日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

「システム論」から「国際政治学者」イアン・ブレマー氏の「コロナ以後」の「世界」を捉え直すとき

2020-05-06 | エッセイ
「システム論」から「国際政治学者」イアン・ブレマー氏の「コロナ以後」の「世界」を捉え直すとき

戦間期の「大恐慌期」において特徴的な動きは、当時の先進国が独自に建設した「帝国」との関係を維持した中で、自国経済の「ブロック化」に着する動きであった。そうした動きのあおりを受けたのが、帝国建設の後発国であった日本やドイツイタリアである。

今から、戦間期の世界の「衣食足りて(足りす)礼節を知る(知らず)」の営為とその関係の歩みを振り返るとき、戦間期の以前、戦間期の大恐慌期とそれ以後において、{[A]→(×)[B]→×[C]}(省略形、共時態モデル)に描かれる〈「システム」とその「関係の歩み」〉は、たとえ第一次世界大戦とその後の大恐慌期その後の第2次世界大戦、そして「冷戦」と呼ばれた時代の中で、たとえ紆余曲折の歩みを辿ったとしても、モデルで示される歩みであった、と私は理解しているのである。

同様に、これまで私が語ってきたように、1970年代以降から、コロナ以前の時期においても、またコロナ以後の時期においても、{[B]→(×)[C]→×[A]}(省略形、共時態モデル)に示されるように、〈「システム」とその「関係の歩み」〉には、大きな変化は見い出されない、と私はみているのである。

確かに、新興国で展開されていた、かつての先進国の経済活動が、このコロナ危機により、自国へと舞い戻る動きが出てくるのは否定できないだろう。さりとて、これまで、コロナ以前の頃に開発してきた経済活動のネットワークを、全て寸断してまで、本国に戻るというイアン・ブレナー氏の見方に対して、私は素直に同意はできないのだ。

転換期におけるのと同様に、コロナ以前につくり上げた中国を始めとしたインドや東南アジア、中央アジア、南アジア、そしてアフリカとの経済交流関係は、維持・継続したままで、しばらくは本国を拠点とした活動に専念するのがせいぜいのところではあるまいか。たとえ、米国やイギリス、その他の主要諸国が、自国第一主義を選択したとしても、はたして、そうした動きが、今日の世界の動きの中で許されるのであろうか。

たとえ、かつての先進国が、自国第一主義をとって、翻刻に拠点を移すとしても、中国は決して、そうはならないだろう。むしろ、もし米国やイギリスなどのかつての覇権国がおとなしく自国で活動するのならば、中国はこれまでになく、世界の「親分ー子分」関係のネットワークづくりに邁進できるに違いない。これこそが、中国の覇権国化を促進する流れとなる道ではあるまいか。

いずれにせよ、私には、今やこれまでの先進国が、かつての「金の成る木」として、その輝きを復活させるとはとても思われないのだ。システムとその関係の歩みにおける「高度化」と「低度化」の役割を逆転させることはできない、と私は考える。

さらに、たとえ、自国第一主義の経済を掲げるとしても、世界の警察官の役割を引き受けようとしている中国やその中国としばらくは合従連衡の動きを示すであろうロシア、またインドや、ブラジルといったBグループ、さらには、中東やアフリカ諸国のCグループとの経済活動における、何らかの協力関係抜きには、もはやAグループの生き残る道は残されてはいないのではあるまいか。

先の私のシステムとその関係の歩みを見るとき、BとCの「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為とその関係の歩みだけでも、世界の歯車は順調に回転していくのではあるまいか。そこでは、Aに替わって、Cが新たにつくり出されるだけである。すなわち、{[B]→(×)[C]→×[C’]}のシステムとその関係の歩みが新たに創り出されるだけである。

こうしてみてくるとき、私には、ブレマー氏の見解はあまりにもかつての先進国を中心とした物語を描いているとしか、見えないのだ。そこには傲慢さが潜んでいるのではあるまいか。もっとも、こうした見解の論者は、時の政権にもてはやされるだろうが、その見解は、あまりにも内向きなローカルな見方ではあるまいか。誤解のないように一言申し添えておきたい。それではグローバルな世界が快適なのか、と問われれば、私の描くシステムとその関係の歩みが、まさにグローバルな世界を示していることを鑑みるとき、それもまた憂鬱なものだと言わざるを得ないのだが、私たちはもはやその世界に深く身を置いているということだけは、自覚しておいた方がいいだろう。

最後に一言。

〈「システムとその関係の歩み〉からすれば、イアン・ブレマー氏のような見解が流行するのは、好都合だとされるのは、言うまでもない。かつての米・ソ「二大」強国が対立・主導する「冷戦」という「つくり話」を、世界大に吹聴する見解がまたそうであったように。

〈「システム」とその「関係の歩み」〉を注意深く観察するとき、その時代ごとに、突然「世界の叡智」だとか「知性」だとかに祀り上げられ、その名が喧伝される思想家や歴史家、社会学者が登場することに気が付く。こうした片棒を担ぐことを、NHKは臆面もなく行っているのだが、申し訳ないが、その時間帯の受信料を換算して、次のそれに回してほしい、と切に願う私なのだ。 


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