日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

私の語る「システム」論から、差別と排除の「親分ー子分」関係の支配する社会の不都合な真実について、改め

2025-03-14 | 日記
私の語る「システム」論から、差別と排除の「親分ー子分」関係の支配する社会の不都合な真実について、改めて考えるとき




(最初に一言)


 やはり、しばらくは拙著をまとめることに集中したい。私は器用ではないので、一つのことにしか向き合えない。また、ほとんどのことはブログ記事で述べてきた。それで、今回記事は、米国映画の『ビーキーパー』(「養蜂家」)をもとにして、今の国際関係とそれを傍観せざるを得ない私たちの生き方について、少しだけ述べておきたい。




 視覚障碍者の私にとって、映画を視聴することは数少ない楽しみの一つだ。勿論、昔のように画面ははっきりとしないし、途中で嫌になるのもしばしばだが、今回の映画は面白かった。とくに、「システム」は時として誤りを犯すので、どうしても「システム」の外側にいて「システム」内の秩序がおかしくなる時は、「女王蜂」であっても、働きバチによって殺されることになる云々のセリフ(吹き替え版)には。いたく感心した次第。


 勿論、この話の含意は、「旧き良き時代の米国」というか、「秩序」が保たれていた今よりはましな時代があったという想定があるように、私には思われた。私からすれば、差別と排除の「親分ー子分」関係を前提とする覇権システムの中でつくられた米国社会における「よりましな秩序」云々それ自体が、おかしいというしかないのだが、それでも私たちの生きている現実の社会は、覇権国やその地位を目指す親分連中が支配する覇権システムであることを踏まえれば、よりましな「親分」という考え方をすべて否定することもできないことから、何とももどかしい限りだが。まあ、そんなヤボな話は少し横におくとして、先の映画の話に戻るとき、映画はとても面白かったし、何よりも「システム」の「内」と「外」に関する指摘は、私には興味深かった。


 それを踏まえて言えば、現実の私たちの社会は、「親分」連中が支配している。そしてその親分に子分たちは容易には手を出せない。何か「政変」が起こるとすれば、それは私の語る「システム」の自己完結運動の下で繰り返される親分連中間での内輪もめか、闘争・戦争でしかない。その際、親分のコマとして命を失うのは子分連中である。いろいろな次元の「親分ー子分」関係はあるものの、それらは一つの覇権システムを構成しているのは確かである、と私はみている。


 私たちもそれに気が付いているし、そのシステムで生きることの息苦しさもわかっているはずだ。だが、私たちはどんなにそれがしんどくても、「親分ー子分」関係の下でつくり出されてきた「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係を担い支えることを余儀なくされている。この「営為の関係も、それぞれの「親分ー子分」関係の支配する空間の次元に対応して、いろいろな次元の関係から構成されてはいるものの、それらは集積・集合されて一つの世界的な「衣食足りて礼節を知る」営為の関係となる。何度もこれまで述べてきたように、私たちはこの「衣食足りて(足りず)の営為の関係を、(世界)資本主義(システム)として、また「礼節を知る(知らず)」の営為の関係を、(世界)民主主義(システム)として、教えられてきたのである。


 それゆえ、本来は、差別と排除の「親分ー子分」関係の支配する「力(暴力)」によって裏打ち・裏書された差別と排除の「秩序」の支配するシステムであるにもかかわらず、私たちはそうした「不都合な真実」から目を背けるのだ。今の世界を見渡すとき、ウクライナでもパレスチナのガザ地区でも。さらに世界の個々彼処で「人殺し」は起きているにもかかわらず、「人を殺してはいけない」「人を差別し、排除するのはいけない」等々のほとんど意味のない決まり切った話しか。私たちはしないのだ。イスラエルでのパレスチナ人に対する「ジェノサイド」は。私たちに「親分ー子分」関係の支配する世界の「秩序」と、私たちが享受してきた自由、民主主義、人権、法の支配、平和といった普遍的価値とその実現の歩みとしての普遍主義が、どのような関係にあるのかを、私たちに改めて教えてくれる「生きた教材」であったはずである。
*すぐ上の「生きた教材」の物言いは、さすがに躊躇したのだが、うわべばかりをとりつくるこれまでの私の人生を鑑みながら、このままの表現で済ませた次第。


 私たちの嘘にまみれた社会の現実を、これほど見事に私たちにさらけ出したありとあらゆる面における「戦争犯罪」はないはずだ。ところが、私たちは、それを私たちの不都合な真実として学び直そうとはしないのだ。もうこの先は論及しない。何度も、この理由については述べてきたから。どうしようもない現実に私たちがもし向き合うことができるとすれば、先述した映画にあった私たちの今生きている「システム」の外側に少しでも離れることのできる生き方をするしかない、と私はみているし、これまたそれに関しても、いろいろと述べてきた。勿論、これまた相当に高いハードルであるのは間違いないのだが、トルストイの描いた「イワン」的人間として生きている人々も、現実に存在していることは疑いを得ない事実である。




(最後に一言)


 「レンゲ草 独り善がりの 世を憂い」が、私の脳裏に自然と浮かんだ。レンゲ草の花言葉を知るとき、なんとも人間社会の愚かしさを痛感するばかりである。勿論、私もそうした人間社会を構成するシステム人の一人であるのは承知している。今の世界は、滅茶苦茶というか無茶苦茶であるように、私には見えるのだが、それはおそらく新しい世界秩序をこれから担い支える覇権システムの頂点に君臨する覇権国の交代劇が目下、進行中であり、そのために秩序を維持運営する力が世界全体に浸透するまでには、なお十分ではないからである。何度もこれまた述べてきたように、後20年弱近くは対内的・対外的な政治経済関係は、ぎくしゃくするに違いない。いずれにしても、私たちはこれから先も、今までと同じように、「おもしろきこともなき世をおもしろく」の心意気で彷徨うしかない、と私は思うのだ。健康寿命に達した私の結論としては寂しく感じるのだが、いついかなる時においても、そうした気構えだけは忘れたくはない。



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私の語る「システム」論から、斎藤ジン著『世界秩序が変わるとき』の「主張」を、改めて問い直すとき

2025-03-08 | 日記

私の語る「システム」論から、斎藤ジン著『世界秩序が変わるとき』の「主張」を、改めて問い直すときー本当に「日本経済の復活」はあるのか。その際、復活した日本経済を担う主体は誰なのか。かつての「分厚い中間層」なのか。また、本当に中国は衰退するのか。もしそうだとすれば、次期覇権国となるのは一体どこなのか等々の問いかけを念頭においたとき(続)


(最初に一言)の前に、私の語る「システム」と「米・中覇権連合」との関係について、読者にお伝えしておきたいこと


私の語る〈「システム」とその関係の歩み〉を示す1970年代以降から今日に続くモデルの{[B]→(×)[C]→×[A]}から押さえておきたい大切な要点は以下のとおりである。すなわち、B、Cグループを構成するグローバルサウスを始めとした諸国が、今後より一層「システム」の「高度化」の段階を目指していくのに対して、かつての先進国グループを構成していたAグループは、これからさらに「システム」の低度化の段階を歩んでいくということだ。


その意味することは、「システム」は、Aのこれまでの覇権システムの頂点に君臨してきた覇権国である「親分」の米国に対して、その巨大な軍事力でもって、B、Cグループの高度化の段階を目指す歩みを防衛すると同時に、{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係全体の歩みを防衛するように、求めるのである。


そうした「システム」の歩みの中で、「システム」は中国に対して、これまでの覇権国の親分として米国が担い支えてきた覇権システムの維持と発展を引き受けられる能力を開発するように迫るのである。そのために「システム」は米中間の対立と衝突を煽(あお)り、時として両者の軍事的衝突も辞さないような局面をつくるのだ。だが、ここが一番肝心なところであるが、両社は「システム」の「自己完結運動」の下で、あたかも事前にプログラミングされているかのように、決して「システム」の崩壊に導くような対立は避けるのだ。


