日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

「システム論」から見た「人を人として扱わない」社会で生きることの「残酷さ」

2020-05-04 | エッセイ
「システム論」から見た「人を人として扱わない」社会で生きることの「残酷さ」

いつも少し長くなるので、今回はほんの少しだけとしたい。前回の記事は自分でもしんどい思いがした。つらかった。私に他人様のことをとやかく言う資格が一体、どこにあるのか、「お前は、何様なのか、お前は「岡村さん」の何を知っているのか、と。またそんなわけで、今日はずっと「ブルー」。それでも、昨日の続きを書いてみたかったので。

前回の話は、要するに、みんななるべく人より少しでも「楽して」(もっとも、それは決して楽なことではないが、)金が稼げる生き方をしたいということ、そのために生まれてこの方、社会(「システム」とその「関係の歩み」)が提供する「ベルトコンヴェアー」の、少しでも上位の方に安全席を確保するように、心がけて生きるということ、そのために、みんな必死になって、自分と自分に関係することしか見ないで、その結果として、他人がどうなろうとそれは致し方ないとして、生きるということ、に関わる話であった。

そして、こうした生き方が、いわゆる「危機」の度に、見直されるのだが、基本的な従来の生き方そのものを、真っ向から見直して、もっとましに思われる生き方を目指そうとするまでには至らない、ということであった。

新たな生き方を模索する動きは、既得権益を持った人たちに直接・間接的に押しつぶされるということである。そこで問題となるのは、その権益者は、何も巨大な権力を持った者ばかりではない。私のような高齢者の障碍者年金生活者もその例に漏れないのだ。ここでは、私のことだけを挙げているが、何も高額所得者だけではないのだ。むしろ障碍者や高齢者、低額所得者の方が、従来の生き方の既得権益者のように、振舞って生きているのだ。

その理由は簡単なことだ。いつもご立派そうな物言いを弄する者が、肝心な時に、助けてくれないということを、いやというほど経験して生きてきたからなのだ。これも書きながら、私には相当に応える一文である。視覚障碍者団体がどうして自民党や公明党にすがるのか。その理由を、私は自らが、中途視覚障碍者となることで、理解した次第なのだ。また高齢者の行動パターンも分かってきた。

だが、問題は、そんなところにだけ、限定されるものではないだろう、今まさに自分の店をたたまなければならない、家族を守れない、もう自分が死ぬことで後のことを処理した方がいい、そんな人たちが、すでに相当数いるのだから。

もうこの辺で、今日は許してほしい。そう私の中の誰かに懇願するのだ。読者には申し訳ない。ろくでもないくず野郎の「システム人」には、こんなくずみたいなものしか書けない。それでも、死ぬまでには、少しはましな一文、一章を書いてみたい。それだけは忘れることはない。

ただし、それでもやはり、相当につらいことを、ここで言っておかなければならない。結局のところ、コロナ・ウイルスとそれを巡る出来事が問題なのではないのだ。私たちが現政権を、自民党と公明党の連立政権を、結局は誕生させたのだ。もう痛いほどわかっていたはずではあるまいか。米国による「対日要望書」を受け入れてしまった。そのために、相当な日本の資産がタダ同然の形で、米国をはじめ、海外に売り渡されてしまったではないか。

そして、私たちの生活はますます格差社会の深化と、それに伴う雇用問題や、失業問題、介護問題にみられる生活の不安定化を導くことになったのではあるまいか。それがわかっていながら、自公政権では、何もできないことを知りながら、またそうした政権を、私たちは自らが、選択してしまったのだから、今さら何をかいわんやであろう。

勿論、そうした受け身の生き方を私たちの手で何とかして、改革することは、ほんの少しだけかもしれないが、できないことではあるまい。それがわかれば、今度の選挙では、同じ轍を踏んではならないだろう。そのためにも、今の野党の責任は重たいというべきだが、この先はやめておこう。またつらくなるから。それでも、それにもかかわらず、---。

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