日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

(仮称)「バリアフリーの会」と(仮称)「バリアフリー党」をなぜ私たちは必要としているのか

2024-01-31 | 日記
(仮称)「バリアフリーの会」と(仮称)「バリアフリー党」をなぜ私たちは必要としているのか


 前回記事で私は障碍者と健常者との関係をパラ陸上競技での絆と呼ばれるロープを介して一対の関係を構成する両者を描いていたが、そこでの両者の相互理解と尊重をとおして物事を遂行する協力関係としてつくられる一対の人間関係は、私たちの社会における心身に障害を抱える障碍者と健常者の関係にもつなげることができると私は考えている。


 そこで私が強調したいのは、これまでの一人の独立した個人を単位として人間存在と人間関係を位置づけ理解してきた市民革命以降の社会の常識に対して、関係を前提として位置付け理解される一対の人間存在を、これまでの個人単位に置き換えて私たちの社会の運営を図るに際して、新たな常識を模索してはどうかと、私は問いかけているのだ。


 それゆえ、私たちがこれから創造しようとする社会では近代憲法の流れを汲む日本国憲法に象徴される独立した個人を単位とする人間を権利・義務主体として位置づけ理解する仕方も、何某かの変更を余儀なくされるのは必至となる。たとえば、公共や公共の福祉という場合も、独立した一人の個人を単位として、そこから他の独立した個人との関係を前提とした公共や公共の福祉の常識も見直されざるを得なくなる。これまでのように、「力」を持つ個人が常に優位となる結論には簡単に至らないケースが当然ながら出てくるに違いない。むしろ、逆にそうした結論に至らないことこそが常識となる。


 これらのことを踏まえて私が前回記事から続いて強調しておきたいのは、これまでのように独立した一人の個人を単位とした個人ではなく、一対の関係を単位とした「個人‐(絆)‐個人」を主体とする社会の攻勢を考えてもいい時期に、私たちはそろそろ来ているのではないかとの私の思いであった。




 さて前置きが長くなったが、前回記事の最後でも事前紹介していた「お金の話」を基にして、今どうして私たちは今までの既成政党とは異なるバリアフリー党を必要としているのかについて、以下に論じていきたい。そのための議論のたたき台として次の記事を紹介しておきたい。それは、〈All About なぜ一部の富裕層は富を「独占」できるのか?
中原 良太(個人投資家・トレーダー) によるストーリー 〉である。詳しい内容はここでは省略しているので、興味のある方は直接この記事にあたってほしい。


 同記事は、世界不平等研究所が発表した報告書「World Inequality Report 2022」に依拠して、以下のように述べている。


(引用貼り付け、始め)ーーー上位10%の富裕層が資産の76%を独占している?どうして独占できる?世界不平等研究所が発表した報告書「World Inequality Report 2022」が興味深いデータを公開しました。報告書によると、世界の富は以下のように分布していました。


・上位10%の富裕層が資産の76%を所有している


・中間40%の中級層が資産の22%を所有している


・下位50%の貧困層が資産の2%を所有している


この報告書によると、上位10%の富裕層が、世界の富の76%を所有していることが分かりました。つまり、資産の大部分は、ごく一部の富裕層によって独占されていたのです。
なぜ、一部の富裕層が資産を独占できるのでしょうか?―ーー(引用貼り付け、終わり)




 すでに私たちはこうしたデータをいろいろな情報からも知ることができるのだが、それにしてもなのだ。どうしてこんなにも格差が存在しているのかと、思わず絶句するのみなのだ。この数値は世界の上位の富裕層と中位の中間層と下位の貧困層と彼らの手にする資産の割合を描いている。もう30年以上前のことだが、私の記憶が正しければ、当時のラテンアメリカ諸国では、上位20%の富裕層が80%の資産を、80%の中位と下位が20%の資産を手にしているとのことであった。こうした関係は、世界のその他の国々にも、その中身における程度の違いは見られるものの、おおよそ適用できると私は考える。


 それらを踏まえて言うとき、上位20%の富裕層が80%の資産(記事では10%の富裕層が76%)を所有する一方で、残りの中位・下位の80%は20%の資産(記事では残りの90%の内の40%の中間層が22%を、下位50%が僅か2%)を手にするという関係が描かれている。そこから、私は次のように言わざるを得ない。すなわち、下位グループを占める5割の人々の命と暮らしを守るために、既成政党はほとんど何も有効な手立てを打ち出せないままにあったということだ。


