どうしてもまだまとめきれないことが頭に残っていたので、それだけは書き留めておきたい。
「あちら」と「こちら」(13)
これまで私が論じてきた「衣食足りて→礼節を知る」を逆から捉えて、「礼節を知りtり→衣食足る」と見るとき、いわゆる近代市民革命の際に、世界に向かって、その普遍化を謳った普遍的人権としての礼節は、「礼節を知りて」の実現のために、私のモデルで描いたあのセカイの関係を前提としなければならなかったのである。つまり、礼節を知りての実現は、Aにおいて礼節を知りて、Bにおいて礼節を知りて・知らず、Cにおいて礼節を知らずの関係を、同時にまたAにおいて衣食足るの、Bにおいて衣食足る・足らずの、Cにおいて衣食足らずの関係を、それらの関係が共時態として成り立つ関係を必要不可欠としたのである。
とてもじゃないが、これではどうしようもない「礼節を知りて」である。護憲(改憲)や9条、立憲主義。法の支配、自由、民主主義、人権、平和云々を持ち出してもどうにもならない。それゆえ、どうしても上述した差別と排除のバリア関係をつくり出すことのない、あるいはできるだけそうしたバリア関係を防げる「礼節を知りて」とその「礼節」を構想しなければならない。これについては、以前の記事でも指摘したとおりである。
営業の自由、通商の自由、私的財産権の自由の礼節は、そのままの形では使えない。たとえ「公共の福祉」云々の文言が入っていたとしても、使えない。しかし、そうはいっても、覇権システムと戦うことは到底無理なことである。さらに、資本主義システム、民主主義システムの問題点を私のようにことさら持ち上げて批判、非難してみても、先進諸国に暮らすものにはほとんど奇人変人の戯言としてあしらわれるだけだろう。
それゆえ、普遍主義とは異なる次元の「礼節を知りて」を構想しながら、同時に私のモデルのセカイと、すなわちシステムとその自己完結運動の歩みと、向き合いながら少しでもその歩みを今とは別の歩みに導ける、そうした「礼節を知りて」と礼節を求めていく必要がある、と私は確信している。それと同時に、この作業は死ぬまでには到底、片付くものではないことも、痛感する次第である。私は、この作業の必要性にずっと以前に気が付きながら、いろいろな理屈をつけては避けていた。どうにもならない厄介さが付きまとい、下手にかかわると、堂々巡りの連続で終わりかねないし、挫折するのが容易にわかっていたからである。ところが、中途視覚障碍者の境遇になって、そんなことを言う暇はなくなったのだ。自分の問題だから、どんなに読者が格好悪く思おうが、頭の悪さを笑おうが、どうでもよくなった。まだ格好つけた論の展開が多いのだが、残された時間を大事に使いたい。
最後の文章のくだりを新たに追加して、また投稿し直したことを断っておきたい。これまでどうも、ありがとう。くれぐれもご自愛を。
「あちら」と「こちら」(13)
これまで私が論じてきた「衣食足りて→礼節を知る」を逆から捉えて、「礼節を知りtり→衣食足る」と見るとき、いわゆる近代市民革命の際に、世界に向かって、その普遍化を謳った普遍的人権としての礼節は、「礼節を知りて」の実現のために、私のモデルで描いたあのセカイの関係を前提としなければならなかったのである。つまり、礼節を知りての実現は、Aにおいて礼節を知りて、Bにおいて礼節を知りて・知らず、Cにおいて礼節を知らずの関係を、同時にまたAにおいて衣食足るの、Bにおいて衣食足る・足らずの、Cにおいて衣食足らずの関係を、それらの関係が共時態として成り立つ関係を必要不可欠としたのである。
とてもじゃないが、これではどうしようもない「礼節を知りて」である。護憲(改憲)や9条、立憲主義。法の支配、自由、民主主義、人権、平和云々を持ち出してもどうにもならない。それゆえ、どうしても上述した差別と排除のバリア関係をつくり出すことのない、あるいはできるだけそうしたバリア関係を防げる「礼節を知りて」とその「礼節」を構想しなければならない。これについては、以前の記事でも指摘したとおりである。
営業の自由、通商の自由、私的財産権の自由の礼節は、そのままの形では使えない。たとえ「公共の福祉」云々の文言が入っていたとしても、使えない。しかし、そうはいっても、覇権システムと戦うことは到底無理なことである。さらに、資本主義システム、民主主義システムの問題点を私のようにことさら持ち上げて批判、非難してみても、先進諸国に暮らすものにはほとんど奇人変人の戯言としてあしらわれるだけだろう。
それゆえ、普遍主義とは異なる次元の「礼節を知りて」を構想しながら、同時に私のモデルのセカイと、すなわちシステムとその自己完結運動の歩みと、向き合いながら少しでもその歩みを今とは別の歩みに導ける、そうした「礼節を知りて」と礼節を求めていく必要がある、と私は確信している。それと同時に、この作業は死ぬまでには到底、片付くものではないことも、痛感する次第である。私は、この作業の必要性にずっと以前に気が付きながら、いろいろな理屈をつけては避けていた。どうにもならない厄介さが付きまとい、下手にかかわると、堂々巡りの連続で終わりかねないし、挫折するのが容易にわかっていたからである。ところが、中途視覚障碍者の境遇になって、そんなことを言う暇はなくなったのだ。自分の問題だから、どんなに読者が格好悪く思おうが、頭の悪さを笑おうが、どうでもよくなった。まだ格好つけた論の展開が多いのだが、残された時間を大事に使いたい。
最後の文章のくだりを新たに追加して、また投稿し直したことを断っておきたい。これまでどうも、ありがとう。くれぐれもご自愛を。