日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

私の語る「システム」論から、日本のなんとも形容しがたい空気を語るとき

2020-08-29 | 日記
私の語る「システム」論から、日本のなんとも形容しがたい空気を語るとき

安倍首相がやっと、やめてくれた。
少しホッとしている。これで私の体調も何とか危ない状態を脱しそうだ。もっとも、それは私だけではあるまい。この御仁が再度、日本のリーダーとなって、7年間と8カ月。それはもう、普通の神経ではおさまらないくらいの心身の失調症に悩み続けた国民は、大変な思いであった。

既に、国民の多くは、自分の意志では国の政治を評価・判断できない状態であり、このままこのお人が首相の座に居座り続けていたら、主権者としての責任を果たせないと感じていたのは、それはもう明らかであったので、このお方の退陣表明の報に接した時には、正直ほっとした次第である。

ただし、そうは言っても、また次の首相となる御仁を想像するときに、ため息しか出ないのだ。誤解のないように付言しておくと、今の日本と日本人が歴史のどの段階に位置しているかを踏まえておくと、{[B]→(×)[C]→×[A]}(なお、モデルは共時体型であり省略形。久しぶりに、これを表記しておく。)の「システム」のⅠ’期を経て、Ⅱ’期からⅢ’期の前期、中期に差し掛かっており、簡潔に表現すれば、「システム」の「低度化」の段階をひたすら駆け落ちているといった具合であり、誰が首相となったとしても、このベクトルを逆にすることは不可能なのである。

しかも、これからますます状況は悪化していくのは必至であり、ここに今のコロナ禍が重なることから、次のリーダーに、ほとんど期待することはできない。これは政権党が後退したとしても、そうであり、自公政権より、さらに悪くなる、と私は予想せざるを得ない。

しかし、たとえそうであったとしても、国会の窓を開けて、換気も必要だから云々と言いたいところだが、無責任にそれは言えないのである。あの原発事故に対処した民主党政権の印象が、あまりにも悪すぎるのだ。とくに「枝野」のトラウマは、いまだに消えない。こんな連中が政権に返り咲くのだとしたら、私は躊躇することなく、今の自公政権を支持したい。

最後に一言。

私は、やはり私の語る「システム」論の立場から、「現実主義者」であり、「保守主義者」だと言わざるを得ない。夢は大事だが、無責任な夢は語れない。誤解のないように、一言。無責任なことを語る保守には、私なりの苦言を呈したい。たとえ、どんなに無力な私であれ。また、ロマンの色香の漂う現実主義を目指したい。


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私の語る「システム」論から、アーレントの「陳腐な悪」論を捉え直すとき

2020-08-25 | 日記
私の語る「システム」論から、アーレントの「陳腐な悪」論を捉え直すとき

またまた、肱雲さんからの「喰いついて」コールに、少し躊躇したが、昔の「パン杭競争」を思い出して、お誘いに乗ることにした次第。

以下に肱雲さんの記事〈教条主義の歴史?~「悪の凡庸さ」 〉(8月25日)の「さわり」のくだりを引用しておく。

(以下、引用、始め)
ーーー

実はこの教条主義と「真面目」は
コインの表裏をなす

日本で起きている組織の腐敗、不正行為などの殆ど全てに
相通じる「病」
官僚のデータ改ざん等の不正行為問題など
組織にいる者達が「真面目がゆえ」に起きたという側面もある

赤木俊夫さんも例外では無かった

真面目が悪いと言うのではない

 自分の信念、倫理、哲学、美学に対して忠実な人というのは
道を誤ることは少ない
自分の中で常にこれは正しいのか正しくないのかと
自問自答しながら生きているからだ

そういう「真面目に生きている人」ではなく
組織というものに対してのみ真面目になっている人
が問題なのだ

 真面目な組織人というのは
往々にして、「思考停止」のワナに陥りやすい

もっとも分かりやすいケースは
元ナチス親衛隊幹部として、多くのユダヤ人虐殺に関わった
アドルフ・アイヒマンである
人間と思えぬ残虐行為を指揮し、「悪魔」「怪物」と恐れられた男は
自らの罪を問われた法廷でこのように述べた

