日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

前回の続き(3)-問題意識に関して

2019-11-16 | 社会 政治

前回の続き(3)-問題意識に関して

R・ダールの「ポリアーキー」概念の提起作業において、ダールは「ポリアーキー」すなわち簡単に言えば、「自由主義」と「民主主義」の歴史的合成として描かれる自由主義(的)民主主義であるが、その自由主義的民主主義が形成される舞台となる主権国家、国民国家はそれではどのようにして実現されるのかという問題に関しては、所与の前提として、不問に付したのである。

同時にまた、先のポリアーキー概念を構成する二つの下位概念として位置付け提示された自由主義(自由)、民主主義(参加)なるものがどのようにして実現されたかに関する基本的考察は避けられたままであった。確かにイギリスやフランスアメリカと言った「市民革命」の歴史を起点としたそれら諸国の自由主義、民主主義に関する歴史的考察はなされていたものの、それは自由主義、民主主義一般についての考察では決してなかったのである。

と言うのも、たとえばイギリスの主権国家、国民国家自由主義、民主主義の実現過程と、そのイギリスの植民地に置かれていたインドの主権国家、国民国家、自由主義、民主主義の(実現)不在の歴史との関係を問わないままに、ただイギリスの自由主義、民主主義の歴史はかくかくしかじかだったとされても、それはインドを含めた話ではないから、とても自由主義、民主主義の実現過程云々の話とはならないだろう。同様なことはフランスと、またアメリカとそれら両国の植民地や従属地域間においても然りと言うことである。

これらの点を踏まえて、先の主権国家、国民国家の歴史を結びつけるとなれば、ダールのポリアーキー概念や政治学で語られてきたデモクラシー概念ではとても私たちの自由主義や民主主義の歴史を語ることなどできないのは最初から分かり切ったことではなかろうか。

さらに、ここでカナダの政治学者C・B・マクファーソンの「自由主義的民主主義」の歴史に関する指摘、すなわち民主主義は最初に自由主義が強固に固められていなかったならば、その後に民主主義が付け加えられなかったであろう、に関して、私は以下のような修正を求めざるを得ないのである。すなわち、もし「親分ー子分」関係に端的にあらわされる「力」と「力」による差別と排除の関係としての帝国主義関係を前提として形成され、発展してきた覇権システムが強固に根付いていなければ、 欧米社会において自由主義、そしてその後の民主主義は決して実現できなかったであろう、と。それは、覇権システムの形成と発展を基にしながら、資本主義と民主主義が初めて実現されたということを示しているのである。

それゆえ、私たちがポリアーキーを開放体系として、つまり自由民主主義体制として語るとき、その体制は一国の空間だけで実現されるものではないということを確認しておかなければならない。同時に、そうした自由民主主義体制と、それが実現される舞台としての主権国家、国民国家との関係(結びつき)をまさに関係論的観点から描くためには、いかなるモデルが求められるか、その問いに答えなければならないのである。私は既に、その問いかけにこたえて、例のシステムとその関係の歩みに関するモデルで、自由民主主義体制を描いてきた。簡潔に示すならば、A、B、Cの関係から成るシステムのAがいわゆる自由民主主義体制であり、Bが全体主義体制とそれに類似した強権的体制として、そしてCが権威主義体制を含む何らかの抑圧体制として理解されるだろう。ここで注意してほしいのは、それらの三つの異なる体制が一つの関係を構成しているということである。それゆえ、開放体系、自由民主主義体制はよくて、閉鎖的体系、社会主義体制や全体主義体制、あるいは権威主義体制は悪いと簡単に片づけて染むことはできないのである。それらの体制は相互に関係史ながら、システムとその関係の歩みの形成と発展、変容に手を貸している、協力関係にあるのである。

それゆえ、私が「問題意識」において、自由な民主主義体制が今や私たちを抑圧する閉鎖的体系、体制と化しているというとき、それではその自由民主主義体制に替わるのは社会(共産)主義体制であるとか、あるいは「ポピュリズム」であるなどとは毛頭考えられないということなのだ。無論、ナチズムやファシズムなどは論外である。

最後になったが、私の問題意識に深くかかわる日常生活レベルの話をここで聞いてほしい。それは私が盲学校の寄宿舎や学校内で出会った肢体不自由やその他の障害を抱えた子供たちとの交流から学んだことである。子供たちの中には、他人とのコミュニケーションにおいて、何とか自分自身を表現できる能力はあるものの、自分の力では動けない子供がいる。程度差はあるものの、盲学校を卒業して、別の作業所や施設に移ったとしても、おそらくは彼らを今後待っていると予想できる厳しい環境を想定した時、私に一体何ができるのかと自問自答しながら無力な非力な自分を見つめたものである。それは今もなんら変わらないままである。

もし私が彼らの親であれば、亡くなった後のことを考えるとき、想像を絶する世界を毎日毎日それこそいやと言うほど思案していることだろう。もしここで、こうした問題を先の問題意識に加えて、これまで俎上に載せて考えている閉鎖的空間を問い直すとしたら、どのような問いかけができるのだろうか。私たちはいついかなる瞬間に不測の事態に巻き込まれるかもしれないし、現に最近の自然災害においてもそうしたことは無縁なことではあるまい。その当事者たちが、例えば助けを求めてSOSを発して周りの者に助けを求めたとしても、多くの者たちは自分がその当事者になるまでは自分自身のこととしては考えようともしないし、なるべくは他人事として放置するばかりではあるまいか。偉そうなことを今も述べているこの私自身が自ら中途視覚障碍者となることによって、それまでまったく気づきもしない、考えもしない視覚障碍者が直面しなければならない問題が多々あることに、そして手つかずのまま残されていることを思い知った次第なのだ。

こうした問題と関連している事例を挙げれば枚挙にきりがないのだが、難民キャンプに命からがらたどり着いた母子や兄弟姉妹、あるいは孤児のその後の境遇を推測するときにも、私が盲学校で出会った子供たちのそれと何か重なるものがあるのかもしれない。私がここで考えている問題は、私と私自身の身の回りの人々にも該当するということである。たとえば、自然の猛威の前に、家を流され、親や夫や妻や子供を奪われて呆然自失の状態に置かれた人たちがたどるその後の事態を予測するとき、同様なことが想像されるのではあるまいか。もとより、その当事者のそれぞれの環境は異なるから、一様には扱えないものの、最悪の事態に直面した人たちがたどる状況は想像に絶した過酷なものかもしれない。

