日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

「公」的空間とは何か。「公」と「私」の関係を考える(2)

2018-03-25 | 社会 政治

「公」的空間とは何か。「公」と「私」の関係を考える(2)
 (まだ、固有名詞の私と「私」と「公」について、詳しい説明をしていないが、今はこのままで話を続けたい。なお、これまでの話で、私が意識しながら述べていた「思想」として、ルソーの「一般意思」、フロイトの「無意識」「自我」「超自我」、フロムの「自由からの逃走」、サルトルの「実存主義」、そして、レヴィ=ストロースの「野生の思考」、グラムシの「ヘゲモニー」などであるが、そんなことを言うと彼らに叱られるかもしれない。彼らの思想を表面的になぞっただけだから。ただ私は、いつも自分のモデルのセカイというかシステムの自己完結運動の歩みの中に、彼らとその思想を置き直して批判的な観点から、再考している。特に、覇権システムや、システムの自己完結運動の歩み(歴史)、とくに、その歴史のいかなる「段階」で、そうした思想が語られているのか、システムの側から見た時、彼らの思想はいかなる問題点を有しているかを、批判的に考察している。偉そうな物言いだが。)
 私は今、昔の私がそうだったように、無性に寂しいのである。話ができる別の「私」を求めているが、ほとんどそうした人に出会うことはない。(もっとも私が関わった視覚障碍者や健常者との関係はごくごく限られていて、その関りも浅いから、読者は距離を持って読んでほしい。)私は「政治」を語れる「私」を探すのだが、残念ながら、みんな興味はないらしい。政治を語る視覚障碍者に出会ったことがない、今までのところは。(ここでも、私の言う「政治」の説明が必要だが、これまでの記事において、私なりに話してきたつもりだ。誤解を恐れないで言えば、点字ブロックや音響信号機をもっと増やしてといった要求は、ここで私の考える「政治」ではない。)政治の大切さ云々など、もうどうでもいいのかもしれない。私は既存の市民運動家も含めて、既成政党の語る政治には期待していない。というのも、彼らはほとんど、憲法がどうの、から始まる。第9条が危ない、民主主義が危機に瀕しているなどを、まずは取り上げるのだが、そんな話ではないだろう、と私は腹が立つばかり。
 私はなんとか、今よりは少しマシな政治をと考えるが、障碍者に期待し過ぎるのもやはり無理があるのかもしれないし、かと言って、健常者にも期待できないし、といろいろ頭の中で試行錯誤する間に、次第に熱は冷めてきたところだ。勿論、健常者にはさらに期待していないのだが。もっとも、だからと言って、私は私なりに、のたうち回るしかないし、それしか能がない。それゆえ、今回もまた堂々巡りの話をするだけだ。しかし、やはり以前とは異なり、絶望感は増したが、それほどへこたれてもいない。私は「私」の役目というか役割があるから。
 前回の記事において、私は以下のように述べた。すなわち、---目が悪い理由にしたくない。ただ言えるのはこれまでの思考のパラダイムを大転換しない限り、非力な私が似たような「私」と一緒になって公的空間を作ることは難しいと考える。そうしない限りは、たとえ「バリア・フリー」云々と言っても、ただ段差のないーーー、と。
 正直に言えば、私はこうした試みが簡単にできるとは考えていないし、むしろ以前以上に、絶望的な作為だと考えるようになってきた。もとより、既に固有名詞として存在する私はシステムの提供する「公的空間」のなかでがんじがらめになっている。システムは、すなわち、「親分ー子分」関係を基本とする「帝国主義」関係を体現した覇権システムと、その覇権システムの下で創造された資本主義システム、民主主義システムの三つのシステムそれら自体が「公」的存在として理解されている。そうした意味で、システムの有する圧倒的ヘゲモニーの影響力の下で、私の試みがどれほど無謀な、ドン・キ・ホーテとしてふるまおうとするかも、十分に分かっていることである。と言うのも、私は結局のところ、既存のシステムに替わる、あるいは、それはとても無理だとしても、システムの中で、新たなるもう一つの「衣食足りて礼節を知る」営為が実現可能となる公的空間を創造しようとしているからだ。しかしながら、以前とは違って、へこたれない私をいまは強く実感できるし、絶望状態においてもしっかり向き合い、引き受ける役割が私にはあると確信しているのだ。オメデタイと思うが、それでいいのではあるまいか。
 そうは言っても、現実はやはり厳しい。最近の出来事を少し述べておきたい。私は自身のモデルでA、B、CとかB、C、Aといった「衣食足りて(足りず(礼節を知る(知らず)」の営為の関係における自己決定権力の優劣関係を示してきたが、それは丁度、福沢諭吉の語る「文明ー半開ー野蛮」における「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の関係と相重なるものである。同時にまた、文明においても、半開においても、矢版においても、それぞれの内部で、同じように、「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係がつくられていることを示している。
 それゆえ、私が一緒になって「私」と別の「私」の関係からなる「公」をつくろうと試みる際、そうした「私」は、いつも{[衣食足りて→礼節を知る]→[衣食足りて・足りず→礼節を知る・知らず]→[衣食足りず→礼節を知らず]}の営為の関係を構成する「私」と「私」と「私」の関係から構成されている「私」ということを理解しておく必要がある。たとえば、私が、[衣食足りず→礼節を知らず]の営為に従事する「私」と「公」的関係をつくろうとした時、相手の「私」は、もっと力のある「私」を欲することが容易に推察されるだろうし、力の無い、弱い立場にある「私」は、[衣食足りて→礼節を知る]の営為を担う「私」に、積極的に組み込まれたい願望を示すのである。当然と言えばそれまでだが、「寄らば大樹の陰」である。私が弱い力しかないと相手の「私」が感じた瞬間、もう私にはどうしようもないこととなる。
 さらに、私も、そうした別の「私」のいやらしさや、どうしようもない性癖(その一番は、自分と関係のないことには徹底して無関心であり、本当に関係ないかを問わない、問うことをしない)に辟易しているのだ。「教養」というものに付きまとう恐ろしさというか悲しさを、私たちも感じることがあるのではあるまいか。少し以前の記事で、教養を有した者たちの問題点を述べていたが、それに勝るとも劣らない教養、というか素養の無い、それでいて教養を親しまない、親しもうとしない者の悲しさ、情けなさには愛想が尽きるのだ。ここでいう「教養」、「素養」とは、「教養のある」それとは異なり、先の性癖に向き合う能力を涵養しようとする心、精神であるが、こう言う私にも、さすがに、「あなた何様なのか」と、ほとほと愛想が尽きる、疲れてしまうのだが、正直な感想なのだ。無論、これh視覚障碍者だろうが健常者だろうが関係のないことだ。ああ、また嫌われてしまったが、これまた仕方がないことだ。と言って、安倍さんや麻生さんたちに代表される「私」が、私のような考え方をする者を相手にはしないし(それは、既成政党や市民運動に従事する人たちも同様だが)、私も少し遠慮したいと言いたいが、所詮、私は鼻から相手にされていないのが実情だ、悔しいけれど。さらに悔しいのは、私が一緒になって、「公」や「公的空間」を創造しようと手をつなぎたい相手の「私」からも、そっぽを向かれている。とにかく、難しい。どうにもならないことなのだろうか。