「命令に従っただけだ」

世界は姑息な責任逃れだと批判したが
1951年、『全体主義の起源』という歴史的名著のなかで
ナチズム台頭のプロセスを細かに研究してきたユダヤ人哲学者
ハンナ・アーレントはまったく異なるものの見方をした

アイヒマンの思考停止を象徴する発言だと指摘し
この「悪魔」や「怪物」と評される男を
「自分で考えることをせずに命令だけを完遂する小役人」と分析したのだ

ユダヤ人社会はアイヒマンを擁護したと思って
猛烈なバッシングを行ったが
実は彼女が言いたかったのはそういう上っ面の話ではない

アイヒマンのようなどこにでもいる真面目な組織人は
組織や上司への絶対的な忠誠を誓うあまりに
自分の頭で物事を考えることを放棄してしまう

 そのような思考停止状態の人間は危ない
組織から命令されれば、どんなモラルの欠けた行為や
身の毛もよだつ残虐行為であっても
機械的に実行してしまうからだ

つまり、「悪魔」や「怪物」は
真面目な人が「歯車」になることで生まれる

この「悪の陳腐さ」という
文明社会の普遍的かつ構造的な問題を
世に投げ掛けたかったのだ

アーレントの問題提起から70年が経過したが
この真面目な組織人が、真面目さゆえに引き起こす
「陳腐な悪」という問題を
我々はまだ克服出来ていない

というより、よりおかしな方向へとこじらせている
「伝統」や「しきたり」を重んじなくてはならない組織程、重症度が深刻だ

古くから続いているルールは問答無用で守ると
先輩から厳しく躾けられる組織程より思考停止に陥りやすい
日本相撲協会、警察、等々
一度その組織に身を投ずるや
「プチ・アイヒマン」が量産される
ーーー
(以上、引用、終わり)

この記事を読みながら、私は丸山眞男さんや、ハーバーマスの論考を思い出した。アーレントに関しては拙論や拙著で論及したことがあるが、彼らの議論というか、政治体制を語るスタンスは、ほとんど同じなのだ。「責任主体」となることが可能な「個人」を前提としながら、そうした個人が担い手となる社会、つまり自由主義社会を基にした自由(主義的)民主主義体制を「理念型」として描き出し、勿論それは「一国枠」のそれであるが、そこから、「歴史」として描かれた全体主義体制を批判的に考察する態度である。

付言すれば、ハーバーマスの「憲法愛国主義」論は、「近代の立憲主義を組み込んだ憲法」の下での「愛国」という「ナショナリズム」が結びついたもので、丸山に従えば、それは「民権」と「国権」との「幸福な結婚」として描かれるものである。丸山は、とくにフランス革命を経験したフランスを念頭に論じていたのだが、これは歴史というよりも、理念系として語られていた。

自由民主義体制と全体主義体制とを、おのおの異なるフラスコ」の中に入れたままで、しかもその一方は理念レベルで、他方は現実レベルで、比較考察する議論だから、両体制間の関係などを視野に入れる作業は、最初から欠落しているのである。彼らは「自分の頭で考える」ことをやめ、それこそ思考停止状態の下で、いつも「判で押したような」体制分析を繰り返してきた、と私はみている。

ァーレンとの愛する「自由の国」であるアメリカは、私の語る「システム」論から見れば、覇権国のアメリカであり、原爆を日本の広島と長崎に、二度にわたり投下した国家であった。原爆投下に至る、それこそその製造から、またその製造に至る計画段階から含めたすべての過程において、「上から言われるままに」ではなく、それこそ「自分の頭で考え」、思考を停止させることなく、ただひたすら原爆投下のその瞬間を、主体的にかつ責任感を持って「選択」したというのであれば、それこそ悪魔の仕業というしかあるまい。

自由民主主義体制であれ、全体主義体制であれ、また権威主義体制であれ、全て「システム」の中で、「関係性」を持って、つくり出されてきた体制なのだ。それを踏まえたならば、私は、「全体主義の起源」の前に、「自由民主主義の起源」とか「システム」の起源に目を向けるべきではなかったのか、と私ならば、そう考えるのだ。

