日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

オニクタラムの新しい「クニ」造りについて考える(5)「民営化」と「公(国)有化」に違いはあるのか?

2014-04-11 | 社会 政治
 正直なところ、疲れています。というか疲れが出始めています。しかしながら、その疲れを感じる暇もなく、何かしらまた独り言を呟(つぶや)きたくなりましたので、少しばかりお付き合いください。

 前回の話は何の毒もまた落ちもなく、ごめんなさい。また話しますよ。日本に戻って、愛媛の松山の自宅に帰りまして、ネットのメールを見ていましたら、私の知り合いの学生からのメールがありました。今はアフリカのガーナ大学に留学中でして、現地の「水問題」について述べていました。まだ何回も読まないとすべてを理解できませんが、そこに「面白いこと」がありました。松山市が、アフリカとも歴史的にかかわりの深いフランスの世界的な水事業を手掛けている大企業に、上下水道事業を「委託」しているこを知らされました。

 何が言いたいのか、「感じる心」のある方ならば、もうお分かりでしょう。アフリカの各地域に自らの利権を求めて、簡単に言いますと相当に「手荒なこと」をしている企業なのに、それには無頓着なのか、松山市民の安全保障にかかわる死活問題を、いとも簡単に投げ出しているのですから、私はびっくりですね。

 もちろんこのような物言いはおかしいんですがね。私たちはもうすでに東京電力の福島原発事故とその後の処理を見ながら、日本と日本人の安全保障はまったく存在しないことを知っていますから、今さらの話なんですよ。話をさかのぼれば、日本の最初の鉄道建設も、日本の明治政府という国家が手掛けましたが、その実態はイギリスの企業がすべて請け負っていましたね。ここにも、「公(国)有化」と「民営化」の密接不可分の関係があります。明治維新の日本の歴史といいますか、日本人といいますか日本「国民」の歩みは、イギリスやフランスやアメリカの民間企業の手によって建設されたんだということです。

 日本「国民」の「国民」とは、文字通り、国という「公」の「民」ですね。その日本という「公」を、イギリスの民間企業の「民」が創造するんですから、日本国民とは、正確にはイギリスの「民」の下におかれている「民」なんですね。そして、そのイギリスの「民」が、いわゆる「陰謀論」者の語るロスチャイルド財閥だとすれば、日本国民とは、イギリスロスチャイルド財閥の庇護の下にある「民」という関係となってきますね。いずれにしろ、そうした先進諸国の民間企業の指導の下に、日本国家の民間企業が産声を上げて成長していくのですから、最初から、「公」と「民」の関係は、入り乱れているのですが、基本的関係はシンプルですね。

 先のフランスの水会社というか世界的な水の商いを取り扱う多国籍企業は、「民」の顔をもつと同時に、「公」の顔を持っています。分かりやすい例が、アメリカの「FRB」は、日本の日本銀行と同様に、「公」と「民」の「役割」を兼ね備えています。もともと「民」が「公」を構成するのですから、しかも普通の「民」ではありませんよ。私も「民」ですが、超お金持ちのグループで構成される「民」が「公」を僭称して、あるいは「合法的」に強奪して、「公」となるんですから、吹けば飛ぶような存在ですね、「民」としての私は。

 話は変わりますが、もし松山の水を、中国企業に委託していたならば、どんな政治的反響があったんでしょうか。おそらく今日の日中関係の改善につながる「いい話」となったかもしれませんし、「『坂の上の雲』ミュージアム」が泣いているという反感、あるいは売国奴的振る舞いとして、非難されていたかもしれません。この話もまたどうでもいい話なんですね。世界的な超お金持ちは、人種や宗教やイデオロギーや政治・経済体制に関係なく、楽しくおかしくお付き合いができるんですからね。

