日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

私の語る「システム」論から、改めて「分析も大事だが、それを糧として、後世の者たちに希望の松明(たいまつ)を手渡す責任を忘れては困る」との内なる叫びに応えられない我が身をしみじみと憐れ

2022-08-31 | 日記

私の語る「システム」論から、改めて「分析も大事だが、それを糧として、後世の者たちに希望の松明(たいまつ)を手渡す責任を忘れては困る」との内なる叫びに応えられない我が身をしみじみと憐れむとき(続・続・続)

 


(最初に一言)

今回記事も短いものになりそうだが、とにかく書き進めることにしたい。


ここまでの数回の記事から私が読者に伝えたかったのは、戦争はいつも少数の特権層にとっての金儲けの手段であり、そんなバカげた争いに巻き込まれてはならない、絶対に避けなければならないということであった。

と同時にまた、私たちは〈「関係」としての「ナショナリズム」〉の歩みの中で、すなわち覇権システムの担い手として生きていかざるを得ないことから、常に戦争と背中合わせの、つまりはコインの裏表の関係にある戦争と平和な社会の中で生きているということから、戦争に巻き込まれないと心掛けていたとしても、それはほとんど絶望に近いという話でもあった。


と言うのも、私たちの生活環境それ自体が、戦争を常に誘発する「金の成る木」としての「システム」を前提としていることから、戦争を避けるのは至難の業だというしかないのである。今のウクライナを見てもわかるように、ウクライナがさらなる戦争を導くような導火線の役割を担っている。

そして、日本は見事に第2、第3の戦争の渦の中に引き込まれている。もっとも、それは日本だけに限らない、EUやNATO加盟諸国も同様に、親分の米国からの支持の下で、ウクライナの支援を引き受けざるを得なくなっている。いずれにしても、いつ何時、戦争の火の粉を浴びてもおかしくない状況・状態に置かれている。

考えてみれば、弱い者は強い者からの理不尽極まりない掛け声に従うしかない。断れるものならば断わりたいのだが、それができないのである。そして、そのしわ寄せは、いつも弱い集団の中の一番弱い立場に位置する者たちに向けられる。そんな中でも、生き残るためには、皆(みな)見て見ぬふりをして、それこそ自分のことしか考えないのが常であるが、それをあろうことか、リーダー連中が率先してやるのだから、弱い者の中の皿に弱い者たちが救われる可能性は低いというしかあるまい。

それがわかっていても、私たちは愚かなことに、戦争へと突き進むのである。自分だけは助かる、救われるといったさもしい根性がそこには見え隠れしている。情けない話だが、それが私たちの歴史の中で何度、繰り返されてきたことか。私たちは差別と排除の関係からつくられてきた覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムの三つの下位システムからなる一つの〈「システム」とその関係の歩み〉とそれが作り出してきた宿痾と心底、向き合おうとはしないままなのだ。

もしそれを少しでも試みていたならば、日本の敗戦直後からいわゆる「逆コース」に至る間の時期と、それ以降の時期における「システム」の構造的同質性を確認できると同時に、「パクス・アメリカーナ」の「パクス」をつくり出す構造(関係)が、換言すれば、「システム」を担い支える構造というか関係が、一貫して差別と排除の関係によって刻印されていたことを確認できたはずなのだ。すなわち、それは逆コース以前もそれ以後も何ら変わるものではないということを意味していたということである。

こうした文脈の下で、戦後のGHQとその背後に控える米国の暴力(力)と戦後憲法と第9条との両者の関係を捉え直すならば、平和と戦争とがコインの裏表の関係にあることを、私たちは理解できたに違いない。そしてそこから、第9条とそれに象徴される平和を守るのではなく、戦争と平和がコインの裏表の関係とならない「平和」を、そしてそうした「礼節」と「礼節を知る」営為をつくり出す「衣食足りて」の営為の両者の関係を、すなわち経済発展と民主主義の発展の関係を、模索するべきであったということである。


(最後に一言)

