日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

№73私の語る「システム」論から、改めて前回記事での①②と③の関係を捉え直すとき(続・続)

2023-09-24 | 日記
№73私の語る「システム」論から、改めて前回記事での①②と③の関係を捉え直すとき(続・続)




(最初に一言)


 ③での、胸のところに「欧米流の自由万歳」のワッペンを付けた若者が「中国流の自由万歳」号のバスに乗り込もうとしたときに、乗車を拒否されたのだが、その際に他の乗客のほとんどは、若者の存在に対して、無視・無関心・無頓着の態度を示した。その若者に対する乗車拒否を許すのは、彼らが若者の抱える問題を一緒になって考える余裕がないのもさることながら、彼らにそれをさせない何らかの有形無形の「圧力」が働いているのではあるまいか。


 これに対して、①②の場合はどうだろうか。障碍者が「人間の尊厳を守る」とか、「人権侵害は許されない」等々を掲げる「欧米流の自由万歳」号のバスに乗ろうとした際に、バスの大多数の乗客は、これまた無視・無関心・無頓着の態度でもって、その理由はいかなるものであれ、結果としては、障碍者に対する乗車拒否を黙認する形となってしまう。彼らも有形無形の「圧力」によって、障碍者の尊厳を踏みにじってしまったのだろうか。




 今回記事は、こうした問題設定の下に、ここ数回記事で問いかけていた問題究明に向き合うことにしたい。その前に、前回記事と同様に、この(最初に一言)での問題設定にあるように、帰宅を急ぐ乗客で詰め込み合ったバスに、障碍者の席を確保できない問題を、人間尊厳云々だなんて、オーバーなことをという読者がいれば、勿論そうした読者は必ずいるのだが、ここでも「そうなんだよ、あなた方のそうした態度が変わらない限りは、あなた方の尊厳自体も守られないどころか、今まで以上に、これから更に踏みにじられて、あなた方に対する人権侵害は、さらに強まるのは必至なんだよ」、と私は伝えておきたいのだ。


 誤解のないように、さらに付言しておくと、私も視覚障碍者となった今も、、、無視・無関心・無頓着な態度を示す乗客の一人であるのは間違いない。それゆえ、どうしてこのような「私」の存在をやめられないのか、それをいま一度、ここで問い直してみたいのである。


 中国の場合は、よくわかるというか、これまたマスコミの刷り込みの効果も手伝っているのだろうが、中国がいま取り組んでいる「国造り」において、中国政府の言うことに従わないで、欧米流の自由万歳を叫ぶ香港の若者たちの存在は、どうしても許すことができないことは容易に察しができるのではあるまいか。。


 問題は、これに対して、どうして「欧米流の自由万歳」を当然視する日本において、しかもだ、多様性の、多文化尊重の、差別や人権侵害を許さない等々と宣う日本社会で、一体どうしてなのだろうか。そこには、中国と同様に、今の日本の「国造り」において、最優先されるべき課題があり、たとえば、非(不)自由化・民営化路線の、資産家優遇遇の私的利益追求の政策とその実現を推進する社会の副産物の一つとして、弱者切り捨て、障碍者別紙の社会が相互補完的関係をつくり出している、と想像できるのかもしれない。


 ここで私が強調したいのは、中国においても、日本においても、共に「国造り」が関係しているということである。それは、換言すれば、私の語る「システム」論で何度も開陳してきた〈「システム」とその関係の歩み〉に見られる「システム」の「高度化」と「低度化」の「段階」に呼応した話である。


 その「国造り」とは、いわゆるナショナリズムの次元の問題を中心とする内容であるが、それはまた、諸個人、諸集団、諸共同体間における私たちの人間関係において繰り返される、自己決定権の獲得とその実現を巡る力(暴力)と力(暴力)のぶつかり合いを介した争奪戦によってつくり出される強者と弱者の、親分と子分の、差別し排除する側と差別され排除される側との、あらゆる関係とその集合体としての覇権システムに、密接に関わるのである。


 そして、そこから、これまた何度も述べてきたように、国造りとしてのナショナリズムを含む覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムの、三つの下位システムから構成される(私の語る)一つの「システム」が、つくり出されてきたのだ。このように考えていくとき、ここ数回の記事で論及してきた、とくに①②と③の関係は、覇権システムと、またそのシステムを前提としてつくられてきた世界資本主義システム、世界民主主義システムと、それゆえ「システム」との関係から、捉え直すことがどうしても必要となるのだ。




(最後に一言)


 私は、これまで私の語る「システム」論を、ああだ・こうだと、それこそ云十年にわたり論及してきた。それは今もそうなのだが、幸か不幸か私は63歳を迎えるときに、視覚障碍者となり、障碍者手帳を持つことになった。それまでも目は不自由であり、相当に苦労してきたのだが、それが手帳を手にした途端、何かうまく表現できないのだが、人生の大きな転機となったのは確かである。


 いろいろな集会や大会にも出て、そこで多くの視覚障碍者に出会えた。これまたうまくは言えないのだが、差別とか排除とか、これまでも幾度となく書いてはきたが、やはり何かが、そこには抜け落ちていたように思う。私は今も、その瞬間を覚えている。これまで書いてきた私の「システム」論は、やはり何かが足りないのでは、との思いがしていたのだが、それが少しわかったように感じられたのだ。(続く)




