私の語る「システム」論から、〈「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち(負け)続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウ〉との関連において、改めて「戦争」と「センソウ」を再考するとき
私の語る「システム」論から、〈「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち(負け)続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウ〉との関連において、改めて「戦争」と「センソウ」を再考するとき
(最初に一言)
ロシアのウクライナ「侵攻」に見られる「戦争」と、巨大な力を有する多国籍企業・大企業による中小・零細企業・個人に対する「シンコウ」に見られる「センソウ」の間には、動員される資金や人数の違いはあれども、基本的な構造(差別と排除の関係)においてはその「同質性」を有しているのではあるまいか。
私たちは、前者の「戦争」には驚愕して、それこそ「そんなことは絶対に許されない、あってはならない」と厳しく糾弾するのだが、後者の「センソウ」に対しては、ほとんど当然の如く納得して、「それが社会というものだ、悔しかったら努力して打ち勝つだけだ」云々と、さも当然のように理解し納得しているのだが、これではこの世から「戦争」をなくすことなど、到底できない、と私はみている。
その意味では、私たちの「戦争」に対する見方が「おかしい」のではあるまいか。逆に言えば、それは「平和」に対する見方がおかしいということにもなるだろう。さらにそこから、自由とか民主主義とか、人権といった普遍的価値とその実現の歩みである普遍主義に対する見方もまた、おかしいということにもなってくる。
たとえば、今回記事のタイトルにある「平和な民主主義」社会の実現とは、平和や民主主義といった普遍的価値の実現された社会ということなのだが、すなわち普遍主義の社会ということだが、その社会の実現のためには、勝ち・負け続けなきゃならない世界・セカイとそこでの戦争・センソウが必要不可欠という話ということなのだが、おそらく多くの人たちは、たとえば第9条論者の人たちには、それこそ「戯言」として受け入れることなど許されないのかもしれない、と私は推察している。
だが、私に言わせれば、そうした見方や理解の仕方こそが、「おかしい」のである。前前回記事〈私の語る「システム」論から、気になる社会の「出来事」を再考するときー「トー横キッズ」、「個人請負という名の過酷な偽装雇用」、「現代の奴隷制と化したコンビニ」、そして「露・独間の天然ガスパイプラインの稼働認可手続きの停止」問題に関してー〉(2022,2,24)で、私が論述していたことは、まさにそうした私のおかしいと考えてきた問題を俎上に載せて問い直す作業であった。
たとえば、〈(*)については、「阿修羅・総合アクセスランキング(瞬間)」に投稿掲載された〈個人請負という名の過酷な”偽装雇用”(東洋経済)http://www.asyura2.com/21/hasan135/msg/693.html投稿者 蒲田の富士山 日時 2022 年 2 月 21 日 15:23:31: OoIP2Z8mrhxxipeTY4LMlXiObY5S〉を参照されたい。〉や、〈(**)については、「阿修羅・総合アクセスランキング(瞬間)」に投稿掲載された〈“コンビニは現代の奴隷制度”大手コンビニ元社員らが衝撃の内部告発! マスコミが報じない惨状と卑劣な手口(リテラ)http://www.asyura2.com/17/hasan123/msg/495.html投稿者 赤かぶ 日時 2017 年 9 月 04 日 16:07:10: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU〉を参照されたい。〉において、私が読者に考えてほしかったのは、そこに取り上げられていた大企業による力の弱い個人に対する傍若無人とも思われる無責任極まりない「イジメ」の関係は、まさに現下のロシアのプーチン大統領によるウクライナの住民に対するそれに酷似してはいないだろうかとの私の問いかけでもあったのである。
そこには、前々回記事で私が指摘していたような関係が垣間見られるのだ。行論の都合上、以下に、そのくだりを引用貼り付けておきたい。すなわち、ーーートー横に集まる子供たちがつくり出されていく背景を考えていくとき、私の語る「システム」論で提示される覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムの三つの下位システムから構成される「システム」に突き当たるのではあるまいか。その最初は、個人や集団や共同体(国家)間における自由とか主権として位置づけられる自己決定権の獲得とその実現をめぐる力(暴力)と力(暴力)の争奪戦を介した親分ー子分関係に見る差別と排除の関係を前提として作られてきた覇権システム・
次に、その覇権システムを構成する親分ー子分関係を前提として、親分に都合のいい、それゆえ子分にはたとえ理不尽な関係だとしても、「衣食足りて礼節を知る」の営為とその関係のネットワークが張り巡らされていく。それは、当然ながら、子分においては、「衣食足りず礼節を知らず」の営為とそのネットワークも同時並行的に作られていく。
そこから、力のある個人、集団、共同体から、力のないそれらの間に、私の語る「システム」論で提示している{[Aの衣食足りて(経済発展)→礼節を知る(民主主義の発展)]→[Bの衣食足りて・足りず(経済発展)→礼節を知る・知らず(民主主義の発展)]→[Cの衣食足りず(経済発展)→礼節を知らず(民主主義の発展)]}の営為のグローバルな関係のネットワークが作られてきたということなのだ。なお、このモデルは1970年代までの世界・セカイの関係を示すものである。また、以下のモデルでは、(経済発展)、(民主主義の発展)は省略していることを、ここで断っておきたい。