勿論、こんな試みを、親分の米国が許すはずもない。それは確かにそうなのだが、子分の日本に生きている学者連中が、最初から米国の意向を汲んで、戦争と表裏の関係にある平和を支える自由、民主主義、人権、法の支配といった普遍的価値とその世界中への拡大の歩みとしての普遍主義を、何ら疑うことなく、当然のこととして受容しながら、彼らの研究を進めてきたのだから、あとは押して知るべしであろう。

「政治学」という学問がどうして、これほど面白くもおかしくもないそんなつまらないものになってしまったのか。そこには、私が今回記事でも少し披歴したような、差別と排除の関係に満ち満ちた国際関係とそれを前提としたままで、さらにそうした関係を糊塗するような経済発展と民主主義の発展を世界中に拡大していくことの愚かしさにも気が付かない(フリをする)のだから、さらにそんな学問を「科学的」だと称してきたのだから、どこにロマンなど見いだせるだろうか。

勿論、そうした政治学研究の歩みには、これまた親分の米国と米国政治が、その正当性・合法性を獲得するために、米国の政治学の在りようが密接不可分にかかわってきたのは言うまでもない。米国の政治学研究者として著名な連中は、それこそ米国政治において第一線の影響力を持つ実務担当者としての顔を持っていたが、ここには現実政治に直接・間接的に携わる者と、政治学研究者との間における持ちつ持たれつの関係が垣間見られる。

これほど恐ろしいこともないだろう。本来ならば、権力というか暴力と適切に距離をもって、政治学研究者として政治を分析する立場にある者が、権力のど真ん中に居座りながら、現実の政治が要請する政策の立案からその実施にかかわり、自らはその結果責任を引き受けなくて済むのだから、これほど楽しくてたまらない仕事もないだろう。

勿論、怖い話であるのは言うまでもない。そして、今はそんなことばかりが横行している始末ではなかろうか。他分野の研究者が横断的に結びつきながら、それこそ世界的多国籍企業とその大株主、その背後に控える多国籍の国家・政府の意を汲みながら、彼らの利害に奉仕する研究者(専門家)の一大ネットワークが形成されているのは、コロナ問題に限定されない。本当に怖いことだ。権力と学問が結びついてしまえば、それをチェックするのは容易なことではない。だが、私たちの社会においては、もうそれが当然のことになってしまっている。

(付記)

とりとめもない話をしてしまい、申し訳ない。それにしても、旧統一教会とこれからは関係を断つ云々の話で、それで大臣ポストを手放さなくて済む。こんなバカな話などないだろう。だが、それでも、そんなおかしなことが許されてしまうのだから、私などもうアングリなのだが。

さらに、そこへもってきて、国葬云々の話。安倍元総理と統一教会の関係がこれほど騒がれて、また当のメディアもそうした政治家と教会の関係はおかしい・許すまじの雰囲気で一色だったのに、またや元の木阿弥といった流れ。勿論、そうなることは、「システム」の提供するメディアであるから、あらかじめ予想されていたが。毎度のことだから、これ以上、メディアに期待するのは失礼だろうから、とにかく、今回はこれでやめるとしよう。

 

*(付記の加筆)

最後の最後になったが、ここで少し読者に謝っておきたいことがある。私はツイッターもフェイスブックもしないというか、できない。少し以前にツイッターで私のことを取り上げてくれている人がいるのに気が付いて、どうしようかと迷っていたのだが、つまり返信というか、「ありがとう」の意をと伝えたかったので、ログインも含めた作業を何回か試みては途中で断念していたのだが、それではやはり読者には失礼と思い、今回こうして改めて感謝の意をお伝えする次第。

私は目の不自由さから、音声に頼って読み書きしている。それで肝心なことを読み・書き忘れたりするのはしばしばとなる。そして、今日また、ツイッターの記事が目に留まったのだ。同じ人かどうかはわからないが、その人の別のツイート記事を読んでいたら、何か体調が思わしくないとのことで、少し気になって、残暑お見舞い方々、私からご挨拶を、と至った次第。

