日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

「総力戦体制」論、「国民的総動員システム」論を私のモデルのセカイから考える

2015-12-16 | 社会 政治
2週間くらい前ですが、昨年の拙著(『21世紀の「日本」と「日本人」と「普遍主義」―「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち続けなきゃならない」セカイ・世界とそこでのセンソウ・戦争』(晃洋書房 2014年)でなお十分に主張できなかったことが、ここにきて少しだけですが何か言えるような気になったので、以下に書いておきます。

今年最後の話として、従来の政治体制論で語られる民主主義体制、権威主義体制、全体主義体制の区分に関して、私がまず問いたいのは、この世に生を受けるすべてのものが、そこには動物、植物の生も含めてであるが、私の例のセカイの中に組み込まれていき、身動きが取れなくなるということである。

そのセカイの「信条」は、自由、平等、民主主義、人権、平和といったいわゆる「普遍主義」であるのに、あたかもすべてのものが、そのセカイ(すなわち、1970年代までは、{[A]→(×)[B]→×[C]}また1970年代以降は、{[B]→(×)[C]→×[A]}<いずれも省略形モデル>のセカイ)の一元的支配を支えるために、総動員されていくのであり、またこれまでの歴史からも分かるように、事実そうしてきたのである。

これは従来の言葉の使用法の違いはあれ、一つの全体主義である。なぜなら、このセカイの、すなわち覇権システムの中で生きていかざるを得ないという意味において、またそのシステム内の経済発展の関係の枠の中で生きていかざるを得ないという点において、また民主主義の発展の関係の枠の中で生きていかざるを得ないという点で、三重の意味における全体主義のセカイであり、システムである。

付言すれば、こうした私の「三重(層)のシステム」の位置付け方において、パーソンズのシステムの見方とも、また山之内靖の説く「総力戦体制」論とも、あるいは桑野弘隆の「国民的総動員システム」論とも異なる立場に位置している。

端的に言うならば、議論の対象と次元が異なっている。桑野の語る近代資本主義システムを軸とした、すなわち、そのシステムの中に総動員されるという見方に対して、私は、近代民主主義システムの中にも、同時にその両者の関係史のシステムの中にも、総動員されてきたと捉えている。その場合の資本主義とは、史的レベルの史的システムとしての資本主義であり、民主主義とは、同様に、史的システムとしての民主主義に他ならない。

また、山之内の説く「総力戦体制」論には、戦争を、戦時体制を契機とした総動員体制が語られてはいても、桑野の批判するように、近代資本主義システムの形成と発展に伴う総動員の歩みが語られていないと同時に、史的システムとしての民主主義の形成、発展とその変容の歩みの中に、総動員される歴史が組み込まれていない。さらに、パーソンズの語るシステム論との関連で言えば、まさにそのシステムが位置付けられる「舞台」である「覇権(世界)システム」との関係性が語られていないのである。すなわち、そのシステムの中で、日本と日本人が日本と日本人であるためには、「勝ち(負け)続けなきやならない」、そのためのシステム内でのセンソウ・戦争があり、その点から見れば、覇権システムの中で生き続けることは、内戦や植民地戦争や世界大戦に関係なく、絶えずある種の「戦時体制」の中で生きなければならないことを意味しているのである。

自分のモデルをもとにしながら、これまでいろいろなことを考えてきましたが、その中でもここに紹介しました件は、おそらくこれまでの拙論でも似たようなことを述べていると思いますが、それを鑑みても少し微妙なところを探し当てれたような気がしています。今は私の眼の状態をみながら、悪戦苦闘の中で文章を書いていますが、時間がかかっても納得できるものを書きたいと思います。次回に上梓しようと考えている拙著はここにある内容がモチーフとなるはずです。


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