最近少し忙しく、また年のせいで眠れないといいますか、すぐ目が覚めてしまいまして、しばらく記事を書くのをやめようと思ってましたが、今日もまた朝の3時過ぎに起きてしまい、悶々としながら、記事を書きました。それから今また、柄谷さんとキッシンジャーの「世界秩序」について、最後の方で書き足しました。そして再度、投稿しています。
(少し時間がありましたので、記事を書きました。)
「戦略的護憲派」と「覇権システム」と「格差社会」の関係を考える(8)
最新作の拙著『21世紀――』と、それまでの『覇権システム下の-――』、『日本人と民主主義』の「主張」の違いについて、話しますので聞いてください。
私は、それまでは憲法(普遍主義)を護ることは覇権システムを守ることを意味するのであり、それは私のモデルのセカイの「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係史とその歩みを支持してしまうことを意味し、それは先進国とそこに暮らす人にとっては、まさに民主主義の発展における低度化を、さらに深化させることに他ならず、なんら格差社会の解決策にはなり得ない、と述べていました。
これに対して、それでは憲法を護らないで、つまり改正したり修正することによって、格差社会の深化に対抗する、そのために私的所有権や営業の自由といった人権(自由権)に介入するということは、普遍主義に敵対することを意味して、それはまた覇権システムを維持、管理している覇権国並びに覇権連合勢力にたてつく(抗う)ことを意味し、最悪の場合は、国家の存立を危うくすることにもなりかねないのではないか、そうしたことを、中国での滞在中に思い知らされたのです。
それを鑑みるときに、私は、「命と暮らしを守る」ための「勝ち続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウに際して、最も重要なことは、「命」を守ることであり、それができなければ「暮らし」を守る云々も言えなくなることを肝に銘じることの重要性を、最新作ではこれまで以上に、前面に打ち出すところとなったのです。ここに私の主張の違いといいますか、強調点の違いがあるのです。ある。
もっとも、今日の安倍政権の普遍主義への敵対(介入)は、憲法9条に代表される「平和」に関する安全保障、すなわち「命」(国家主権)を守る問題を最優先させているように思われますが、こうした試みも、中国を仮想敵国として位置づける限りでは、結局は米・中覇権連合に対立・敵対するという意味では、逆に日本と日本人の「命」を危うくする政治路線である、と私は位置づけているのです。
しかしながら、そうは申しましても、私のような「戦略的護憲派」の立場を選択するならば、そこからまた厄介極りない問題が生じてくるのも事実ですし、そのことを絶えず見据えておかなければなりません。その理由について少しお話いたします。
私のモデルで描くセカイが、これからますます現実化される世界となっていきますと(もうかなりそうなりつつありますが)、戦略的護憲派の立場は、一方では確かに普遍主義とそれを推進していく覇権連合勢力との表面的な対立、衝突を回避することに「成功」したかのように見えたとしても、他方において、その内部に格差社会の深化に伴う、現状に対する不満のマグマを蓄積させてしまい、そこから国家を暴走させるエネルギーが結集して、最後は、あれだけ我慢に我慢を重ねてその対立、衝突を避けようとした覇権システムの維持、管理者たる覇権連合勢力に、激突するという最悪のシナリオとなる危険性は、十分予想されるでしょう。
このように、今後の日本と日本人の覇権システム内における「立ち位置」は、極めてそのバランスを保つのが難しい、と言わざるをえないのです。それゆえ、戦略的護憲派にとっての最重要課題は、覇権システムを維持推進している覇権連合勢力との対外的付き合いにおいては、普遍主義を守りながら、同時に国内の格差社会の深化に対して、共同体内部において、お互いがお互いを支え合う仕組みを作り出せるかという課題に、真剣に向き合うことが求められるのです。
「憲法を守る」というのは、対外的つまり(覇権システムを維持する覇権連合勢力)に対しては、そのような立場をとるにしても、憲法を守れば、営業の自由や私的財産権の自由(当然それは企業の内部留保を許すでしょう)や資本移転の自由を認めることとなりますから、それだけ格差社会の格差は深化するでしょうから、対内(国内)的にはそれだけではこと足りないのは明らかではないでしょうか。
それではどうやって、お互いが食べていくのか、お金を稼いでいくのかが何よりも大事な問題となりますね。それを提示できない限り、戦略的護憲派に明日の力は保持できないでしょうし、正直なところ、これまでも何ら有効な手立てを打ち出せないままにありました。(またここにきて、下を向いてしまいますね。これははやり無理だろう、と。)
その最たる理由は、私から見れば、社民党や、共産党の立ち位置が、私のいう戦略的護憲派ではなく、盲目的護憲派であったからです。それは彼らが、私の描くモデルのセカイとその推移を十分に理解していないということを意味しています。またなによりも、普遍主義を創り出してきた覇権システムとその秩序と結び付いた「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係史について、理解出来なかったということにある、と私はみています。
