日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

ピケティ著『21世紀の資本』を国際関係(国際政治経済関係)の中に置き直して考える(1)

2015-02-26 | 社会 政治
(昨日久しぶりに投稿しましたブログの記事を訂正します。自分の記事を見たところ、最初にモデルが添付できていました。そのモデルでは、なお「経済発展」を「衣食足りて(足りず)」に、「民主主義の発展」を「礼節を知る(知らず)」に、置き換えていません。何より、「普遍主義」という観点からこれまで私が提示してきたモデルを位置づけ直すことができていません。また、覇権国の興亡史のモデルといいますか、その全体像を示した図もありませんし、これまでのモデルには、覇権システムの存在を記号を使って示していませんでしたので、私としては、もしよろしければ下記に紹介しています拙著の88-91頁のモデルを見ていただきたくお願いします。昨日の記事の最後のところはカットしておきます。なお、このブログの記事をもう少し追加修正したいと思っていますので、もうしばらくお待ちください。)




トマ・ピケティ著『21世紀の資本』(みすず書房 2014年)を国際関係(国際政治経済関係)の中で捉え直すとき―拙著『21世紀の「日本」と「日本人」と「普遍主義」-「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウ』(晃洋書房2014年)の再考から見えてきたもの-トマ・ピケティ『1世紀の資本』と私のこれまでの「民主主義」、「普遍主義」論をコラボさせてみるとき、そこから一体何が見えてくるのだろうか-

何が問題なのか

 ピケティの「民主主義」と「資本主義」の位置づけ方は、ライシュ、クルーグマン、あるいはネグリやハート等と共通している。彼らは、今日の異常な格差社会を生み出した資本主義(社会)を、民主主義(社会)の力によって、何とか制御しなければならないと主張している。これに対して、私は、資本主義を「衣食足りて」の営為に、民主主義を「礼節を知る」の営為にそれぞれ置き直して、「衣食足りて礼節を知る」の営為は、そもそも切り離すことのできない「一対の関係」であり、その両者は「共時的関係」にあるとみることを主張してきたのである。すなわち、異常な格差社会を生み出した資本主義、すなわち「衣食足りて」の営為は、それに呼応する、ある種異常な民主主義、すなわち「礼節を知る」の営為であったのではないか、と私は理解している。たとえば、私たちの「礼節を知る」の営為である民主主義社会とその実現のためには、中東の石油にどれほど依存してきたか、またそのことが中東地域に暮らす人々に対して、どれほどの悲惨な戦禍を強いてきたかを少しだけでも想像できれば、その意味では、民主主義による資本主義の制御という見方は、再考を要すると言わざるをえない。私の「普遍主義」モデルにも示しているように、先進国で民主主義が実現するために、中進国や途上国とそこに暮らす人々を差別、排除しなければならなかったことを示している。この差別と排除の関係も相当に「異常」であったと私は捉えている。

 いずれにしても、私たちは、これまでどのような「衣食足りて礼節を知る」営為を実現してきたのかについて、真正面から向き合うことが必要ではないか。私の拙著は、そうした問題意識の下に表されたものであり、私のモデルで描いた図式のセカイはそのエッセンスに他ならない。以前のブログ(21世紀の「普遍主義」をつくり出す「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係史)で紹介した私のモデルを参照しながら以下のくだりを読んでいただきたい。ただし、今回はなるべく短い文章にとどめておきたい。詳しい自説の展開は拙著を一読されることを願うばかりである。その中の88-91頁の図式とモデルをぜひとも見ていただきたい。

 こうした点を踏まえるとき、ピケティのモデルにあるr>gのrとgは、そもそも一体いかなる国際関係(国際政治経済関係)の下で、また経済発展と民主主義の発展の関係の下で、享受(獲得)されたものなのか、同様にまた、200年に及ぶ「格差」という場合、それは一体いかなる国際関係の下でつくり出されてきたものなのか。私の答え(仮説)は、私のモデルで描くセカイを前提として、享受、獲得されてきた、つくり出されてきたということである。その意味で、r(誤解を恐れないで簡単に言えば、富裕層の人々が稼いだお金とみていい)とg(これまた同じように言い直すと中間層、下層の人々が稼いだお金とみていい)は、お互いに対立しながら格差をつくり出すと同時に、彼らがお金を稼ぐ際には、むしろ協力しながら、国家という共同体を創造して、自己決定権の能力の向上に努めて、中進国や途上国に対して、その能力の差を、すなわちカクサを、私のモデルで描いたB(中進国)やC(途上国)に対してつくりだしてきた点も、看過してはいけないだろう。


 ところで、ピケティの『21世紀の資本』は、格差の是正に対して、民主主義社会がほとんど機能していなかったということを物語っていることに目を向ける必要がある。その意味で衝撃的であり同時に笑劇的であるように、私には思えるのだが、「みすず書房」のピケティ本の新聞広告欄には、そのような空気は少しも感じられない。そこには、資本主義と民主主義の位置づけ方が窺える。便利な棲み分け思考であり、格差の問題以上に、私にはこの思考法とそれを当然とみなす社会の方がより怖い。
 
こうした点を踏まえて、以下に「資本主義」と「民主主義」の関係に関して、従来の見方を参照しながら私見を述べたい。

 「資本主義」(社会)と「民主主義」(社会)との「関係」をどう見ればいいのか
ライシュ著『暴走する資本主義』、クルーグマン著『格差はつくられた』トッド著『デモクラシー・以後』クラウチ著『ポスト・デモクラシー』などの著作に気になる点がある。それは民主主義的側面を取り戻して資本主義とのバランスを図るべき云々のくだりである。私は、資本主義と民主主の関係は、まさに「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為に凝縮されて把握できると考えるようになった。
資本主義とは「衣足りて」(足りず)」に与る営為について、民主主義とは、「礼節を知る(知らず)」に与る営為について、語っている。しかし私がここで強く主張しておきたいのは、両者は切り離すことのできない「一対の関係」ということである。たとえば、資本主義、なり市場経済について、経済学の観点から議論する際、どうしても見落としやすいのは、資本家や、労働者や資本や賃金という存在は、それらが「安全」に存在できて初めて成り立つものであることから、資本主義の背後にある「環境」(すなわち国際関係ということになる)を切り取って語れないだろう。たとえば、法律、権利、法制度、警察、軍隊、議会と、資本主義を機能させる上で必要不可欠な安全環境である。
 こうした点に関していえば、それは民主主義に関しても同じである。たとえ高尚なことを頭で思っていても、またそれを行動に移すにしても、「腹がへっては戦(いくさ)はできない」以上、どうしても腹を満たす営為と切り離せないことになる。
こうした観点から、私は、覇権システムという環境の存在を想定するところまで行き着いたのである。当然ながら、資本主義にしろ、民主主義にしろ、「石油」はともに欠かせない「商品」となる、そこから中東地域は常に想定される必要があるのではないか。
 こうした点を踏まえるとき、私の描いたような世界を前提としてピケティのモデルで彼が発信しようとした主張を捕らえなおすことは有意義ではないか、そう私は確信するのである。




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