(付記)


 次回の記事では、以下にある№71の(最後に一言)で提起していた問題を取り上げて、考察してみよう。これについての私の考えは、もう何度も述べてきたのだが、ひょっとして、少し異なる見方ができればとの思いを忘れないで、考えたい。なお、行論の都合上、下に(最後に一言)を引用貼り付けておく。


ーーー
№71の記事より


(最後に一言)


 今回記事はここまでとしたいのだが、とくに18-19世紀転換期から19世紀中頃にかけて、イギリスに、今回記事で紹介した権威主義的、暴力的抑圧的政治四方を採用させたのは、一体どこの誰だったのか、また、それは一体何のためであったのか。それらの問いに関して、私たちは是が非でも向き合うことが求められているのではあるまいか。それは同様に、20-21世紀転換期から今日の時点に至るまでの中国の政治を考える際にも、不可欠な問題意識であるに違いない。③のような若者たちが、これから更に悲惨な人生を歩まないで済むように、そのためにも私ができることを、私はしなければならないはずだ。たとえ、ほとんど何の見返りが期待できないとしても。


ーーー



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№72私の語る「システム」論から、改めて前回記事での①②と③の関係を捉え直すとき(続)

2023-09-23 | 日記
№72私の語る「システム」論から、改めて前回記事での①②と③の関係を捉え直すとき(続)




(最初に一言)


 今回記事では③の香港デモの若者が、仮に胸のところに「欧米流の自由万歳」というワッペンをつけて、返還後の香港のとあるバス停でバスを待っているとしようそのバスは「中国流の自由万歳」号である。バスが到着して、若者が乗り込もうとした際に、バスの乗務員に乗車拒否をされてしまう。バスにいる多数の乗客は、その場面を見ながら、何も言わないままで、ただ黙っている。この若者は見事に、バスの乗客の一人となるのを、差別され排除された?のだ。こんな設定の下に、以下に前回記事の①②の話と結び付けながら、論を展開していきたい。




 ①②の日本の障碍者は「欧米流の自由万歳」号のバスとその乗客によって、乗車を拒否された形であった。最近の国連総会演説で、またも日本の首相は臆面もなく、それこそ気恥ずかしくなるような「人間の尊厳を守る云々」、と宣ったと聞くのだが、自・公政権の推し進める政策実現の前で、「欧米流の自由万歳」の社会に生きる私たち国民の多くは、自由に飢える、自由に野垂れ死にする、自由に労働権をはく奪される等々と、切りがないほどの非・自由、不・自由という名の自由を押し付けられるままで、それでよくも「人間の尊厳ーーー」云々とは。


 こんな社会に生きる私たちは、当然ながら、「私(僕)が私(僕)であるために勝ち続けなきゃならない」との自己決定権の獲得とその実現における争奪戦に明け暮れしながら、その日その日を懸命に生きざるを得ない。そんな私たちは、いつしか強者と弱者の、親分と子分の、差別し排除する側と差別され排除される側の関係を当然のごとく受容する中で、覇権システムの維持・強化とその存続に手を貸すことになる。


 まるで夏目漱石が語った「生きるか、生きるか」の社会の荒波の中にいる人たちが、やっとの思いで帰宅を急ぐ、そんなバスに乗り合わせた①②の乗客でギュウギュウノバスであれば、①②における少数派の障碍者に対する無関心・無頓着な対応は、想像に難くない。これも、やはり差別し排除する側と差別され排除される側の関係を示している。読者の中には、次のバスを待てばいいだけのこと、何をそんなにオーバーなことを、と思う人もいるに違いなかろうが。


 私は言いたい。「そう、そこなんだよ。そのあなた方の思っていることそれ自体が、相当に問題なんだよ」、と。勿論、これもまた、通じないのは必至だ、と私はみている。「欧米流の自由万歳」の社会とは一皮むけば、こんなものであるとは、言い過ぎだろうか。私の語るあのモデルで描かれる〈「システム」とその関係の歩み〉を前提として、その欧米流の自由が実現するのだから、それは言うまでもなかろう。


 それでは「中国流の自由万歳」はどうであろうか。これまた〈「システム」とその関係の歩み〉を基にしてつくり出されるのだから、後は推して知るべしだろう。中国流の自由に従わない者は、③の若者のように、「欧米流の自由万歳」を信奉する限りは、先のバスに乗ることはできない。乗車拒否となる。この若者に対して、バスの乗客の多くはこれまた無関心・無頓着な態度でやり過ごすのだ。それゆえ、③の若者は海外の他のどこかの国に向かうか、「欧米流の自由万歳」の「踏み絵」を踏んで中国に留まるしかない。


 ただし、この中国流の自由は、前回記事でのモデル(イ)に示したように、〈「システム」とその関係の歩み〉が、Ⅰ期の段階を経てⅡ期の後期の段階入り口に差し掛かる頃には、モデルの(ア)の欧米社会が、Ⅰ期を経て、Ⅱ期の後期の段階に差し掛かる頃に、現実化した自由に、その内実を変えていく。その時には、もはやかつての中国流の自由は、とくに国内社会においては影を薄めていくはずだ。欧米流の自由とそん色のない自由がつくり出される、と私は考える。