私のブログ記事の読者の中には、かつて共に学んだ方々もいると推察しているが、くれぐれもご自愛くださいよ。そしてしぶとく・しぶとく生きて・生きてください。そして、疲れて愚痴の一つも言いたいときは、どうぞ遠慮しないでメールしてください。返信ができないときもあるかもしれませんが、その節はご容赦のほどを。


*(付記・加筆版)と銘打って、改めて記事を投稿して以降、何日か過ぎたので、また以前のタイトルにして投稿したことを、ここで断っておきたい。なお、加筆・追加した個所は、このすぐ上に貼り付け直している。内容に関しては何ら変更はない。

 

 


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私の語る「システム」論から、改めて「分析も大事だが、それを糧として、後世の者たちに希望の松明(たいまつ)を手渡す責任を忘れては困る」との内なる叫びに応えられない我が身をしみじみと憐れむとき(続・続

2022-08-27 | 日記

私の語る「システム」論から、改めて「分析も大事だが、それを糧として、後世の者たちに希望の松明(たいまつ)を手渡す責任を忘れては困る」との内なる叫びに応えられない我が身をしみじみと憐れむとき(続・続)


(最初に一言)

前回記事も、既に以前に書いた記事の焼き直しであったが、それにしても、あんな話をしてしまえば、私はほとんど四面楚歌状態に置かれてしまう。つまりは、研究上の友達は誰もいないと同時に、誰からも相手にされないということとなる。


まさに、私の研究人生はそんなところであった。ほとんど話が通じないのだから、それはそれで、また面白おかしい者でもあった。だが、昨日の記事もそうだが、親分連中は、激しく対立・敵対するように見えたとしても、みんな裏でつながっている。そして、私の語る「システム」論で描かれるように、〈「システム」とその関係の歩み〉を担い支えているのである。

これに関しては、私とは異なる観点からの分析ではあるものの、馬淵睦夫氏の著作やユーチューブ動画でも紹介されているように、たとえば「冷戦」という「やらせ芝居」において、米・ソが結託して金儲けのための戦争を遂行していたことが、明らかにされている。

無論、私も「システム人」の一人として、「システム」を担い支え続けてきたから、偉そうに、どこそこの国はあんなひどいことをしている云々と、真顔で批判・非難でもするならば、それこそ天に唾する所業となる。


(最後に一言)

今回記事もまた短い話となったが、前回記事で書けなかった内容を補足する形でまとめた次第。何も面白くもない話で、読者には申し訳ない限りだ。

 


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私の語る「システム」論から、改めて「分析も大事だが、それを糧として、後世の者たちに希望の松明(たいまつ)を手渡す責任を忘れては困る」との内なる叫びに応えられない我が身をしみじみと憐れむとき(続)

2022-08-26 | 日記

私の語る「システム」論から、改めて「分析も大事だが、それを糧として、後世の者たちに希望の松明(たいまつ)を手渡す責任を忘れては困る」との内なる叫びに応えられない我が身をしみじみと憐れむとき(続)


(最初に一言)

早速、前回記事の続きを話してみたい。


ロシアのウクライナ侵攻は、イスラエルのパレスチナ侵攻とそれを介したパレスチナの国土(土地)取得を拡大するやり口にに垣間見える、弱者の自己決定権を侵食する汚い手口とそっくりである。強い者が弱い者に対しておこなってきたこの種の帝国主義の歴史は、市民革命以降の米国のインディアンに対する、中国のチベットや新疆ウイグルに対する、日本の琉球やアイヌに対する接し方と何ら変わるところはない。

と同時に、欧米諸国の、とくに英米産の多国籍企業のウクライナ経済に対する浸食は、つまりは帝国主義は、日本をはじめその他の先進諸国経済に対する浸食と何も変わるところはない。その意味では、ロシアのウクライナに対する、イスラエルのパレスチナに対する入植を介した領土浸食と形を変えたイジメでしかないのだ。

だが、前回記事でも指摘したように、領土であれ、経済であれ、それらにおける強い者と弱い者との関係を、等しく浸食とか帝国主義とか、あるいはイジメであるとして認識・理解すると同時に、ロシアであれ中国であれ、米国であれ英国であれ、世界に対して彼らの所業を等しく告発するのは、私たちにはどうもできない相談であるようなのだ。その理由は、私たちも似たような歴史を辿ってきたという負い目もさることながら、私たちはいずれかの親分の陣営に組み込まれてしまっているからに他ならない。

それゆえ、私たちの告発は、私たち自身も感じているように、理論的には不自然極まりないものとならざるを得ない。だが、これこそが私たちが生身の人間であり、強い者(親分)と弱い者(子分)との関係の中で生きていかざるを得ない現実を投影したものであるからに他ならない。

その結果として、私たちの語る自由や民主主義、人権、法の支配、平和といったいわゆる普遍的価値は、額面通りの普遍的とはならないで、欧米産であるとか、非欧米産といった主張となってその優劣を競うということになるのだ。そして、私たち自身もいつしか普遍的の名に値する価値を追い求めることをやめてしまい、いずれかの主張する普遍的価値を信奉するようになっていくのである。


(最後に一言)

今回記事もまたまた、いずれの陣営からも嫌われてしまう内容となってしまった。とは言え、私も生身の人間であるから、生き残るためには、親分には逆らえない。逆らうつもりもないのだが、肝心の親分からすれば、私が逆らおうが逆らうまいが、私のような存在はそれこそ歯牙にもかけないから、いずれにしても、私は生存のために、ひたすら生き残れる術を、ああでもないこうでもないと思案していくしかない。勿論、こんなことさえも無駄なことであるのは、私も重々承知しているのだが。

 


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私の語る「システム」論から、改めて「分析も大事だが、それを糧として、後世の者たちに希望の松明(たいまつ)を手渡す責任を忘れては困る」との内なる叫びに応えられない我が身をしみじみと憐れむとき

2022-08-24 | 日記

私の語る「システム」論から、改めて「分析も大事だが、それを糧として、後世の者たちに希望の松明(たいまつ)を手渡す責任を忘れては困る」との内なる叫びに応えられない我が身をしみじみと憐れむとき


(最初に一言)

ロシアのウクライナ侵攻は、それ以前の世界的なコロナ・ウイルスの大流行と相まって、私自身の肉体的精神的苦痛を常態化させている。正確に言えば、それら二つの出来事それ自体というよりも、それらの原因究明に関する専門家の「平気なウソ話」とそんな連中を動員して恥じることのないメディアの傲慢さに、心底やられてしまっているとの感じである。


元より、そんなことを愚痴っても何も変わらない。それこそ「金の成る木」としての「システム」が、その「役者」として抱えている世界的多国籍企業とその大株主、それらに奉仕する政治家・官僚・専門家等々を使って、「システム」が思い描く世界・セカイを創造していくのだから、今さらああだこうだと悲憤慷慨しても、どうにもならないことなのだ。

だが、それはそうだとしても、この世に生を受けてここまで永らえてきた私にも、やはり非力ながらも何か言い残しておきたいことはある。これまでのブログ記事において、恥も外聞も気にすることなく語ってきたのも、その一つの証に違いない。それを踏まえた上でさらに言えば、夏目漱石が明治44年、和歌山での講演会で語っていたように、強い者と交際すれば、弱い者は強い者に従わざるを得ず、それこそが外国交際の基本だと説いていたように、開国以降の日本と日本人の生き方は、まさにそうした生き方であったというしかない。

日本の歴代政権のたどった道は、漱石流の外国交際を指針としていたが、それを悪いと批判・非難したところで、何もそこから得られるものなどない。だが、その際、それでも批判・非難できるとすれば、外国交際で、日本の政府が強い者との交渉で譲り渡した・売り渡した日本の財産に対する見返りとして、強い者から手に入れた利権というか賄賂を独り占めにして、その他大勢の国民には、その恩恵に与ることを許さないというやり口である。

これも愚痴でしかないのだが、今の岸田政権の支持者は、国民の約半数はいることから、その半数は直接間接の既得権益者といえる。問題は、残りの半数が、いつも一枚岩として、政権に向き合うのではなく、バラバラな存在として、その半数における利権を死守しようと努める者だから、とてもではないが、政権交替などできる者ではない。