 

(2023,3,19)

№23私の語る「システム」論から、改めて以前のブログ記事で論じた「公」と「私」の関係に関する記事内容を、読み直すとき(2)


*前回記事での強調点を、(最後に一言)に置いて述べていたので、先ずはこのくだりを、引用貼り付けておきたい。


(最後に一言)

 やはり、最後の最後で、なお。「私」と「私」の関係であるにもかかわらず、「私」と「公」の関係が、それでも何か存在しているかのような、誤ったメッセージを読者に送っている記事内容となっているくだりが散見される。勿論、私は「私」=「公」=「私」となることを十分に理解した論の展開をしているのだが、それにもかかわらず、もっと踏み込んだ形で、すべてにわたって述べているとはいいがたいように思えるのも事実ではあるまいか。

 私的権力が公的仮面を被って云々とも指摘はしているのだが、国家・政府を、なお私的権力として存在しているとまでは、断言していないように思われる。それは、まだこの時点においては、*私の語る「システム」とその関係それ自体が、*私的権力とその利害集団関係者の集合体であり、*それはどれほど多くのかつ巨大な集合体となろうとも、私的権力の存在以上にはなり得ないことを、私は的確に言及できていなかったことに、最近気が付いた次第だ。

 再度ここに引用貼り付けした(最後に一言)の次のくだりを、読者には今一度噛みしめてもらいたい。すなわち、〈*私的権力とその利害集団関係者の集合体であり、*それはどれほど多くのかつ巨大な集合体となろうとも、私的権力の存在以上にはなり得ない〉のくだりである。換言すれば、それは「公的権力」としても存在し得ないと同時に、「公的空間」も形成できないということを意味している。


(最初に一言)

 それでは、今回記事では以前のブログ記事の第2回目となる記事を取り上げて、それについて論評したい。早速その記事を引用貼り付けておく。なお、前回記事でも指摘していたように、文章内容の訂正と修正、段落編成の手直し等をしていることを、ここで断っておきたい。読者は、とくに*の付いているくだりに目を向けてほしい。


ーーー記事の引用張り付け、開始

(2018,3,25)

「公」的空間とは何か。「公」と「私」の関係を考える(2)

 まだ、固有名詞の私と、いわゆる「私」と「公」について、詳しい説明をしていないが、今はこのままで話を続けたい。なお、これまでの話で、私が意識しながらこのブログ記事で述べていた「思想」に関して言えば、ルソーの「一般意思」、フロイトの「無意識」「自我」「超自我」、フロムの「自由からの逃走」、サルトルの「実存主義」、そして、レヴィ=ストロースの「野生の思考」、グラムシの「ヘゲモニー」等々であるが、そんなことを言うと彼らに叱られるかもしれない。彼らの思想を表面的になぞっただけだから。

 ただ、私はいつも自分のモデルのセカイというか、私の語る「システム」の自己完結運動の歩みの中に、彼らの思想を置き直して、批判的観点から再考している。特に、覇権システムや、「システム」の自己完結運動の歩み(歴史)、またその際、その歴史のいかなる「段階」で、そうした思想が語られているのか、システムの側から見た時、彼らの思想はいかなる問題点を有しているかを、批判的に考察している。偉そうな物言いであり、彼らには迷惑千万な的外れな言いがかりだろうが。


 ところで、私は「政治」を語れる「私」を探すのだが、残念ながら、みんな興味はないらしい。政治を語る視覚障碍者に出会ったことがない、今までのところは。ここでも、私の言う「政治」の説明が必要だが、これまでの記事において、私なりに話してきたつもりだ。誤解を恐れないで言えば、点字ブロックや音響信号機をもっと増やしてといった要求は、それはそれでとても大切な問題ではあるのだが、それはここで私の考える「政治」ではない。

 政治の大切さ云々など、もうどうでもいいのかもしれない。私は既存の市民運動家も含めて、既成政党の語る政治には期待していない。というのも、彼らはほとんど、憲法がどうのから始まり、第9条が危ない、民主主義が危機に瀕している等々と繰り返し叫ぶのだが、それ以前に語るべき「政治」の話があるだろうに、と私は腹が立つばかり。

 私はなんとか、今よりは少しマシな政治をと考えるのだが、障碍者に期待し過ぎるのも、やはり無理があるのかもしれないし、かと言って、健常者にも期待できないし、といろいろ頭の中で試行錯誤する間に、次第に熱は冷めてきたところだ。勿論、今の政治家連中には、さらに期待していないのだが。もっとも、だからと言って、私は私なりに、のたうち回るしかないし、それしか脳がない。それゆえ、今回もまた堂々巡りの話をするだけだ。しかし、やはり以前とは異なり、絶望感は増したが、それほどへこたれてもいない。私には「私」の役目というか、役割があると信じているから。


 前回の記事において、私は以下のように述べた。すなわち、*---目が悪い理由にしたくない。ただ言えるのは*これまでの思考のパラダイムを大転換しない限り、非力な私が似たような「私」と一緒になって公的空間を作ることは難しいと考える。そうしない限りは、たとえ「バリア・フリー」云々と言っても、ただ段差のないーーー、と。正直に言えば、*私はこうした試みが簡単にできるとは考えていないし、むしろ以前以上に、絶望的な作為だと考えるようになってきた。

 もとより、既に固有名詞として存在する私は、「システム」の提供する「公的」ならぬ「私的空間」の中でがんじがらめになっている。「システム」は、すなわち、*「親分ー子分」関係を基本とする「帝国主義」関係を体現した覇権システムと、その覇権システムの下で創造された資本主義システム、民主主義システムの*三つの下位システムそれら自体が*「公」的存在として、誤って理解されている。そうした意味で、「システム」の有する圧倒的ヘゲモニーの影響力の下で、私の試みがどれほど無謀な、ドン・キ・ホーテとしてふるまおうとするかも、十分に分かっていることである。

 と言うのも、私は結局のところ、既存の「システム」に替わる、あるいは、それはとても無理だとしても、*「システム」の中で、新たなるもう一つの「衣食足りて礼節を知る」営為の関係が実現可能となる公的空間を創造しようとしているからだ。とてもではないが、絶望的な話だ。しかしながら、以前とは違って、へこたれない私をいまは強く実感できるし、絶望状態においてもしっかり向き合い、引き受ける役割が私にはある、と確信しているのだ。オメデタイと思うが、それでいいのではあるまいか。

 もっとも、そうは言っても、現実はやはり厳しい。最近の出来事を少し述べておきたい。私は自身のモデルでA、B、CとかB、C、Aといった{[衣食足りて→礼節を知る]→[衣食足りて・足りず→礼節を知る・知らず]→[衣食足りず→礼節を知らず]}の営為の関係における自己決定権力の優劣関係を示してきたが、それは丁度、福沢諭吉の語る「文明ー半開ー野蛮」における「製物の国」と「産物の国」の関係とも相重なるものである。同時にまた、文明においても、半開においても、矢版においても、それぞれの内部で、同じように、「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係がつくられていることを示している。

 それゆえ、私が一緒になって「私」と別の「私」の関係からなる「公」をつくろうと試みる際、そうした「私」は、いつも{[衣食足りて→礼節を知る]→[衣食足りて・足りず→礼節を知る・知らず]→[衣食足りず→礼節を知らず]}の営為の関係を構成する「私」と「私」と「私」の関係から構成されている「私」ということを理解しておく必要がある。

 たとえば、私が、[衣食足りず→礼節を知らず]の営為に従事する「私」と「公」的関係をつくろうとした時、相手の「私」は、もっと力のある「私」を欲することが容易に推察されるだろうし、力の無い、弱い立場にある「私」は、[衣食足りて→礼節を知る]の営為を担う「私」に、積極的に組み込まれたい願望を示すのである。当然と言えばそれまでだが、「寄らば大樹の陰」である。私が弱い力しかないと相手の「私」が感じた瞬間、もう私にはどうしようもないこととなる。

 さらに、私も、そうした別の「私」のいやらしさや、どうしようもない性癖(その一番は、自分と関係のないことには徹底して無関心であり、本当に関係ないかを問わない、問うことをしない)に辟易しているのだ。「教養」というものに付きまとう恐ろしさというか悲しさを、私たちも感じることがあるのではあるまいか。

 少し以前の記事で、教養を有した者たちの問題点を述べていたが、それに勝るとも劣らない教養、というか素養の無い、それでいて教養を親しまない、親しもうとしない者の悲しさ、情けなさには愛想が尽きるのだ。ここでいう「教養」、「素養」とは、世間一般で語られている「教養のある」それとは異なり、先の性癖に向き合う能力を涵養しようとする心、精神であるが、こう言う私にも、さすがに、「あなた何様なのか」と、ほとほと愛想が尽きる、疲れてしまうのだが、正直な感想なのだ。

 無論、これは視覚障碍者だろうが健常者だろうが、障害の有無には関係のないことだ。ああ、また嫌われてしまったが、これまた仕方がないことだ。と言って、安倍さんや麻生さんたちに代表される「私」は、私のような考え方をする「私」を相手にはしないし(それは、既成政党や市民運動に従事する人たちも同様だが)、私も少し遠慮したいと言いたいが、所詮、私は鼻から相手にされていないのが実情だ、悔しいけれど。さらに悔しいのは、私が一緒になって、「公」や「公的空間」を創造しようと手をつなぎたい相手の「私」からも、そっぽを向かれている。とにかく、難しい。どうにもならないことなのだろうか。

ーーー記事の引用張り付け、終わり


(最後に一言)

 前回記事でも感じたのだが、言葉が足りないくだりが、今回もまたあるのに気が付いた次第。その部分はできる範囲で訂正・修正している。なお、以前投稿した記事(2018,3,25日付)は、そのまま何も手を加えていない。ただし、以前のブログ記事の下に、今回記事も貼り付けていることを、ここで断っておきたい。

 それにしても、なかなか大変な挑戦を試みてきたことには、今更ながら「こいつホンマにバカじゃない」である。それでもバカは死ななきゃ治らない、と昔から言われてきたので、これから先も、最高のナイスバカを目指すことにしたい。いつもこんなバカに付き合ってくれて、ありがとう!

 


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「公」的空間とは何か。「公」と「私」の関係を考える(1)

2018-03-23 | 社会 政治

 

「公」的空間とは何か。「公」と「私」の関係を考える(1)

