日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

私の語る「システム」論から、「自己責任」を引き受けることの難しさを、考えるとき

2020-07-31 | 日記
私の語る「システム」論から、「自己責任」を引き受けることの難しさを、考えるとき

前回の記事で、また何かしら「嘘」を書いてしまったので、早く訂正成り、言い訳を話しておかなければと思いながらも、体が思うように動かなかったので、今になった次第。

前回記事の最後の方で、私たちは各人の自己責任を前提としながら、お互いを尊重し支え合いながら、コロナ感染者数を減少させることが、政府(政治)権力に対する「実力行使」となるに違いない云々と論じたのだが、とてもではないが、やはりと言うべきなのか、現実は厳し過ぎるのだ。

私は関係論の立場から、「私とあなた」、「あなたと私たち」という人間関係を前提とした「自己」を想定した上での自己責任について語るのだが、もし「私とあなた」のあなたが「安倍ちゃん」であれば、最初からそんな自己責任論は土台無理となるだろう。「安倍ちゃん」に対して、「責任」とか「政治家の責任」云々の話をすること自体が無理だということは、嫌というほど私たちは学習させられたので、自己責任論は相当に優秀な「哲人王」のような存在に限定される話だろう。

とは言え、今回のコロナ禍での感染者数の増大を受けて、多方面から「政治」(権力)に対する発動を求める声の増大する流れにも、少し警戒感を抱くのが正直な私の感想なのだ。元々が、{[B]→(×)[C]→×「A」}のかつての先進国グループを構成したAにおいては、「分厚い中間層」の解体と断片化の進行の下で、生活破壊や崩壊から自暴自棄になって、自分たちの属するコミュニティーに対する憎悪と復讐心から、より強い力と自己を一体化させることによって弱い自分の力を回復しようと願ういわゆるルサンチマンが社会の底辺に何層にも形成されている。

それゆえ、両者が何かの拍子で結びつくことがあれば、厄介なことになりかねない。そこに、今の国際関係の米中間の覇権争いが影響して、重なるような事態にでもなれば、日本もあっという間に、これまで経験しなかったような暴力が横行する社会となるだろう。決して、他人事ではないのだ。

強力な国家(政治)権力の発動は、それが必要となれば当然求められてしかるべきだが、今の安倍ちゃん政権と、それに対抗する枝野ちゃんや共産党の誰かちゃんや令和新選組の山本ちゃんなどの野党勢力をイメージするとき、背筋がぞっとなるのは、おそらく私一人だけではあるまい。

それに輪をかけて、、ひたすらコロナ感染者数の増大を見守るしかすべのない社会の構成員である私たちが存在している。そうした私たちの合言葉は、「どうにかならんのかい、どうにもならんのかい」なのだ。あともう少しなのだ。そんな私たちに向かって、「既成政党では駄目なのです。我が党が強力な力でもって対処します。安心してお任せください」云々の声が聞こえてくるのは。

そうこうする中で、私たちは、またどうにもならない歯がゆい状況の中で、枝野ちゃんも安倍ちゃんも、本当にひどかったが、それにしても今の政権は、こんなにも抑圧し弾圧するとは、と小さい声で恨めしく話しているのかもしれない。

最後に一言。

情けない話で、読者には申し訳ないとお詫びするしかない。ただ言えることは、既成政党に替わる強力な政党を、多くの者は欲しているのではあるまいか。私自身もそれを望んでいる。しかしながら、すぐ上でも述べているように、それはまた危険な存在ともなりうる。それを承知の上で言えば、それでも、私は新たな強力な政党が誕生することを歓迎する。問題は、そんな強力な政党を、どうやって有権者は「制御」できるのか、となるのだが。さらに、今後の米中関係において、その強力な政党の力は、どのような側面において、またどの程度、削がれることになるのか。とにかく考えれば考えるほど問題が出てくるのだが、もうこれ以上はやめておきたい。