私たちは彼らのその後の生き様をたどろうとはしないが、おおよそそのことは推察、推測できるのではあるまいか。それが証拠に、私たちは今日では70歳まで働くことを余儀なくされている。勿論、自分でそれを欲するのであればそれは好ましいことかもしれないが、たとえ体の自由が利かなくなってきても、生活のために、生きていくためにやむなくそれを強いられている人たちが大多数存在しているのではあるまいか。彼らにとって、明日は我が身と言うか、今もそうした状況に置かれていると思うかもしれない。

しかしながら、そうした彼らが生きているこの空間は、開放的体系、自由民主主義体制であり、決して抑圧体系、全体主義体制下ではないのである。それは確かにそうなのだが、それにもかかわらず、彼らにとっては、ダールの提示した自由と参加の二つの次元から成る民主主義体制の下に生きようが、抑圧体制下に生きようが、状況はまったく同じかもしれない。その意味において、彼らが望む体系、体制の物差しは従来のような体系、体制とは異なるものでなければならないし、それを思考・志向すべきはずである。

ところが、そうはならないのである。それはなぜなのか。そこには「力」と「力」の関係がある。この世に生を受けた大多数の者は、ほとんど力を持たないのであり、その意味では最初から社会の主役とはなりえないし、お情けのように社会に組み込まれている存在かもしれない。それゆえ、障碍者や何らかの不利益や不条理を背負い込んだものには、さらに肩身の狭くなる社会となるのは必至ではあるまいか。圧倒的に差別され排除されてきた者たちの間に、その差別と排除の関係が何層、何重とそれこそ数えきれないほどに形成され、がんじがらめとなっているとしたら、そこで問われるべき物差しは、自由や参加では決してない、と私はこれまで考えてきた。さらに、私はその自由や参加の二つの次元から構成される自由民主主義体制それ自体が、差別と排除の関係を前提としていることを論及してきたのである。それゆえ、自由民主主義体制を基に発展した福祉国家もまた同様にそうした関係を免れるものではなかったのである。

ここで、ダールがポリアーキー概念を考案した際に、これまで私が何度も問うてきた私たちは一体歴史の、つまりシステムとその関係の歩みのどの段階、どの地点で生きているのかという問いかけと結び付けて再度、ダールが生きていた地点を問い直すならば、それは以下のように語られるに違いない。すなわち、「[A]→(×)[B]→×[C]}(何度も述べているように、省略形、共時態モデルである。)のAに位置していたのである。同時に、Ⅰ期、Ⅱ期、Ⅲ期で描く段階で示すならば、それはⅡ期からⅢ期の、つまりⅡ期の{[経済発展→分厚い中間層の形成]}の前期、中期、後期の段階を経て、Ⅲ期の{[分厚い中間層の形成→民主主義の発展(高度化)]}の前期、中期、そして後期の段階へと歩んでいた段階に位置していたのである。

それゆえ、ダールにしてみれば、自由と参加の二つの次元から構成されるポリアーキー、すなわち自由民主主義体制で事足りたのである。ところが、その自由民主主義体制の実現が可能となるのは、それがシステムとその関係の歩みにおいて、一九七〇年代までは、Aの空間に属していたからであり、B矢Cの空間に置かれていれば、Aの植民地や従属国に似た状況、状態の下に置かれてしまい、とても主権国家や国民国家の実現は望めなかったのだ。

幸いなことに、ダールはこうした関係の所在を確認できる分析視角と分析枠組を持たなかったから、ポリアーキー概念の提示で満足できたのである。付言すれば、「民主主義を取り戻せ」と叫ぶ米国のリベラルな論者の多くはニューディール期以降の戦後米国の1950,60年代を民主主義の黄金時代と礼賛し、そこに再び戻ろうと呼び掛けているが、彼らも、そうした米国の民主主義や資本主義の黄金時代とその果実が、システムとその関係の歩みにおけるA、B、Cの差別と排除の関係を前提としてつくり出されてきたということに気が付かない、オメデタイ、いや幸福な連中なのである。

そして今そのシステムと関係の歩みは、{{B→(×)[C]→×[A]}に変よしている。そしてますますこの関係は、Bの先頭に位置する中国とAの先頭に位置する米国との米中覇権連合の協力関係の下で、さらに発展され強固となっている。今やAの地点に位置した人の多くは、かつてのダールが望んだような自由と参加の物差しに甘んじて我慢できなくなっているのではあるまいか。それが極右政党の躍進とかポピュリズム減少とか、移民排斥の動きとして表わされているのではなかろうか。それを踏まえるとき、かつてのA、B、Cの関係から構成されるシステムにおいて、BやCでは、とくにCにおいてはダールの自由や参加の二つの次元から構成されるポリアーキーを自ら望んだり欲することはなかったのではあるまいか。それがあたかも世界のすべてが民主主義万歳を叫んでいるかのように喧伝されたのは、覇権システムとその下での力の存在であった、と私はみている。そのシステムの下で、世界資本主義システム、世界民主主義システムの中に、強制的に(自由に)動員され組み込まれていったのである。その意味では、「強制的同質化」云々と批判される全体主義体制と異ならないのではあるまいか。

前回の記事の冒頭で、私が問題提起をした背景には、システムとその関係の歩みにおける差別と排除の関係を批判的に考察してきたという私なりの事情もあったのだが、それに加えて、私自身が{[B]→(×)[C]→×[A]}のAの中の24,5番目近く(?)に置かれてしまったという、それこそ何か閉塞感に似た感情を抱いたその反射的反応であったのかもしれない。付言すれば、これこそ米国のトランプ大統領の登場した理由であった。かつての米国の黄金時代は、覇権国として世界に君臨していた米国でもあった。それをもとにして考えれば、トランプの強いアメリカを取り戻せの掛け声と、民主主義を取り戻せの主張は、決して矛盾するものではないのだ。

