いわゆる市民革命は国王の「規制」に嫌気を感じた、このままだと自分たちの「商売」がうまくいかないと痛感した者たちが中心となって起こした「革命」である。革命以前は国王の庇護の下で、自分たちの利権を増殖させていたが、明日の展望を開くのに敏感な彼ら革命派が現状を打開するべく動いたのだ。その革命派の商売人とその商売の仕組み(ネットワーク)を支持・推進する中心勢力が今日の「保守(右翼)」に位置づけられている政党を構成しているのに対して、商売人の商売のやり方を支持・推進することでは同じながらも、その儲けの分配や再分配をめぐり、その都度その都度において異議や不満を表明するのが、本来なら多数派を構成するはずの「革新(左翼)」として位置づけられている政党である。革新政党も政権を担当することもあるが、その際も、保守(右翼)の商売人の商売のやり方を受容する態度を示しているのは変わらない。
その意味においては、多数派を構成できる可能性を秘めていたはずの革新政党も、最初から商売人のまたその商売のやり口を「御用」する政党であったし、それは今も全く変わらない。保守の御用政党が第1の位置を占めるとすれば、革新は、第2,3の位置を占めているだけだ。自ら国王と戦ってでも、自らの商売の利権を守らなければならないと「覚悟」した商売人と異なり、彼ら商売人にうまいこと使われ革命の道具にされた(「自由」の女神の僕となった)だけである庶民の利害を代弁する革新・左翼とでは、その守るべき力と熱意が異なっている。(福島原発事故後の民進党の枝野の姿が今も忘れられない。こいつだけは許せないと今も思い続けているのだが、それは同時に自分自身に対しても同様に許せないと、いや他人がどうのこうのと言うのも卑怯かもしれないのはわかっているつもりだが。)
共産党も自分たちが商売をして、商売人となる覚悟がない。社会党もそうであった。かつての革新・左翼政党は、保守・右翼政党がその利害を代弁した商売人とその商売を間接的に支えていた大企業や官公労傘下の既得権益に与る「労働者」の代弁者でしかなかった。彼らは表面的には自由や民主主義や人権、平和といった「普遍主義」を標榜しながら、実際にしていることは、商売人の稼いだ儲けにたかり、もっと俺たちにもよこせというだけだったのだから。しかも芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の「カンダタ」を髣髴とさせる生き方であった。(誤解のないように付言しておくと、もともと普遍主義とは「システム」の提供するものだから、革命派の商売人の商売を支持、擁護するものであり、何度も指摘してきたように、私のモデルで描くセカイを体現するものでしかない。「文明」による「半開」や「野蛮」に対する「ゆすり」と「たかり」を「帝国主義」というやり方で実践してきたのだ。
驚くことには、21世紀の今も同じやり方をしている。たかりとゆすりである。(いや、かつての{[A]→(×)[B]→×[C]}のセカイではない、今の{[B]→(×)[C]→×[A]}のセカイ〈いずれのモデルも省略形、共時態モデルである〉ではゆすることもたかることもできないで、逆に半開や野蛮からゆすられ、たかられているのだが。)私も同罪であるから、まさに天に唾する物言いである。そんな私が以前から提言しているのは、かつて革新・左翼と呼ばれた政党とその支持勢力が試みなかった、自らが商売人となり、その商売に貧しい者や障害を抱える者たちが参加して、自分たちも直接、お金を稼ぐことの意味や意義を学習しながら、そのネットワークを強化していく「夢」を見てみないかということだ。当然ながら、その受け皿となるのが「バリア・フリーの会」である。従来の既成政党と異なるのは、自らが商売人として商売を実践する。これまでの大企業や中・小・下請け企業とその従業員の利害代弁者ではなく、自らがそうした企業を起こして、自らがその利害を直接担い(自弁し)、その自らの輪に賛同者を募っていくという話である。
{[B]→(×)[C]→×[A]}のセカイがますますその姿を鮮明としていく中で、まずは「貧困ビジネス」として批判非難されている「弱者」を食い物にする(と言われてきた)商売を、夢のある「商売」にするには「バリア・フリーの会」はどう動けばいいのか。意識においては半ばなのだが、実際には当事者とみなされている私自身がこれから試される問題である。
(付記)
この記事もいわゆる加計問題や小池氏の「都民ファーストの会」若狭氏の「日本ファーストの会」に触発されて、目に悪いと感じながらも少しまた書いてしまった。ただ、記事ではすべてをかけないし、実践していない意味では、まだまだ途上の中途半端な話である。その点では、誰も批判や非難できないのは自覚している。「お前は何様なのだ」、と自問自答しながら、闘う気持ちは大事にしている。もう闘うしかない。これからの一日一日は私には、戦いなのだから。酒を飲むのも、歌うのもその気概を持ってすべしである。
なお、以前の記事「オニクタラムのーー」でも今回の記事につながる話をしていたことを、思い出したが、その時以上に、私自身より強く切迫感を覚えるのは私自身の体の問題もさることながら、それとは違う何かがあるのは確かである。