私の語る「システム」論から、日本共産党によるマルクスの「民主主義」の位置づけ方と理解の仕方を、批判的立場から見直すとき
(最初に一言)
前回記事で不破哲三著『マルクスは生きている』を批判している二つの記事を紹介した。それについては、次回以降において、紹介するつもりだが、そうしたことも斟酌して、今回は私の以前の記事を紹介しておきたい。行論の都合上、以下に私の以前のブログ記事を引用貼り付けておきたい。
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(引用貼り付け、始め)
(一つ目の記事)
「システム論」から「敗北の文学」と日本共産党の「敗北」を考えるとき
今回は気分を新たに、「肱雲」さんからのアドバイスをもとに、以前にブログに投稿しながらも、その後しばらくして削除しました二つの記事を再び手を入れ直して記事として投稿した次第です。我ながら、かくも青くさい内容しか書けないことに、今さらながら喜んでいます。
〈日本の政治の可能性と方向性について考える〉
〈芥川龍之介の「敗北の文学」が今も「勝利」し続けている「現場〉(2011-03-27 | 日記)
芥川龍之介の「敗北の文学」が今も「勝利」し続けている「現場」
芥川龍之介の「文学」は、「敗北の文学」とかつて評された。皮肉にも「敗北」したのは評者(宮本顕治)の方であった。芥川が描いた「人間」と、その「人間関係」の姿は、21世紀の今日においても、なんら変わるところがない。
「蜘蛛の糸」に描かれている「カンダタ」とその人間模様は、今まさにスーパーやコンビニの飲料水のペットボトルの品切れに如実に示されている。それも「2リットル」のボトルだけがなくなっているという「事象」に置いて。
見事というだけである。一本の蜘蛛の糸にすがって、地獄の世界から極楽の世界へと必死に這い上がろうとするカンダタの消費行動ではあるまいか。「坂の上の雲」を目指した明治期の「日本人」を彷彿とさせる。
芥川は、地獄に堕ちた(落された)カンダタが、生前に踏み殺そうとした蜘蛛を助けてやったという「善行」を、カンダタが極楽へといける機会を釈迦から与えられた「蜘蛛の糸」と結びつけている。カンダタは、自分の下(後)から昇ってくる無数の「カンダタ」に気がつき、このままでは糸が切れると思い、後のものを振り落とそうと試みる。それを見た釈迦は、カンダタの上方から、糸を断ち切る。それでカンダタはふたたび、他のものたちと地獄へ真っ逆さまにおちてしまう。
この蜘蛛の糸は、小学生から大人に至るまで幅広く読まれてきた芥川の作品の一つである。非常に奥行きが深くかつ内容も重い。(芥川は、ここで紹介している物語の続編を描いているが、私はもう、それに関して、ここでは再考・再解釈する余裕はないことを、ここで断っておきたい。)
カンダタのような人間が、「市民社会」を形成していた。彼らは、「市民革命」によって「王政」を打倒して、天賦人権を高らかに世界に標榜した。しかしその「市民」とやらは、時として「善行」を施すのだが、自分の獲得した財産をだれにも侵されることなく所有し続けるという権利(人権)だけはどんなときにおいても手放そうとはしなかった。カンダタとしての市民の本性であり、それは釈迦によって糸を切られることがなかった。カンダタとその仲間たちは、上っている蜘蛛の糸の下の方を、自分の都合に合わせて断ち切るのである。
このようなカンダタから成る人間集団の「欲望」は、「共産主義」社会を持って「改造」されるなどとは、芥川には信じられるものではなかった。せいぜい、その「善行」は、「自由な民主主義」のレベルであり、その「自由」や「民主主義」なるものも、時として善行に目覚めるが、その功徳の範囲は、「所有権」「営業・通商権」「財産権」という、彼ら市民である「カンダタ」たちの考える、「公共の福祉」に反しない限りにおいてであった。
〈私〉である一人の「カンダタ」が無数に集まって創る「公共」であり「福祉」であることから、そこでいう「公共の福祉」とは、「カンダタ」たちに、とりわけ、そのなかでも最も強い「カンダタ」とその集団に都合のいい「所有物」になってしまう。「覇権国」とは、そうした最強の「カンダタ」集団から構成される「主権国家であり「国民国家」であるということになる。
