日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

「戦略的護憲派」と「覇権システム」と「格差社会」の関係を考える(8)

2015-03-14 | 社会 政治
最近少し忙しく、また年のせいで眠れないといいますか、すぐ目が覚めてしまいまして、しばらく記事を書くのをやめようと思ってましたが、今日もまた朝の3時過ぎに起きてしまい、悶々としながら、記事を書きました。それから今また、柄谷さんとキッシンジャーの「世界秩序」について、最後の方で書き足しました。そして再度、投稿しています。

(少し時間がありましたので、記事を書きました。)
「戦略的護憲派」と「覇権システム」と「格差社会」の関係を考える(8)

 最新作の拙著『21世紀――』と、それまでの『覇権システム下の-――』、『日本人と民主主義』の「主張」の違いについて、話しますので聞いてください。

 私は、それまでは憲法(普遍主義)を護ることは覇権システムを守ることを意味するのであり、それは私のモデルのセカイの「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係史とその歩みを支持してしまうことを意味し、それは先進国とそこに暮らす人にとっては、まさに民主主義の発展における低度化を、さらに深化させることに他ならず、なんら格差社会の解決策にはなり得ない、と述べていました。

 これに対して、それでは憲法を護らないで、つまり改正したり修正することによって、格差社会の深化に対抗する、そのために私的所有権や営業の自由といった人権(自由権)に介入するということは、普遍主義に敵対することを意味して、それはまた覇権システムを維持、管理している覇権国並びに覇権連合勢力にたてつく(抗う)ことを意味し、最悪の場合は、国家の存立を危うくすることにもなりかねないのではないか、そうしたことを、中国での滞在中に思い知らされたのです。

 それを鑑みるときに、私は、「命と暮らしを守る」ための「勝ち続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウに際して、最も重要なことは、「命」を守ることであり、それができなければ「暮らし」を守る云々も言えなくなることを肝に銘じることの重要性を、最新作ではこれまで以上に、前面に打ち出すところとなったのです。ここに私の主張の違いといいますか、強調点の違いがあるのです。ある。

 もっとも、今日の安倍政権の普遍主義への敵対(介入)は、憲法9条に代表される「平和」に関する安全保障、すなわち「命」(国家主権)を守る問題を最優先させているように思われますが、こうした試みも、中国を仮想敵国として位置づける限りでは、結局は米・中覇権連合に対立・敵対するという意味では、逆に日本と日本人の「命」を危うくする政治路線である、と私は位置づけているのです。

 しかしながら、そうは申しましても、私のような「戦略的護憲派」の立場を選択するならば、そこからまた厄介極りない問題が生じてくるのも事実ですし、そのことを絶えず見据えておかなければなりません。その理由について少しお話いたします。

 私のモデルで描くセカイが、これからますます現実化される世界となっていきますと(もうかなりそうなりつつありますが)、戦略的護憲派の立場は、一方では確かに普遍主義とそれを推進していく覇権連合勢力との表面的な対立、衝突を回避することに「成功」したかのように見えたとしても、他方において、その内部に格差社会の深化に伴う、現状に対する不満のマグマを蓄積させてしまい、そこから国家を暴走させるエネルギーが結集して、最後は、あれだけ我慢に我慢を重ねてその対立、衝突を避けようとした覇権システムの維持、管理者たる覇権連合勢力に、激突するという最悪のシナリオとなる危険性は、十分予想されるでしょう。

 このように、今後の日本と日本人の覇権システム内における「立ち位置」は、極めてそのバランスを保つのが難しい、と言わざるをえないのです。それゆえ、戦略的護憲派にとっての最重要課題は、覇権システムを維持推進している覇権連合勢力との対外的付き合いにおいては、普遍主義を守りながら、同時に国内の格差社会の深化に対して、共同体内部において、お互いがお互いを支え合う仕組みを作り出せるかという課題に、真剣に向き合うことが求められるのです。

 「憲法を守る」というのは、対外的つまり(覇権システムを維持する覇権連合勢力)に対しては、そのような立場をとるにしても、憲法を守れば、営業の自由や私的財産権の自由(当然それは企業の内部留保を許すでしょう)や資本移転の自由を認めることとなりますから、それだけ格差社会の格差は深化するでしょうから、対内(国内)的にはそれだけではこと足りないのは明らかではないでしょうか。

 それではどうやって、お互いが食べていくのか、お金を稼いでいくのかが何よりも大事な問題となりますね。それを提示できない限り、戦略的護憲派に明日の力は保持できないでしょうし、正直なところ、これまでも何ら有効な手立てを打ち出せないままにありました。(またここにきて、下を向いてしまいますね。これははやり無理だろう、と。)

 その最たる理由は、私から見れば、社民党や、共産党の立ち位置が、私のいう戦略的護憲派ではなく、盲目的護憲派であったからです。それは彼らが、私の描くモデルのセカイとその推移を十分に理解していないということを意味しています。またなによりも、普遍主義を創り出してきた覇権システムとその秩序と結び付いた「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係史について、理解出来なかったということにある、と私はみています。
 
 またまた偉そうなことを述べましたが、仕方ありません。次回は以前のブログで(消去していたのですが)論じていました日本共産党の「民主主義」についての見方を、ここまでの私の論の流れと結び付くような形で、再度ここで紹介したいと思います。

 さて。今日の私の話の中で一番お伝えしたかったのは、一刻も早く私たちは、私とあなたと私たちが覇権システムとその秩序と結び付く「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係の歩みの、どの地点(段階)に位置しているのか、それを知ってほしいということなのです。

 そこから、今日の格差社会について論じている、さまざまな見解を考察してほしいのです。私はそこからいつも考えますから、たとえ思想史的意義のあるように思われる主張(たとえば柄谷行人さんの中華帝国に関する論考もそうですが、私の見る限りでは、柄谷さんはそうした帝国の構想でもって。私が描いているように、覇権システムが推進してきたセカイの差別と排除の秩序に替わる秩序を打ち出そうとしていると思います)であれ、それがはたして今日の覇権システムと向き合う際に、どれほどその現実的、実際的効果を有しているのかを、疑問視してしまうのです。

 つまり、彼らの構想するそうした「空間」において、本当に食べていけるのか、稼げるのかを考えてしまうのですね。こんな読み方でもって評価されたら、柄谷さんも唖然とするでしょうが、また私のこうした見方は身も蓋もない物言いかもしれませんが、しかし私はこうした立場を重視したいのです。私のこれまでの拙論も、こうした「制約」が課せられていますから、私自身も何か、論の展開における不自由さを感じています。これが私の書くものを面白くさせないのかもしれません。(もっとも、それがわかるからこそ、逆にピケティや木畑さんや水野さんや、柄谷さんやキッシンジャーの書き手としての「立場」もわかるのですが。)

