私の語る「システム」論から、テレビ局の「外資規制」問題を考えるときー「日本国」を構成する「システム」比率はどれくらいなのか?
マスコミで「外資比率」がどうのと話題になっている。国会で批判されていた総務省幹部との癒着問題に端を発した東北新社が放送事業認定取消となり、その余波がフジテレビとTBSにも及んでいる。外資比率(20%超)が問題視され、国会で追及されていたのだ。それにしても、不思議な感じである。
その理由を述べるとしよう。今の日本を見渡すとき、米国や中国を始めとした諸外国による日本の動産や不動産が買い漁られ、それを政府はさほど気にすることなく規制の強化もままならない状態である。それどころか、小泉内閣の郵政民営化に代表されるように、日本の国家資産・公的財産を外国の民間資本が購入できるように便宜を図ったのは記憶に新しい。
また日本文化の防衛と声高に叫んでみても、日本のテレビ局は、日本テレビやフジテレビにおいてさえ、韓国・中国ドラマを、これでもかという具合に垂れ流し続けている。日本文化は、もう今のグローバル化の波の中で変容・変質してしまい、今さら日本固有の独自だのに拘泥する必要がどこにあるのだろうか、と感じたからに他ならない。
私の語る「システム」論から、この外資比率に関する外資規制問題を振り返るとき、開国以降、{[A]→(×)[B]→×[C]}の「システム」中で、「日本」と「日本人」は創造され、その「システム」の「文法」(その中にはナショナリズムというか国家建設に関するものもあれば、「正常な軌道」としての「民主主義」に関するものも含まれている)を丸暗記しながら、明治、大正、そして昭和と歩んでいったのだ。その観点から言えば、「日本」と「日本人」の生き方は、自分の意思と行動によってなどではなく、すべてが「システム」製というか「メード・イン・システム」であったのだ。
「日本」と「日本人」は、この「システム」を構成するA、B、Cからの人的物的な「投資」によって、その比率を正確には言えないまでも、つくり出されたことは確かなことである。「日本」と「日本人」がたとえ「主体的」に自らの意思と行動で云々と想定した場合でさえ、「日本」と「日本人」はそれ以前にすでに「システム」によって形づくられ、その歩みを規制されていることから、先の主体的な意思と行動も、そうした「制約」の中で許容されたものに限られていることを銘記しておく必要がある。
こうした関連から言えば、たとえ外資の比率をあらかじめ定めることで、外資の「外」である外国から「日本」と「日本人」の大事な何かを「防衛」スつ意図があるとしても、残念ながら、その外国とされるA、B、Cグループ諸国を担い手とする「システム」から、「日本」と「日本人」を防衛することは能わないのだ。
ましてや「システム」、つまり「システム:とその関係の歩みに異議申し立てをすることなどできないことを踏まえれば、そもそも「外資規制」という概念自体がおかしな話ということになるだろう。日本国内にある諸外国の影響力(米軍基地や中国により購入され続ける日本資産等々)を規制できないのに、ある特定の例えばテレビ局の外資制限を課すことによって、何か日本「固有」の文化や伝統が保持される防衛されるなどできるはずもないだろう。これこそ「ずっと嘘だったんだぜ」の類の話の一つなのだ。
付言すれば、私は確かに、この「システム」において、「日本」に属し、「日本人」を演じているが、安倍前首相や菅首相が「日本」に属して「日本人」を演じているとされるならば、私は直ちに、言わざるを得ないだろうし、もう既にそう述べてきたものだ。すなわち、彼らが「日本」に属するのはふさわしくないし、「日本人」を演じるのも不適格だ、と。
その意味では、私から見れば、彼らは「外国」に暮らす「外国人」なのだから、そもそも、彼らが日本国のリーダーであること自体がおかしな話であり、外資規制云々の以前に真剣に彼らリーダーの存在不適格性問題を、議論すべきなのだ。もっとも、私は「システム」論の立場から私の周りを見ていることから、「日本」「日本人」と「外国」「外国人」といった単純な区分をすることもできないのだが。