これらの話は、拙論や拙書でたびたび言及したことであり、何ら新鮮味はないのだが、いずれにしても、今回の記事も前回同様に、これからの議論のための「たたき台」として、さらに上書きしていきたい。ひょっとしてそこからまたなにがしかの論じ方ができるかもしれないと思っている。それにしても、まだまだ先は長く、やっとこれから始まるのだとの思いばかりが強くなる。


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前回の続き(2)

2019-11-09 | 社会 政治

前回の続き(2)

「私の問題意識と言うかこだわっていること」

かつてロバート・ダールは彼の著作である『ポリ・アーキー』の中で、私たちが「閉鎖的体系」または「抑圧体制」の中に置かれて何もできないとした時に、そこからその体系、体制から抜け出すためには最低限何が必要となるかについて考察した。具体的な作業としては、欧米の自由民主主義実現の歴史を振り返りながら、そこから「自由主義」と「民主主義」の二つの相互に関連はするものの、異なる次元の歴史を基にして、そこから少なくとも「自由」と「参加(民主)」の二つの次元から構成される「開放的体系」「自由民主主義体制」(彼に従えば、「ポリ・アーキー」と呼ばれる)が模索されるべきと考えられた。

これに対して、私は今日においては(付言すれば、私にはずっと以前の「市民革命」の時代にあってもそうであったと理解しているのだが)、その「開放的体系」「自由民主主義体制」が私たちを抑圧する他ならぬ体系、体制となっているのではないか、と言わざるを得ないのである。もしそうだとすれば、そこに至った原因や背景はいかなるものなのか。そうした抑圧体制と化してしまった開放体系、自由民主主義体制に対して、私たちはいかなる体系、体制を構想できるのか。またその実現はどの程度可能なのか。以下の拙論は、こうした問いかけに対する私なりの答えである。

この上の問いかけときちんと整合性を持たないように思われるかもしれないが、(まずは前回の続きから)(→これからのブログ記事は、すべて先の問題意識を踏まえて述べていると、読者にはご理解お願いしたい。なお、今の時点ではまだまだないように整合性というか自然なつながりが見られないところも多々あると私自身も認めているが、今後それらについては加筆修正していきたい。読者との緊張関係の中で、私自身も鍛えられていくので、とにかく何回か書き続けてみたい。そこには単なる思い付きの域を出ない話もあるかもしれないが、これまでの話の仕方や照会とは異なる何かを提示できればと、考えている。もっとも、内容自体は、私自身のモデルを基にして考察することから、ほとんど変わらないことを断っておきたい。)

M・サンデルの「トロッコ問題」の中で提示された誰かが助かるために別の誰かが犠牲とならざるを得ない状況設定(仮定)した話を巡る哲学的、倫理的考察は、システムとその関係史を舞台として繰り返し引き起こされてきた「現実世界の中での殺し合い」から目を背けさせる効果を担っている。あたかも、「ヒトはなぜ殺してはいけないのか」といった一見したところ人道的哲学的問いかけが、私たち社会の中で現実に繰り返されてきた人殺しの歴史から目を背けさせるのに類似している感がする。すなわち、「人はなぜ殺し続けるのか」と言う問いかけこそが先ずは俎上に載せられてしかるべきなのだ。それを前提として、またその歴史と並行させながら、ベンサムの功利主義やカントの義務論云々の議論がなされるべきなのだ。私からすれば、システムとその関係史と切り離された哲学的倫理学的考察は、それこそシステムの存続に手を貸すだけの暇つぶしのおもちゃとしかならないのである。(なお、「トロッコ問題」に関してはネット記事を見てほしい。またカントやサンデル、ロールズの評価については多くの文献があるが、私の記憶の中で、印象深い読後感を覚えた著作に藤原保信著『自由主義の再検討』〈岩波新書〉がある。)

サンデルの問いかけは、まさにA、B、C(あるいはB、C、A)間における無数の殺戮を問わないままに、つまり、私たちが生きているセカイとその関係の歩みそれ自体が、トロッコがその上を走っている正真正銘の「レール」であるにもかかわらず、そのレールを見ない代わりに、どこにでもあるかのようなレールの位置づけ方となっている。と同時に、トロッコに関しても然りなのだ。サンデルが引き合いにしている「トロッコ」ではなく、私たちが問いたださなければならないのは、「三つ」の下位システムから成る「一つ」のシステムそれ自体がまさに殺人を繰り返してきたトロッコそのものなのだ。そのトロッコの中では既にその乗組員の意思にかかわらず、トロッコ(電車)の内・外で殺される相手とその順番が決められているのである。まさに差別と排除の関係から導き出される論理と倫理に他ならない。ここで暴走する「トロッコ」を、ある主権国家・国民国家に例えてもいいし、その国家の暴走によって巻き込まれ殺される人々として、アジアやアフリカ、中南米に暮らしていた人々を置き換えてもいいだろう。もうこの先は読者に想像、連想してほしい。

サンデルは見事にこうした問題意識と分析視角並びに分析枠組みを捨て去ってしまっている。もっとも、だからこそシステムが提供するハーバード大学の教授になれたし、システムが管轄・管理・指導するマスコミの丁子となれたのである。彼の師匠であったジョン・ロールズの『正義論』で語られる正義の舞台と言うか前提も、サンデルのトロッコのたとえ話と同じように、問いたださなければならない問題を見事にごまかしている、と私は理解しているのだが、住む世界が異なる相手にそうした物言いをしても無駄であろう。だが残念なのは、「世間」があまりにもあっけなくやすやすと、必要以上にサンデルを世界の賢人であるかの如く持ち上げるマスコミ操作に甘んじている態度である。(付言すれば、以前のブログ記事でも指摘していたように、「ハーバード白熱講義」で世界の格差と民主主義の現状を取り上げて語っていたロバート・ライシュをことさら持ち上げていたのと類似している。簡単に言えば、「民主主義を取り戻せ」云々の話だったが、そんな緋想極まりない話に多くの者は騙されて、何か素晴らしい代案を提示されたかのように満足していたのだから、もうどうにもならない気分となってしまったが、とにかくなんともやりきれなくなるのだ。勿論、これまた仕方がないのはよくわかるから、こんなことで真面目に起こるのもばからしい話なのだが。なかなかそうはいかないものだ。)