「ルサンチマン」とは、私のことだ。老いていくということが、これほどみじめでつらいとは。社会の片隅に日々、追いやられていく自分に気がつく。誰もが通る道だと言えば、それはそうだろう。また、楽しく生きることで、老いも素晴らしくなると言えば、それもそうだろう。そんなことは。これまた誰しもわかっていることだろう。そうではなくて、---なんだよ、と言いたいのだが、また例の「あなた何様」の声が聞こえてきたので、やめようわい。それにしてもーーー。



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(修正版)私の語る「システム」論から、それでは私たち下級国民は、私たちの命と暮らしをこれ以上、壊されることなく、自己防衛するために、どう闘うべきなのかについて、考えるとき(終)

2020-07-27 | 日記
私の語る「システム」論から、それでは私たち下級国民は、私たちの命と暮らしをこれ以上、壊されることなく、自己防衛するために、どう闘うべきなのかについて、考えるとき(終)

結論から言えば、前々回、前回の記事からもわかるように、闘えない(戦えない)ということなのだ。「システム」が許容する範囲での実力行使は許されるかもしれないが、もし少しでも覇権国や覇権システムを感じることのできる人ならば、「システム」には抗えないことに気が付くに違いない。

それゆえ、「自己防衛」云々の話も、最初から「腰砕け」となるのだが、それでいいのであり、そうした結末にたどり着いたならば、それこそめでたしめでたしの話ということになる。決して、あからさまな「暴力」を伴う「実力」の行使などを夢見たり、また現実に実行することなどは断じてあるまじきなのである。ただし、こうした問題と頭の中で何度も何度も格闘することは大事な作業であり、それを避けてはならない。

「システム」の誘惑に乗ってはならない。抗議活動をする者の中には、そうした「システム」と「結託」して、その誘惑に多くの下級国民を誘い込み、最初から見えている悲惨な結果を彼らに背負わせて、その挙句、彼らの生計を将来にわたって見守り続ける責任など引き受けるはずなどないのである。

それゆえ、相当に回りくどい生き方となるのだが、自分の周りにいる者を巻き込んで傷つけることのない、各人に適した「実力」行使を模索することが賢明だということになる。その意味でも、まずは私たちは「システム人」として存在しているという自己認識と自己理解が求められているということである。

最後に一言。

「上級国民」と「下級国民」の比喩を用いて、あまり面白くない話を展開してきたが、私たちの暮らすこの日本には、当然ながらこの両国民が存在している。下級国民が「システム」に逆らえないのと同様に、上級国民も抗うことも、逆らうこともできないのだ。私はもう祈ることしかできないのだが、上級国民が下級国民を先導して、中国と中国人に宣戦布告することだけは、どうかご勘弁をお願いしたいのである。

「システム」は、日本のどうしようもない「アホで間抜けな大和民族を僭称したがる為政者」をおだてあげて、戦争へと導く算段を立てることに余念がないのだが、今度の戦争も間違いなくやられてしまうに違いない。それを見通した上で言うのだが、そうならないための、ありとあらゆる事前の防止策を、今から講じておかなければならないのは言うまでもない。

とは言え、このコロナ禍の連休中に浮き彫りにされた、見ず知らずの他人をコロナに感染させて死なせてもかまわないと考え行動する日本人と日本民族の一体どこに、明日の日本を託することができると考えられようか。私たちは、今の内閣や政府与党を信頼してはいないし、期待もできないと考えている。

今さら政府による活動自粛の再宣言など必要ないだろう。自らが自らの頭で考え行動するしかないのだ。自己責任を前提とすべきなのだ。それを前提としながら、お互いがお互いを尊敬し、支え合いながら、コロナ感染者数を、今より少しでも減らしていくことが、本当にどうにもならない馬鹿な為政者に対する、私たちの「実力行使」となるのではあるまいか。



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私の語る「システム」論から、それでは私たち下級国民は、私たちの命と暮らしをこれ以上、壊されることなく、自己防衛するために、どう闘うべきなのかについて、考えるとき(続)