 そのキッシンジャーの著作(そこで彼のいう世界秩序は、まさに先の柄谷さんの帝国を組み込んだ秩序に真っ向から対立し、おそらくそれを破壊してしまうでしょうし、そうした現実的力を持っているように思われます。その意味では、私の覇権システムに替わるものではさらさらなく、むしろ補強する世界秩序の提唱であり、私は彼の構想はかなり現実に近いものとなると理解しています。その意味では恐るべき「リアリスト」です。戦略的護憲派は、こうした見方、考え方に対抗する上でも、彼のセカイの描き方を学ぶ必要があります。)を読む際も、それは同じです。

 私の「身の回りの平穏」と「日本の平和」と「世界の平和」とが、「世界秩序」とどうつながるのかを、私とあなたと私たちの「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係から(卑近な例で言いますと、正規雇用者と非正規雇用者、富裕層と貧困層、いじめの加害者と被害者、本土と沖縄、フクシマとそれを取り巻く人たち等々、いろいろな私とあなたと私たちの関係がありますが)、捉えるように心がけています。(続)

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「戦略的護憲派」の勧めー「覇権システム」とその秩序(世界秩序)に、どのように向き合えばいいのか(7)

2015-03-11 | 社会 政治

 前回の(5)(6)の記事で、また少しややこしい話になってしまいましたので、ここで簡単に私のこれからの論の展開の流れを示しておきます。

 拙著『21世紀の「日本」と「日本人」と「普遍主義」』において私が主張したのは、私たちが守り続けてきた「普遍主義」は、実は歴代の覇権国が中心となってつくあげてきた覇権システムと、その秩序を支えてきた私とあなたと私たちの「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係史を、前提にしていたということでした。

 それゆえ、いわゆる自由や人権や民主主義、平和といった普遍主義を体現させた日本国憲法を護るということは、とりもなおさず覇権システムを維持し、支えるということでした。

 しかしながら、同時にまた、今日の米・中覇権連合の発展の下で新しく創り出されている世界秩序、すなわち私のモデルのセカイの1970年代以降の「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係から成る世界のことですが、それに対立し、敵対することは愚の骨頂であり、そうした政治路線の選択は絶対にしてはならないということでした。

 またそのためには、安倍首相のような「状況追随的」憲法改正派ではなく、またこれまでの左翼革新のような「盲目的」護憲派でもない、「戦略的護憲派」の立場を、日本と日本人は選択すべきだ、と説いたのです。

 そこからまた、覇権システムとその下で提供されてきた普遍主義の問題を十分に理解しながら、同時に私とあなたと私たちにより創り出されてきた、例の「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係史から、現実的には当分の間は抜け出せない(つまり格差社会はこれから先進国ではより深化していく)ということを銘記することが必要となる、そう私は論じました。

 そしてそれらを踏まえて、普遍主義を体現した日本国憲法は、覇権システムを創り出してきた英・米覇権連合勢力によって提供されたということ、それゆえ、憲法を改正するということは、その米・中覇権連合勢力が維持・発展させようとする覇権システムとその秩序(世界秩序)に棹さすことを意味するということであり、これだけは絶対に避けなければならない、と。以上が私の言いたかったことです。

 ところで、これまでずっと私の主張の要約だけを述べてきましたので、十分に話の流れが伝わらないところも多々あると思いますが、少し我慢してお付き合いください。

 問題は、当分の間は、こうした戦略的護憲派の立場をとるにしても、それだけでは解決しない難しい状況に直面するだろうということです。なにしろ、すぐ隣には次の親分の中国が位置していますし、もう一方の側には現在の親分がいますから。

 もし私の仮説(米・中覇権連合の形成とその発展の下に今後の覇権システムと、その新しい世界秩序がつくり出されるとの見方)が正しければ、今のままでは、日本は確実に終わり、お陀仏です。しかし、こうした状況の推移を考えるに際に、私のモデルのセカイは、そうした状況に直面した後の結果としてのセカイを描いていますので、その間の過程の流れが十分に展開されていません。もっとも、モデルから、かなりのことが類推できると私は思いますが、それも私の身勝手な態度だと批判されますね。

 そうした問題も踏まえて、さらにコラボしたい著作があります。H・キッシンジャー著『ワールド・オーダー』と柄谷行人著『帝国の構造』です。これまで紹介しましたコラボしてみたい著作と同様に、今後の私の話に組み込ませてみようと思います。それはひとえに、私のモデルのセカイを、読者にもっとわかりやすくお伝えしたいからです。

 それでは前回の話の続きをします。石油を取り上げていました。石油への依存をやめられるか(つまりは覇権システムと縁を切れるのか)という問題でしたね。勿論、今この時を生きている私たちが、それができるとは、私も考えていません。(急いで付言しますよ。ここでも忘れてはいけませんね。石油がない江戸時代でも、それこそ柄谷さんの構想する中国の清朝に見る中華帝国も石油がなくても生活はできていたのですから。ただ私はなおこうした議論には懐疑的です。もう少し後で詳しく考察したいと思います。)私たちが石油とこれからどう付き合うか。それはすぐわかりますし、フクシマの原発事故に直面したにもかかわらず、私たちの半数は再稼働を容認しています。このような現状を踏まえますと、軽々しいことは言えませんし、それは無責任でしょう。 (さらに、原発事故後において私の夢の実現は相当程度しぼんでしまいました。その中で、私なりにできることをいま精いっぱいしているつもりですが、―――。)

 前回も指摘しましたが、「資本主義の終焉」の前に、もう既に多くの人の命が奪われ、終わっています。(付言しまうと、水野さんもこんなことは十分にわかっていると思います。)不思議ですね、この「平和な民主主義社会」の中で。そうした原因を探る仕方といいますか、見方(診断)が間違っている、いたのではありませんか。つまり、私たちが創りあげてきた〈平和な民主主義社会〉それ自体の中に、つまり「平和な民主主義」社会を形成、発展させてきた、私とあなたと私たちの「衣食足りて礼節を知る」営為の関係の歩みそれ自体に、実は大きな問題が存在していたのではないでしょうか。

 今日の私の強調したい点は、覇権システムとの関連から資本主義や民主主義を位置づけ直す必要があると前回の記事で申しましたが、それは国家というかナショナリズムと結び付けてみる必要性を説いていることなのです。

 覇権システムの中心に位置しているのは覇権国という国家であり、また覇権システムを構成しているのも国家(国民国家)ということを鑑みれば、そうなるでしょう。(ここにも柄谷さんの影がちらつきますね。)

 また国家とナショナリズムという以上は、その担い手である私やあなたと私たちが、国民や市民として参加していますから、前回の記事でも言いましたが、私とあなたと私たちと、資本主義や民主主義が、どのようにかかわっているのかを考えなければならないでしょう。

 またナショナリズムというか、それを構成する私とあなたと私たちの生き方(つまり「衣食足りて礼節を知る」営為)の関係が、別の私とあなたと私たちの生き方の関係に、またその全体としてのあらわれであるナショナリズムに、どのように影響を及ぼしているのかを、つまりはナショナリズムの関係を、みなければなりません。

 私はナショナリズムにも、またそれを前提としながら営まれる「衣食足りて」と「礼節を知る」の関係にも、それぞれの「段階」があると考えてきました。大きく分けて6段階があります。そしてそれぞれの段階を前期、中期、後期と、さらに3つに区分しています。

 最初に[権威主義的性格の政治→経済発展]の段階があります。これがⅠ期の段階です。つまり、Ⅰ期の段階に呼応するナショナリズムと、それを前提とした「衣食足りて」と「礼節を知る」営為の関係の段階を想定しています。そうした関係を構成する私とあなたと私たちの生き方の関係は、Ⅱ期([経済発展→分厚い中間層の形成])、Ⅲ期([分厚い中間層の形成→民主主義の発展(高度化)])の段階では異なります。たとえば、日本の開国期から明治維新の段階は、Ⅰ期の前期だとすれば、日本に開国を迫ったアメリカは、Ⅰ期の中期から後期に、位置づけられます。さらにイギリスは、Ⅰ期の中期、後期からⅡ期の前期あたりに、位置づけられるとみています。

 ところで、その石油や格差社会の問題を語るときに、はやりといいますか、忘れるというか他人事みたいに言うのですよ。そうした支配と抑圧はウォ-ル街の投資家だ、メーカーだ、銀行だと。そうだ植民地主義がケシカランのだ、帝国主義が悪いのだと。それはそうなのですが、あなたは一体その悪い仕組みのどこにいるんですか。あなたの身の回りの生活用品は石油から多くつくられているではありませんか。そうしたら、あなたも相当に悪いではありませんか。あなたやあなたたち、私たち自身も(が)、植民地主義、帝国主義の担い手ではありませんか。

 それでは石油に依存した生活をやめる覚悟はありますか。できないでしょう。格差社会を批判して、資本主義が悪いという際、私たち自身が悪いということに気がつくのが大事ではないでしょうか。資本主義の問題にする前に、私たち自身の生活の仕方、そうした生活様式を支えてきた先進国と途上国の関係について、私たちの身の回りの生活から、見直してみることが大事ではないでしょうか。

 資本主義とか民主主義を語る際、私はできるだけそうした言葉に代えて、「衣食を足りる」営為と「礼節を知る」営為とに置き換えて考えるようになりました。この方が、身近な視点に立てるからなのです。他人事になるべくならない、私たち自身の生き方が身近なところで見えるからなのです。

 私の見る限りでは、もう先進国社会では格差問題について、まともな取り組みはできない、ほとんど不可能だということです。なんか身も蓋もない言い方ですね、さすが自分だけは安全なところにいる奴の発言みたいに思われたら、それは少し勘違いですよ。

 私がこうしたブログでこうした観点から発言するのは、自分や家族やそのまた孫の代の家族の行く末を思うと、不安で仕方ないからなんです。もう少し多くの方がそれこそ「本当のこと」といいますか、「現実」を知ってほしいのですね。

 いや私なんかより、もっと安全でないところにいる人は、私以上に現実を知っているから、今さらピケティとか格差なんかにみ向きもしないでしょうが、そうでない階層の人ですよ、だいぶ解体しかけていますが、いわゆる中間層をこれまで構成した人たちと、その家族は、もっとこれから、大変なことに直面するということに、おそらく気が付かないのではありませんか。

 彼らがライシュやピケティの著作を購入し、またそうした解説を読んだりしている、と私はみていますが、だからこそ私には、それでは現実に起こっていることに気が付かない、理解できないのではないか、と言わざるをえないのです。

 ガルブレイスがかつて『満足の文化』の中で、「満ち足りた選挙多数派(中間層)」(ごめんなさい、確かこのように表現していたと記憶しているんですが、少し自信がありません、念のために。)の現状を批判的に論じていたときに、もう既に中間層は満ち足りてはいなかったんですよ。本当に「あっという間」でした。

 今日本でもこうした流れが加速しています。ひどい状況なんですが、それを分析して論じるエコノミストや研究者や報道関係者は、安全地帯にいますから、それではどうしたらいいのか、どんな解決策があるのか、というときに現実的対応というか、向き合い方が出来ないんですよ。

 ごめんなさい。これは私のことですね。他人事のように話していますが、私も同罪ですよ。彼らは今も、そして当分は食べれるでしょう。(私もそうです、ごめんなさい。)

 だからいま職がない、食えない、住むところがない人間の叫びに気が付かないというか、向き合えないんです。だからいつも言うんですね、「大変な状況ですから、少しでも生活が良くなるように、なんとかしなければいけませんね」と。

 そんなことはわかりきったことでしょう、そうじゃなくて、具体的には、いまある「富」を、どう分配するのかということじゃないのですか。何かピケティみたいになりそうですね、富裕税ですか。彼は自身も非現実的というか、かなり難しいと考えていましたが、これほど生活保障費が多すぎるだの、高齢者にカネをかけ過ぎるだの、公務員は給料もらい過ぎだの云々の大合唱の中で、何が富裕税でしょうかね。しかも選挙に行かない人がもう2分の1以上にも上るという今日において、どうしますか。

 誤解のないように、これはピケティの批判ではありませんよ。マスコミ関係者は自分たちの給料は公表しないのに、私のひがみでしょうか、弱い者いじめだけやって、それに多くの視聴者が同調している、そうした社会の中で、本当に超お金持ちに異議申し立てなどできますか。

さらに、以前の記事でも述べましたが、民主主義社会の担い手である国民の間には、「自由」を実現 するためにその基礎となる「人権」の格差が存在していることを忘れてはならないでしょう。つまり、自己決定権における能力の差と言いますか、自由を実現できる能力と言いますか「力」の差です。それこそ「みんな自由なのだが、ある者は他の者と比べて、より自由である」という現実をしっかり見ておかないといけませんね。民主主義を取り戻すとか、その力を回復するという場合、その担い手はそうした自由や人権の力において格差を持っていますから、それほど簡単ではありません。

 さらに、大事なのは分配する「富」をこれからどうやって稼いでいくのかでしょう。やっと一番大事なカネを、ごめんなさい、はしたない話ですが、正直私はこれこそが大事だと痛感している今日この頃ですが。

 私のモデルで提示しているように、私とあなたと私たちの「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係の歩みが、1970年代以降において、着実に確実に先進国に暮らす私たちに相当に不利になっているときに、ホンマどうやって稼ぐのか、ホンマ稼げるのかという話に近づいてきました。

