日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

「システム」論からいわゆる財政発動積極策を支持する「MMT」を考えるとき

2019-10-27 | 社会 政治

「システム」論からいわゆる財政発動積極策を支持する「MMT」を考えるとき

最近よく聞く話題として、従来の財政政策である国家財政均衡論に代わる「新たな」財政経済政策とされるMMTなるものがある。簡単に言うならば、インフレでない限りは、たとえ国家財政が赤字となっても、積極的に財政発動して経済成長を図るべきとの考え方だ。 このMMTなる話に接するたびに、私は犬童一男著『危機における政治過程ー大恐慌期のイギリス労働党政権』(東京大学出版会、1976年)を思い出す。簡潔に内容を紹介すると、単年度単位での国家会計の均衡を重視するのに代えて、複数年度にわたって国家会計の赤字と黒字のバランスを考慮するとの見方に立ち、国家会計が赤字であっても、経済成長を図るために国家財政の発動をためらうことなく、政府が経済運営のかじ取りをするというものである。

1929年の米国大恐慌後に発足した第2次マクドナルド内閣による財政均衡政策重視の経済政策の採用による危機打開は失敗して、内閣は瓦解したのだが、当時のイギリスでは、自由主義的均衡政策とケインズ理論に依拠した財政の積極発動策の採用の可能性も検討されたが、結局は内閣の大蔵大臣であったスノーデンにより均衡政策が採用されたのである。これに対して、前掲著書の中で比較されたのがスウェーデンの社会民主労働党政権下でのケインズ主義的財政政策の発動による恐慌乗り切りの成功の話であった。 なお、詳しくは犬童 前掲書を参照されたい。

私はシステム論の観点からこの大恐慌時のイギリスとスウェーデンを見直すとき、既にイギリスの経済はいわゆる重厚長大型の経済から金融・サービス型の経済へと転換していたことから、ケインズ政策を採用したとしても、経済の活性化は困難であったとみている。(なお、イギリス経済の特徴として、「ジェントルマン資本主義」論も無視できないのだが、ここでは話を分かりやすくするためにそれについては触れないでおく。ただし、穴化として話の落としどころに問題はない。)

それと関連して、イギリスの金融・サービス経済型への転換が19-20世紀転換期以降のシステム内における他の国々の重厚長大型経済の発展とそれを支持する役割を果たすことになったとみている。その際、19-20世紀転換期から第一次世界大戦、第二次世界大戦期に至るまでの「英米覇権連合」の形成と発展がそうした世界資本主義システムの発展と安定に寄与したことを看過してはならない。

こうしたイギリス型の経済を、1970年代以降の先進諸国も採用することとなり、そのことが、アジア・ニーズや中国、インド、そしてアフリカにおける今日の経済発展を支えてきたと、私は見ている。

私の語る「システム」論の観点から見れば、経済学に致命的に欠けている支店が、覇権国を頂点とした覇権システムから世界が構成されているとの見方である。つまり、覇権国と覇権システムの存在が、ある国や諸国の経済政策とその採用の有無並びに成否を決めてしまうということを斟酌できないということである。

付言すれば政治学も、国際政治学も同様に、残念ながらこの覇権システムを十分には理解できないままに置かれている。政治学の致命的欠点は、この覇権システムの枠の中で、民主主義が発展するその可能性の有無と成否が関係しているとの見方が最初から欠落していることである。もし覇権システムを比較の視野に含めることができていたならば、比較と同時に関係を考慮することから、「一国枠」を前提とした従来の比較の愚かしさにも気づくことができたに違いない。

さらに付言すれば、比較政治学の民主化論と結び付けられている経済発展と民主主義の発展の関係が、この覇権システムの発展と結び付けられない、関係づけられないままに、研究されてきたことも、この分野における政治学の先細りを予見させることとなる、と私は考えている。

今のシステムの配置とその歩みを考えるとき、すなわち1970年代以降のセカイとその関係の歩みを示す{{B]→(×)[C]→×[A]}(省略形、共時態モデル)、もはやMMT理論は先進諸国では採用できない代物なのだ。採用したとしても、B矢Cの諸国から今後ますます安価な、それでいて精巧な工業製品や日常用品が私たちの身近に出回ることとなる。残念ながら、積極財政論者がもくろむ様な確固たる産業経済の再建やその発展は難しいだろう。

ただ最低限言えることは、そうしたMMT論者の推進する政策発動により、先のセカイとその関係の歩みはさらに盤石なものとなる。結局は、財政発動に関する新旧経済学の語ることは、システムの自己完結運動とその歩みにとってすべて大歓迎となる、めでたしめでたしの話だということになる。その意味では、私のような「反・システム」を気持ちだけでも志向する者には何の役にも立たない話なのだ。

 

(追記)

記事投稿後に以下に付言したい内容を追加した。

MMTなる財政の積極発動策に関した経済(学)の見方というか考え方は、べつに「新たな」ものでもないし、その意味では「新・旧」という上述の私の指摘もおかしいかもしれない。19世紀ー20世紀転換期のイギリスにおいて、J・A・ホブスンによりケインズ政策の先駆けともいう考え方が提案されていた。いわゆる「過少消費説」なるものであり、それによれば、労働者の賃金を増加させることにより有効需要を喚起して、そこから経済成長を導けるという発想であった。

しかし当時のイギリスの経済構造は、「多角的貿易決済機構」の形成と発展の下で、金融・サービス重視の経済構造をつくり出していて、労働者や市民の賃金上昇や年金増は、国内産業を活性化するというよりも、むしろ安価な海外製品の購入に回されていくことにならざるを得なかったのである。これがいわゆる「イギリス病」とか「先進国病」の基本的原因をなすものであった。イギリスの場合、大英帝国であると同時に覇権国であったことが、先に示したようなイギリス経済の仕組みとそこで選択される経済・財政政策を決定させていくのである。そこにロンドン・シティが密接不可分に関与していたことは言うまでもない話なのだが。なお、これに関しては、拙著『「日本人」と「民主主義」』(御茶の水書房、2011年を参照されたい。

 

 


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「システム」は人の上に人をつくり、人の下に人をつくり続ける

2019-10-22 | 社会 政治

「システム」は人の上に人をつくり、人の下に人をつくり続ける

福沢諭吉が言う、天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず、とは嘘なのだが、それをもっともらしく諭したところに多くの人の共感を呼んだのだろう。福沢は勿論のこと、みんな分かっているからだ。生きている社会がそうではないことを。

それにしてもこの何週間の空気は、一体なんだろうなぁ、この閉塞状況は。とにかく息が苦しいのだ。ただそれでもよく食べ、焼酎を飲み、よく眠れてはいるが。そんな私を少し楽にしてくれるのは、私が「システム人」として担い続けている「システム」とその自己完結運動の歩みと悪戦苦闘し続けていることかもしれない。そのシステムはいつも私に教えてくれる。すなわち、システムは人の上に人をつくり、人の下に人をつくることを。この「人」の集団が構成する国家もシステムから見れば、システムは国の上に国をつくり、国の下に国をつくり続けるということになる。

そんなシステムに対して、私は何とかできないものかと向き合ってきたが、どうにもならないままだ。その挙句はこの私自身がどうやら疲れ果ててしまった感がある。それでもそんな私に対してシステムは叱咤激励しながら、生きている限りはしっかり考えろ、そして何とかお前にしかできない軌跡を残せと。それがシステム人としてのお前が果たすべき役割である、と話しかけてくれているように思えるのだ。と言うか、ここまで来てしまったのだから、そう思いこむしかないだろうが。このくそったれと、時々一人で呟きながら、生きていくしかないだろう。

 


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