日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

私の「システム論」からグレアム・アリソン著『米中戦争前夜』を読み直すとき

2020-05-28 | エッセイ
私の「システム論」からグレアム・アリソン著『米中戦争前夜』を読み直すとき

私たちは一体、何をしているのだろうか、何がしたいのだろうか。ただ直ぐに言えるのは、「開いた口が塞がらない」ということだ。

久しぶりに記事を書いている。少しコンを詰めすぎて、書いてきたのがやわな体に響いたのかもしれない。帯状疱疹の再発?に苦しんでいた。2年前とは異なり、痛みは我慢できるのだが、どうにも体がいうことをきかなくて、困っているのだが、やっと少しものを書く気力は出てきたところ。ただし、無理はできない。とにかく、辛い毎日が続いている。

それにしても、ほんとに驚いてしまう。と言うか別に驚くことはないのだが、これほど見事にマスコミ各社が朝から晩まで同じ情報を垂れ流し続けるのだから、もう「洗脳」されっぱなしだ。文句があるとすれば、やはり筋書きが最後までわからないようにお願いしたいということ。

それにしても面白い。いや面白くはない。オリンピック開催までは何とかして、ごまかそうと努めていたが、それが「延期」となるや、ぞろぞろと感染者の数が増加して、ついには、あれほど日本は中国やその他の医療後進国とは違って、万全の態勢ができている云々の専門家のご託宣となった。

しかし、事態が進行するにつれて、東電原発事故と同様の話の連続。民主党ではなく自民党であったが、もうひどいを通り越してあきれてものが言えないところに、また例の責任転嫁宣言だ。言った言わないの繰り返しから、病床数が不足している、と。これまた最初から分かることを正直に言わないことの明々白々となるのだから、こんな日本で死ななくてもよかった感染者は本当にお気の毒だ。

するとまた、そこにこう付け加えるのだ。日本の致死率は他の国と比較しても低い、と。聞いている私は、もう慣れっこになっていて、何も独り言さえ言わなくなっているから、これも怖ろしいことだ。そうこうする間に、マスコミは政府のお先棒を担いで、経済と人の命がどうのこうのと言ったと思いきや、最初の頃の報道とは打って変わり、経済がコケては命さえ守れない云々の話となる。

相当に恐ろしい話を、もうこの頃には国民も愛想疲れというか、どうにでもなれといった徒労感からか、それこそ「いいじゃないか」の流れとなってきた。この流れは、もう何度も経験してきた話だ。水俣病を始めとした公害問題でも、命も大事だが、日本経済の力をそいではならない、災害補償を厚くしながら経済にアクセルを踏みなおそう、と。原発事故直後は、事故原因の究明や東電の補償問題等に関して、しおらしい話をしていたかと思いきや、ここでもまた再稼働に踏み切り、なお原発事故で苦しむ多くの人々が存在しているにもかかわらず、今では事故は風化してしまった感が強い。勿論、誤解のないように言えば、再稼働に導いたのは、国民だったということを忘れてはならないだろうが。

おそらく、こうした流れを、私たちは繰り返すのかもしれない。そしてその責任の所在も明らかとされないままに、また次の話となるのだろう。それにしても、これほど命が軽く扱われてしまっていいのだろうか。当然ながら、私自身の命も、そのように扱われているのは間違いない。と同時に、このままでは、どうにもならないのは確かなことだが、さりとて、どうにもならないことにああだ、こうだと言っても、これまたどうにもならないだけなのだ。

ただし、過去の歴史からわかることは、5年ないし10年も経てば、あの時はああだったとか、こうだったという話ができるかもしれないし、20年も経てば、状況は今よりははっきりとしているに違いない。そうなったらなったで、今度はまた腹が立ってくるかもしれないが、おそらく今の米中覇権戦争の帰結も見えてくるだろう。

