日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

私の語る「システム」論から、改めてその「仮説」を主張し続けることの意味を問い直すとき(続)ー「保守」と「革新」についての短い考察

2022-12-29 | 日記

私の語る「システム」論から、改めてその「仮説」を主張し続けることの意味を問い直すとき(続)ー「保守」と「革新」についての短い考察


 (最初に一言)の前のいつもながらの「戯言」を少しーーー

 身の回りというか世間の出来事で最近気が付くというか気になるのは。誰かが誰かを殺した、誰かが誰かによって殺されたというニュースの連続のように思えて仕方がない。こんな話をすると、すぐ横から「凶悪犯罪は統計上は年々減少している?」の声が聞こえてくるのかもしれないが、私には気になって仕方がないのだ。

 そして決まって警察はその予防というか防止ができないという現実が重なってくる。別に民事不介入の原則云々がどうのと言っているのではない。国民一人当たりの安全保障に身近にかつ迅速に対応・対処できる現場の警察官の人員をみれば、それも無理からぬことではあるまいか。

 こんな現実をよそにというか公然と無視しながら、おかしなことに国というか国家の安全保障となると、話は違って、防衛予算の上積みは天井知らずのような勢いである。国民を守らないで国を守るというか国体のみを防衛する私たちの安全保障論はオカシイと言えばそうなのだが、これは一人日本にだけ限られるものではない。いわゆる私たちのナショナリズムについての議論は、先ずはこのような点をしっかりと押さえておくべきであろう。

 これに付言すれば、ナショナリズムを考える際、私がこだわるのは、その担い手というかその実践者は、先に紹介した「人殺し」をつくり出す私たちの人間関係を前提とした社会であることから、とても一致団結など望めるものではない。それを可能とさせるのは、上からの力というか暴力による徹底した統制・管理以外にはありえないことだ。人殺しと言うと何か得意に聞こえるかもしれないが、私たちの社会ではそれを当然としているのも事実に違いない。

 私たちの社会というか「システム」は、差別と排除の関係を前提としながら、自己決定権の獲得とその実現を常としている関係上、最悪の場合には相手を傷つけ殺してしまうのは不可避となるのは言うまでもなかろう。金の成る木としての「システム」が人殺しを基本とする戦争を組み込むことのできる背景と言うか事情もここに起因しているのではないか、と私はみていている。

 国を守る・国体を守る私たちは、それこそ私の語る「システム」を、すなわち覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムを前提として生きていることから、私たち自身が差別と排除の関係を常日頃から担い支えている。それゆえ、私たちの体現するナショナリズムそれ自体も差別と排除の関係によって刻印されていることになる。それは、私たち日本の対内的関係だけではなく、対外的な関係においてもそうである。そんなナショナリズムを鼓舞することで、私たちは一体、何を守れるというのだろうか。またこれ以上さらに、何を手放す・失うことになるのだろうか。


 少し前に久しぶりに西部邁氏の対談をユーチューブで聴く機会があり、彼の話を聞いていたのだが、その内容の無味乾燥さに、我ながら追わず愕然とした次第。巧みなレトリックで話は何か常人とは異なる格調高い内容であるかののように思えるかもしれないが、私にはもう耐えられないものでしかなかった。その理由は西部氏が何も語っていないからである。先述した国民と国の安全保障に関する私の例え話と絡めて言えば、西部氏の議論はほとんどが後者を中心とした論であり、前者の国民というか普通の庶民を含んではいないということに、改めて気が付いた次第である。

 誤解のないように言えば、それが悪いとか良いとかを私はここで述べているのではない。ただ、そうした傾向にあるということを強調したかっただけである。悪く言えば、国民はあくまでも使い捨てのコマであり、肝心なのは国であり国体だとの認識がプンプンしているということだ。この手の論客の語る保守とは、それでは一体何かとなると、それは国民不在の国家を「保守」するということに尽きるのではあるまいか。

 それゆえ、この手の保守思想家が、例えば外国からの脅威から何かを守るべきだと発言するときは、その何かは国と言うか国体と言うか国柄ということであり、決してそこに暮らす人々ではないということになる。それでは、この保守と対峙していると目されている革新は、国民を守る思想であるのだろうか。それを考える際、フランス革命やイギリスアメリカの革命を念頭におくとき、そこでの革命の理念とされた思想はこれまた普通の国民(市民)というよりも、当時の社会の一部のエリート層を対象としたものであり、彼らが運営する国家の在り方を説く内容であった、と私はみている。

 早い話が、保守も革新も、その出自を辿るとき、それはごく一部の社会の超エリート層と彼らが担い運営する国家を主眼とした思想であり、普通の庶民と言うか大多数の国民は単なる駒としか位置づけ理解されていなかったのである。これは当然と言えばそうである。およそ古今東西の歴史を振り返ってみても、支配するものはごく少数であり、社会の大多数は支配される側に位置しているのであるから。それではここまでのくだりを踏まえて、いつものように話を始めることにしよう。


(最初に一言)

 保守とは、革新とはなんであるかをここでは語るつもりはない。ただし、私の語る「システム」論を前提とする限り、保守であれ革新であれ、必ずや「システム」の制約を受け入れざるを得ず、もしそれをしないままにあるべき星とか革新を語るとすれば、それは何も語ってはいない、と私はみている。


 それを鑑みるとき、私にはそもそも保守すべきものを、革新すべきものを私たちは未だに見いだせないままにいるとしか思われない。同時にまた、保守も革新もそれらの指導者たちが先頭に立って普通の庶民を指導するという図式で描かれる人間関係を当然としているのではあるまいか。思えば何百年にわたり、こうした図式で描かれる世界の中に、私たちは取り込まれてきたと言っても過言ではなかろう。

 私には、そんな保守も革新も不要である。ただただ鬱陶しい限りだ。思えばフランス革命以降、保守も革新も革命以前の王政や貴族政と同じく、少数のエリートが多数のマスを支配するという意味において基本的には政治の性格は変わらないのだ。確かに自由で開かれた空間での選挙で政治指導者が選出されるという点では、独裁や権威主義の政治とは大きく異なると強調できるものの、その内実は、世襲によって2世、3世と代表者がほとんど一部の者に独占されているか、元官僚出身といった既得権益を手にした者たちが選出されるばかりであり、さらに多くの者は投票にもいかないという現状が続く限りでは、政治はごくごく特定の限られた者たちによる独占あるいは寡占状態にあるとしか思われない。

 保守も革新も、こうした独占・寡占的政治支配の現実を前提とすることに満足している。そうした状態を打破すべき方法を論ずることに関して熱心ではない。たとえば、T・ピケティの著作である『21世紀の資本』が教えているのは、フランス革命公において二つの時期を除けば、持てる者と持たざる者との格差は縮小していないばかりか、今日においても何ら変更が見られないとのことである。

 これが示していることは、社会の中の3分の1近くは最初から社会の恩恵を受けることなく差別され排除されてきたということであり、また格差が縮小されたとされた第二次世界大戦以降の2、30年間にみられたとされる分厚い中間層の形成も、これまでのA、B、Cから構成される「システム」の高度化とその後のB、C、Aから成る「システム」へと転換・変容することに寄与したという観点から捉え直すとき、ケインズ政策による大胆な格差是正政策として位置付け理解されてきた福祉国家像も、見直されるべきものとなるに違いない。

 ここからもわかるとおり、革新の側においてもケインズ政策による大きな政府と福祉国家論と同様に、、持たざる者を救い出す思想として当然のごとく理解することは避けなければならないだろう。むしろ「システム」を維持・運営する社会の特権層を利する者として捉え直す必要があるのではあるまいか。

