「システム」論の立場から言えば、私たちはいつも「実行犯」と「真犯人」を取り違えたままである
あまり野暮なことは言いたくはないのだが、やはり指摘しておいた方がいいだろう。前回の記事で、私は立て看板で抗議した東洋大学の学生に確かにエールを送ったのだが、その際、気になることがあった。
その学生も竹中氏の規制緩和論で非正規労働者が増加した云々と述べていたように、私たちはいつも「実行犯」に目を奪われ、「真犯人」を見つけ出せないままにある。小泉元総理や竹中平蔵氏、安倍首相は歴史的事件(出来事)の実行犯にすぎないのに、真犯人だと決めつけてしまう傾向がある。
結論を先取りして言えば、何度もこのブログ記事でも述べてきたように、歴史上の真犯人は、「システム」の自己完結運動の歩みである。実行犯は、システムが歴史の「段階」に応じて、担(かつ)ぎ出してきたにすぎない。そしてまたシステムの担い手は私たち「システム人」であるから、結局のところは、私たち一人一人が本来の真犯人だということになってくるだろう。たとえどんな小理屈を並べ立てたにせよ、である。
私たちはいつも分かりやすい犯人を捜して、こいつが全部悪いとか、責任があると糾弾するのだが、その批判の矢が自分たちにも向けられているとの自覚に欠ける糾弾は、やはりどこかおかしいのではあるまいか。
システム論の観点から歴史を論及してきた私には、仮に「正義」がもしあるとしても、その正義はいつも私たちが位置しているシステムを構成する関係を前提としていることから、最初から胡散臭い者となるのだ。
それゆえ、白か黒か、善か悪か、といった二項対立的図式で押さえられないのである。それゆえ、システム論から見れば、犯人を探し出すのは難しい作業の連続となるが、私たちの目に映る「悪」とされている事象のもっと背後に批判の俎上に載せられるべき真犯人が存在している。
最近では、すぐ上で述べたように、学生の立て看板で、竹中平蔵氏が糾弾されていたが、私は小泉氏や、安倍氏は、また竹中氏もそうだが、単なる実行犯でしかない、と考えている。
勿論、そうは言っても、彼らの罪は大きいと私も認めざる言わざるを得ないのだが、そう述べた瞬間、その批判の矢は、主権者たる私たち自身に跳ね返ってくる。。私たちが選んだ国会議員の中から選出された内閣の下で、いわゆる構造改革は結果として推進されたからである。その意味では、私たちの、いや私の罪の方が重い。
もっとも急いで付言すれば、彼らにそのような力はない。その力を彼らに与えたものこそが真犯人であリ、それはシステムの自己完結運動の歩みなのだ。。その関連で言えば、いわゆる新自由主義とか、それを標榜する政治家や、その政策も、システムとその関係の歩みからすれば、ある種の実行犯的役割を担っているにすぎないのだ。
真犯人であるシステムとその関係の歩みにこそ批判と球団の目を向けなければならないのだが、ところが、このシステムが提供する普遍主義、あるいは普遍的価値の前に、私たちはまるで魔法にでもかかったかのように、傅(かしず)かされてしまったままなのだ。
普遍的価値や普遍主義を後生大事にするという点では、自民党も共産党も同じである。いや世界中がそうした方向に置かれている。
普遍的価値や普遍主義が実現される歴史の歩みにおいて、その歴史のある段階において、分厚い中間層の形成が世界のある地域で可能となり、またある段階では、その解体が進められていくのである・
小泉、竹中、安倍氏等の役者は、そうした普遍主義や普遍的価値の実現の歴史の歩みが必要とした単なる演者に過ぎないのだ。それゆえ、何度もこの記事でも、また拙著や拙論でも問い続けたように、システムとその関係の歩みの形成と発展、その変容の歩みに関する論及が不可避とならざるを得ない。
前回の記事で、私は立て看板で竹中氏を糾弾した学生にエールを送ったのだが、そこで私が期待したのは、まさにすぐ上で指摘した「論及」に関わってほしいとの願いを込めてのものであった。
「実行犯」探しと「真犯人」探しの作業は、同じ「探し」ではあるが、両者のそれには天と地の開きがある、と私は感じているのである。
あまり野暮なことは言いたくはないのだが、やはり指摘しておいた方がいいだろう。前回の記事で、私は立て看板で抗議した東洋大学の学生に確かにエールを送ったのだが、その際、気になることがあった。
その学生も竹中氏の規制緩和論で非正規労働者が増加した云々と述べていたように、私たちはいつも「実行犯」に目を奪われ、「真犯人」を見つけ出せないままにある。小泉元総理や竹中平蔵氏、安倍首相は歴史的事件(出来事)の実行犯にすぎないのに、真犯人だと決めつけてしまう傾向がある。