丸山は、「超国家主義の論理と心理」の中で、日本の軍組織とナチス・ドイツのそれを比較して、日本においては、すべての者が「上(官)からの指示(命令)」で殺害したというのに対して、ナチスの場合は、自分の主体的意志(判断)で殺した旨の発言をしていた云々と、丸山は指摘していたが、ここにも、ナチス・ドイツとイギリスやフランスとの欧米圏としての社会的・文化的な距離の近さを意識した上での見方ではなかったろうか。

ちなみに、丸山は、その「上から」を辿っていくとき、最終的には神武天皇にまで行きつくと述べていた。ここに、「一億総無責任体制社会」が浮き彫りとされたのである。しかしながら、そうした丸山や、ハーバーマス、そしてアーレントの全体主義体制の「切り口」は、上述したように、私には相当な問題が見いだされるといわざるを得ない。

付言すれば、BC級戦犯として海外で処刑された日本軍人が、その裁判でのやり取りの中で、「なぜ、お前は捕虜を殺したのか」の問いに対して、「上官からの命令には逆らえなかった」と答えたところ、「お前には、自分で判断することはできなかったのか、上官が死ねと言えば、お前は死んだのか等々」と「難癖」をつけられてどうにもならず、挙句は殺害されるのだから、この軍人の無念さはいかばかりであったろうか、とずっと以前に読んだ資料を思い出したのだ。私も、同じことをしたに違いない。

それに関連して一言。「あの戦争」時に、グラマン戦闘機からの機銃掃射によって、この愛媛県の田舎町に疎開していた少女たちが、命を奪われたとの「学校」関連の資料(「女子学生の手記」?)があったのを、今また思い出したのだが、そこには、その掃射しているパイロットが笑っていたことを、今でもはっきりと覚えている旨の記述が残されていた。無論、この逆に、日本軍人による戦時国際法に違反する犯罪もあるだろうが、この場合も、パイロットは、「自分の頭で考え判断して」の機銃掃射だったのか。

私は、組織人が、上官からの命令に従ったのは、それこそ自分の意志で判断したことだったとみている。その理由は、自分とその家族を守るために、なのだ。どうして他人の命を奪うのか、彼や彼女にも家族がいるのではないか。それはその通りなのだが、それでは、私たちは一体、どのような「空間」の中で生きているのかを、先ずは問うてみるべきではあるまいか。

そう、「システム」だ。誤解のないように念を押して言うのだが、私の語る「システム」である。「命と暮らしを守る」自己決定権の能力において、差別し、排除する側と、逆に、差別され排除される側の相互の関係を前提としてつくり出されてきた覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムの三つの下位システムから構成される一つの「システム」の中で生きている、生きざるを得ないのである。

その「システム」の中で生きていることそれ自体が、絶えず誰かが幸せとなるためには、すなわち、自己決定権の能力というか力が、より多く獲得されるためには、誰かが犠牲となる、すなわち、自己決定権を奪われるということを意味していることから、前者(現実の歴史において、それは「自由主義」とそれを前提とした「自由民主主義」社会であった)にとっては「平和」に生きられているかもしれないが、後者(現実の歴史において、それは全体主義の抑圧社会であるか、あるいは自由な民主主義社会と全体主義の抑圧的社会の双方から搾取・収奪される植民地や従属地域であった)は、まさに「戦争」状態の中に放り込まれている。その意味で、コインの裏表の関係として、この平和と戦争は位置づけられるのだ。

こうした差別と排除の関係を、私たちは、それこそ「上の指示」に盲目的に従うのか、それとも「自分の頭で考え」行動するのか、そのいずれの場合であれ、等しく支えているのではあるまいか。そして、その支える仕方は、両者の「礼節を知る」営為の実現段階の違いにもかかわらず、また「衣食足りて」の営為の実現段階の違いにもかかわらず、「システム」全体としての{[衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)]}の営為の実現において、相互に補完的な協力関係を構成しているのではあるまいか。これについては、1970年代までの「システム」({[A]→(×)[B]→×[C]})を、1970年代以降、今日にかけての「システム」({[B]→(×)[C]→×[A]})の「関係」を見てほしい。