芥川は、悲しいほどにそうした「カンダタ」から成る人間集団を見つめていた。そうした者たちはたとえ「革命」をいくら繰り返しても、「カンダタ」自身を「改造」できないということを。
カントやヘーゲルまたアダム・スミスやマルクスは、芥川からみれば、「カンダタ」の生前の「善行」である「歴史」を、「カンダタ」個人を超えて、全世界に、「普遍化」できると信じて、それぞれの「学説」を説いただけであり、決してそれを(「善行」から成る「歴史」)を超えるものではないと理解されたのではないか。
彼らにとって、「蜘蛛の糸」という「近代化」の「歴史」それ自体は「共通の前提」とされていた。彼らにとって問題とされたのは、「蜘蛛の糸」それ自体ではなく、その糸から派生する問題と、それをどのように解釈して、そこから問題とされるものにどう取り組めばいいかということであった。
たとえば、「共産主義」革命を信じたレーニンにとって、その担い手は、「前衛」とされていたが、芥川に従えば、その「前衛」は、「カンダタ」という「素性」を隠すための「フィクション」として理解されただろう。あらゆるレトリックを行使しても、「カンダタ」なのだ。その意味では、ジョージ・オ-ウェルの『動物農場』の「世界」に近い。
今、震災を契機として突如燃え上がった感のある私たちの「思いやり」の「善行」は、それ以前の「格差社会」から生み出された「非正規雇用」をつくりだす「仕組み」に対して向き合うことが無かったように、今回も震災を機に大量に首を切られ始めた非正規雇用者に対して、向けられることはない。
あれほどの放射線被害に直面した原発労働者の置かれた「現場」を今でもなお「安全」だと信じたままで、自らがその仕事に従事することは断固拒否する「カンダタ」である。
そして厄介なことは、そうした「善行」を行う「カンダタ」は、それから先へと世の中を変えるべきだと考えて、「蜘蛛の糸」にすがる、群がるものたちの「蜘蛛の糸」「配列」、「配置」そして「順番」、それら自体とその問題点を考えようとする、「世の中」のすべてに開き直ることを躊躇する「小市民的」かつ「偽善者」である「カンダタ」たちの動きを封じ込めようとする。
そう、あれなのだ。いつものあの名台詞である。「なぜ、みんなが困っているときに、あなたはそんなに冷静でいられるの」「今はあれこれ批判するよりも何かの手助けが大事でしょう」と。
彼らはそういうことにより、自分のきまぐれで蜘蛛をたまたま助けたに譬えられる「善行」では決して払えないほどの、彼らが日常の生活において踏みつぶしてきたもっと「大きな罪」に対して背を向けるのだ。これもまた「カンダタ」特有の行いなのだ。
黙って、「善行」をすればいいのだ。それだけでいいではないか。
消えてしまったペットボトルの背後にはいろいろな「カンダタ」がいる。さて、あなたは、この「グローバル化」した世界の中で、どんな姿に身をやつした「カンダタ」なのか。
(二つ目の記事)
〈日本共産党の「敗北」の思想的・理論的問題を考える〉ーーー共産主義者の「民主主義」論
最近『赤旗』を読んでいるが、2011年12月22日の「綱領教室」において志位委員長によるマルクスとリンカーンの「交流・交友」について、また25日同紙一面「潮流」でも「綱領教室」の記事内容について、紹介されていた。簡単にいえば、マルクスはリンカーンの「民主主義」に共感していたとのことだ。「潮流」には具体的にマルクスの「フランスにおける内乱」の草稿にある「(コミューンは)人民自身の社会生活を人民の手で人民のために回復したものであった」のくだりと、リンカーンの「人民の、人民による、人民のための政治」の「名句」とがその「内実」において重なると指摘されている。そしてそこから、リンカンが抱いていた「民主主義の精神」は、また同時に「マルクスのめざす方向も示していたようです」と締め括っている。
これらの話に、なんとも言い難いある種の「引っ掛かり」を感じてしまい、これを書いておかないと年を越せない気がしたので、とにかく一言したい。
正直、ここに日本共産党が「人民」を指導できない大きな原因が集約されているのではないかとみている。先の「潮流」の記事にもリンカーンの名句「人民の、人民による、人民のため政治」と「ふつう」「訳されている」と断りがあるのだが、ここでの「人民は」まさに「国民」ではないのか。
