日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

私の語る「システム」論から、私の今の「心境」をぼそぼそと話してみるとき

2021-05-31 | 日記

私の語る「システム」論から、私の今の「心境」をぼそぼそと話してみるとき


(最初に一言)

まだ70にもとどかないのに、最近の私には、いつの間にか、記事を書くことがそのまま「遺書」となるかのように、何かを残したいという気持ちを、素直に記しているように想えて仕方ない。自分自身でもはっきりとわかるのだ。


私のような物の見方、感じ方、表わし方をする者にとっては、東京五輪がたとえ中止となっても、自・公政権が終焉したとしても、「システム」の「大勢」からすればほとんど何の影響も及ぼさない話であることから、一喜一憂することもないし、ましてやカッカ・カッカすることでもない。ただ、ひたすら、{[B]→(×)[C]→×[A]}のモデルで描く〈「システム」とその関係の歩み〉を注視し続けていくだけで十分なことなのだから。

そうした私の姿勢には、これまで何度も論述してきたように、「システム」は何も変わらない、替えようがないとの私の諦めというか諦観の思いが込められていた。それこそ、「親分」が支配し、親分が決めたルールの下で生きていかざるを得ないのだから、と私自身もこの何十年にも及ぶ格闘と葛藤を繰り返す中で、悟ってきたのだから。

それゆえ、その意味では、ここ最近の私(の記事)は、とてもおかしい・愚かであるとよく理解できる。ただ、そんな私を見つめつつ、「それでいいのだ」とバカボンの父に慰められているかのように、私は自分自身に言い聞かせるだけなのだ。とにかく、歯がゆい、もどかしい、そんな心境である。

これもまた、仕方がない。私のような「システム」論の立場からすれば、何をしても結局は無力であり、無駄なのだから、どうすることもできないし、どうにもならないとの思いの繰り返しとなり、これは相当に心身に打撃を与えることとなる。それは、まさに私自身の身体でもって証明できるというものだ。

だが、同時にまた、面白いのは、その次というか、そこから引き起こされる私の姿でもある。どうせ何をやってもダメなのだとわかればわかるほど、逆に、それなら今度はこうすれば以前と異なる結果が導かれるかもしれないとの思いが湧き起こり、そこからダメもとで、さらに挑戦となる。そんなこんなの繰り返しであった。そして今、また何度目かの「最後の悪あがき」となって、それが最近の記事に示されているのだ。

そうこうする間に、「あの戦争」を知らない世代の一人である私なのだが、「コロナとの戦争」、そしてそんな状況下での「東京五輪開催に向けての「無謀な決断」に向かう「日本」と「日本人」をつぶさに観察する中で、「昭和」のあの戦争が「令和」の今、見事に私の中で蘇るのである。

そこには、目に見えない歴史というか私たちが担い手となって演じている「劇」の連続が確認されるのではあるまいか。そう確信する私はまた、私の語る「システム」論をさらに鍛え上げるべく、改めてさらに何度目かの最後の悪あがきに挑戦している最中なのである。おそらく私の結論は的中するであろう。そうは言っても、それはもとより、何も面白くも楽しくもない話である。


(最後に一言)

そうだからこそ、私は言わざるを得何のだ。当然ながら、「私たち」は、その結論を従前どおり、まったく同じようにする必要はないはずだ。私の語る「システム」論は、私たちのつくり出す「差別と排除の関係」は、確かに「普遍であり不変」であることを指摘している。それはそのとおりなのだが、それにもかかわらず、同時にまた、その「システム」を担い支えている私やあなた、そして私たちの存在の在り方それら自体は、たとえ一瞬ではあっても、変えることができる・替えられるということを、否定するものではないという点を、改めてここで強調しておきたい。

 


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「信濃毎日」、「西日本」、そして」朝日」の次は、CBC(「カナダ放送協会」)だなんて、情けないよなぁ!、NHK(「日本放送協会」)よ、今からでもまだ遅くはないよ!

2021-05-30 | 日記

 

「信濃毎日」、「西日本」、そして「朝日」の次は、CBC(「カナダ放送協会」)だなんて、情けないよなぁ!、NHK(「日本放送協会」)よ、今からでもまだ遅くはないよ!


「当たり前のこと」が当たり前とならない。おかしな話がまかり通る、おかしな国の「日本」とおさらばしよう。否、しなければ!