結論を先取りして言えば、何度もこのブログ記事でも述べてきたように、歴史上の真犯人は、「システム」の自己完結運動の歩みである。実行犯は、システムが歴史の「段階」に応じて、担(かつ)ぎ出してきたにすぎない。そしてまたシステムの担い手は私たち「システム人」であるから、結局のところは、私たち一人一人が本来の真犯人だということになってくるだろう。たとえどんな小理屈を並べ立てたにせよ、である。
私たちはいつも分かりやすい犯人を捜して、こいつが全部悪いとか、責任があると糾弾するのだが、その批判の矢が自分たちにも向けられているとの自覚に欠ける糾弾は、やはりどこかおかしいのではあるまいか。
システム論の観点から歴史を論及してきた私には、仮に「正義」がもしあるとしても、その正義はいつも私たちが位置しているシステムを構成する関係を前提としていることから、最初から胡散臭い者となるのだ。
それゆえ、白か黒か、善か悪か、といった二項対立的図式で押さえられないのである。それゆえ、システム論から見れば、犯人を探し出すのは難しい作業の連続となるが、私たちの目に映る「悪」とされている事象のもっと背後に批判の俎上に載せられるべき真犯人が存在している。
最近では、すぐ上で述べたように、学生の立て看板で、竹中平蔵氏が糾弾されていたが、私は小泉氏や、安倍氏は、また竹中氏もそうだが、単なる実行犯でしかない、と考えている。
勿論、そうは言っても、彼らの罪は大きいと私も認めざる言わざるを得ないのだが、そう述べた瞬間、その批判の矢は、主権者たる私たち自身に跳ね返ってくる。。私たちが選んだ国会議員の中から選出された内閣の下で、いわゆる構造改革は結果として推進されたからである。その意味では、私たちの、いや私の罪の方が重い。
もっとも急いで付言すれば、彼らにそのような力はない。その力を彼らに与えたものこそが真犯人であリ、それはシステムの自己完結運動の歩みなのだ。。その関連で言えば、いわゆる新自由主義とか、それを標榜する政治家や、その政策も、システムとその関係の歩みからすれば、ある種の実行犯的役割を担っているにすぎないのだ。
真犯人であるシステムとその関係の歩みにこそ批判と球団の目を向けなければならないのだが、ところが、このシステムが提供する普遍主義、あるいは普遍的価値の前に、私たちはまるで魔法にでもかかったかのように、傅(かしず)かされてしまったままなのだ。
普遍的価値や普遍主義を後生大事にするという点では、自民党も共産党も同じである。いや世界中がそうした方向に置かれている。
普遍的価値や普遍主義が実現される歴史の歩みにおいて、その歴史のある段階において、分厚い中間層の形成が世界のある地域で可能となり、またある段階では、その解体が進められていくのである・
小泉、竹中、安倍氏等の役者は、そうした普遍主義や普遍的価値の実現の歴史の歩みが必要とした単なる演者に過ぎないのだ。それゆえ、何度もこの記事でも、また拙著や拙論でも問い続けたように、システムとその関係の歩みの形成と発展、その変容の歩みに関する論及が不可避とならざるを得ない。
前回の記事で、私は立て看板で竹中氏を糾弾した学生にエールを送ったのだが、そこで私が期待したのは、まさにすぐ上で指摘した「論及」に関わってほしいとの願いを込めてのものであった。
「実行犯」探しと「真犯人」探しの作業は、同じ「探し」ではあるが、両者のそれには天と地の開きがある、と私は感じているのである。
先生のおっしゃる通り、「システム」を動かしているのは私たち自身だと、日々感じます。
そして、まともに研究もしていない者が言うのもおこがましいですが、その「システム」の原動力は、私たち「ヒト」という生物に本来備わっている欲求(性欲はもちろん、「人気者になりたい」「誰かに褒められたい」などという欲望も含め)であるように思え、すなわち、もうどうしても止めようがないと考えるようになりました。
ある大学教員が、「『しょうがない』というのは思考停止だ。せっかく大学に入ったんなら考えろ。」というようなことをおっしゃっていましたが、この「システム問題」ばかりはどうしようもないと思ってしまいます。
というのも、当事者である私たち全員が自覚する(あるいは、私たちが自覚することをシステムが許してくれる)のは、例えばですが「隕石が落ちる」(落ちても解決しませんが)などの地球規模の出来事が起きない限りあり得ないように思えますし、仮にすべての国・地域で「中間層の解体」という段階を迎えるまで時代が過ぎ、ようやく人々が自覚したとしても、それこそその頃には、環境問題だか大災害だかで「ヒト」という生物が絶滅する頃かもしれません。
長々とすみませんでした。先生も、お体に気を付けてお過ごしください。