BSのNHK特番で「ファーウェイ」特集をしていたが、その最後でハーバード大学教授のアリソン氏が米中覇権戦争に関して彼のコメントが少しだけ紹介されていた。アリソン氏と言えば、『米中戦争前夜』の著者として知られている。私は、これまで覇権国の興亡史に関して、「システム論」の観点から論述してきたことから、この手の話には興味がある。とくに、私の描き方との違いに関して、拘らざるを得ない。

歴代の覇権国と次期覇権国の地位を狙う№2の新興国との覇権争いを、私はアリソン氏とは異なり、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス、そしてアメリカまでを、{[A]→(×)[B]→×[C]}(省略形、共時態モデル)のAグループに見出す一方で、他方、次期覇権国の地位を狙う中国を、{[B]→(×)[C]→×[A]}(省略形、共時態モデル)のBグループに見出している。

ここにみられる「断絶」の意味は非常に重要であるが、アリソン氏には等しくポルトガルから中国までが「連続」した流れとして理解されている節がある。そもそも、なぜAグループからではなくて、Bグループから、次期覇権国候補が登場してきたのか。この問いかけにアリソン氏は答えられない。さらに、どうして現覇権国と次期覇権国を狙う№2の国家間において、覇権戦争が引き起こされるのだろうか。

私の見るところ、ポルトガルからアメリカに至る№1と№2の覇権戦争は、先の図式で示したA、B、C間から構成されるシステムとその関係の歩みを強固にするための争いであったのに対して、アメリカと中国との覇権をめぐる争いは、B、C、A間から構成される1970年代以降に形成され、発展の歩みを辿るシステムとその関係の歩みを定着させていくための覇権戦争であったと、私はみているのである。もう少し踏み込んで言うならば、米中覇権連合の形成と発展と、またそうした覇権連合の歩みの中で繰り返される「夫婦喧嘩」にたとえられるものだと、私はこれまで論じてきたのである。

覇権をめぐる№1と№2の国家間の争いは、システムとその関係の歩みの「高度化」を目指すための者であり、その高度化によって、システムとその関係の歩みは、その本来の「金の成る木」としての役割を果たすことができたのである。ところが、1970年代を境として、次第にシステムとその関係の歩みは、その本来の役割を果たせなくなっていくのである。つまり、「金の成る木」としての役割を担うことが、もはや従来の{[A]→(×)[B]→×[C]}のシステムとその関係の歩みにおいては、「限界」に達していたということである。

少しここで補足しておきたい重要な話がある。これまた何度も述べてきたのだが、「金の成る木」としてのシステムとその関係の歩みは、「戦争」を必要とする。歓迎する。面白くない話だが、「高度化」には手っ取り早いのだ。そのために人の命が何人失われようとも、システムは平気なのだ。そのシステムを担う「システム人」としての「私」も、そうした見方をいつしか、当たり前のようにしてしまうから、怖ろしいのである。

「金の成る木」としてのたとえ話として、私は「濡れタオル」という物言いをしたことがあるが、もうこれ以上はいくら絞ったとしても、何もお金が産み落とされないという「段階」に来てしまったことから、従来のシステムとその関係の歩みは、1970年代以降において、新たな「金の成る木」としてのシステムとその関係の歩みを創らせるということになったのである。それが、{[B]→(×)[C]→×[A]}の金の成る木、すなわち、70年代から今日に至る「濡れタオル」ということなのだ。

その具体的実行者は、キッシンジャー博士であり、1972年のニクソン訪中となっていく。そして、1978,79年には中国は、西側資本の協力を得て、改革開放を迎え、世界の工場へと駆け上がっていくのである。こうした流れを踏まえるとき、米中覇権戦争は、もう少し複雑な歴史の意味と意義を、その中に含んでいるのではあるまいか。もしお時間のある方は、拙著『民主化の先進国がたどる経済衰退』(晃洋書房 1995年)にお目をとおしてほしいと願うばかりである。

「日本」と「日本人」にとっては、米中覇権戦争は相当に深刻な影響を及ぼすだろう。あまり面白い話ではないが、第2次世界大戦後の日本と米国の関係が、今度はその米国に代えて、中国との関係に取って代わるという話となる、と私はこれまた何度も語ってきたことである。これについては、拙著『「日本」と「日本人」と「普遍主義」』(晃洋書房 2014年)を参照してほしい。

