日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

人間と人間のイジメの関係から今日の格差社会の問題が、人間と自然のイジメの関係から気候変動問題が顕在化する。1970年代を分水嶺とする「システム」の構造転換・変容とその「格差バネ」との関連から捉え直す

2021-10-08 | 日記

人間と人間のイジメの関係から今日の格差社会の問題が、人間と自然のイジメの関係から気候変動問題が顕在化する。1970年代を分水嶺とする「システム」の構造転換・変容とその「格差バネ」との関連から捉え直すとき

(最初に一言)

1970年代は、「南」と「北」の格差が一番拡大した時期と言われている。換言すれば、「システム」の「格差バネ」の働きによって、人間による人間と自然に対する「いじめの関係」が最大化した時期ということである。そこから、今日の格差問題(それは、別言すれば、自己決定権の獲得を巡る能力に見出される格差の問題とも言い得る。)と、温暖化問題を含む気候変動問題が導かれたということになる。


イジメという言葉を用いることに私は少しためらいを感じているが、人間の人間に対する侵害行為だけでなく、人間の自然に対する侵害行為も含んでいることを、私は改めて強調しておきたいのだ。なお、いじめや侵害の言葉は、あくまでも人間を主たる対象としているのだが、記事ではそれを踏まえた上で、今回記事でも使うことを読者に断っておきたい。

私たちは「人の命は地球より重い」とか、あたかもそれが絶対であるかのような嘘を垂れ流してきた。と言うのも、私たちは自然の助けなしには生きられない。空気を吸い、水を飲み、土を耕しながら、生きてきたのではあるまいか。その意味では人間の命と地球を別個に位置付け、その比較優劣を論じること自体がナンセンスなのではなかろうか。

人間の命が絶対だと仮に認めるとしても、それはすべての人間を含んでいないということも、私たちはこれまでの生きてきた歩みの中で嫌と言うほど知っている。金持ちと貧乏人、人が食べられない高級食材にありつけるペットの存在、これまた枚挙に暇がないほどの反証事例に突き当たる。

そもそも一体誰が先のようなうそを垂れ流してきたのか。その嘘によって、私たちは何を見落とすことになったのか。たとえば、遺伝子組み換え食品(そこには様々な農作物や農薬・肥料と飼料等を含む)の登場は人間はもとより、地球に、自然環境に対して、どれほどのダメージを与えてきたのだろうか。自然に対する侵害行為を意識できない人間に、どうして人間の人間に対する侵害行為を認識・自覚などできようか。勿論、こんなもの言いをしても、もはやどうにもならないところまで私たちは来ているのだが。その最たる例がmRNAワクチンではなかろうか。


(最後に一言)

今回記事は、私がなるべく早い時期に世に問いたいと、これまであたためてきた次回作(拙著)の骨格の骨格のさらにその骨格の「素描」に過ぎない。苦しんできた甲斐というか、少し頭の中を整理できた感じ。

とは言え、それができたからと言っても、これからの世の行く末は、これまで同様により悪くなる方向において、少しも変わらないし、逆に私はますます孤立感・孤独感を味わうに違いない。それはこれまでの経験からよくわかっていることだが、これまた仕方がないとしか言いようがない。


(付記)

前回か前々回で岸田さんのことを少し褒め過ぎたようで、反省。だが、それ以前の首相が悪すぎた。私の立場は、自民党に肩入れするでもなく、野党をことさら貶めるでもなく、とにかく何も期待などできないのだ。かと言って、無責任な態度もとれない。また嘘を言った。ずっと無責任に、政治に関わってきた。背を向けてきた。真面目に考えれば考えるほど、棄権するしかないし、関われない。さりとて、自らが政党を組織化して立ち上がるでもないし、正直、途方に暮れている。つまらない有権者と言われればそれまでだし、ーーー。

(再付記)

これから次回作をまとめる作業に取り掛かりたいので、しばらくは記事投稿は休止したい。目や体の不調で、何も楽しみはないのだが、そんな私に残されたやすらぎと言えば、次回作をまとめること。ただし、それはやすらぎを与えてくれると同時に、私の心身の不健康をさらに増すだけなのは確かなことだが。

