(仮称)「バリアフリーの会」と(仮称)「バリアフリー党」をなぜ私たちは必要としているのか
前回記事で私は障碍者と健常者との関係をパラ陸上競技での絆と呼ばれるロープを介して一対の関係を構成する両者を描いていたが、そこでの両者の相互理解と尊重をとおして物事を遂行する協力関係としてつくられる一対の人間関係は、私たちの社会における心身に障害を抱える障碍者と健常者の関係にもつなげることができると私は考えている。
そこで私が強調したいのは、これまでの一人の独立した個人を単位として人間存在と人間関係を位置づけ理解してきた市民革命以降の社会の常識に対して、関係を前提として位置付け理解される一対の人間存在を、これまでの個人単位に置き換えて私たちの社会の運営を図るに際して、新たな常識を模索してはどうかと、私は問いかけているのだ。
それゆえ、私たちがこれから創造しようとする社会では近代憲法の流れを汲む日本国憲法に象徴される独立した個人を単位とする人間を権利・義務主体として位置づけ理解する仕方も、何某かの変更を余儀なくされるのは必至となる。たとえば、公共や公共の福祉という場合も、独立した一人の個人を単位として、そこから他の独立した個人との関係を前提とした公共や公共の福祉の常識も見直されざるを得なくなる。これまでのように、「力」を持つ個人が常に優位となる結論には簡単に至らないケースが当然ながら出てくるに違いない。むしろ、逆にそうした結論に至らないことこそが常識となる。
これらのことを踏まえて私が前回記事から続いて強調しておきたいのは、これまでのように独立した一人の個人を単位とした個人ではなく、一対の関係を単位とした「個人‐(絆)‐個人」を主体とする社会の攻勢を考えてもいい時期に、私たちはそろそろ来ているのではないかとの私の思いであった。
さて前置きが長くなったが、前回記事の最後でも事前紹介していた「お金の話」を基にして、今どうして私たちは今までの既成政党とは異なるバリアフリー党を必要としているのかについて、以下に論じていきたい。そのための議論のたたき台として次の記事を紹介しておきたい。それは、〈All About なぜ一部の富裕層は富を「独占」できるのか?
中原 良太(個人投資家・トレーダー) によるストーリー 〉である。詳しい内容はここでは省略しているので、興味のある方は直接この記事にあたってほしい。
同記事は、世界不平等研究所が発表した報告書「World Inequality Report 2022」に依拠して、以下のように述べている。
(引用貼り付け、始め)ーーー上位10%の富裕層が資産の76%を独占している?どうして独占できる?世界不平等研究所が発表した報告書「World Inequality Report 2022」が興味深いデータを公開しました。報告書によると、世界の富は以下のように分布していました。
・上位10%の富裕層が資産の76%を所有している
・中間40%の中級層が資産の22%を所有している
・下位50%の貧困層が資産の2%を所有している
この報告書によると、上位10%の富裕層が、世界の富の76%を所有していることが分かりました。つまり、資産の大部分は、ごく一部の富裕層によって独占されていたのです。
なぜ、一部の富裕層が資産を独占できるのでしょうか?―ーー(引用貼り付け、終わり)
すでに私たちはこうしたデータをいろいろな情報からも知ることができるのだが、それにしてもなのだ。どうしてこんなにも格差が存在しているのかと、思わず絶句するのみなのだ。この数値は世界の上位の富裕層と中位の中間層と下位の貧困層と彼らの手にする資産の割合を描いている。もう30年以上前のことだが、私の記憶が正しければ、当時のラテンアメリカ諸国では、上位20%の富裕層が80%の資産を、80%の中位と下位が20%の資産を手にしているとのことであった。こうした関係は、世界のその他の国々にも、その中身における程度の違いは見られるものの、おおよそ適用できると私は考える。
それらを踏まえて言うとき、上位20%の富裕層が80%の資産(記事では10%の富裕層が76%)を所有する一方で、残りの中位・下位の80%は20%の資産(記事では残りの90%の内の40%の中間層が22%を、下位50%が僅か2%)を手にするという関係が描かれている。そこから、私は次のように言わざるを得ない。すなわち、下位グループを占める5割の人々の命と暮らしを守るために、既成政党はほとんど何も有効な手立てを打ち出せないままにあったということだ。