それにしてもこの国ときたら、「外圧」でしか動けない・動こうとしない?なんだろなぁ、この惨めな思いは。

とにかく、もうこの辺で、つまらない芝居はオワラセナイト!

安倍前政権から今日の菅政権まで続いている自公政治の、さらに踏み込んで言えば、開国以降の明治・大正・昭和・平成そして令和に至る日本政治の「総決算」を、すべきではあるまいか。

それができない限り、コロナとの戦争には勝利できないだろうもう一刻の猶予も許されてはいない。

参考記事(東京五輪】五輪は開催リスク大 カナダ公共放送局が提言 「五輪を中止し、コロナの制御に集中する必要がある」
 東スポWeb 2021/05/29 16:04 )

 


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私たちは今、どんな「劇」を見せられているのか、また決して見ることのない「劇」は何なのだろうか。私の語る「システム」論からあれこれと妄想するとき

2021-05-30 | 日記

私たちは今、どんな「劇」を見せられているのか、また決して見ることのない「劇」は何なのだろうか。私の語る「システム」論からあれこれと妄想するとき


(最初に一言)

上の題にもあるように、これまでの記事を踏まえながら、それらについて考えてみたい。


前回記事において、私は「歴史」を「劇」に譬えながらあれこれと語っていたのだが、今回は、その際に振れた「悲劇」と「喜劇」とは異なる話をしてみたいのだ。単刀直入に言えば、悲劇であれ喜劇であれ、それは私たちが体験できるものであるが、逆にそれを体験できない劇があるとした時、私たちは、それこそトンデモナイ劇に付き合わされていたということに、後から気がつくのではあるまいか。今回は、そんな話をしてみたい。

それにしても、私たちはマス・メディアを介して、いろいろな劇をこれでもかと言えるほどに見せつけられている。何度も何度も見たり聞いたりするうちに、そうした見える劇によって隠されている劇の存在の有無とその確認はどうすればいいのかとネットの検索を重ねていくうちに、いつしか妄想は膨らむばかりとなってしまう。

それにしても、メディアが垂れ流すおかしい・面白い・ふざけた話題の山に、それの提供先とそれらの真偽確認や検討・検証など、もうどうでもよくなるくらいに感覚はマヒしてしまうのではなかろうか。それほどに、情報はものすごい勢いで私たちの周りを駆け巡っているので、「送り手」と「受け手」の間の距離もなくなり、すべてが送り手だけになっているかの様相を呈しいるから、これはもう怖ろしいなどの次元では語れない。

たとえば、米中経済貿易戦争という話題が注目されていたが、その両国の「戦争中」にもかかわらず、「仲良くツーショット」の関係を示す証拠もたくさん見つけることは勿論、可能なのだ。その好例として、米国大統領の就任式での「中国製」の米国旗を手にして何の違和感も感じない米国民と中国民の存在を垣間見るとき、本当に、これは「戦争中」の出来事なのかと思うに違いない。

こうした場面を見ている私たちも当然ながら、おかしい感覚なのだが、いつしか、そのおかしさも、これもあって当然なことではないか、で済まされてしまう。慣れっことなる。言い出せばきりがない。今の日本でもそうではあるまいか。「コロナとの戦争」中のはずなのに、どこか間抜けた様を此処彼処で、私たちは見せ合いっこしている。もうこの例を書く気にもなれないほどだが、その一番は、やはり「政治」に緊張感が見られないことだろう。

少し前だが、台湾「有事」となれば中国はどう動くのか、米国は、日本は云々の報道が過熱していた。わざわざイギリスからインド・太平洋へと軍艦が出向するとのニュース報道があり、数隻の軍艦が港に停泊している場面がうつされる。覇権を目指す中国を牽制するための包囲網作戦のためだそうである。イギリスは、今もヴィクトリア朝、エドワード朝のままに停滞しているのか、それとも、まさか観光なのか。

そこに、フランスも、日本も参加するとの情報が提供され、それと同時に、中国の台湾侵攻はいつかが、また取りざたされるのだ。私たちは、さらにコロナ禍で毎日ウイルスとの戦争を展開しているのだが、この戦争も何かあやしく感じられて仕方のないというところなのだ。ウイルスとの、また未知のそれとのセンソウだと言いながら、ワクチンは既にもう何年も前から準備されていた?ようだし、ウイルスもつくられていた?節があるとする「情報」が世界中を飛び交っているのだ。