(最後に一言)


 いずれにせよ、面白くもない歴史の歩みでしかない。前回記事で、私は③の若者に大変に失礼な物言いをしたかもしれない。それは前回記事でのくだりを書いているときに、すぐに気がついていたのだが、それでも、そう語ったのは、これまたずっと以前の記事で述べていたように、若者は「政治」に関わるべきではない、との私の考えからなのだ。


 今回記事では、その理由を言わないが、私たちの政治は、資本主義や民主主義、あるいは社会主義や共産主義の次元の「出来事」に関係しているように、一見したところは確かに、そのように捉えられても仕方がないのだが、何度もこれまたいうように、ほとんどすべては覇権システムの、すなわち、強者と弱者の、親分と子分の、差別し排除する側と差別され排除される側の人間関係にその源を発しているのである。


 それゆえ、最初から、それを理解した上で、政治に付き合わない限りは、自分よりもより強い者たちに、利用されてしまうだけとなる。つまり、「勝てないけんかはするな」である。私が辛いのは、③の若者たちを背後で操り人形の如く扱い、都合が悪くなれば、あるいは、一定程度の目標を達成したとされる瞬間に、③の若者を扇動したとされる痕跡を消し去り、風のように去っていく「システム」を指導・監督する中国と対峙する格好にある別のグループを率いる親分連中の存在である。付言すれば、中国側においても、それは最初から分かった上での対応となっている。


 これまた何度も言うように、世界を動かす親分連中は、「システム」の形成とその維持・発展と存続という役割を共同で担っているという意味では、一蓮托生的な存在であるということを、決して忘れてはならない。これまた何度も言うように、中国と米国は「米・中覇権連合」の形成と発展、その維持とその強化のために、たとえ表面的には対立敵対するように見えたとしても、強固な相互補完的関係をこれまでつくり上げてきている、と私はみている。


 それが、私のモデルの(イ)の〈「システム」とその関係の歩み〉をさらに推し進めていくことは間違いない。それによって、B、Cを構成する諸国では、Ⅰ期からⅡ期、そしてⅢ期の高度化の段階を目指すことが可能となるのだ。だがそれは、逆にAを構成するかつての先進諸国が、Ⅰ’期、Ⅱ’期そしてⅢ’期の低度化の段階を深化させていくことにおいても、同様に大きな影響力を発揮する、と私は、これまた何度も、拙著や拙論、ブログ記事等々で、論述してきたとおりである。(続く)



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№71私の語る「システム」論から、改めて前回記事での①②と③の関係を捉え直すとき

2023-09-21 | 日記

№71私の語る「システム」論から、改めて前回記事での①②と③の関係を捉え直すとき




(最初に一言)


 簡単に言えば、①②で紹介した強者と弱者の、親分と子分の、そして差別し排除する側と差別され排除される側の関係を担い支える私たちの多くは、③の香港デモの若者の側に寄り添いながら、彼らの求める自由の実現を手助けする構図となっているということである。NHKBS1の報道もそれを背後から応援しようとしている、と私はみている。これらの関係について、以下に論及していきたい。




 ①②の関係を前提として、そこからつくり出される自由と、③の香港の若者が求める自由とは、私から見れば同じものとしか映らない。それを踏まえるとき、③の若者が理想化する自由をつくり出す関係は、一体どのようなものなのか。私の語る「システム」論を基にして、その関係を考えてみたい。


 先ずは、香港が中国からイギリスに割譲されるというか、奪い取られたころの関係を見てみよう。


 イギリスはアヘン戦争とその後の中国への侵略戦争を繰り返しながら、中国を、大英帝国下の植民地に組み込んでいく。1997年のイギリスからの香港返還に至る関係は、まさにこの時期の両国の関係に端を発している。福沢諭吉の『文明論の概略』に従うとき、当時の国際関係は〈「文明」-「半開」ー「野蛮〉」の強者と弱者の、親分と子分の、差別し排除する側と差別し排除される側の関係として描かれる。


 イギリスは19世紀中頃には、覇権国としての地位を固め、世界に君臨していた。そのイギリスはこの福沢の図式で描かれる「文明」の先頭に位置しながら、17,18,19世紀の初頭頃までは、当時のアジアで、あるいは世界で最も豊かであったインド地域や中国を、侵略戦争で打ち破り、これらの両地域を先の図式の関係の中に組み込む中で、それらの富を収奪した。その結果として、インドや中国を始めとするアジアの多くの地域は、半開や野蛮の地位に、とくに後者の地位に貶められることになった、と私はみている。


 こうした福沢の図式を踏まえながら、そこに経済発展と民主主義の発展の関係と覇権システムを大枠としたモデルにつくり替えたのが、私の例の「システム」論であると考えてもらって構わない。1970年代に至るまでの「システム」とその関係は、(ア){[Aの経済発展→Aの民主主義の発展]→(×)[Bの経済発展→Bの民主主義の発展]→×[Cの経済発展→Cの民主主義の発展]}として、また1970年代以降から今日に続く「システム」とその関係は、(イ){[Bの経済発展→Bの民主主義の発展]→(×)[Cの経済発展→Cの民主主義の発展]→×[Aの経済発展→Aの民主主義の発展]}として描かれる。