☆ここまでお付き合いいただいた読者の皆様には、ただ感謝の一言だけです。長い間、ありがとうございました。くれぐれもご自愛ください。どうか生き抜いて、生き抜いて、天寿(天命)を全うしてくださいよ。お願いですよ。

(再・際付記)

上の(再付記)ではそんな風に述べていたのだが、少しまた気が変わったというか、拙著をまとめる作業をしながら、その間にもいつお迎えが来るかもしれないことから、それを考えるとやはりその後でも書くだろう私の記事を読者に読んでもらいたいとの思いから、以下に貼り付けておくので、もし良ければ目をとおしていただければ幸いである。

(2021年11月10日)

中国に対する「人権外交」と「中国包囲網」を展開する先進諸国の行動は自分たちの過去の歴史を忘却した、まさに「天に唾する」所業ではあるまいか。歴史を謙虚に学び直すことがいま求められている。


(最初に一言)

かつての欧米先進諸国を始め日本における民主主義の実現の歩みを振り返るならば、それは、他国とそこに暮らす人々の主権や人権としての自己決定権を否定・蹂躙しながら、その実現の歩みをみたのだが、それを忘却するような今日の先進諸国の中国に対する人権外交と中国包囲網の展開である。そこには、私たちの普遍的価値とその実現に関する誤った理解の仕方があるのではあるまいか。


私のこれまでの研究から理解できることは、いわゆる「市民革命」の母国である英米仏の歴史を概観するとき、それら諸国が覇権国あるいは強大国となったということである。そしてその過程において、自らが自由主義的民主主義国へと至る歩みを辿るときに、それら諸国は多くの国を自らの植民地や従属地とすることによって、それらの諸地域とそこに暮らす人々の自己決定権を奪い取ってきたという歴史的事実であった。

すなわち、市民革命の母国とされた英米仏とその他の先進諸国は、自らが民主主義を実現しながら、それにもかかわらず、それを彼らと関係を有した他の多くの諸地域には、否定しながら、差別と排除の関係をつくり出してきたということである。その関連から言えば、かつての先進諸国が辿ってきた歴史を、いま中国が同じように辿っているということなのだ。

ここには、「システム」の大きな「制約」が如実に示されている。中国という国家が、あるいは中国共産党が自ら好んで覇権国となって周りの諸国を従属させようとしているのではない。それはひとえに、「システム」とその自己完結運動のなせる業なのだ。翻って英米仏やオランダの覇権国や強大国となった歴史も、彼らが自ら好き好んで臨んだというよりも、「金の成る木」としての「システム」とその自己完結運動の「制約」に負うところが大なのである。

残念ながら、これまで私たちが教えられてきた歴史教育では、こうした歴史とその制約に関する学習がほとんど回避されたことから、私たちの歴史における重要な問題と言うかその宿痾を理解することができないままにあったということなのだ。それは、ワイツゼッカー・元ドイツ大統領による1985年5月8日、西ドイツの首都ボンでの有名な議会演説にも垣間見られるのである。

その演説は、第2次世界大戦終戦40年を記念した祝典において、ナチス・ドイツの忌まわしい「全体主義」の歴史を念頭におきながら、「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目になる」と述べたことで知られているのだが、それは同時に「(自由)民主主義」の歴史に対しても、そしてそこからさらに、「全体主義と民主主義」の関係の歩みに対しても、同じく「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目になる」、と続けて言うべきであったのだ。

いずれにしても、そこには私たちのこれまでの「歴史叙述の神話」による呪縛によって、私たちの歴史を見る(捉える)目が曇らされ続けてきたことは確かであろう。それゆえ、今日の中国に対する、自らの過去に盲目となったままでの、上から目線での避難や批判が繰り返されるのである。こうした点を踏まえるとき、私たちは一刻も早く私の語る〈「システム」とその自己完結運動の歩み〉(換言すれば、〈「システム」とその関係の歩み〉)についての学習をすべきなのである。


