日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

「岡村炎上発言」の何が問題なのかー「女性蔑視」で済まされる問題なのか。女性蔑視だとして岡村を批判する人たちが、ーーー

2020-05-03 | エッセイ
「岡村炎上発言」の何が問題なのかー「女性蔑視」で済まされる問題なのか。女性蔑視だとして岡村を批判する人たちが、そこから先に進まないままで、許しているのは何か

昨日は久しぶりに涙が出てしまった。途中から見た・聴いたアニメだったのに、私の頬を涙が伝わるのを感じたアニメ(「君の膵臓を食べたい」)と出会った。まさにそれは、アニメの中での会話に倣えば、「偶然ではなく、私のこれまで歩んできた人生の積み重ねとしての選択の結果」でもあった。

66歳の気色の悪い「男」かどうかも判然としなくなった生き物だと、自分でも自覚する私が、17歳の男女の高校生の「会話」にはまってしまった。会話が見事に成立していることに、作家の非凡さを感じた次第である。(ホントにごめんなさいね、浅学菲才を顧みず、毎度の変わらぬ上から目線の物言いで、大変失礼とはわかりながらも、本当に、ごめんなさいよ。)  

と同時に、どうしてこんなにも、お互いを思いやる人間の集まりから、今のコロナ禍の「人を人として扱わない」人間の集まりとなってしまうのか、と。そのアニメが描くセカイは、まったくの「ウソ」なのか。私はそうは思わない。それでは、どうしてなのか。


いつも、私たちは何かに動かされる。たとえば、東北の大震災、東京オリンピックの誘致、そして今度のコロナ騒動。そこでは決まって、みんなが一緒になって助けようと必死にコロナと戦っている、そんな風にマスコミはある種の「オールーーー」をつくり出そうとしているのだが、どうしてそれを「普段」の「通常通り」がまかり通る醜いセカイ・世界の中で、私たちに向かって必死に手を振り、助けを求めている人たちにに、素直に向き合い、一緒に戦おうと動き出さないのか。

換言すれば、{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係から構成される「吐き気をもよおすほどのどうにもならない、セカイ・世界とそこでのセンソウ・戦争に、みんなが一丸となって、向き合いながらそうした仕組みを解体し、別の新たな「せかい」と、そこでの「にんげんかんけい」を大事に育むような取り組みに動き出すことが、どうしてできないのだろうか。(誤解のないように、何度も繰り返し述べてきたことだが、それができるくらいなら、もう既にやっていたはずだろうし、同時に、それができないからこそ、みんなが地団駄踏みながら、ああでもない、こうでもないと、わめき、もがき。苦しんでいるのではあるまいか。それを百も、いや万も承知で、いつものように、それにもかかわらずーーーなのだ。)


今回は、この問題を考えるにあたって、タイトルにあるように、「岡村炎上発言」を取り上げてみたい。(岡村のラジオ発言は、詳しくはネットで聴いてほしい。)そこでの岡村の発言が問題視されたのは、私にも理解できるが、私がそこで拘るのは、はたして「女性蔑視」だけで済まされて構わないのだろうか、ということなのだ。ややこしい話は避けたいと思いつつ、少しだけ補足しておきたいことがある。

女性蔑視」という言葉遣いで、さらに傷つかない人はいないのだろうか。「性」の問題は、本当ぬ複雑で、ややこしく、「女性」という場合、それをひとくくりにしてはたして考えられるのか、という問題が出てくるだろう。私はいつも自分は「男」なのかという問題を、老人になることで、初めてわがことの問題として考えるようになったのだ。どうして「男」でもない「女でもない、そういう人間を当たり前の存在として、私たちは自然に受容できないのだろうか、とつくづく思い始めているのだ。

私は、そこからいわゆる「L・G・B・T」なる問題で苦しんでいる人たちの声に、少し耳を傾けられるようになったのである。勿論、わからないことだらけであるが、それでも、私自身の今の存在から、つまり何も接点を持てないというのではなく、何かを感じられてきたのだ。まだ、感じる段階ではあるが。

正直、今の私は、「お前も男だろう!」と言われたら、私の「男」の美学からして、(この物言いも、フェミニズム運動家からは嫌悪されるかもしれないが、わたしなりにこだわりがあるのだ。)すぐさま、頭にきて叫ぶだろう、「男をバカにするなよ、俺は男ではない、と。勿論、世間一般に言われる「女」でもない。俺は、やっと人間という生き物になり始めたところだ、と。

さらに付言して言えば、そもそも「L・G・B・T」とひとくくりにすることすらおかしいだろう。「L」、「G」、「B」、「T」に該当する人たちも、もとより様々ではないか。またまた、話がそれてきたが、岡村発言の問題は、いろいろなところに波及せざるを得ない問題なのではあるまいか。 