読者の皆様には、これまでお付き合いありがとうございました。正直、体調がすぐれませんので、しばらく休ませてもらいます。




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〈「コロナ以後の世界」は大きく変わる〉と言われるのに、どうして私の〈晩酌の「白酒」〉は、大きく変わらないのか。

2020-05-07 | エッセイ
〈「コロナ以後の世界」は大きく変わる〉と言われるのに、どうして私の〈晩酌の「白酒」〉は、大きく変わらないのか。

もう「コロナ以後」がどうとか、こうとかの話が、メディアをにぎわしている。その中に、コロナ以後の世界は大きく変わる云々の話がある。本当にそうなのか。私はもういい加減にそんな話はやめてほしいと、願うばかりである。

それでは、コロナ以前の社会はどうだったのか。「1%対99%」の格差社会と言われていた。それではコロナ以後の世界は、「99%対1%」の世界にでもなるというのか。もしそうなるのであれば、99%に位置する者からすれば、「大きな変化」だと言っても構わないだろう。

勿論、そんなことにはならない。むしろ1%の中でも、99%に落ちてくるものがいるだろうが、基本的には、おおざっぱな表現の仕方ではあるが、ごく一部の超富裕層、そして富裕層から、中間層、下層へと至る区分にあまり変動はないだろう。

それでは何をもって、大きな変動というのだろうか。確かに、AIを始めとして、私たちの技術革新の波はすさまじい勢いだ。テレワーク、ライン授業、その他の第4次革命がもたらした新しい変化が、このコロナ騒動の自粛の中で、私たちの生活や経済活動や教育活動に大きく貢献していることは、間違いないだろう。

ただし、そうした大きな変化が、先の格差構造の大きな変化につながるのかと言えば、勿論、それはそうではない。むしろ技術革新は、コロナ以前における私たちの格差社会の構造を、とくにかつての先進諸国においては、ますます深化させていくことにつながるとみた方がいい。

そうした意味では、コロナ以前も以後も、私たちの社会の「中身」は、それほど変わるものではない。先進諸国に暮らす者にとっては、良くなることはない。逆に、これまでの中心諸国や、後進諸国においては、少し希望が見えるかもしれないが、つまり、分厚い中間層の形成はまだこれから先だということを鑑みた場合の話だが、それでも、私たちの社会階層の序列に際立った変化がみられるとは、私には思えないのだ。

換言すれば、外部の、外面的な世界における変化、例えば上でも紹介したように、第4次革命に伴う、大きな変化はみられたとしても、そのことが、私たちの社会の内部の、内面的な「中身」の変化をもたらすとは思われないのである。そう考えていくとき、「コロナ以後の世界の大きな変化」を喧伝する論者等は、一体何を歓迎しているのだろうか。誰のための「代弁者」として行動しているのだろうか。

ところで、最近の私は、50度前後の「白酒」を飲みながら、痛風の再発に恐れおののいている始末だが、コロナ以前も、以後も、その中身が変わるとは思えない。そこに大きな変化があっては困るのだ。(この私の気持ちは、私とは住む世界が全く違う超富裕層も、上述した「1%対99%」の文脈では、同じではあるまいか。)もっとも、技術革新の恩恵を受けて、その中身を入れる外部の瓶や外側の箱は、変わるかもしれない。ひょっとすれば、そこに、すなわち外部の外面的なところでは、それこそコロナ以後に、大きな変化が現れるのかもしれないが。さらに、意地の悪い言い方をすれば、技術革新は、いつも生まれている。その程度と規模は異なるにしても。

最後に一言

そうした点を踏まえた上で、私は思うのだ。相変わらず、コロナ以前も以後も、私の言う、{[B]→(×)[C]→×[A]}(省略形、共時態モデル)の何ら変わり映えのしない世界が、続いていくだけである、と私は、今日も「白酒」を飲みながら、「やっぱりお酒はこれに限る」と、もう夢の中である。そういえば、白酒で思い出したが、Bの先頭は中国であった・