 ところで、もともとが明治国家の誕生からして、その建設において、鉄道事業を見ても分かるように、最初から「自前の国家」ではありませんから、そもそも「売国」なんて言う話にはなりませんね。正確にいえば、日本という国家は、別に「日本人」だけによって、「日本人」だけの力で創り出されたものではありません。いろいろな国の「民(公)」と「民(公)」の「チャンポン」なんですね。「ハイブリッド」ですね。いいですね、この言葉のいびき、イヤ響き。

 問題は、そうなんですが、じゃ誰が「責任」を取るのかということですね。ズル賢い、力のある「民」は、自らの利権とその増殖過程を、「公」の権威を借りることで合理化、正当化しますね。そいて都合が悪くなれば、また「民」の立場に戻って、弱い立場の「民」に「公」の権威を強要して、取ることのできない責任を押し付けるんですね。これって、戦後の日米関係ですかね。福島原発問題もそうですかね。この弱い日本が強い立場に変身するんですね、モンゴルやトルコでは。もちろん、日本という「公」を構成しているのは日本人だけではありませんよ。その意味では、ずっと弱いんですかね。モンゴルやトルコで原発事故が起きた時、その責任は誰が引き受けるんですかね。私は腹が立つんですね。本当に。力のない「民」としての日本人は、「ホンマ馬鹿ですね」。あれだけの惨事を見ながら、おかしいという声が五割を超えない。

 これが「政治」なんだということを昔のアメリカの政治学者が語っていました。後半の話は、別ですが、ね。私たちはいつもこの「公」と「民」の関係のカラクリに気づかないんですね。イヤ、気づいていても、何もできない、そうなんですかね。福島原発事故の責任は、誰が引き受けなければならないんでしょうか。そうした文脈でいえば、「東京裁判」の問題は、今も続いていますね。すなわち、本来ならば、彼らも「被告」席に座っていておかしくないハズの者たちが、厚かましくも「原告」席にいるんですね。竹山道雄さんの「ハイド氏の裁判」は、世界的な「公」と「民」の関係から見直す時に、どのような主張として理解できるのか、少し考えてみたいですね。もちろんそれは、丸山真男さんの「超国家主義の論理と心理」もそうですね。どなたか、試みてみてください。

 たとえば、「グローバリゼーション」は、これまで存在していた世界的な「公(民)」と「民」の関係が、別の「公(民)」と「民」の関係に変わったことにより引き起こされたんだ、とかという風に。小泉元総理の「官」から「民」というスローガンは、そうした観点からいえば、従来の世界的な「官」を構成していた「民(公)」と「民(公)」の関係が、別の新しい関係に変わった、替えたいということと関連するんでしょうね。別の関係に替えたい人たち(グループ)が存在していたんですね。それが米国から中国への覇権国の覇権のバトンの引き継ぎと連動していた、と私は考えていますね。

 今回もすいませんでした。何も落ちはありません。あと何回か話をすれば、感覚が戻るかもしれませんが。 












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オニクタラムの新しい「クニ」造りについて考える、「介護」の問題から見えてくる国際関係(4)

2014-04-06 | 社会 政治
 お元気ですか。中国から日本に戻って来ましたよ。まだ、ぼうっとしています。またよろしくお願いしますね。今回は「介護」の話です。これに関しても、当然ながら、いろいろな語り方がありますが、タラムの臭い(匂い)のある話ができればと思います。ただ正直にいえば、なかなか語れない、難しい問題ですね。これもやはり「嘘」をついてしまう、そんな感じですか。喋る前に腰が引けています。

 中国ではPM2.5を一杯吸い込んで「元気」でしたが、日本の放射性物質を吸い込んで元気とはなりませんね。日本では中国の悪いことだけに目を向け過ぎで、肝心の日本の有害物質に関してはあまりにも日本人が淡泊過ぎるので、私はむしろこちらの方が心配ですね。これもマスコミの報道とその教育の賜物でしょうか。