こうした点を踏まえて、私たち日本に暮らす者が取り上げなければならない問題は、たとえて言うならば以下の事例ではあるまいか。すなわち、時代劇の中で登場する「遊廓」に「閉じ込められた」いたいけな少女たちをどうすればそこから救い出せるのかという問いかけである。(話をややこしくさせたくないが、すぐ上の「閉じ込められた」云々の物言いは、まさに「強制連行」いや「自由な往来」という論争にも絡む話であることを指摘しておきたい。)と同時に、「救い出された」彼女たちが再び廓の中に舞い戻らないために必要な「衣食足りて礼節を知る」環境とは一体いかなるものなのかとの問いかけである。

この問いかけは、巡り巡って私自身にも該当する。「1%対99%」の図式で言えば、圧倒的多数を占める後者に属する人たちが日常生活の中で感じている不安を考える際にも関係するものであるはずなのだ。(先の「救い出された」云々の話も、閉じ込められた閉鎖的空間が存在しているとの前提から私は述べているが、それでは救い出された後の空間は開放的な空間だとするとき、その証明はどのようにできるのだろうか。と言うのも、日本の幕藩体制と自由民主主義体制を比較してみれば、欧米基準に従った意味での「自由」や「参加」は当時の日本にはないから、廓の何らかの抑圧は消えたとしても、なおなにがしかの抑圧は続くことになる。そして、私のような冒頭の問題意識を抱く者からすれば、「開放体系」「自由民主主義体制」の下に生まれ変わったとしても、やはり戦前の抑圧体制と同じように、抑圧が継続していることになる。その場合、「開放」云々の基準は、物差しは一体何かということである。解放される以前の「衣食足りて(足りず(礼節を知る(知らず)」の営為の空間と、解放後のその空間にどれほどの違いがあるのかという問題である。それはまた「1940年体制」論争と結びついた戦前と戦後の「断絶」か「連続(継続)」かの論争と結びつく問題である。私からすれば、いずれの論者も、「システム」とその関係の歩みを視野に含むことのできない不毛な議論にしか思われなかった。

これらの問題と関連して、いや廓の中にもそれなりの「自由」は存在していたとの「異議申し立て」も勿論可能となるだろう。ここでもやはり「自由」とか「抑圧」がいかなる基準の下で語られているかが問題となってくるに違いない。先の「強制」と「自由」の話に結び付くのだ。これらを指摘したうえで、さらに以下の問題に向かいたい。ただここで感じてほしいのは、まさにこうした問いかけは、先述したサンデルの問題提起と同じ方向へと読者を導いてしまう「危険性」を伴うということを。すなわち、いま私がこうした問いかけをブログ記事の中で展開しているその時も、私自身は、そして私と同時代の空気を吸ったり吐いたりしている人たちは、歴史のある時点に位置しているということである。つまり、それを私なりに言えば、システムとその関係の歩みと言うことになる。それは、私たちが常にシステムの歩みのいずれかの「段階」(たとえば、「高度化」にあるのか、「低度化」に置かれているのか、さらにまたそれらの段階において、私たちは「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為に見る差別と排除のいかなる関係の下に対峙しているかを、ゆめゆめ忘れてはならない。(ところが、私たちはいつもそうした段階と関係をほんのひと時だとしても忘れるように仕向けられているのではあるまいか。テレビのコマーシャルの中で描かれるアットホームな居心地の良さを醸し出すホンワリさせる気分がそうである。あたかもウイン・ウインの世界的関係がいつも周りでつくられているといった錯覚である。ほんの一瞬の錯覚を何回も何回も見せられていくとき、また私たちの現実逃避の願望が強くなるほど、思考を停止させる、感じる心を鈍くさせる何かが働くのではあるまいか。)

誰がここでは「当事者」なのか。私か、あなたか。いや私にはどちらでもないし、関係のないことだと思う人たちもいるだろう。ほとんどがここに含まれているに違いない。(今や選挙(投票)に行かない、行く気がしないという人たちが過半数を占めるのが常態化している。)もしそうであれば、私たちは「強制」化「自由」化の対立した問題に関われなくなってしまう。ところが、21世紀の今でも、強制か自由かという問題は身の回りにおいて事件として報道されている。ある女性が男子学生に酒を飲まされてレイプされたという事件において、男子学生は、「合意」の上であり、お互いの自由意志の下で性交が行われたと主張するのに対して、女性側は同意の上ではなく、一方的に無理やり侵されてしまったと裁判で両者の申し立てがなされた時にも、やはり同じ問題がそこで問われているのではあるまいか。さらに、会社から一方的に解雇されたと会社を訴えた従業員にとっては、そこには両者の自由な合意は認められなかったとの思いが強く表れているに違いない。最近の例では、愛知県のトリエンナーレ騒動にも垣間見られる問題であろう。(付言すれば、この展示問題を「表現の自由」に関する問題としてとらえてしまえば、私には、少なくとも生存権云々に拘泥する者たちには、それは大事な人権問題があからさまになるのを隠ぺいしてしまうものに映ってしまう。表現の自由などと言う次元にすり替えられたのではたまったものではないのだ。それは、生きるか死ぬか、尊厳の問題であり、差別と排除の関係を容認するのかどうかの問題なのだ。)

少し歴史の話に目を転じてみたい。欧米社会によるアジア・アフリカを植民地として併合した歴史を回顧するとき、両者の間に合意は存在していたのだろうか。併合派、自由意思に基づいて行われたのだろうか。それとも、力でもって無理やりなされたのだろうか。イギリスによるアヘン戦争とその帰結を見ても分かるように、また日本の「開国」の歴史を見ても分かるように、それは強制連行ならぬ強制併合であった。開放体系として位置付けられた自由民主主義体制を実現する途上の欧米先進国が、彼らの社会の中に、強制的に連行していったのだ。それを自由社会の文明を教える(文明の教化の)ために強制連行したと言えないでもないが、また欧米先進国は事実、「文明化の使命」云々といろいろなもっともらしい理屈をつけていたが、やはりそれらはおかしな話なのだ。