最後に一言

このすぐ上の私の夢の中云々を不謹慎という読者がいたら、まだ救いだろうが、そういう者が一番、駄目なんだろう、私と同じだから。私の知人が、「どうしてみんな怒らないのか、なぜ暴動が起こらないのか」と、私に聞くから、それは、「お前さんが、その中にいないからだよ」、と、返したんだが。それもまた、私に対しても、その通りなのだ。



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最後は、また「安倍晋三」さんの「勝利」で終わったわい!

2020-05-06 | エッセイ
最後は、また「安倍晋三」さんの「勝利」で終わったわい!

まぁ、こんなオーバーな題目にしているが、それにしても安倍さんは、「加計」に続いて、今回は「レムデシビル」を、何が何でもコロナウイルスの新薬として、日本に持ち込むとに成功した、また「お友達」のために、日本と日本人の大事なものを奪い去った、ということだろう。

ここまでして、安倍退陣となると、今度のリーダーは、もっと「お土産」を用意しなければならないなぁ。それは何だろうか。もう「主権」はとっくに、というか、そんなものは、戦後この方、なかったから、今度は逆に奪い取るのだろうか。おおこわぁ。いや、怖くても、立ち向かうべきではないか。安倍がアカン、売国奴だ、何とかしろ、みんな今コロナ騒動で、何を騒いでいるのだろうか。

今さら、そんなことを言ったとしても、自分が惨めになるだけだから、私はこうした話を、もうそろそろやめた方がいいのではないか、と、これまでも何度となく思ってきたのだが、先ほどの「ミヤネヤ」テレビ番組を見て、痛感した次第なのだ。アビガンがどうの、レムデシビルがどうの、大阪府の決定がーーー、また見事に安倍政権にはめられてしまった。

と言うより、「こちら」には、どうにもならない、何も働かないくせに、税金をただ食い潰すだけの「野党(議員)」しか存在していないから、それは巡り巡って、無能な癖に、人の二倍も三倍も欲深い「国民」しか存在していないということにもなるのだが。

何度も述べてきたように、米国による「対日要求書」と在日米国商工会議所の日本と日本人に対する「圧力」に屈した挙句が、今回の「のろのろ」とした政府の対応と、日増しに増加するコロナ感染者と死者数を前にして、やっと米国の製薬会社がお出ましとなったということではあるまいか。

何のことはない。日本のマス・メディアがこぞって、このシナリオどおりに動いたのだ。そこには米国の直接・間接の圧力があるのは、誰にもわかることだが、それにしても日本政府とマスコミは、「あまりにも」ひどすぎやしないか。韓国や台湾のコロナ対応を見るとき、いやというほど思い知らされるのである。これほど米国政府や日本政府になめ切られては、どうにもならないだろう。

さらに、こうした舐められる社会を支えるために私たちの子供や孫たちがせっせと受験勉強に励んで、そうした日米両国政府とその政府に奉仕する政府官庁をはじめ、もろもろの企業、教育機関において、たとえみんな歯車になるとしても、少しでも、よりましな「ポスト」を目指し続けるのだから、これまたどうにもならない始末となる。

それこそ、そんなアホな「生き方」をやめて、「新しい生活様式」を、自分たちが自らの手で、頭でもって、創造すればいいのに。問題は、そんなことを今の社会で許されるわけがないということだ。(このくだりを、「そのもの言いはおかしいじゃろが」と、すぐさま、腹を立てた人がいれば、まだ救いはあるかもしれない、なぁ。とにかく、先へ進む。)

誰かが誰かの歯車となって、働き続けなきゃならない。その予備軍として、子供や学生は学校で学んでいる。誰かの歯車にならないように、とそれこそ家族一丸となって、お互いを叱咤激励しながら、まさに「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の中で、「自己決定権」の拡大(消失)を巡る争奪戦の渦中に、身を投じているのだが、このコロナ禍で、勿論それ以前においてもそうであったのだが、その夢も半ばで、より一層その歯車の役割を担う羽目となる者が、多数生み出されたのは、もう今さら言うまでもないことだろう。