またまた偉そうなことを述べましたが、仕方ありません。次回は以前のブログで(消去していたのですが)論じていました日本共産党の「民主主義」についての見方を、ここまでの私の論の流れと結び付くような形で、再度ここで紹介したいと思います。
さて。今日の私の話の中で一番お伝えしたかったのは、一刻も早く私たちは、私とあなたと私たちが覇権システムとその秩序と結び付く「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係の歩みの、どの地点(段階)に位置しているのか、それを知ってほしいということなのです。
そこから、今日の格差社会について論じている、さまざまな見解を考察してほしいのです。私はそこからいつも考えますから、たとえ思想史的意義のあるように思われる主張(たとえば柄谷行人さんの中華帝国に関する論考もそうですが、私の見る限りでは、柄谷さんはそうした帝国の構想でもって。私が描いているように、覇権システムが推進してきたセカイの差別と排除の秩序に替わる秩序を打ち出そうとしていると思います)であれ、それがはたして今日の覇権システムと向き合う際に、どれほどその現実的、実際的効果を有しているのかを、疑問視してしまうのです。
つまり、彼らの構想するそうした「空間」において、本当に食べていけるのか、稼げるのかを考えてしまうのですね。こんな読み方でもって評価されたら、柄谷さんも唖然とするでしょうが、また私のこうした見方は身も蓋もない物言いかもしれませんが、しかし私はこうした立場を重視したいのです。私のこれまでの拙論も、こうした「制約」が課せられていますから、私自身も何か、論の展開における不自由さを感じています。これが私の書くものを面白くさせないのかもしれません。(もっとも、それがわかるからこそ、逆にピケティや木畑さんや水野さんや、柄谷さんやキッシンジャーの書き手としての「立場」もわかるのですが。)
そのキッシンジャーの著作(そこで彼のいう世界秩序は、まさに先の柄谷さんの帝国を組み込んだ秩序に真っ向から対立し、おそらくそれを破壊してしまうでしょうし、そうした現実的力を持っているように思われます。その意味では、私の覇権システムに替わるものではさらさらなく、むしろ補強する世界秩序の提唱であり、私は彼の構想はかなり現実に近いものとなると理解しています。その意味では恐るべき「リアリスト」です。戦略的護憲派は、こうした見方、考え方に対抗する上でも、彼のセカイの描き方を学ぶ必要があります。)を読む際も、それは同じです。
私の「身の回りの平穏」と「日本の平和」と「世界の平和」とが、「世界秩序」とどうつながるのかを、私とあなたと私たちの「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係から(卑近な例で言いますと、正規雇用者と非正規雇用者、富裕層と貧困層、いじめの加害者と被害者、本土と沖縄、フクシマとそれを取り巻く人たち等々、いろいろな私とあなたと私たちの関係がありますが)、捉えるように心がけています。(続)
(少し時間がありましたので、記事を書きました。)
「戦略的護憲派」と「覇権システム」と「格差社会」の関係を考える(8)
最新作の拙著『21世紀――』と、それまでの『覇権システム下の-――』、『日本人と民主主義』の「主張」の違いについて、話しますので聞いてください。
私は、それまでは憲法(普遍主義)を護ることは覇権システムを守ることを意味するのであり、それは私のモデルのセカイの「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係史とその歩みを支持してしまうことを意味し、それは先進国とそこに暮らす人にとっては、まさに民主主義の発展における低度化を、さらに深化させることに他ならず、なんら格差社会の解決策にはなり得ない、と述べていました。
これに対して、それでは憲法を護らないで、つまり改正したり修正することによって、格差社会の深化に対抗する、そのために私的所有権や営業の自由といった人権(自由権)に介入するということは、普遍主義に敵対することを意味して、それはまた覇権システムを維持、管理している覇権国並びに覇権連合勢力にたてつく(抗う)ことを意味し、最悪の場合は、国家の存立を危うくすることにもなりかねないのではないか、そうしたことを、中国での滞在中に思い知らされたのです。
それを鑑みるときに、私は、「命と暮らしを守る」ための「勝ち続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウに際して、最も重要なことは、「命」を守ることであり、それができなければ「暮らし」を守る云々も言えなくなることを肝に銘じることの重要性を、最新作ではこれまで以上に、前面に打ち出すところとなったのです。ここに私の主張の違いといいますか、強調点の違いがあるのです。ある。
もっとも、今日の安倍政権の普遍主義への敵対(介入)は、憲法9条に代表される「平和」に関する安全保障、すなわち「命」(国家主権)を守る問題を最優先させているように思われますが、こうした試みも、中国を仮想敵国として位置づける限りでは、結局は米・中覇権連合に対立・敵対するという意味では、逆に日本と日本人の「命」を危うくする政治路線である、と私は位置づけているのです。
しかしながら、そうは申しましても、私のような「戦略的護憲派」の立場を選択するならば、そこからまた厄介極りない問題が生じてくるのも事実ですし、そのことを絶えず見据えておかなければなりません。その理由について少しお話いたします。