私たちはこれまでも政党が選挙のあるたびに、「我が党は国民生活の維持と向上に努めている。国民の命と暮らしを守るために今後も尽力していく覚悟だ」等々と、政党はもう何十年にもわたり訴えてきたのだが、ほとんど何もできなかったことを、改めてこの記事の数値は示しているのではあるまいか。それに関連して言えば、トマ・ピケティが『21世紀の資本』で論じていた内容からも、同じことを教えてくれている、と私はみている。すなわち、中間層の下層と貧困層に対して、既成政党は彼らの生活防衛のために何も効果的な対応をしてこなかった、できなかったということを。
あるいは、それどころかむしろ、既成政党は、野党も含めて上位の富裕層とそれに近い中間層の人々の命と暮らしをさらに守り続ける政治を行ってきたとみた方がいいのではあるまいか。換言すれば、彼ら既成政党は、下位の貧困層が本来ならば受け取るべき様々な公的支援の輪を広げてより大きく拡充していくのではなく、逆に彼らから更になけなしの富を奪い取る政治に邁進してきたのではあるまいか。
それらを鑑みるとき、私たちの身の回りの「福祉弱者」とみられる老若男女の人たちに対して、既成政党がほとんど見向きもしない状態にあるのは押して導市ではあるまいか。それゆえ、一刻も早く自らの利害関係を代弁する可能性のある新たな政党の結成が求められているということなのだ。今回記事で紹介した世界の貧困層50%が資産のほんの2%しか保持していない状況は、そのままこの日本にも該当すると言っても差し支えがないのではあるまいか。
この現実を踏まえるとき、私たちは今の政治に対して悲憤慷慨して政治に背を抜けたままでいるだけでは、どうしようもないのは明らかではあるまいか。それゆえ、なんとかして私たちの政党づくりから始めなければならない。その政党の哲学というか基本的考えは、これまでとは違って〈関係としてつくられる「個人‐(絆)‐個人」〉を人間関係の単位とした「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉を見つけ出すことである。
それは独立した個人が自由に参加しながら政治的意見や見解を表明すると同時に、政党を結成して彼らの代表を議会に選出する。そこから共同体としての意思決定を行い、その政策を実現させる民主主義的な政治手法を当然のこととしてきた、これまで常識とされてきた政治に対する異議申し立てでもある。その意味において、「民主主義」とはこうこうしかじかである云々の入り口から、先ずは何よりも見直す必要性を訴えることでもある。
前回記事で私は障碍者と健常者との関係をパラ陸上競技での絆と呼ばれるロープを介して一対の関係を構成する両者を描いていたが、そこでの両者の相互理解と尊重をとおして物事を遂行する協力関係としてつくられる一対の人間関係は、私たちの社会における心身に障害を抱える障碍者と健常者の関係にもつなげることができると私は考えている。
そこで私が強調したいのは、これまでの一人の独立した個人を単位として人間存在と人間関係を位置づけ理解してきた市民革命以降の社会の常識に対して、関係を前提として位置付け理解される一対の人間存在を、これまでの個人単位に置き換えて私たちの社会の運営を図るに際して、新たな常識を模索してはどうかと、私は問いかけているのだ。
それゆえ、私たちがこれから創造しようとする社会では近代憲法の流れを汲む日本国憲法に象徴される独立した個人を単位とする人間を権利・義務主体として位置づけ理解する仕方も、何某かの変更を余儀なくされるのは必至となる。たとえば、公共や公共の福祉という場合も、独立した一人の個人を単位として、そこから他の独立した個人との関係を前提とした公共や公共の福祉の常識も見直されざるを得なくなる。これまでのように、「力」を持つ個人が常に優位となる結論には簡単に至らないケースが当然ながら出てくるに違いない。むしろ、逆にそうした結論に至らないことこそが常識となる。
これらのことを踏まえて私が前回記事から続いて強調しておきたいのは、これまでのように独立した一人の個人を単位とした個人ではなく、一対の関係を単位とした「個人‐(絆)‐個人」を主体とする社会の攻勢を考えてもいい時期に、私たちはそろそろ来ているのではないかとの私の思いであった。
さて前置きが長くなったが、前回記事の最後でも事前紹介していた「お金の話」を基にして、今どうして私たちは今までの既成政党とは異なるバリアフリー党を必要としているのかについて、以下に論じていきたい。そのための議論のたたき台として次の記事を紹介しておきたい。それは、〈All About なぜ一部の富裕層は富を「独占」できるのか?
