚悟を云々と言われても、私はそんなことはできない。この日本の今の政治腐敗や格差社会の深化とそれに伴う、持てる者と持たざる者との別世界の暮らしと生き方を鑑みるとき、とてもではないが、そんな愚を犯したくはない。

おそらく、ウクライナも、またどの国でも大なり小なりそうだろうが、汚職がはびこり、腐敗が蔓延して、どうにもならなくなっているに違いなかろう。それが、戦火にまみれた瞬間に、跡形もなく消え去ったかのように、挙国一致の大号令の下で、普段は相手にもされないような者たちが、あなた方こそ、この国を守るかけがえのない英雄だなんて、ホント、馬鹿らしい話の連続となるのだから、参った、マイリマシタなのだ。

何か必要な時、助けてほしいときには見向きもしないのに、いざ戦争となれば、以前とは異なり、持たざる者の誰も彼もが巻き込まれてしまい、悲劇を演じる「主役」を務めさせられてしまう。その一方で、彼ら持たざる者たちを食い物・踏み台としながら政治に携わる者たちは、グローバルな巨大な権力・利害集団(勢力)の指導と監督の下で連携しながら、彼らは安全地帯に位置しつつ、そのオコボレにちゃっかりと与る喜劇の「脇役」を演じるのだから、これこそどうにもならない悪(ワル)ではないか。


これに関して、最近のおかしなことは、あの橋下氏が核共有論などのトンデモ論を言うかと思えば、その逆に、私にはごくごく普通の道理を報道番組でしゃべってくれるから、ありがたいやら。またなんとも言い難いやらなのだ。以下に、テリー紙報道に関連した同記事から引用貼り付けておく。

ーーー

13日に放送された『日曜討論』(NHK)では、弁護士でタレントの橋下徹氏が、「安全を守るために政治的な妥協もある」とコメント。ジャーナリストの櫻井よしこから「ウクライナは絶対に領土を譲らず、ロシアは絶対に欲しい。現実的にどんな妥協をするのか?」と反論され、沈黙するシーンがあった。

ーーー

ここでの桜井氏の発言は、もうアメリカべったり・ヨイショの格好の例ではあるまいか。よくもまあ、間抜けな日本人は、こんな桜井氏や安倍氏等の「親米・保守」という「保守」の実状を今になって知ったという始末。それこそ私たち保守支持者は、知りませんでした、騙されていました、ではあるまいか。あの斎藤氏の「ずっと嘘だったんだぜ」をもう一度聞いて、猛省しないと、である。

とにかく、よくもまあ、こんな連中に「靖国」を汚されてしまって、煮えくり返るのだが、結局、彼ら保守も、その実態は米国の利害を保守するだけであったのだ。その米国は覇権国として君臨していたから、覇権国としての米国の利害を、そこから覇権システムの利害を、そして私の語る「システム」の利害を「保守」するというまさに、ご立派な正真正銘の「システム人」でしかなかったのである。

それにしても、橋下氏もだらしないよ。どんな「妥協」があるのかと問われれば、日本のあの戦争の敗北濃厚時の、「ポツダム宣言」受諾という妥協が教えてくれているではないか。最後までロシアとウクライナが「領土」を死守する云々の理由から、両者がどれだけ徹底抗戦を叫んで見たところで、日本のあの戦争の敗北時の絵巻物が、見事にその妥協(点)を教えてくれている。、たとえ押し付けられた妥協でも、妥協に変わりはない。そこまでいかないために、いってはダメだとの思いがあるからこそ、テリー伊藤氏や橋下氏の発言となるのではあるまいか。


この記事の最後に以下のようなくだりがあった。すなわち、〈戦争についてはさまざまな意見があるが、一介のタレントが私見を展開したところでロシアの侵略が止まるわけではない。芸能人コメンテーターが口を挟む話ではないように思えるのだが…。〉、と。

やはりこれはおかしい物言いだろう。「専門家」と称される者ならばいいのか。コロナ禍で、私たちはよくわかったのではあるまいか。専門家連中にもいろいろあり、それこそ何が本当なのか、真実なのかは誰にもわからないということが。それにもかかわらず、それ以上にわかったことは、専門家連中にもいろいろな閥があり、その背後にもまたいろいろな大手メジャー製薬企業とその関係権力・利害集団が存在していることを。


(最後に一言)


何度でも言わなければならないのだが、日本人は「あの戦争」からまだまだ学ぶべきことがたくさん残されているように思われて仕方がない。未だに戦争は終わってはいない。さらに、私の語る「システム」論で描かれる世界・セカイにおいては、戦争・センソウはいつも此処彼処でおきているのだ。

そして、戦争で金儲けをする、私の語る「システム」の下でつくり出されたグローバルな巨大な権力・利害集団(勢力)は、戦争を少しでも長引かせようとする。そのためには、彼らの使えるものはどんなものでも使って、戦争遂行のために尽力するのだ。それこそ、いま私たちがメディアを介して目の当たりにしている怖い怖い風景こそが、それを明白に物語っているのではあるまいか。

 

 


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