それに対して、フランスの「コミューン」の「人民」は、リンカーンが巻き込まれてしまった「国民」を創りだす「歩み」に「対抗」しようと試みた、もう少し積極的にいえば、そうした「国民」を創りだしてきた「歩み」とは異なる、別の「歩み」を目指そうと試みた「人民」ではなかったろうか。
その「パリ・コミューン」に示された「人民」の「歩み」は、リンカーンの体現した「国民」創造の「歩み」を担った「ティエール〈国民〉政府」と、そのフランスを普仏戦争で破った「ドイツ(プロイセン)〈国民〉政府」の「〈国民〉同盟軍」により、無残にも蹴散らされてしまったのだ。
この二つの「人民」が担う二つの「歴史」を、この『赤旗』のくだりにあるように「同じ歴史」と見てしまっては、どうしようもないのではないか。少なくとも「パリ・コミューン」の「人民」は、「国民」を創り出す「歴史」(付言すれば、その「歴史」は私の例のモデルで描くあの「システム」とその「関係の歩み」に対して、またその中で形成され、発展してきたセカイ・世界に対して、「反旗」を翻したのである点は、確認しておかなければならないだろう。
ところが、『赤旗』の記事では、マルクスの「人民」とリンカーンの「人民」が、「共通の方向」を、すなわち〈国民〉を創り出す「歩み」を目指したとして語っている。そして、その「歴史」を、多くの『赤旗』の読者に「確認」させ、あなた方読者もこうした〈国民〉創造の歴史をこれまで歩んできた、担ってきたのだと話すのだ。
まるで「鋳型」にはめ込むように読者を導くのだから、私などは息苦しくて「窒息」しそうなのだ。つまり、マルクスもリンカーンも同じ「民主主義の精神」を目指していたというのは、〈国民〉を創りだす歩みを目指していたということを意味しているのだ。
それはそのとおりであり、いわゆる「自由民主主義」を目指していたのだ。ただ、マルクスは経済的に「資本主義」から「社会主義」へと「経済的民主化」を目指していたのに対して、リンカーンは、「資本主義」の枠の中で、「経済的民主化」を目指していたということだ。
ここでも「経済的」な「民主化」が「同じ方向」の「民主化」であり、異なるのは、目指すべき「段階」が違うのだということを語っている。
結局のところ、この『赤旗』の記事は、読者に、少なくとも「私」に、マルクスや、マルクス主義を評価する時に、「フランスの内乱」の「人民」とリンカーンの「人民」を、「共通の方向」を目指していると見てしまう「立場」と、そうでない「立場」があることを、教えてくれるのだ。
もちろん、日本共産党の「立場」は前者であると。
ここにすべてが凝縮されているのではなかろうか。結局のところ、フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』で描かれた「歩み」を日本共産党は支持してきたということである。もちろん、フクヤマとは異なり、「自由主義」の「段階」で「歴史」の「歩み」を終わらせるのではなく、もう少し「上」の「段階」として位置づけられた「社会主義」そして「共産主義」の「段階」を、日本共産党は目指しているというだろうが、「共通の方向」であることには違いなかったのだ。
マルクス自身も、日本共産党の、いや正確にいえば、歴代委員長の考える「民主主義」観であったと、私は理解している。もっとも、彼らがマルクスをそのように捉えてきたのだが、その理解の仕方は誤りではなかった、と私は見ている。しかしそれが誤りではなかったことが、ここでは、すこぶる問題なのだ。
そのことは、当然ながら、私がこれまで論述してきたように、「覇権システム」とその「秩序」を前提とした、あの[セカイ]とそこでの「経済発展」と「民主主義の発展」の「関係(史)」を、「受容」してしまうことを意味している。(なお詳しくは、拙著『覇権システム下の「民主主義論」』『日本人と民主主義』を参照されたい。)
リンカーンの「民主主義の精神」は、たとえその「民主主義」がいかなるものであれ、必ず、私のモデルで描く[セカイ]を、受け入れなければならないことを物語るのであり、事実、リンカーンの時代のアメリカは、まさに「覇権国」を目指して、その歩みの中に「人民」を押し込め、〈国民〉へと「変身」させようとしていたのだ。それが南北戦争をもたらしたのであり、戦争の結果、一つのアメリカ〈国民〉が創造されたのではなかったろうか。