 かつて丸山眞男は彼の有名な論考(「超国家主義の論理と心理」)で、戦前の日本と欧米諸国の「公」と「私」の関係における比較論的考察から、前者の特徴として「公」的権力が「私」に関わるすべての空間を、すなわち「真・善・美」の空間(世界)でさえも、包摂・包含していると論じた。その一方で、市民革命を遂げた英国などでは、「私」が主体となって構成される「公」的空間としての国家権力を描いていた。
 大胆にわかりやすく換言すれば、丸山は公的権力が個人の心の内面を、つまり精神的世界までも支配・管理することの危険性を鋭く描いている。その意味では、「公」的権力と「私」の関係は非常に重要な問題なのである。権力の「私」物化が安倍内閣で最近よく問題となるが、これもまさに「公」と「私」の関係の、公的空間の重要性を説いているのである。それゆえ、私たちは「公」や「私」、「公的空間」について考察するのをどうしても避けられないこととなる。これらの点を踏まぇて、先の続きに戻るとしよう。
 丸山の国家間関係を捉える視角は「一国枠」であったから、こうした結論は無理ないとしても、「関係」論的枠から見れば。明治日本政府の背後にあって日本が組み込まれている覇権システムとそのシステムを構成する覇権国の英国(当時)と非・覇権中心国、準周辺国、周辺国との関係を考慮した際の「公」と「私」の関係は、それほど単純なものとはならない。また英国の「公」と「私」の関係でさえ、「真・善・美」の世界に加えて、資本主義と民主主義システムにおける「公」と「私」と「公的空間」の関係を見るとき、力のある「私」が力のない他の「私」を呑み込みながら「公」と「公」的空間をつくり出していることがわかる。
 こうした「公」と「公的空間」と近代市民憲法、そして日本国憲法との関係をみるとき、近代憲法も日本国憲法も両者ともに、そうした「公」と「公的空間」を擁護してきたのである。そうした「公」と「公的空間」を擁護する近代市民革命の母国であるからこそ、従属国や植民地を自らの下に、弱い「私」的存在として組み込みながら、準周辺国、周辺国とする関係をつくり出し、その関係を近代憲法も日本国憲法も何ら疑うことなく、正当化してきたのである。
その意味では、両者ともに、「公的空間」における「人権侵害」を正当化する憲法だということがわかる。この英国が「主体的」につくり出した公的空間に、戦前の日本と日本人が呑み込む込まれたことで(勿論、他の準周辺国も周辺も呑み込まれたのだが)、明治以降の日本の公的空間の一つを構成した真・善・美の世界は、いびつな影響を受けざるを得なくなるとみるべきだろう。付言すれば、丸山はこうした「公」と「私」の理想的な関係を築いた英・米・仏国がどうして、準周辺、周辺地域における「公」と「私」の関係を構成できる「空間(国家)」の実現さえも許さなかったのかという点に関しては何ら言及していないのである。(この点に関しては、拙論を参照されたい。なお、失礼ながら出典は略す。)
 ところで、今日の日本の真・善・美の公的空間は、他の資本主義、民主主義システムの公的空間と同様に、有力な「私」が「公」を支配、管理して、大多数の無力な「私」を統制できるように、「私」イコール「公」の空間をつくり出しているのではあるまいか。この公的空間の内部は、私のモデルで描いたA、B、Cの、あるいはB、C、Aの関係に呼応した関係が、つくられているのである。たとえば、Aの国家の内部で、さらにA、A A´、A´´のように、「私」と「私」と「私」との間で、力の優劣関係がつくり出されているのだ。(その関係は、[衣食足りて礼節を知る]→[衣食足りて・足りず礼節を知る・知らず]→[衣食足りず礼節を知らず]の「私」と「私」と「私」との三者の自己決定権にみる力の優劣関係から構成されている。(なお、これに関しては、拙著『「日本人」と「民主主義」』、『21世紀の「日本」と「日本人」と「普遍主義」』を参照されたい。)つまり、その意味では力の弱い「私」から構成される「公」的空間が創造されないままにあるのだ。ラジオやテレビといった「公」(私)的空間で、「私」が公的仮面をかぶりながら、公的空間をむさぼりつくしている。(世界的大資本・多国籍企業が支配統制するテレビやラジオそしてネットの世界で、どうでもいい、つまらない「私」的コメントや解説が充満している。それらが「事実」さえも作り替えていく。たまらない。息苦しくて窒息してしまう。)私はいつもそうした偽装「公」的空間に対して身構えながら生きることを余儀なくされている。どうすれば、こうしたおかしな関係に異議申し立てができるのだろうか。
 おかしなことに(いや、何もおかしなことではないのだが)、「自由」な「民主主義」の社会で閉塞感漂う世界がつくられている。これは、自由な民主主義社会が本来あるべき姿から「変質」した結果なのか。それとも、もともと自由な民主主義社会はそうした性質を兼ね備えていたのに、私たちがそれに気が付かなかっただけなのか。もしそうだとすれば、それでは、どうして気づかないままだったのか。
 振り返れば、「デモクラシーを全体主義から、テロから守る」ための戦争という掛け声はよく聞いたのだが、「私たちの公的空間をそのデモクラシーから守る」(ための闘争)という掛け声を私たち自身が発したことがあっただろうか。というのも、そのデモクラシーは自由主義的世界に包含された公的空間を提供するものだから、最初から力のある「親分」の空間に、力のない「子分」が生活することを強いられる自由なのだから、いつも私たちはそのデモクラシーから身を守るかを考えてないと大変なことになる。福島原発事故での東電の「営業の自由」の名の下の支配に菅直人や枝野幸男(現、立件民主党代表)等が率いた民主党政権はなすすべもなかった。自由を規範とする憲法を護憲する限り、そうなるだろう。親分の、覇権国の米国の、覇権システムの、システムが提供する「自由」だから。
 米国のFRBは民間銀行だとよく言われるが、つまり「民間」イコール「私」だが、同時にその「私はいつでも「公」的存在となれる力を持っている。その意味で、「私」イコール「公」イコール「中央」となるのだ。こうした関係の中で私たちが生きていることを、私たちは痛いほど自覚しておかなければならない。もっとも、自覚したからといって、何が変わるのか、と問われれば、何も変わらないと言ううしかないのもその通りだろう。それでも、公的空間を私が再度作り直すためにも、ニュースや新聞記事で、FRB、アメリカの中央銀行に該当するという決まり文句をラジオやテレビで聞きながら、「中央」イコール「政府」イコール「私」イコール私とは次元の異なる世界に暮らしている超お金持ちの「私」だということを、何度もかみしめれば、やはり何かのおかしさに気が付くかもしれない。もし気が付かないとすれば、もう終わりというしかあるまい。誠に、遺憾であり残念なのだが、これまた、どうしようもないだろう。勿論、それがどうしたである。何も悲観することはない。私はただ淡々と自分の役割を果たすだけだから、こうして訴えるだけである。
(今回からテーマを変えてみた。ただし、内容は前回の続きであるが。前回は少しきつかった。わかりやすく伝えたい気持ちと裏腹に、大事なところを伝えられないもどかしさが残った。目が悪い理由にしたくない。ただ言えるのはこれまでの思考のパラダイムを大転換しない限り、非力な私が似たような「私」と一緒になって公的空間を作ることは難しいと考える。そうしない限りは、たとえ「バリア・フリー」云々と言っても、ただ段差のない部屋といった意味でしか理解されないと思うのだ。力のない、いわゆる「弱者」とか「障碍者」に関しても、まだまだ批判的に論及されるべき問題が多々あるのも現実なのだ。おそらく、私は弱者に対して甘くはないし、むしろ厳しい見方をするのではあるまいか。これから、少しずつ、もっと身近な話をしてみたい。)

 

以上の記事を、以下のブログの記事において、訂正・修正したので、それをここにも引用貼り付けておきたい。

(2023,3,15)

№22私の語る「システム」論から、改めて以前のブログ記事で論じた「公」と「私」の関係に関する記事内容を、読み直すとき(1)


(最初に一言)

 「画竜点睛を欠く」云々と、私自身の「公」と「私」の関係に関する以前の記事を、批判的に見直す必要性を、前々回くらいの記事で指摘していた。それを踏まえて、今回記事は、ずっと以前の、3回連続となる「公」と「私」についての記事を再度、引用貼り付けながら、再検討してみたい。今回記事はその第一回目である。


 以下に貼り付けた記事を、改めて見直しながら、その感想としては、いい意味では「まったくブレていない」、悪い意味では、「成長がまったく見られない」というところか。これは、もうし方あるまい。ただし、私自身で自画自賛するつもりはないのだが、私の考えというか思いは、なんとか伝えられているようだ。

 早速だが、第1回目の記事を引用貼り付けておく。その後で、記事内容についての今の私の感想なり見方を述べることにしたい。読者は、記事を斜め読みでも構わないので、ざっと目を通してほしい。とくに*の付いているくだりには注意してほしい。


ーーー記事の引用張り付け、始め(なお、ここに再度、引用張り付けするにあたり、文章内容の補足や訂正、段落を新たに設けたことを断っておきたい。)

(2018、3、23)

「公」的空間とは何か。「公」と「私」の関係を考える(1)

 かつて丸山眞男は彼の有名な論考(「超国家主義の論理と心理」)で、戦前の日本と欧米諸国の「公」と「私」の関係における比較論的考察から、前者の特徴として「公」的権力が「私」に関わるすべての空間を、すなわち「真・善・美」の空間(世界)でさえも、包摂・包含していると論じた。その一方で、市民革命を遂げた英国などでは、「私」が主体となって構成される「公」的空間としての国家権力を描いていた。

 大胆にわかりやすく換言すれば、丸山は*公的権力が個人の心の内面を、つまり精神的世界までも支配・管理することの危険性を鋭く描いている。その意味では、「公」的権力と「私」の関係は非常に重要な問題なのである。*国家・政府の「公」的権力の「私」物化問題が、安倍内閣を批判する際において、最近よく取り上げられるのだが、これもまさに*「公」と「私」の関係における公的空間の重要性を説いているのである。それゆえ、私たちは「公」や「私」、「公的空間」について考察するのをどうしても避けられないこととなる。これらの点を踏まぇて、先の続きに戻るとしよう。

 丸山の国家間関係を捉える視角は「一国枠」であったから、こうした結論は無理ないとしても、「関係」論的枠から見れば、*明治日本国家・政府の背後にあって日本が組み込まれている覇権システムとそのシステムを構成する覇権国の英国(当時)と非覇権・中心国、準周辺国、周辺国との関係を考慮した際の「公」と「私」の関係は、それほど単純なものとはならない。

 また、上述したように、丸山によって、明治日本におけるそれよりも、高く評価されていた英国の「真・善・美」の世界を取り巻く「公」と「私」の関係に加えて、*英国の資本主義システムと民主主義システムにおける「公」と「私」と「公的空間」の関係を見るとき、それらのシステムは、*力のある「私」が力のない他の「私」を呑み込みながら、「公」と「公」的空間をつくり出していることがわかる。