さて、これまで述べてきた問題は、いわば「ウチ」(日本)対「ソト」(外国)の関係に関する問題であるが、この問題は、「公共放送局」としてのNHKの民営化・民放化を巡る「公」(官)と「私」(民)の関係とも関連した問題である。「日本国」という「公」を構成した、あるいは公によって管理運営されてきた事業が、海外の私的民間企業(世界的に有名な多国籍企業)に売却されている問題も、外資比率の問題と同様に、大切な問題であるはずなのだが。
こうして見てくると、テレビ局の外資比率問題は、「日本」と「日本人」が今日的なグローバル化した世界の中で、どのように生きていけばいいのかを問い直す契機となると言えるだろうが、それと同時に、開国以降の明治、大正、昭和期において、当時の国際化した世界の中で、「日本」と「日本人」がどのように生きてきたのかを、改めて問い直す機会を与えてくれるものではなかろうか。
その最たる問題は、私たちにとってウチとソトを区分けする意味はどこにあった、あるのだろうか、ということだ。すなわち、「日本」と「日本人」にこだわることの意味である。それに関連して言えば、「私」(民)と「公」(官)の区分けについても、改めて考えることが大事であろう。
たとえば、「公共の福祉」というときの「公共」とその「公」にどれほどの意義なり重みがあるのだろうか。小泉元首相や安倍前首相、そして菅首相が体現していた「公」は、海外の有力な多国籍企業の「私」との癒着というか密接不可分の関係が垣間見て取れ、両者の境界がぼやけてしまい、公とされてきたものは実は私であったとか、逆に私であった者が公であったとかという具合にである。
それはまた先述したように、「日本」と「日本人」の位置づけ方にも該当する。つまりは、境界線というかその区分けがあいまいとなるのだ。そもそも「システム」のもろもろの「関係」の中で創造された事象や事物を基にして、そこから「日本」と「日本人」なるものは創造・創作されてきたのだから、それは仕方がないだろうが。
いずれにせよ、このように、いつも恣意的かつ便宜的な使い分けをすることによって、私たちの目を曇らせて、非難や批判を分散化させて、その非難・批判力を弱めると同時に、私たち庶民の的確な分析力を鈍らせることに導くのだ。本来、「システム」(〈「システム」とその関係の歩み〉)から見れば、日本という国家を準拠枠というか比較の基準としたウチもソトもないし、私・民も公・官もない。すべてが関係している事象として捉えられる。
すなわち、そもそもそのような二分法というか対立図式で理解できるものではない。それは、政治体制論の話にも該当する。民主主義体制対全体主義体制(あるいは、そこに権威主義体制を加えて三つの体制としても同じことだが)、開放体系対閉鎖体系という区分けのように、対立関係として位置付けるのではなく、両者の関係とその関係から構成される全体像を捉えることを、「システム」論は、何よりも最初に確認しようとする。
「システム」から見れば、先の二分法というか対立図式は、あくまで単一の国家を単位(一国枠)とした便宜的な位置づけ方に違いない。仮にAのウチ対ソとの関係がBのウチ対ソとの関係と、またCのウチとソトの関係と何らかの結びつきを有しているとき、先ずはそうしたウチとソトが、どのように捉えられるかの確認をすべきではあるまいか。
同様に、日本の民と米国や中国の官が、また日本の官と米国や中国の民が結びつくとき、もはや日本の民と官の次元だけでは両社の問題を論じることはできなくなる。そもそも私・民と公・官を区分けしていたのは一体いかなる理由からか、そうした区分によって何が語られ、また何が隠されるのか。こうした問いかけを許すような私・民と公・官の関係を考察するためにも、最初から二項対立思考では、議論できない問題があまりにも多すぎるのではあるまいか。