それを断った上で、いつもながら、きちんと話の整理もつかないままに、本題へと入っていきたい。そもそも「蔑視」されている「女性」とは、いったい誰なのか。それは「風俗嬢」なのか、それとも女性一般」なのか。そこには、女性一般が、風俗嬢と同じに扱われて迷惑だとの思いがあるのか。それとも、私たちの社会が、女性を風俗嬢の地位に甘んじさせることに対する腹立たしさが関係しているのか。

「男」たちはどうなのか。男は岡村の発言を、心底批判できるのだろうか。女性蔑視として、岡村を批判する論陣に加わる者が、まさかAVやそれこそ風俗店の「お世話」になっていたりはしていないのだろうか。お前はどうなのだと、また「肱雲」さんの厳しいお声が雷鳴の如く、この五体に響き渡るというものだが、そこは、ずるがしこい私だから、あの小泉元首相に倣って、「心の問題ですから、お答えはできません」と、赤面しながら「白杖」、いやいや白杖にも叱られてしまった、「白状」?するのだろう。

さらに、もし、そんなお世話を生涯一度も受けたことのない男たちが、AVや風俗店のお世話になる男たちに対して、積極的な「NO」を発しないとするとき、それはいかなる理由によるのだろうか。それはあの木枯し紋次郎と同じように、「あっしには関りございません」ということなのか。

それならば、どうしてパチンコ店に列を作ってパチンコに興じようとする者たちに対して、白い目を向けるのか。その理由は、今はコロナ感染で、みんなが感染したら困るというからなのか。これもおかしな話だ。コロナと関係なく、パチンコや競馬や競艇に、はまり込みすぎて、家族崩壊の原因ともなる「博打」は、普段の平常通りのこととして、許容されていいのだろうか。

ここでもまたそうだ。普段はあれほどお世話になっておきながら、私はパチンコに、列を作ってまで、他人様にご迷惑をおかけしませんから、で済ませてしまうのだろうか。むしろ逆ではあるまいか。お世話になっているパチンコ店がつぶれては可哀そう、自分も困るから、ここは是が非でも、はせ参じなければ、とはならないのだろうか。

いや、はせ参じられないとしても、次のような「理屈」が頭の中に浮かんでこないのか。つまり、普段の平常通りの際にも、「博打」というものは、「社会通念上」の「公序良俗」には、やはりだめではないのか。このような疑問を感じたりしないのであれば、そこはなかなか話の先は見えてこなくなる、と私は思うのだ。

こんな話をしていくと、どうも肩が凝っていけないよ。何が公序良俗だ、私のようなくず野郎が使う言葉でもないし、そんな言葉を言われると、頭にウジがわいてきそうだ。私は、池波小太郎原作の「鬼平犯科帳」の主人公である長谷川平蔵が好きである。平蔵のような人間観、社会観また男女観、人生観が、日本人の指導者層の多くに共有されていたら、少しはましな社会になっていたかもしれない?、と、また現実味のない話をしてしまった。

平蔵氏も、おそらくフェミニスト達には叩かれるだろうが、理論や思考は極めるだけ極めることが大事だ、と私は肝に銘じてきたものの、それでも今を生きている私たちは生身の人間だということを、ゆめゆめ忘れることなく、「清濁を併せ持つ」生き方も致し方ないと感じるのである。またまた、嘘を言ってしまった。「清濁」の「清」は、冒頭のアニメの世界の中にしかないようで、それに対して、「濁」は、私たちのセカイ・世界の隅々にみられることだから、その使い方も、今の時代では難しいことになってしまったのか。

話がどこに行ってしまったのか、わからないぞー、との読者の声が聞こえてきそうだが、私の頭の中では、先の「お世話」云々の話に続けている。

また夫が、あるいは、彼氏がそうしたお世話を受け続けているとすれば、彼女たちは、岡村発言に対して、怒る理由もないのではあるまいか。

それでは一体、誰が、何のために、岡村を許せないのだろうか。付言すれば、風俗関係者は、女性だけではない。若い男もそこには含まれている。ここでは、「女性」を取り上げて論を展開していることを断っておきたい。


少し話を変えてみよう。岡村は、コロナ禍による不況で、経済的に困窮する女性の中で、これまで風俗とは無関係の、それこそある意味では「擦れていない」、「うぶな女」が、仕方なく、急いでお金を手にするための仕事として、風俗嬢となることで、男たちにとっては、少しの間にせよ、これまで出会うことのなかった「ランク」の女に出会えて、いい思いができるだろう云々の話をしていた。

ところで、少し文脈を変えて、これを「原発作業員」に置き換えた時、(すなわち、普段の通常通りの場合には、作業員として動員されることの多い「外国人労働者」ではなく、待遇は外国人労働者と同様に、それほど良くなくても、日本人で日本語が理解できて、その上、高学歴ときているとした時)、今度は、世間の人たちは、そうした発言を「男性蔑視」だとして、非難するのだろうか。