(最後に一言)

今回の記事で述べた話は、今日の気候変動問題や脱・炭素社会、カーボン・ニュートラル、SDGs等の議論の在り方に対しても該当する、と私は考えている。私たちを取り巻く今のメディアの議論は、あまりにもこれまでの@歴史叙述」の在り方と酷似している・連動しているようで、私たちはある種の環境問題における呪縛に絡め取られている、と私は読者に強く注意・留意を促したいのである。


(2021年11月9日)

脱・〈炭素社会〉を声高に叫ぶ私たちの社会の中から、脱・〈差別と排除の関係を前提とする「システム」〉を叫ぶ声が聞こえてこないのは、一体どうしてなのか。


(最初に一言)

正直なところ、私には今の社会の動きはとてもきみゅ王と言うか気色の悪いものである。その訳は、何か正体がわからないものに、背中を、無理やり押されながらわけのわからないままに突き進むことを強いられているからだ。その一つとして、今日の気候変動問題へのかつての先進諸国における積極的な取り組みと、その端的な例としての脱・炭素社会とSDGs運動を訴える喧しい声の大合唱であろう。


「自然を大事にする」ことは別に何も悪いことではない。その対策も多種多様なはずだ。ところが、今の私たちの社会で聞こえてくるのは、これからこうこうしかじかの対策を講じない限りは、2?-3?十年内に、地球の気温が産業革命以前の状態と比べて、約1・?度から2・?度近く上昇してしまい、大変な事態が引き起こされる?云々の声がその中心的なメッセージを構成すると同時に、その対応として、もっぱら先の脱・炭素社会への移行と、そのための方策の一つとしてSDGs運動を推奨する動きである。

これは、とてもおかしなことではあるまいか。何か私たちの多くが集団催眠に導かれたかのように、「一つの方向」に、まっしぐらに突き進んでいるのではあるまいか。私はこれまでの研究から、リベラルな民主主義社会の実現の過程において、どうしてもその前提となる経済発展により、人間環境はもとより、自然環境の破壊が導かれざるを得なかったことを論述してきた。

そんな私からすれば、脱・炭素社会とかSDGs運動と言う前に、これまでの私たちの社会における民主化やリベラルな民主主義の実現における問題点を、改めて検討・検証することから始めるべきではないか、と私は提言せざるを得ないのだが、これに関しては何ら取り組まないままに、いきなり小手先の問題を俎上に載せて、それこそがいま私たちの最優先課題だともいわんばかりのメディアを介した態度醸成の在り方は、どこか度を越しているのではあるまいか。

私からすれば、気候変動問題の背後には、私たちが喧伝してきた普遍的価値とその世界全体への浸透・普及である普遍主義の抱える宿痾が存在しているのだ。すなわち、私たちの自由や民主主義や人権、法の支配の実現は、差別と排除の関係を前提とする者であり、それは人間集団による別の人間集団と自然環境に対する「イジメ」にも似た差別と排除の関係をつくり出すということである。こうした関係から、私たちの自然環境とそれが取り巻く人間環境が木津つけられ、壊されてきたということなのだ。

このような私たちが抱え続けてきた宿痾を看過したままで、そこから目を遠ざけさせるかのような脱・炭素社会やSDGs云々の掛け声には、私は警戒するように強く主張せざるを得ないのだが、どうしても私の立場は孤軍奮闘となるのは必至であろう。私には、私がこれまで語ってきた「システム」の凄さと言うか、怖ろしさが際立つのみだ。


(最後に一言)

もう読者にはお分かりのことかもしれないが、私たちがこれまで抱えてきた、そしてこれからも抱え続けるであろう問題の背後には、「システム」の存在があると同時に、その「システム」の下で提供されてきた私たちの「知」とその在り方が深くかかわっているのだ。その意味では、戦後日本における「論壇」の果たした影響力は、今日の気候変動とその対応問題に対しても、いまだに大きな影響力を及ぼしているのである。それゆえ、一刻も早く、戦後論壇が不問に付してきた重要な問題に、私たちは向き合うことを迫られているのだが、これも期待外れに終わるのだろうか。