個人間、集団間、共同体間においても、先の図式のような関係が成立すると同時に、それらの関係にはすべて、差別と排除の関係が刻印されている。それゆえ、たとえば、私たちが後生大事に唱え続けてきた基本的人権とその実現に関しても、こうした差別と排除の関係が該当することから、私がこれまで何度も言及してきたように、{[Aの人権]→(×)[Bの人権]→×[Cの人権]}の関係が成立することになる。ーーー。
私はこれまで拙論において、これでもかというほどにこうした話を繰り返し述べてきたのだが、それにもかかわらず、いまだに私のこうした見方に関する支持は、それほど大きくはない、と私自身は理解している。誠に残念至極というしかないのだが。それゆえ、今回のウクライナ危機においても、多くの人たちが、その危機の背後に隠されている問題を直視できないのも当然だと、私はみている。
私が、それ以上に困惑したというか寂しく感じたのは、いわゆる知識人とされている人たちも、ごくごく「平凡な感覚」の持ち主であるということを、いまさらながら痛感したことである。そこには、彼ら専門家といえども、普遍的価値とか普遍主義に対して何ら疑うことなく、素直に受容してきたという事情があるに違いない。これでは、どうしようもないということなのだ。
当然ながら、彼らは、〈私がこれまで何度も言及してきたように、{[Aの人権]→(×)[Bの人権]→×[Cの人権]}の関係が成立することになる。〉などとは考えも及ばないのは明らかだろう。ましてや、そうした人権の差別と排除の関係を、自己決定権の獲得とその実現を巡る力(暴力)と力(暴力)の争奪戦を介した「親分ー子分」関係にみる差別と排除の関係を前提としてつくり出されてきた覇権システムと結び付けて考察することなど、さらさら期待できないであろう。
そこからまた、彼ら専門家と称された者たちが、私が今回記事の(最初に一言)で提示した問題の意義と意味に関しても、理解できないのも当然だということになってくるに違いない。これでは全くどうしようもないというか、どうにもならないではないのか。メディアで報道されているウクライナ危機を巡る専門家やジャーナリストと称される人たちの発言を聞きながら、私は別の深刻な危機を考えざるを得なかったのだ。
(最後に一言)
その危機とは、私たちが永久に、私たちが置かれ続けている危機的状況・状態から抜け出せないという知的レベルにおける危機である。そこには、私たちの情報がいつも米国を起点とした「大本営発」という知的偏りもさることながら、それ以上に、私たちが自らの頭でもって、いわゆる世間の常識(すなわち、「歴史叙述の神話」)とされてきた話を、根本から根底から問いただすことのできる姿勢や能力を欠如してしまっているという恐ろしい問題が横たわっているのではあるまいか。
(付記)
前々回記事の最後のくだりにおいて、私は以下のように述べていた。すなわち、ーーー今回記事で取り上げた「出来事」を、トコトン問い詰めて考察するならば、私の語る「システム」論で、私がいつも記事の中で読者に問いかけている覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムの三つの下位システムから構成される一つの「システム」の抱える差別と排除の関係に、私たちは当然のことのように、目を向けるはずであろう。そうした途端、売春を援助交際に、覇権国を超大国と言い換える社会の抱える差別と排除の関係が見えてくるに違いない。と同時に、そうした社会の抱える息苦しさから逃れようとして喘いでいるトー横の子供たちの中に、私たち自身の姿を垣間見ることができるに違いない、と私は思い至るのである。ーーー、と。
まさに、私たちは「トー横キッズ」の存在よろしく、いろいろな場面で、私の語る「システム」から都合のいいように利用され、気に入られなくなった途端、所かまわずに差別され排除されて、見捨てられてしまうのだ。それが怖いので、私たちは「システム」にしがみつく、へばりつくしかないのである。
しかしながら、トー横の子供たちと同じように、一度や二度は、その「システム」から自ら進んで離れようと「跳躍」した経験があるに違いないのだが、残念ながら、その足を踏みとどめても大丈夫だと思われる「地点」など、どこにも見当たらないことに、結局は気が付き、またまた、どうしようもない「システム」の中に引き込まれてしまうだけなのだ。
その意味では、家の中で、あるいは社会の中で、閉じこもっている、引きこもって生きている人間は、本来ならば、美しく汚れなき生き方を何とか保持したいともがいている存在であるにもかかわらず、「システム」の抱える問題を見過ごして生きる者たちが大半であるために、また昔の自分で生きているものの存在が疎ましくなることから、尊き存在を、かき消そうと努める差別と排除の関係から成る「親分ー子分」関係の支配する世の中から、軽くあしらわれてしまっているのである。
言うまでもなく、その親分とは、方や「欧米諸国グループ」と称される集団の組長たちであり、方や「中・ロ・北朝鮮・イラン・グループ」と称される集団の組長たちである。そのいずれの集団・組長たちも、差別と排除の関係を当然のもの、所与のものとする生き方を支持礼賛しているのである。その意味では、まさしく「同じ穴の狢」であり、裏の裏のまた裏というか、奥の奥では、私の語る「システム」を担い支えあうことによって、つながっている集団・組長たちなのだ。
そして、私たちはといえば、そのいずれかの陣営に属しながら、表向きはきれいごとを言いつのり、相互に相手の集団なり親分たちを誹謗中傷してはいても、その生き方においては、誰しもそん色のない「システム人」たる存在なのだから、当然、トー横の子供たちにはケギライされても仕方あるまいなあ、なのだ。