ここで考えなければならないのは、もし開放体制とか自由民主主義体制の実現のために、こうしたある種、閉鎖的抑圧的な強制連行を彼らが「未開」と位置付け理解している諸国や諸地域に対して実行するとき、私たちは何をもって、それが自由だとか参加だと称賛できるのだろうか。(私はここでは明治以降の日本の歴史については触れなかったが、いずれの機会に述べておきたい。ただし、既に拙著や拙論では何度も言及しているが、強制連行を従軍慰安婦問題にのみ限定しては駄目だとみている。さらに大きな強制連行の問題があるのだ。それは私が何度も指摘してきたように、「三つ」の下部システムから成る「一つ」の「システム」に私たちが「総動員(強制連行)」されてきた、総動員されているという観点から捉え直さない限り、私の人生と従軍慰安婦の人生が重なり合うことに気が付かない、理解できなくなり、そのことはシステムと私と従軍慰安婦を結びつけて考察できなくしてしまうことになる。(このくだりは、これから何度も繰り返し考えながら、修正加筆していきたい。ただ骨組みそれ自体(私のモデル)は同じである。)

ところで、先の廓のたとえ話に関して、最初の問いかけには時代劇では無双の剣の使い手が、例えば座頭市や木枯し紋次郎等が想像できるし、また相当に地位や権力、権威を持った人物が登場してくる。たとえば、水戸黄門、暴れん坊将軍、紀伊国屋文左衛門等である。しかし、彼らが救い出すのは廓にいるすべての女郎ではない。劇中において、「絵になりそうな」薄幸の美少女一人だけである。多くても2,3人に絞られる。もちろん例外もある。ただしその例外は、時代劇の中での話であり、そこに登場してくる主人公たちは、決して第二の問いかけにはかかわらないで、めでたしめでたしで、つまりはウイン・ウインの関係が垣間見られてよかったで、その場を立ち去ってしまう、それで幕となる。

一番目の話に関して、もう少し考えてみよう。最初に廓から薄幸の美少女を最強の剣士や最高の地位にある者が救い出すとき、その廓には必ずと言っていいほどにこれまた強い力のある用心棒ややくざ組織が控えているという筋立てになっている。簡潔に言えば、廓という時、「女性たち」を商品として顧客に提供することにより利益をむさぼりつくす搾取組織としてのやくざ一家とその親分と子分関係が相手方、つまり敵方として描かれている。 こうした図式は今日においても一貫して続いている。基本的構造は何ら変わっていない。ただし、その構造が短時間では理解できないように、複雑な関係が表層と言うか上層を覆い隠すようにして、何層、何重、あるいは無数に取り巻くように覆われている。しかし、やっていることは、売れる商品とそれを生産・再生産し、必要とする消費者に提供して、そこから利益をむさぼり取るという構図だ。商品とその生産・再生産とそれが提供する利益・利潤を滞りなく懐に入れるために、商品を提供する空間を拠点として、その周りにその他関係する人々がこれまた何らかの商品として配列されている。

さて、最初の向き合わなければならない相手方、敵方としての親分たちとして、やくざや暴力団の親分の他にも、覇権国とそこに集う権力集団の存在を考えることができるのではあるまいか。その一例として、テレビのスパイドラマやアクションドラマでもおなじみの米国CIAが控えているかもしれない。その場合には、最初の救出劇の段階で終わってしまう、つまり不幸な弱者を救い出す前に主人公たちが殺されてしまう蓋然性の方が高くなってしまうだろう。さらに敵方と言うか相手方には相当な資金とその源である資金源がある。そしてそうしたお金を湯水のようにつくり出せる、搾り出せる機関とそれを支える関係が存在しているに違いない。まさかひょっとして、私がモデルで描いてきたようなシステム、つまり覇権システムとそれを前提とした世界資本主義システム、世界民主主義システムといった三つの下部システムから構成される一つのシステムであるかもしれない。私がここで連想するのは、あたかも時代劇の中で描かれている「遊廓」は「システム」と同じような関係からつくられているということである。その意味では「システム」=「廓」にしか思われないのだ。

(少し、ここでも付言しておきたい大事な問題がある。「搾取」とか「搾り取る」と言う際に、私たちは資本主義、世界資本主義に関する論者と彼らの言説を連想する。たとえばマルクスの「剰余価値」論とか、ウォーラスティンの「中心ー周辺」論である。彼らは資本主義システムに見い出される搾取について、つまり差別と排除の関係に関しては考察・論及したのだが、民主主義、世界民主主義システムに関する「搾取」に関して、ある者、集団、国家型の者、集団、国家との関係において、人間の持つ尊厳、生きる力、自分で自分の人生を決める権利(自己決定権)の能力を搾り取るという関係〈それは、{Aの民主主義の発展→(×)Bの民主主義の発展→×Cの民主主義の発展の関係}に示されるように、親分ー子分関係で描かれる{ }の覇権システムとその関係、それを前提としたA、B、Cの民主主義の関係として示される〉を批判的に考察することに替えて、むしろ好意的に評価し、礼賛したのである。マルクスの「インド論」はそうした彼の態度が意識的・無意識的な形で投影されたものではあるまいか。いわゆる「マルクス主義者」はそうした知的次元に甘んじていた、と私は見ている。なお、これについては、拙書『21世紀の「日本」と「日本人」と「普遍主義」-「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウ』晃洋書房、2014年の第2部を参照されたい。)

ただし、なおまだその「等式」を論理的に紹介できるほどに私の頭は整理されていないので、ここでも仮説として提起しておくだけなのだが。もし、システムが私の向き合うべき敵方と言うか相手方だとすれば、それは相当に手ごわい存在である。その理由は簡単だ。私はそのシステムが提供する「衣食足りて礼節を知る」営為を当然として教育され、その中で大きくしてもらったから、そのシステムを敵だとか乗り越えなければならない相手方だといった瞬間に、「天に唾する」所業となる。ましてや周りの者たちは、何を頓珍漢なことを語るのかと、眉をひそめてしまうに違いない。

