日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

私たち自身が「商売人」となって、商売人の利害を代弁するのではなく「自弁」する政党をつくるべし!

2017-08-23 | 社会 政治
私たち自身が「商売人」となって、商売人の利害を代弁するのではなく「自弁」する政党をつくるべし!
 いわゆる市民革命は国王の「規制」に嫌気を感じた、このままだと自分たちの「商売」がうまくいかないと痛感した者たちが中心となって起こした「革命」である。革命以前は国王の庇護の下で、自分たちの利権を増殖させていたが、明日の展望を開くのに敏感な彼ら革命派が現状を打開するべく動いたのだ。その革命派の商売人とその商売の仕組み(ネットワーク)を支持・推進する中心勢力が今日の「保守(右翼)」に位置づけられている政党を構成しているのに対して、商売人の商売のやり方を支持・推進することでは同じながらも、その儲けの分配や再分配をめぐり、その都度その都度において異議や不満を表明するのが、本来なら多数派を構成するはずの「革新(左翼)」として位置づけられている政党である。革新政党も政権を担当することもあるが、その際も、保守(右翼)の商売人の商売のやり方を受容する態度を示しているのは変わらない。
 その意味においては、多数派を構成できる可能性を秘めていたはずの革新政党も、最初から商売人のまたその商売のやり口を「御用」する政党であったし、それは今も全く変わらない。保守の御用政党が第1の位置を占めるとすれば、革新は、第2,3の位置を占めているだけだ。自ら国王と戦ってでも、自らの商売の利権を守らなければならないと「覚悟」した商売人と異なり、彼ら商売人にうまいこと使われ革命の道具にされた(「自由」の女神の僕となった)だけである庶民の利害を代弁する革新・左翼とでは、その守るべき力と熱意が異なっている。(福島原発事故後の民進党の枝野の姿が今も忘れられない。こいつだけは許せないと今も思い続けているのだが、それは同時に自分自身に対しても同様に許せないと、いや他人がどうのこうのと言うのも卑怯かもしれないのはわかっているつもりだが。)
 共産党も自分たちが商売をして、商売人となる覚悟がない。社会党もそうであった。かつての革新・左翼政党は、保守・右翼政党がその利害を代弁した商売人とその商売を間接的に支えていた大企業や官公労傘下の既得権益に与る「労働者」の代弁者でしかなかった。彼らは表面的には自由や民主主義や人権、平和といった「普遍主義」を標榜しながら、実際にしていることは、商売人の稼いだ儲けにたかり、もっと俺たちにもよこせというだけだったのだから。しかも芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の「カンダタ」を髣髴とさせる生き方であった。(誤解のないように付言しておくと、もともと普遍主義とは「システム」の提供するものだから、革命派の商売人の商売を支持、擁護するものであり、何度も指摘してきたように、私のモデルで描くセカイを体現するものでしかない。「文明」による「半開」や「野蛮」に対する「ゆすり」と「たかり」を「帝国主義」というやり方で実践してきたのだ。
 驚くことには、21世紀の今も同じやり方をしている。たかりとゆすりである。(いや、かつての{[A]→(×)[B]→×[C]}のセカイではない、今の{[B]→(×)[C]→×[A]}のセカイ〈いずれのモデルも省略形、共時態モデルである〉ではゆすることもたかることもできないで、逆に半開や野蛮からゆすられ、たかられているのだが。)私も同罪であるから、まさに天に唾する物言いである。そんな私が以前から提言しているのは、かつて革新・左翼と呼ばれた政党とその支持勢力が試みなかった、自らが商売人となり、その商売に貧しい者や障害を抱える者たちが参加して、自分たちも直接、お金を稼ぐことの意味や意義を学習しながら、そのネットワークを強化していく「夢」を見てみないかということだ。当然ながら、その受け皿となるのが「バリア・フリーの会」である。従来の既成政党と異なるのは、自らが商売人として商売を実践する。これまでの大企業や中・小・下請け企業とその従業員の利害代弁者ではなく、自らがそうした企業を起こして、自らがその利害を直接担い(自弁し)、その自らの輪に賛同者を募っていくという話である。