おまけに、中国の武漢研究所はフランスの資金提供でつくられ、オバマ政権時に、米国からの資金援助がなされていたとの「情報」も、その真偽はともかく、これもネットの世界では「常識」とされているようだ。さらに、そこにまた、米国ファイザー社と先の武漢研究所との「あやしい関係」をにおわせる「情報」が加わってくる。

まだまだ、おかしな話は続く。「命と暮らしを守るのは国の重大使命」と繰り返す安倍・菅政権だが、やっているのは、その真逆である。これまでにも、多くの国民の命を見殺しにしてきたばかりか、その生活破壊も、凄まじい勢いで続けている最中だ。その光景を眺めているばかりでは決してないと思われるはずのマス・メディアは、何も騒がない。騒げない。本当に静かなのである。

さらなるおまけとして、日米安保体制と在沖米軍基地の米軍をしり目に、中国艦船に「領海」侵犯を何度も受けながらも、日本の政権は日本の安全保障のためには日米安保を前提とした、さらなる日本の軍事力の増強が必要不可欠だと、日本防衛の重要性を訴え続けている。これまたすぐわかる嘘の劇を国民に見せつけているのだが、当の国民はしらけ切って、嘘だとわかっていても、その嘘に騙されたふりをして、結局は「嘘から出た実」状態と化す。面白くもない話となる。

そしてそのとどめとして、東京五輪の強硬開催を未だ諦めないのだから、国民は、ある種、「参りました」状態に陥ったかに思われる。何しろ、国民の8割近くが五輪中止を当然とする中で、その国民から政治の信を負託されているはずの自公政権が、その国民の声を無視して、一向に従わないのだから、これはもう、どこかの国の抑圧政権と遜色ないのではあるまいか。

これを譬えて言うならば、「軍事的」抑圧政権に似た「平和的」抑圧政権とみることができるのではあるまいか。そしてこの軍事的を「暴力的」として置き換えるとき、「暴力」と「平和」とがまるで握手している関係に見えてくるのではあるまいか。

これに対して、ノルウェイの平和研究者のヨハン・ガルトゥングは、「平和」なる状態を、ただ単にいわゆる「戦争」の無い状態とするのではなく、人権や福祉が保障された状態を位置付け理解していた。それゆえ彼によれば、平和」の反対は戦争ではなく、暴力であるとの考え方が導かれたのだ。戦争もその暴力の中に含まれている。

私は、既に拙著で彼の平和と構造的暴力との関係についての捉え方を批判的に考察したが、それは今も何ら変わらない。そこには、私と彼との普遍的価値の位置づけ方、その実現の仕方に関する見方がある。彼もそうだったが、ウォーラーステインもフランクも、、勿論、ヘーゲルもマルクスもそうであったが、「普遍的価値」なるものが、たとえば、自由、民主主義、人権、平和といった価値(誤解を恐れずに言えば、「価値観」と言う方がわかりやすいかもしれない)が、どのようにして実現されるのかに関して、その見取り図に関する素描さえ提示してはいないのである。

もとより、問題関心が違うと言えばそれまでだが、ブルジョア的民主主義について、つまりは私たちがいま手にしているリベラルな民主主義のことだが、私たちはいつもそうした「民主主義」を守らなければならないとか、民主主義が危機に瀕している等々に関して、それこそマス・メディアでは「常識」として語られてきたくせに、誰もその実現過程を語ることができなかったのである。

私の言うことが嘘だというのならば、ネットの中の図書館に入って、たくさん調べてみればいいだろう。そのほとんどすべてが、イギリスの民主主義はとか、フランスの民主主義は、アメリカの、日本の大正デモクラシーは云々の話だけなのだ。決して「民主主義」一般に関しては論述していないのだ。たとえ、その一般なるものが語られた文献をみるとしても、たとえば、ダールの「ポリアーキー」(概念)もそうなのだが、すべてその出自は(価値観」も含めて)、先の「市民革命」を経験した諸国の歴史を前提としていることから、ほとんど何も語ったことにはならないのだ。

たとえば、イギリスの市民革命の歴史とその後のリベラルなデモクラシーの「発展の機会」と、アイルランドやインド、その他イギリスの植民地におかれた国々の「市民革命」の「不在」と、その後の「リベラルなデモクラシー」の「発展の機会」の「不在」の関係を、両者の歩みをともに(共時的に)捉えて描かなければ、とても民主主義「一般」について語ったことにはならないのではあるまいか。


(最後に一言)

完全に話が「脱線」してしまった。後半は、例によって、昔の話の繰り返しとなった。仕方がない。お許しを。ボケ防止と、必ずや、また公の前で話をしなければならない時が来ると信じているので。次回に、また続きを述べてみたい。読者には申し訳ないが、少し気分が楽になったようだ。だが、この私の体の中で感じる「閉塞感」「絶望感」は、一体どこから来るのだろうか。

 


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(修正版)私たちは再び、「あの戦争」を繰り返そうとしている。その帰結として、筆舌に尽くし難い修羅場?がもう少し先で待ち受けている?それだけはどうか、ゴメンコウムリタイ!

2021-05-28 | 日記

(修正版)私たちは再び、「あの戦争」を繰り返そうとしている。その帰結として、筆舌に尽くし難い修羅場?がもう少し先で待ち受けている?それだけはどうか、ゴメンコウムリタイ!


(最初に一言)

少し前の記事でも、同じようなことに言及しているので、もうあまり話したくはない。つらいだけだから。ただ、それでもいま語っておかないと、のその思いだけからーーー。


それにしても、記事を書きながら、ここに至るまでの主権者としての、有権者としての「私」を振り返るとき、さすがに「私」の「罪」から逃げることはできないと痛感するのだ。その罪とは、安倍・菅へと続く「ろくなもんじゃない」政権の登場に対して、どれほど言い訳をしたところで、結局は手を貸したという罪、それと同時に、そんな政権に代わる少しでもよりましな野党をつくり出す努力もしないままに今日に至ってしまったという不作為の罪、に対してである。まったく「勝手だね!」であり、「ざまはね~」「どの面下げて、このアホーが」との、「私」自身をののしる、「私」の声が五臓六腑を駆け巡る。

それにしても、それにしても、ーーーなのだ。「歴史」というものはなんとも、なんとももどかしいものである。過去の経験から、この次はこうなるから、あそこは注意しなければ、なんて思っていたとしても、「その瞬間」が近づくにつれて、「どういうわけ」なのか、せっかく事前に心がけていた「それだけは絶対に回避しなければならない」とする「心構え」を、いとも簡単に崩してしまう。

この「アヤマチ」としての「敗北」を(もう)一度繰り返すとすれば、それはなんと同情すればいいのかと思うほどの「悲劇」として捉えられるかもしれないものの、さらにまた、そしてまたの繰り返しだとすれば、もうただのあきれたというばかりの「喜劇」としか言えなくなるのは間違いなかろう。

誰かのパクリ?だと、読者には思えるかもしれないが(正直に言うと、もうその内容も忘れてしまったので、この記事ではヘーゲルやマルクスの言と切り離して、ただ読者それぞれの思い浮かべる悲劇・喜劇を前提にして読んでほしいのだが)、その読者も、このコロナ禍における政府と、その取り巻きの利権グループと、その背後に控える「見ざる・聞かざる・言わざる」の国民を生産・再生産するマス・メディアを担い手とした「東京五輪強行」へと向かう流れを目の当たりにするとき、私と同じように、しみじみと静かにその思いをつぶやくに違いない、と私は推察するのだ。

ただし、「あの戦争」の「敗北」から今日に至る歴史を振り返るとき、私たちはもう既に、何度も「喜劇」としか言いようのないドラマを繰り返してきたのではあるまいか。また、そもそも、歴史に悲劇とか喜劇などありはしない、いや、それはあるに違いない、とあれこれ考える中で、今また繰り返そうとしている喜劇を、誰が観客となって見ているのだろうか、と思った瞬間に、観客もまた劇の役者と同様に、その劇を成り立たせるためには必要不可欠な役者であると、言わざるを得ない。

つまりは、悲劇にしても喜劇にしても、舞台を見入っている観客こそが、「歴史」劇の本来の主人公だということなのだが、残念なことに、この観客の能力では、悲劇も喜劇も、ただの劇としか捉えられないのだ。「歴史を生きる観客」としての自らの能力を、磨く訓練を怠ってきたから、ここが一番だという肝心なところで力を発揮できない。正確に言えば、そうなるように、(「システム」によって、)逆の訓練を提供されてきた、つまりはいつも「傍観者・無関心者」として存在する訓練だというべきだろうが。