こう考えてみるとき、今のコロナ騒動で、働き口が限られていて、本当はもっとましな、「世間体のいい仕事」に就きたいのだが、もうそんなことを言っている時間などない、とにかくすぐに稼げる仕事が欲しい、と想像するとき、それは何も風俗嬢云々の話ではなくなるだろう。

すなわち、とても「蔑視」がどうので非難、批判する話の問題ではないことに気が付くのではあるまいか。それこそ、私たちが見てみぬをふりしてきた、ふたをしてきた、私たちの「生き方」そのものが問われていることを意味しないだろうか。つまり、私たちは、少しでも、相手より自分の命と安全が保障されるより優位となる「地点というか場所(そこには、給料、資産、地位等の自己決定権の争奪戦の勝敗により獲得される「能力」が含まれている)」を求めて、なりふり構わずに、進むしかないそんな社会の中で生きてきたし、これから先も、ますますそうした生き方にしか、自分たちの幸せを得ることができない、本当に悲惨な社会で生きざるを得ないのである。


つまり、私たちは、はっきりとわかっているのだ。私たちの醜さを隠すために、隠蔽するために、次々に便利な言葉を使うのだ。女性蔑視もそうした一つの例だ。何が蔑視だ。蔑視しているのは、「あなた(方)」の方だろう。なぜなら、岡村発言は、岡村の女性蔑視が問題なのではない。蔑視で済まされない問題を、私たちはいつも、抱えて生きてきたにもかかわらず、そうした安易な言葉でもっと先にある問題に達しない、触られないようにと、自らが「すり替えて」、これからもっと深まるはずの議論をチャラにしてしまうのだ。

私がよく使うフレーズの一つに、〈「平和な民主主義」社会の実現のために、「勝ち(負け)続けなきゃならない」セカイ・世界とそこでのセンソウ・戦争〉というのがある。前回の記事では、不十分ながらも、センソウ・戦争とセカイ・世界についてお話ししたが、そこでカタカナは「身の回り」の日常生活に、漢字は、国内レベルを超えた対外的な出来事と結び付けていると述べた。

それは、「平和な民主主義」という言葉の中にも、同様に、私たちの日々の、身の回りの日常生活に関係した側面と、国家や国際機関レベルにおけるものとが存在していることを意味しているのである。

私たちの身の回りの日常生活における「平和な民主主義」とは、平穏に人として生きていけることを意味している。それはまさに、私たちの日常生活レベルで、「衣食足りて礼節を知る」営為とその実現が保障されている状態を意味している。そして、国家や国際機関のレベルにおいても、同様に「衣食足りて礼節を知る」営為とその実現の保障された状態があることを意味して、私は使用しているのである。(なお、ここでは、「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為とその実現における争奪戦に関しては説明を避けている。正確には、「平和な民主主義」社会の実現は、個人レベルにおいても、国家レベルにおいても、このモデルで表されることを、ここで付け加えておきたい。)

こう考えてくるとき、私たちの「岡村炎上発言」問題を論じる視点が、「女性」とか「男性」という次元を超えて、生身の人間が、なりふり構わず必死になって、自らとその愛する家族のために、「残酷きわまる」この世で生きるための「尊厳」とその在り方を問う態度、それ自体を「蔑視」していることにはならないだろうか。


(申し忘れたひと言)
記事投稿後に、思い出したことがあった。

岡村さん、あなたはもう「お笑い芸人」をやめた方がいい。あなただけではないのだが、今の芸人には、権威や権力をひけらかす者たちを、庶民にかわって、「エスプリ」の利いた芸人言葉で、バッサリときれいに切れる者があまりにも少なすぎる。それどころか、「吉本」自体が権力とべったりで行動している。

そんな芸人集団の中に属するあなたが、どうして風俗関係者をバカにできるのだろうか。上でも書いたが、女性蔑視などという言葉では済まされないようなことを、あなたはしでかしてしまった、と私は思うのだ。確かにあなたは稼ぎもいいし、生活も安定しているのかもしれないだろうが、そうしたあなたのおごりがどこかにあり、それが毎度の謝罪発現となるのだろう。

「プロ」の風俗嬢は、それこそ危険と隣り合わせの中で、体を張って、店に通うお客に、ひと時のやすらぎを与えてくれる。あなたがもしプロのお笑い芸人ならば、どんなやすらぎを、そのお笑いで与えられるのだろうか。人の尊厳を何気なく傷つけていることにも気が付かないような人間に、どのようなお笑いが提供できるのだろうか。

何か、私がばかにされたみたいで、少しやりきれないのだ。

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