 私たちはこれまでも政党が選挙のあるたびに、「我が党は国民生活の維持と向上に努めている。国民の命と暮らしを守るために今後も尽力していく覚悟だ」等々と、政党はもう何十年にもわたり訴えてきたのだが、ほとんど何もできなかったことを、改めてこの記事の数値は示しているのではあるまいか。それに関連して言えば、トマ・ピケティが『21世紀の資本』で論じていた内容からも、同じことを教えてくれている、と私はみている。すなわち、中間層の下層と貧困層に対して、既成政党は彼らの生活防衛のために何も効果的な対応をしてこなかった、できなかったということを。


 あるいは、それどころかむしろ、既成政党は、野党も含めて上位の富裕層とそれに近い中間層の人々の命と暮らしをさらに守り続ける政治を行ってきたとみた方がいいのではあるまいか。換言すれば、彼ら既成政党は、下位の貧困層が本来ならば受け取るべき様々な公的支援の輪を広げてより大きく拡充していくのではなく、逆に彼らから更になけなしの富を奪い取る政治に邁進してきたのではあるまいか。


 それらを鑑みるとき、私たちの身の回りの「福祉弱者」とみられる老若男女の人たちに対して、既成政党がほとんど見向きもしない状態にあるのは押して導市ではあるまいか。それゆえ、一刻も早く自らの利害関係を代弁する可能性のある新たな政党の結成が求められているということなのだ。今回記事で紹介した世界の貧困層50%が資産のほんの2%しか保持していない状況は、そのままこの日本にも該当すると言っても差し支えがないのではあるまいか。


 この現実を踏まえるとき、私たちは今の政治に対して悲憤慷慨して政治に背を抜けたままでいるだけでは、どうしようもないのは明らかではあるまいか。それゆえ、なんとかして私たちの政党づくりから始めなければならない。その政党の哲学というか基本的考えは、これまでとは違って〈関係としてつくられる「個人‐(絆)‐個人」〉を人間関係の単位とした「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉を見つけ出すことである。


 それは独立した個人が自由に参加しながら政治的意見や見解を表明すると同時に、政党を結成して彼らの代表を議会に選出する。そこから共同体としての意思決定を行い、その政策を実現させる民主主義的な政治手法を当然のこととしてきた、これまで常識とされてきた政治に対する異議申し立てでもある。その意味において、「民主主義」とはこうこうしかじかである云々の入り口から、先ずは何よりも見直す必要性を訴えることでもある。



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(仮称)「バリアフリーの会」と(仮称)「バリアフリー党」についてーどうにもならない現実の中で、

2024-01-30 | 日記
(仮称)「バリアフリーの会」と(仮称)「バリアフリー党」についてーどうにもならない現実の中で、どうしようもなく生き続けている私が感じていること(2)




 ここでいう「バリアフリー」とは


 例え話として、疲れた時にあんまをしてもらうと、心身ともにしこりが取れて、また気分が良くなったと感じることがある。それは体の血行が良くなり、新陳代謝が促進されるからだ。その際の血行というか血の流れを阻害しているのがいわゆる「バリア」だと想像してほしい。血行を阻害する要因は様々である。それによって、心身のバランスが崩れて、そこからいろいろな病気を併発して、つらい日常生活を送らざるを得ない人々も多いのではなかろうか。


 そうした例は、社会で生きている私たちの人間関係にも垣間見られる。私たちの人間関係がスムーズであり、それゆえ日々の暮らしも穏やかに過ごせるとき、私たちは「生きてて良かった」との幸せな思いを感じるに違いない。ところがそうした人間関係がうまく流れないで行き詰ってしまうとき、往々にして私たちは心身ともに不調に陥りやすくなることも、これまでの人生経験からわかるのではあるまいか。


 人間関係を先の血行に譬えるとき、それを阻害してなめらかかつ温和な流れを許さないのは社会に張り巡らされた幾重幾層もののバリアの存在である。そのバリアとその働きによって、私たちは相互不信に陥ったり、そこからさらに対立敵対し合う関係をつくり出すことになる。そこには、ある一つの小さなバリアから、さらに別の以前よりも少し大きなバリアが形成され、そして次から次へと雪だるま的にますます大きくなって、ついには私たちの力でもってもどうしようもないほどに巨大化してしまい、そうしたバリアの前で立ち尽くすしかないところにまで追い込まれてしまうのではあるまいか。