その原因を辿っていくと、歴史劇に携わる関係者たちが、「きちんとした劇」の創り方から見方に至る全工程を、後の世代に対して教えてこなかった・教えられなかったということになる。そもそも、劇(歴史)とは何ぞやから始め、その劇を劇として成立させるために必要な、たとえば、役者と観客をコミュニケートさせる劇の解説者や評論家の役割を担う教育・研究機関、そしてそれらを観客のもとに整理・編集・紹介するメディア等の抱える問題は何かに関して、それらを常時、検討・検証する作業を怠ることは許されないと言えるだろうが、それは言うは易く行うは難しいのである。。

そして、それは現実となって、私たちの前に現れるのだ。「ときの移り変わる中で、いつしか」劇の提供される劇場はもとより、原作、脚本から、登場する役者も含めて、その劇に関わるすべてを一括して管理・運営する巨大な世界的利権勢力とそのネット・ワークがつくり出されてきたのだ。そして、あたかも見るものすべてが、その力に引き摺り込まれてしまい、彼らに「忖度」して、生きざるを得なくなったということではあるまいか。

これこそが、悲劇であると同時に、絶えず悲劇をつくり出してきた正体ではあるまいか。(無論、そうした力の所有者・独占者たちからすれば、歴史は、いつもそうした彼らが愚かな私たちを、彼らの思いのままに操る喜劇にしてしまうのだろうが。)そしてコロナ禍の五輪強行へと猪突猛進する歩みもまた、悲劇の歴史劇としてそう遠くない先に語り継がれることになるとすれば、さすがに、もうそれは喜劇としか言いようがないだろうが、その時においてもなお、私にはやはり、悲劇と言うしかないのだろう。

なぜなら、私たちは、私が常々このブログでも述べているように、私たちは「システム人」として、「システム」を担い支えてきた、そうせざるを得ないような生き方を強いられてきたのだから、そしてそこから抜け出せそうもない、という観点から、私は歴史をみているからである。誤解のないように付言すれば、まったくそれが「ない」わけでもない。これに関しても、既に私は以前の記事の中で何度も論述してきたことを、改めてこの機会を利用して、念を押しておきたい。


(最後に一言)

上の文中において、「 」を付けた箇所が何カ所かある。それ等の多くは、そのまま額面通りには受け取れないと、私が考えているところである。私は、「あの戦争」の歯医者は誰であり、勝者は誰かと問われれば、ひとまずそれは、当然ながら私の語る〈「システム」とその関係の歩み〉であると答えるであろう。

それゆえ、勝者とか敗者の位置づけ方はできないし、「デモクラシー」が「全体主義」に対して勝利したなどの物言いも、言語道断である。私の語る「システム」の中では、私たちは常に誰かを差別し、排除すると同時に、逆に差別され、排除されているということだけである。

その意味で言えば、私たちの掲げてきた普遍的価値も然り、また「平和の祭典」も然り、すべてそうした差別と排除の関係を前提としてつくり出されてきたのである。問題なのは、東京五輪だけではない。それは確かにそうである。だが、誤解のないように一言。だからこそ、私は「日本(にっぽん)」と「日本人(にっぽんじん)」は、「にほん」と「にほんじん」の立場にたって、今こそ東京五輪の中止を決断すべきだと主張するのである。

あぁ、また読者を一人、二人と不快にして、私のブログから遠ざけてしまった。残念、残念。これもまた嘘だろう。最初から、わかっているから。私のブログの読者が多いはずはない。それほど、みんな「賢くもなければ、愚かでもない」というのを、私はよく知っているから。私のブログ記事を理解できる人は「賢い」に決まっている。すぐわかるほど、それほど簡単な話ではない。それは言うまでもない。多くの者には、当然ながら理解できない。それゆえまた、わけのわからない話に四六時中付き合い、そこから何とか理解しようと何度も読み直すほど、読者は「愚かではない」ということなのだ。これは仕方がない。


(付記)

眠ろうと何とか頑張ってみようとしたが、いつお迎えが来るかもしれないという思いの方が勝り、起きてきた次第。昨日の記事の中で、悲劇と喜劇について述べていたくだりがあったが、その際、ヘーゲルやマルクスの言を離れて云々のくだりを書いていた。私は以前の拙著において、彼らの歴史観を取り上げて、とくにその楽天的な「近代化」史観を批判的に考察していたこともあり、マルクスの「一国枠」的な歴史の中で繰り返される「悲劇」と「喜劇」の位置づけ方・取り扱い方には、どうしても納得がいかなかったことを覚えている。