たとえ、この[セカイ]を「破壊」するにしても、まずは受け入れるという〈営み〉を強要、強制されてしまうのだ。ところがこの「綱領教室」での話は、私の見るような「強要」「強制」の「歩み」が、あろうことか「民主主義革命」として、持ち上げられてしまっている。何をかいわんやだ。
誤解のないように言うのだが、私はこの〈国民〉創造の歩みとそれを前提とした「民主主義」の歩みを「受容」することを「だめだ」と言っているのではない。たとえだめだと言っても、私たちはそうした歩みをたどってきたし、容易にそれに代わる道も「選択」できなかったことを、私もよく理解しているからだ。
だが、それにもかかわらず、私が拘泥し続けているのは、日本共産党が「左翼」「革新」政党として「存在価値」があるとすれば、それはどのようなものかということなのだ。
「頭」は自民党や民主党となんら変わらない「同じ方向」をたどりながら、「体」は人一倍、正義感に燃えて行動し続けている政党のようで、何ともさびしい限りである。もちろんこれも皮肉でもないし、批判でもない。ただ、私の「願望」である。
少なくとも私が言いたいのは、こうした〈国民〉を創り出す「歴史」とは異なる「立場」を、共産党は、「日本」共産党は夢想してもいいのではないかということだ。少なくとも、トップの指導者たちはそうしてもいいのではないか。つまり、上述した二つの「立場」の、後者の「立場」に立脚して、「パリ・コミューン」を読み返してもいいのではないかと。
その際、彼ら「人民」が描く「ユートピア」が具体的にどのようなものかが重要となるであろう。その「ユートピア」を、21世紀の福島原発「事故」(決して「事故」ではない。それは「犯罪」なのだ。)を踏まえて、大胆に再解釈し直して、読者に再提示すべきではなかったろうか。
私もこうした立場に立って絶えず「夢」を見てきたから、このことを考えざるをえなかった。それは第1次産業を中心として、そこから、第2次、第3次、第4次―――と拡大していく産業形態であり、それをもとにした「経済発展」であり、「民主主義の発展」である。ここで言う「民主主義」とは、「私的所有権」という「普遍的人権」が「最初の段階」から「否定」されている。資本主義から社会主義、共産主義へと移行する中で否定されるのではなく、まさに「はじめから」それが「大原則」となるのだ。
もちろん、これは相当に難しい。私にそれができるか。退職後の「年金」をひたすら考えているこの「私」に。おそらくこれは『赤旗』の読者の多くのものにも受け入れられないだろう。まさにここにこそ、「日本」共産党の問題点があると言わざるをえない。もちろん、私はだからといって、私もできないことを棚に上げて、共産党を批判しているつもりは決してない。
しかし、それでもなのだ。生産力が相当に発展して「労働に応じて必要に応じて」の「段階」までは、私的所有権を廃止できないから、いまの「段階」では「ブルジョア的人権」も大切なのだと言い続けているような「振る舞い」に終始している。とくに「言論の自由」「表現の自由」「集会の自由」--などの政治的自由権は不可欠だと位置付けながら、「私的所有権」の「護持」に走ったのであり、今もその愚に気がつかないのだ。
うまい逃げ口上だ。日本共産党の指導者たちが、具体的には、衆議院、参議院議員の政治家が手始めにすべての私的財産権を放棄して、そこから「すまん、何もないのだ。私たちを食べさせてくれないかーーー」と、同志に、世間に向かって訴えたらどうなるのだろうか。私はその「姿」と、そこから展開する「ユートピア」を見てみたいのだ。もちろん、これも勝手な注文であるが。そうした「行為」を示せるのが「本来の共産党のリーダー」だと思うのだが。
もちろん、これも自分が決してしないことだから、偉そうに相手にそれを求めることはできない。しかし、「共産主義」とは、ある意味で〈宗教〉の世界ではないだろうか。すなわち、「イワンの馬鹿」の[世界]ではなかろうか。それなのに、それがあまりにも「世俗的な姿」をしているのだから、---。
*みんな元気かい。いつもありがとう。私は「元気」だよ。よいお年を!また少しづつ書いていければと思うので、時々は見てほしい。読まなくてもいいので。それではまた。ありがとう。
(三つ目の記事)
〈日本共産党の「敗北」の思想的・理論的問題を考える〉ーーー共産主義者の「民主主義」論(続)