ところで、国有財産を守るとか、国家を防衛するという場合、その国を構成する者は、たとえばそれが日本であるとき、日本「一国」だけで、また日本人・国民の「一国民」だけでそれが創造されたとはどうしても考えられないのではなかろうか。何度も言うようだが、1970年代までの日本の国有財産とか日本国家の「国」は、あの「システム」論のモデルで描く{[A]→(×)[B]→×[C]}の関係の中でつくり出されてきたことを忘れてはならないのである。
これらの点を踏まえて、さらに論及すれば、そうした70年代までの「システム」の関係においては、「日本」と「日本人」を準拠枠としたウチとソトを区分けして、ウチをソトよりも、重要視、大切に扱う何らかの力が働いていた。その意味では、「日本」と「日本人」を外国と外国人から防衛するように、換言すれば「日本」と「日本人」がB、Cグループに属する「外国」と「外国人」を差別し排除する側に回っていく、またその関連からウチとソトとの境界線を厚くする、つまり「ボーダフル」にするように、そうした力が働いていた。またその関連から、公というか官は、私というか民に対して、監督・指導するように、より上位に位置するような力を、「システム」から提供されていたのである。
これに対して、70年代以降の{[B]→(×)[C]→×[A]}で描かれる「システム」においては、まさに小泉元首相の「官から民へ」のスローガンからも伺い知るように、70年代以前の関係が逆転していく。「ボーダレス」の状況・状態の中に「日本」と「日本人」は放り込まれ、これまでとは逆に、B、Cグループの「外国」と外国人」から差別され排除される側に回っていくのだ。勿論、そうした逆転に導く力を与えたのは、他ならぬ「「システム」であったことを銘記しておかねばならない。
これまで見てきたことを踏まえるとき、私たちはテレビ局の外資規制という問題を、またその関連から引き起こされるウチ・内とソト・外、私・民と公・官の関係等の問題は、「システム」と結び付けながら再考察されるべき問題であるということが理解できるのではあるまいか。
その関連から言えば、私たち庶民というか中・下級国民の命と暮らしの防衛線はズタズタに切り裂かれてしまっているにもかかわらず、「日本」と「日本人」の命と暮らしを守るための国防教化の路線が相も変わらず進められているのは、いったいどうしてなのだろうか、という問題に、そろそろ真剣に向き合うべきではなかろうか。
この問題は、換言すれば、私たち庶民の経済生活が、米国や中国に代表される海外の超有力な多国籍企業とその背後に位置する世界的金融・ハゲタカ資本によって蹂躙されてしまい、そのために、彼らが担い手となるはずの日本国家も日本人(日本民族)も、もはやその存在自体が危急存亡の秋というか、消滅しかかっているのだが、そうした現実に対して、国家や政府は何ら有効な対抗策も打てないままに、いわば拱手傍観の無様な体をさらしているのだ。
ところがなのだ。そんな体たらくな国家、政府であるにもかかわらず、相も変わらずに厚かましくも、そうした庶民を「日本」と「日本人」としての過去の記憶に縛り付けるかのように、もはや存続も危うい日本国家の防衛の任に当たるべしと叱咤激励するかのように振舞えるのはどうしてなのか、という問題である。
そこには、当然ながら、「金の成る木」としての「システム」が、ある時は米国を使い、またある時は中国を使い、そしてさらには北朝鮮、韓国、ロシアや中東諸国を使いながら、庶民にとってはお荷物以外の何物でもない日本政府を支える、利するかのように動くのである。そして今また、対中包囲網がどうの、自由で開かれたインド太平洋がどうのと、はしゃぐのだから、毛なんでもありなのだ。インド太平洋がどうのという前に、私たちの暮らすこの空間を先ずは自由で開かれた環境にすることが大事だろうが。
もうこのくらいでやめておいた方がいいだろう。犬の遠吠えにもならないから。