さらに、たとえ政権を交替できたとしても、米国の意に従わざるを得ず、その意味においては、日本と日本人が望むような生き方が許されるということではないし、さらに、先に指摘したように、自公政権の与党に対して、野党支持者は、野党それ自体が一枚岩ではなく、しかも内部で対立・敵対を繰り返すことから、野党政権は、自公政権に対するお灸的登板の意味を込めた、一時的なものとみなされてきたし、事実、そうであった。こうした現実を前にしたとき、長らく野党的立場に追いやられてきたと自覚する者たちにとって、果たして後世の者に希望の松明を手渡すことなどできるのだろうか。


ここで、それにすぐさま答える前に、今一度私の語る「システム」論で、これまで私が強調してきた話を思い出してほしいのだ。とくに、〈「関係」としての「ナショナリズム」〉という議論を、改めて思い起こしてほしい。ごくかみ砕いて言えば、たとえば、日本の主権国家と国民国家の形成と発展とその変容の歩みを見るとき、そこにはいわゆる日本一国、日本一民族がその担い手として位置していたわけではなく、日本以外の国家や日本民族以外の民族が相互にかかわりながら、つまりは差別・排除されたり、また差別・排除しながらの関係の中で、日本と日本人のナショナリズムがつくられてきたということである。

それは、この21世紀の今の日本のナショナリズムを語る際においても、同様に、〈「関係」としての「ナショナリズム」〉であるということに変わりはない。それは今のウクライナのナショナリズムを語る際にも等しく重要な視点である。21世紀の日本とウクライナのナショナリズムに最も大きな影響力を与えているのは、世界的多国籍企業とその大株主、そしてそれら企業が本籍を置いている国家とその政府の存在であることは言うまでもない。

今の日本は、これまでよく言及されてきたように、世界的農業関連の多国籍企業によって、狙われ続けてきたと言っても過言ではない。そして、その農業関連の多国籍企業は、製薬産業や兵器産業とも相互に密接に関係しながら、巨大な世界的多国籍グループを構成している。こうした企業とその大株主と、それらの企業の本籍地の国家と政府が、21世紀の日本やウクライナのナショナリズムの形成と発展とその変容に、甚大な影響力を及ぼしているのは想像に難くない。

たとえば、今のコロナ禍におけるワクチンを供給している米国の製薬会社であるファイザーを見ても、その影響力はおのずと理解できるだろう。この製薬会社とそれに関連したその他の企業連合の前に、日本の国家・政府は歯が立たないことは、誰の目にも明らかだろう。今や日本人の命は、これらの企業とその株主と彼らを擁護する当該国家・政府の手の中に握られている。残念ながら、日本の野党がたとえ一枚岩になったとしても、さらに日本の与党と野党と日本人がそれこそ連帯して、彼らと向き合ったとしても、最初から結果というか勝負は見えている。

これらの農業・製薬・兵器その他の産業から構成される巨大な多国籍企業とその大株主、そして彼らの背後に控えている国家・政府、もう読者にはお分かりだと思うが、その代表的例は米国の多国籍企業と米国国家・政府であるが、これらの勢力は日本だけではなく、当然ながら、今のウクライナにおいても、そのナショナリズムの形成と発展とその変容に、大きく関係していることは言うまでもない。


こうした点を踏まえて言うとき、今や日本の、ウクライナのナショナリズムの主たる担い手は、先祖代々そこに暮らしてきた当の主人たちではなく、先に紹介したような外国勢力であるということなのだ。もし、その点を踏まえるならば、日本がどこかの国から攻撃されることを想定して、中国やロシア、北朝鮮の仮想敵国の脅威から、日本と日本人を防衛しなければならないという前に、そうした世界的多国籍企業とその大株主と彼らの依拠する国家・政府の力(暴力)による、日本の自己決定権に対する侵略・侵害から、先ずは日本と日本人を守るべきではないかとの声が湧きあがったとしてもおかしくはないはずなのだ。