最後に一言。

すぐ上のくだりに関して言えば、前回に紹介したイアン・ブレナー氏が、コロナ禍以後の世界では、AIやその他の労働力削減に貢献する第4次産業革命の下で、ますます中間層や労働者の雇用が喪失していくことにより、一握りのエリート階層に対する嫉妬が生まれる云々と語っていたが、これはB、C、Aの世界(セカイ)のAに特に該当する、と私はみている。

今回も、またお付き合い、ありがとうございました。


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「システム論」から「国際政治学者」イアン・ブレマー氏の「コロナ以後」の「世界」を捉え直すとき

2020-05-06 | エッセイ
「システム論」から「国際政治学者」イアン・ブレマー氏の「コロナ以後」の「世界」を捉え直すとき

戦間期の「大恐慌期」において特徴的な動きは、当時の先進国が独自に建設した「帝国」との関係を維持した中で、自国経済の「ブロック化」に着する動きであった。そうした動きのあおりを受けたのが、帝国建設の後発国であった日本やドイツイタリアである。

今から、戦間期の世界の「衣食足りて(足りす)礼節を知る(知らず)」の営為とその関係の歩みを振り返るとき、戦間期の以前、戦間期の大恐慌期とそれ以後において、{[A]→(×)[B]→×[C]}(省略形、共時態モデル)に描かれる〈「システム」とその「関係の歩み」〉は、たとえ第一次世界大戦とその後の大恐慌期その後の第2次世界大戦、そして「冷戦」と呼ばれた時代の中で、たとえ紆余曲折の歩みを辿ったとしても、モデルで示される歩みであった、と私は理解しているのである。

同様に、これまで私が語ってきたように、1970年代以降から、コロナ以前の時期においても、またコロナ以後の時期においても、{[B]→(×)[C]→×[A]}(省略形、共時態モデル)に示されるように、〈「システム」とその「関係の歩み」〉には、大きな変化は見い出されない、と私はみているのである。

確かに、新興国で展開されていた、かつての先進国の経済活動が、このコロナ危機により、自国へと舞い戻る動きが出てくるのは否定できないだろう。さりとて、これまで、コロナ以前の頃に開発してきた経済活動のネットワークを、全て寸断してまで、本国に戻るというイアン・ブレナー氏の見方に対して、私は素直に同意はできないのだ。

転換期におけるのと同様に、コロナ以前につくり上げた中国を始めとしたインドや東南アジア、中央アジア、南アジア、そしてアフリカとの経済交流関係は、維持・継続したままで、しばらくは本国を拠点とした活動に専念するのがせいぜいのところではあるまいか。たとえ、米国やイギリス、その他の主要諸国が、自国第一主義を選択したとしても、はたして、そうした動きが、今日の世界の動きの中で許されるのであろうか。

たとえ、かつての先進国が、自国第一主義をとって、翻刻に拠点を移すとしても、中国は決して、そうはならないだろう。むしろ、もし米国やイギリスなどのかつての覇権国がおとなしく自国で活動するのならば、中国はこれまでになく、世界の「親分ー子分」関係のネットワークづくりに邁進できるに違いない。これこそが、中国の覇権国化を促進する流れとなる道ではあるまいか。

いずれにせよ、私には、今やこれまでの先進国が、かつての「金の成る木」として、その輝きを復活させるとはとても思われないのだ。システムとその関係の歩みにおける「高度化」と「低度化」の役割を逆転させることはできない、と私は考える。

さらに、たとえ、自国第一主義の経済を掲げるとしても、世界の警察官の役割を引き受けようとしている中国やその中国としばらくは合従連衡の動きを示すであろうロシア、またインドや、ブラジルといったBグループ、さらには、中東やアフリカ諸国のCグループとの経済活動における、何らかの協力関係抜きには、もはやAグループの生き残る道は残されてはいないのではあるまいか。