 {[B]→(×)[C]→×[A]}のセカイがますますその姿を鮮明としていく中で、まずは「貧困ビジネス」として批判非難されている「弱者」を食い物にする(と言われてきた)商売を、夢のある「商売」にするには「バリア・フリーの会」はどう動けばいいのか。意識においては半ばなのだが、実際には当事者とみなされている私自身がこれから試される問題である。
(付記)
 この記事もいわゆる加計問題や小池氏の「都民ファーストの会」若狭氏の「日本ファーストの会」に触発されて、目に悪いと感じながらも少しまた書いてしまった。ただ、記事ではすべてをかけないし、実践していない意味では、まだまだ途上の中途半端な話である。その点では、誰も批判や非難できないのは自覚している。「お前は何様なのだ」、と自問自答しながら、闘う気持ちは大事にしている。もう闘うしかない。これからの一日一日は私には、戦いなのだから。酒を飲むのも、歌うのもその気概を持ってすべしである。
なお、以前の記事「オニクタラムのーー」でも今回の記事につながる話をしていたことを、思い出したが、その時以上に、私自身より強く切迫感を覚えるのは私自身の体の問題もさることながら、それとは違う何かがあるのは確かである。

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加計問題を{[B]→(×)[C]→×[A]}のセカイの中で捉え直して見た場合

2017-08-21 | 社会 政治
加計問題を{[B]→(×)[C]→×[A]}のセカイの中で捉え直して見た場合
 加計学園獣医学部新設問題は、私のモデルで描くセカイの変容と再編の中で、とくにアジアにおける日本国家の生き残りのためのグローバル戦略と結びつけて見るとき、いろいろな動きが理解できるのではあるまいか。1970年代以降、特に90年代以降、日本と日本人はグローバル化の流れに巻き込まれて大変な状況に直面していった。そのグローバル化の中身は、これまでのA、B、CのセカイからB、C、Aのセカイへの変容と再編の歩みである。ここではあらすじだけにとどめる。詳しい話は申し訳ないが、拙著や拙論、あるいは他のブログ記事に目を通していただきたい。その中で拙著や拙論の紹介をしている。とくに、ここでは拙論(「歴史叙述の神話」に関する一考察ー「システム」とその自己完結運動から「歴史」を語り直すー)を是非とも参照されたい。ネットで検索してほしい。 Aに位置するかつての先進国は経済の行き詰まりと民主主義の発展における低度化の状態に陥る。その打開策のために、構造改革戦略が採用される。聞こえはいいが、何のことはない。追随策でしかないのだ。新自由主義戦略といっても、つまりいま呼ばれている規(支えることを強いられAのセカイの形成と発展に対応を迫られた日本国家と大企業の、また中・小・下請け企業の生き残りのための戦略でしかない。戦略などの大袈裟な言葉ではなく、ただ従うだけの話に過ぎない。
 今治市を代表するタオル産業を念頭に置いて考えると話は分かりやすい。私の記憶は定かではないが、確か2002年頃からタオル産業の生き残りのために、いわゆる外国人の実習生・研修生制度を採用した。もちろん日本政府との「共同事業」である。今治だけに限定される話ではなく、日本の中小企業を抱える県市町村が対象となっていた。そこに加計学園が、これまた大学(企業)生き残りのための外国人留学生集めに、加わったのだろう。愛媛県と愛媛の経済界も例外ではない。アジアとの経済交流を求める県内企業の後押しを図るために、加計学園との提携、連携を視野に入れて動いたのだろう。
 いずれにしても、私のモデルで描くB、C、Aのセカイを支えるAの日本とその愛媛県と今治市と、加計学園岡山理科大学の生き残りのための動きと、そこに日本政府とが絡まった話であるのは間違いない。何も面白い話でもないのだが、問題はその狡猾なやり方だ。しかしその狡猾さにおいては、私も変わらない。ただ私の能力のなさから、加計や安倍ほどには、また政治家や官僚ほどには、甘い汁にありつけないだけなのだ。しかしながら、ちゃっかりと外国人実習生・研修制度による低賃金の外国人労働者を搾取して、安い商品の恩恵に与ることで、自分の生活を防衛していることだけは確かであろう。このいやらしさは中途障碍者となっても何も変わらない。誰かを差別し排除する仕組みの中で、誰かに差別され排除される自分自身を憐れむことはできない。安倍や加計を非難することにも後ろめたさを感じないでは、できないはずだ。もっとも、それでも私は今の加計学園のやり方は許せないのも確かだが。どうも歯切れが悪くなるのはいつものことだ。