 さらに、このモデルに加えて、以下の通時的モデルが相互に補完し合う関係を構成している。それは、「システム」とその関係の歩みが「高度化」の段階を迎えるⅠ期、Ⅱ期、Ⅲ期の時期と、逆に、「低度化」の段階を迎えるⅠ’期、Ⅱ’期、Ⅲ’期のそれぞれ三つの段階の時期に区分される。なお、この低度化の段階を辿るのは、当分の間は、Aのかつての先進諸国グループであり、BやCのこれまで途上国とされていたいわゆる「グローバル・サウス」を構成するグループでは、高度化の段階を辿る以外の道はない。さらにそれぞれ段階の時期は、前期、中期、後期に三区分される。これらについては、既に何度も紹介しているが、行論の都合上、いかにそれらを示しておく。


「Ⅰ期の段階の政治の特徴」


[権威主義的性格の政治→経済発展]


「Ⅱ期の段階の政治の特徴」


[経済発展→分厚い中間層の形成]


「Ⅲ期の段階の政治の特徴」


[分厚い中間層の形成→民主主義の発展(高度化)]




「Ⅰ’期の段階の政治の特徴」


[民主主義の発展(高度化)→経済発展]


「Ⅱ’期の段階の政治の特徴」


[経済発展→分厚い中間層の解体]


「Ⅲ’期の段階の政治の特徴」


[分厚い中間層の解体→民主主義の発展(低度化)]


なお、先述したように、これらの段階の時期は、さらに前期、中期、後期に三区分される。


 さて、これらのモデルを使って、③の若者が望んでいた「自由」をつくり出す関係について、さらに論究していこう。19世紀の中頃におけるイギリスと中国の関係は、(ア)のモデルで描くAの先頭に位置したイギリスとCに位置した中国との、強者と弱者の、親分と子分の、差別し排除する側と差別され排除される側の関係を前提にしている。その時期のイギリスは、Ⅰ期の段階の政治の特徴を示す、[権威主義的性格の政治→経済発展]を経て、Ⅱ期の[経済発展→分厚い中間層の形成]の前期の段階を卒業して、中期の段階の入り口に差し掛かろうとしている。


 この時期のイギリスは、それゆえ、なお国内においても権威主義的な抑圧政治が続いている。もっとも、その力(暴力)の度合いは1830,40年代頃まで続いたそれと比較したとき、弱まったとはいえ、なお継続中である。他方、対外的には植民地のさらなる拡大を目指す帝国主義の歩みの真っただ中にあるという意味では、権威主義的暴力的、抑圧的政治が国内国外において、展開されていた、と私は言わざるを得ない。③の若者たちの求める自由は、こうした当時の関係を前提として実現されたものであるとすれば、彼らはどのように思うのだろうか。


 さて、1970年代を分水嶺とするかのように、先の「システム」とその関係の歩みは、(ア)から(イ)へと構造転換・変容する。換言すれば、これまでの強者と弱者の、親分と子分の、差別し排除する側と差別され排除される側の関係が、その攻守立場を逆転するに至るということである。勿論、これもまたこれまで何度も注意・留保を促したように、これから実現される「システム」とその関係であることを明記しておく必要がある。それを断った上で言えば、1997年前後の頃のイギリスと香港、そして中国の関係は、Bの先頭に中国が、Aの先頭集団にイギリスと香港が、それぞれ位置している。


 そして、その中国は、Ⅰ期の段階の政治の前期を経てⅡ期の前期の段階を終了して、中期の段階の入り口に差し掛かったところだ。まるで、19世紀の中頃のイギリスがたどった段階の政治の特徴と類似している。その権威主義的、暴力的、抑圧的政治に対して、③の若者たちが激しく反発してデモを繰り返している。それを中国政府は上から強硬的強圧的に解散させたのだ。このやり方も、先のイギリス政府の権威主義的暴力的抑圧的政治手法に反発して、デモを展開したイギリスの労働者階級や中流階級の集団が、上からの弾圧で蹴散らされた歴史と酷似している、と私はみている。


 そのイギリスと香港の政治の段階は、香港返還の前後の時期には、(イ)の「システム」とその関係の歩みの中のAに位置し、Ⅰ’期の段階から、Ⅱ’期の段階を経て、Ⅲ’期の段階の前期に差し掛かっていた。この段階では、もう民主主義の発展はその低度化の局面を迎えており、それは民主主義の発展の「成熟」云々のきれいごとでは決して語れないような、腐敗集の漂う政治が横行している。もはや国民の命と暮らしを守る共同体としての国民国家は解体され、後に残されたのは、国民のほとんどが排除された主権国家でしかない。


 その国家では、至る所で自由が簡単に手に入る。ただし、それは生きる自由も死ぬ自由も同様に扱われた自由であり、どこの誰が孤独死しようが、野垂れ死にしようが、強盗に入られて殺されようが、ほとんど政治の介入が期待されない次元における自由なのだ。③の若者たちは勿論、こんな自由を手に入れようとはしていないはずだ。


 だが、アヘン戦争から、今日に至る間、私たちの手にした自由は、それは民主主義や人権や法の支配等の普遍的価値も含まれるのだが、すべてはここで私がモデルで示したように、強者と弱者の、親分と子分の、差別し排除する側と差別され排除される側との関係を前提として実現されたものばかりではあるまいか。少なくとも、私はそう考えている。




