日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

都知事選挙の主要候補者の公約から垣間見られる虚偽と矛盾と欺瞞に満ちた私たちの生き方ー「主権・国民・

2024-06-20 | 日記
都知事選挙の主要候補者の公約から垣間見られる虚偽と矛盾と欺瞞に満ちた私たちの生き方ー「主権・国民・国家」とその背後に控える私的な利権・利害関係はどのように結びついているのかー私の語る「システム」論から、「〈開かずの間〉としての政治領域」の黙認によって、「日本」と「日本人」の自滅へと至る歩みは加速する-私の語る「システム」論から、都知事選関連報道を介して垣間見られる「自滅」へと至る身近な問題を考えるとき(続・続・続・続・続・続)




(最初に一言)の前に、前回記事の続き


 私たちはそれぞれの主権国家の中で国民として生きているのだが、その国家を巨大な私的利権・利害関係集団とそのネットワークが支配しているとすれば、その空間における「私」と「公」の関係はどのように捉え直す必要があるのだろうか。前回記事でも指摘していたように、明治の日本という主権国家は大英帝国として存在する英国とその英国を背後で操作するロスチャイルド財閥・企業によって創造されたとすれば、私たち日本国民と主権国家としての明治国家の関係は、一体どのように描かれ直されるのだろうか。


 それぞれの国家間の背後に控える私的利権・利害関係集団は、どのように関係しているのか。彼らは相互に対立衝突しながらも、同時にまた巨大な一大利権・利害関係の世界的なネットワークをつくり出して、すなわち私の語る「システム」であるが、そのネットワークのさらなる発展とその維持・存続のために、それぞれの主権国家をその時々の戦争へと巻き込むとすれば、諸国民は哀れな存在でしかないということになる。一つのグローバルな巨大な利権・利害関係集団として存在する「システム」は、その支配に属する各々の私的な利権・利害関係集団を使いながら、それぞれの属する国家の間で、経済交易関係を維持・発展させるとともに、それぞれの諸国家間を対立・敵対・衝突させながら、「システム」の思い描くシナリオどおりに、私たちを誘(いざな)う、と私はみている。


 ここまでのくだりを踏まえて簡単に要約すれば、以下のとおりになる。私的な利権・利害関係集団によって、いわゆる市民革命という詐欺的手法によって絶対王政を廃棄すると同時に、彼ら特権層の私的利害を調整するための道具にすぎない私的な利権・利害集団が差配する「委員会」が、それこそ公的な装いをとりつつ、主権国家として再生する、つまりは絶対主義国家を乗っ取ったとしたならば、私たちの公的空間はほとんど虚偽と欺瞞に満ちた「私」と「私」の果てしなく拡大・延長し続ける矛盾の関係であると言わざるを得ない。そこには、「公」的関係など何も存在していないのだ。


 それゆえ、もしそうした事態へと私たちが巻き込まれるのであれば、私たちもそうした「システム」の動きに対して身構えるのは、私たちの生存のためにも必要不可欠であろう。そのためには、先ずは何よりも私たちの思想・哲学を練り直すことからやり直すことが大切であろう。こうした観点から、今夏の都知事選挙の主要候補者の公約を参照することは有益であると私は考えている。その際、彼らの公約から、私たちの生き方がどれほど虚偽であり、欺瞞に満ちているのかを、あらためて思い知るのではあるまいか。本論に入る前に、少しそれについて箇条書きの形で述べておきたい。


①当然と言えばそれまでだが、都民が引き受けている(押し付けられている)日米関係の抱える問題が見事にスルーされている。たとえば、横田基地を始めとした在東京米軍基地の返還要求と東京の空の航行の自由権問題等。候補者はほとんど積極的に関与しようとは見えない。こうした日米関係を前提として、米国側から無理難題が押し付けられてくる。その米国側には、米国政府は勿論のこと、世界的な米国の多国籍企業が含まれている。彼らと一緒になって、日本の大企業が私的な利権・利害関係を、都政や国政といった公的装いの下で肥大化させていく。


*この日本企業の中で都政に足を深く突っ込んでいる大企業があるとすれば、それこそ都民の財布はたまったものではなかろう。都政の問題として強調されている物価高問題や福祉問題を始めとしたオカネに関わる問題の多くは、日米関係における差別と排除の関係が切っても切り離せないということに、都民は国民は気が付くべきなのだ。政党や政治家はこうした問題に蓋をするのは最初から見えているから、なおさらである。


②あまりにも小手先だけの、その場しのぎのご都合主義的福祉対策。差別と排除の関係を前提としてつくり出される私たちの社会を変革するためには、そのための思想・哲学を提示する必要があるはずなのに、ただ単に「弱者」「低所得者層」「非正規雇用」「高齢者」等々の表面的問いかけだけで、私たちの社会の不公平・不条理差には切り込まないままなのだ。これほどおかしなこともなかろう。国民は元より、都民を構成しているのは多種多様な人間集団であるはずだから。