私は、丸山やハーバーマス、そしてアーレントの私たちの社会に対する「知的貢献」を考慮した際に、私の語る「システム」とその宿痾に対して、読者の関心や注意を向けさせなかったところにあるのではないか、と考えるのだ。残念ながら、私のこの推察は大きく的を外してはいないだろう。さすがに「システム」なのだ。

余談だが、馬淵睦夫氏の「ウォール街の国際金融資本家」による世界支配、「ディープ・ステート」論と、アーレントの「全体主義の起源」の話を結び付けてみるとき、どのような「世界」が現れてくるのだろうか。これも、いずれ馬淵氏にご教示いただきたいものである。


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村田邦夫のヨモヤマ談義⑮-「システム」とは戦えない、その病気は「克服」するものではなく、「付き合っていく」ことが大事

2020-08-24 | 日記
村田邦夫のヨモヤマ談義⑮-「システム」とは戦えない、その病気は「克服」するものではなく、「付き合っていく」ことが大事

肱雲さんのブログ「肱雲の噺」にある記事「アンチノミー」(2020年8月24日)の以下の引用・貼り付けしましたくだりを、先ずはみてください。

(以下、引用、始め)
ーーー
プロ野球選手として活躍し
脚光を浴びていた川崎選手の
意外な闘病記も
森田療法的アプローチで
自分自身の内面と対峙した
記事だ

「キツかったですよね。体が動かない。頭が割れるように痛いし
毎日悪夢を見て…という感じ。体を動かすと全部つってしまい
動かないので『おかしい』と
治療するにしても、何かが痛くて、痛みが引かない
『おかしい、おかしい』という状態でしたね」

 「克服、していないですね、今も
それを持ちつつ生きています
今までは『治そう、治そう』と思ってやって
それがダメだったんです
今の僕が持っている、大事な病気。なので
治さないようにしようということで、今もいますね」
 
 「僕は、病気は克服してはいけないと思いますし
戦ってはいけないと思っています
まずは特徴を知り、それをいかに防ぐか
『取扱説明書』があるわけですから
『治す』よりも『付き合っていく』という考え方の方が
よっぽどハッピーだと思います」

ムネリンが奇しくも
システム論の核心を突く発言してるね~

システム(病気)を克服してはいけない
システムと戦ってはいけない
ーーー
(以上、引用、終わり)

それにしても、肱雲さんの話というか着眼点は毎回、毎回、素晴らしいですね。まさにその通りですね。

私も、「システム」とは戦えないと同時に、その病気と言いますか「宿痾」を克服することは到底できない、と理解しています。M・ヴェーバーの顰に倣いますと、「システム」は「鋼鉄の檻」以上の存在です。

それゆえ、「システム」の宿痾に関して、できる限り学習する中で、「してはならない」ことは避けることが大事だと、ある時期から考えるようになりました。これが難しいのですね。かゆいからといって、掻いてしまうと、ますます皮膚(の細胞)はやられてしまいます。

私は帯状疱疹に苦しんでいますが、この3年目にして、川崎さんと同じような思いをするようになりました。とにかく、一生の付き合いだから、相手にはそれなりの敬意を払うことが大事だと。それでも、なかなかこれは難しいことですよ。しかし、どうしようもないんですから、それは仕方のないことですね。

もっとも、「システム」と戦うことはしませんし、覇権システムとだなんて、それはあのヒクソン・グレーシーやミルコも、またケンシロウやラオウさえ、絶対に無理でしょうが、生きている以上、ああだ、こうだとは言い続けるのでしょうね。それがまた性というべきものなのか、これまた仕方がありません。「バカは死ななきゃ治らない」といわれますが、私はあの世でも、おそらく遍照金剛なんとかで、私の語る「システム」論談義をしていれば、これは最高だと、今から楽しみにしています。ごめんなさい、こんな言い方しかできないことを。デリカシーが欠けていますね。今のこの日本社会の状況を鑑みれば。ごめんなさい。