2020-07-26 | 日記
私の語る「システム」論から、それでは私たち下級国民は、私たちの命と暮らしをこれ以上、壊されることなく、自己防衛するために、どう闘うべきなのかについて、考えるとき(続)

前回の私の「夢」の話は、今も忘れることができない。おそらくそこには伏線がある。最近は、1950年代の中国史を読み直している。とくに毛沢東と梁漱溟との「自己批判」を巡る両者の「思想戦」に関する資料を読んでいる(聞いている)ことが多いので、そうした事情も影響して、前回の記事へとつながったのだろう。

学生時代とは異なり、「システム」論を手にした今の私には、「システム」が毛沢東を選んだ理由がよくわかると同時に、梁漱溟が1950年代の、{[A]→(×)[B]→×[C]}のCグループではなく、21世紀の{[B]→(×)[C]→×[A]}のAに位置して生きていれば、彼の思想に共鳴して、その薫陶を受けられた人もいたであろう、と改めて考えるのだ。とくに、「パーマ・カルチャー」と関連付けてみると、多くの示唆を得られる、と私は確信している。

同じように、60年代の半ば頃から70年代前半頃の「紅衛兵」が、今のAグループにタイム・スリップして、政権指導部を批判する運動を展開してくれていれば、少しは時代を動かせたかもしれないと、またまたつまらない神頼みをするのである。

ところで、前回の記事を投稿した後で、すぐ下に引用貼り付けしている植草氏の記事に気が付き、その中に、私の考えていることと類似するくだりを見つけたのである。先ずはそれを見てほしい。

(引用、始め)

植草一秀の『知られざる真実』
マスコミの伝えない政治・社会・株式の真実・真相・深層を植草一秀が斬る
2020年7月24日 (金)

世の中が暗くなっている根本の理由

ーーー(中略)---
第2次大戦とまったく同じ図式だ。
悪名高いインパール作戦も、無謀で間違った作戦であることは明白だった。
ところが、この悪夢の作戦が遂行された。
関係者の「いまさらやめられない」との物見遊山の姿勢が悪夢の作戦を放置する原因になった。

国全体が非常事態に直面している。
感染拡大を加速させるGoToトラブルキャンペーンを力づくでやめさせる者がなぜ現れないのか。
野党関係者も「感染が拡大したら内閣総辞職だ」と発言するが、国会招集を要求して国会審議を通じてキャンペーンを中止させる行動を示さない。

本ブログ、メルマガで再三指摘しているように、東アジアにおけるコロナ被害は欧米や南米に比較すると極めて軽微である。
しかし、その原因は明らかにはなっていない。

沖縄では米軍関係者の感染が拡大していることが明るみに出た。
毒性の強いウイルスの感染拡大が沖縄から全国に広がる可能性もある。
安倍内閣が、感染が拡大しても被害は拡大しないという確証を得ているなら、その内容を市民に説明するべきだ。
しかし、そのような確証を得ているわけではないのだ。
ただ、選挙日程などの独自の損得勘定から、不適切な感染拡大策を強行しているのだと見られる。

為政者が自己利益だけを追求し、市民が政治権力に対して実力行使を行わない状況下で悲劇が生み出される。
この繰り返しを避けなければならないのだ。

(引用、終わり)

ここに引用した植草氏の記事の中で、私が一番共感したくだりは、最後の段落で語られている「市民が政治権力に対して実力行使を行わない状況下で悲劇が生み出される。この繰り返しを避けなければならないのだ。」、である。

私の前回の「夢」にまつわる記事は、植草氏と同じような問題意識の下で、権力を保持した為政者に対して、なんら抗議闘争もすることなく、ただやられっぱなしの状態に置かれているだけでは、どうにもならないから、こちらも「力」でもってやり返すことが大事だという含意を込めた記事であった。