 とにかくしんどい話にお付き合いいただきありがとうございました。これから1週間くらいは記事は書けませんが、なるべくーーー。おそらく字の間違いや転換ミスが、いつものようにあると思いますが、ご勘弁ください。本当に今さら申すまでもありませんが、伝えるのは難しいですね。 






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「覇権システム」が提供してきた覇権システム商品としての資本主義と民主主義、そして石油(6)

2015-03-10 | 社会 政治


「石油」は,いわゆる近代世界「資本主義」システムが提供する単なる「世界商品」ではなく、「覇権システム」が提供する「覇権システム商品」であり、その資本主義も、また自由民主主義も、その商品に過ぎない。そして私たちは、覇権システム人としての消費者、生産者、国民、市民として存在している。たとえ日本やその他の国の消費者、生産者、国民、市民に見えたとしても、そうなのである。(6)

 今日からまた木畑洋一著『20世紀の歴史』の156-157頁のくだりで紹介されているチャーチルとルーズベルトによる、いわゆる「自由民主主義」を普遍化させていく決意表明として位置づけられる「大西洋憲章」の提唱と、「パックス・ブリタニカ」の親分であるチャーチルと、そしてその英国と一緒になって「英・米覇権連合」を形成、発展させる中で「パックス・アメリカーナ」として戦後世界に君臨するF・ルーズベルトという親分の両者が中心となって、これまた普遍化させてきた「帝国主義」との関係について考えていきたいと思います。

 いずれ詳しく話したいと思いますが、結論から先取りして言えば、木畑氏も、自由主義・民主主義と、帝国主義の関係を、それぞれ別個の異なる歩みとして、位置づけ理解しています。つまり、その証が、先の大西洋憲章と帝国主義の関係の描き方に投影されているのですが、私は、これに対して、むしろ竹山道雄氏の「ハイド氏の裁判」に描かれたように、ジキル(欧米が標榜する自由民主義に代表される普遍主義)とハイド(かつての枢軸諸国や今日のプーチンが指導するロシアの国家主義)は、同一人格に内在化されたものであり、民主主義と全体主義という、二つの分離された人格の存在として、位置づけられない、位置づけてはならない、と私は考えてきました。もちろん、こうした見方、立場は、少数派でしょう。

 それでは、とにかく、前回からの話に続けます。こうした問題を考えるには、やはり「石油」を絡ませて見た方が良いでしょうから、絡ませてます。石油は「世界商品」と言われていますが、その「世界」を「覇権システム」に置き換えて考えていきますと、石油はただの世界の商品ではなく、「覇権システム商品」となりませんか。ということは、石油に依存するということは、私とあなたと私たちが、石油をとおして、媒介させながら、覇権システムに組み込まれていく、そしてそれを担い続けていくということになりませんか。

 ここでさらに大事だと思いますのは、石油を資本主義というシステムの商品として、位置づけるのか、また民主主義社会を担う人びとの「命と暮らしを守る」ための「潤滑油」として位置づけるのか、さらにはそうした見方に代えて、資本主義と民主主義のその両者の営為をとりこんだ覇権システムの「命と暮らしを守る」商品として位置づけるのかといった、これらの次元にかかわる私とあなたと私たちの思考の、同時にまた志向の、峻別が大切になってきます。

 (先のチャーチルとルーズベルトと彼らの「母国」は、まさに石油の獲得をめぐって、19世紀末から「暗躍」してきました。勿論、そのことは多くの国がそしてそこに暮らす多くの人が巻き込まれていくということになりますし、その挙句、戦争となったのではありませんか。)

 また話を続けます。多くの方は、失礼ながら、資本主義世界の商品としての石油を、頭の中で理解しているように思われます。それゆえ、民主主義の世界に必要不可欠な商品として、想像し難いのではありませんか。ましてや私のような見方は、奇人変人の戯言として遠ざけるのではありませんか。そうした方々だからこそ、石油に依存して生活する意味を理解しないままで、原子力は、原発はダメだと声高に叫ぶ一方で、石油ならまだ問題は少ないと感じているのではありませんか。石油も、覇権システムが提供してきた商品ではありませんか。

 これに関していうと、よく「陰謀論」を他人事のように語る人がいますね。これはウォ-ル・ストリートのユダヤの陰謀だとか、世界を動かしているのが彼らで、そこに巻き込まれてはいけない、そうした勢力に対抗するには、日本国憲法を護れ、民主主義を守れ、と言うのを聞きませんか。

 今日の格差社会においては、グローバルな資本主義の猛威から民主主義を守れというのに似ています。しかし私から見れば、資本主義も民主主義も覇権システムが提供する覇権システム「商品」なんですよ。民主主義を守ることは、覇権システムを守ることになるとともに、それを支える私とあなたと私たちの「グローバルな関係」を守ることを意味します。

 それゆえ、一体その関係(仕組み)がどのような仕組み(関係)の下に創造されてきたかを考察しない限り、議論の入り口にも立てません。不思議なんですね。入口にも辿りつけない多くの論者や読者が、資本主義の格差がどうだの、資本主義の終焉を語っているのですから、笑止千万とはこのことではありませんか。今日もまた、お前は何さまだ、そんなに偉そうなことが言えるのか、自分でも少し思いますが、お許しを。

 さて、前置きが長くなりましたが、こうした問題を念頭に置きながら、前回の話に続きまして、今回も私とあなたと私たちの「命と暮らしを守る」、つまりは安全保障をめぐる「自己決定権」をめぐる「争奪戦」の話を、ピケティウァ水野さんの資本主義論を念頭に置きながら、少しずつ展開していきます。よろしくお付き合いください。

 これまでの記事において、そうした安全保障を考える際に、「石油」を引き合いに考えたいと、私は話していました。すぐ上でも少し話しましたが。簡単に言いますと、私は原発に反対してきましたし、今もそうですし、再稼働に対しても勿論、反対しています。その理由は、ひとえに私の考えてきた夢の共同体で生産した農作物が、事故が起こった場合に、売れなくなるからです。つまり私の「命と暮らしを守る」という場合に、その「暮らし」を守れなくなるからです。当然ながら、「命」を守ることさえままなりません。ですから反対してきたのですね。

しかしながら、こうした私の態度は、これまた相当に身勝手なものなんです。たとえば、それでは原発がなくなったときに、それでは石油ならばいいのか、という問題がやはり生じてきませんか。少し前の記事でも書いたのですが、この石油に依存した私たちの生活といいますか、「命と暮らしを守る」生き方も、かなり危ういものでしょう。

私たち「日本」と「日本人」の戦後の「平和な民主主義」社会の実現のためには、またそのための高度経済成長の実現には、どうしても石油は必要不可欠ではなかったのか、そう私は考えてしまうのです。勿論ここでもいろいろな代案を否定してはならないでしょう。環境問題を度外視しても、たとえば石炭があるではないかから、いろいろ反論が出てくるでしょう。