そうした私の気持ちが端無くも表れてしまったのだろう。それはそうとして、あれからネットでマルクスの悲劇と喜劇に関する文献を探していた。もう私は活字は読むことができないので、ネットの音声検索に頼るしかないが、そこで思いがけず、拙著(『民主化の先進国がたどる経済衰退』晃洋書房 1995年)で引用させてもらった書物の著者である研究者の名前を見つけたことから、感慨もひとしおなのだ。

それは、〈本と奇妙な煙〉というおそらくはブログのタイトルであると伺われるのだが、そこにある記事であった。とにかく幸運であった。その記事の中で紹介されていたのが、フランソワ フュレ著, 今村 仁司・ 今村 真介訳『マルクスとフランス革命』(叢書・ウニベルシタス 2008年)である。

少しそこから例の「悲劇」と「喜劇」に関するくだりを引用させてもらうと、次のように述べられている。


(引用、始め。)


ーーーマルクスの眼前にあるドイツはもはや、
1818年から1820年にかけての啓蒙的プロイセンではなく、1830年代および1840年代の反動的プロイセンである。ドイツは、革命をおこなわず、革命を恐れている。ドイツは、フランスのように歴史の主体になることがけっしてできずに、歴史の客体と化している。(略)
フランスにおいて悲劇的結末を迎えたアンシアン・レジームは、「ドイツで再生して喜劇を演じている」。ここではじめて、歴史がその流れのなかで見せ場を何度も演じるという考えがマルクスのなかに現れる。(略)
悲劇は新たな時代の到来を告知し、喜劇は古い時代の最終局面の延命を告げ知らせる。それは、「人類が自らの過去に明るい気持ちで別れを告げうるため」なのである。ーーー


(この引用冒頭のくだりだけで終わってもよかったのだが、私の興味もあったので、おせっかいながら、先の続きをさらに引用しておいた。)


ーーー では、こうしたドイツ史の悲惨さのなかにあって、ドイツのすべてが非難されるわけではないのは、いかにして、またなぜなのであろうか。二つの理由によってである。ひとつには、ドイツがその未来(マルクスのいう「後史」)を思想のなかで、つまり、哲学というかたちで生きたという特殊性をもつからである。ドイツは、他の諸国民の理論的良心であり、その反動的な過去すら哲学的である。なぜなら、それはルターであり、宗教改革だからである。では、現在はどうかといえば、ドイツはその悪徳によって麻痺させられたまま、アンシアン・レジームのなかに沈み込んでしまっている。だが、その哲学のおかげで、ドイツ人は、フランス人が実際に発明した近代国家というもののもつ欠陥を分析することができるのである。だからこそ、ヘーゲルの『法哲学』は、ドイツの擬古趣味を思想的に清算する一方で、フランス革命がうち立てた国家をも批判の対象にすることができたのである。ところが、これが第二の理由なのだが、マルクスにとっては、思考された歴史が現実の歴史に取って代わるというドイツの呪いを打破することによって、言い換えれば、ヘーゲル哲学をその実現によって否定してみせることを通じてヘーゲルを乗り越えることこそが、問題なのである。こうして、ブルーノ・バウアーとの論争が芽生えはじめる。マルクスは、ドイツの立ち遅れという欠陥そのもののなかに、フランス革命よりもさらにラディカルな、したがってまた、ドイツ哲学の水準に見合うような革命の諸条件を見いだす。実際、フランス人がおこなった革命は、「部分的」で「政治的側面のみの」革命でしかなかった。というのは、それが市民社会のある部分、すなわち、所有者ブルジョワジーを解放しただけだったからである。要するに、それは、「普遍人間的な」解放を生みだしえなかったのである。マルクスはこのように、『法哲学』における批判的分析を彼なりのやり方で復唱してみせる。その反対に、ドイツのアンシアン・レジームでは、まさにその立ち遅れゆえに諸原理や諸階級がまぜこぜになっている。そこでは、支配的な位置を占めるようないかなる原理も階級も存在せず、それらは互いにうち消しあう関係にある。したがってそこでは、いずれの原理や階級も、フランス流の部分的解放を実現するために社会を全体として代表するといった役回りを演じることができないのである。この臆病で「俗物的」な社会のパラドックスとは、そこではただ全体的な解放のみが可能であること、そしてこの解放は、ラディカルな鎖につながれて自分よりも下には排除すべきいかなる残余の人間もけっしてもたないが、まさにそれゆえに今度こそ人間の解放をもたらす階級によって実現されるということである。こうしてマルクスにおいて、プロレタリアートという観念が、ドイツの実践をドイツ哲学の水準へと引き上げるチャンスとして浮上する。ーーー