 保守も革新も、またそれらの思想は私の語る「システム」を前提とすることを余儀なくされることから、差別と排除の関係を前提としながら、その思想を練り上げなければならなくなるはずであったのだが、それを両思想に求めるのはそもそもヤボな話であるのは間違いない。

 なぜなら、保守の最初の大切な役目が、私の語る「システム」を保守することとなり、そこから差別と排除の関係も保守するとなれば、そんな思想に魅力もあるはずもなくなるからに他ならない。同じく革新においても、差別と排除の関係からつくり出される「システム」を先ずは受け入れて、そこから差別と排除の関係を是正するための革新の思想を提唱すべきとなるのだが、これまた自らがよって立つ存在基盤を掘り崩してしまうことから、とてもではないができるはずもなくなることは明白となる。

 それでは彼らはいかなる保守や革新を論じてきたのだろうか。保守の側は、イギリスのバークやスペインのオルテガをはじめとして、普通の庶民の命と暮らしを守る安全保障には無縁な高尚な議論を語ってきたのである。方や革新の側では、先のケインズの他に、ホブソンやマルクスに代表される思想を語ってきたが、これらの思想も、社会の最底辺層に生きる人々を踏み台とした、その意味では最初から差別と排除の関係を含み持つ思想であった、と私はみている。

 別にマルクスやケインズ、ホブソンを貶める意図はさらさらないのだが、彼らの思想は、たとえて言えば、故安倍元首相がアベノミックスとの関連で言及していたトリクル ダウンというか、上の方から順に滴り落ちてくるといった考え方を根底に含んでいた、と私はみている。そして、大事なことは、滴り落ちてくることはほとんどない、ということである。


(最後に一言)

 私たちの悲劇というか喜劇は、それこそ「ずっと嘘だったんだぜ」にもかかわらず、これまでそんなウソに多くの庶民が引っかかってきたということである。そしておそらくはこれからもだろう。それにしても「システム」は次から次へと「システム」に奉仕する知識人というか世迷言氏を輩出させる。とても太刀打ちできない。

 今日のBSか地上波か、NHKでいつものようにロシアのウクライナ侵攻・侵略についての報道が流れていたが、その中で相も変わらず、民主主義を支持する欧米諸国と独裁・専制を支持するロシアや中国という話から、民主主義の国である米国と独裁・権威主義の国である中国を軸として、世界はやがて激しく対立しあう構図が出来上がる云々の話で満ち溢れていた。何か、メディア報道が私たちを奏した方向へと誘導したくて仕方のないように聞こえてしまう。

 私たちは民主主義や権威主義・独裁について知り尽くしたわけでもないし、まだまだ十分には理解できるまでには至ってはいない。それなのに、世界の賢人とか賢者だとか評されている者たちを勝手に作り出して、彼らに世界を語らせて、そこから何かのヒントを得ようとするのであろうが、あまりにもどちらかに偏した見方ではあるまいか。彼らが誰に奉仕して食わせてもらっているのか、そのスポンサーも含めて、NHKはそれについて詳しく紹介した方がいい。

 いずれにしても、バランス感覚を最初から取ろうともしないままに、それが失われた報道とそうした情報内容の提供は、犯罪的であると私は言わざるを得ない。ロシアの暴力を告発する番組が、自ら別の暴力を行使しているのだが、ロシアの暴力と同様に、こちらの暴力もやめさせる手立てがない。残念なことだ。

 私たちは表現の自由とか言論の自由を大事にしている社会の中で暮らしているはずなのに、メディアの報道姿勢には、それが微塵も感じられないのは一体どうしたことなのか。やはり自由も力というか暴力によって獲得されない限りは、またその力の裏付けがない限りは、当の自由も何の値打ちもないということなのだ。その意味では、民主主義を標榜する国も独裁や専制主義の国とまったく同じことをしているということである。


(付記)

 誤解のないように一言付言しておきたい。私がまだ2、30代の頃にはバークやオルテガの思想から多くのことを学んだのも事実であり、ケインズやマルクス、ホブソンからも大いに啓発を受けたことも確かである。それは西部氏の著作からも同様である。それはそうなのだが、私自身が、私の語る「システム」論を構想してそれに依拠して物事を考えていくにつれて、今回記事に示したような彼らに対する評価となった次第であることを、記しておきたい。なお、以前のブログ記事でも、また拙著においても、既にもっと詳しく論じていることなので、もし時間に余裕のある方は、それらの箇所に目を通してほしい。

 


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私の語る「システム」論から、改めてその「仮説」を主張し続けることの意味を問い直すとき

2022-12-25 | 日記

私の語る「システム」論から、改めてその「仮説」を主張し続けることの意味を問い直すとき


(最初に一言)

 月日の経つのは早いもので、今年もあとわずかとなった。ここ最近の私はただ悶々とするばかりで、これで朽ち果てるだけだとすれば、やはり何か寂しいのだが、これも仕方のないことなのだろう。それにしても、目まぐるしいほどに、日々の事件や出来事を伝えるメディア報道に接するのだが、そのほとんどはすぐに忘れられてしまう。理由は簡単だ。いつも断片的で、その場しのぎの内容で満ち溢れているからだ。


 こんな情報空間の中で生きている限り、私たちの思考とその在り方は、いつしかそれで満足してしまうというか、まあこんなものだと理解してしまい、そこから先への思考回路は閉ざされてしまうのも自然と言えばそうだろう。だが、これも仕方がない。思考を深める方法と時間の制約の関係と、さらにはそんな余分な余計な思考は、結局は命取りになりかねないから、みんな賢く右に倣えとなるのだろう。私の語る「システム」の中で生きていかざるを得ないのならば、誰も責めることなどできない。


 この12月だったか、静岡県の沼津市の精神科病院で、男性看護師が入院患者に暴行とのニュースが流れた。その事件の数日後に、病院長が謝罪をして、それで終わりとなった感だが、この事件もこれまでの他のニュース報道と同様に、私にはその全体像が全くわからないままに、ただ暴行した看護師は加害者で、患者は被害者で事足れりとの受け止め方しかできなかった。確かに暴行した者が加害者であり、その被害を受けた者が被害者であるのは一見したところ間違いないように思われる。それはそうなのだが。

 世の中にはいろいろな事件や出来事がたくさんあり、細かく一つの事件ばかりを報道できないとの事情もわかるのだが、やはり何か釈然としない。加害者とされる看護師の、また被害者とされる患者の苦しみ(苦悩)が私の抱えるそれと結びつくはずなのに、それが伝わらないままで終わってしまう。思えば、こんなニュースばかりを今まで聞かされ続けてきたのだから、なんともったいないことではなかろうか。

 「暴力は絶対に許されてはならない」との暗黙、公然たる約束事を盾にして私たちはいつも「嘘」を隠蔽して生きている。それがはっきりとわかるのは、ロシアのウクライナに対する加害者としての暴力を許すべきではないとの国内・国際世論の掛け声の嘘だ。ロシアの暴力に対して、それを抑える暴力は正義の暴力だとして許されているのだが、果たして本当にそうなのだろうか。自由と民主主義を守るためにを旗印として掲げる英米諸国の正義を訴えるその声に、一片の曇り・やましさはないのだろうか。


 私は自由と民主主義社会の建設のために、私自身の暴力も含め、どれほどの暴力が行使されてきたかについて考察してきたのだが、暴力は絶対に許されないという前に、許されないとする社会を実現するためにも、その前に私たちの社会がどれほどの暴力でもってつくり出されてきたかについて、先ずは自己批判的に見直した方がいいのではあるまいか。

 今のコロナ禍社会の中で、当初からコロナワクチンの有効性を吹聴していた医学界、医療機関、製薬業界、それらと手に手を取ってその世界的普及に邁進した各国政府に対して、他方これまたその当初からその危険性を警告して、前者の推進するコロナワクチン接種に反対していたグループが存在していたが、メディァを独占する前者の情報提供・操作によって、これまでにもワクチン接種が原因で死亡したり、またその副反応の後遺症に悩む相当数の犠牲者の存在が隠蔽されてきた、と私はみている。

 本当に悔しいことだが、命を粗末にしてはならない、人権は大事だ、人の命を奪う暴力は絶対に許されない等々と声を発信する私たちの社会の中で、どうしてこれほどの「惨事」が導かれているのだろうか。ウクライナを被害者としてロシアを加害者に位置づけてそこから先の思考を封じたままの私たちのメディアは、コロナワクチン接種が原因で苦しむ本人やその家族関係者を被害者として見ているのだろうか。その際、加害者は誰なのだろうか。先述した推進派連中なのか。その際、当の私たち自身は加害者と被害者を見間違うことなく識別できるのだろうか。


 ここまでのくだりで、私が言いたかったのは、加害者とか被害者は、それほど明確にはわからないということであり、視点を変えればそれはこんがらがってしまい、もう区分けが付かなくなるということである。本来はそんなにはっきりしない両者を、あまりにも簡単に切り分けてそれで良しとしてしまうのには、当然ながら何らかの利害関係が存在しているのに違いない。その守るべき利害を前提とした加害者であり被害者であり、正義であり、自由であり民主主義だということである。そして、この構図で描かれる社会に対して異議申し立てをする者は、私の語る「システム」の提供する有形無形の圧倒的な暴力行使の前に蹴散らされてしまうか、無視されるか忘れ去られてしまうだけである。


(最後に一言)

 私はそんな図式で描かれる社会の中で生きている。それゆえ、もはや何が善とか悪とかを言っても意味など何もない。ただ淡々と息を吸い、それを吐くの繰り返しをするだけである。そんな毎日の中で、私はブログを書いてきたのだが、そこにはこれまた何の意味もない。意味を持たせる必要もないし、所詮は無駄となってしまうだけだ。それはそうなのだが、私はそれでもこれからも、ただ悶々と切歯扼腕を繰り返しながら生きていくに違いない。

 今回記事での私の結論は以下の通りだ。すなわち、私の語る「システム」論を前提とする限り、いつも加害者と被害者をつくり出すのは、差別と排除の関係を前提としてつくり出されてきた「システム」だということである。そしてその両者は、等しく「システム」を担い支える存在だとの意味において、加害者と被害者の関係以前に、共に「システム人」ということなのだ。こうした点を踏まえることなく、ただ単に加害者、被害者との区分で満足している限り、私たちの抱える問題は決して見えてこないのではあるまいか。

 これに関連して付言すれば、加害者を弁護して彼や彼女は「社会」の犠牲者だとする議論がたびたび聞かれる。同時にまた、どんな社会であれ、どのような境遇にあっても、その構成員すべてが犯罪に手を染め加害者となるのではないから、すべてを社会の所為にする論はおかしい云々との批判が提起される。ここで語られている「社会」とは、一体どのような意味でつかわれているのだろうか。私の語る「システム」論の「システム」を意味しての社会なのか。

 元より、私は世間一般で流布されている社会が私の説く「システム」を意味しているとは思わないし、天と地の開きがそこには存在しているとみている。誤解のないように付言すれば、どちらが優れているかの意味ではない。だが、今はそんなことは問題ではない。それよりも、私は先の議論にある「社会の責任にすべきではない」として、その加害者というか犯罪者と、被害者を含めた私たちの関係を、入り口で遮断してしまう思考の在り方に注目するのだ。

 換言すれば、議論の入り口で、犯罪者を差別し排除してしまっている。それは加害者との関係にある被害者も同じく差別し排除することに手を貸してしまっている。そして、そのことは、犯罪の加害者と被害者を、社会の中から排除することを意味しているのではなかろうか。その結果として、先の社会は、それがつくり出している社会それ自体の犯罪というか社会の抱える問題を、すなわち当の社会の中で加害者と被害者がつくられてしまう関係を隠蔽してしまう、隠蔽できることになるのではなかろうか。

 それゆえ、当然のことなのだが、先の社会とは私たちのいかなる「関係」からつくり出されてきたのかについて、詳しく掘り下げて考察する必要があるのは間違いない。少なくとも、加害者と被害者が抱えている生の苦しみ(苦悩)を、私たちのそれらと結び付けて共に(「共時的関係」として)確認できるためにも、是非とも大事なことではなかろうか。

 


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私の語る「システム」論から、改めて中国習近平主席のサウジアラビア訪問と中国と湾岸アラブ諸国との連携強化について再考するとき(続)

2022-12-13 | 日記

 

私の語る「システム」論から、改めて中国習近平主席のサウジアラビア訪問と中国と湾岸アラブ諸国との連携強化について再考するとき(続)


(最初に一言)

 今回記事は、前回記事についての補足的説明としたい。残念なのは、体調の関係から手短にまとめることしかできない。ただし、以前の記事ですでに書いているので、もしよければそれらを参照してほしい。


 いま私たちが目にしている出来事は、数十年から半世紀、あるいは1世紀も前から準備されてきたことだとみた方がいい。そうした点を鑑みながら、前回記事を編集したのだが、どこまで読者に私の思いが届けられたのかは分からない。

 そこでいくつか強調したかったのは、ロシアのウクライナ侵攻の背景というか原因に関しても、米国とロシア、ウクライナの関係だけではなく、私の語る〈「システム」とその関係の歩み〉の観点から、捉え直してほしいということであった。B、C、Aの「システム」におけるBの中国の力に対抗するために、ロシアはウクライナを侵攻して国力の増強を狙ったと、私はみている。

 ただし、だからと言って、ロシアと中国がすぐさま一触即発の関係状態に陥るというわけではない。むしろ、ロシアの中国に対抗したいとの強い思いに反して、それ以上に、今の段階では中国の力にすがりたい、すがるより他に手立てがないというところだろう。いずれにせよ、中国とロシアの力関係は、半世紀前から準備されていた「システム」の形成と発展が影響していることを、私は注目したい。

 さらに、その関連から言えば、いわゆる「冷戦」とその「崩壊」も、このB、C、Aから成る「システム」の形成と発展と結び付けて捉え直すべきではなかろうか。改革・開放路線から世界の工場へと中国経済の飛躍的発展に伴い、1970年代以前まで支配的であったA、B、Cから成る「システム」は後退を余儀なくされ、その結果として、米国やソ連の金の成る木としての「システム」に対する貢献度として測定される格差バネの有効性も失われるに至り、「システム」内での両国の役割も低下することとなった。

 それらを踏まえて付言すれば、1970年代以降、次第にその輪郭を現すに至ったB、C、Aの「システム」の形成と発展に際して、中国と中東、アフリカ諸国との関係強化は、重要な役割を担ったとみることができる。勿論、こうした動きの背景には、これまで何度も指摘してきたように、米・中覇権連合の形成と発展が大きく与っている、と私はみているのだが。

 
(最後に一言)

 前回記事における①から⑫までの簡単な出来事の照会は、以前の記事で(1)から(12)の具体的な説明がなかったことの反省から、前回記事において付記したのだが、それは思い付いた出来事の羅列でしかない。さらに、それにより詳しい出来事を探してまとめてほしい、と読者に願う次第である。