植草氏の主張する「市民が政治権力に対して実力行使を行わない状況下」とは、まさに森友、加計学園問題以降の安倍内閣によるやりたい放題の政治姿勢に対する私たち国民の置かれた状況、状態を見事に描いているのではあるまいか。このままだと、植草氏の指摘するように、悲劇が繰り返されるのは必至だろう。さらに言えば、「下級国民」が被る悲劇は、もう何度も何度も、繰り返されているのではあるまいか。

最後に一言。

植草氏が指摘していたように、「政治権力に対する実力行使」に関する問題は、今後より一層、取り組むべき課題である、と私も同意している。ただし、「実力行使」といっても、その内容は多岐に及ぶだろう。ストレートな意味での実力=暴力行使は、日本の警察や自衛隊、在日米軍の実力を少し考えた場合でも、どうにもならない話である。だが、最終的には、その「どうにもならない話」を、どうにかできる実力を手にしない限り、政治権力に対する有効な実力行使などできるはずもなかろう。

それを踏まえるとき、いま求められる「実力行使」とは何だろうか。私には、エラそうなことを言う資格もないし、語れる立場にもないのだが、先ずは、何より、このブログ記事が多くの読者の目に留まり、深く読まれるような実力を身につけることが第1の課題であるのは間違いない。相当な「トーン・ダウン」となったが、これまた仕方がないことと、素直に認める次第だ。

最後に二言。

私は生来、人が多く集まるところは苦手で、政治討論会とか、集会に参加するのも嫌であった。徒党を組むのが嫌いである。政治学を勉強する中で、私の政治学とは、どうすれば権力に巻き込まれなくてよいのか、それを追求することを旨としていたから、政治参加とか投票それ自体に対しても、積極的ではなかった。ましてや私の語る「システム」論を考察する中で、多くの「ウソ」に気が付き、意気消沈する日々の繰り返しとなったのだ。

そもそも、闘う(戦う)ことが嫌なのだ。多くの者をだまして政治劇に巻き込み、その人の人生を不幸にすることを避けたいから、政治権力を巡る事柄からできるだけ遠くに位置したいと努めている毎日なのだ。そんな私が、この記事の中で書けることは、どうすれば「システム」から遠ざかれるかを考えることである。それゆえ、どうしても、権力と戦う云々の話は、苦手であり、どこかに無理と矛盾が出てきてしまうのだ。

政治家とか権力闘争が根っから好きな人間を、私は最初から、軽蔑している。しかし、どんなことを言っても、権力とそれを握った者は、私が静かに、自由に生きることを許してはくれないから、仕方なく、闘うしかないのだが、私の性格から、その戦い方はいつも中途半端なものになるのだ。私に、もっと無自覚、無痛覚でいられる才能があればと思うのだが、それはできない相談だから、やはり中途半端にならざるを得ない。

政治などに関わらない方がいいし、無関心でいることができればいいのだが、私たちは、「システム」の中で、その生を受け、また終わることを知れば、そうも言っておれないのだ。とにかく、情けないほどにつらくなるのだ。

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私の語る「システム」論から、それでは私たち下級国民は、私たちの命と暮らしをこれ以上、壊されることなく、自己防衛するために、どう闘うべきなのかについて、考えるとき

2020-07-25 | 日記

私の語る「システム」論から、それでは私たち下級国民は、私たちの命と暮らしをこれ以上、壊されることなく、自己防衛するために、どう闘うべきなのかについて、考えるとき

最近、どういうわけなのか、同じような夢をよく見るのだ。熱気にあふれたホールの中で、百人くらいの人たちが大きな声をあげながら、前の方で演説している指導者と思(おぼ)しき人の声に、激しく反応しているのだ。

彼は言う。「数こそ力なのだ。私たちに今必要なのは、その数を集めることだ。そしてその数の力を、未だ目覚めていない多くの同志たる下級国民たちに知らせ、教えることなのだ。もうこれ以上、私たちの仲間を拱手傍観して失うことは、断じて許されない。上級国民は、平素は人を殺してはいけない、人命は尊いというくせに、今の現状はどうであろうか。