 ただし、権力の中心を目指す者は、与党も野党も、権力を握る者も、権力者を激しく糾弾する者も、いずれの側においても、この歯切れの悪さを自覚、自戒など露ほども感じたりはしないのは確かなことか。平気で嘘をつく。悲しい限りだ。どうか、私にばれない高等な、高尚な嘘をついてほしいものだ。それにしても「バリア・フリーの会(党)」の結成を、それを目指さなければの思いは増すばかりなのだが、現実にどう向き合えばいいのか、悩みは尽きない。話を戻そう。
 あなたが「商売人」ならば、加計孝太郎のやりたいことはわかるだろうし、そこに群がる愛媛の商売人、日本の商売人もわかるだろう。今治市の獣医学部をまずは拠点として、中国やアフリカからの外国人留学生を引き込んで、その後ろの家族や周りの者を観光客で引き込み、彼らと関係、関連する商売人を引き込んで、グローバルな衣・食・住のネットワークづくりを展開していく。そのための資金は、そのネットワークの恩恵を受けないで(正確に言えば、上述したように全く受けないわけではないが)犠牲を強いられる市民や県民や国民の税金である。
 何でこんなことに気が付かないのだろう。気が付いても、みんなが「勝ち(負け)続けなきゃならない」システムの中で飯を食っている、いろいろ言っても結局のところはそれしかないので、仕方がない。私たちの税金の源もこのB、C、Aのセカイに大きく依存している。マスコミも民間企業で、スポンサーが、株主がみなB、C、Aのセカイで金儲けをして、飯を食べて行くしかないので、加計を外せない。外したとしても、次の加計を創作して、「金の成る木」をつくらないといけない。
 逆から見れば、この加計や愛媛県や日本政府の動きに呼応した、BやCの側にいるパートナーの存在も忘れてはならない。日本の至る所で、B、C、Aのセカイの確固とした仕組み造りに動員されている人々の存在に目を向けておかなければならない。付言すれば、日本人は「嫌中」の物言いが好きだが、上から下まで中国のお金と商品にどっぷりと漬かりながら骨抜きにされて喜んでいる民族もないのではないか。私は「好中」だが、安倍や官僚を好きになれないように、どこの国の権力者のやり方も嫌いだし、やはり怖いのである。(もちろん、この物言いもおかしい。いろいろな理屈をついたとしても、権力者は私たちがつくり出すのだから。)加計学園の獣医学部新設問題をこうした観点から捉えておかないと、とてもではないが反対派に明日はないのもやはり確かなことなのだ。
 愛媛県の中・小・下請け企業が日本の大企業に追随する形で、既にこのB、C、Aのセカイで描くグローバルな世界に取り込まれて身動きが取れない状況の中にあるということを確認、理解した上で、加計学園問題を考えない限り、反対派は大きな力を獲得できない。愛媛の既成政党や日本の野党勢力は、そうした流れから少しでも身動きが取れる戦略が打ち出せないならば、これまたどうしようもないだろう。野党の中心勢力の連合や官公労の傘下にある労働組合や労働者に明日を託すことなど、もうとっくにできない相談なのだ。じゃあ、どうする。私は既に何度もその代案を語ってきたが同時に、その代案が現実化しない理由も述べてきたし、今回のブログ記事もそれを論じている。ただ、私はやはり以前の記事でも述べたように、「バリア・フリーの会(党)」という政治団体の結成から始めなければならないと確信したのも、やはりまた確かなことなのだ。


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障碍者の私にとって、「民主主義」とは何なのか(1)

2017-08-09 | 社会 政治

障碍者(視覚障碍者)の私にとって「民主主義」とは何なのか(1)
 私たちの多くが当たり前のように口にする「民主主義」とは何だろうか。私なりに数十年近く、それこそ頭が腐るほど考えてきたのが、中途視覚障碍者となった今、改めてこの問題に向き合いたい。もちろん、これまでのブログ記事の話と関連しているし、前回、前々回の加計問題の話も念頭に置きながら論じている。