私がここで言いたいのは、おそらく原発には反対する人も、石油にはあまり反対しないのではありませんか。たとえば、原発が停止されても、私たちの電気は十分にまかなえるというとき、石油を当然の前提としているでしょう。私はやはり、そうした態度もおかしいのではないかと考えるのですよ。

なぜなら、高橋哲哉さんの『犠牲のシステム』を見ても、ここには石油ならばいいというそんな見方がどこかに漂っているように、私には思われるのです。つまり、フクシマの抱える問題は俎上に載せるのだが、石油は、それを提供してきた中東地域とそこに暮らす人たちの「命と暮らしを守る」問題に対しては、あまり考慮していないのではないか、そのように私は思うのです。

勿論、高橋さんは私の見方に対して、そんなことはない、曲解している、と反論されるかもしれません。しかし私は、私たちの戦後民主主義と平和憲法を擁護してきた私とあなたと私たちの「命と暮らしを守る」安全保障のために、石油に依存してきたことは否定できないのではないか、そう言わざるをえません。

そこから問題となるのは、たとえ私たちが戦後民主主義を守り、平和憲法を護り、「外国でだれ一人殺してはいません」と声高に叫んだとしても、私たちの「命と暮らしを守る」ために、中東地域とそこに暮らす人たちを絶えず戦禍に巻き込ませてきたという事実は、やはり否定できないのではありませんか。

さらに問題となるのは、それでは石油をやめよう、その代りとなるエネルギーを開発しようとは、簡単にはならないだろうということなのです。たとえ私が、いくら夢のような共同体を想定しても、なかなかバイオマスということには、そう簡単にはいかないのではないかと。石油から作られてきた私たちの身の回りにある日常の生活必需品を、バイオマスや、風力や太陽光でつくることが叶わないからなのです。

そこから、当分の間は、石油に依存した「命と暮らしを守る」生活を続けようとなった途端、また話は振り出しに戻ってしまうのです。誰が石油を日本に運ぶのか。誰がその過程の安全を確保するのか。そもそも石油を産出する中東地域を誰が支配し、管理するのか。21世紀の覇権国と予想される中国が、また衰退の歩みを加速させている現在の覇権国のアメリカが、そこにどうかかわってくるのか。(チャーチルとルーズベルトの先の話を思い出してください。)そこから日米安全保障の問題、集団的自衛権の問題と、どう向き合うのかということになりませんか。石油は覇権システム商品というのは、そういう理屈なのです。

ところが、ここにきて日本人の思考は止まってしまうのです。その理由は、前回の記事でも私が申しました安全保障に関する、二つの次元の問題の内、国家に関する「命と暮らしを守る」問題は、ほとんどすべてアメリカの51番目の州として位置するかのように(もちろん、実際には沖縄を見てもわかるように、51番目の州としては遇されてはいませんが)、向き合うことがなかったのではありませんか。そのことは、私とあなたと私たちの「命と暮らしを守る」安全保障の問題を考える際にも、かなり深刻な影響を与えてきたと言わざるをえません。

石油は、この二つの次元の問題に共通してかかわるのですが、どういうわけなのか、日本人には、このいずれの問題にもあまり関心がなかった、薄かったように、私には思われます。もし真剣に向き合っていたならば、私とあなたと私たちの戦後民主主義や平和憲法が血塗られたものだったとの自覚とその確認ができていたからです。それが自覚、確認できていたら、日本は軍隊を派遣しなかったから、誰一人殺さないでとても良かったなどと、恥ずかしいという話ではとても済まされない戯言を、臆面もなく言えるのだと、私は感じています。

こうした日本人の世界の、国際関係の見方は、もうどうしようもないものであるのですが、これに輪をかけて、日本の安倍首相をはじめとした政治指導者は、今日の覇権システムにおける構造変容を掴めていません。中国を、次期覇権国として台頭する中国を、その自己決定権の争奪戦における能力(力)を、過小に評価しようと〈信条倫理〉でもって望んでいます。中国と中国人の存在を、まともに見ることを拒否しています。

付言しておきたい重要な点は、たとえ「資本主義に伴う格差や資本主義の終焉を語るにせよ、それと同時に、中国が覇権国として台頭するその可能性と、すなわちアメリカから中国への覇権の興亡の、つまりいま起こっている「米・中覇権連合」の形成と発展の歩みと、結びつけて論じない限り、正鵠をいる議論は望めないのではないか、そのように私は思うのです。

つまり私が言いたいのは、資本主義がたとえ終焉しても、人間社会は当分の間続くであろうし、そうだとすれば、そこから必ず親分(覇権国)が生まれるということです。その親分連中が、必ず、彼らに都合のいい「衣食足りて」の営為の仕組みを創るはずですし、その営為を正当化、合法かする「礼節を知る」の仕組みを、つくるでしょう。そこを、私たちは押さえておかなければ成らないのではありませんか。

それをこれまでの資本主義とは異なる経済の仕組みと位置づけるにしても、とにかく彼らに都合の良い「衣食足りて」の営為の仕組みが、生み出されるのではありませんか。「資本主義の終焉」論という議論も大事でしょうが、その終焉云々の前に、多くの私とあなたと私たちの仲間が死んでいます。日本をはじめ世界の至る所で。

ごめんなさい、また偉そうなことを言いすぎましたが、ご寛恕お願いします。今回はこの辺で終わります。(続く)


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格差問題を「自由主義、民主主義、帝国主義、民族主義の渾然たる関係」から見直す必要性に関して(5)

2015-03-09 | 社会 政治

 格差社会の問題は、「自由主義、民主主義、帝国主義、民族主義の渾然たる関係」から見直す、捉え直すことの必要性について考える(5)

 最初に申し上げておきますが、私の思うには、今日の格差をめぐる議論の在り方があまりにも狭くてかつ皮相的ではないかということです。本当にお前は何様かといわれるのを承知で続けて申しますと、それはピケティや水野氏の議論にも該当しているということです。と同時に、先進国に暮らしてきた私たち自身にも、そうした傾向を受け入れてしまう何かがあるのではないか、と私は思うのです。

 それで本日の記事は、「自己決定権」をめぐる「争奪戦」という観点から、格差や資本主義と民主主義(以後、断わりのない限りは「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の問題を掘り下げてみていきたいと思います。

 言うまでもないことですが、私は、私とあなたと私たちの関係の中で生きています。そして常に自らの「生存」を図りながら、その関係を維持してきました。簡単に申しますと、前回も触れましたが、「命と暮らしを守る」という問題です。すなわち「安全保障」に関する問題です。