同じことは、ウクライナに関しても言える。ソ連崩壊以降、ロシアもそうであったように、ウクライナも米国をはじめとした外資により侵食される可能性は高くなり、今のウクライナは、ゼレンスキー政権下で、ロシアの侵略だけでなく、米国をはじめ欧米の多国籍企業とその大株主、それらを抱える国家・政府の餌食となっているのは否定できないだろう。

ところが、それが日本においても、ウクライナにおいても、大々的には取り上げられないばかりか、むしろ逆に、それら両国の仮想敵国とは違って、両国の自己決定権の獲得とその実現に際して、貢献度は大であるとの宣伝が喧しくなされるのである。それもそのはずだ。先の外資とその大株主たちが、彼らの支配下にあるメディアを介して、世界的情報網を、ほぼ独占しているからだ。

さらに、先に紹介した夏目漱石の外国交際の仕方から見ても、ゼレンスキーとその政権は、欧米の外国勢力に逆らう力もなく、彼ら自身の生き残りのために、強い者との交際において、守るべき鉄則に従うしかなかったのだ。彼を責めてみてもどうにもならない。それはまさに、天に唾することに他ならない。

だが、私が引っ掛かりを覚えるのは、ウクライナの国民がロシアとは徹底的に戦うと言いながら、その一方で、ウクライナの自己決定権を侵略・侵害してきた欧米の多国籍企業とその大株主とは、また欧米の国家・政府と戦うとは言わないことなのだ。これもおかしなことではあるまいか。ロシアの侵攻以前に、ずっと欧米の外資によって食い物にされてきたはずのウクライナの国民であるのに、その問題は奇妙な程に、矮小化されてしまっているのである。

ウクライナ国民からすれば、ロシアの侵略から身を守るために、欧米の提供する武器に依拠しなければならないとのメディア情報が流布しているのだが、これもまた、おかしな話ではあるまいか。ウクライナの農民の中には、日本の農民と同様に、米国の農業ビジネス関連の多国籍企業によるウクライナ農業への「侵攻」に対して、面白く思わない者たちもいるだろう。そんな彼らからすれば、欧米の多国籍企業に対する反発は大きいはずなのだ。

ところが、国家的・国民的関心を持って、この種の問題は騒がれることもない。日本やウクライナにおける外資による土地の取得は、最初から国民の目に届かないように恣意的にメディアを使って操作されている。ウクライナの場合は、ロシアの侵攻が逆に、ウクライナの外資による土地取得の弊害から目をそらさせるのに役立っている。今のこのどさくさにまぎれて、外資によるウクライナの買い占めはさらにそのスピードを増すに違いなかろう。日本もまた同様に、安倍元首相の銃撃死事件とそれに端を発した旧統一教会と自公政権の癒着問題やコロナ禍の社会の中で、日本農業は、米国の農業ビジネス関連の多国籍企業の格好の的にされているのは言うまでもなかろう。

ところが、日本のメディアは、そのような大事な問題を国民の前に丁寧に伝えることはしない。これはおそらくウクライナでも同様な話に違いない。少し前に述べたように、今のメディアを支配しているのは誰なのかを考えれば、すぐにわかることだ。日本でもウクライナでも農業を守るために様々な活動がなされている。それこそ外資による土地購入に反対する声も大きい。そうした声をメディアは抹殺しているのだ。時の政権もそれに加担している。


(最後に一言)

国民の多くは、これは自公政権の直接間接の既得権益者だけではなく、野党の支持者や権力に迎合したくない者たちの中にも見受けられるに違いないのだが、彼らの子供たちや孫たちが成人して就職しようとする段になった時、世界的多国籍企業に自分の子や孫たちが職を得ることを、おそらく誇りとするに違いない。

これは大学とて例外ではない。大学案内のパンフレットにある卒業生の就職先の欄に、どれくらいの割合で大企業に就職しているかを、大学の宣伝のうたい文句にするのは当然のことだろう。受験生は少しでもいい大学に、そして少しでもいい企業へと社会の階梯を上ることを、それこそ幼稚園の段階から教えられている。