 本来ならば、それこそ政治の出番であるはずなのだが、これまでの政治の流れを振り返るとき、政治はそうした巨大化したバリアを少しでもこれまでより小さなバリアへ、そしてさらに、そこからバリアをなくしていく努力をするというよりは、むしろ逆にこれまでとは異なる新たな種類のバリアをつくり出すことに手を貸してきたという方が適切ではなかろうか。その意味では、これまでの政治は私たちの諸個人間、諸集団間、諸共同体間に見られる人間関係の流れを阻害し遮断して、良好な人間関係の流れをつくり出せないままに、多種多様な「社会の病気」の発症とその蔓延に手を貸してきたと言っても過言ではなかろう。


 私たちの身の回りを見渡しても、平気で嘘をついて金品を盗んだり、他人を殺傷したりする人たちが後を絶たない。そして、私たちはそうした社会の中で生きていることに何も疑問を抱かないままで、そうした不幸な出来事からとにかく自分だけは、自分の家族だけは巻き込まれないように努めるだけではあるまいか。それと軌を一にするかのように、今の私たちの社会では自己責任という声がこれまた常識となりつつある。


 元より、自分でできることは自分でするのが望ましいのは言うまでもないことだが、不幸なことに、それが生まれながらにして叶わない人たちも多数存在している。また人生の中途で残念ながら、自分一人での生活が難しくなり、どうしても他人の力を借りなければならない人も現実には存在している。かく言う私もその一人だ。私は家族の力も借りながら、またそれ以外の人の助けにすがらざるを得ないことから、社会を構成する人間と人間の関係がぎすぎすしたものとなって、至る所で人と人のつながりが阻害され人間関係がなだらかに穏やかに流れなくなる状況・状態に対して人一倍、危惧し懸念せざるを得ないのである。


 それゆえ、人間関係を阻害する社会の中のバリアを何とかして取り除く、あるいはそれが容易ではないとしてもできるだけそれをより小さなものへとしていくことができれば素晴らしいことだと、日々の生活で試行錯誤している。そこから中途視覚障碍者となった私が辿り着いたのが以下の試案である。すなわち、障碍者とその家族、そして彼らに生活上の助言をしたり一緒になって考え行動してくれる障碍者福祉関係の従事者が中心となって、それぞれが暮らしの中で日々悩んだり思いを巡らせている問題を総合的にまとめながら、それを社会に対して発言し発信していく組織の結成である。


 その組織を(仮称)「バリアフリーの会」として立ち上げると同時に、社会に向かっての発言や発信を具体的に社会の中で実現するための政党組織として、(仮称)「バリアフリー党」の結成を目指すことを、先ずは提言したいのである。そのバリアフリーの会とバリアフリー党には、当然ながら健常者の力が必要であるのは言うまでもない。ここでパラ陸上競技での障碍者と健常者がバデイとなって走る姿を想像してほしい。


 両者は彼らをつなぐ絆と呼ばれるロープを介してバディを成している。それは障碍者と健常者が一対の関係として成立する新たな人間関係の姿を、私たちに示すものである。換言すれば、障碍者は健常者と一対の関係を構成することで彼らの失われた人間の尊厳を獲得するのに対して、健常者は障碍者との関係を持つことによって彼らの失われた人間としての尊厳を回復できる、と私はみている。


 それを踏まえて述べるならば、障碍者間のバリアを、健常者間のバリアを、そして障碍者と健常者間のバリアを、それこそ侃々諤々の議論を経ながら、実現すべき会の目標と党の綱領作成のために共に知恵と汗を出しながら、自然と滑らかにそれこそフリーな関係にしていくことを目指したい。これらの話を基にしながら、もう少し論を展開していきたい。


 上述したように、私たちが目の当たりにする政治の世界では、世の中の人間関係をスムーズにしていくのではなく、むしろ逆に様々な障壁というか壁を人為的に張り巡らせて、人の流れを悪くしていると言えるのではあるまいか。諸個人や諸集団や諸共同体間の人間関係における相互理解と相互尊重を阻害する傾向が大なのだ。すなわち、そこには人間関係にとって問題となるバリアが存在しているということである。


 そうしたバリアに直接向かいながら、そのバリアによって凝り固まってしまった人間関係をもみほぐすことをこのバリアフリーの会とバリアフリー党は直接の目的とするものである。具体的なバリアとその弊害のの例として、ナショナリズムの過度の主張とそれによる武力衝突・戦争による婦女子や幼児や子供そして高齢者や障碍者といった身動きが容易に取れない人々が犠牲となりやすい。また経済戦争の激化によって、格差や生活困難者の増加とそれに伴う貧困や犯罪、社会不安と混乱が導かれてしまい、良好な人間関係からはるかに遠い地点に、私たちは立たされることになる、まさに現在の私たちの社会がそれを象徴しているのではあるまいか。