(以上、引用はここまで。)


何か眠る前には最適な文章のようで、私は久しぶりに興奮を感じている、と言えばやはりオーバーだろうか。若い頃、何も理解できないくせに、いろいろな哲学書に挑戦しては、ノックアウトの連続で、参った、参ったの思いだけでずっと過ごしていたものだ。今も、それほど変わってはいないものの、やはりどこか面白いのだ。それだけ経験を積んだ、齢を重ねてきたという証であろう。

最後になったが、私は先の訳者の今村仁司氏の著作『近代性の構造――「企て」から「試み」へ』(講談社選書メチエ 1994年)を上で紹介した拙著の中で取り上げさせてもらった。本当に懐かしい限りである。と同時に、また寂しい思いが募るばかりだ。

ここに、今村仁司氏のご冥福をお祈り申し上げます。

☆なお、新たに(付記)と、少しばかり文中のある個所を訂正したので、昨日の記事を(修正版)として投稿し直したことを、読者に断っておきたい。昨日

 

 


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信濃毎日、西日本に次いで、朝日も五輪の中止を求める声明を出した、次は毎日と神戸、京都の新聞社に期待している!

2021-05-26 | 日記

信濃毎日、西日本に次いで、朝日も五輪の中止を求める声明を出した、次は毎日と神戸、京都の新聞社に期待している!


(最初に一言)

何か世界を巻き込む「言論戦」の様相を呈してきた感がする。それは問題が問題だけに当然なことである。とにかく頑張ってほしいものである。


タイトルにもあるように、信濃毎日新聞から始まり、西日本新聞、そして朝日新聞と五輪中止を求める声明が社説で述べられている。次に私が期待するのは、毎日と神戸、そして京都の各新聞社である。

勿論、その他の地方紙も続いてくれることを、私は個人的には期待している。日本経済新聞や読売、産経にはまったく期待はしていない。それはそれで構わないから、とにかく、各新聞社の「自分の声」を発してほしいのだ。本来なら、それぞれの新聞社には各々の「独自の色」があるはずであり、それを鮮明にしてこそ言論の府と言えるのではあるまいか。

もとより、新聞社の経営も以前とは比較にならないほどに苦しくなっていて、その広告収入を考慮すれば、独自色など言語道断だと経営サイドは考えているはずである。しかしながら、どのみち、紙媒体の先行きは、今までと同じことをやるだけでは、思わしくないであろう。

今回の報道を契機として、同じ反対でも、また逆に同じ賛成でも、それぞれの新聞社にしか出せない個性を工夫して、それを提示してほしいものである。残念ながら、みな金太郎飴のように思えて仕方がないのだ。新聞はほとんど毎日の発行となるから、記事を書くこと、それを編集することだけを考えても、大変な作業となる。それは確かにそうなのだが、だからこそ、身の回りの眠ったままで気づかれない「資料」に光を当ててほしいのだ。

少し寄り道というか、余計なことまで言及したかもしれないが、いろいろな切り口を私は期待している。


(最後に一言)

前回記事で、「当時の日本の主要な大手と目されるメディアも、全く抵抗できないままに」云々と朝日も念頭において述べていたので、前回記事のままでは失礼と思い、急いで今回記事を書いた次第である。

それにしてもIOCの委員からトンデモ論が続出しているが、彼らの感覚ではそれは「常識」の範疇に収まることなのだろう。しかし、それはやはり看過できない話ではあるまいか。

私がとくに残念に思うのは、日本には「保守」とか「右翼」を名実ともに標榜する資格のある言論人が少なすぎるということである。もしそのような言論人であれば、森や小泉元首相、安倍前首相、そして菅現首相の言動や自公政権の愚かしさを厳しく叱責したであろう。

真正・保守(右翼)のいないところには、真正・革新(左翼)も育つことはないのも、また然りということであろう。


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