(最後に一言)


 今回記事はここまでとしたいのだが、とくに18-19世紀転換期から19世紀中頃にかけて、イギリスに、今回記事で紹介した権威主義的、暴力的抑圧的政治四方を採用させたのは、一体どこの誰だったのか、また、それは一体何のためであったのか。それらの問いに関して、私たちは是が非でも向き合うことが求められているのではあるまいか。それは同様に、20-21世紀転換期から今日の時点に至るまでの中国の政治を考える際にも、不可欠な問題意識であるに違いない。③のような若者たちが、これから更に悲惨な人生を歩まないで済むように、そのためにも私ができることを、私はしなければならないはずだ。たとえ、ほとんど何の見返りが期待できないとしても。



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№70私たちの身体の奥深く潜んでいるあの「残酷さ」は、一体どこからくるのかー私の語る「システム」論から、改めて覇権システム内の「人間関係」(諸個人、諸集団・諸共同体間関係)に見いだされる「強者」と「

2023-09-20 | 日記
№70私たちの身体の奥深く潜んでいるあの「残酷さ」は、一体どこからくるのかー私の語る「システム」論から、改めて覇権システム内の「人間関係」(諸個人、諸集団・諸共同体間関係)に見いだされる「強者」と「弱者」との「持ちつ持たれつ」の、あるいは、その「共犯」関係を問い直すとき(続・続)




(最初に一言)


 「白杖に伝わる人の優しさと残酷さ」について、私はその「源」をいろいろと思案してきた。おそらくは、それは私も語る〈「システム」とその関係の歩み〉を担い支え続けてきた人間関係(諸個人、諸集団、諸共同体とそれらの相互間関係)に端を発しているのは間違いないと思うのだが、私の中では、なおしっかりとした理由付けはできないままであった。だが、最近のここ数回に及ぶ連続?したブログ投稿記事において、何かが私の視界の中に入ってきたように思われる。


 今回記事では、それをオムニバス風に論及してみたい。先ずは①に引用貼り付けした記事から始めることにしよう。


①―ーー(引用貼り付け、開始)ーーーバスで障害者手帳出したら「舌打ちされた」 難病公表の俳優、乗客に暴言吐かれ唖然「心にまで突き刺さる」
c J-CASTニュース


俳優の間瀬翔太さんが2023年9月14日、バスで障害者手帳を運転手に提示したところ、後ろの乗客から舌打ちされ、「早くしろよ」などの言葉をかけられたとブログで明かした。


間瀬さんは10万人に1人という難病「脳動静脈奇形」を患っていることを公表している。過去には、病気の後遺症で脳出血を起こし、てんかんを発症したため、障害者手帳(精神障害者保健福祉手帳)を交付されたことを明かしている。


「世の中の僕以外の障害者の方達もこういう扱いをされている事がある」
間瀬さんは「障害者手帳に舌打ち。コレで2度目」と題したブログで、「なんか障害者手帳を出したら舌打ちされたシチュエーション。懐かしいですね。これで2度目になりますが、良かったら聞いて下さい」と切り出した。
バスを利用した間瀬さんは、乗り込んだ際に手帳を運転手に提示。運転手は「あ、少々お待ち下さいね」と笑顔で応対してくれたそうだが、間瀬さんの後ろで乗車を待っていた高齢男性から「チッ!」と舌打ちをされたという。


間瀬さんは、「最初は、聞き間違えかな?と思って無視をしていたんですが 持っていた傘で入口付近をカンカン叩いたり、わざと聞こえる様な声で『早くしろよ』と言ってくるんです」と男性の言動を明かした。


手帳を提示し、運賃を支払うまでに要した時間は約10秒だったといい、間瀬さんは「障害者手帳の表示をバスでした事がある方は分かるかもしれないんですが、手帳の提示から機械の操作、そして支払いまでは本当に10秒以内だと思います」とした。


間瀬さんは、「確かに待たせてしまって申し訳ないのは自分なので、文句も何も言えないんですが」としながら、「世の中の僕以外の障害者の方達もこういう扱いをされている事があるのが事実です」と訴えた。


「なりたくて障害者になった訳でも無い」
当時は雨が降っていたが、男性は乗車を待つ間に濡れないよう車内に入っていたという。その後、男性は間瀬さんの一つ後ろの席に座ると、「寒いんだよ」「ふざけるな」など何度も暴言を吐いたとしている。


間瀬さんは22年のブログで、タクシーの運転手に手帳を持っていると伝えたところ、「思いっきり舌打ち」されたことを明かしていた。今回のブログを公開した理由について、間瀬さんは「去年のタクシーの障害者手帳の時よりも個人的には酷かった内容だったのでブログに書かせて頂きました」と説明している。


間瀬さんは、「体調が本当に悪くて、一瞬で気絶したり、記憶を失ったり、僕もなりたくて障害者になった訳でも無いし、生まれつき10万人に1人の難病持ちなのに、なかなかヘビーなパンチはたまに心にまで突き刺さるよね」とコメント。「ただ、今回の事件も思う事。僕で良かった。他の障害者の方じゃなくて良かったです」とつづると、「明日も皆さんの心に光があります様に」と締めくくった。―ーー(引用貼り付け、終わり)ーーー