 安全保障といいますと、すぐに国家レベルのことに目をやりがちですが、私たちの身近な日常の生活を考えるとき、同様にこの問題がいかに重要であるかがわかります。しかしながら、昔からよく「日本人は水と安全はタダだと思っている」と言われてきたのも事実ですし、私もその見方に同感します。しかしそのことは、逆に私たちが安全保障の問題を真剣に考えてこなかったということを意味しています。そこには日本が「あの戦争」で敗北して、アメリカに戦後ずっと従いながら、アメリカの「核の傘」とそれを前提とした「平和」憲法の下に生き続けてきたという現実があるでしょう。

 ところで、私は安全保障の問題を考える際、そこには二つの相互に関連しながらも、同時にまた明確に異なる安全保障の、つまり「命と暮らしを守る」次元における「自己決定権」をめぐる「争奪戦」が存在してきたと考えています。そしてこの「命と暮らしを守る」問題は、私とあなたと私たちにもそうですが、同時に私たちが担い手となる国家という共同体にもひとしく該当します。国家にも「命」があり、またその「暮らし」があります。前者が主権(国権)にかかわるものだとすれば、後者は「衣食足りて礼節を知る」の(実現の)営為(民権)にかかわります。そして、この両者はナショナリズムを構成する重要な二つの要素ですから、「命と暮らしを守る」、安全保障の問題は、まさに「ナショナリズム」の問題に、それゆえ「国権」と「民権」の両者の関係とその在り方にかかわる問題だということになってきます。

 問題は、そうした関係とあり方を考える際に、私とあなたと私たちが、日本以外の他国の私とあなたと私たちとの間に、一体いかなる関係を創造してきたかという、その歴史を考察することではありませんか。

 議論を進める前に、もう一度この二つの次元の安全保障の問題に、すなわち「命と暮らしを守る」問題を、身近なところから見てみましょう。ここまでのくだりはすべて拙著でも述べていることです。そこでも触れたのですが、皆さんが学校に行って教室に入り、自分の席について、授業を受ける一連の流れを想定してみてください。

 私たちはよく「受験戦争」とか、「受験戦線」とかの話を聞きますが、その場合にも二つの次元の戦争があります。まず学校に行くことができて、その上に教室に入り、自分の席に座れることができるという自己決定権の有無といいますか、その能力(力)と、それを前提として次に本来の目的である授業を受ける、学習できる自己決定権の有無、能力(力)があります、つまり学力をつける問題ですね、そうした次元の問題です。前者が「命」を守る問題に、後者が「暮らし」を守る問題に、それぞれ結びついてきます。

 すぐ上で述べたことは、たとえば日本の開国から明治維新の、また中国の清朝末期から中華人民共和国の成立に至る両国の歩みにも該当しますし、まさに今日の格差社会の問題を念頭においたときにも該当する、と私はみています。

 ここで、治外法権とか関税自主権という自己決定権をめぐる問題を思い出してみてほしいのですね。日本や中国は半ば植民地状態に置かれていましたので、先ずはその「独立」を確保する、換言すれば、「命」を守る、もう少し正確に言いますと、守るべき「命」を創造する必要がありました。両国はその独立を、当時の欧米列強により奪われていました。

 そこでこの問題を考える際に、大切だと私が考えるのは、いきなり植民地主義とか帝国主義として取り扱うのを控えることではないかということです。そんなややこしいことを言う前に、当時の私やあなたや私たちの「命と暮らしを守る」関係が、どのようになっていたのかを、考えながら、検討した方がいいということです。

 たとえば、日本の私とあなたと私たちの「命と暮らしを守る」営為が、つまり国権と民権を手に入れるナショナリズム(民族主義)の歩みが、欧米のイギリスやフランスやアメリカの私やあなたや私たちの「命と暮らしを守る」営為と、対立・衝突していることを確認できるのではありませんか。またそこから考えてみると、こうした「命と暮らしを守る」ための自己決定権の争奪戦は、どこで行われているのでしょうか。

 国際社会とか世界というのは簡単ですが、それでは、そこでいう国際社会や世界とはどのような関係の下に、成り立つているのでしょうか。こうした問題を考えていく中で、私は覇権システムという存在にいきついたのです。そのシステムの内では、まさに尾崎豊の「僕が僕であるために」の歌詞と同様に、「日本と日本人が日本と日本人であるために」、「中国と中国人が中国と中国人であるために」、「勝ち続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウが、すなわち自己決定権をめぐる争奪戦が繰り広げられているのです。

 ところで、その当時の日本や中国は独立に関する自己決定権の争奪戦の重要な問題に対応すると同時に(つまり「命を守る」イヤその命を創造する戦いというか戦争ですが)、両国の中で生きてきた人々の「暮らしを守る」、換言すれば「衣食足りて礼節を知る」営為の実現のための自己決定権をめぐる争奪戦に、巻き込まれていたということです。

 こうした自己決定権をめぐる二つの争奪戦という観点から、今日の格差社会が直面する問題を見ていくとき、一体そこから何がみえてくるでしょうか。

 例の1%対99%の二項対立的な見方は、先進国対途上国に置き換えられるでしょうが、途上国もその構成は複雑ですね。ここではそれを踏まえた上で、、議論をわかりやすくするために、後者を二つに区分するにとどめておきます。そこから、私がよく使う先進国(A)、中進国(B)、後進国(C)に、また中心、半周辺、周辺に、さらには文明、半開、野蛮にそれぞれ置き換えてみることができるでしょう。

 そうしてみたとき、格差社会の富の分配をめぐる問題は、すぐ上で指摘した二つの次元における自己決定権における能力、つまり力の差に関する問題ではないかということになりませんか。私は、これまで拙稿において、その自己決定権の能力といいますか、力について、国家においてはそれが「主権」に、国民においては「自由」の能力(力)に対応すると述べてきましたが、勿論、両者は相互に関係しています。

 格差社会の中で路頭に迷っている人たちは、つまり貧困層と呼ばれていますが、彼らの存在は、ある意味で、開国期の日本やアヘン戦争以降の中国が置かれた状況に類似しています。そこで考えなければならないのは、彼らと、私とあなたと私たちの関係がどうなっているのかという問題です。

 ここを私は強調しておきたいのです。すなわち、私たちのこれまでの議論は、こうした問題を考える際に、それを資本主義だの、民主主義だの、帝国主義だの、あるいはナショナリズムだのといった問題と結びつけて議論してきましたが、勿論、それは当然のことと私も思いますが、問題は、それを議論する人たちが、それでは資本主義、民主主義、帝国主義、ナショナリズムが一体、どのような関係に置かれているかを、理解できていなかったということなのです。