急いで結論めいたことをイメージして言うと、映画の「十戒」で、主人公(モーゼ)がエジプトから仲間を引き連れて新たな国へと導いた後に、彼らが食うに困らない何らかの「衣食足りて礼節を知る」営為の姿が創造され、実現可能とならない限り、それはおそらく絵に描いた餅に終わってしまうし、それならば以前のシステムの中で生きていた方がましだったではないか、と言う話となるだけである。付言すれば、彼らは新しい国を作りそこで生活していく際に、どんな食べ方と言うか、「お金の稼ぎ方」をして、彼らなりの「衣食足りて礼節を知る」営為の空間を創造したのか、それが私には的確に捉えられないのだが、どなたか興味のある方に教えてもらいたいものだ。

ところで、先の廓の中の女郎は助けてほしい(?)と他の誰かが差し出す救いの手にすがろうとしている(?)のに対して、システムの中にいる人たちは、そうした救いの手に対して背を向けるか、無反応ないし無関心のままに置かれているという感じであるのだ。私にはシステム内の人たちの大多数というかすべての者は、たとえて言えば、廓の中の「女郎」たちとその商品を搾取しながら、彼女たちに依拠、依存してその取り巻きを構成している他の女たちや男たちにしか見えないのだ。

誤解のないように言うのだが、人間はたくましいものだ。どんな環境の下に置かれていようが、ただ泣きくれるだけではない。笑いもするしたくましく周りの困っている者に対しても優しく親切に接しながら、生きようとするかもしれないし、その逆もあるかもしれない。とにかく人は変わる。「いたいけな少女」もそうだろう。動かないように見えて、どこか別のところに動いているものだ。それは中途視覚障碍者となった私自身にも言えることだ。そう考えるならば、廓の中の女郎たちも、救いの手に期待するのをあきらめるかもしれないし、そんな淡い希望を抱いてさらに傷つくよりは、ひたすらその状況下で絶える別の道を探して生きるかもしれない。 それを踏まえた上で、またそんなことは重々分かった上で承知の上で言うのだが、それにもかかわらず、私たちは「廓」の中で生きている人々(そこには女郎やそうではない女たちも男たちも含まれている)と同じ境遇に置かれているということを、私は強調したいのである。たとえ、読者にどんなに笑われたとしても。

ただし注意しなければならないことは、その廓の中の住人だとしても、やはりそこにはA、B、CやB、C、Aの差別と排除の関係がつくり出されている。文明圏の女郎とそれを取り巻く住人もいれば、半開圏の女郎や住人もいるし、野蛮圏の女郎や住人もいる。一等、二等、三等といった範疇に置かれた国家や国民や人々が存在している。私たちはすでにギリシャ、ローマ帝国の時代からずっとある種のゼロサム的な差別と排除の関係を前提としながら、ウイン・ウインの関係を装い続けてきたのではあるまいか。私たちは、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」と平気でうそをつきながら、学校や職場でのいじめや格差といった差別と排除の関係を甘んじて引き受けている。

さて、順番が逆になったが、私が気になっているのは、〈TVシンポジウム「ひきこもり 115万人~人を大切にする社会に~」[Eテレ]2019年10月19日(土) 午後2:00~午後3:00(60分) ジャンル、ドキュメンタリー/教養>ドキュメンタリー全般 番組内容全国のひきこもりの数は、推計115万人。しかし、家を訪問するなどの実践的な支援を進める自治体は一部に限られている。どうすれば有効な支援を広げられるか、話し合う出演者ほか【ゲスト】東京大学名誉教授…神野直彦,藤里町社会福祉協議会会長…菊池まゆみ,豊中市社会福祉協議会 福祉推進室長…勝部麗子,スチューデントサポートフェイス代表…谷口仁史,厚生労働省生活困窮者自立支援室…吉田昌司,【司会】国谷裕子(ただし、以上はNHKの番組欄からの引用貼り付けであることを断っておきたい。) 〉

正直なところ、今も何とも言い知れない気分が残っているのだ。私からすれば、「ひきこもり」は「システム」とその関係の中で生きている限りは、自己防衛のための一つの存在証明に他ならないとみている。と言うのも、差別と排除の関係を前提として、またそれを当然とする社会とその関係をつくり出してきたシステムの下で生きるというのは、正直息苦しくもなるし大変につらいことなのではあるまいか。いや辛くて当然なはずなのだ。もっとも、ここでもまた「それを言っちゃおしまいだよ」との声が聞こえてくるのは、これまた私にはつらくなるほどよく分かる。だが、問題はそんな言葉のやり取りで片付けられない次元の話なのだ。

NHKの番組では、ひきこもりを何年間も、何十年間も体験した人たちに積極的に働きかけて、なんとか社会(システム)に再び参加させようとしてきたある県の人たちやNPOの取り組み方が紹介されていた。ひきこもりの人たちが徐々に「社会復帰」していく姿が好意的に温かく描かれていたが、それは彼らひきこもりを経験した人たちをまたシステムに復帰させただけの話であり、システムを強化させることに手を貸す取り組みではないか、と私は思わず唸ってしまったのだ。(もとより、ここでもまた繰り返し、繰り返し、「それを言っちゃおしまいだよ」との声が聞こえてくるのだが。その声の主が安倍首相や菅官房長官や、麻生財務大臣ならば何もつらくはないが、他でもない、社会から見捨てられていく人たちから、それが発せられるということなのだ。人間が長らく体験した経験してきた惨めさや辛さから醸し出されてくる妬みや嫉妬がそう言わせてしまうのだ。彼らは決して1%を真正面において対峙することに代えて、その権威と権力にすがろうとする。これまた仕方のないことなのだ。)