 こうした「公」と「公的空間」と近代市民憲法、そして日本国憲法との関係をみるとき、近代憲法も、またその一つの具体例としての日本国憲法も両者ともに、そうした「公」と「公的空間」を擁護してきたのである。*そうした「公」と「公的空間」の抱える差別と排除の関係を、近代市民革命の母国とされる英国や仏国や米国は、何ら疑うこともなかったのである。

 それゆえ、これら諸国は、従属国や植民地を自らの下に、力のない弱い「私」的存在として組み込みながら、〈覇権国―非覇権・中新国―準周辺国ー周辺国〉に見られる差別と排除の関係をつくり出すことに成功したのである。そして、その関係を、近代憲法も日本国憲法も何ら疑うことなく、正当化・合法化してきたのである。

*その意味では、両者ともに、「公的空間」における「人権侵害」を正当化する憲法だということがわかる。*この英国が「主体的」につくり出した公的空間に、戦前の日本と日本人が呑み込まれたことで(勿論、他の準周辺国も周辺も呑み込まれたのだが)、*明治以降の日本の私的空間の一つを構成した〈真・善・美〉の世界は、いびつな影響を受けざるを得なくなるとみるべきだろう。

 付言すれば、丸山はこうした「公」と「私」の理想的な関係を築いた英・米・仏国がどうして、準周辺、周辺地域における「公」と「私」の関係を構成できる「空間(国家)」の実現さえも許さなかったのかという点に関しては何ら言及していないのである。(この点に関しては、拙論を参照されたい。なお、失礼ながら出典は略す。)

*ところで、今日の日本の〈真・善・美〉の私的空間は、他の資本主義、民主主義システムの公的空間と同様に、*有力な「私」が「公」を支配、管理して、大多数の無力な「私」を統制できるように、*「私」=「公」の空間をつくり出しているのではあるまいか。この公的空間の内部は、私のモデルで描いたA、B、Cの、あるいはB、C、Aの関係に呼応した関係が、つくられているのである。たとえば、Aの国家の内部で、さらにA、A A´、A´´のように、「私」と「私」と「私」との間で、力の優劣関係がつくり出されているのだ。

*その関係は、{[衣食足りて礼節を知る]→[衣食足りて・足りず礼節を知る・知らず]→[衣食足りず礼節を知らず]}の「私」と「私」と「私」との三者の自己決定権にみる力の優劣関係から構成されている。つまり、その意味では、*力の弱い「私」が主体となって構成される「公」的空間が創造されないままなのである。*ラジオやテレビといった*〈「公」(私)的空間〉で、「私」が公的仮面をかぶりながら、公的空間をむさぼりつくしている。*(なお、これに関しては、拙著『「日本人」と「民主主義」』、『21世紀の「日本」と「日本人」と「普遍主義」』を参照されたい。)

*国際金融資本・世界的多国籍企業が支配・統制するテレビやラジオそしてネットの世界で、どうでもいい、つまらない「私」的コメントや解説が充満している。*それらが「事実」さえも作り替えていく。たまらない。息苦しくて窒息してしまう。)*私はいつもそうした*偽装「公」的空間に対して身構えながら生きることを余儀なくされている。どうすれば、こうしたおかしな関係に異議申し立てができるのだろうか。

*おかしなことに(いや、何もおかしなことではないのだが)、「自由」な「民主主義」の社会で閉塞感漂う世界がつくられている。*これは、自由な民主主義社会が本来あるべき姿から「変質」した結果なのか。それとも、*もともと自由な民主主義社会はそうした性質を兼ね備えていたのに、私たちがそれに気が付かなかっただけなのか。もしそうだとすれば、それでは、どうして気づかないままだったのか。

 振り返れば、「デモクラシーを全体主義から、テロから守る」ための戦争という掛け声はよく聞いたのだが、*「私たちの公的空間をそのデモクラシーから守る」(ための闘争)を!、といったシュプレヒコールを、私たち自身が一度でも発したことがあっただろうか。*と言うのも、そのデモクラシーは自由主義的世界に包含された「公的空間」を提供するものだから、*最初から力のある「親分」の空間に、力のない「子分」が生活することを強いられる自由なのだから、*いつも私たちはそのデモクラシーから、どうやって身を守るかを考えていなければ、大変な災厄に直面することになる。

 福島原発事故での東電の「営業の自由」の名の下の支配に菅直人や枝野幸男(現、立件民主党代表)等が率いた民主党政権はなすすべもなかった。*自由を規範とする憲法を護憲する限り、そうなるのは必至だろう。何しろ、親分である覇権国の米国の、覇権システムを下位システムとする、私の語る「システム」が提供する「自由」であるから。

*米国のFRBは民間銀行だとよく言われるが、つまり「民間」=「私」だが、*同時にその「私」はいつでも「公」的存在となれる力を持っている。その意味で、「私」=「公」=「中央」となるのだ。こうした関係の中で私たちが生きていることを、私たちは痛いほど自覚しておかなければならない。もっとも、自覚したからといって、何が変わるのか、と問われれば、何も変わらないと言ううしかないのもその通りだろう。

*それにもかかわらず、公的空間を力のない普通の庶民である「私」が、再度つくり直すためにも、ニュースや新聞記事で、FRB、アメリカの中央銀行に該当するという決まり文句をラジオやテレビで聞きながら、「中央」=「政府」=「公」=「私」の意味している「私」とは、力も富もない普通の名もないその他大勢の「私」とは次元の異なる世界に暮らしている超お金持ちを意味する「私」であるということを、何度も噛みしめることによって、やはり何かのおかしさに気が付くかもしれない。

 もし、気が付かないとすれば、もう終わりというしかあるまい。誠に、遺憾であり残念なのだが、これまた、どうしようもないだろう。勿論、それがどうしたである。何も悲観することはない。私はただ淡々と自分の役割を果たすだけだから、こうして訴えるだけである。

(今回からテーマを変えてみた。ただし、内容は前回の続きであるが。前回は少しきつかった。わかりやすく伝えたい気持ちと裏腹に、大事なところを伝えられないもどかしさが残った。目が悪い理由にしたくない。ただ言えるのはこれまでの思考のパラダイムを大転換しない限り、非力な私が似たような「私」と一緒になって公的空間を作ることは難しいと考える。

 そうしない限りは、たとえ「バリア・フリー」云々と言っても、ただ「段差」のない空間(部屋)といった意味でしか理解されないと思うのだ。力のない、いわゆる「弱者」とか「障碍者」に関しても、まだまだ批判的に論及されるべき問題が多々あるのも現実なのだ。おそらく、私は弱者に対して甘くはないし、むしろ厳しい見方をするのではあるまいか。これから、少しずつ、もっと身近な話をしてみたい。)

―ーー記事の引用貼り付け、終わり


(最後に一言)

