私の語る「システム」論から、改めて「分析も大事だが、それを糧として、後世の者たちに希望の松明(たいまつ)を手渡す責任を忘れては困る」との内なる叫びに応えられない我が身をしみじみと憐れ
私の語る「システム」論から、改めて「分析も大事だが、それを糧として、後世の者たちに希望の松明(たいまつ)を手渡す責任を忘れては困る」との内なる叫びに応えられない我が身をしみじみと憐れむとき(続・続・続)
(最初に一言)
今回記事も短いものになりそうだが、とにかく書き進めることにしたい。
ここまでの数回の記事から私が読者に伝えたかったのは、戦争はいつも少数の特権層にとっての金儲けの手段であり、そんなバカげた争いに巻き込まれてはならない、絶対に避けなければならないということであった。
と同時にまた、私たちは〈「関係」としての「ナショナリズム」〉の歩みの中で、すなわち覇権システムの担い手として生きていかざるを得ないことから、常に戦争と背中合わせの、つまりはコインの裏表の関係にある戦争と平和な社会の中で生きているということから、戦争に巻き込まれないと心掛けていたとしても、それはほとんど絶望に近いという話でもあった。
と言うのも、私たちの生活環境それ自体が、戦争を常に誘発する「金の成る木」としての「システム」を前提としていることから、戦争を避けるのは至難の業だというしかないのである。今のウクライナを見てもわかるように、ウクライナがさらなる戦争を導くような導火線の役割を担っている。
そして、日本は見事に第2、第3の戦争の渦の中に引き込まれている。もっとも、それは日本だけに限らない、EUやNATO加盟諸国も同様に、親分の米国からの支持の下で、ウクライナの支援を引き受けざるを得なくなっている。いずれにしても、いつ何時、戦争の火の粉を浴びてもおかしくない状況・状態に置かれている。
考えてみれば、弱い者は強い者からの理不尽極まりない掛け声に従うしかない。断れるものならば断わりたいのだが、それができないのである。そして、そのしわ寄せは、いつも弱い集団の中の一番弱い立場に位置する者たちに向けられる。そんな中でも、生き残るためには、皆(みな)見て見ぬふりをして、それこそ自分のことしか考えないのが常であるが、それをあろうことか、リーダー連中が率先してやるのだから、弱い者の中の皿に弱い者たちが救われる可能性は低いというしかあるまい。
それがわかっていても、私たちは愚かなことに、戦争へと突き進むのである。自分だけは助かる、救われるといったさもしい根性がそこには見え隠れしている。情けない話だが、それが私たちの歴史の中で何度、繰り返されてきたことか。私たちは差別と排除の関係からつくられてきた覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムの三つの下位システムからなる一つの〈「システム」とその関係の歩み〉とそれが作り出してきた宿痾と心底、向き合おうとはしないままなのだ。
もしそれを少しでも試みていたならば、日本の敗戦直後からいわゆる「逆コース」に至る間の時期と、それ以降の時期における「システム」の構造的同質性を確認できると同時に、「パクス・アメリカーナ」の「パクス」をつくり出す構造(関係)が、換言すれば、「システム」を担い支える構造というか関係が、一貫して差別と排除の関係によって刻印されていたことを確認できたはずなのだ。すなわち、それは逆コース以前もそれ以後も何ら変わるものではないということを意味していたということである。
こうした文脈の下で、戦後のGHQとその背後に控える米国の暴力(力)と戦後憲法と第9条との両者の関係を捉え直すならば、平和と戦争とがコインの裏表の関係にあることを、私たちは理解できたに違いない。そしてそこから、第9条とそれに象徴される平和を守るのではなく、戦争と平和がコインの裏表の関係とならない「平和」を、そしてそうした「礼節」と「礼節を知る」営為をつくり出す「衣食足りて」の営為の両者の関係を、すなわち経済発展と民主主義の発展の関係を、模索するべきであったということである。
(最後に一言)
勿論、こんな試みを、親分の米国が許すはずもない。それは確かにそうなのだが、子分の日本に生きている学者連中が、最初から米国の意向を汲んで、戦争と表裏の関係にある平和を支える自由、民主主義、人権、法の支配といった普遍的価値とその世界中への拡大の歩みとしての普遍主義を、何ら疑うことなく、当然のこととして受容しながら、彼らの研究を進めてきたのだから、あとは押して知るべしであろう。
「政治学」という学問がどうして、これほど面白くもおかしくもないそんなつまらないものになってしまったのか。そこには、私が今回記事でも少し披歴したような、差別と排除の関係に満ち満ちた国際関係とそれを前提としたままで、さらにそうした関係を糊塗するような経済発展と民主主義の発展を世界中に拡大していくことの愚かしさにも気が付かない(フリをする)のだから、さらにそんな学問を「科学的」だと称してきたのだから、どこにロマンなど見いだせるだろうか。
勿論、そうした政治学研究の歩みには、これまた親分の米国と米国政治が、その正当性・合法性を獲得するために、米国の政治学の在りようが密接不可分にかかわってきたのは言うまでもない。米国の政治学研究者として著名な連中は、それこそ米国政治において第一線の影響力を持つ実務担当者としての顔を持っていたが、ここには現実政治に直接・間接的に携わる者と、政治学研究者との間における持ちつ持たれつの関係が垣間見られる。
これほど恐ろしいこともないだろう。本来ならば、権力というか暴力と適切に距離をもって、政治学研究者として政治を分析する立場にある者が、権力のど真ん中に居座りながら、現実の政治が要請する政策の立案からその実施にかかわり、自らはその結果責任を引き受けなくて済むのだから、これほど楽しくてたまらない仕事もないだろう。
勿論、怖い話であるのは言うまでもない。そして、今はそんなことばかりが横行している始末ではなかろうか。他分野の研究者が横断的に結びつきながら、それこそ世界的多国籍企業とその大株主、その背後に控える多国籍の国家・政府の意を汲みながら、彼らの利害に奉仕する研究者(専門家)の一大ネットワークが形成されているのは、コロナ問題に限定されない。本当に怖いことだ。権力と学問が結びついてしまえば、それをチェックするのは容易なことではない。だが、私たちの社会においては、もうそれが当然のことになってしまっている。
(付記)
とりとめもない話をしてしまい、申し訳ない。それにしても、旧統一教会とこれからは関係を断つ云々の話で、それで大臣ポストを手放さなくて済む。こんなバカな話などないだろう。だが、それでも、そんなおかしなことが許されてしまうのだから、私などもうアングリなのだが。
さらに、そこへもってきて、国葬云々の話。安倍元総理と統一教会の関係がこれほど騒がれて、また当のメディアもそうした政治家と教会の関係はおかしい・許すまじの雰囲気で一色だったのに、またや元の木阿弥といった流れ。勿論、そうなることは、「システム」の提供するメディアであるから、あらかじめ予想されていたが。毎度のことだから、これ以上、メディアに期待するのは失礼だろうから、とにかく、今回はこれでやめるとしよう。
*(付記の加筆)
最後の最後になったが、ここで少し読者に謝っておきたいことがある。私はツイッターもフェイスブックもしないというか、できない。少し以前にツイッターで私のことを取り上げてくれている人がいるのに気が付いて、どうしようかと迷っていたのだが、つまり返信というか、「ありがとう」の意をと伝えたかったので、ログインも含めた作業を何回か試みては途中で断念していたのだが、それではやはり読者には失礼と思い、今回こうして改めて感謝の意をお伝えする次第。
私は目の不自由さから、音声に頼って読み書きしている。それで肝心なことを読み・書き忘れたりするのはしばしばとなる。そして、今日また、ツイッターの記事が目に留まったのだ。同じ人かどうかはわからないが、その人の別のツイート記事を読んでいたら、何か体調が思わしくないとのことで、少し気になって、残暑お見舞い方々、私からご挨拶を、と至った次第。
私のブログ記事の読者の中には、かつて共に学んだ方々もいると推察しているが、くれぐれもご自愛くださいよ。そしてしぶとく・しぶとく生きて・生きてください。そして、疲れて愚痴の一つも言いたいときは、どうぞ遠慮しないでメールしてください。返信ができないときもあるかもしれませんが、その節はご容赦のほどを。
*(付記・加筆版)と銘打って、改めて記事を投稿して以降、何日か過ぎたので、また以前のタイトルにして投稿したことを、ここで断っておきたい。なお、加筆・追加した個所は、このすぐ上に貼り付け直している。内容に関しては何ら変更はない。