しかしながら、その番組を見た後から、私の心の中に何か引っかかるような重苦しさに包まれてしまい憂鬱な思いが残ったままであった。その時はわからなかったのだが(換言すれば、私自身も相当にやばくなっている(すなわち、思考停止状態となり、感じる心」がマヒしてきた)ということであるが)、どういうわけなのか盲学校の文化祭を体験する中ではっきりと見えてきたのだ。私のやろうとしていたことも、このひきこもりの人たちをシステムの中に再動員させるのと、まったく異ならないのではあるまいか、と言うことである。たとえ私があんま師となって、傷ついたり、どう生きていいかわからない少年少女たちの心身をほんのひと時の間、癒すことができたとしても、健常者として生活していた時と同じように、結局のところ、またシステム内で楽しく強く生きていきなさいと送り出すことに手を貸しているにすぎないのだ、と。それは、「二度と教え子たちを戦場に送り出さない」と誓った戦後すぐの教師たちの思いが嘘に嘘を重ねてきたように、同じことなのだ。

私は既に上述したシステムの中で生きる苦しさ、情けなさ、私自身の非力さを十分に分かった上で何十年も生きながらえてきたのだが、やはり相当に流されてしまったというか堕落してしまったとの思いが募のだ。私が世に問い続けてきた拙論や拙著は、私が向き合うべき相手が何であり、それがどのようにつくり出されてきたのかを論及し続けたものであったが、それは同時に私の怠惰や諦めに対する戒めとして表わされたものでもあった。それゆえ、書くたびに私は苦しみ、悩み続けたのだ。「また、嘘を欠いた。できもしないことを書いてしまった」と、30年近く今もああだ、こうだとまるで独り言を繰り返してきた思いだが、それでも、それにもかかわらず、私にはこれしかないと今も問い続けている。

そうしたある種、真綿で自分の首を絞める作業の中で、もうどんなにお前ひとりがあがいたところでシステムはびくともしないし、どうにもならないことは、当のお前自身がよく分かっているじゃないか。もういいではないか、もういい歳なんだから、そろそろ3歳児を卒業して普通の大人になったらどうなんだ、と私の中のどこかから声が聞こえてくる。そうかもしれない。だが、私にはやはり違うのではないかとの強い思いが沸き上がってくるのだ。それをもう一度確かめてみたい、書き残しておきたい、とそれが情けない人生しか送れなかった私の最後のシステム人として果たすべき責務ではないかとの声が聞こえてきたのだ。いろいろな理屈は考えられるが、私の人生の集大成として、やはりそれしかないと痛感した次第である。

ここまでお付き合いいただいた読者にはお疲れさまでしたというしかないが、今後もさらに私なりに分かりやすく論じていきたいと考えているので、さらにお付き合いいただきたい。次回以降は、しばらくは今回の記事をたたき台として、いろいろな観点から掘り下げてみたい。ありがとう、ありがとうございます。

なお、盲学校へは今も通っている。「やめる決意」云々と「嘘をついた」と言いながら、さらにまた嘘を重ねて生きている。もっとも、「嘘」は今回だけではないし、それこそ歌詞の文句ではないが、「ずっと嘘だった」のように生きてきたのだ。当たり前の話だが、私が何をしようがするまいが、「システム」の「住人」として生きている限りは、住人としての役目、役割を勝手にやめることはできない。たとえ死んだとしても、そのシステムの「歴史」の中に絡め囚われながら後世の者たちに生き恥ならぬ死に恥をさらすのだから、とにかく生きなければ、それもできれば美しく、善く生きなければならない。そうだとすれば、私はずっと嘘をつき続けていた。それは確かにそうなのだが、それでもやはり美しく、善くいきたいとの思いは、その通りである。


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私のモデルで描く「システム論」から私の情けない人生を振り返るとき

2019-11-04 | 社会 政治

私のモデルで描く「システム論」から私の情けない人生を振り返るとき

(今回はデス・マス調で話します。)

最初にお断りしなければならないことがあります。とてもつらいのですが、やっと踏ん切りがつきました。嘘をつくことになりましたが、私の最終講義にお付き合いいただいた方とのお約束が果たせなくなりました。私の拙い話を最後までお聞きくださった皆様方に対して、何年か後に松山に来られた時は「あんま致します」とお伝えしましたが、結局それができなくなりました。

私は盲学校をやめる決心がやっとここにきてつきました。先のお約束を果たすべく、ここまで私なりに無理してきました。皆様に嘘をつきたくない、嘘つきと呼ばれたくないとのとの一心で、その思いだけでここまでやってきましたが、お許しください。いや許さないでください。とにかくそれだけはお伝えしておかなければなりません。情けない話ですが、そうすることにいたしました。

情けない話しかできない私が語るこのブログ記事にお付き合いしてくださる読者には申し訳ありませんが、よければ少しお付き合いお願いします。

去年の4月に松山盲学校に入学しまして私なりに懸命に勉強していましたが、7月に帯状疱疹を発しまして、その後治療と療養でその年度は留年しました。そしてこの4月から最近まで、何とか身体の調子を見ながら、だましだましやってきたのですが、11月2日の文化祭への参加をもって、やめることを決意しました。いろいろと理由はあるのですが、一つはまだ帯状疱疹に悩まされていることが大きく影響しています。右目の眉毛を中心として、右の頭と右耳の上部にかけて痛みと言いようのない違和感に周期的に悩まされ続けてきました。確かに少しずつ良くなっているとは感じていますが、少し無理をすると痛みまして、ブロック注射をしなければなりません。1週間に最低1回は必要となります。

それとやはり私の研究と言いますか、生き方との関連から言えば、もはや盲学校で体感しなければならない「空間」と言いますか「人間関係」が見出せなくなってきたということでしょう。最終講義で私は盲学校も「差別と排除の関係」に満ち溢れていると述べましたが、つまりどこの空間でもそれは同じだということを意味してお話ししましたが、当たり前と言えばそれまでなのですが、なぜなら私がいつも語ってきているように、健常者であれ、障碍者であれ皆、「覇権システム」、「世界資本主義システム」、「世界民主主義システム」の下部システムから構成される「一つ」の「システム」を担い構成する「システム人」なのですから、システムの原則である差別と排除の関係を私たちは至る所で日々実践しているからなのです。(ただそうは申しましても、私の頭のどこかにある種の甘い期待があったことは否定できませんが。)