 やはり、最後の最後で、なお。「私」と「私」の関係であるにもかかわらず、「私」と「公」の関係が、それでも何か存在しているかのような、誤ったメッセージを読者に送っている記事内容となっているくだりが散見される。勿論、私は「私」=「公」=「私」となることを十分に理解した論の展開をしているのだが、それにもかかわらず、もっと踏み込んだ形で、すべてにわたって述べているとはいいがたいように思えるのも事実ではあるまいか。

 私的権力が公的仮面を被って云々とも指摘はしているのだが、国家・政府を、なお私的権力として存在しているとまでは、断言していないように思われる。それは、まだこの時点においては、*私の語る「システム」とその関係それ自体が、*私的権力とその利害集団関係者の集合体であり、*それはどれほど多くのかつ巨大な集合体となろうとも、私的権力の存在以上にはなり得ないことを、私は的確に言及できていなかったことに、最近気が付いた次第だ。

 





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「主因」は「システム」。「ハイド氏の裁判」で告発された問題そのものである。(5)

2018-03-20 | 社会 政治
「主因」は「システム」。「ハイド氏の裁判」で告発された問題そのものである。(5)

 今まさに第二次安倍内閣が退陣を余儀なくされるような社会の流れがつくられている。この「退陣」を導いている「力」は一体何だろうか。それを考える際に、たとえば岸信介を、田中角栄を権力の座から引きずりおろした「力」を念頭に置き考察するのは有益かもしれない。その力を構成している仕組みを、構造に目を向ける必要があるだろう。
 岸を退陣に追いやったのは国会を取り巻いた民衆、市民の力だったのか。あるいはマスコミの「ペンの力」だったのか。もしそうだとしたら、それらの力が次の池田勇人を権力の座に据えて、「政治の季節」から「経済の季節」へと日本の風景を一変させることを望んでいたのだろうか。それはやはり、彼らの力を過大視しているのではあるまいか。そこには別の力が働いているとしか考えられないのである。
 それでは、米国の力が働いたのか。当時の米国は覇権国として君臨していたから、確かに相当な圧力を、FRBゃCIAを始めとした政治的経済的組織を介して、また有力な政治家の影響力を介して、日本の針路に対して加えただろう。それゆえ、米国が有した力を無視することはできないものの、国家が保持する力を過大視するのもやはり危険ではなかろうか。なぜなら、米国の以前の覇権国であったイギリスも、自らの凋落を自身の力で食い止めることはできなかったからである。すなわち、覇権国といえども未来永劫その地位を守ることはできないということである。つまりそうした力を持てないということである。
 今回の森友問題で安倍晋三が権力の座から追放されたとしたなら、そこには市民やマスコミの力とは別次元の力が働いていたとみるべきではなかろうか。その力にとって、もはや安倍は用済みということかもしれない。あるいは、その力にすがることで権力の座にしがみつこうと安倍が悪あがきを試みるとしたら、彼は日本の何をその力に貢ごうとするのだろうかを注意、監視する必要があるだろうが、どうも今の言論状況はもっぱら安倍や昭恵が黒幕云々の話に終始するのみである。(誤解のないように言えば、追及は当然であるし、内閣が総辞職するのを私も願っているが、問題はその後の展望が何ら見えてこないのだ。勿論、だからと言って退陣を求めるのにやぶさかではないが。)これまた仕方がないといえばそれまでだが、やはり歴史を動かしている力とそれを支える関係というか構造にいつも気配りしておかないと、自分が今その歴史のいかなる「段階」に位置しているかさえつかめなくなるだろう。視覚障碍者であれ、健常者であれ、この段階をはっきりと視野のうちにとらえる目は不自由であるのは辛いと言わざるを得ない。
 付言すれば、その力とそれをつくり出す仕組み、つまり構造と言うとき、私はモデルで描く「システム」と結びつけて論じている。もう少し踏み込んでいえば、私がモデルで描いている「三重のシステム」から構成される「一つのシステム」とその自己完結運動が、歴史の段階(私はそれをⅠ期からⅢ’期の6段階に大きく区分した)に呼応する形で、それぞれの段階にふさわしいシナリオと役者を用意するのである。その意味では、システムとその自己完結運動の推進力の力の下に、岸や佐藤栄作や田中や中曽根康弘や小泉純一郎が力を得て、彼らが担う段階のシナリオ通りに役を演じ切ることで、システムの構造を強固にしていくのである。
 さて、本論に入る前にもう少し寄り道しておきたい。ここで以下の点を強調しておきたい。「いじめ」と「侵略」を別の言葉で、しかも両者に共通する性質を念頭に置いて表したいとすれば、それは何だろうか。また、それが個人や少数者に対する多数者における「人権」侵害だとした時、その人権侵害の何が問題なのか。侵害により、何が壊されるのか。何を私たちは失ってしまうのだろうか。その問題に向き合うとき、それは「公的空間」と、そこで生きる、生活する権利が破壊、侵害されるということではあるまいか。というのも、「暴力」が支配する空間を私たちが普通の出来事として、空気を吸うような感覚で過ごしているとすれば、それこそぞっとすることではなかろうか。ところが、私たちの感覚はどこかすでにおかしくなってしまい、ちょっとやそっとではもう何もぞっとしないのだから、これはもう相当にやばいということではあるまいか。
 そうした例の一つとして、学校現場で生起している「いじめ」が「そんなものはなかった」「気が付かなかった」「そんな風には見えなかった」という風に処理されてしまうし、また日本の「侵略」も、「それが侵略ではない」「侵略などなかった」「強制連行などなかったし、そもそも強制ではなかった」とか「悪いのは私たち多数の一般人ではなくて、少数の特殊な人間だ」云々という「報告」になってしまうのだ。
 そう考えるとき、その「公的空間」を構成するのは「私」や、別の「私」である「あなた」から成る「私」であるから、そもそもそうした私の有する「パワー(力)」が最初から異なっているということ、それゆえ、どうしてもそのパワーの強い私からなる「公」がつくられてしまうこと、同時に、そうした私をけん制できる「公」は存在していないこと、私たちのいわゆる普遍的人権は、そうした関係を是正できないし、もともとそうした優劣関係を前提とする、保証するものであったということ、それゆえ、憲法の人権をいくら守ってもアマゾンや多国籍企業の力、暴力をけん制したり、制限するのは難しいということである。それゆえ、力の弱い者たちが銘記すべきことは、こうした人権や憲法に代わる弱い者たちの公的空間を防衛できる安全保障の論理を組み立てることであるということではなかろうか。というのも、私のモデルで描くシステムとその構造がまさに私たちが日常生活を送る公的空間をがんじがらめに、厚く覆っているからである。
 (たとえば、日本年金機構からその業務を委託された東京の情報処理会社がその委託された業務の一部を中国の処理会社に再委託して、そのため約500万人の国民のデータが「改ざん(流出)」されるという深刻な事態が生じているにもかかわらず、国会では与野党は森友問題に熱中するだけ。〈ひょっとして、この与野党の「熱中」は、中国絡みの年金機構問題隠しだったのか、と勘ぐる私がいる。同時にまた、その逆に、森友問題の追及をそらす狙いで、今この年金問題を持ってきたのか、と。〉野党にも問題がある。なぜこれだけ年金機構の不始末が問題とされ続ける中で、民進党はじめ社民党共産党はこうした不始末が二度と起きないように監視してこなかったのか。野党が野党の責任を果たしていないのではあるまいか。中国政府・企業による国民の人権侵害に対して与野党は有効な対応を講ずることが現行の法体制の下で可能なのか。本来ならば、国会はこうした問題こそを取り上げて丁々発止の論戦が期待されていたはずなのに。これも期待できない。)
 (もう少しすぐ上の話に関連した大事なことを述べておきたい。あれほど安倍内閣は、安倍さんは東シナ海での中国「侵略」を警戒して、国防の大切さを説いてきた。北朝鮮からの核の脅威論も然りだ。同様に野党も、個別的自衛権と集団的自衛権の問題を、憲法第9条との絡みで国会論戦をおこなっていた。個別的自衛権論者も、第9条論者も安全保障の問題に関与しているはずである。安全保障の問題は外交・防衛の側面だけではない。内政・民生の側面も関わっている。両者はそれこそ相即不離の関係にある。ところがだ。先の中国企業の日本国民の年金情報処理問題があまりにも淡白な受容のされ方をしているのだ。日本と日本人の安全・防衛問題として、位置づけそれこそ全神経を傾けてその背後にある問題を考察する「熱意」が全く感じられないのだ。嘘だろう。もっとも、私は関係論者なので、また覇権システムの中で生き残ることが最重要課題だと常日頃思っているから、そんなに熱くなって「国」を憂うかのような語り方をしなくてもいいのだが〈この中国企業とすなわち中国政府と年金機構のすなわち日本政府のややこしい「公」と「私」の関係を見れば、もはや日本の外交・安全保障など、どうしようもない、どうにもならないところまで来ていることがわかるだろう。〉それにしても、嘘なりの「方便」が深く煮詰められないままなのだ。議会制民主主義の危機だ、民主主義が危ういと国会で叫ぶ前に、もう少し自身の、私たちの足もとが今どうなっているかを問うてほしいのだ。誤解のないようにここでも言えば、森友や、加計問題や第9条をめぐる問題は重要な問題ではあるのだが、私たちがいま歩んでいる「歴史」のどの段階からそれらの問題を扱っているかが見えてこないのだ。さらに、その歴史が、つまり私たちが辿ってきた「道」が的確に描かれていないのだ。私たち自身もその道を見ようとしないままで、その道が提供してきた道具を、すなわち憲法だとか議会制民主主義だとか、手続き的民主主義だとかを、準拠枠、物差しとして語るのみであったのではあるまいか。