 よく私たちは、民主主義とは「手続き」が大事なんだ、手続きに則った民主主義なんだと語る。(加計問題でも手続きに不正があったとか、不当な圧力があった云々の話がその中心であったのは記憶に新しい。しかしながら、そうした国会の話は、地元愛媛今治市が具体的にどれほどの税金を負担してそれが市民や県民生活にいかほどの負担を強いるかに関してまったくと言ってよいほどに、無関心な態度であった。そこには、当の地元の国会議員が県知事、今治市長と一緒に、推進論者であることも大きく影響しているが、それ以上に、中央と地方の間のバリア関係が存在しているように思われた。あたかも健常者と障碍者の間にあるバリアである。優先順位とその内容がはなはだしく異なっているのだ。中央ではとにかく安倍さえ下せば、成功であり、加計問題やましてや地元県民や市民の生活云々には直接関心がないのだ。)もう少し具体的にその手続きをごく簡単に言うならば、それは一人一票が認められていて、言論、表現、集会、出版その他諸々の「自由」な条件が保証された状態で投票する中で、私たちの代表者を選出する一連の流れを指している。またそのことと関連して、多数決の原則に依拠した、多数決という決定の形式を含む民主主義が大事だとも強調する。
 ここでは、まずは民主主義を便宜的に、このように定義しておこう。それではその手続きなり多数決を誰が実際に担うのかについて考えてみよう。これも簡単に言えば、有権者であるが、その有権者の範疇は時代と国ごとに異なっている。また、マスコミで民主主義というとき、私たちの民主主義は一般には自由民主主義、自由主義的民主主義であり、通常は自由や自由主義的は省略されていることに注意しておかなければならない。それゆえ、私たちが手続き的民主主義とか多数決の原則に依拠した民主主義という場合、正確には手続き的(自由・自由主義的)民主主義であり、多数決原則の(自由。自由主義的)民主主義であることを銘記しておかなければならない。付言すれば、大衆民主主義という場合も、正しくは大衆(自由・自由主義的)民主主義なのだが、その弊害を語る論者の多くは、故意か意図的に、その担い手である「大衆」をやり玉に挙げてきた。(大衆はいい加減で無責任で情報操作を受けやすく社会の不安定化を導く存在であると否定的な位置づけ方がなされてきた。その反面、大衆が担う自由・自由主義的民主主義の「自由・自由主義」の弊害に関しては語らない、目をそらせてきた。
 私はこれまで民主主義の担い手を語る際に、どれほど頭の中では障碍者の存在を理解していたとしても、やはり健常者を中心とした国民、県民、市民、町民、村民を担い手としていたことは間違いない。それゆえ、彼ら障碍者が手続きや多数決原則を重視した民主主義の中で生活したとしても、最初から健常者優先の社会になってしまう懸念や危惧は容易には払拭されないし、残念ながら、私たちの身の回りの生活環境は道路一つとってみても、障碍者には優しくないのである。手続きがいくら「正しい」ものであったとしても、多数決原理を守ったとしても、そうなのだ。逆に言えば、障碍者にとっては、その手続きや多数決それ自体が重荷となってしまう。そうした手続きや多数決型民主主義が障碍者と健常者のバリアをますます強固なものとするように感じてしまう。(この問題に関しては、視覚障碍者の「同行援護」を取り上げながら、次回以降の記事で具体的に話していきたい。)
 それでは、手続きや多数決が問題なのだろうか。障碍者と健常者のバリアを取り除けないのは手続きや多数決に問題があるのだろうか、この点について以下に考えてみたい。結論を先取りして言うならば、もちろん、それはそうではない。手続きや多数決はあくまでも「手段」であり、問題はその手段を使う担い手と、その担い手の目的、目標にある。さらに言うならば、その担い手、つまり政治に参加する有権者やその家族や関係者が、社会(社会といってもいろいろあるが、ここでは国内、国際社会のうちの前者を指している)の中でどのような配置にあるのかである。確かに一人一票だが、その一人は、社会のどこに位置しているのだろうか。当然ながら、それぞれ異なる。それを踏まえてわかりやすく言えば、豊かな階層に位置する一人、貧しい階層に位置する一人、その中間に位置する一人の1票である。こうした階層間のバリアは、先の健常者と障碍者のバリアに似ている。手続きや多数決重視の民主主義によって、このバリア関係を是正したり軽減することはできなかったのではあるまいか。むしろ手続きや多数決はこうしたバリア関係をを前提する、当然のものとして是認する社会の中でつくり出されてきたのではあるまいか。そして、そのバリアを関係を強化、固定化するのに寄与してきたのではあるまいか。もう少し踏み込んでいえば、民主主義の歩みの中で、こうしたバリア関係をたとえ一時的に国内においては「圧縮」できたとしても、世界全体の民主主義の歩みにおいては、バリア関係の維持と存続、その強化に手を貸してきたとしか言いようがないのである。(ピケティの『21世紀の資本』は、資本主義社会の格差の長期的持続性を描いているが、彼はその打開策として、「民主主義を取り戻せ」云々と論じているのだが、私のここまでのくだりを考えれば、民主主義それ自体の歩みもまた自由や人権、平和の「格差」をもとにしてつくり出されてきたのだから、私はやはりピケティの政治的分析には従えない。この点に関してはずっと以前のブログ記事を参照されたい。)