(付記)

イギリスのロンドンで開催されているCOP26で環境問題を世界中に発信していた若者たちが、もし普遍的価値や普遍主義を何ら疑問視することなく、「システム」が提供する「民主化」や「民主主義」万歳の態度を受容したままであれば、彼らの環境問題への取り組みに対して、私はまったく期待などできるはずもない。

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

気候変動とは、人間による人間と自然に対する「いじめの関係」からもたらされた結果の一つ。その対策としては、CO2の(排出量の)削減以上に、「システム」のイジメの構造を是正し見直すことが肝要!

2021-10-06 | 日記

気候変動とは、人間による人間と自然に対する「いじめの関係」からもたらされた結果の一つ。その対策としては、CO2の(排出量の)削減以上に、「システム」のイジメの構造を是正し見直すことが肝要!ー「歴史叙述」の「神話」を打破すべく、新たな「歴史」を描く旅に出ようかー(6)


(最初に一言)

  • 真鍋さんという研究者がノーベル賞を受賞されるとのこと。研究テーマはCO2の増加(CO2濃度の上昇)と気候変動との関係を突き止めた?とのこと。私はCO2の増加とそれに伴う温暖化?現象を含む気候変動を、〈「システム」とその関係の歩み〉(以下、「システム」と略す。)にみられるイジメの関係(構造)という観点から考察してきたので、今回記事はそれに関して少し述べておきたい。


「システム」の基本構造である差別と排除の関係に示される「イジメの構造(関係)は、人間の人間によるいじめだけではなく、人間の自然環境に対するいじめ(その例の一つが諸々の自然環境破壊であり、その結果としてのCO2増加とそれに伴う温暖化を含む気候変動である)と相互補完的な関係にある。それゆえ、環境問題の解決はこうした人間の人間によるいじめと人間の自然に対するいじめの二重構造を理解するところから始めなければならないということになる。

つまりは、CO2の削減問題にばかり目を向けていてはだめだということなのだ。私たちは、環境問題の「大本」というか森をみないで、木木や枝葉ばかりを俎上に載せて喧々諤々の議論を繰り返してきたのではあるまいか。私はそう見てきたのだ。これに関しては、(『外大叢書』第48冊 2010)の『日本人の物語』の〈第2部 「あの戦争」の考察から見えてくるもの」を参照されたい。

そこでは、「(自由)民主主義」を実現するために、私たちは自然環境と人間環境における環境破壊を繰り返してきたことを論述している。逆から言えば、私たちがもし自由、民主主義、人権、法の支配、平和といった普遍的価値を実現しようとするならば、必ずや環境破壊を繰り返すことになる、そうした「システム」を私たちはつくり出してきたということを、そこでは考察している。

なお、その当時既に私の眼はかなり不自由であったために、(注)の位置がズレていたり、記述されない箇所も散見されるが、判読をお願いしたい。なお、第1部はその後、加筆・修正した後で、拙著『21世紀の「日本」と「日本人」と「普遍主義」ー「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウ』(晃洋書房 2014年)として刊行された。


それではここで行論の都合上、前々回のブログ記事〈(2021年9月29日)「歴史叙述」の「神話」を打破すべく、新たな「歴史」を描く旅に出ようかー(4)〉から、その一部を引用しておきたい。

(引用始め)

今回は思いつくままにツレヅレ風に述べていきたい。前回記事では、これまでの「システム」論をいじめの構造という観点から語ったのだが、たとえば、私たちが南北問題での南北関係というとき、それは北による南に対するいじめとして描くことも可能だろう。私は南北関係を、{[Aの経済発展]→(×)[Bの経済発展]→×[Cの経済発展]}の関係として描いてきた。