 それゆえ、戦前においても、戦後のGHQの占領統治下の逆コース以前もそれ以後も、吉田茂によるサンフランシスコ講和条約の締結とその発効後も、第二次安保条約改正に伴う岸退陣以後も、田中退陣後も、そして中曽根、小泉以後も、そして現在の安倍内閣での森友や加計問題が仮に起こってなかったとしても、ほとんど庶民の暮らしを利するように、民主主義システムが貢献することはなかったと私は見ているのである。付言すれば、先進国における民主主義システムの下での人権(市民的自由)の構造的格差の存在は、トマ・ピケティが資本主義システムの下での、ほんの一時期を除く先進諸国の長期間に及ぶ構造的格差が存在するとの見方とも相互に重なっている。もっとも、ピケティの「民主主義」の位置づけ方には私は同意しない。ピケティは、民主主義による資本主義の「制御」(「民主主義」を取り戻せといった類の論である)を主張するが、民主主義それ自体も構造的格差の問題を免れないのだか、21世紀の現時点での民主主義の格差の構造を理解できていれば(すなわち「民主主義の発展」の段階は、先進諸国ではⅡ’期からⅢ’期の前期から中期に位置している)、とてもではないがこのような愚かな見解は提示しなかったであろう。付言すれば、この種の「民主主義を取り戻せ」とか「民主主義による資本主義の制御が可能だ」と説く論者がいまだに人気を博しているが、私にはこうした状況も「公的空間」を閉塞させるだけではないかとなるのだが。
(ここでいう「道」とは、私がモデルで描いた「システム」の自己完結運動の「歩み」、換言すれば、私がここでいう「歴史」である。)



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「主因」は「システム」。「ハイド氏の裁判」で告発された問題そのものである。(4)

2018-03-15 | 社会 政治
「主因」は「システム」。「ハイド氏の裁判」で告発された問題そのものである。(4)
 これまで(1)から(2)(3)の記事をまとめながら、私たちの記憶の中で、何かが発酵したとすれば、それはおそらく次のことではないだろうか。
 すなわち、「あの戦争」の原因は、あるいはあの戦争を泥沼に導いたものは、中国東北部(満州)における関東軍の暴走であったとか、海軍は悪くなかった。陸軍が悪かったとか、さらには、一部の者たちによる「計画的犯行」であったとか云々の言説ではなかろうか。そこに「ご意向」とか「忖度」という言葉を加えれば、ある程度というか、ほとんど同じ話となってくるのではあるまいか。それと同時に、そこに主因というか主たる原因は何も語られていないということも分かってくるのではなかろうか。
 麻生財務大臣が「佐川が悪い。佐川がやったことだ。」云々の発言で、これまで自分たちが部下と一緒に「計画」し「実行」してきた「犯罪」を、事も無げに終わらせようとしているのに、私たちは当に気が付いている。それにしてもだ。「歴史は繰り返す。形を変えて。」といった趣旨の言を誰かが述べていたが、そこには形、つまり脚本と役者を異にしながらも同じような歴史を作り出す何かが存在しているということではあるまいか。もしそうならば、そうした歴史と私たちがどう向き合ってきたのか、向き合っているかが問われない限り、おそらくまた似たような事件に、時と場所を変えて遭遇するに違いあるまい。そしてそれが今回の記事で私が俎上に載せている南相馬市の女子中学生の自殺問題であり、森友学園問題であり、そしてあの戦争と「ハイド氏の裁判」つまり東京裁判問題であったということに他ならない。
 それゆえ、南相馬市の教育委員会の会見も今回の森友問題での麻生氏の会見も、そして東京裁判判決に関した会見も、何かを見事に外しているし、マスコミにおいてもまた、その「外し」を忖度しなければならないようなご意向(ご威光)が作用しているのではないか、と私は見ているのである。ここで忘れないように付言しておきたい問題がある。中途視覚障碍者の私にとって大事な問題なのだ。「忖度」とか「ご意向」という場合、それらはいわゆる「健常者」と「障碍者」において、どのように受け止められるのだろうか。その作用の仕方というか影響力に関して、やはり両者には異なるところが見い出せるのではないか。あるいは見いだせないとすれば、それはなぜなのか。


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主因」は「システム」。「ハイド氏の裁判」で告発された問題そのものである。(3)

2018-03-14 | 社会 政治
「主因」は「システム」。「ハイド氏の裁判」で告発された問題そのものである。(3)