 それでは、そうしたバリアとその関係は誰によってつくられてきたのだろうか。また誰にとって有用、有益なのだろうか。そうしたバリア関係の形成と民主主義の発展の歩みとはどのように関連、関係しているのだろうか。ところで、中途視覚障碍者としての私が、健常者に向かって、「すいません、もっと優しい安心できる安全な道路をお願いします」と訴えたとき、健常者の多くは何故私の声に耳を傾けてはくれないのだろうか。この問いは、すぐさま昨日の健常者の私に対するのと同じものであることに気が付く。なぜ、昨日の、以前のの私は、こうした声に耳を傾けれなかったのか。それでも平気だったのはどうしてなのか。平和な民主主義の社会の果実を謳歌する一方で、民主主義社会を担う健常者としての私の、視覚障碍者や他の障碍者に対するこの残酷さや薄情さは、一体どこからくるものだろうか。手続きなのか、手続きがおかしい、不正があったからなのか、歪めらているからなのか。多数決の原則に問題があるからなのか。いやそうでもあるまい。
 ここで急いで付言しておきたい。先ほどの視覚障碍者としての私の叫びを思い起こしてほしい。そう、もっと優しい、安全、安心な道路をお願いします、の声だ。このような救いを求める、助けを求める声は、世界の此処彼処で発せられてきたのではあるまいか。先進国の皆さん、私たちをもうこれ以上、あなた方の「発展」、「発達」と形容される「近代化」の渦に真子駒内でください。お願いですから、もっと以前にあった私たちの優しかった、安心、安全な社会を、私たちの手に返してください、もうこれ以上あなた方の勝手な利便性のためだけに、私たちの貴重な資源を掘り出し、持ち出さないでください。自然の環境を壊さないでください、との声が。本当ならば、聞こえてくるはずなのだ。途上国の貧しい子供たちが、母親たちが、先進国に暮らす私とあなたたちに訴えているのに。
 それこそ第9条の下で私たちは世界の誰一人殺さないでここまで来られたと湾岸戦争時によく聞かれた声だが、今の私には、昔の論考でそうした独りよがりの無神経さ極まれる平和主義を論難していた以上に、私にはとてもその声の残酷さ、不人情さがやりきれなく響く。世界の至る所で救済を求める声は、まさに誰一人戦争に行かないで殺さないで済んだという日本とそこに暮らす健常者と障碍者に対して、長い間発せられていたのではあるまいか。戦後日本の復興に必要な私たちの[衣食足りて]の営為に応えるために、戦前戦中ならず、戦後も東アジア、東南アジア、南アジア、中東の諸地域とそこに暮らす人々の犠牲を、私たちは強いてきたのではあるまいか。そこではどれほど多くの血が流されきたのかか。それに気が付かないで、先のような戯言を繰り返す第9条論者は、もう第9条云々を語る資格はない。今までとは違った別の語り方があるだろうに。
 いずれにせよ、そうした救いを、助けを求める声に、私たちは耳を傾けられなかったのだ。それは何故だろうか。手続きや多数決に問題があったのではなかろう。大衆民主主義の大衆に問題があったとすべて決めつけるのにも無理があるだろう。こうした一連の問いかけは、今日の格差社会を巡る問題とも関係してくる。ニューディール時代以降の黄金時代のアメリカに戻ればいいとか、戦後の先進国が体験した分厚い中間層が中核をなした社会を取り戻そうとかの見解が目に付くのだが、。それでは問いたいのだ。アメリカが、また他の先進国が豊かで繁栄していた1950,60年代、70年代初頭のアメリカ人や先進国に暮らす人々はその間、こうした貧しい国や地域とそこに暮らす人々の叫びに耳を貸したのだろうか、傾けることができたのか、と。昨日の健常者の私は、今日の明日の視覚障碍者の私に目を向けていただろうか。その存在に気が付いていたのだろうか。ここでも同じように手続きがたとえ素晴らしくても、妥当であれ、その「公正」な手続き的、多数決型民主主義が、貧しい国や地域から発せられている「私たちもあなた方先進国に暮らす人々と同じように、優しく安心、安全な社会をお願いします」との訴えに対して、振り向かないままにあったのは、何故だったのかを問わねばならない。その考察の中で、私たちは再度、手続き型、多数決型民主主義は、あるいは大衆民主主義は、その中に自由、自由主義を埋め込んでいることに気が付くはずである。そこから私たち民主主義の抱える問題は、自由や自由主義に起因するのではないかと、改めて確認するに違いない。