さらにそこから、経済発展という擁護では何か曖昧模糊とした捉え方となると思われたので、{[Aの衣食足りて]→[Bの衣食足りて・足りず]→[Cの衣食足りず]}の営為の関係に描き直した。これを私は世界資本主義システムとして位置付け理解し直すことにしたのである。

このモデルからわかるのは、Aが自らの衣食足りての営為の実現のために、Cに対して衣食足りずの営為を強いることで、AとCの関係をつくり出したということを示しているのだが、その関係はまるでイジメの関係(構造)そのものとして捉えられるのではあるまいか。今日において格差問題が盛んに論じられているが、それは換言すればイジメの問題でもある、と私は考えるのだ。

南北関係で私が注目したのは、それは何も経済的次元の問題として限定されるものではなく、政治的次元の民主主義の発展における関係としても位置付け理解されるべきだということである。私は、南北関係を政治的次元の観点から、{[Aの民主主義の発展]→(×)[Bの民主主義の発展]→×[Cの民主主義の発展]}の関係として捉えることの必要性と重要性に関して、これまで強調してきたが、ここでも民主主義の発展と言うときの何か漠然とした伝わり方を踏まえて、そこから{[Aの礼節を知る]→[Bの礼節を知る・知らず]→[Cの礼節を知らず]}の営為の関係に描き直したのである。

この政治的次元における民主主義の発展(礼節を知るの営為)のA、B、Cの関係を世界民主主義システムとして位置付け理解することを読者に伝えると同時に、この関係においても、Aの礼節を知るの営為の実現には、Cの礼節を知らずの営為が必要不可欠であることから、この政治的次元の関係においても、いじめの関係(構造)がつくられてきたことを、私は強調したのである。


当然ながら、読者の中には、民主主義はそんな関係を創るはずがないと思われる方も多いだろうが、それはイジメている側が、簡単にはそのイジメの行為を認めようとはしない、さらにはそもそもそれに気づかないことと、同じ話なのだ。付言すれば、これも何度も指摘してきたのだが、そこには資本主義と民主主義を位置付け捉える際の私たちのある思考方法が与っている、と私はみている。

すなわち、それを簡単にまとめるとすれば以下のようになるだろう。資本主義を語る際には「理念」とか「価値」の次元ではなく、その理念・価値が実現される歩みとその結果について述べるのに対して、民主主義を語る際にはもっぱら理念や価値の次元にとどまっているということである。資本主義の実現に至る歴史は「史的システム」として描かれているのを踏まえて、民主主義の実現に至る歴史を、同様に「史的システムとしての民主主義」の観点から、私は捉え直したのである。

いずれにしても、史的システムとしての資本主義であれ、史的システムとしての民主主義であれ、その形成と発展の歩みにはイジメの構造(関係)が見いだされたということであった。Aに暮らす人々は、Cに暮らす人々に対して、「私たちと同じ空間で」、すなわち[衣食足りて礼節を知る]の営為の実現が可能な空間であるが、「一緒に暮らしましょう」とは言わなかったのだから。

換言すれば、そこには差別と排除の関係が、「親分ー子分」の力の獲得を巡る争奪戦とその歩みの中でつくられた覇権システムを介して、創られてきたということなのだ。この「親分ー子分」関係を基にした覇権システムそれ自体が、いじめの構造(関係)それ自体であることを、ここでも確認しておきたい。

(以上、引用、終わり)


先の{[衣食足りて]→[衣食足りて・足りず]→[衣食足りず]}に示されるイジメの構造は、そうした関係が自然を介してつくられてういることを踏まえるとき、同時並行的に人間の自然に対するいじめの関係を内包するものとして位置付けられることを理解できる。まさに、自然はいま猛烈に悲鳴を上げているのだが、残念ながら、加害者である私たちは気付かないままなのだ。

CO 2削減を介して地球温暖化を目指す運動は、そのためにも、先の「衣食足りて(足りず)」の営為の実現を担い支える人間関係におけるいじめの構造を是正・見直す作と、不可分に結びついていることに気がつくのではあるまいか。さらにそこから、「礼節を知る(知らず)」の営為の実現の関係にみる民主主義の発展におけるいじめの構造も同様に関係していることに気がつくはずであろう。