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村田邦夫のヨモヤマ談義⑭-私の語る「システム」論から、21世紀の新たなる「普遍主義」について、再考するとき

2020-08-24 | 日記
村田邦夫のヨモヤマ談義⑭-私の語る「システム」論から、21世紀の新たなる「普遍主義」について、再考するとき

最初に一言。

今はっきりとわかるのは、こんな風にして、あの時も、最後は「あの戦争」へと突入していったんだなぁ、と。そして、今のこのコロナ戦争でも、多くの人たちが犠牲となって、どうにもならなかったことを回顧して、また同じセリフを語るのではあるまいか。「知らなかった。教えてくれなかった。嘘の情報しか与えられず、私たちはずっと、騙されていたんだ」、と。

本当に、どうにもならない。それはそうかもしれないが、そんな気分の滅入るときこそ、私は馬淵睦夫さんの「ひとり語り」シリーズをユーチューブで聞くのが、最近の気分転換の一つの方法となっている。とにかく、この人もブレずに頑張られている。私が、例の私の語る「システム」論を俎上に載せて、これでもかと述べるのに対して、馬淵氏は、「ウォール街の国際金融資本家」と彼らの支配する「ディープ・ステート」論を、これまたしつこいほどに、繰り返して論じられている。

確かに、いくつかの論点においては、見解の相違はあるものの、目指す方向性においては類似しているのではあるまいか。もっとも、そうは言っても、氏のトランプ大統領や安倍晋三首相に対する高い評価や、中国崩壊論?等々、看過できない点もあり、「目指す方向性においては類似している」とは、簡単に言えそうにもないのだが、もうここでは、この種の話は差し控えたい。

そんなことよりも、私が馬淵さんに強く共感するのは、誰もが読める資料を基にしながら、従来の常識とされてきた権威ある通説を、真正面から批判していく姿勢である。とくに、氏の「東西冷戦は八百長」という観点から、米ソの二大対立の構図や朝鮮戦争の「嘘」を、これでもかというほどに、明快に論及されてこられたことに対しては、私は敬服せざるを得ない。私の「金の成る木」としての「システム」論からも、そうした見方には大いに後押しされたし、その他の話も、納得のいくものが多いのも事実である。

今日も、先ほど第2回目の話を聞き直していたところであった。馬淵氏が指摘されているように、アメリカにおいては、新聞やテレビの情報は、そのメディアを所有する先のウォール街の金融資本家によって、「工作された広報」であり、それによって、私たちは日々洗脳されていることを述べているが、まさにその通りであろう。

氏も強調されていたが、それはアメリカだけの噺でもなく他の先進国においても同様のことだ。それはまた、「陰謀論」でも何でもない、「常識」なのだ。「メディアが大統領をつくる、そのメディアの所有者が、大統領を決める」云々の話も、まったくそうではあるまいか。

付言すれば、日本ではどうなのだろうか。「日米合同委員会」とこの「ウォールストリート」、そして「電通」の関係を、ひとまず足掛かりとして
考えていくとしても、私には、容易には、「結論」めいたことにたどり着けない。いずれまた、馬淵さんにご教示をお願いするしかない。

それは別にしても、私がいくら常識だとして、馬淵さんの話に頷いたとしても、なおまだまだ、「市民権」を得られるには時間がかかるのではあるまいか。それを踏まえるとき、私の語る「システム」論が常識となるのは、いつの日のことだろうか。それを基本的な見方として。まあ、それはさておき、馬淵氏の国際関係や国際政治に関する「見方」が、それを支持するかしないかは別にして、より多くの人々の知るところとなることを、私は願うばかりである。

さて、「最初の一言」が長くなってしまったが、ここで、ここ最近のブログ記事で論じていたように、私たちは今こそ、21世紀の新たなる「普遍主義」を模索することが必要である、と強調していた。私がここでいう「普遍主義」について、「村田邦夫のヨモヤマ談義」⑬の記事をもとに、以下に簡単に要約しておきたい。なお、⑨の記事は、ここでは省略しているが、以下で述べる「礼節を知る」の営為に呼応する「衣食足りて」の営為の在り方を、簡単に描いている。

たとえば、私は⑬の記事において、ーーー「システム」の中で、たとえ生きていかざるを得ないにせよ、コインの裏表の関係にある戦争と平和の関係に代わる、それとは異なる別の関係に位置する「平和」を実現するために、その「組織」主体が、「日本」と「日本人」の「衣食足りて」の営為の実現と、それに呼応する「礼節を知る」営為の実現を模索する、すなわち、可能な限りにおいて「システム」の「外」に踏み出そうとするのであれば、前言を翻すことになるものの、国家であれ、民間であれ、いずれでも構わない、と私は強調しておきたいのである。ーーー

ーーー上述したくだりに関連して補足しておくと、たとえ、私たちが「システム人」として、「システム」の中で生き続けるにしても、先のように、コインの裏表の関係にある「戦争」と「平和」とは異なる「平和」を実現するための「衣食足りて」の営為と、それと相互に補完する関係に位置するような「礼節を知る」営為の実現の在り方を目指す限り、そのこと自体が、「システム」の「外」に這い出ることを意味している、と私は考えるのである。ーーー

ここに述べた「システム」の外に向かうための「衣食足りて」の営為と、それに呼応する「礼節を知る」営為の実現の模索とその歩みを、私は、21世紀の「普遍主義」である、と位置付け理解したいのだ。そして、この普遍主義の下で提供される「礼節を知る」営為の「礼節」を、21世紀の「普遍的価値」として位置付け理解したいのである。

この21世紀の普遍主義と普遍的価値は、「日本と日本人」を超えて、名実ともに、世界で共有されるものであることを、私は祈念してやまないのだが、残念ながら、世界的金融資本家が支配するウォール街が、その普遍的価値と、普遍主義に対して、立ちはだかるのは間違いないことだろう。

また、そのウォール街の支援を受けている次期覇権国の中国も、断固として敵対・反対するのは明白であるし、1970年代以降の「システム」({[B]→(×)[C]→×[A]})を構成する下位システムの一つである覇権システムも、今の米中覇権戦争の表面的、表層的対立・敵対関係をしばらくの間、横におきながら、私の提唱する普遍主義と普遍的価値に反対・拒否するために、共同戦線を張るのは確かなことであろう。

もとより、私のこうした21世紀の普遍主義やふへんてき価値を推進する「勢力」は、覇権システムの敵でもないし、敵にもなりえない非力な存在であるのは、論を待たない。それは最初から分かり切った話ではあるのだが、こうした普遍主義やふへんてき価値の在り様に関しても、それを支持するかしないかに関わらず、私たちの「選択肢」の一つとして考えてほしいのだ。

「二度と戦争(の惨禍)は繰り返しません」「〈平和〉を大切にして、守り続けます」との念仏を虚しく訴えるのであれば、私たちが今この「システム」の中で生きているということを踏まえて、より具体的な問題を考える方が、明日につながる、つなげられることではないのか、と私は思うのだ。

最後に一言。

コロナ禍で、私たちの命を守りながら、同時に、経済活動(暮らし)を維持するといった「両立」論が誠しなやかに繰り返し流布されている。私の語る「システム」の中で、私たちは生きていて、そこで「命」と「暮らし」を守ることに躍起となっている。

そもそも、この「システム」は、「命と暮らしを守る」ための自己決定権の能力における「差別と排除」の関係を前提としてつくり出されたものであり、その意味では、最初からその「両立」の実現が難しい、できない人たちを多数、含むセカイ・世界として存在しているのである。

すなわち、私たちの生きている「システム」は、そうした両立を実現させない仕組みを「バネ」として、つまり「格差バネ」として、それこそ「金の成る木」として形成され、発展・変容してきたのである。それゆえ、私たちのいわゆる「両立」論はペテン師のマスコミ組織であるマス・メディアの工作による情報提供と、それによる洗脳である。馬淵睦夫さんも、そのように考えられているのではないか、と私は勝手に思案するのである。

付言すれば、たとえ、そうしたペテン師の集団に属しているマスコミ人であっても、その中には、良心の呵責に耐えられない、と常日頃思い悩む人たちも少なからず、いるに違いない。私も「システム人」として生きてきたし、これからも生きていくので、ペテン師云々とエラそうな批判などは、もとより、できもしないに変わりはない。辛い話であるが、今回は、もうこれ以上は深入りしないで、そっと撤収するのみ。


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村田邦夫より、謹んで残暑お見舞い申し上げます

2020-08-22 | 日記
村田邦夫より、謹んで残暑お見舞い申し上げます

暑いですね。頭もぼーっとする毎日に、なかなか対応できません。昨日、また熱中症で90代と80代の老夫婦がお亡くなりになったとニュースの記事。エアコンが故障して使えなかったのか、そもそもなかったのか。いずれにせよ、生活困窮者は、どうにもならない。明日の私にならないようにと、今はエラそうにも考えるが、あと5年もすれば、どんな心境になっているかもわからないし、それまで生きているという自信も、もうあまりない。

若い人は、もっと大変になるのは間違いない。そうならないための準備を今からしておいた方がいいのだが、高齢者となった私には、また視覚障碍者の私には、相当な切迫感を感じる毎日だが、若い時分の頃の私を思えば、そんなアドバイスが通じるわけもないだろうが。また、もう既に、備えるどころか、終わってしまった人たちもぞろぞろいる。

今から少し前の日本を振り返ってみると、とてもじゃないが、手の施しようもない現状だったのだ。そんな状態、状況の中で、コロナ戦争の渦中に、私たちは放り込まれたのだから、後は推して知るべしだろう。不思議なことに、もう「左翼」とか、「リベラル」とかのようにみなされてきた人たちの口から、「累進課税」とか、税体制の根本的見直しを、といった声が聞こえてこないのだ。

ただ聞こえていたのは、コロナ感染症対策と経済を回すの両立云々の声だけ。この国のマスコミも、全体主義国家と同様に、情報を統制や改ざんに一生懸命に勤めているのが、肌身に感じられる。その理由もよくわかる。「大手のマスコミ」組織それ自体が、「大本営発」の役割しか果たしていないから。そこには、いろいろな識者が指摘されているように、「電通」が深く関係しているのだろうが。

これは戦前(戦中)と全く同じではあるまいか。私のあのモデルで言うと、戦前は、A、B、Cの「システム」を前提としながら、Ⅰ期の後期からⅡ期の前半頃の「システム」の歴史(歩み)の「段階」であったのに対して、今日では、B、C、Aの「システム」を前提としながら、Ⅰ’期を経てⅡ’期の前期、中期そして後期へと至る「システム」の歴史(歩み)の「段階」にある、と私はみている。

このように、「システム」の「段階」にみる「高度化」と「低度化」の違いはあれ、両者は、市民生活・活動に対する「制限あるいは抑圧」のための国家権力の積極的発動を、その特徴としている。前者の発動は、「分厚い中間層の形成」のために、後者のそれは、分厚い中間層の解体のために、である。付言すれば、S・ウォーリンに従えば、私のモデルで描く後者の低度化の段階は、「逆・全体主義体制」として描かれるのである。ここでは、もうあまりややこしい話はしない。

何度も語ってきたように、私の語る「システム」の中で生きているということは、それだけでも大変に恐ろしいことなのだが、それでも、「システム」の高度化におけるⅡ期の中期、後期からⅢ期を経て1’期の前期頃までは、「民主主義の発展」における「高度化」の「段階」として、福祉国家の実現の下で、「分厚い中間層」は、それなりの生活実感を味わうことができていたと言えるだろう。

もとより、それは、これまた何度も指摘しているように、「三重の差別と排除の関係を基にした下位システム」から構成される「システム」の下で実現された「我が世の春」ならぬ砂上の楼閣であったことから、それこそ、あっけないほどに、跡形もなく消滅してしまったのである。とくに、日本の場合は、覇権システムの中での歴史的制約性も手伝って、その消滅へと至る速度は欧米諸国と比べても、早すぎるものであった。

付言すれば、その覇権システムの歴史的制約性の中でも、とくに、あまりにも米国依存というか「どっぷり」のために、日本の国富は米国に収奪されてしまったということだ。その意味では、これまで首相在任期間(連続在職日数)が一番長かった佐藤栄作と、もうすぐそれを超えようとしている安倍晋三は、植民地行政官として米国に奉仕した、この上もない売国奴であったのは間違いない。

私の語る「システム」論からすれば、そもそも一国枠として国家を捉えることはしないため、つまり「関係枠」のために、そもそも売国奴などの表現はおかしいし、さらに、日本は戦後も一貫して国家というか、主権国家などではなかったので、この表現はおかしいのだが、もうここでもややこしい話はしない。

とにかく、熱い。暑い。くれぐれもご自愛いただきたい。

最後に一言。

少し前の記事で、〈mns japann〉で「村田邦夫」を検索したら、何の関係もない「村田何某」の動画が貼り付けられて、不愉快極まりない云々の話をしたが(なお、その記事は昨日、削除したことを、ここで断っておきたい。)、その他の「村田邦夫」さんたちから、あまりにも「料簡の狭い」ことを、と思われてもどうかと思い、とにかく一度くらいは、私こと「村田邦夫」の意思表示はしておいたらと考えて、あのような記事となった次第。

とにかく、「むらた」や「くにお」関連から、そうした動画の貼り付けや書き込みの貼り付けとなるのかもしれないが、21世紀のそれこそいろいろなテクノロジーの進化した時代に、それはないのでは、と思うのだ。ましてや、その「村田何某」の動画には、私の動画は張り付けられていないのだから。

〈yahoo japan〉ではこんなことはなかったし、動画も検索しない限りは見えないようにしている。とにかく今の時代、次から次へと面白くないことをやらかすどうにも始末にならない愉快犯というのか不愉快犯が、うごめいている。

その動画云々の投稿をした後にすぐ、今度は私の携帯のアイフォンに、それこそ「お誘いメール」の「ストーカー」メッセージが何度も何度もなのだ。「私、京子です。27歳。ーーー歳の離れた人も気にしません。」「ねえ、いま暇している。私と絡みませんか。---」何か途中で数字かアルファベットが続くのだが、視覚障碍者の私には音声で聞くしかできないし、ほとんど見えない。そう言えば、水着か何かわからない写真見たいのもあった。

私の考えすぎ、あるいは、妄想かもしれないが、なんとも言えない。とにかく目がもう少し見えて、一人で外に出歩くことができて、その「絡めないという人」に出会えれば、拙論や拙著をもって、是非とも会いたいと思うのだが。そんなことを言っても、おそらくは外にも出られないだろう。もう、外で散歩する元気もない。「絡む」という言葉を、今の若い人も使うのだろうか。私はこのカラムを聞いて、この人は年配の男性では、と感じたのだが、私も相当に暇しているようだ。

二・三回、ペイン・クリニックに痛み止めの注射をしに出掛けたくらいで、ほとんど今年の3月以降、今まで家に閉じこもったままなのだ。別にそれも若い頃はいいのだろうが、やはり運動も大事。それがわかっていても、この暑さと、私の怠惰な性格で、難しい。

ここまで、グタグタと、面白くもない拙文にお付き合いいただきありがとうございました。とにかく、ご自愛くださいませ。それと、拙論や拙著を持参して云々の話は本当にしないで。それはホントに困るから。私はメカに弱いので、コメント欄に何か書かれても、返信ができないし(それで、ブログのコメント欄へのアクセスを閉じてもらった。悪しからず。)、携帯も同じで、操作も音声に従うしかできず、その音声の言わんとする意味が分からないので、結局何もできないから、後で操作のできる人に読んでもらうしか術がない等々を、ここに記しておく。念のために。


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