前回までの一連の記事において、21世紀の危機の20年において予想される出来事を、20世紀版『危機の20年』をもとにしながら、同時にE・H・カーの著作の内容に縛られることなく、その比較論的考察を試みてきた。それぞれの危機の20年において共通する出来事とそうでない出来事を、私の〈「システム」とその関係の歩み〉に関するモデルを使って抽出するとき、以下のように示される。
(共通する点)
いずれの20年においても、システムとその関係の歩みを前提とした中で、それぞれの出来事が導かれていることがわかる。それらの出来事に共通しているのは、A、B、Cの、またB、C、Aの相互間における「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為を巡る「自己決定権」の争奪戦にみる差別と排除の関係である。もう少しわかりやすく言うならば、AはBやCに対して、BはCに対して、少しでも、より優位となる地点に位置しようと努めていることである。その結果として、CはBとAに対して、BはAに対して、より劣位の地点に置かれることを甘受せざるを得なくなる。
そうした関係が「大恐慌期」(急いで付言しておくと、21世紀版の〈大恐慌期〉については注釈が必要となるだろうが、私は今のコロナ騒動に伴う経済状況の悪化を捉えて、21世紀の大恐慌期とはみてはいない。それが起こるとすれば、私のモデルから判断して、もう少し先のことだと理解している。)と呼ばれる経済状況の悪化に対するA、B、C、あるいはまた、B、C、Aグループとその政治指導者における「危機」対応に大きく影響するのである。元より、A、B、Cの関係におけるB、矢Cは、特にCにおいては、それこそ爪に「危機」なのである。というのも、CはAやBの植民地や従属地に置かれていることから、主権国家とか国民国家という形での危機を体験することがそもそもできないのだ。しいて言うならば、Cグループ内の反・植民地、反・従属地運動を展開する政治指導者においては、今なお主権国家、国民国家の形成を目指す途上にあるからである。
こうした点に関して、付言すれば、「危機」や「通常通り」あるいは「戦争」という用語の使用法は、A、B、Cの、またB、C、Aのグループ間の政治的共同体とそこに暮らす人々がシステムとその関係の歩みにおいて、どの「段階」(地点)に位置しているかによって、それらの受け止め方や見方が自ずと異なってくるのは言うまでもないであろう。たとえば、Cにおいては、危機や戦争が「通常通り」となるのではあるまいか。こうした点を、いつも銘記しておくことが私たちには必要なのだ。
(異なる点)
21世紀の危機と想定される出来事が、20世紀の戦間期の「危」とされた時期の出来事と一番異なるのは、差別、排除する側に位置していたAグループが、今度は差別され排除される側へとその立ち位置を逆転するに至ったということである。(「システム」とその関係の歩みの観点から換言するならば、B、Cはその発展の「高度化」を歩むことができるのに対して、Aはその「低度化」をひたすら辿らざるを得なくなることを意味している。)すなわち、BからもCからも差別され、排除されている。ところが、未だにこの事実というか、この現実を多くのAグループの政治指導者はもとより、多くの国民は感じてはいないのではあるまいか。
たとえば、A、B、Cの関係を前提としていた、そうした差別と排除の関係が許されていた時期の「民主主義」、つまり自由民主主義体制と、今のB、C、Aの関係を前提とした、すなわちこれまで差別し、排除する側に位置していたAが、差別され、排除する側へと追いやられた時期の自由民主主義体制の、Aにおける発現形態は高いレベルの福祉国家を実現できなくなっている。逆に、そうした民主主義の発展の低度化に加えて、BやCグループからの「ヒト・モノ・カネの大移動」に伴う構造的圧力を受け続け、その結果として、Aのかつての中間層は解体され、これまで享受してきた豊かさを失っている。そうした状態に輪をかけるように、移民や難民の流入により、さらにAの諸国に暮らす人々の富が収奪されていく。(これらの話に関しては、以前のブログ記事でも論及している。)
21世紀における、こうした民主主義体制を構成するB、C、A間の差別と排除の関係を的確に描くことが、今後ますます社会科学に従事する研究者には望まれるだろう。なぜなら、もしそうした作業が手つかずのままに置かれてしまったならば、私たちはまた大恐慌期と想定される時期において、ただ拱手傍観するだけではないか。その挙句、移民や難民流入とそれに伴う排斥問題を、政治思想や政治的価値としての「自由主義」の抱える問題云々とか「ポピュリズム」の問題云々に矮小化してしまい、民主主義の形成と発展と変容の問題にまで目を向けることもできないままに終わってしまうだろう。もしそうであるのならば、私がこれまで読者に問い続けてきた〈「システム」とその「関係」の「歩み」〉云々の次元の話には到底至らないのは必至となるであろう。
それゆえ、一番肝心な対策ができなくなるのである。それは何か。普遍的人権で保障されている通商の自由、つまり営業の自由とそれをもとに稼いだ富を懐に蓄積する私的財産権の自由(保障)にメスを入れることができなくなるのだ。それは公共の福祉とか制限といった次元の問題ではなく、見直し作業の必要性を問うことなのだ。当然ながら、憲法は、とくにこうした内容に関連した、関係した条項は「改正」しなければならないのである。
勿論、これもまた何度も指摘してきたように、それができないから問題なのだ。付言すれば、私がここで言及している「できないのだ」という物言いは、こうした話の流れさえ理解できない者が多数を占めていること、それが何より問題だということなのだ。まさにシステム人なのだ。
とても広いとは言えない土地(マンションのたとえ話はここではしない)を、2・30年ローンで契約し、購入し、そこに家を建てる。そのマイホームで楽しい我が家をとの思いで、毎日身を粉にして働き、ローンの返済に努め、やっと手にした我が家には、妻も子供もいなくなり、寂しく一人で余生を過ごす、そんな人生だとしても、男どもはそうした生き方しかできなかったのだ。
そんな男たちからすれば、営業の自由とか私的財産権は神聖不可侵ではないか。「空気」みたいなものだから、その空気とそれがつくり出す関係など、まさか私の語るシステム云々の話など、それこそ糞(くそ)みたいなもの、いや糞となるのだ。こうした「私」に理解などできないだろう。理解する必要もないし、それすら感じないのである。これまた仕方のないことだ。「システム人」としての私ことオニクタラムならぬ村田邦夫がたどってきた道だから、人様に対してエラそうなことなど何も言えない、それは確かなことである。
それにもかかわらず、こうして話を続けているのは、これまた何度も言うように、「それにもかかわらず」という問題があり、同時にそれに関連して、たとえ結果は同じような事態に陥ったとしても、避けられるべき最小限度の努力は、やはり怠ってはならないということであり、その努力とは、「してはならない」ことをしないように努めるということなのである。
ただし、私がここで「想定」している21世紀版『危機の20年』も、20世紀のそれと同じような道を、すなわち「戦争」へと至る道をたどるのではあるまいか。(誤解のないように、ここでもまた付言しておくと、既にいろいろな識者により湾岸戦争頃を起点として「第三次世界大戦」が始まったとの見解が提示されている。これについて、私の見方もそれほど異なるものではないが、それを踏まえた上で、ここで私が言う戦争とは、日本が巻き込まれる、巻き込む「戦争」をとくに意味していることをここで断っておきたい。)大恐慌期とそれに前後した経済情勢の悪化とか危機と、それに伴う国内政治状況の混乱とそれに対処すべき台頭する強権的政治指導者とその政治支配云々の問題がマスコミを、今後ますますにぎわすことになるのかもしれない。そしてひょっとして、21世紀版ヒトラーに象徴される政治指導者が世界を攪乱することになるのかもしれない。
しかし、私がここでも声を大にして読者に訴えておきたいのは、私たちが本来問うべき根木問題は、そうした出来事をつくり出す仕組みではないのか、つまり構造こそが問題だということなのだ。20世紀の危機においては、{[A]→(×)[B]→×[C]}の、そして21世紀においては、{[B]→(×)[C]→×[A]}のシステムとその関係の歩みこそが本来ならば、俎上に載せられるべき問題なのだということを。
それゆえ、そうであるからこそ、そうした「システム」とその関係の歩みを、まさに「システム人」として担い、支え続けてきた「私」とその生き方こそも同様に俎上に載せられてしかるべき問題なのではあるまいか。「私(あなた)」と「あなた(私)」とまた別の「私(あなた)」と「あなた(私)」から構成される「公的空間」の構成員たる私たちこそが本当ならば、責任を負うべき「真犯人」なのではあるまいか。
そうしたシステムとその関係の歩みは、「金の成る木」であり、いつも戦争を引き起こすのである。そのシステムがヒトラーを、逆に言えば、レーニンやスターリン、チャーチルやF・ルーズベルトや蒋介石、毛沢東、そして近衛文麿や東条英機を歴史の、つまり「システム」とその関係の歩みの「舞台」に登場させるのだ。(忘れてならないのは、彼ら指導者を選出、選択するのはすぐ上でも述べたように、私たちシステム人であることを。)またそうした政治指導者を登場させるために、大恐慌期やその前後の経済危機とそれに伴う国民とその生活困窮状況、状態がつくられるのだ。そのためにFRBとか各国の中央銀行という名の民間銀行や株式市場が設置されるのだ。
(今回は、ここまで。)