こうしてみてくるとき、脱炭素社会の実現を目指す試み(そこにはその一つの例として、電気自動車の普及による温暖化解決の動きも含まれる)は、事(こと)の半分の世界すらも理解できていない、と言わざるを得ないだろう。そこには自然環境の保全や自然の大切さを説く議論は溢れていても、その自然をもとにして、それを破壊しながら、私たちが文明をつくり出してきたことを見失ってはならないだろう。

すなわち、自然を差別し排除する形で、、環境破壊によるいじめを基にした文明の建設があると同時に、その文明の建設を支えた「文明ー半開ー野蛮」の関係から構成された「衣食足りて(足りす)礼節を知る(知らず)」の営為の実現(の関係)における「差別と排除の関係」がいじめの関係として、相互に補完する形で構成されていたということである。


(最後に一言)

それゆえ、自然環境の保全や環境整備の問題は、「システム」における差別と排除の関係にみられるイジメの構造を是正・見直すことが何よりも必要不可欠であることに気がつくに違いない。ところが、その前に立ちはだかるのが、覇権システムの頂点に君臨する親分である覇権国なのだ。

これは厄介である。というのも、覇権国を中心とした世界の親分連中は、彼らの「金の成る木」としての「システム」の「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係を、そう簡単に修正したり手直すことなどは決して応じないであろう。その代わりとして、彼らはCO2の排出量の削減がどうの、そのための脱炭素化社会がどうのと話をそらし続けるに違いないからである。

私たちの日常生活での身近なところで生産・再生産されるイジメの関係というか構造に対して、私たち自身が自ら加害者意識をもって向き合わない限り、私たちは今後ますます、気候変動問題に安易に関わらされてしまうことになるのは必至であろう。私たちは自然(環境)に対して、常にイジメの加害者的存在であることを自覚・自戒しなければならない。それが理解されたとき、人間環境に対するイジメの加害者的存在であることにも、ひょっとすれば気がつくのかもしれない。「システム」は、自然環境と人間環境の双方を共に含んでいる。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「歴史叙述」の「神話」を打破すべく、新たな「歴史」を描く旅に出ようかー(5)

2021-10-05 | 日記

「歴史叙述」の「神話」を打破すべく、新たな「歴史」を描く旅に出ようかー(5)


(最初に一言)

記事内容とは関係のない話だが、岸田首相の誕生で、私も少しは安堵した。やっとまともに話のできる人が、その内容の是非は別にしても、まともというか安心できる態度というか、真面目に勉強した「常識人」として振舞えているから。それにしてもなのだ。「言葉」の響きが、安倍や菅とは、とくに後者とは天と地の隔たりという感じである。

私たちは、それにしてもひどい首相ばかりをこの20年近く受け入れざるを得なかった。もっとも、それ以前もそれほど変わりはないのだが。この岸田氏に対して、野党の指導者は相当に見劣りがするように、私には思えるが、私が抱いたこのイメージは、おそらく私一人ではあるまい。とにかく、ほっとしている。勿論、誤解のないように、たとえ政権が代わっても、日本の政治をつくり出す仕組みは変わらないから、今後も私たちの生活の大変さは続くのは間違いなかろう。

まあ、前置きはこのくらいにして、前回からの続きを少し話しておきたい。日本の戦後史の出発点となる東京裁判とGHQの占領統治の語り口と語り方には相当の問題がある。それと同時に、日本国憲法の前文と憲法の各条項に示されている普遍的価値の位置づけ方と理解の仕方にも問題は山積している。

東京裁判の問題点は、それが勝者による敗者を裁いた裁判(勝者の裁判)であるから問題なのではない。(無論、それも三分の理ならぬ一分の理はあるが。)また事後法によって裁かれた裁判であるから問題なのでもない。(もとより、これもまた然りだが。)その裁判はイジメの加害者が、ある時、ある所では被害者を、またある時、ある所では加害者を演じざるを得なかった国を、イジメの構造を前提として裁いたことである。そしてイジメたグループに裁判後、組み入れて彼ら加害者に従わせる中で、戦前同様に、いじめの被害者を生産・再生産することに巻き込んだ裁判であったところにこそ、最大の問題があったのだ。

戦後の日本と日本人は、「二度と戦争は繰り返しません」と」は誓ったものの、戦前までのイジメの構造に加担して、いじめられるものを作りませんとは誓わなかったのである。戦後の日本と日本人の歩みはイジメの加害者である大親分の米国の横にまるで腰巾着(こしぎんちゃく)のようにくっつきながら、親分が提供するお零れに与ってきたのだ。

そして、それを臆面もなく、戦後日本は一貫して世界の平和と経済繁栄に貢献したと、自らのイジメの構造への加担を合理化・正当化したのである。日本は戦後においても戦前同様に、東アジアの他の国や東南アジア諸国に対して、いじめる側に位置していたが、その際、戦前と異なるのは、そのイジメの行為を米国が支持・後援したことである。

こうした世界システムにおける戦後のイジメの構造は、国内における経済発展の果実に与れない人々や水俣病に代表される公害被害の救済を求め続けた、いわゆるいじめの被害者に対して、いじめの構造の下で自らの「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為に与る国民の大多数は、無視・無関心の冷淡なな態度を取り続けてきたのであった。

このような国外と国内のイジメの構造は、相互に保管する関係にあったと位置付け理解できる。私の語る「システム」論で描かれる「システム」は、別言すれば、こうしたイジメの構造というかイジメの関係から構成されたものとして、位置づけ捉え直すことができる、と私は理解している。


(最後に一言)

今回記事もまた、どうしようもない詮無い話となってしまった。私たちは、最初から歴史の語り方を間違えているのではあるまいか。私たちは、日本ノ一国民である以前に、「システム」に組み込まれた「システム人」であり、その意味ではいじめの構造を、ある時は加害者となって、またある時には被害者となって、担い支え続ける救いがたい・どうしようもない存在だとの自覚・自戒が必要なはずなのだ。

私は今もそう考えている。私たちの身の回りでは、どこそこの国に人権を抑圧したり弾圧するひどい圧制者がいてけしからん奴だとか、あの学校では今イジメの問題で誰かが大変な目にあっている、あいつが加害者らしい、またあの会社の社員は過労死寸前の状態で働いている、何を会社はやっているのだ、と枚挙に暇のないほどの問題を前にして、私たちはそうした「加害者―被害者」関係からはまったく無縁のところで生きていて、誰もイジメたり、差別したり排除などしていないと思っている。

否、それどころか、この社会がいま以上によくなることを願って、私たちは積極的に社会に関わって、少しでも住みやすい社会の実現に向けて邁進していると考える人もいるかもしれない。それは素晴らしいことではあるが、そんな彼らが自らもイジメの構造を担い・支えている張本人の一人であると、どれほど自覚・自戒しているのだろうか。換言すれば、「システム」を担い支え続けているシステム人としての存在に対して、どれほど向き合い続けているのだろうか。


(付記)

新たな内閣が発足した。与党も野党もまじかに迫った衆議院の総選挙に向けて公約を打ち出している最中だ。はたして、国会議員は、自らのイジメの構造とのかかわりをどのように捉え、理解しながら、そこから何をなすべき・なすべきではないとしているのだろうか。私が気がかりなのは、与党よりもむしろ野党の存在だ。

野党は、自民党はまったく変わっていない、岸田政権は、安倍や麻生の傀儡政権だと批判するのに熱をあげているが、自らも何も変わってないことに対する自己批判の目を向けようとはしない。彼らもまた、何某かの傀儡政権ではあるまいか。私が言いたいのは、国民が賢くなるような批判をしてほしいのだ。否、国民の方がずっと賢く、そこに野党が気付かないままだということを、理解してほしいということだ。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする