今日の話もこれまでの私の話とあまり変わりませんが、今回は語り方をもう少しゆっくりとした、現在の流れを意識した内容になるように、と心がけたいと思います。
私のモデルのセカイの変容、転換に関しても、まさにそうなのですが、私の語り方は何か既にそうした変容、転換を2040,50年代に実際に見てきてしまった者が、現在の地点で語っている、そのような話し方となっています。それは、旧秩序と新秩序の言い方にも表れています。まだ、そんなことは、はっきりとわからないのに。
これまでも、何回も、1970年代までのセカイと1970年代以降のセカイの図式を読者に示しながら、旧いセカイから新しいセカイへと現実の世界(国際)秩序が変容、転換していくと話してきましたし、ちょうど今日はそうした二つのセカイが重なっていると、述べてきました。
それを言い方を変えて話すとき、それは今日のタイトルにもありますように、これまで旧秩序を形成、発展させてきた勢力と、これから新秩序を推進していこうとする勢力との対立と抗争が、所と形を変えて私たちの眼前で展開されている、ということになります。
すなわち、{[A]→(×)[B]→×[C]}を擁護する勢力と、{[B]→(×)[C]→×[A]}を推進する勢力とが、それぞれの利権を守るために衝突しているのです。そして2,30年かけて、この対立、対決構図がその結着を見るのが、中国が覇権国となる2040,50年代だと、私は見ています。
Aの中心的担い手である現在までの覇権国であった米国は、欧米連合諸国と協力しながら、Bグループの中国とロシアをなんとか封じ込めようとしながら、この旧秩序をなんとか防衛しよう、守ろうとしています。少なくともこうした見方の方が、何か分かりやすく感じられるのではありませんか。
逆に、新しい秩序を推進する勢力は、なんとかAに取って代わり、システムの一番上位に位置しながら、Aを自分たちに奉仕させるような立場に置き、従属させようとしている、とみた方がわかりやすいのですね。
確かにそうした対立、対決の構図は一見したところ間違いではないように思われますが、それらを、私は、相互補完的な関係として、捉え直すのです。それらの対立、対決の構図は私からみれば、茶番もいいところです。それで、私はいつもこれまでの記事で示したように、変容、転換として語るのです。
これに関連した大切なことは、私からみると、多くの論者が旧秩序のセカイを前提として、また今後も当分の間は続いていくだろうとしながら、同時にそれに代わる世界像も提示できないままで、現在の国際政治、国際関係を語っているということです。それに対して、私は、やがては新秩序になることを前提として、新秩序が旧秩序に取って代わる、取って代わられたという観点からこれまで語ってきたのですね。それが読者の理解を妨げてきたように、思いますし、反省もするのですが、時代の流れは驚くほどに早いのですね。
「茶番」に多くの名もなく、貧しいものが巻き込まれてきたのですから、しかもその演出に、デモクラシーをファシズム、共産主義から守るとか、自由と民主主義世界を守るために、アフガニスタン、イラク、シリアの独裁政権を打倒しなければならない云々が流布されてきたのですから、閉口するだけです。
正確に言えば、当然ながら、二つの秩序とその背後の勢力は、対立し対決しているかのような構図であり、今まさに中東でその構図は「現実」のようになっていますが、この現実にのみ注視するのではなく、その後の「結果」を見据えて、そこからこの現実らしきものを理解すべきだと、それが重要だと考えています。
少しここで、飛びますが、キッシンジャーが描く世界(「新世界秩序」)が必ず現実の世界を構成すると、私は見てきました。私が描く新秩序のセカイと驚くほど類似しています。
誤解のないように言いますと、私はこの新しい秩序のセカイとその関係に無性に腹が立ちます。それは旧秩序のセカイとその関係に対しても同様です。しかし、それではどうやって、この世界の関係とその秩序を、別の異なるものに替えられるのでしょうか。
私の答えはそれは無理だということであり、そのシステムの枠の中で、できる限りそれに近いものをつくるにはどうすべきかということでした。そのためには、最低限、私たちがいまどんな世界で生きているのか、その世界の関係について知ることが大事です。またそうしたことを理解できる人たちが求められます。
残念なことに、今回の「安保法制」論議を見る限り、ほとんどその期待は不可能です。大変につらいものがあります。
ただ今日は少しうれしいことがありました。私の勉強不足から今日になり初めて分かったのですが、北野幸伯という方のブログ記事(ロシアのシリア空爆の裏側)を読んで、この方の著作を知りました。最新刊は集英社から新書で出ています。「ウィキぺディア」に北野さんの主張があります。すべてが一致するわけではありませんし、おそらく相当に意見の相違があると推察していますが、それでも国際政治を見る眼には共通するものがありました。
私はもう、観察者、傍観者のような見方、書き方しかできなくなりましたが、北野さんはどうやって日本と日本人を守るべきかについて、真剣に語っています。
私もずっと以前はこうした観点からものが言えたし、書けたのですが、残念ながら、それは私にはできなくなりました。
もっとも、とてもではありませんが、グローバリズムにも賛成できません。なかなか難しいものです。北野さんも言うように、「ウソ」ばかりなのです。
それは別にして、北野さんのブログや著作がもっともっと読まれることを私は願うばかりです。もっとも、北野さんの最新刊の著書は多くの読者を獲得されているようです。
私のモデルのセカイの変容、転換に関しても、まさにそうなのですが、私の語り方は何か既にそうした変容、転換を2040,50年代に実際に見てきてしまった者が、現在の地点で語っている、そのような話し方となっています。それは、旧秩序と新秩序の言い方にも表れています。まだ、そんなことは、はっきりとわからないのに。
これまでも、何回も、1970年代までのセカイと1970年代以降のセカイの図式を読者に示しながら、旧いセカイから新しいセカイへと現実の世界(国際)秩序が変容、転換していくと話してきましたし、ちょうど今日はそうした二つのセカイが重なっていると、述べてきました。
それを言い方を変えて話すとき、それは今日のタイトルにもありますように、これまで旧秩序を形成、発展させてきた勢力と、これから新秩序を推進していこうとする勢力との対立と抗争が、所と形を変えて私たちの眼前で展開されている、ということになります。
すなわち、{[A]→(×)[B]→×[C]}を擁護する勢力と、{[B]→(×)[C]→×[A]}を推進する勢力とが、それぞれの利権を守るために衝突しているのです。そして2,30年かけて、この対立、対決構図がその結着を見るのが、中国が覇権国となる2040,50年代だと、私は見ています。
Aの中心的担い手である現在までの覇権国であった米国は、欧米連合諸国と協力しながら、Bグループの中国とロシアをなんとか封じ込めようとしながら、この旧秩序をなんとか防衛しよう、守ろうとしています。少なくともこうした見方の方が、何か分かりやすく感じられるのではありませんか。
逆に、新しい秩序を推進する勢力は、なんとかAに取って代わり、システムの一番上位に位置しながら、Aを自分たちに奉仕させるような立場に置き、従属させようとしている、とみた方がわかりやすいのですね。
確かにそうした対立、対決の構図は一見したところ間違いではないように思われますが、それらを、私は、相互補完的な関係として、捉え直すのです。それらの対立、対決の構図は私からみれば、茶番もいいところです。それで、私はいつもこれまでの記事で示したように、変容、転換として語るのです。
これに関連した大切なことは、私からみると、多くの論者が旧秩序のセカイを前提として、また今後も当分の間は続いていくだろうとしながら、同時にそれに代わる世界像も提示できないままで、現在の国際政治、国際関係を語っているということです。それに対して、私は、やがては新秩序になることを前提として、新秩序が旧秩序に取って代わる、取って代わられたという観点からこれまで語ってきたのですね。それが読者の理解を妨げてきたように、思いますし、反省もするのですが、時代の流れは驚くほどに早いのですね。
「茶番」に多くの名もなく、貧しいものが巻き込まれてきたのですから、しかもその演出に、デモクラシーをファシズム、共産主義から守るとか、自由と民主主義世界を守るために、アフガニスタン、イラク、シリアの独裁政権を打倒しなければならない云々が流布されてきたのですから、閉口するだけです。
正確に言えば、当然ながら、二つの秩序とその背後の勢力は、対立し対決しているかのような構図であり、今まさに中東でその構図は「現実」のようになっていますが、この現実にのみ注視するのではなく、その後の「結果」を見据えて、そこからこの現実らしきものを理解すべきだと、それが重要だと考えています。
少しここで、飛びますが、キッシンジャーが描く世界(「新世界秩序」)が必ず現実の世界を構成すると、私は見てきました。私が描く新秩序のセカイと驚くほど類似しています。
誤解のないように言いますと、私はこの新しい秩序のセカイとその関係に無性に腹が立ちます。それは旧秩序のセカイとその関係に対しても同様です。しかし、それではどうやって、この世界の関係とその秩序を、別の異なるものに替えられるのでしょうか。
私の答えはそれは無理だということであり、そのシステムの枠の中で、できる限りそれに近いものをつくるにはどうすべきかということでした。そのためには、最低限、私たちがいまどんな世界で生きているのか、その世界の関係について知ることが大事です。またそうしたことを理解できる人たちが求められます。
残念なことに、今回の「安保法制」論議を見る限り、ほとんどその期待は不可能です。大変につらいものがあります。
ただ今日は少しうれしいことがありました。私の勉強不足から今日になり初めて分かったのですが、北野幸伯という方のブログ記事(ロシアのシリア空爆の裏側)を読んで、この方の著作を知りました。最新刊は集英社から新書で出ています。「ウィキぺディア」に北野さんの主張があります。すべてが一致するわけではありませんし、おそらく相当に意見の相違があると推察していますが、それでも国際政治を見る眼には共通するものがありました。
私はもう、観察者、傍観者のような見方、書き方しかできなくなりましたが、北野さんはどうやって日本と日本人を守るべきかについて、真剣に語っています。
私もずっと以前はこうした観点からものが言えたし、書けたのですが、残念ながら、それは私にはできなくなりました。
もっとも、とてもではありませんが、グローバリズムにも賛成できません。なかなか難しいものです。北野さんも言うように、「ウソ」ばかりなのです。
それは別にして、北野さんのブログや著作がもっともっと読まれることを私は願うばかりです。もっとも、北野さんの最新刊の著書は多くの読者を獲得されているようです。