 もっとも、そんなこと言われても多くの人は困ってしまうだろう。特に戦後日本人の思考構造は自由は素晴らしい、人権、民主主義、平和「万歳」と何ら疑うことなく今日まで教えられてきたのだから。それが証拠に、与党も野党も、あの加計学園問題を巡る論戦の中で、手続きの公正さ、行政の正当なプロセス云々を重視した議論はするものの、まったくと言ってよいほどに、自由主義や自由民主主義が、今回は特に加計学園という一私企業の営業の自由と公の福祉が問題にされなければならなかったはずであるが、そうした問題は俎上に載せられないのだ。民主主義、またそれと結合した、そこに埋め込まれている自由、自由主義の抱える問題を基軸に、そこから加計学園問題に切り込んでいける論理、理屈がどうしても必要なのだが、それが容易に提示されないままなのだ。普遍主義、普遍的価値観を、あの安倍首相も共産党の志位委員長も同じく標榜するのだから。護憲派もそうしたバリアを構成している。同時に改憲派もしかりである。改憲派は、営業や通商や私的財産権の自由には手を加えない、むしろその逆にますます力の強い企業や株主が得をする方向にと、さらに地歩を築いていくだろうが、護憲派は、その護憲性ゆえに手も足も出ないのだ。それゆえ、格差問題の解決など彼らに言っても無駄となる。彼らは、その解決にも、憲法を守れ、民主主義を取り戻せとしか叫ばないから。(続)







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加計学園問題にみる「イジメの構造」-「植民地行政官」としての県知事と市長と県民・市民

2017-08-07 | 社会 政治
加計学園問題にみる「イジメの構造」-植民地行政官としての県知事と市長と県民・市民
 加計学園獣医学部新設問題は、「宗主国」と「植民地」の関係に置き換えてみることができる。加計学園側には、日本の最高の権威と権力を兼ね備えた人たちが組しているのに対して、獣医部新設を引き受ける側の今治市側には、それに身体を張って反対できる力もなければ、そもそもそれができない仕組みの中に置かれている。いわば、「宗主国」に対する「植民地行政官」として奉仕する立場に置かれている。
 それが証拠に、加戸愛媛県前知事が国会で何を話したかを思い出せばいい。中村現知事が何を話しているかを思えばいい。彼らは共通して、愛媛県と今治市はもう十何年前から加計に賭けてきた、と真顔で言い続けているが、少しでもまともな頭で計算できる者なら、133億円もの市税と県税をつぎ込んで、加計学園という一私企業の金儲けのために一緒に汗をかき、その挙句が年3000万円の増収しか見込めず、投資した税金額の回収に320年も要する云々の話を、公開の場でするだろうか。そこまで「私たちは馬鹿ですよ」と言わないと生きていけない、県知事になれない、務まらない境遇に環境に置かれているのだから、まさに植民地行政官でしかあるまい。誰かに、その圧力を受けて言わされてきたというのがふさわしいのか。それとも、嬉々として植民地行政官としての任務を果たしてきたというべきか。いずれもそうだろう。
 それじゃ、県民や市民はどうして立ち上がらないんだ。怒らない。みんなそんなことわかっているじゃないか。「イジメの構造」だろ。みんなイジメる側に回りたいから、そうしないと生きていけないから、何も言わないし、背を向けるんだ。背を向けるだけならまだいいのだが、一緒になって、応援するのだ。情けない、悲しい話だね。日本が米国に対してどう向き合ってきたかを自問自答するとき、すぐさま思いつくのは米国という「宗主国」に奉仕する「植民地(植民地行政官)」の立場である。そこには、中央に位置する安倍首相をはじめ大臣、官僚、国政を担う従事者たちと、地方に位置する47都道府県の中央政治に呼応した担当従事者が配置されている。問題は、一部の地域を除き、国民や県民や市民も、あたかも植民地行政官であるかのように、奉仕していることだ。自分たちより「弱い」あるいはそう思える立場や境遇や環境に置かれている者に対しては、宗主国の行政官のように、傲慢な薄情な振る舞いで向き合いながら、逆に自分よりは「強い」と判断するや、手のひらを返して、植民地行政官の如く自らを劣位者であるかのように、相手に見せながら行動するのである。
 当然ながら、植民地行政官として自らをみなして生きる者たちは、自分自身に対する誇りを持てず、同時に周りの者に対しても、いつも心の中で尊敬できないままに、さげすんでいるのだ。日本国家と日本国民が自らを、米国を宗主国として米国人を宗主国人として付き合う植民地・従属国とその行政官として、支配と従属の、差別と排除の関係に置くのと類似しているかのように、東京都と都民と福島県と県民のそれに、また46都道府県とそこに暮らす都道府県民と沖縄県と沖縄県民のそれに呼応した関係がつくられている。
 もっとも、沖縄県と沖縄県民の中にも、宗主国と宗主国人と、植民地とその行政官に類似した関係があり、どれほど馬鹿にされたら済むのかと思われる状況の中にいても、せっせと東京都と他の46道府県に奉仕する「売国奴」ならぬ「売国人」がいる。ただし、彼らも哀れな、可哀そうな者たちであるのは言うまでもない。彼らがそこまで卑屈な生き方に徹するのは、「僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない」社会とその仕組みの中に生きていて、そこで何をしなければ生きていけないか、家族を守れないかを知っているからだ。まさにイジメの関係である。一緒にイジメる側に回らないと自分も次はイジメられる、そうならないためにはどうするか、となる。文科省や他の省庁のお役人も教育委員会の先生方も、学校現場の教師たちも、みなそんなこと今さら言うまでもないよと、そ知らぬ顔をしながら、イジメはだめだ、人権をなんと考えているのか、けしからん、あってはならない、なんてということだけを宣い続けるだけだから、学校現場を含む他の社会の現場で、イジメは続くのは当たり前ではあるまいか。
 加計学園獣医学部新設問題は、まさにイジメの問題である。愛媛県知事も、今治市長も県や市の職員たちも、さらには愛媛県民も市民も、自分たちにとって宗主国と宗主国人はなんであるのか、誰なのかを、骨の髄まで、皮膚感覚にまで叩き込んで重々承知している。同時にまた、逆に言えば、自分たちにとって植民地と植民地人がなんであるか、どこの誰であるのかも、匂いを嗅いだだけで見極められるのだ。これも仕方がない。生きるため、生き残るためだから。だからこそ、タタカイは続くだろうし、闘うことが大事となるんだ。その際、間違っても、憲法を守れ、人権を大事にしろ、なんて言わないことだ。憲法や人権といった普遍主義を、イジメる側が最初に用意したことを忘れてはならない。私たちが今取り組むべきことは、加計学園問題で議論されている話に耳を傾けるだけでなく、自分たちを取り囲んでいるイジメの仕組みは、やはりだめなんだと、声を上げることではないか。イジメられていると感じている者から声を上げるのが大事ではないか。そうした時、初めて声を上げることの難しさ、声を上げて、助けを求めている者が私たちのすぐそばに、それこそ至る所にいることに、同時にまた、それにもかかわらず、その声に気が付かなかった、気づけなかった自分自身にも気が付くだろう。まずはそこまでたどり着くのが大事なことではあるまいか。そうなったときに、私たちは孫子の兵法に説かれている「敵を知り己を知れば百戦危うからず」の珠玉の文言の含み持つ意味を改めて確認できるに違いない。


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加計学園獣医学部新設問題で私たちが不問に付した重要な論点

2017-08-05 | 社会 政治
 学校法人加計学園の愛媛県今治市での獣医学部新設にかかわる問題を検討していくとき、いったい何が問題なのか、何を俎上に載せないように、私たちは動き回っているのだろうか、それが私には気になって仕方がないのだ。私はこの問題を考えていく際に、何か釈然としない思いを抱き続けていた。感覚のズレといった次元以上の恐ろしさを感じるのだ。それはは何故なのか。第3次安倍改造内閣の発足に伴い、加計問題を巡る「疑惑」にどう向き合うかのマスコミの取材に対して、首相は疑惑解明に向けてもっと謙虚に、丁寧に説明責任を果たす云々と繰り返している。また新内閣の船出に際して県内のマスコミの取材に応じて、愛媛県の中村知事は、県と今治市(あくまでも県民や市民のすべてが支持しているわけではないことを銘記しておく必要がある)は加計学園獣医学部新設を一貫して、国や政府に対してお願いしてきたので、政府はより丁寧に説明してほしいと主張していた。