 今回記事で私が強調したかったのは、私たちが目にしている現在の出来事は、その「発生」に至るまでに、かなりの歴史的準備期間が必要であるということの確認である。そして、その背景成り原因を辿っていくとき、ほとんど予期しなかったような出来事が前提とされているということである。

 原因は一つではないし、それは無数の点と線から、そしてそれからつくられる面と、さらにその面と面とにより構成される立体として描かれることもしばしばであろう。言うまでもないことだが、私たちはそれをひたすら探求する旅の途中に位置しているということである。

 


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私の語る「システム」論から、改めて中国習近平主席のサウジアラビア訪問と中国と湾岸アラブ諸国との連携強化について再考するとき

2022-12-12 | 日記

私の語る「システム」論から、改めて中国習近平主席のサウジアラビア訪問と中国と湾岸アラブ諸国との連携強化について再考するとき


(最初に一言)

 毎日いろいろな事件や出来事はあるものの、私の語る「システム」にはほとんどなにも影響することはなく、それで記事も書かないままであったが、私の安否確認も込めて記事を書いておこうと思った次第。


 今回の記事タイトルにも示されているように、習近平中国国家主席によるサウジアラビア訪問と湾岸アラブ諸国との連携強化の動きは、これまで構築されてきた中国と中東諸国との深い関係を、改めて世界中に知らしめる大きな出来事であった、と私はみている。それゆえ、私は今回の習氏のサウジアラビア訪問に至る背景について、手前味噌ながらも私の語る「システム」論から、すなわち〈「システム」とその関係の歩み〉との関連から、ここで捉え直すことの重要性を確認しておきたかったので、以前の三つのブログ記事を貼り付けたことを、断っておきたい。。


*一つ目の記事
(2022,2,1)

私の語る「システム」論から、「現下のウクライナ危機」問題について考えるとき


(最初に一言)

現下のウクライナ危機の起点は、キッシンジャー、そしてニクソン訪中に、そしてその中間点は、中国の「改革・開放」路線とソ連のアフガン侵攻の「同時並行」的な始まりに、そしてその終点は、中国の世界の工場、そしてその後の覇権国へと向かう歩みと、その流れに呼応する形でのソ連の「解体」とそれに伴うロシアからのウクライナ分離工作の「成功」と、「産物の国」としてのロシアの限界露呈に、(それぞれ)端を発している。


行論の都合上、前回記事(2022,1,30)のあるくだりを以下に引用しておく。


ーーーさらに、いま私たちが生きている「システム」は、B、C、Aの関係から構成されるそれであり、Bの中国やロシアは、今後ますます自らの自己決定権の獲得とその実現に向けて「努力」を惜しまないはずだ。ーーー


B、C、Aから構成される1970年代以降から今日へと至る〈「システム」とその関係の歩み〉の性格上、上記のような動きを中国もロシアも示すのは当然だとしても、ロシアには屈辱としてしか受け止められないようなる苦い記憶が、絶えず蘇るはずであり、そこから今一度、強いロシアを目指すのならば、どうしても、「産物の国」から脱して「製物の国」へと転換しなければならない。そのためには、ソ連のかつての重化学工業地帯を構成していたウクライナを、是が非でも傘下に置くことが必要となるのだ。

元々は、〈「システム」とその関係の歩み〉の下で、換言すれば、〈「システム」とその自己完結運動の歩み〉下で、中国をBグループのトップに位置付けようと、覇権国であった米国が中心となって、中国の後塵を拝するように、ロシアを位置付けることに躍起となっていたのだが、それにもかかわらず、プーチンの指導するロシアは、そうしたロシア包囲網を打ち破るべく、着々と準備を進めてきたということである。


こうした点を踏まえながら、現下のウクライナ危機の起点から終点に至る流れを、B、C、Aの「システム」の形成と発展という観点から、もう少し広い文脈の中で位置付け直してみるとき、以下のように要約できるのではあるまいか。そしてその際に、私がとくに強調したい、注目してほしい箇所は、*と**のくだりである。


「現下のウクライナ危機」の起点からその中間点、そして終点に至るまでの簡単な要約


1970年代以降の〈「システム」とその自己完結運動の歩み〉を語る際に注目すべき点は、中東・アフリカの支配をめぐり繰り返されてきた従来の米・ソの対立、敵対と、両地域における米・ソの子分間の代理戦争、衝突とそれを介した地域の支配権の確立を巡る抗争といった図式が、米・中のそれに置換されることとなる。しかしながら、冷戦崩壊という事態が発生してから、いきなりというわけにはいかないことから、その準備が必要であろうことは誰にも推察できるだろう。

しかも米・ソ対立といってもその内実は米国がAの先頭に位置しながらBのソ連と対峙する構図であったように、米・中の対立といっても未だ中国の力は十分ではないことに目を向ける必要がある。さらに重要なのは、米国はその敵対、対立する中国を米中覇権連合の形成と発展の歩みの中で創りだしてきたと言うことである。もちろん、それを演出させたのは〈「システム」とその自己完結運動の歩み〉に他ならない。

以下でも述べるように、ニクソン訪中からベトナム戦争の終結と文化大革命の収束、改革・開放政策の展開、先進国における「小さな政府」の出現、ソ連のアフガン侵攻と米国のタリバン・イスラム勢力に対する支援、冷戦の崩壊、湾岸戦争へと続く流れは、まさにCグループの中東、アフリカ地域の支配権をめぐる従来の米・ソから米・中の構図に置換させるための〈「システム」とその自己完結運動が準備した壮大な歴史的演出であった、と私は理解している。

そうした過程において、中国は世界の工場となり、世界の市場となり(改革開放路線の下で米国に代表される西側先進国からの外資導入の下で人件費の安い中国人労働者の手による安価な製造業製品を洪水のように世界中に輸出する中で、その主要な原料供給地であると同時に、中国製品の受け入れ地でもある中東やアフリカ諸国の経済発展は、中国の経済発展の下に組み込まれることにより、ますますソ連の、あるいは米国の中東やアフリカ諸国に対する支配力、影響力は低下すると同時に、ソ連(あるいは米国)自体の国力の低下を導くのである。

*そうした中国と中東・アフリカの関係に加えてソ連のアフガン侵攻による軍事的、経済的力の失墜は覇権システムの下でのソ連の支配力の低下を招き、冷戦崩壊後のソ連邦の解体へと向かう流れに対して、どうすることもできないままに、結局のところ、ソ連の解体を招くことになる。

**ソ連自体の解体はその後のロシアから製造業の基盤を構成するウクライナのソ連からの離反を招くと同時に、解体後のロシアの経済発展が第1次産業に、とくに石油や天然ガスの開発といった天然資源に特化した「産物の国」としての産業構造を育成することに向けさせるのである。ここに中国が世界の工場となりそうした歩みの下で国力を増大させていく中で覇権国となっていく、そしてBグループの先頭に位置する「お膳立て」が出来上がるのである。

勿論、それも〈「システム」とその自己完結運動の歩み〉がそうさせるのである。また、西側のヒト・モノ・カネの大移動の受け皿となる中国は、Bグループの先頭に位置しながら、米国の支援の下で、中国は新たな「システム」の高度化を目指すのである。こうして、米中覇権連合の形成と発展の歩みが進行していくことになる。

その際、「システム」の高度化は、いつも「システム」内の構成員の差別と排除の関係を前提としていることから、1970年代以前のシステムの高度化においてはBやCにおいて、とくにCにおいては低度化の歩みが長期間にわたり維持されだが、70年代以降から今日にかけては、CとAにおいて、とくにかつての先進国が位置していたAにおいて低度化の進展は免れないし、事実その傾向はますます強まっている。

こうした〈「システム」とその関係の歩み〉の中で、中東やアフリカではⅠ期([権威主義的性格の政治→経済発展])の「段階」の前期から中期へ、そしてさらに後期の段階へとその歩みを進めている。そのために同地域では地域内での紛争や戦争が繰り返されている。その原因としてまず考えなければならないのは、70年代以降の「システム」の再編と変容であり、その「システム」の先頭に位置するBの中国とロシアの動向である。

中国がⅠ期からⅡ期の段階へとその歩みを高度化させながら、今や2基の段階の特徴である[経済発展→分厚い中間層の形成]の段階の前期から中期へとそして後期の段階を目指すところまで高度化している。こうした中国の経済発展と民主主義の発展の関係における高度化は21世紀に入ってから2040、50年頃に、明らかなものになってくる。改革・開放路線の開始からおおよそ60年から70年くらいの月日を要している。

中国の発展の段階が高度化するに従い、差別と排除の関係も同様に強化されることから、Cの中東やアフリカにおいて政情不安が高まるのは必至となる。Cにおいては多くの衝突や内戦が21世紀に入って顕著となるが、その理由は同地域の宗教的、民族的対立が直接の原因ではない。「システム」の再編と変容の歩みが直接的原因である。ーーー


さて、ここまでの「要約」を踏まえながら、今度は、以下に示しているように、論の展開を少し変えながら、さらに「現下のウクライナ危機」についての考察を進めてみよう。その際、私は、〈「システム」の自己完結運動の歩み〉から、「歴史」の「IF」を考えてみたいのである。

もしあの時、―――ならばとか、逆に、ああ、そのように歴史は動いていたのか、そしてこのように、つながるのか、というような「不思議さ」を見い出すことができるのではあるまいか。それと同時に、歴史には、私たちがよく人生において感じるような「IF」はないのではあるまいか。

そこには、いつも「必然性」があるのではなかろうか。たとえば、1992年のマーストリヒト条約によるEU市場の発足を、1989年の冷戦の崩壊と1991年のソ連邦の解体と結び付けてみるとき、歴史年表に多少の誤差があったとしても、そこにはいくつもの因果関係を確認できるのではあるまいか。→すなわち、ソ連邦の解体を受けてのEUの発足という流れとなるのか、あるいは逆に、EUの成立の流れを受けてのソ連邦の解体へと至る流れとなるのか、という具合にである。

また、以下に見る中国の改革開放路線の下での中国の世界の工場への歩みは、EUの発足による中国製品の受け皿としてのヨーロッパ市場の成立を促す歴史を構成したのかもしれない。ここにも明確な因果関係を確認できるのではあるまいか。もっとも、EECからECへの流れと、ECからEUへの流れは、連続した発展の歩みとして位置づけられない、と私はみている。前者は1970年代までの私のモデルの世界・セカイの歩みと、後者は1970年代以降の世界・セカイの歩みと結び付けて理解される必要がある。
  
そうしてみれば、ソ連邦の解体は、冷戦の崩壊を受けての「その後の出来事」となるだろうし、ロシアの成立は、ソ連邦の解体の後になるだろう。それは、もしソ連が解体していなければ、ロシアの成立には至らなかったであろうし、冷戦の崩壊が起こらなければ、ソ連邦の解体もなかっただろう、という話につながる。

そこから、話を大胆に飛躍させていくならば、1972年のニクソン訪中が、もしなかったならば、1978,79年の改革開放もなかったであろうし、1985年のプラザ合意もなかったのではあるまいか、ということになるし、そこからまた、ソ連邦の解体も起きなかったということになる。そこから今日のウクライナ問題も別の形に導かれたかもわからない。こうした出来事の背後には、必然的な因果関係が存在しているのではあるまいか。

さらに、大胆に飛躍させて語るならば、大航海時代がなければ、スペインの覇権国への道はなく、それがなければ、オランダ、イギリス、アメリカ、そして中国へと至る覇権国の興亡史の歩みもなかったであろう。そこから1970年代までの私のモデルの世界・セカイの歩みも、すなわち、{[A]→(×)[B]→×[C]}(共時態モデル、省略形)も見られなかったであろうし、それゆえ1970年代以降のセカイの歩みも、すなわち、{[B]→(×)[C]→×[A]}(共時態モデル、省略形)の関係の形成と発展の歩みも導かれなかったであろう。


ここまでの話を踏まえて、さらに言及すれば、私のモデルで描く世界・セカイの形成と発展のために、1970年代以降の「システム」は、いくつかの出来事を準備したと考えられる。EUの創設、単一市場の下で、中国の経済発展を助ける。そのことが、やがてはソ連の崩壊を導くことになる。

レーガン政権下の「スター・ウォーズ計画」は、中国の改革開放政策の実現に、貢献したのではあるまいか。また、中国の経済発展を助ける、そうした流れを、日本ではプラザ合意が担ったのではないのか。このように、ヨーロッパ(EU)、米国、そして日本の出来事が、中国の経済発展を助け、そのことが1970年代以降の「システム」の歩みを、確固たるものにしていったのではないだろうか。

こうした出来事は、ソ連でもアフリカでも中東でも見られる。ソ連のアフガン侵攻。それが今日のISにつながる。また、アフリカでの内乱、内戦の頻発によって、「金の成る木」としての「システム」の高度化を促進する。これらの出来事は、一見したところ、今日のウクライナ危機とは無縁であるかのように思われるかもしれないが、そもそもウクライナ危機は、B、C、Aの〈「システム」とその関係の歩み〉の下で導かれていることを鑑みれば、両者の間には、密接な関係がある、と私は理解している。

さて、1972年のニクソン訪中について、もう少し触れてみたい。ニクソンを中国へと向かわせたのは、「システム」の歩みと、その「システム」の歩みにおける「段階」がそうさせたのだと、まず理解することが大切である、と私は強調しておきたい。。こうした私の見方に対して、キッシンジャ―と彼が奉仕するウォール・ストリートの国際金融勢力の存在を、ニクソン米国大統領を訪中させた最重要の理由として挙げる論者がいるが、それは一面的な答えとはなっても、そのすべてを説明するには至らない、と私は言わざるを得ない。

それでは、このような私の指摘を踏まえて、それでは、〈「システム」とその関係の歩み〉をもとに、ニクソン訪中について、さらに考察してみたい。「システム」の歩みは。なぜ1971年、72年頃に、米国(中国)を中国(米国)に結び付ける動きをしたのか、しなければならなくなったのかについて、「システム」の自己完結運動という観点から考えてみたい。

また、こうした観点から、以下の問題についても指摘しておきたい。すなわち、1970年代までの〈「システム」とその自己完結運動の歩み〉は、何故ある時期(段階)において、先進諸国で分厚い中間層をつくろうとしたのか、という問題である。

その理由としては、彼らがシステムの中心的担い手となって、差別と排除の関係(仕組み)の高度化を推進するためであったことが考えられるだろう。そのことが、「システム」の「金の成る木」としての大切な目的を実現させることに与るからである。そのために、戦争は重要な役割を担う。戦争によって、「システム」の高度化が、さらに促進されることになる。

しかし、「システム」の高度化は、ある段階で(ある時期に)、行き詰まりを見せることになる。その理由としては、「システム」がこれ以上、分厚い中間層を育成できなくなるからだ。育成する力を「システム」が失うのだ。その力を発揮させてきたのは「システム」内における覇権国であるが、覇権国がその力を失うのである。そのため、「システム」は、その力を担うことのできる次期覇権国を探し始める。そこから1970年代以降の新たな「システム」がつくり出されていく。

ニクソン訪中から改革開放路線の開始される1978年、79年の間に、ベトナム戦争の終結の兆しが見えてきた1975年から78,79年にかけてベトナムとカンボジアが戦争状態にあったことを、とくに「システム」の新たな再編の動きを踏まえるとき、どのように理解したらいいのだろうか。それぞれの背後には、ソ連と中国が控えていて、中国の背後には米国が控えていたことも考慮しておく必要がある。

さらに、ベトナムとカンボジアの戦争状態と並行して、アジアにおいては開発独裁政権下の下での経済発展がみられていた。いわゆる「雁行的経済発展」として知られていた。こうした出来事を重ね合わせてみていくとき、私はやはり、{「B」→(×)[C]→×[A]}の世界・セカイの形成と発展に向けての準備が、米中覇権連合の歩みの進展の下で、進められていたのではないのか、と考えるのである。


(最後に一言)


前回記事において、(最初に一言)では以下のように述べていた。すなわち、ーーーあるテレビ局の番組で、ロシアのウクライナ侵攻の可能性云々についての報道とそれを巡る解説を聞きながら、私は唖然とした次第。その理由は至極簡単だ。そこでアナウンサーが、「ロシアはどうしてウクライナに進攻しようとしているのか」、と問うていたからだ。それに対してのあるコメンテーターの解説に、また驚いた。かれいわく、うくらいながNATOに組み込まれたら、ロシアはウクライナという「緩衝地帯」を失い、すぐ横に敵対勢力が位置してしまうことから、ロシアの安全保障には深刻な問題となる云々。ーーー


それを今一度、確認した上で、今回記事において、私がとくにこだわったのは、手前味噌ながら、いま世界で起きていること、これから起こるであろう出来事を論じる際には、私の語る「システム」論で提示された1970年代以降から今日に続くB、C、Aから構成される〈「システム」とその関係の歩み〉と結び付けて、論じ直してほしいということである。私のモデルを前提として、それと結び付けて、これから引き起こされるであろう世界的な出来事を捉え直すならば、おそらくそれほど的外れな議論とはならないことを、私は確信している。またまた、エラソーな物言いで、申し訳ないのだが。

ここまでの話を踏まえるとき、「現下のウクライナ危機」の原因を探求していくとき、そこには、すぐ上で引用した前回記事の(最初に一言)で紹介した話などでは、とても済まされない、数多くの歴史的出来事から構成される、はるかに大きなパノラマが展開していることに、改めて気がつくのではあるまいか。もとより、それが理解できるのは、私の語る「システム」論を手掛かりにしたとき、なのだが。

それを踏まえて、最後に一言だけ付け加えるならば、ロシアとNATO(米国EU)連合勢力の対立・対決構図の下で、世界情勢はその緊張の度を深めているのだが、私には、それ以上に、今後の動向として、中国対ロシアの対立・対決へと至る流れが不可避となるのではないかと、そちらの方が、もっと危惧しなければならない問題なのである。

それこそ、杞憂であってほしいのは、言うまでもないのだが。ウクライナにロシアがこだわる最大の理由として、私は、やはり次期覇権国としての中国の台頭を、その隣国に位置するロシアが一番恐れているからに他ならない、と考えているからである。何度も言うのだが、覇権システムの中で、自己決定権の獲得とその実現を巡る争奪戦を介した「親分ー子分」関係の中で、私たちは生きているということを、絶えず冷静に見据えておく必要があるのだ。


**二つ目の記事
(2022,2,5)

(加筆・修正版)私の語る「システム」論から、「現下のウクライナ危機」問題について考えるとき(続)ー中東・アフリカ諸国に対する中国の支配・浸透力が20-21世紀転換期頃にかけて、強まっていく背景を再考するとき、またそれと軌を一にするかのように、同地域での米・ソ両国の支配・影響力が、著しく弱体化していくのを確認するとき


(最初に一言)

前回記事において、私は次のように述べていた。すなわち、ーーーそうした過程において、中国は世界の工場となり、世界の市場となり(改革開放路線の下で米国に代表される西側先進国からの外資導入の下で人件費の安い中国人労働者の手による安価な製造業製品を洪水のように世界中に輸出する中で、その主要な原料供給地であると同時に、中国製品の受け入れ地でもある中東やアフリカ諸国の経済発展は、中国の経済発展の下に組み込まれることにより、ますますソ連の、あるいは米国の中東やアフリカ諸国に対する支配力、影響力は低下すると同時に、ソ連(あるいは米国)自体の国力の低下を導くのである。ーーー


上のくだりで紹介している中国の中東・アフリカ諸国に対する支配・影響力が強まっていく背景について、今回記事では、もう少し詳しくみていきたい。行論の都合上、ここで私の「仮説」を紹介しておきたい。前回記事と重なるところもあるが、それを断ったうえで、ここに紹介しておく。


①「私の仮説」

<なぜ冷戦崩壊の直後にソ連邦は解体したのか。ヨーロッパにおいて、EUに向けての動きが1992年のマーストリヒト条約の締結により固まったが、これは冷戦崩壊とやはり関係があるのではないか。さらにすぐ後の付言した出来事とも関係があるのではないか。と同時に1970年代以降の「システム」の再編、変容の歩みの中で、EUにつながる流れが導かれたのではないだろうか。Bの中国の経済発展を介して中国を世界の工場へと導くために、その中国製品の輸入先としてのヨーロッパ市場と、かつての東側諸国を含む地域から中国に向けての原料や天然資源の輸出をとおしてAの経済発展とBの経済発展の関係をとおして、{[B]→(×)[C]→×[A]}のセカイの形成と発展の歩みをさらに強固にするために、EUが発足した(EUを発足させる必要性を「システム」は理解した)とみることも可能ではないか。(付言すれば、米国も覇権国として全世界を統合する力を急速に失うのはなぜか。確かにアフガニスタンやイラクに対する軍事介入はその圧倒的軍事力行使において「ユニラテラリズム」の表れとして多くの論者により位置付け理解されたのだが、裏返せば、そこまでしないと、米国の言うことを聞かせることができにくくなった、ということではなかったろうか。)アフリカにおいて、なぜ冷戦崩壊後、部族関闘争や内戦が激化していくのか。なぜ冷戦崩壊後、中東おいて戦争がはじめられたのか。>?これら三つの「なぜ」の問題(拙著『民主化の先進国がたどる経済衰退』の序章の「三つの何故」参照)を「システム」の再編と変容といった観点から読み解いていきたい。同時に、それらの問題に関連して、今日の様々な政治的出来事(イギリスのEuからの離脱、Euにおける「右傾化」の加速、アメリカにおける「内向き」傾向とトランプ大統領の誕生、日本のロシアへの接近と、アジア諸国での対中国封じ込め外交の顕在化等々)に関しても同じく「システム」の再編と変容といった観点から接近していきたい。

このようにみてくるとき、様々な出来事が、あたかも一本の鎖の輪を構成するかのように位置づけ理解されるのだが、その源は、まさにニクソン訪中と改革開放路線を推し進める米中覇権連合の形成と発展に端を発している。


②「私の仮説」

何故、「アラブの春」は、2010年代に、もっと広げて言えば、2000年から2010年前後に、起きたのか。この問題は、コンゴ民主共和国の「悲劇」に象徴されるアフリカの戦争が、やはり同じ時期に起こっていたことと、何か関係があるのではないか。

この理由とその説明に関しては、は。ネット検索を介して見ても、いくつか出てくるある。(尚子先生教えて下さい)等等。しかし、それらの説明は、「比較政治学」の観点からの説明ではない。たとえば、「アラブの春」を民主化や民主主義の発展の観点から捉え直すとき、それでは、どのような理由説明が行われてきたのだろうか。私の見るところでは、これらの政治学からの解答も十分ではない。と言うのも、民主化や民主主義の発展に関する、「静態的」研究はあっても、「動態的研究」はないのである。その関連で言えば、「何故いまロシアはシリア空爆を行ったのか」に関する国際政治学や比較政治学からの〈学〉的説明、すなわち、民主化や民主主義の発展との関係・関連からの説明は、聞かれない。こうした点を踏まえて、私は私の民主化、民主主義の発展に関するモデル、すなわち、私の語る「システム」論で提示されている構造モデルと時系列モデルを使って、いろいろな問題に論究していきたい。


ところで、私の語る「システム」論で紹介されている「普遍的価値」の実現の歩みとして位置づけ理解される「普遍主義を構成する「経済発展」(「衣食足りて」の営為)と「民主主義の発展」(「礼節を知る」の営為)の関係(史)は、1970年代以前と70年代以降において、その構造転換・変容をみることに注意してほしい。

この変容なり転換の関係が理解できない限り、たとえば何故、1970年代、80年代あるいは1990年代の初期ではなくて、(何故)1990年代の中頃以降に「コンゴ民主共和国」に見るアフリカの大戦争、悲劇が生起したのかが理解できない、と私は見ている。*〈参照、〈第8回 世界最大のコンゴ紛争 私たちとのつながり〉〈コンゴ民主共和国 無視され続ける世界最大の紛争〉、大阪大学グローバルコラボレーションセンター、ヴァ―ジル・ホ―キンス〉


私は何故、それが1990年代中頃以降において生起したかを、私のモデルのセカイの関係史で描く関係が、その関係における緊張と抑圧の強度が、セカイの関係の歩みが70年代、80年代、そして90年代と時を経るごとに、「順調に」形成、発展させたいと願う覇権システムの、そしてまた「システム」の維持と発展の歩みによって、深化してきたこと、換言すれば、それだけ1970年代以降においてその形成と発展とその維持と安定が望まれる「システム」それ自体の関係史が、より強固になってきた、と私はみている。

「改革・開放」以後のBの中国に対する、Aの先進国の、特に米国の直接投資の増大による中国国内における爆発的な工業化とそれに伴う中国の世界の工場、世界の経済市場への発展は、中国国内における工業製品の諸原料に対する需要を高めることとなる。その供給先として注目されたのが中東やアフリカ諸国であった。同時にまた、それらの地域は中国製品の受け皿としても期待されたのは言うまでもない。

それゆえ、そのことは中東やアフリカ諸国における紛争を惹起させることとなった。たとえば、中国の台頭を面白く思わない勢力や、中国への天然・鉱物資源を供給することで利益を独占しようと考える経済利害は、中東やアフリカにおける自らの仲間たちと呼応しながら、敵対勢力を排除しようと企図とするであろうし、事実そのように行動したのである。こうした資源の争奪戦の過程で、中東やアフリカ諸国において、多くの戦争が勃発することとなった。そうした繰り返される戦争を経て、ますます1970年代以降の世界・セカイの関係史のさらなる発展とその安定が進展していくこととなる。

こうした観点から、中東とアフリカの紛争を回顧するとき、1970年代以前の紛争・戦争は、{[A]→(×)[B]→×[C]}のセカイを形成、発展させるためのものである(あった)ということ、同時に、1970年代以降から今日に続く紛争・戦争は、{[B]→(×)[C]→×[A]}のセカイを形成、発展させるために引き起こされたものである(あった)ことが理解されるのである。

ところで、1970年代以降から今日に至るB、C、Aから構成される「システム」の形成と発展は、さらに以下のように、(1)から(12)の時期に、それぞれ区分されると同時に、その時期ごとにおいて、B、C、Aの各々の地域における世界史的出来事が導かれ、それらがやがては全期間を通して、B、C、Aから構成される「システム」の形成と発展を支持・強化する歴史的な一つの「統合・統一的」出来事として、位置づけ理解されるのである。

そうした一つの「統合・統一的」出来事を描き出すことが私の当面の課題となるのだが、ここでは、ごくごく簡単な(1)から(12)の時期に区分されたB、C、Aから構成される〈「システム」とその関係の歩み〉に関するモデルの提示だけにとどめておきたい。

(1)1970年代初期の頃の{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係、

(2)1970年代末頃の{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係、

(3)1980年代中頃の{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係、

(4)1980年代末頃の{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係、

(5)1990年代初期の頃の{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係、

(6)1990年代中頃の{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係

(7)1990年代末頃の{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係

(8)2000年代初期の頃の{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係

(9)2000年代中頃の{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係

(10)2000年代末頃の{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係

(11)2010年代初期の頃の{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係

(12)2015年から現在に至る頃の{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係


以上、ここまで(1)から(12)にかけてのB、C、Aの「システム」の形成と発展に関するモデルを提示したのだが、ここで私が読者に伝えたいことは、こうした流れの中で、1970年代以降から今日に至るまでに、B、C、Aから構成される〈「システム」とその関係の歩み〉は、紆余曲折を経ながらも、それにもかかわらず、着実にその確固たる基盤を築いてきたということである。

それに関して付言すれば、1970年代以降から今日に至るまで、Bの中国とCのアフリカ諸国と、Aのアメリカと日本における「経済発展」と「民主主義の発展」の「段階」は、私のもう一つの通時的モデルが示すように、BとCにおいてはその「高度化」に向けての、Aにおいてはその「低度化」に向けての歩みが「進化(深化)」していることを、換言すれば、BとCとAの間における「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係がますます、その紐帯を強めていることを銘記しておかなければならない。

こうした点を鑑みるとき、たとえばCのアフリカ諸国が置かれている深刻な状態、状況を知ることは確かに知らないことよりも大切ではあるが、もし物事を正確に知ろうとするのであれば、私はやはり私のモデルで描くあのセカイの関係史の全体像を理解しながら、その枠の中でCのアフリカ諸国の現状を知るべきではないかと考えるのである。

これらを踏まえて、さらに重ねて付言すれば、「中東・アフリカの戦争」を分析する際に重要な視点は、B、C、Aの相互の関係を前提とした枠組みを元に分析することである。1970年代以降、現在にかけてこの関係が相互に深まり、強化されてきたが、こうした関係の深化の中で、中東やアフリカにおける紛争が導かれてきたとの「仮説」を、前提としている。なお、今回記事では、上述した(1)から(12)のモデルとの関連も含め、これらに関する具体的出来事の紹介ができていないことを、ここで断っておきたい。


(最後に一言)

前回記事も、また今回記事も、すでにこのブログ記事において述べていた内容であるのだが、ここにきて、もう少しその語り口というか語り方を、少し変えながら、これ、までの拙論を整理しなおしていることを、ここでも断っておきたい。

*なお、行論の都合上、〈付記〉以下を削除したことを断っておきたい。
**この記事の(1)から(12)に呼応する具体的例として、簡単な紹介を以下に記しているので、参照されたい。

①この時期はニクソン訪中、その中国はなお、文化大革命の最終局面。米国は、ベトナム戦争の最終局面。中東では、イスラエルとアラブの第4次中東戦争。イラクとイランの対立から、ホメイニ師の下でのイラク・イランの友好関係と米国との対立構図。イランの背後にソ連の存在。アフリカでは、植民地独立後の米・ソによる新たな支配

②この時期は改革開放期?この時期から始まる中国の世界の工場に向かう動きとそれを支えたAの先進国からの中国への外資流入とそれを基にした安い人件費の下で生産された安価な中国製造業品の世界中への輸出攻勢は、その原料を提供するCの中東やアフリカとの関係をますます深化させていくと同時に、Aの地域に対する大きな影響力を増していく。その象徴として先進国における雇用の喪失と中間層の解体、失業、貧困問題の顕在化による格差問題、そうした格差に伴う国民の不満と移民労働者への反感と彼らの不満を吸収しながら躍進する「極右」政党とそこで展開される「ポピュリズム」4の動き等々。それらの動きと関連する形で、Cの中東諸国やアフリカ諸国においてもBの中国の台頭とその影響力の下に置かれていくAの先進国との関係の下で、内紛、内戦や地域間での戦争といった争いが繰り返されていく。CやAにおけるこれらの状況や状態は、70年代末以降のシステムの発展の中で、相互に関係を深化させていく。?BとCの経済発展と民主主義の発展の関係の歩みの深化がAの経済発展と民主主義の発展の関係に影響を与えると同時に、Aの関係がさらにBとCの関係に影響を与える。そしてまた―――繰り返されていく。こうした歩みの中で1970年代以降にその改編と変容の歩みを見た新たなるシステムの確固とした仕組みがつくり出されていくのである。

1978年 - イラン革命
アメリカがイランへの影響力を失う。

1979年 - ソ連のアフガニスタン侵攻

③この時期はプラザ合意の時期。中国の経済発展はさらに目覚ましく、そのことが中東やアフリカ諸国に対する中国の支配。影響力を強めると同時に、それに伴い、従来の米・ソ両国によるこれら地域への支配。浸透力を弱体化させていく。米国とソ連の冷戦関係が最終局面を迎える。ソ連邦の解体へと向かう歩みが顕在化。

④この時期は冷戦の崩壊期。ソ連の解体とそれに伴いロシアの誕生。ウクライナのロシアからの分離。Bグループ内のロシアの国力の低下と、中国の国力の増強・増大する時期。中国の中東・アフリカに対する支配・浸透力はさらに強まっていく。その関係から、これら地域における米ソの支配・影響力はさらに弱められていく。

1989年にAPEC発足。

⑤この時期は冷戦の崩壊期。1991年、ソ連の解体とそれに伴いロシアの誕生。ウクライナのロシアからの分離。Bグループ内のロシアの国力の低下と、中国の国力の増強・増大する時期。

第1次湾岸戦争の勃発。米国によるサダム・フセイン指導のイラクに対する空爆開始と、フセイン政権の打倒と新生イラク国家の建設。

ヒューストン・サミット、新たな国際秩序の形成に向けての動きが本格化していく。

ヨーロッパではマーストリヒト条約の締結とその発効によりEUの誕生。

中国の中東・アフリカに対する支配・浸透力はさらに強まっていく。その関係から、これら地域における米ソの支配・影響力はさらに弱められていく。

⑥1995年、WTOの発足。

⑦1997年、イギリスから中国へ香港返還。
1999年、ポルトガルから中国へマカオ返還。

⑨2006年にTPP発足。

⑪2013年、習近平により壮大かつ巨大な経済圏建設に向けての「一対一路」構想が打ち出される。以後、今日に至るまでその歩みは継続中。

⑫2015年、中国主導によるアジアインフラ投資銀行の発足。日本もそれを支援する動き。
2021年、中国のTPPへの加入申請の表明。


***三つ目の記事
(2022,2,20)

B、C、Aから構成される「金の成る木」としての「システム」が、その高度化実現のために、「米・中覇権連合」を使って用意周到に練り上げられた戦争プランとして捉え直すときー私の語る「システム」論から、「現下のウクライナ危機」問題について考えるとき(続・続)


あまり面白くない話を述べるのは気の滅入ることだが、ロシアとウクライナの一触即発的状況とすでに戦争状態と化している両国関係を、私の語る「システム」論から捉え直すとき、それはB、C、Aから構成される「システム」の高度化を実現するために、米・中覇権連合が中心となって、EU諸国を巻き込む形で推進された戦争計画の一環として、私は理解している。

その狙いは、あくまでも中国主導の「一帯一路」構想の実現のためである。今回のウクライナ危機によって、ロシアやEU諸国の中国への依存度はますます高くなることが予想されるのではあるまいか。その関連からいうと、中東やアフリカ諸国の戦闘は、中国の一帯一路構想の実現と結びつけて考えるとき、わかりやすくなるのではあるまいか。

いずれにしても、「システム」は、米・中覇権連合を使いながら、紆余曲折はあれども、着々とその構想実現を目指していることは確かである、と私はみている。そのために、哀れなのは、ロシアやウクライナ、そしてEU諸国や中東、アフリカ諸国に暮らす名もなき貧しい人々である。ただでさえ、コロナ禍で苦しんでいるときに、そこにさらに追い打ちをかけるように、「金の成る木」としての「システム」の執念は凄まじい限りである。

勿論、これまで何度も指摘してきたように、誤解のないように付言しておくと、そうした私の語る「システム」にそこまでの力を与えているその張本人は、名もなき貧しい私たち「システム人」の存在だということなのだ。このことだけは、まず何よりも、自覚・自戒しておく必要があり、それは最低限の私たちの「道徳」である、と私は強調しておきたい。

その自覚・自戒のない者が、いくら世界の大富豪の金もうけの仕方や今日の格差社会を非難・批判したところで、それは所詮は、お里が知れているとしか言いようがない。こんな物言いを、本当は私はしたくはないのだが、あまりにも他人事感覚で語る人が多くなっていることを鑑みれば、致し方なかろう。当然ながら、日本に暮らす私たちにとっても、現下のウクライナ危機は他人事では、到底済まされなくなるだろう。

申し訳ないのだが、もうこの辺でやめておきたい。中途半端な記事の展開で終わらせてもらうのだが、それでも私の今回記事で伝えたかったことは、その少しは述べられたのではないかと思っている。


(最後に一言)

 今回記事で以前に投稿した三つのブログ記事を再度ここに貼り付けたのは、今回記事のタイトルにある中国とサウジアラビアに代表される中東湾岸のアラブ諸国との関係を、私の語る「システム」論の観点から是非とも位置づけ理解し直してほしいと願うからである。ここに、中国とイラン、さらにはアフリカ諸国との関係強化の動きを含めてみるとき、今の世界が{[B]→(×)[C]→×[A]}のモデルで描かれる〈「システム」とその関係の歩み〉を顕在化させているのに気が付くのではあるまいか。

 そんな時に、このBの先頭をひた走る次期覇権国の親分である中国を仮想敵国として位置づけ、日本の安全保障のための防衛費予算の増額云々の戯けた話に興じている私たちの〈政治〉はもはや愚かどころの問題では片づけられない、その意味ではまさにつける薬はないとしか言いようがないのではあるまいか。

 久しぶりに記事を書いた、貼り付けたのだが、何か虚しさしか残らない。これもまたいつものことだが、読者には申し訳ないとしか言いようがない。とにかく、今回は私自身による私の安否確認のための記事として見てほしい。まだ何とか生きているので、ご安心を。


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