先の私のシステムとその関係の歩みを見るとき、BとCの「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為とその関係の歩みだけでも、世界の歯車は順調に回転していくのではあるまいか。そこでは、Aに替わって、Cが新たにつくり出されるだけである。すなわち、{[B]→(×)[C]→×[C’]}のシステムとその関係の歩みが新たに創り出されるだけである。

こうしてみてくるとき、私には、ブレマー氏の見解はあまりにもかつての先進国を中心とした物語を描いているとしか、見えないのだ。そこには傲慢さが潜んでいるのではあるまいか。もっとも、こうした見解の論者は、時の政権にもてはやされるだろうが、その見解は、あまりにも内向きなローカルな見方ではあるまいか。誤解のないように一言申し添えておきたい。それではグローバルな世界が快適なのか、と問われれば、私の描くシステムとその関係の歩みが、まさにグローバルな世界を示していることを鑑みるとき、それもまた憂鬱なものだと言わざるを得ないのだが、私たちはもはやその世界に深く身を置いているということだけは、自覚しておいた方がいいだろう。

最後に一言。

〈「システムとその関係の歩み〉からすれば、イアン・ブレマー氏のような見解が流行するのは、好都合だとされるのは、言うまでもない。かつての米・ソ「二大」強国が対立・主導する「冷戦」という「つくり話」を、世界大に吹聴する見解がまたそうであったように。

〈「システム」とその「関係の歩み」〉を注意深く観察するとき、その時代ごとに、突然「世界の叡智」だとか「知性」だとかに祀り上げられ、その名が喧伝される思想家や歴史家、社会学者が登場することに気が付く。こうした片棒を担ぐことを、NHKは臆面もなく行っているのだが、申し訳ないが、その時間帯の受信料を換算して、次のそれに回してほしい、と切に願う私なのだ。 



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「システム論」から馬淵睦夫氏の説く、〈世界は「三つ巴の戦争状態へ」、コロナ戦争であらわになった新しい世界秩序(「ひとりがたり」44回から)〉を捉え直すとき

2020-05-05 | エッセイ
「システム論」から馬淵睦夫氏の説く、〈世界は「三つ巴の戦争状態へ」、コロナ戦争であらわになった新しい世界秩序(「ひとりがたり」44回から)〉を捉え直すとき

久しぶりで、馬淵氏の話を「ユーチューブ」で聞いたところ。『阿修羅』の「総合アクセスランキング(瞬間)」のとある記事での「コメント」を散見しているときに、見つけた次第。

以前に、拙論・拙著において、馬淵氏の著作と「ユーチューブ」での話を、藤井聡氏の著作(『グローバリズムが世界を滅ぼす』)と絡めて論述したことがある。両氏ともに、刺激的な論説を展開されてきている。巣ごもり状態の私には、とてもうらやましい限りだ。

いろいろなことをご教示いただいているが、どこか少しというか、大きく見方を異にしている。もっとも、それがいけないとか、悪いという話では、勿論ないことは言うまでもない。私に言わせれば、いつもそこから先がぼかされているような感じなのだ。ただし、誰かと「コラボ」して、自説を鍛え直したいとすれば、必ずコラボに参加をお願いしたい論客のお二人であることは間違いない。

そこで、今回は、馬淵氏の最初に示された「三つ巴」の話を、私の「システム論」とコラボさせながら、論を展開してみたい。

馬淵氏は、今のコロナ戦争で激化している、あらわとなった「三つ巴の戦争状態」を以下のように整理している。

①中国の覇権掌握に向けての動き

②「ディープ・ステート」による「一つの世界」実現に向けての統合化の動き

③トランプ大統領の説く「自国第一主義」へと各国政府が向かう動き

なお、馬淵氏は、日本政府が、③を選択することを願っている。

それでは、こうした馬淵睦夫氏の説く「新しい世界秩序」の構築を目指した、「三つ巴の戦争状態」が世界で始まっている云々の話を、以下のように問い直すことによって、捉え直してみたいのである。