 ところで、私の父や母が介護施設でお世話になっていましたが、そこで〈私と私の親〉と、〈介護職員と彼らの親〉の関係について、多くのことを考える機会がありました。ここに垣間見られる関係とそれが抱える問題は、「先進」国と「後進」国の関係に類似している、と私は思います。途上国の医療・介護関係者が、先進国に出稼ぎに行ってそこで給料を得る。そのため、途上国の貧しい者は医療や介護サービスを受けられないで困ってしまう、こうした関係が見え隠れしているような。

 私の親なんだから、私や私の兄弟が親の老後の面倒をみるのは「当然」だ、とそんな牧歌的な気持ちは悲しいけれど、もうとっくの昔に卒業してしまったはずの私に奇麗事は言えませんが、自分が看病される立場になりつつある現在、少し複雑な気持ちですね。ただし、因果応報は避けられませんね。母親としての妻はともかくとして、父親としての私はこれまでの悪行の報いを従容(しょうよう)として受け入れなければなりません。

 介護従事者の存在抜きに、私と私たち家族の「生活」が成り立たないことは言うまでもありません。そのために、私は親の介護をしてくれる介護従事者の給料をなるべく低くするように、私と同じ思いをする者たちと「共同」して彼らに向き合っているのです。

 そのために、介護従事者が、自らの家庭をもって、普通に生活するのは苦しくなりますし、ましてや彼らの親の老後の面倒を看るのも大変となることが予想されます。イヤイヤ、こんなもったいぶった物言いをしなくてもいいですね。私が、私のような「存在」が彼らをそうしているんですから、他人事みたいな言い方はいけませんね、卑怯ですね。大変ですね。介護従事者の若者が結婚して、家族を養うのも大変ですから、結婚なんて、となってしまいますね。

 こうした私のような存在が介護従事者の環境を少しでも改善しようと思わないのは、当たり前なんですね。そうすれば、彼らとの間につくってきた「差額(格差)」が少なくなりますから、私の生活の「幸福」度が低下してしまいます。ここまで話しながら、我ながら本当に嫌になってしまうというか、メいってしまいますが、奇麗事にならないように、我慢しながらもう少し続けますね。

 こうした「差額」を、またそれをつくり出す関係を、私たちは生きるために創り出してきたんでしょうね。古今東西の歴史を見てもそうだと思いますが、あるときは、差額を得られる立場に立ち、また別の時には逆に、それを奪われる、あるいは差額をつくり出す関係のコマとして奉仕させられる側に立つんですね。ずっと前者の側だけに位置づけられる幸せな人もいれば、その反対にずっと後者の立場を強いられる人もいるんですね。

 こうした関係を原動力にして国家は建設されてきた、と私は考えますから、それはたとえ国家が死滅してもこの関係までもなくすことは不可能だと思いますね。ある国家において、こうした関係が薄められる社会をつくるためには、どうしても別の国家との差額を拡大することに成功しなければなりませんから、たとえ平和で豊かな社会を実現できたとしても、その「平和」とか「豊かさ」は寂しいもんなのですね。決して褒められたもんじゃないと考えるんですね。

 ここからはキレイごとなんですが、私はできればこうした関係に支えられない空間をつくりたいんですね。もちろん私自身のためですよ。私の老後のために、「保養所」というか「療養所」をつくりたいんですね。私のようなセコイ生き方をしてきた人間でも、イヤそうだからこそ、死ぬ前に少しでも、よりましな生き方をしたいんですよ。

 ここまでにしておきますね。相当に疲れています。言ったことは、これからの人生では、実現するんだと言い聞かせていますから、すごいプレッシャーをいま感じています。しかしながら、必ず死ぬんですからね、最後まで夢はあきらめたくないんですよ。どんなにささやかな夢でもね。

 去年のことですが、私の知人が〈よしのさくぞう〉賞を貰いました。私はそれに刺激されまして、今年に出版される拙著に自分で賞を与えようと新たにつくりましたよ。「よしの」の、「の」をとり、「さくぞう」の「さく」を「いく」に代えてね、「よし・いくぞう」賞です。





 












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