 これらの問題を考えていくとき、そこには人間と人間の関係を阻害する、つまり身体の血行を阻害するバリアの存在と同様に、様々なバリアがあることに気がつく。私たちの身の回りには数限りのない「バリア」が存在している。それによって私たちの存在自体が窮屈になったり、身動きの取れなくなったりと支障をきたすことがoにしてあることに私たちは気がつくのではあるまいか。そのバリアというかある種の壁を取り除いていくつまりフリーな状態にすることで、私たちの生活は大いに改善されることもあるに違いない。例えば道路上の段差とか、歩幅の狭くて急傾斜なつくりの階段などがそれに該当する。


 それらはできるだけフリーとなることが望ましいと言えるに違いない。その一方で、どうしても取り除けないようなバリアも存在している。たとえば民族間や国家間そして宗教間におけるさまざまな壁を取り除くことは、かえってより以上の摩擦や紛争に導くことも容易に推察できるであろう。その際のバリアフリーとは、すべてを同じくするのではなく、むしろお互いの違いを相互に確認し尊重しながら、それぞれの「棲み分け(すみわけ)」を認め合うという意味でつかわれた方がより適切であると考える。


 私たちの人間関係それ自体もバリアに成り得るが、そうしたバリアをフリーとするというときも、先ずはそれぞれの存在自体のすみわけを尊重しながら、同時にそれぞれが相互理解を介して共通の土俵に立てる関係を創ることを目指すとの意味でのバリアフリーを目的としている。障碍者であれ健常者であれ若者であれ高齢者であれ、それこそ老若男女の人間観におけるバリアフリーを私たちは目指すことを最重要課題とするものである。


 それらの課題の中には、社会におけるいじめや格差や貧困問題に顕在化しているバリアがあり、それらの原因究明とその解決に私たちは全力で取り組む覚悟を持つものである。そのために、私たちは同じ方向性を持つ人たちの緩やかな連帯から構成されるバリアフリーの会を立ち上げると同時に、社会の様々なバリアをフリーとしていく政治運動を目指すためのバリアフリー党の結成をどうしても目指すことが重要である。


 バリアフリーとは、社会のありとあらゆるバリアをフリーとすることを大前提としているのだが、それは決して社会の同一化、均一化のためのフリーではない。むしろ、多種多様な人間存在と人間関係における相互尊重と相互理解の推進のための諸個人間のそれぞれの人間存在としてのすみわけを許していくために、私たちの身の回りのバリアをフリーとすることを目的としている。


 最後に


 ずっと以前のブログ記事でも書いてきた話を、今回記事では、以前の記事にここ数年間の人生経験から学び直した少しだけ以前とは異なる「調味料」を使いながら記事の味付けを工夫してみた。


 以下に、もう少し露骨な「お金の話」を付け加えた記事を書き加えたいのだが、今回記事はこの辺にしておきたい。そこでの話の概要を少しだけしておくならば、社会を上流層、中流層、下流層とした際に、上流層と中流層の上・中の人たちは、彼らの命と暮らしを守ってくれる政党を用意しているのに対して、中流層の下と下流層の人たちはそうした政党を持ってはいないということが、最近の年金に関する経済記事からも知ることができるという話である。


 既に、私たちはトマ・ピケティの『21世紀の資本』からもそうした傾向を読み解くことができるのだが、どうも私たちというか私のような中流層の下カ下流層の上に今のところは位置していると計算している人たちは、この先も私たちの命と暮らしを守る政党を持たないままで構わないと思っているようであれば、それは今すぐ考え直した方がいいことを、次回記事では書きたい。棄権なんてとんでもない自殺行為なのだ。自前の自分たちの政党を創って、これまで既成政党が奪い合いをしてきた「税金を取り戻す」仁義なき戦争へと臨むべきことを提言したいのだ。


 与党とほとんど変わらない野党と、野党としての存在感も使命感もなくなった既成政党に、私たちはもうこれ以上すがっていてはダメなのだ。私たちが私たちの中に眠っている人間としての尊厳に対する意識を覚醒しない限り、私たちの社会に張り巡らされた幾重幾層ものバリアを少しだけでも解消・緩和することなど到底望めないのである。



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どうにもならない現実の中で、どうしようもなく生き続けている私が感じていること