虫けらのように、我ら下級国民の命は扱われ、殺され続けているではないか。ところが、その下級国民たちは、一体何をしているのか。ただ流れに身を任せて、命をつなぐだけの生き方をしている。誰も助けてはくれない。誰か救世主が現れるなどと思っている暇などないのだ。そんな救世主は現れやしない。

私たち下級国民こそが、救世主たる存在なのだ。立ち上がろうではないか。造反有理なのだ。議会に代表者を送る暇などない。いま求められているのは直接行動なのだ。私たちは、クーデタと革命を同時並行的に行うことが大事なのだ。私たちの数の力で、国会や官庁や裁判所を直ちに占拠して、そこにふんぞり返る上級国民たちを追放しなければならない。

同時に、私たち下級国民の、下級国民による、下級国民のための社会をつくらなければならない。誰一人として飢えさせない社会を、だれ一人抜け落ちることを許さない社会を、今すぐ建設しようではないか。

そのためには、当分の間、戒厳令を敷いて、私たちの敵である上級国民を縛り上げ、公開の場で、彼らの罪状を問いただすことが必要だ。彼らの自己批判を求めようではないか。できるだけ速やかに、我々は決起し、上級国民を我々の足元に、跪(ひざまず)かせなければならない。

彼の演説はさらに続き、同時に、その内容も次第に苛烈さを極めるに至った。ついには、ホールは下級国民のエネルギーで充満して、やがて彼らは一団となって、ホールの外へと一直線に駆け出した。私もその流れの中にあったのだが、いつしか夢の外に出ている自分に気が付いたのだ。

久しぶりに、人間らしい生き方に出会った。たとえ、ひと時の夢の中とはいえ、爽快感の漂う心地の良いセカイであった。忘れかけていた何か懐かしい人間の姿を思い出させてくれたようで、うれしかった。夢のままで終わらせてしまっては、もったいない話ではあるまいか、とつくづくそう思い、考えるのだ。


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私の語る「システム」論から、一国(日本)の政治的リーダー連が「積極的」に国富や国民の命を奪っている動きを、考えるとき

2020-07-24 | 日記
私の語る「システム」論から、一国(日本)の政治的リーダー連が「積極的」に国富や国民の命を奪っている動きを、考えるとき

前回の話の流れとして、今回の記事は位置していると同時に、もう少し踏み込んで、コロナ禍で引き起こされているおぞましい「出来事」を考えてみたい。

私は、もう30年以上前に拙著『イギリス病の政治学』を上梓したのだが、今でも当時の私の「おぼこい」気持ちをはっきりと覚えている。正直なところ、恥ずかしい話なのだが、行論の都合上、少し事情を述べておきたい。

当時の私は、国家とは、国の政治とは、「国民」の生命と財産を守ることを至上命題とするものだとばかり思っていた。少し考えただけでもわかるのに、国民というとき、今のはやりの言葉を使えば、それこそ「上級国民」もいれば、「下級国民」もいるだろうから、その中身もいろいろあることを考えれば、そんなに形式ばった見方をする必要などはなかったはずなのだ。

政治とは、とことん下級国民とそれに近い多くの庶民を欺き、騙す「術」である。騙される方が悪いのだ。信じる者がばかなのだ。そんなことは、とっくの昔にわかっているわい、といくらほざいたとしても、何度も飽きもしないほどに騙され続けるのも、事実ではあるまいか。

私もそんなアホな人間の一人である。だからこそ、国家とその指導者連が自ら進んで、自分たちの国家を傾かせるような政策を「選択」することなどは、断じてあろうはずはないなどと、考えていたのだ。ところが、私のそんな浅はかな思いとは裏腹に、19-20世紀転換期のイギリス国家とその国の指導者連と国民の多くは、自ら傾いていくことを選んだのである。すなわち、イギリス経済の「衰退」を食い止めるのではなく、自ら進んで衰退する道を選んだのであっる。