そんな中で、世界的多国籍企業の抱える由々しき問題がどうのこうのと話したところで、それは最初から伝わる話でもなかろう。だが、それにもかかわらず、やはり由々しき問題が歴然として、私たちの眼前にあるのも事実なのだ。そうした問題に、私たちは蓋をしてしまう。そしてみて見ぬふりをする。これも、毎度ながら仕方がないというしかあるまい。こうした現状を鑑みるとき、とてもではないが、希望の松明云々の話には到底行きつかない。


最近、私はずっとあることを考えている。たとえどんなに素晴らしく思える話を聞いたとしても、それが実現できない話であれば、それはほとんど何も語ったことにはならないのではないか、と。誤解のないように付言すれば、別に話し手を責めているわけではない。

その意味では、偉そうに私の語る「システム」論ではどうのこうのと言っても、それは何も語れない乳幼児と同じではないのか、と。否、何も語れない乳幼児であっても、彼らの存在それ自体が、彼らと接する者たちに、何とも言われぬ微笑(ほほえ)みと安らぎを与えるだろうから、はるかに年老いた私のような、嫌われることしか言えなくなった存在などとは比較にできない、比較しては彼らに失礼だろう、と。

そうこうしている中で、少し書く気力が失せていた。それが以下の(付記)にある論考に目を通すうちに、また記事を書きたい気分となった。それで今回の記事となった次第である。


(付記)

今回記事を書くに際して、次の二つの論考からご教示を得たことを記しておきたい。それは、「〈阿修羅〉・総合アクセスランキング(瞬間)」に掲載されている投稿記事である。

*〈厚労省は、農薬スルホキサフロルの残留基準値を、大幅に緩和しました(2022年8月10日)。 特に大豆は以前の7倍、ネギやニラやアスパラガスなどは8.5倍です。
http://www.asyura2.com/22/senkyo287/msg/760.html 投稿者 こーるてん 日時 2022 年 8 月 23 日 22:51:01: hndh7vd2.ZV/2 grGBW4LpgsSC8Q〉


*〈一体誰の穀物がウクライナから輸出されているのか?(マスコミに載らない海外記事)http://www.asyura2.com/22/warb24/msg/125.html
投稿者 HIMAZIN 日時 2022 年 8 月 22 日 17:42:06: OVGN3lMPHO62U SElNQVpJTg(http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2022/08/post-6f3f8a.html 一体誰の穀物がウクライナから輸出されているのか?2022年8月18日 F・ウィリアム・イングドール New Eastern Outlook)〉

なお、読者には、直接この二つの記事に目を通してほしいと願っている。日本においても、ウクライナにおいても、相互に関連した問題が、おそらく浮き彫りとなるに違いない。と同時に、「それではこの事態に対して、どう向き合えばいいのか」と自問自答しながら、私にはどうする術もないとの情けない結論に至ってしまった。本当に情けない話だが、どうにもならない。

ただ、私の期待するのは、「どうにもならない」のは私の個人的能力の問題であり、いくらでも対策はあるとの読者の声である。それを是非にと願いながら、まだしばらくは、私もそれなりの悪足掻きをしてみるつもりだ。

 


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私の語る「システム」論から、改めて、前回記事を見直すときー{[A]→(×)[B]→×[C]}、あるいは{[B]→(×)[C]→×[A]}の〈「システム」とその関係の歩み〉の中の米国の、日本の、韓国の、

2022-08-17 | 日記

私の語る「システム」論から、改めて、前回記事を見直すときー{[A]→(×)[B]→×[C]}、あるいは{[B]→(×)[C]→×[A]}の〈「システム」とその関係の歩み〉の中の米国の、日本の、韓国の、「関係(枠)」の中でつくり出される「ナショナリズム」であることを看過してはならない!