中原 良太(個人投資家・トレーダー) によるストーリー 〉である。詳しい内容はここでは省略しているので、興味のある方は直接この記事にあたってほしい。
同記事は、世界不平等研究所が発表した報告書「World Inequality Report 2022」に依拠して、以下のように述べている。
(引用貼り付け、始め)ーーー上位10%の富裕層が資産の76%を独占している?どうして独占できる?世界不平等研究所が発表した報告書「World Inequality Report 2022」が興味深いデータを公開しました。報告書によると、世界の富は以下のように分布していました。
・上位10%の富裕層が資産の76%を所有している
・中間40%の中級層が資産の22%を所有している
・下位50%の貧困層が資産の2%を所有している
この報告書によると、上位10%の富裕層が、世界の富の76%を所有していることが分かりました。つまり、資産の大部分は、ごく一部の富裕層によって独占されていたのです。
なぜ、一部の富裕層が資産を独占できるのでしょうか?―ーー(引用貼り付け、終わり)
すでに私たちはこうしたデータをいろいろな情報からも知ることができるのだが、それにしてもなのだ。どうしてこんなにも格差が存在しているのかと、思わず絶句するのみなのだ。この数値は世界の上位の富裕層と中位の中間層と下位の貧困層と彼らの手にする資産の割合を描いている。もう30年以上前のことだが、私の記憶が正しければ、当時のラテンアメリカ諸国では、上位20%の富裕層が80%の資産を、80%の中位と下位が20%の資産を手にしているとのことであった。こうした関係は、世界のその他の国々にも、その中身における程度の違いは見られるものの、おおよそ適用できると私は考える。
それらを踏まえて言うとき、上位20%の富裕層が80%の資産(記事では10%の富裕層が76%)を所有する一方で、残りの中位・下位の80%は20%の資産(記事では残りの90%の内の40%の中間層が22%を、下位50%が僅か2%)を手にするという関係が描かれている。そこから、私は次のように言わざるを得ない。すなわち、下位グループを占める5割の人々の命と暮らしを守るために、既成政党はほとんど何も有効な手立てを打ち出せないままにあったということだ。
私たちはこれまでも政党が選挙のあるたびに、「我が党は国民生活の維持と向上に努めている。国民の命と暮らしを守るために今後も尽力していく覚悟だ」等々と、政党はもう何十年にもわたり訴えてきたのだが、ほとんど何もできなかったことを、改めてこの記事の数値は示しているのではあるまいか。それに関連して言えば、トマ・ピケティが『21世紀の資本』で論じていた内容からも、同じことを教えてくれている、と私はみている。すなわち、中間層の下層と貧困層に対して、既成政党は彼らの生活防衛のために何も効果的な対応をしてこなかった、できなかったということを。
あるいは、それどころかむしろ、既成政党は、野党も含めて上位の富裕層とそれに近い中間層の人々の命と暮らしをさらに守り続ける政治を行ってきたとみた方がいいのではあるまいか。換言すれば、彼ら既成政党は、下位の貧困層が本来ならば受け取るべき様々な公的支援の輪を広げてより大きく拡充していくのではなく、逆に彼らから更になけなしの富を奪い取る政治に邁進してきたのではあるまいか。
それらを鑑みるとき、私たちの身の回りの「福祉弱者」とみられる老若男女の人たちに対して、既成政党がほとんど見向きもしない状態にあるのは押して導市ではあるまいか。それゆえ、一刻も早く自らの利害関係を代弁する可能性のある新たな政党の結成が求められているということなのだ。今回記事で紹介した世界の貧困層50%が資産のほんの2%しか保持していない状況は、そのままこの日本にも該当すると言っても差し支えがないのではあるまいか。
この現実を踏まえるとき、私たちは今の政治に対して悲憤慷慨して政治に背を抜けたままでいるだけでは、どうしようもないのは明らかではあるまいか。それゆえ、なんとかして私たちの政党づくりから始めなければならない。その政党の哲学というか基本的考えは、これまでとは違って〈関係としてつくられる「個人‐(絆)‐個人」〉を人間関係の単位とした「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉を見つけ出すことである。
それは独立した個人が自由に参加しながら政治的意見や見解を表明すると同時に、政党を結成して彼らの代表を議会に選出する。そこから共同体としての意思決定を行い、その政策を実現させる民主主義的な政治手法を当然のこととしてきた、これまで常識とされてきた政治に対する異議申し立てでもある。その意味において、「民主主義」とはこうこうしかじかである云々の入り口から、先ずは何よりも見直す必要性を訴えることでもある。