③私が一番の違和感を覚えるのは、いわゆる「少子化対策」問題だ。出生率が「1」を切ったとか、女性が子供を産み育てやすい環境づくりの整備が急務であるとか、そのためには若者の安定した雇用と生活できる給料が保障されなければならない云々。私にはわからない。権力者がプライベートな諸個人の思想・信条とも密接に関わる領域に、いとも簡単に土足で踏み込んで、「産みや殖やせよ」的な強圧的物言いを未だに繰り返す始末だ。彼らに人権など語る資格はない。異次元の少子化対策を始めとしたあれやこれやの対策は。、生殺与奪の権力を独占・行使できる政治家による女性そして男性に対する暴力そのものであるのだが、過鈍感な私たち国民には、過敏症の私のこの物言いは一笑に付されるかもしれない。


④諸個人の生き方は、各人の意志(思)と能力に従って選択すべきである。それがそもそも、今の私たちには許されてもいないし、保障されてもいないのではあるまいか。ここには、トマ・ピケティの『21世紀の資本』でも指摘されていたように、私たちの富の格差は、フランス革命前夜から21世紀に入ったこの時点においても、二つの短い例外的な時期を除いて、ほとんど変わっていないのだ。こうした構造を前にしたとき、私たちに求められているのは、やはり新たな生き方に関する思想・哲学ではなかろうか。


⑤そうした問題の背後には、私の語る〈「システム」とその関係の歩み〉が大きく与っていると私はみている。ピケティの言う〈r>g〉だけの問題ではないのだ。そこには覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムの各々のシステムに共通した自己決定権の獲得とその実現に際しての力(暴力)と力(暴力)のぶつかり合いの争奪戦を介してつくり出されてきた差別と排除の格差関係が存在しているのだ。


⑥そうした関係を是正あるいは変革・改革するためには、私たちの存在は、すぐ上で述べたように、いつも差別と排除の人間関係を前提として作り出されてきたのであり、富の格差はそうした関係から獲得されたのだということを、何はさておきしっかりと理解することが大切となる。そこには、マルクスの唱えた剰余価値説と労働者に対する富の再分配云々に関係なく、「システム」の中で生きている者すべては、力と力の格差関係の下で、各人が本来、手にしたに違いない物心両面における収奪された取り分を、当然のこととして社会に要求できるということを、私は主張したいのだ。


⑦それゆえ、ケインズ主義的富の再配分とそれに依拠したかつての福祉政策にも私は異を唱える。それは私の語る差別と排除の関係を前提として実現されたものだからである。付言すれば、マルクスの剰余価値説に由来した取り分の請求権も、そうした関係を前提としていたのだ。私はそれらを踏まえて、差別と排除の関係の中でつくり出された富の格差は、「累進課税」を前提とした社会のつくり直しによって、是正されなければならないと考えるのだ。誤解のないように付言すれば、この場合の累進課税は、ケインズ主義的思索から導かれるそれとは異なることを、念のために強調しておきたい。


⑧こうした私の論を前提としたとき、都知事選の候補者は簡単に逃げているとしか言いようがない。現都知事もそうであるのは言うまでもないのだが、こうした候補者の訴えとメディアの情報操作も相まって、都民はもとより私たち国民の医療・教育・年金問題等々を含む社会福祉に対する見方も、その場しのぎのご都合主義的な捉え方に終始するのは致し方なかろう。


⑨Mrs.の新曲「コロンブス」のMDが植民地主義にあまりにも無頓着?な内容である云々と非難・批判されている。その一方で、私たちは欧米諸国における難民や不法移民に対する反発と嫌悪の情が高まり、それが極右勢力・政党を勢いづけている様をメディアを介して知るのだが、そうした光景は欧米諸国におけるかつての、また今も続いている?植民地主義との向き合い方が今なお清算されていないことを教えられるのではあるまいか。そこには、私たちと私たちの生きる社会の虚偽と矛盾と欺瞞が浮き彫りとなっている、と私はみている。
   
⑩その関連から都知事選の各候補者の公約を見直した場合に何が見えてくるのだろうか。たとえば東京都内にはどれくらいの移民や難民が暮らしていて、移民や難民問題に対する候補者の考えはどのようなものなのか。また都民はどのように接しているのか。今後のことも考えれば、こうした問題も当然ながら、選挙時での重要な争点として掲げられても不思議ではないはずではあるまいか。




(最後に一言)


 私は前回記事でも述べていたように、今度の都知事選挙では小池都政の終幕を祈るばかりだが、さりとて都政の顔が新たに入れ替わったとしても、ほとんど期待もできないというのが偽らざる私の心境である。取れそうな層から票をとる。そのために公約をそれに合わせて書き換えるといった感がぬぐい切れないのだ。選挙は勝たなければならないから、それは仕方がないとはいえ、あまりにも小手先ばかりの、ご都合主義的対応では、先はないとしか言いようがない。誤解の内容に付言すれば、この場合の先とは、あくまでも私たちのそれであり、東京都とか日本国とか、自民党、公明党、立憲民主党、共産党その他の政党のそれではないのだ。


 次回記事では、今回記事の内容を踏まえながら、さらに論及したいと考えている。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする