日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

「大きな物語」は本当に終わってしまったのか

2018-07-30 | 社会 政治
「大きな物語」は本当に終わってしまったのか。
 結論を先取りして言えば、そうではないということだ。ここでは要点だけに絞ってまとめておきたい。
 「大きな物語」の終焉論者は、たとえ彼らがいわゆる「ポスト・モダン」論者であったとしても、彼らもまた「西欧中心」史観の論者であることを免れない。と言うのも、「システム」を批判しない限りは、もっとも、そうした批判に関わらず、システム内で生きることを我々は余儀なくされるのも事実だが、たとえそうだとしても、システムを批判する地点に立たない限りは、ポスト・モダンの、換言すれば、モダンの何たるかを十分に味わい尽くすのは難しいのではないか、と私はみている。
 「大きな物語」にせよ「小さな物語」にせよ、システムの自己完結運動がその歴史のある段階において提供する舞台で演じられる脚本に過ぎないからだ。
これまでのシステムの自己完結運動において提供された「大きな物語」は、{[A]→(×)[B]→×[C]}を舞台としていたが、21世紀以降のそれは、{[B]→(×)[C]→×[A]}〈いずれのモデルも省略形である。詳しくは拙著『21世紀の「日本」と「日本人」と「普遍主義」』(晃洋書房 2014年)の88-91頁を参照されたい。〉を舞台として繰り広げられていくだろう。ちなみに、私たちが教えられた「小さな物語」とは、こうしたシステムとその舞台が変容する歴史の一時期のAにおいて、もっぱら該当する話であるのだが、この物語も、次の大きな物語が始まるまでの序曲に過ぎないことを銘記しておく必要があるだろう。付言すれば、システムの自己完結運動の歩みは、B、Cにおいては「大きな物語」として、またAにおいては「小さな物語」として、各々解釈される「一つの同じ物語」を、こともなげに提供しているだけである。
 2,3日前に、「大きな物語」についての夢を見た。それを少し書き留めておきたかった。余談だが、その夢の中で私が語っていたのは、今の中国の「一帯一路」路線は、かつてのスペイン、ポルトガルの「大航海時代」に対応する大陸のそれである云々。ただし、夢の中で私が拘泥していたのは、視覚障碍者にとっての「大きな物語」と「小さな物語」の違いであったのだがーーー。
今回もわけのわからない話にお付き合いいただき、ありがとうございました。

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