 ここにあるくだりを読みながら、私も似たような場面に出会ったことを思い出す。正直、視覚障碍者になる以前は、おそらくその舌打ちした高齢男性と同じ気持ちであった私だが、当然ながら、そんな悪口や傘でたたく行動はしなかった、したくてもできなかったのだが、それが視覚障碍者になった途端、形成は見事に逆転となるのだから、もし障碍者とならなかったなら、私には到底、このニュース記事にある間瀬さんの残念なつらい気持ちなど、決してわからないままであったのは確かだろう。


 タクシー運転手に関しては、それはある面で乗務員に同情する。おそらくは、障碍者に対する割引運賃の全額かその一部を、タクシー会社によっては、乗務員が支払うことになっているからだ。私はたまたま乗り合わせた視覚障碍者のボランティアから、それについての複雑な運用手続きを教えてもらった。それ以降、私はタクシーを一度だけ利用したが、後はまったくない。


 そこにはいろいろな私の葛藤や行き場のないやり切れなさがったのは確かだが、外に出たくないのだ。自分の力で出れない以上は、もうあきらめるしかない。それでも我慢できなくなる時は、妻に頼んで散歩に連れて行ってもらうが、これも引け目を感じている。病院や散髪に出かけるときも、申し訳なさが募り、これまた私にはストレスとなる。もっとも、妻は本当に私に献身的態度で接してくれている。いつでも私が頼めば、支障のない限りは、私の外出を手伝ってくれる。それはとてもありがたい限りだが、それでもそんなに簡単にはいかない。すべては私の事情によるのだが。この気持ちと言うか感情を言葉でうまく表現できないのが、もどかしい。


 おそらくは、私と似たような気持ちを一度や二度、否いつも感じている障碍者がほとんどではなかろうか。私は白杖をもう使うことはない。白杖を持っていても、他の歩行者には邪魔になるだけだろう。その前に、白杖の意味を知らない。すべての者が全盲であるとしか思っていないから、少しでも見えている視覚障碍者には「なんだ、こいつ、見えているじゃないか」となるのだろう。その視覚障碍者がどんな心細い思いで歩いているのか、推察する能力もないに違いない。


 勿論、私もそんなエラソーなことは言えない。私自身も、目は若い頃から相当に悪かったくせに、視覚障碍者や障碍者には、それこそ冷淡・冷酷かつ残酷な接し方をしてきたのは、事実である。それにしても、どうしてなのか。私より弱いと思われる立場の人間に対して、社会の中でそれほど強くもない、むしろ普通に弱い私のような人間が、どうしてこうも強くなれるのか、不思議であった。


 ここには、おそらく私たちの人間関係における自己決定権の獲得とその実現を巡る力(暴力)と力(暴力)のぶつかり合いをとおして繰り返される争奪戦を介してつくり出される「親分ー子分」関係と差別と排除の関係を当然とする私たち社会の中の何某かの「教育」が、色濃く反映されているのではなかろうか。すなわち、自分よりも強い者には徹底して媚び諂い、弱い者には、逆に上から目線で冷たくあしらう、そうした人間関係を当然とする教育である。


 この教育は、学校教育の人権教育と何も矛盾しない。それは、本来なら相当におかしく疑問視されるはずなのだが、まったくそうならないのだ。その証左として、学校でいじめはなくなるどころか、繰り返されるだけではないか。ここにも、覇権システムにおける「親分ー子分」関係とそれと連動した差別と排除の関係からつくり出される強者と弱者の関係を規定する人権の関係がが、そうした人間関係と表裏一体となっている。この強者―弱者間の人間関係とそこに見いだされる人権の(格差)関係は、まさに学校や職場を始めとして社会全般に共通している、と私はみている。


 こうした人間関係は、諸個人間だけに限られない。より大きな諸集団や諸共同体関係においても、同様に見いだされる。そうした人間関係をすべからく集合した関係が、何度も言うように、覇権システムということになる。それゆえ、この①のバスにおける、あるいはタクシーでの人間関係は、そうした小さな空間において垣間見られる関係ではなく、覇権システムにおいても当然ながら、垣間見られる関係である。換言すれば、こうした覇権システムにおける人間・人権関係が、それこそ私たちの日常生活の人間関係に至るまで通底しているということに他ならない。


 たとえば、どこかの貧しい共同体とそこに暮らす人々が、より豊かで強い共同体とそこに暮らす人々に、何らかの助けを援助を願っているときに、それが無視されたり歓迎されないとすれば、そこに見い出される人間関係は、①のバスやタクシーの空間における人間関係と変わるところがない、と私はみている。こうした①の関係を語る私には、今もって忘れられない苦い思い出がある。それが次に述べる②である。


②私の記憶に強く残る帰宅を急ぐサラリーマンや学生で満杯となったバスが後もう少しで出発しようとしている丁度その時に、車いすに乗った男性が乗車口でバスに乗ろうとした際の出来事だ。もう読者にはお分かりだろう。その人は、バスの運転手から、次のバスを待つように指示された。この状況において、いろいろな場面が想定され、そこからまた解決策もそれぞれ異なってくることは明らかだから、簡単にまとめることはできないはずだろう。
 