別に新年だからどうこうではないのだが、昨日に続いて少し述べたいことがある。タイトルは(2)だが、正確にはなお(1)の続きに関連した話である。「ニューヨークを占拠せよ」とか「ロンドン」「東京」を「オキュパイド」という人たちが盛んに「民主主義を取り戻せ」と叫んでいるのを聞き、またまたぼやいてしまう「私」なのだ。なぜなのかについて述べる前に、不思議なのだが、なぜ彼らはそんな〈大都市〉を「占拠」したがるのだろうか。私からのお願いだが、もちろんこれも勝手な願いだが、できれば「耕作放棄地」を抱える山々を、村々を「占拠」してそこでそのままそこで暮らしてくれたら、「山」や「村」の[暮らし]がどれだけ「取り戻せ」るかわからないと思ってしまう。ところが彼らはそこには移らない。〈大都市〉を創りだす「仕組み」から、「差別」「排除」されたところへは行かないで、〈大都市〉で〈運動〉を展開することを踏まえる時、そこからしてすでに、彼らが「取り戻せ」と訴える「民主主義」が私には「胡散臭い」ものに映ってしまう。簡単に「連帯」などと口にするが、それを言うのは構わないのだが、自分たちの言う「連帯」と、そうでない〈連帯〉があるかもしれないということを理解したうえでしてほしい。
それではここで彼らのいう「民主主義を取り戻せ」の話をしてみたい。少し前に録画していたビデオを見た。そこ(「プロジェクト・WISDOM」(BS101,2011年12月3日放送)では「若者に仕事がない」というタイトルで、今日の経済格差の問題について抗議行動に参加しているニューヨークとロンドンの若者を交えながら、内外の経済学者や研究者が意見を交換していたが、私がそこで少し気になったのは、抗議活動に参加している若者や、それを支持する研究者が口にしたのが「〈民主主義〉を取り戻さなければならないとか、「〈民主主義〉が十分に機能していない」という意見が出ていたことだ。また日本の経済学者が、資本主義がグローバル化していく中で、それほど「格差」が開かなかった時期がある点に注目すれば、グローバル化した資本主義や国際金融資本主義の問題というよりも、むしろその間に取られた「政策」により生み出されたと見たほうがいいのではないかという見解を示していた。さらには、「福祉国家」についての言及もあったのだが、私は、これらの議論を聞きながら、これまで私が語ってきた「経済発展」(「衣食足りて」)と「民主主義の発展」(「礼節を知る」)の「関係」をまったく考慮することなく行われている話ではないかとみてしまった。
換言すれば、「民主主義」というか、「礼節を知る」〈営為〉は、「経済発展」というか、「衣食足りて」の〈営為〉と結び付けられることにより、すなわち、両者の「関係(史)」の中で初めて、「民主主義」なるものが実現する(現実のものとなる)といった観点が、まったく欠落しているのではないかと思わざるをえなかったのだ。逆から見れば、もしそうした見方をするならば、「民主主義」はそう簡単に、「取り戻せるような代物ではない」ということに気づくのではないかと考えるから。
おそらくそうした発言をされる人たちは、1950,60年代の先進諸国の「資本主義の黄金時代」を念頭に置いているのではとみているが、もし「民主主義」を取り戻すのであれば、そうした「資本主義の黄金時代」の「経済発展」と、「セット」にできてはじめて可能となるのだということを理解できるならば、その点(「民主主義」を取り戻せないこと)についても考えが及ぶであろうと。
誤解のないように付言すれば、もしここでの発言者が願うように、「民主主義」を取り戻したいと考えるならば、「民主主義」を支える「衣食足りて」の〈営為〉を、つまり「経済発展」に関して、もう少し踏み込んだ議論を展開しなければならないと、私は、私なりに「助言」しているだけだ。
それゆえ、彼らの頭で描く「民主主義」を取り戻すためには、どうしてもそれと「セット」になる「経済発展」のありようというか、仕組みを同時に描いておく必要があるだろう。その際、もし、大企業に奉仕する「民主主義」ではない〈民主主義〉をというのであれば、なおさらそれが求められよう。大企業に奉仕した「民主主義」とは、いま私たちが手にしている「人権」を保証する民主主義であり、〈格差社会〉を創りだしたものである
。