すなわち、「新しい世界秩序」の下で、世界(セカイ)の「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の「営為」とその「関係」はいったい、どのような形となっているのだろうか、ということである。

私は、これに関しては、コロナ戦争以前から、同時にまたコロナ戦争後も、一貫して1970年代を分水嶺とした70年代以降に形成され、発展の歩みを辿っている〈「システムとその「関係の歩み」〉が、すなわち、{[B]→(×)[C]→×[A]}(省略形、共時態モデル)に描かれるシステムとその関係の歩みが、ますます強固となって、発展しているとみている。

Bの先頭を次期覇権国の中国が担い、Aの先頭にこれまでの覇権国であった米国が位置する、そうした関係である。ちなみに、Aの中位以下に今の日本は位置しているものの、さらに、その地位は下降することを免れない、と私は論じてきた。

こうしたB、C、Aから構成される「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係を、①,②、③の動きは、それぞれが相互に対立・衝突するように見えながらも、支え合う、支え合わざるを得なくなっているのだ。

早い話は、「腹がへっては戦ができない」し「服も着ないで、それこそプリンならぬプリーーで、戦えないだろうが。女性蔑視となるから、そこはパスした。しかし今の時代なら、これもまずいよな、男性蔑視で批判されるだろうが、お行儀良く述べると、伝わらないと思ったので、悪しからず。後で、またーーでごまかした。

①と②の動きは、何ら「矛盾」などしていない。それどころか、相互にお互いを利用しながら、先の営為を担い、支えていることは間違いないのである。

また、③のように、たとえ、自国第一主義を唱えていても、未だにA(グループ)の米国は、B(グループ)の中国やロシア、そしてC(グループ)の中東やアフリカ諸国との「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為とその関係から、足を洗うことはできないままなのだ。勿論、日本もその例外ではない。つまりは、自国第一主義を説く前に、B、C、Aの関係から成る「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為とその関係を、まさに「第一」としなければならない、「自国第一主義」にならざるを得ない、と言うことを銘記しておかなければならないのである。

石油をはじめ、鉱物資源、食糧、その他の生活必需品に至るまで、輸入と輸出の経済活動を閉ざすことは容易ではない。③は、あくまでも「ポーズ」となる以外の何物でもあるまい。日本の小泉や安倍政権下の腰砕け外交を見れば、失礼、そもそも腰などなかったわい。

いずれにしても、何が私たちにとって問題なのかを、問題とすべきなのかを考えるとき、馬淵氏の議論は、また藤井氏もそうなのだが、「そこから先」の話がぼかされているのではあるまいか。もっとも、私のような議論を展開する者は、読者に嫌われてしまうのだ。ほどほどでいいのだ。どうせ何を言っても、何をしても「どうにもならない世の中」だから、ほんのひと時でもいいから、留飲を下げてくれる、そんな読み物で丁度、都合がいいのだろう。批判する者と批判される者がバランスよく共生・共存できるのだから、めでたし、めでたしではあるまいか。

しまった。「子供の日」の「子供」にも満たない私なのに、またエラソーなことを。
ついでにあと一言。
「新しい世界秩序」をつくり出すのは、{[B]→(×)[C]→×[A]}の〈「システム」とその関係の歩み〉それ自体である。システムとその関係の歩みの中から、①②③の動きがつくり出されるのである。この逆ではないことを、念のために述べておきたい。中国も、国際団体も、米国を始めとした各国政府も、システムには逆らえないのである。

誤解のないように、またまた一言。だからと言って、それでは何もできない、と私はサラサラいうつもりはない。これに関しては、拙著『覇権システム下の「民主主義」論』の「伊予エスニック・グループ」「伊予共同体」ナンチャラを斜め読みお願いしたい。なんか、ここにきて、土クサイ、田舎のニオイがしてきたようで、正気になったようだ。

ここまで、お付き合い、ありがとうございました。
今また、少し加筆修正したので、「現在の日時」に直して、投稿している。
[日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える]2020年5月5日のブログ記事より


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