 ところで、「疑惑」とは何だろうか。簡単に言えば、新設を巡る手続きの妥当性の有無、証拠資料の改ざんや黒塗り文書、首相の「意向」や「忖度」の有無、あるいは言った言わなかった等々に関係したそれである。果たしてこれらの問題が加計学園の学部新設に関した疑惑なのだろうか。私たち国民にとって、こうした疑惑の解明は本当に必要なのだろうか。疑惑の究明や解明という名のもとに、私たちが俎上に載せなければならない問題が視野の外に置かれてしまう危険性はないのだろうか。こうした点を鑑みるときに、私たちが参考にしたい発言がある。それは新内閣発足以前の7月25日の閉会中審査での民進党の桜井充議員の発言である。同氏は次のような内容の話をしていた。すなわち、今治市は96億円もの公金を投入するにもかかわらず、年3000万円の増収しか見込めず、その反面、投資資金の回収に320年を要する、と。氏の発言で私にとって見逃せない、看過できないと思われたのは以下のような言及であった。行政が不当に捻じ曲げられて、そうした結果となったのだ。行政がゆがめられていなければ、手続きが正当であったのならば、私は金額にとやかくは言わないし、問題はないと考える、と。
 私はこの物言いが気になっていた。何か釈然としない、異常さ、異様さを感じざるを得なかった。そしてほどなく加計問題の疑惑追及の背後に、もっと恐ろしいものを見つけ出したのだ。いくら説明を丁寧にしても、行政的手続きがたとえ正当なものであれ、地方の愛媛県の小さな「都市」の、赤字財政に苦しむ今治市がこれほどの公金を「一私企業」に融資する(いや、正確に言うならば、吸い尽くされる)のはおかしいし、あってはならないのではないか。何故こうした事態を私たちは許してしまうのか。国会審議や国会議員は何を守るために、何を許さないためにあるのだろうか。私たちは本来なら、こうしたやり方の異様さ、異常さこそを糾弾すべきではなかったのか。それが念頭に浮かばないのは、私たち自身がこうした赤字(それはお金だけではない。多種多様の不合理かつ不条理な境遇や環境も含んでいる。)を抱える者に、さらに借金を負わさせ、そこからさらに利潤、利ザヤを稼ぐ社会に生きていることから、またそうした関係を当然としてきたことから、そうした問題の異様さ、異常さと真正面から向き合わない、向き合えないのである。(私たちは、多国籍企業が世界のここかしこで貧しい国とそこに生きる人々の命と暮らしを脅かし、奪い尽くしてきた歴史を周知のこととしている。私たちはそうした事態を仕方のない、抗えないこととして、等閑視してきた。)国際関係における豊かな国と貧しい国との「帝国主義」関係が、形を変えて愛媛の今治に再現されようとしている。既に、愛媛県は伊方原発という「不良債権」を抱え、愛媛県民の命と暮らしの安全が保障、確保されにくい状態に置かれていることと併せて考えれば、中央(先進国・文明)と地方(後進国・野蛮)の支配と従属、差別と排除の関係が髣髴とされるのではあるまいか。
 「官」から「民」へとの大合唱で小泉郵政民営化改革が実現された。今回も行政の硬い岩盤に穴をこじ開けて新設にこぎつけようとしている。何故、「官(公)」から「民」へと活力を取り戻す動きを推進する民営化、規制廃止推進論者が、これほど臆面もなく、公金(税金)だけは手放そうとしないのか。加計学園が自分のお金でやるのなら何の文句もないし、またそれこそが「官」から「民」への構造改革ではないのか。弱者には「自己責任」を押し付けるのならば、加計学園も自己責任の原理原則の下、自力で、自前で、学部新設に努めるべきではないか。疑惑とか疑惑解明という物言いに、私たちは騙されてはならない。と同時に、私たちも、自分たちより弱い立場にある者をないがしろにしてきた自らの歩みを猛省すべきではないか。(先ごろの都議会選挙で、どれだけの候補者が福島原発事故で苦しむ福島の人たちに思いを馳せる選挙公約を構想しただろうか。)「僕(私)が僕(私)であるために勝ち(負け)続けなきゃならない」生き方から、「僕(私)が僕(私)であるために譲り合い、支え合い、助け合わなきゃならない」生き方に、替えていかない限り、私たちはいつもお茶を濁すだけの、その場その場のご都合主義の政治を自らが担わざるを得ないのは確かなことだ。:


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