 前回の続きにいく前に、今また国会で再燃している森友問題に関して少しコメントしておきたい。というのも南相馬市の女子中学生のいじめ自殺問題と構図が同じだからである。森友問題でも、主因は財務省の理財局とその監督下にある近畿財務局の一部の職員であるとのことだ。おそらく私のブログを見ている方なら、もうすでに今書いている記事の先に思いが及んでいると推察するのだが、ここはもう少し、ゆっくり私にお付き合いいただきたい。
 結論を先取りして言えば、南相馬市の市立中学校の問題も、森友学園の国有地払下げ(マスコミは「売却」という)問題も、さらには東京裁判におけるA級戦犯判決にかかわる問題も根は同じではないかということである。それは一部の者にすべての責任を負わせて決着を図る、図ったという劇なのだ。地方レベルにおいても、中央レベルにおいても、国際レベルにおいても、その当該当事者が一般市民であろうと、官僚だろうと、政治家であろうと、学識経験者であろうと、お頭(つむ)の中身はみな同じだということなのだ。もちろん、どの時代にもシステムに抗い続ける例外者はいつも存在してきたし、今もそうなのだが、残念ながら、システムの自己完結運動の側から見るとき、痛くもかゆくもない存在だったに違いはない。
 いつも「悪党」は生き続ける。システムは絶えずそうした悪党を生み出し続ける。森友問題の再燃を通して私が痛感するのは、最初にその問題が生起して、安倍内閣の信任・信頼が厳しく問われたはずの最中に行われた総選挙での安倍圧勝はいったい誰に責任があったのだろうか。いろいろな理由や理屈はあるものの、私(たち)の責任も看過できない。政党の無力さや政治家のいい加減さやお役所仕事の問題点、さらにはマスコミ報道における株主の影響力の大きさ等々はもはや「想定内」ではなかったか。システムの抱える問題の大きさも想定内だったのではないか。主因はいつもシステムにあるとしたとしても、それにもかかわらず、私が担う、背負うべき責任までも他人任せ、いやシステム任せではやはりどうにもならないではないのか。そこまでわかっていたはずなのに、私は選挙の後、どうしていたのか。
 まさか森友問題は終わってしまったとは考えてもいなかったであろう。当然ながら、加計問題も幕引きは許されないだろう。今治市や愛媛県の税金が、加計学園という一私企業に、何ら疑惑の解明も済まされることなく支出されるのが今治市議会や愛媛県議会で認められてしまった。愛媛県に暮らす中途視覚障碍者の私にとっては、「主因はシステムだ」と言い切りながらも、税金の使い道や支出額の多寡とその影響に関しては、もっと細心の注意や配慮がなされてしかるべきだといいたいのである。点字ブロックや音響信号機の敷設に回すお金が減らされてしまうし、さらにもっと税金を必要としている生活困難者は多数、存在しているのに。ましてやこれから事態が深刻化するであろう伊方原発問題や、自然災害や高齢社会の問題にと、必要とされるお金はどうするのか。
 もう一度繰り返して述べれば、確かに「想定内」のことに違いない。ほとんどの者が事件のおおよその原因に関してうすうすは感じ取っている。しかし、動けない、動こうともしない。何度も同じような出来事が起こっても、いつも同じような結末となってしまう。何故なのだろうか。結局のところ、ごくごく少数者の抱える問題には、多くの者は関係のないこととして、いつも済まされてしまうということなんだろう。マイノリティーや特定の個人が関係する問題には、関係ないし関心のないこととして済まされるのだ。よほど、何かの事情で、関係のない、無関心だった問題が自分の身に降りかかってこない限りは、そうなのだろうが、本当に関係のない問題なのか。無関心でいいのだろうか。自分自身の利害にかかわる、つまり自身の安全保障にかかわる問題だとして、もし捉えてみることができれば、それほど傍観して済まされる問題でもない、と私は考える。もちろん、実際は、実態は、すべての「庶民」に密接に関係することばかりなのである。
 しかしながら、仮にたとえそうだとしても、何故なのだろうか。あともう少し声が上がっていたら、と。文部科学省の前川氏に続いて、あと一人告発するものが出てきていたら、ひょっとしてーーー。さらにあともう一人続いて、そしてその流れが全体の半数近く続いていたら、と。そうした流れに、私も加わっていたならば、---。私の耳にしたり、目にしたりしてきた事柄の一つに、システムとか組織の問題に済ませるだけではだめなのだ、人間の主体的関与、主意主義的態度こそが歴史の局面を打開してきたのだとして、それこそイギリスやアメリカやフランスの市民革命の例を引き合いにして語る人が多いのだが、そうした論者のほとんどは、私の見る限り前川氏の後に続いたためしがないのである。残念至極なのだ。「それはだめだろう。弱いものを、苦しんでいるものを、もうこれ以上いじめてはならない。悪いのはこいつらなんだよ。こんなことを繰り返していたんだ、証拠はこれこれだ。」、と主体的に主張することはなかったのだ。中学校のいじめの事件の際も、「あの戦争」に突入するまでの数十年の間も、同じ状況だったに違いない。私のような卑怯な者たちが大勢いたんだ。それは今回の森友問題でも繰り返された。近畿財務局の職員が自殺した。とても痛ましい出来事だ。おそらく周りの者たちはそこまでに至る彼の苦悩やいじめの実態を知っていたに違いない。彼一人ではどうにもならないことも分かっていたに違いない。それでも、彼を助けることはしなかったのだ。それこそ日本や世界の有名大学を卒業した者もたくさんいたであろうが、結局は南相馬市の中学校のいじめで自殺した彼女を見殺しにした者たちと何ら変わらない「教養」だった。そんな教養を身につけるために、小さい頃から受験勉強をしてきたのだろうか。「学歴」が有する中身とは所詮その程度だとわかっている私たちなのに、それにもかかわらず、学歴信仰を免れることは難しい。どうしてなのか。その答えはみんな分かっているだろう。一言でいえば、「生活」のためである。
 その生活のために、生活を確保するために、それこそ自分を犠牲にして、家族も顧みないで、みんな一生懸命に悪戦苦闘しながら生きてきたし、今も生きているのだが、同時に、そのために、自分たちの横で悩み苦しんでいるものを平気で見捨てる。とにかく自分自身の安全保障が何よりも大事なのだ、と。それが自分を守り、家族の平和を維持することにつながるのだ、と。また本末転倒な生き方をを繰り返して生き続けるのだから、もはや哀れとしか言いようがない。大人も子供も、ひとしく同様な生き方をする。精神年齢は一緒なのだ。誰も偉くならないし、なれない。それでは何がそうさせるのか。まさか、自分自身がそんな生き方を喜んでするのだろうか。主意主義的に、主体的に、友達や同僚をたとえ見殺しにしてでも構わないとして、はたしていきたいのだろうか。それは違うと、私のような人間でさえ思いたいし、そうだと考えたい。
 それでは何がそうさせるのだろうか。「優しい」思いやりや気配りを日ごろ見せているはずなのに、どうして周りの人が次々と傷つき命を落とすような事態に無関心であったり傍観したり、時には進んでそうした事態が引き起こされることに手を貸してしまうほどに「残酷」な存在となるのだろうか。何がそれを許してしまうのだろうか。システムなのか。システムのせいにしてしまうほど、私やあなたは無力なのか。それほど弱いものなのか。これまた悲しい話ではないか。それでは一体何だといえばいいのか。主因は誰なのか、何なのだろうか。 


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