 それゆえ、私たちの格差をめぐる問題は、本来は司馬遼太郎が指摘した「渾然たる関係」として、そこに位置づけられているはずの、それゆえその渾然たる関係の全体像を描かなければ、決してわからないハズの問題であるにもかかわらず、自分たちが議論しやすいように、ある論者は、そこから資本主義の問題だけを引き抜いてきて議論するのです。勿論これも仕方のないことですよ。あまりにも研究が複雑になりすぎて、またその分業化が進み過ぎて、最初はそうしなければならないとわかっていた(了解していた)はずの、そうした関係の全体を描くことさえ、忘れてしまったのですね。

 いや、もう少し断言しますと、ほとんどの研究者ができないのですよ。出できないという以上に、しないのです、言わないのですね。「御用学者」となっているからなんです。原発関連の研究者だけではありませんよ。社会科学や人文科学に従事している研究者の多くは、棲み分けながら各人の研究を進めてきました。これも各人の「命と暮らしを守る」安全保障の問題と関係しています。

私たちは何故言わないのでしょうか。覇権システムとその下で普遍化され続けてきた「自由」「民主主義」「人権」「平和」はおかしいと。それは相当に問題を抱えているのだと。これに関して言えば、この前ユーチューブの(確か)「世界を動かすものの〈正体〉②」だと思いますが、そこで西部さんもはっきりと述べていましたし、佐伯啓思さんの著作においても、そうした批判が見られます。もちろん、上述しましたように、全体像の中でどう考えるかを私は大事にしますので、見解の相違点は多々あります。

 しかしながら、それにもかかわらず、今日では自由、民主主義、人権、平和といった普遍主義を批判、非難する者はごくごく少数派で、だんだんと相手にされなくなりつつあります。私からすればとても残念なことですが、「言論の自由「「表現の自由」を標榜してきた欧米の普遍主義を支持する勢力は、当の「自由」を批判することだけは例外として、認めない、許さない雰囲気が次第に醸成されつつあるようです。日本の左翼というか、私から見れば民主主義の理解に関しては、左翼でもなんでもない、安倍首相がいつも言っている「自由」と「民主主義」を守る立場と同じですから、これはもうどうしようもないというしかありません・

 誤解のないように付言しますが、権力者に威勢のいいことを言えばそれでいいというのではありませんよ。共産党は、日本における左翼・革新勢力の最後の砦のようなイメージで見られていますが、私から見れば、彼らの説く民主主義論は恐ろしく保守的で、現状肯定的なものだとみています。彼らの民主主義論では今日の格差社会の問題に対応できないのです。

 もっとも、理論がいくら優れていても、それでことがすむのなら、私の物言いはそれでいいと思いますが、共産党を責めても問題の解決にはなりません。私にはその資格もありませんから。ただ、ここで私が言いたいのは、自己決定権における一つ目の問題、すなわち「命を守る」を、つまり主権を、国権を守るという問題を、もはや先進国における私とあなたと私たちでは、処理できないんだということを言いたいんです。

 それゆえ、そうした能力、力を回復できない、取り戻せない、それどころかもはや守ることのできない「段階」に、私たちは位置しているのだ、ということが言いたいのですよ。つまり、一つ目の「命と暮らしを守る」の、「命」を守るにかかわる安全保障の自己決定権の次元における問題に、向き合う能力、力のない私やあなたや私たちから成る共同体が、どうして二つ目の「命と暮らしを守る」の「暮らし」を守る問題にかかわる安全保障の自己決定権の次元における問題に、すなわち「衣食足りて礼節を知る」営為の(実現の)問題に、かかわることができるのでしょうか。すなわち民主主義を取り戻すことができるのでしょうか。

 それではお前はどうすればいいと考えているのか、偉そうに言うのならお前は何か具体的な解決策を持っているのか、そのように問われると思います。当然でしょう。ですから私はこの記事において、私なりの解決策ではないにしても、処方箋を考えてきました。正直、もうこれしかないと私は考えています。

 つまり、もう憲法に頼れないんです。憲法が謳っている普遍主義に、その具体的な果実としての人権に、もはや先進国に暮らす私たちは頼れないし、頼ってはダメなんです。頼っても多くの人の「命」と「暮らし」は守れないんです。それではどうしてなのか。それについて、次会の記事で述べたいと思います。
(次回の記事といいましたが、なるべく明日にでもできるように、できるだけ頑張りますよ。ただし、すべてこれまでの拙論や拙著や最新刊の拙著『21世紀の「日本」と「日本人」と「普遍主義」』において、既に論じていることです。ご一読くださればありがたいです。どうすればいいのか、どうすればこの閉塞感漂う、八方塞がりの現状に、ささやかながら何か「突破口」をつくれないものと、みんなで考えていきたいのです。)




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格差と資本主義と民主主義の関係について考える(4)ー「資本主義の終焉」論

2015-03-08 | 社会 政治

格差(社会)と資本主義(社会)と民主主義(社会)の関係について考える(4)

 最初に一言申しておきます。ピケティとのコラボに加えて、水野和夫著『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社 2014年)ともコラボさせて、これからゆっくりと拙著の話を(も)したいと思います。興味のある方はお付き合いお願いします。

 水野さんという方は、私もこれまでテレビの発言やいくつかの論考をとおして、存じていましたが、正直この著作は知りませんでした。ただ、ピケティといい、水野さんといい、どうして2014年の出版だと、愚痴が出てしまいます。拙著も同じ年の11月初めでしたから、ただでさえ売れない本が、水野さんとピケティの著作に挟み撃ちにあって、埋没してしまったようで、沈黙です。もちろん、気のせいですが。

 ただそれはそうなんですが、お二人にはとても感謝しています。素晴らしい著作に触発され、また未だ見ぬ読者にラブレターならぬ新しい著作(仮題『「資本主義」と「格差」と「民主主義」をつなぐ「環」』)を差し出したくなりましたから。

 私も彼らと同じような問題を、立場は違いますが、政治学という土俵からずっと考えてきました。私と彼らとの違いを簡潔にいますと、私は資本主義や民主主義を、歴代の覇権国の興亡史や覇権(世界)システムという観点から見てきました。そこから私が理解できたのは、覇権国(超大国)が登場しない限り、また彼らが中心となって形成、発展させてきた覇権システムが存在、存続しない限り、そもそも資本主義も民主主義も創造されなかったということです。逆にいえば、覇権国や覇権システムがこの世界から消滅しない限りは、資本主義も民主主義も消滅しない、存続し続ける、という見方なんです。

 ですから、私は、水野さんが言うように、利子率が2%を切って、利潤が得られなくなる状態になると資本主義はもう終焉する云々としても、覇権国、覇権システムが消滅しない限り、資本主義は生きのびると見るのです。もし資本主義が消滅するというのであれば、資本主義の消滅の前に、その創造主としての中心的な役割を担った覇権国や覇権システムが先に消滅しなければならない、と私は考えるのですね。