それからしばらくして、私はあることに気が付いたのだ。イギリスは当時の覇権国であったが、そのイギリスの国力が衰退するからこそ、次の覇権国が「興隆(台頭)」するのではあるまいか、と。そう考えた時、イギリスが覇権国となる前の覇権国であったオランダとイギリスの関係にも気が付いた。オランダも、ある時期から、経済を自ら進んで傾かせていく政策を選択したのだ。それと呼応する形で、イギリスは経済力を増大できる政策を選ぶことができたのだ。

このように考えていく中で、国家は自ら進んで、それまでの経済力を支えてきた政治の在り方を変えて、次の新たな時代を支える経済発展の在り方を創造していくのである。簡潔に言えば、オランダが「世界の工場」から「世界の銀行」へと転換していくそうした政策を選択するのと呼応する形で、イギリスは「世界の工場」へと転換する経済政策を選択する。そしてそのイギリスが、今度は「世界の銀行」に転換するような歩みと呼応して、アメリカが「世界の工場」へと転換していく。

そうした動きの背後には、それらを支える経済政策が用意され、実行に移されていったのである。付言すれば、そのアメリカが「世界の銀行」に転換するのと呼応して、中国が「世界の工場」として出現するのだが、両者の間には、相互に補完する経済政策が、両国において選択されているのである。

それゆえ、国家は、「システム」のある段階に達するとき、これまで守っていた既得権益層に大ナタを振るってまでも、従来とは異なる国家の生き方を選択していくのである。1970年代以降、今日に至る「システム」({[B]→(×)[C]→×[A]}(省略形、共時態モデル)のAに該当するかつての先進国グループにおいては、「システム」の「通時態モデル」で示されるように、Ⅰ’期、Ⅱ’期そしてⅢ’期の前期から中期へと向かう今の時点において、Aグループの諸国家とその政治指導者連は、積極的に国府と国民の命と暮らしを奪い破壊する政策を選択していくのである。

その代表的例が、郵政民営化政策による約300兆円もの国富を外資に差し出したことと、一連の派遣法の成立の下で、「分厚い中間層」の解体と断片化を押しすすね、その結果として、「1%」対「99%」の図式で描くセカイを次第に現実のものにしていったということである。

何度もこれまでの拙論や拙著、またこのブログ記事において述べてきたように、上述した「システム」の歩みが、既につくられているのであり、そうした歩みを前提とした上に、日本では小泉や竹中のいわゆる新自由主義的「民営化」路線が展開していくのだ。もし「システム」の歩みが、あらかじめ準備され用意されていなければ、新自由主義政策や路線は何ら効果を発揮できなかったであろうことを、読者に念を押して、ここでもお伝えしておきたいのである。

こうした点を踏まえるとき、今の日本国家とその政治的指導者連が、国家を傾かせて、国富や国民の命を奪い取ることを何ら躊躇するものではないということを、それこそ「自明の理」として、私たち下級国民と、限りなくそれに近い人たちは、肝に銘じておく必要がある。

前回のブログ記事でも指摘したように、「感染症対策と社会経済を両立させる」との含意は、社会経済の維持とその安定を最優先としながら、感染症対策を講じるという意味での「両立」ということである。それゆえ、コロナ感染により、何人が死のうが知ったことではないのだ。また、ここで言われている社会経済とは、私が先述した「システム」が用意、準備したそれであり、Aを切り捨てたとしても、BやCのグループに属する諸国の「衣食足りて礼節を知る」の営為における「高度化」を、保護・育成するための経済なのである。

私はもう、日本の「政治」の〈可能性〉など期待していない。ましてやその〈方向性〉云々など、論外である。諦めているのだが、それでも死ぬまでは、書き続ける他はないから、嫌われることを今回も、あえて承知の上で述べておきたい。今の野党で、「令和新選組」の山本太郎氏しか、期待ができない。そうは言っても、「消費税5%」の主張だけで、なにも「野党」としての存在感を示すことには成功していない。その理由は、「政治」を語ってはいないからだ。それを語らずして、技術的枝葉しか話をしていないのだ。とても残念なのだ。

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