*付言すれば、日本の資本主義、日本の民主主義の形成と発展の歩みもまた同様に、
{[A]→(×)[B]→×[C]}、あるいは{[B]→(×)[C]→×[A]}の〈「システム」とその関係の歩み〉の中で、初めて実現されるということである。


(最初に一言)

私たちが米国の、日本の、韓国のナショナリズムを語るとき、それは今回タイトルで示しているように、関係としてつくられてきた「システム〉を前提として初めて実現可能となる、その意味では決して米国の日本の韓国の「一国(枠)」でもって実現できるナショナリズムではないということを再度、確認する必要がある。

その意味では、前回記事のタイトルで〈(閑話)こんな日本に誰がした。カルト教団と手に手を取って日本政治を支配し、かくも無残な日本にしてしまった自公政権。この政権に自浄能力などないのは明白だ。それでは国民の中の誰がこの政権を打倒できるのか。これも無理な相談だ。それでは、このまま拱手傍観しながら、流れに身を任せて沈んでいくだけなのか。おそらくその蓋然性は高いだろう。〉の中の「日本」は、こうした関係としての「システム」を前提としてつくられてきたということに、先ずは目を向ける必要がある。

それゆえ、そこからわかることは、米国政府や米国CIA、日本の自公政権と日本の旧統一教会、そして韓国政府と韓国CIAと韓国統一教会と日韓の国際勝共連合が相互に関係しながら、米国の日本の韓国のナショナリズムをつくり出してきたということなのだ。

換言すれば、私たちが日本のナショナリズムを語るとき、否が応でも、そこには韓国の、また米国の、あるいは中国やロシア、インド等のその他の国のナショナリズムが相互に切り離すことのできない関係として組み込まれてきたということである。私の語る「システム」論で描かれるA、B、C、あるいはB、C、Aの〈「システム」とその関係の歩み〉は、まさにそれを端的に物語っているのである。

そうした話を踏まえるとき、今の旧統一教会と日本国家、日本政府との癒着関係を、もし徹底的に究明しようと考えるのであれば、それは取りも直さず、私の語る(A、B、C、あるいはB、C、Aの関係で描かれる)「システム」を俎上に載せて、その抱える問題に目を向けることができなければならないのである。

しかしながら、この作業は、これまでも何度も語ってきたように、ほとんど絶望的である。というのも、未だに、私たちの資本主義理解は、「世界システム論」者が論及してきた関係としての史的な世界資本主義システムを前提とするには至っていない。ましてや民主主義に関しては、今なお理念・価値次元の域を出るものではなく、せいぜいが市民革命発の普遍的理念・価値論でお茶を濁す始末なのだ。史的レベルの関係としての世界民主主義システム論など、夢の夢の話だろう。


それゆえ、残念ながら、私たちの旧統一教会がらみの話は、私の語る「システム」と相互に結び付けて語られることには至らない。それゆえ、結局は政教分離の(近大)憲法問題や、日本のナショナリズムが、日本の民主主義がカルト教団によって汚染されてけしからん等々の批判・非難の嵐で幕を閉じるという、毎度お決まりのパターンの繰り返しとなる。


(最後に一言)

カルト宗教の恐ろしさを言うのであれば、私は市民革命に端を発する自由、民主主義、人権、法の支配、平和といった普遍的理念・価値とその実現の歩みである普遍主義の恐ろしさについて、ここでも改めて強調しておかなければならない。普遍主義を支えてきたし国というか構造こそが、私の語る「システム」論で描かれる〈「システム」とその関係の歩み〉であり、その「システム」は、覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムの三つの下位システムから構成される差別と排除の関係なのだ。

そして、悲しいことに、私たちはその「システム」を担い支え続ける「システム人」として生きている・生きていかざるを得ない。それゆえ、私たちは、「金の成る木」としての「システム」が、その「システム」の維持と発展の円滑さを確保するために、「システム」の格差バネの効果的な働きを介して、常に戦争・センソウを必要とするのだ。


毎年の8月15日に、私たちは「もう二度と戦争はしません、平和の実現に努めます」云々のウソ話を、国家・国民の一大イベントとして執り行うのだが、まさに「灯台下暗し」である、と私は言わざるを得ない。戦争・センソウを常に引き起こす元凶は、私たちが後生大事であると信じ込まされてきた市民革命発の普遍的理念・価値と普遍主義、そしてそれをつくり出すと同時に、その生産・再生産の歴史の歩みを担い支え続けてきた差別と排除の関係から構成される「システム」であるということを、改めて強調しておきたい。

 


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