2024-01-26 | 日記
どうにもならない現実の中で、どうしようもなく生き続けている私が感じていること




 久しぶりにブログ記事を書こうかという気になったものの、それ以上にもういいのではないかとの思いが強くて、そのままで止まっていた。正直なところ、書けそうもないというか、書けないのである。もう何を書いてもどうにもならない、どうしようもないではないか。こんな思いが私を打ち砕くのみ。年を追うごとに、無力感は強まり、自分自身に対する愚痴も出なくなった。


 そんな私だが、まあ少しだけでも書いてみようか。とにかく、世の中の出来事を見聞きするだけで、もう疲れてしまうのだ。最近は、よく「寄り添う」「共に生きる」云々の話を聞くことが多い。その文言はそれなりに響きはいいのだが、格差社会が身近な事として当たり前の現在を踏まえるとき、格差社会と寄り添うとか共に生きるとかをっ表現しているように、私には思えて仕方がない。


 そんな社会を前提としたうえでのよりそうであり共生なのだから、当然ながら相当に気色悪い文言であるのだ。差別はダメだというのは簡単だが、私たちの存在それ自体が差別を前提としている。それゆえ、私たちができることは「ごくごく限られたものでしかない」ことになるのだが、そのごくごく限られたことくらいはすべきであるとの声も聞こえてくるのは疑いない。


 だが、これは相当に厄介なことだ。私たちが日々の生活を送ること自体、今ではかなり大変であるのだから、それを踏まえてごくごく限られたことを、私たちの方に背負うことそれ自体がとてつもなく、ごくごくどころか、限られたというどころか、途方もないことであることに今さらながら気がつくのではあるまいか。私たちという場合、そこには障碍者もいれば高齢者もいる。高齢者はいつしか何らかの障害を抱えざるを得なくなり、自然と「手帳」を持たない障碍者となってくることからも、すぐ前で述べたように、ごくごく限られたことに向き合うこと自体が困難になってくるのは致し方なかろう。


 先頃行われた東京都八王子市長選挙の投票率38?%から判断しても、ごくごく限られたことさえ難しいのではあるまいか。否、選挙に出かけることはとてつもなくハードルが高いということなのだ。そこにはいろんな事情が介在していて、簡単に「あるべき論」では片づけられないのだろう。もっとも、「それがどうした」ではあるのだが。


 とにかく選挙に行って1票を投じることからしか何事も始まらないし動かないのは確かなことだが、それがのっけからダメなのだから、この先何をかいわんやなのだ。今の現実を少しでも変えたいと願う人は、先ずは投票に行って、それを数十年続けてみて、そこから選挙では何も変えられない、変わらないということを身をもって学ばなければ、この先の対処法を考えることさえできないだろうから、どうしようもないことになる。それゆえ、その意味でも選挙に行かなければ、なのだ。


 勿論、これまた虚しすぎる話だが、その虚しさを感じることも大切だと言いたいのだ。これまた「それがどうした」となるのは必至だが。所詮はそんなものでしかないのだよ人生とは、である。この繰り返しの何合目に私は差し掛かっているいのか、いまなおわからないものの、今の私はまた怒りが増してきている。おかしなというか不思議な社会に対して。「LGBT」問題にはしつこいほどに敏感に反応する社会なのに、「格差や貧困、障碍者差別」問題には恐ろしく鈍感に反応する社会。これはおかしな社会ではあるまいか。


 私はそう思う。おかしな私が構成員の一人だから、おかしな社会となる云々の前に、私と異なり「真っ当な?発言」をしている普通のお兄さんお姉さん、おじさん、おばさんがテレビのコメンテータ―と称されて発言している。ほとんどすべてがこのおかしな理不尽な社会の擁護者となっていることから、そして私たちももう相当にいかれてしまってきているから、彼らの発言のおかしさというか大政翼賛会的な物言いに気がつかないのだろう。否、気がついているはずだ。視聴者の多くは暇つぶしで、何でもいいのが基本的姿勢だ。


 それにしても、日本社会は「辞書」的な知識で完全武装した物知り顔の知識人で一杯となってしまった感。受験偏差値の高い高校生がたとえば東大や京大、あるいは早稲田や慶応に入り、そこから大学院に進学して、大学の研究者となった時、とくに私は政治学関係の分野しかわからないが、とても素直というか、それこそ辞書的知識をさらに満載した研究者しか見当たらないのだ。ほとんどが欧米研究を日本語に訳した域を出ないというのが、私の感想だ。


 池上某氏のような辞書的知識を何ら疑うことなく、それを学問の前提として数十年も研究してきた人たちで大学は支配されているから、それに異を唱える者たちはほとんどが弾き飛ばされるか消え去るのみといった具合だ。ロシアのウクライナ侵攻時に登場した研究者のほとんどはウクライナ側に立ち、日本政府や欧米連合政府の見解を代弁するのみであり、ウクライナにもロシアにも偏らない議論はほとんどメディァではお目にかからない有様であった。なお、中国と台湾の関係問題においても、これまた同様な話のオンパレードである。


 ところで、いま自民党の派閥がどうのこうのと、ある時点から急にお金というか脱税問題追及の姿勢から様変わりしてしまったが、大学でも似たような学閥とかのグループができてしまう。それは仕方のないことである。。私たちの社会全体がそうした閥というか群れを基にしてつくられていることから、どんなにああだこうだと言っても、自然とそうなってしまう。それこそ「親分ー子分」関係を基礎とした差別と排除の人間関係が前提としてつくられてきたことから、そうした仕組みに誰しも組み込まれていくのは致し方あるまい。


 自民党の派閥を糾弾するマスコミ関係者も、その会社の中での何某かの閥というかグループが出来上がっているのではあるまいか。これは善悪の問題でもなく、解散すべきどうのという問題で片付けられるものではない。私たちの日本を見ても、その中には幾数幾層ものの「親分ー子分」関係が存在しており、それらが日本社会を創っていることを踏まえれば、自民党の派閥を解消することは、ある時点で実現できたとしても、いつしかまた別の形で作り替えられるに違いない。 
 
 問題をすり替えてはいけない。それは自民党の派閥の問題ではなく、裏金を作って、こっそりとうまく処理してきたという「犯罪」なのだ。ところが、そこに十分にメスを入れることができない。いろいろな形で政権党が守られているのだ。その際、そこに不当な圧力や忖度が介在しているのは、これまでの森友や加計学園問題や桜を見る問題でも明らかなことだろう。


 ところが、それが私たちのすぐ前に見えているにもかかわらず、私たち自身がその犯罪を裁けないままに、これまで見過ごしてきたということである。それゆえ、犯罪かどうかも未だ不明ということになる。こうして見てくると、裏金問題から派閥問題にすり替えられた話の流れから、今度は私たち主権者としての国民の問題が、巡り巡って浮上してくることになる。


 そして、その国民はと言えば選挙にもその過半数は行かないということから、彼ら主権者としての国民の責任問題を、自民党の裏金問題、派閥問題にすり替えていることにも繋がりかねないのだが、それには気がつかない。それで誰が得をするのか。それは国民も先刻承知のはずだ。それでも、行かないのだ。そこには、政権がたとえ交替したとしても、「政治」の中身はほとんど変わらないことを、国民はよくわかっているからに違いない。


 そこにはたとえ、政権党の顔が替わったとしても、「親分ー子分」関係を前提とする私たちの人間関係は変わらないのだから、「政治」も変わらないのは当然だろうとの思いが働くのではあるまいか。卑近な例を挙げると、日本共産党委員長の顔が替わったが、それでもこれまでの委員長であった志位氏とその後釜に座った田村氏との「親分ー子分」関係は会長と委員長の関係から伺えるように変わらないだろうから、日本共産党とその「政治」は今後も変わらないということである。もっとも、これは私の勝手な見方であるが、それでも、私はそう感じている。


 今回記事では、「親分ー子分」関係を、日本の国内に限って話をしているが、そこには日米関係、日中関係を始めとする対外関係における「親分ー子分」関係の力学が働いているのは言うまでもない。それに関連して言えば、私たち有権者の国民の6ー7割近くが選挙に行かないのは、たとえ日本のリーダーの顔が替ったとしても、親分の米国の意向に従うのみで、日本の政治の中身も変わらないとの判断から、そんな風に政治から遠ざかってしまったのかもしれない。


 それはそうだとしても、否、だからこそなのだが、選挙で1票を投じない限り、何も始まらないし、何も変わることもないのは、これまた言うまでもない。「それはそうなのだが」、との思いを引きずりながら、「それでもなお」の思いが強まるか弱まるかは、私たち一人一人の判断に従うしかあるまい。そして私は今、選挙に行く前に、やはり私の1票を投ずるに値する新たな政党を、私のような思いを共にする人たちと手を合わせて結成する必要性を強く感じている次第だ。



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