ちなみに、1950年代60年代の資本主義の黄金時代の民主主義でもあるが、それは先進国からみた話であり、当時の後進国や中進国では、状況は異なり、まさに〈格差社会〉の真っただ中に位置していたと言えよう。誤解のないように言うと、〈格差社会〉は常に存在していたし、そうした社会の中で私たちの「民主主義」はつくられてきたのだということを忘れてはならない。
その意味では、50年代60年代の先進国では、その〈格差〉が「縮小」化傾向にあるのに対して、中進国、後進国ではそれが「拡大」化傾向にあるといえると同時に、その「縮小」化と「拡大」化の関係は、まさに「共時的関係」にあるのだ。それゆえ、「民主主義」の歩みも、こうした関係に支えられていたことから、50年代60年代の先進国では「分厚い中間層」が形成されるのに対して、70年代以降から今日にかけて、その「中間層」の「厚み」が「縮小」化し続けているのだ。
逆に、中進国、後進国ではその「厚み」が程度差はあれ、次第に増していく傾向にある。こうした関係にある「民主主義」社会は、常に〈格差社会〉そのものであり続けるから、「冷たい」関係を内包している。そうした社会の「人権」であるから、それがどのようなものかはもうこれ以上話さなくてもいいだろう。
ところで、抗議行動に参加した人々は、こうした関係から創り出される「民主主義」を「取り戻せ」とは、当然のことながら、考えてはいないだろう。しかし、それにもかかわらず、私から見ると、やはり彼らの「民主主義」は、私のモデルで描く{[A]→(×)[B]→×[C]} や{[B]→(×)[C]→×[A]}の[セカイ]を創りだしてきた「民主主義の発展」の「民主主義」である、と言わざるを得ないのだ。
もしそうでなければ、冒頭にぼやいたように、〈大都市〉を占拠しなかっただろう。ただし、そうした行動を私は非難するつもりもないしできない。私もその〈大都市〉を創りだした「仕組み」の中で生きてきたから、それはできないのは重々承知しているから。と同時に、そこにどんな展望があるのかも知っているから、余計なことと知りつつ一言――――なのだ。
くどいのだが、このように考えるから、私は彼らが〈大都市〉に依拠した抗議行動の中で訴える「民主主義」が、「1対99」の構図の[世界]を創りだしてきたとみている。少なくとも、私がこれまで話ししてきたあの[セカイ]を支える「経済発展」の関係(「衣・食・住のネットワーク」の関係)とは異なるものを目指していかなければならないということだ。
当然のことながら、これまた大変厄介な問題であることは言を俟たない。しかし、もし彼らが「山」を「村」を「占拠」し続けるのであれば、そしてそこにとどまり続けるのであれば、この〈革命〉はひょっとすればひょっとするかもしれない。この観点からマルクスやエンゲルスの考察した「革命」を見る時、彼らが〈大都市〉を占拠し続けてきたことが分かるだろう。「山」や「村」を大都市にしようとしてきたことが。(続)
(以上、引用貼り付け、終わり)
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さて、ここまで引用貼り付けした〈くだり〉は、記事の冒頭でも述べているように、私がずっと以前に、投稿後しばらくして削除したブログ記事(その後、再投稿し直した記事)である。読者には伝わりにくいと感じた表現箇所も、そのままにしている。ただ、「段落」を増やして読みやすくしたくだりはあるものの、中身には手を入れてはいない。
いま読み返してみても、私の主張に何ら変化はない。それはそうだが、私の周りの環境は、とくに〈人間と自然の環境〉は著しく「悪い」方向へと、ますますその勢いを加速しながら進んでいるように、私には思われるのだ。そんな中で、私はどんなメッセージを、それはきっと私の遺言に他ならないを、これからの社会を担っていく人たちに対して発信しておけばいいのか、と思い悩みつつなの一日一日、そしてまた一日なのだ。
まあ、次回以降の記事では、不破哲三氏の手による『マルクスは生きている』の著作を厳しく批判した二つの記事を参照・引用しながら、さらに論を進めていきたい。前回記事でも紹介したように、それらの批判記事というか論稿に接し、私は改めて学ぶことの大切さを痛感すると同時に、やっと出会うことのできたお二人から、おそらくその思想的立場は異にするものの、今を生きていてよかったとの思いを強く感じられたことに感謝なのだ。(続)