私のモデルで描くセカイが、これからますます現実化される世界となっていきますと(もうかなりそうなりつつありますが)、戦略的護憲派の立場は、一方では確かに普遍主義とそれを推進していく覇権連合勢力との表面的な対立、衝突を回避することに「成功」したかのように見えたとしても、他方において、その内部に格差社会の深化に伴う、現状に対する不満のマグマを蓄積させてしまい、そこから国家を暴走させるエネルギーが結集して、最後は、あれだけ我慢に我慢を重ねてその対立、衝突を避けようとした覇権システムの維持、管理者たる覇権連合勢力に、激突するという最悪のシナリオとなる危険性は、十分予想されるでしょう。
このように、今後の日本と日本人の覇権システム内における「立ち位置」は、極めてそのバランスを保つのが難しい、と言わざるをえないのです。それゆえ、戦略的護憲派にとっての最重要課題は、覇権システムを維持推進している覇権連合勢力との対外的付き合いにおいては、普遍主義を守りながら、同時に国内の格差社会の深化に対して、共同体内部において、お互いがお互いを支え合う仕組みを作り出せるかという課題に、真剣に向き合うことが求められるのです。
「憲法を守る」というのは、対外的つまり(覇権システムを維持する覇権連合勢力)に対しては、そのような立場をとるにしても、憲法を守れば、営業の自由や私的財産権の自由(当然それは企業の内部留保を許すでしょう)や資本移転の自由を認めることとなりますから、それだけ格差社会の格差は深化するでしょうから、対内(国内)的にはそれだけではこと足りないのは明らかではないでしょうか。
それではどうやって、お互いが食べていくのか、お金を稼いでいくのかが何よりも大事な問題となりますね。それを提示できない限り、戦略的護憲派に明日の力は保持できないでしょうし、正直なところ、これまでも何ら有効な手立てを打ち出せないままにありました。(またここにきて、下を向いてしまいますね。これははやり無理だろう、と。)
その最たる理由は、私から見れば、社民党や、共産党の立ち位置が、私のいう戦略的護憲派ではなく、盲目的護憲派であったからです。それは彼らが、私の描くモデルのセカイとその推移を十分に理解していないということを意味しています。またなによりも、普遍主義を創り出してきた覇権システムとその秩序と結び付いた「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係史について、理解出来なかったということにある、と私はみています。
またまた偉そうなことを述べましたが、仕方ありません。次回は以前のブログで(消去していたのですが)論じていました日本共産党の「民主主義」についての見方を、ここまでの私の論の流れと結び付くような形で、再度ここで紹介したいと思います。
さて。今日の私の話の中で一番お伝えしたかったのは、一刻も早く私たちは、私とあなたと私たちが覇権システムとその秩序と結び付く「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係の歩みの、どの地点(段階)に位置しているのか、それを知ってほしいということなのです。
そこから、今日の格差社会について論じている、さまざまな見解を考察してほしいのです。私はそこからいつも考えますから、たとえ思想史的意義のあるように思われる主張(たとえば柄谷行人さんの中華帝国に関する論考もそうですが、私の見る限りでは、柄谷さんはそうした帝国の構想でもって。私が描いているように、覇権システムが推進してきたセカイの差別と排除の秩序に替わる秩序を打ち出そうとしていると思います)であれ、それがはたして今日の覇権システムと向き合う際に、どれほどその現実的、実際的効果を有しているのかを、疑問視してしまうのです。
つまり、彼らの構想するそうした「空間」において、本当に食べていけるのか、稼げるのかを考えてしまうのですね。こんな読み方でもって評価されたら、柄谷さんも唖然とするでしょうが、また私のこうした見方は身も蓋もない物言いかもしれませんが、しかし私はこうした立場を重視したいのです。私のこれまでの拙論も、こうした「制約」が課せられていますから、私自身も何か、論の展開における不自由さを感じています。これが私の書くものを面白くさせないのかもしれません。(もっとも、それがわかるからこそ、逆にピケティや木畑さんや水野さんや、柄谷さんやキッシンジャーの書き手としての「立場」もわかるのですが。)
そのキッシンジャーの著作(そこで彼のいう世界秩序は、まさに先の柄谷さんの帝国を組み込んだ秩序に真っ向から対立し、おそらくそれを破壊してしまうでしょうし、そうした現実的力を持っているように思われます。その意味では、私の覇権システムに替わるものではさらさらなく、むしろ補強する世界秩序の提唱であり、私は彼の構想はかなり現実に近いものとなると理解しています。その意味では恐るべき「リアリスト」です。戦略的護憲派は、こうした見方、考え方に対抗する上でも、彼のセカイの描き方を学ぶ必要があります。)を読む際も、それは同じです。
私の「身の回りの平穏」と「日本の平和」と「世界の平和」とが、「世界秩序」とどうつながるのかを、私とあなたと私たちの「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係から(卑近な例で言いますと、正規雇用者と非正規雇用者、富裕層と貧困層、いじめの加害者と被害者、本土と沖縄、フクシマとそれを取り巻く人たち等々、いろいろな私とあなたと私たちの関係がありますが)、捉えるように心がけています。(続)