 覇権国とは、たとえて言えば、人間集団に親分が存在するように(つまりはその親分に仕える子分も存在するということですが)、共同体としての国家集団の親分に位置しています。私たち人間集団には、いつもまとめ役というか、支配する管理する人が出てきますし、それを私たちは求めてきたのではないでしょうか。

 それは何故かといえば、私やあなたや私たちの生命・財産と安全を保障するためです。いわゆる「いのちと暮らしを守る」ですね。この親分やその子分たちは、彼らの生存のために、「衣食足りて」の営為を創造する必要がありました。またそうした営為を正当化する合法化するための、「礼節を知る」営為を創造する必要がありました。

 もちろん、彼ら親分とそれを取り巻く子分たちの「衣食足りて礼節を知る」営為ですから、相当に「あくどい」ものとなることは予想されますが、歴史を回顧するとき、やはり相当にあくどい仕組みをつくりあげてきたのです。彼らの都合に合わせるように、別の共同体には「衣食足りず礼節を知らず」の営為に甘んじさせるような仕方を押し付けたり、そもそも共同体の形成さえも認めないで、植民地や従属地として来たのです。そうする中で、「衣食足りて(足りず)」の営為が「資本主義」に、「礼節を知る(知らず)」の営為が「民主主義」として、形成、発展させてきたわけです。

 こうした観点から見れば、資本主義や民主主義の将来を語るときに、たとえば終焉にしても、またその後の行く末にしても、それらを創造してきた覇権国や覇権システムと結び付けて語らない限りは、やはり十分な論評はできないのではないか、と私は手前味噌ではありますが、そのように思いますし、時として誤った見方になることもあるのではないか、そう危惧したりします。もちろん、これは私の仮説に対しても同様で、私自身もこれまで間違った論評をしてきたかもわかりません。怖いですし、恥ずかしいことですが、それを踏まえてもなお発言しなければならないのも事実です。

 いずれにせよ、水野さんの著作とのコラボをしたいと思いますが、それはこれからの記事で少しずつしていきたいと思います。それでは、前回の続きに入ります。

 ノッケから身も蓋もないことを言いますが、格差や資本主義や民主主義を語る多くの論者の見解には、それを語る人の生身の姿というか顔が見えてこないんです。簡単にいえば、他人事のような感じのする話が多すぎます。それは、論者と格差社会なり、資本主義、民主主義社会との接点が、つまり関係がみえてこないのです。

 つまり、自分がその社会の中で、どこに位置しているのか、それがみえてこないのです。おそらく論者自体にもはっきりしないのではありませんか。グローバルな世界とか社会というのであれば、その中のどこに位置しているかがわかって初めて、全体がみえてくるのではありませんか。

 誤解のないように付言しますが、それではお前はどうなんだと、そう言われると困りますが、私のモデルを提示しているように、私なりにはどのような関係の下に、今どこに位置しているかは、確認しているつもりです。この話はいずれお聞きいただくとして、前の続きから話します。

 私の悪さというか、ワルサから始めます。それはすなわち、私が関係して共同体を構成している私以外の別の私である他の人たち、そう、あなたとあなたたちの悪さというかワルサについての話ですよ。

 前回も言いましたが、1%が悪い、資本主義が悪いというとき、あなたは何を食べ、何を着て、どんな環境で生きている、生活しているのかと自問自答してみてください。そうしてみれば、私たちも悪いことをしているのに気が付きます。いろいろなメーカーがありますが、それらは、その製品、商品を作るのに、相当に「あくどい」仕組みを前提としています。メーカーの名前は出しませんよ。マスコミでもよく報道されています。さらにそのメーカーの背後には銀行、保険関連の金融機関がついています。さらにそう後ろには、教育機関、公的機関、さらに世界的に活動する多国籍企業、その背後には世界各国のリーダーや国連の期間もついています。そして最後は、私たちが控えています。

 こうした仕組みを考えるとき、そこには資本主義も関係していますが、民主主義も関係していませんか。換言すれば、「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為が含まれているでしょう。

 私が言いたいのは、資本主義や民主主義を資本主義とか民主主義という次元から批判する前に、もっと身近な私たちの「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の在り方を先ずは直視して、それを批判、検証することの方が大事ではありませんか。

 そうした議論に関連させるために、「石油」について考えてみます。私たちの社会といいますか、仕組みを円滑に動かす上で、石油は不可欠ですね。薬も石油が要ります。そこから中東地域はその仕組みに含まれてきます。それを支配、管理するメジャーとその背後の強大国が入ります。私たちも含まれていますよ。私たちの「衣食足りて礼節を知る」営為の実現のために、私たちは石油を求め、それにより、中東地域とそこに暮らす人たちに戦禍を押し付けてきたわけですが、これは資本主義が悪いとかですまされる話でなないでしょう。

 ましてや今日の中東問題に見られるように、シ―ア派対スンニ派の宗教対立の問題に還元できませんし、イスラム国に対して、ただ「テロ」国家だと非難してすむ問題でもありません。私たちがそこに暮らし続けてきた覇権システムの歩みを振り返るならば、これは「テロ」なんての次元ですまされる代物ではないということに気がつくのではありませんか。
 
 私たちの議論は、これまで私の見る限りでは、どうもそのような議論が続いていたように思われるのです。たとえば、それはかつて先進国による途上国に対する差別と排除の関係を、植民地主義とか帝国主義として、位置づけてきました。そしてそこから、西欧の資本主義を、またそれともっぱら結びつけられてきた植民地主義、帝国主義が悪いとなり、さらに西欧を中心とした近代(西欧近代)、近代化が悪いのだという議論に発展してきました。

 確かにそれはそうなんだと私も思いますが、その西欧と、西欧近代、近代化と私やあなたは一体どのような関係にあるのかが、こうした議論からは、あまりはっきりと見えてきません。悪いのは欧米であり、また資本家と資本主義、帝国主義である。加害者は彼らやそうした歩みでであり、私たちは被害者なんだと。そうした単純な見方ができてきませんか。例の1%対99%のような見方ですね。

 こうした話しに代えて、先の石油とそれに依拠した私たちの生活の仕方、つまり「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の在り様から、話をし直すとき、そこから何が見えてくるのでしょうか。これまでの議論において何が隠されてきたのでしょうか。これについて、次の機会に話してみたいと思います。

(ごめんなさい。何かまた同じ話をしているようで。これも仕方ありません。次から次に「新しい」議論が出てきますので、それを踏まえてまた私も話をする必要がありますが、私の話はいつも例のモデルをもとに話を展開しますので、結論といいますか話の流れは決まっています。しかしながら、いろいろな人とのコラボで、私の議論も成長することもありますから、そこは我慢してお付き合いください。同時に、モデルをさらに解釈し直せる機会を私も持てるような気がしますので。)

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