 それを断った上で、あえて言うならば、バスに乗っている者は誰も、無言であった。極めて冷静に、その場面を見ていた。無関心な態度でもって、否まったく何の感情も怒らないのだ。それが当然なのだ。混雑している空間に、それももうすぐ出発しようとしているその時に、どこに車いすを設置するスペースがあるのかも、わからないほどに牛ぎゅう詰めの社内に、どうやって、という空気感が漂う。否、これもまた違う。そんな思いなどほとんどの乗客は抱くはずもない。これは日常の見慣れた風景であり、弱者は、ここでもある種の決まりに従うしかないのだ。


 これもまた①と同じである。ただし、この車いすの乗客が、別のすぐにわかる権威とか権力を持ち合わせていたならば、先の場面はおのずと変わる可能性は大となったはずだ。岸田首相であれば、どうであったろうか。残念ながら、彼ひとりであればどうすることもできないはずだろう。取り巻き連中が、すったもんだして、それこそいろいろなお土産を掲げながら、何とか座席の確保をしたに違いない。


 その際、誰かは確実に、その「しわ寄せ」を喰らうはずだ。勿論、彼や取り巻きが市内バスなど利用はしないから、あくまでも架空の話だが。いずれにしても、きょうしゃは、はがゆくなるほどに、「親分ー子分」関係に胡坐を汲み、のうのうとイイ思いをするばかりなのだ。弱者の子分は、それを批判や避難をしても、その関係それ自体を、今よりはよりましな関係へとつくり替えようとはしない。残念なことだが、弱者も何とかして機会をうかがい、より力を持つ強者に、口の利ける親分になろうと、必死に生きるのだ。


③昨日(2023、9,19)のBSNHK1 チャンネルで、午後5時から6時近くに放送されていた香港での自由がなくなった趣旨のドキュメンタリー番組で、その中の主人公である香港に暮らしてきた若者が、イギリスから中国への香港返還以降の中国による香港への介入でこれまで享受できていた「自由」が次第に奪われて、それが「国安法」の施行後ますます顕著となり、その若者は香港からその後、ウクライナに向かい、そこでで自由を求めて戦うことになる。番組内で、若者は自由のためには戦わなければならないのかと問いかけながら、ウクライナで自由を感じていると紹介されていた。


 正直、このドキュメンタリー番組には失望した。中国本土からの介入によって、失われていく香港の自由を取り戻そうとする香港のデモで、香港のデモ参加者の若者たちが取り戻したい自由は、香港を中国から奪い去ったイギリス帝国の帝国主義の歴史と密接に関係している。イギリス統治下の香港における自由とその享受を可能としたのは、他ならぬイギリスの中国に対する植民地政策のたまものであったはず。


 その当時のイギリスとその国民が謳歌した自由は、こうした帝国主義を介して展開された強者の親分と弱者の子分との差別と排除の関係の形成と発展の歴史に由来しているのは言うまでもない、と私はみているのだが、そんな差別と排除の関係を刻印された自由や人権の問題点を一顧だにすることもせずに、自由が中国によって奪われた云々の話だけでは、内容はとても貧弱極まりない話になるのは当然だ。


 さらに、かわいそうなことに、この若者は、ウクライナの政治体制が「ネオ・ナチ」体制によって牛耳られているとする「公然の秘密」にさえ気がつかない。ここでもNHKBSの報道の罪は度し難い限り。ただ、何度も言うように、NHKを批判・非難しても仕方あるまい。覇権システムの形成・発展・存続に与る世界の親分連中が提供する日本におけるメディアの一つだから、何を言っても仕方がないのだが、いずれにしてもこの若者にかける言葉を、私は持ち合わせていない。なお。誤解のないように、すぐ上で、NHKを批判・非難しても仕方がない云々と、私は述べたのだが、誤解のないように、他の論者がどんどんそうした批判・非難をするのを私は期待してやまない。




(最後に一言)


 今回記事の①②③の出来事は、相互に関連しながら、おそらく一つの流れを構成しているのは確かである、と私は考えている。すなわち、それは私の問いかけている「残酷さ」の源について、さらに考察する必要を、私たちに問いかけるのではあるまいか。なお、人の優しさは、今も私にはうわべだけの表面的な偽善的な域を超える者ではないと、これまで考えてきたが、それはここでの残酷さと見事に表裏一体の関係を成している、と私には思えて仕方がない。


 誤解のないように申し添えておくが、私はそれを悪いから直す必要があると言いたいのではない。ここでも、それはほとんど困難なことであり、仕方がないというしかないのだ。私たちが「システム」を担い支えているシステム人であることを自覚し、それを恥じて何とかその存在を「超克」しない限りは、無理なのだ。さらに言えば、私たちは人間の仮面をかぶったシステム人であることを、自覚できるまでは、何をやってもどうにもならない、と私はみている。


 これまた無理な無駄な主張であるのは、重々承知の上のことだ。「少し、最近またこれではもう、私はおしまいだ」と痛感することがあったので、拙宅で、国内政治や国内政治を含めた政治談議のお茶飲み会でも、と考えている。これほどにズボラな私が、そんなことを、ホントかいなあ、と。要するに、もう時間がない、私の寿命のことだが、それもある、否それが一番かも。



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№69私の語る「システム」論から、改めて覇権システム内の「人間関係」(諸個人、諸集団・諸共同体間関係)に見いだされる「強者」と「弱者」との「持ちつ持たれつ」の、あるいは、その「共犯」関係を問い直すとき

2023-09-15 | 日記
№69私の語る「システム」論から、改めて覇権システム内の「人間関係」(諸個人、諸集団・諸共同体間関係)に見いだされる「強者」と「弱者」との「持ちつ持たれつ」の、あるいは、その「共犯」関係を問い直すとき(続)




(最初に一言)


 ここ数回の記事において、読者に是非とも銘記してほしい点を、箇条書きの形で、まとめてみたい。これまた、同じことの繰り返しで申し訳ないが、それでも何かが偶然に思い浮かぶかもしれないので。


①私がいつも述べているように、諸個人、諸集団、諸共同体間における自己決定権の獲得とその実現を巡る力(暴力)と力(暴力)のぶつかり合いを介して繰り返される争奪戦をとおして導かれる「親分ー子分」関係とそれに伴う差別と排除の関係、そしてそうした人間関係のありとあらゆる集合体としての覇権システムの中で、私たちは生きている・生きていかざるを得ないということ。


②その覇権システムは、私の語る「システム」を構成する下位システムであると同時に、世界資本主義システム、世界民主主義システムの下位システムとは、「三位一体」的関係にあり、それらの三つの下位システムが一つの「システム」を構成しているということ。


③これらの下位システムと「システム」との関係は次のようになっている。先ずは「親分ー子分」関係とそれを前提とした覇権システムが出現する。その覇権システム内で、親分連中に都合のいいように、「衣食足りて礼節を知る」の営為の関係がつくられていく。


④それゆえ、子分たちにはとても受け入れられないような、「衣食足りず礼節を知らず」の営為の関係が押し付けられる。そしてそこから、いつしか覇権システムを前提としながら、「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係が、次第にグローバルな形で発展する。


⑤私は、その覇権システムの中でつくられる「衣食足りて(足りず)」の営為のグローバルな関係を、世界資本主義システムに、また「礼節を知る(知らず)」の営為のグローバルな関係を、世界民主主義システムとして、位置づけ理解している。


⑥ここに、覇権システムを基礎としながら、世界資本主義システム、世界民主主義システムの三つの下位システムから構成される一つの「システム」がつくり出される。


⑦これらみっの下位システムは相互に補完し合う関係を創ると同時に、三位一体的関係としての「システム」の形成と発展、存続に与ることになる。


⑧それゆえ、「親分ー子分」関係とその差別と排除の関係、その集合体としての覇権システムを、私の語る「システム」から、便宜的に取り出して私が何かを論じているときにも、その関係と覇権システムには、いつも世界資本主義システムと世界民主主義システムとそれらの関係が埋め込まれているということを、銘記してほしいのだ。


⑨それは、また世界資本主義システム、世界民主主義システムをそれぞれ個別に独立した形で語る際においても、同様に、そこには覇権システムと、他のシステムが組み込まれている(埋め込まれている)ということを、忘れないでほしいのだ。


⑩それらの点を踏まえるとき、私がここ数回の記事で、「親分ー子分」関係とか差別と排除の関係を基にしてつくり出された覇権システムについて論じている際に、読者は是非とも、その覇権システムと三位一体的関係にある「システム」のその他の下位システムである世界資本主義システムと世界民主主義システムが、組み込まれた・埋め込まれた覇権システムを、私が語っていることを、銘記してほしいのである。




(最後に一言)


 今回記事は、私のモデルで描く、私の語る〈「システム」とその関係の歩み〉を、私のブログ記事に興味を持つ読者に、何としても伝えておきたいとの思いから、まとめた次第。もしよければ、頭の中で何度も考えてみてほしいものである。そうした訓練の一助になれば幸いだが、拙著の中野モデルが示されている個所だけに注目しながら、そこで私がどのようなことを考えていたか、お付き合いいただければ、と願う次第だ。


(付記)


 記事を書いていて思い出したことがあるので、少しそれについて書いておきたい。


 中根千枝氏の『タテ社会の人間関係』を、私の差別と排除の関係を前提とする「親分ー子分」関係と結び付けて論じてみたら、あの当時の日本における「歴史叙述の神話」の問題点が何か見えてくるかもしれない、と感じた。そこに、「和の社会」とか、「間柄」とか、個人主義対集団主義とか、兎に角、そんな議論で、私たちが見失ってきた、もっと大事な問題の所在に、私は読者が気づくことを、ここでも願うだけ。


 誤解のないように付言すれば、中根氏やその他の日本文化論に関する多くの著作は、私に考えることの大切さを教えてくれたのは言うまでもない。中根氏の著作は、日本社会の抱える問題点を、的確に描いていたように、当時の私にはそう思われたし、今もおそらくは、日本文化とその問題点を鋭く描いているのは間違いない。だが、無いものねだりかもしれないことを断った上で、中根氏が指摘した日本の人間関係の特徴とされるものは、そもそも一体、どこに由来するのか。いずれにせよ、その問題究明に、私たち後世の者たちは取り組むべきであるのは確かである。



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