それは、覇権システム内での親分ー子分関係です。力の弱い者は常に力の強い者に従わなければなりません。それを守らなければ、生きていけません。{[A]→(×)[B]→×[C]}のA、B、Cは個人でも集団でも、国家でも構いません。いずれにしてもゼロ ・サム的関係の中で私たちは生きていかざるを得ないことを{  }の記号で覇権システムを表しました。私たちが日常生活の中でよく言う「ウイン・ウイン」関係は、この覇権システムのゼロ・サム的関係を前提として初めて可能となるものなのです。

付言しますと、その「ウイン・ウイン」関係は決してフランスの経済学者ピケティがベストセラーとなった著作『21世紀の資本』の中で指摘したゼロサム的関係をウイン・ウインの関係に導くものではないことを描いていたのではありませんか。

それに関連して言いますと、先ごろの文化祭で盲学校の生徒や先生や保護者、それぞれの関係者は皆お互いが相互に助け合い、労(いた)わりながら交流していましたが、そうしたウインウインの関係が盲学校の内外で顕著となっている格差社会の関係をウイン・ウインのそれに替えていくことは決してない、と私は言わざるを得ません。

その理由は簡単です。私たちのウイン・ウインの関係が、ゼロ・サム的親分ー子分関係から導かれているからです。それゆえ、いつも表面的な優しさや人倫が尊ばれてしまい、そこから先の問題を直視しようとはしません。と言うより、それをしてしまうと、親分の逆鱗に触れてしまい、生きていけなくなります。何かここで示したことは日米関係に似ていますね。サンフランシスコ「平和」条約、日米安保条約、日米地位協定の締結以降、日米は親分子分関係の下で、それこそゼロサム的関係にありながら、安倍首相とトランプ大統領はいつもウイン・ウイン関係にあるかのように芝居をしていますから。私たちもそうした芝居を、健常者と障碍者間で、健常者間で、また障碍者間で演じ続けてきたのではありませんか。そして今もそうなのですね。それは、次の二つの下位システムのモデルを使って話すことができます。

たとえば、世界資本主義システムを見た場合、Aの経済発展→(×)Bの経済発展→×Cの経済発展に示された関係の中で私たちは生きていますし、生きていかざるを得ません。 ここでいう経済発展と言う城後は、「衣食足りて」「衣食足りず」あるいはそのどちらともいえない「衣食足りて・足りず」と言い換えても構いません。むしろこちらの方がわかりやすいのではないかと私は思っています。もっとわかりやすく言えば、「食べられる」「食べられない」その中間、「経済的に自立できる」「経済的に自立できない」その中間 と言い換えてもいいでしょう。

とにかくそこで言いたかったのは、個人間であれ、集団間であれ、国家間であれ、私たちは生きていくためにこうしたゼロ・サム的な差別と排除の関係をつくり出してきたということなのです。南北関係、経済大国と最貧国の関係、1%対99%の関はそれを示しています。勿論、こうしたゼロ・サム的関係の下にあっても、ウイン・ウインの関係は成り立ちます。前者が後者の関係を導きますが、決して後者が前者に取って代わることはありません。覇権システムがそれを許しません。

これに関連して卑近な例を一つ上げておきたいのですが、その前に、残りの世界民主主義システムについて簡単に紹介しておきます。Aの民主主義の発展→(×)Bの民主主義の発展→×Cの民主主義の発展のモデルで示される関係にあるように、私たちの民主主義の発展の関係は、ゼロ・サム的関係から構成されています。ここでもまた民主主義の発展を、「礼節を知る」「礼節を知らず」とそのどちらとも言えない中間の「礼節を知る・しらず」に、あるいは「人権が保障されている」「人権が保障されていない」その中間、また「政治的自己決定権が実現されている」「政治的自己決定権が実現されていない」その中間と言うように置き換えてもいいでしょう。さらにもっと簡単に「自由に政治に参加できる」「自由に政治に参加できない」その中間と言い換えることができます。

とにかくここでも、人権の関係において、個人間、集団間、国家間のいずれでも、ゼロサム的関係が見いだせるということです。差別と排除の関係を前提としながら、私たちの自由、民主主義、人権は実現してきたということなのです。そしてここでもそうした人権のゼロ・サム的関係にもかかわらず、そうした民主主義社会の中でウイン・ウインの関係は成立しています。おかしな物言いなのですが、私たちの社会で語られるウインウインとは何らゼロ・サム的関係と矛盾するものではないのです。そうした矛盾にさえ気が付かないのです。

私は最近特に感じるようになったのですが、多くの人々は聞こえの良いウインウインの関係にすべきだというのでしょうが、その前に私たちが歴史のどの地点に立っているかの確認が必要ではないでしょうか。私たちが生きてきた歴史はそもそもウイン・ウインの関係から成るセカイであったでしょうか。幕末以降の日本は、どうして日清・日露戦争を日本ではなく、朝鮮半島や中国東北部で戦わなければならなかったのでしょうか。また日本を開国させた当時の欧米列強の中で、市民革命を経験したイギリスやアメリカ(合)、フランスの「人権」の先進諸国は、そうした人権をなぜ日本から奪ったのでしょうか。

上述した卑近な一つの例として、テレビのコマーシャルにあるユニセフの「栄養補助食品」とその寄付提供を求める呼びかけは、私たちの社会が、先の三つの下部システムから成る一つのシステムであることを端的に物語っているのではありませんか。もう少し次回の記事で論を展開していきたいと思いますが、今回はこの辺で失礼します。

冒頭でも申しましたように、とにかく残念なご報告となりましたが、ご容赦。ご寛恕お願い申します。それにしても私自身が嫌になるほど府外のない、情けないこととなりましたが、もう少し時間がたつ中でいろいろとその辺の事情については整理できるのではないかと考えています。

(付記)

上のモデルは1970年代までのモデルを念頭に置いて紹介しています。 なお、忘れないうちに次回でお話したい内容を紹介しておきますと、NHKの番組にあった「ひきこもり」に関しての社会の取り組み方を、「システム」論から論じてみたいと思います。それと関連してマイケル・サンデルによる「正義論」と結び付けて紹介されていた「トロッコ」(列車)の例(たと)えを、システム論から批判的に考察したいと考えています。


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