ここを見誤る諸国は、「システム」が用意した戦争へと引きずり込まれてしまい、相当な打撃を甘受するのである。何度もこれまた私は述べてきたのだが、日本はそうした役割を引き受けてしまう蓋然性はすこぶる高いのだ。「システム」は米・中覇権連合を利用しながら、日本をカネの成る木の戦争へと誘う計画を立てていると考えておいた方がいいのである。無論、それを当然ながら理解している人々もいるはずだろうが、「システム」の自己完結運動は、おいそれとは抜け出せないような仕組みの中に、日本と日本人を誘いこんでいる。


それを踏まえた上で次に言いたいのは、差別と排除の関係を前提として作り出されてきた覇権システムは、必ず今の米国に替わる覇権国を求めるのである。それこそ「システム」の自己完結運動のなせる業でもある。そして。前回記事でも述べていたように、これまでの覇権国の興亡史を鑑みるとき、必ずや次期覇権国は20年内には誕生するし、それは中国であることを、米国の政治指導者連中ならば、一番よく知っているはずなのだ。そのためのニクソン訪中が1970年代初頭に準備されたのだ。そして中国の改革開放とソ連のアフガン侵攻が「セット」として「システム」の自己完結運動の下で展開されたのだ。


世界の投資家たちは、その中でも米国や中国、そしてEU諸国やロシアとのパイプを持つ世界的投資家つまりは世界の大株主たちは、そうした動きを確実に知っているはずだから、彼らが大儲けするのは当然のことなのだ。たとえば、米国政治を動かしてきたキッシンジャーやブレジンスキー等は、学者であると同時に政治家であり、またフィクサーとしても活躍していた。米国の世界的多国籍企業の経営者やその大株主が米国政治の中枢に深く入り込んでいることを踏まえるとき、もし彼らが中国との取引から巨額の利益を上げたいと望むならば、彼らの競争相手を中国から追い払うことを考えるはずだ。そのために、読者のあなたならば、先ずは何をすればいいと考え行動するのだろうか。


ここまで少し長くなったが、これからの世界の動きを考える際に、私が留意している話を述べてみた。既に以前のブログ記事でも開陳しているので、これまた新鮮味はないのだが、斎藤ジン氏やレイ・ダリオ氏の著作を読む際に、何かお役に立てるはずだと考えている。私は投資家でもないし、その才能もないのは言うまでもないのだが、最後にここで一つだけ強調しておくとすれば、以下の点だ。すぐ上でも述べていたように、米国の次には中国が来るのに、大抵の論者はそれを「ぼかしている」ことに注意を払った方がいい。その理由は、すぐ上でも指摘した。「情報」は重要である。だが、本当?の情報は私たちのところには届かない。




(最初に一言)


 それでは前回記事の続きを書いていきたい。今回記事は、斎藤ジン氏が自ら語っている著作に関する話をもとにして論を展開していきたい。




 私が気になったのは、斎藤氏も覇権国の興亡史に関してはあまり言及してはいない。確かに英国と米国に関しては触れているのだが、米国がなお当分の間は、世界秩序に関する大きな影響力を行使するとみている。それを前提として、その米国の力が浸透する世界の中での「勝者」と「敗者」が誰になるかを検討しているようだ。私は斎藤氏の見方を尊重した上で、冒頭でも論じていたように、やはり米国の次の覇権国を想定した中での両者の関係を前提とした上での「勝者」と「敗者」の話であればと思った次第。


 というのも、斎藤氏は、東西冷戦の崩壊以降、これまで支配的であった「新自由主義」の世界観がもはや「信任」を失った世界の中で、勝者となるのは日本であると述べているからだ。その理由は、米国が日本を使って中国の力を封じ込めるためであるとしていることから、日本の国力を増強させる必要があり、そのために米国は日本をゲームの勝者となれる椅子につかせるからだと述べるのだ。これに関連して言えば、斎藤氏は、日本の失われた30年は、米国が日本の経済力と国力を危ぶんで、日本を敗者となるように、ゲームの椅子につかせたからだとしている。それに対して、中国は新自由主義の支配する世界の勝者となったと論じている。私は、この敗者と勝者が、どのような関係の下で、{[B]→(×)[C]→×[A]}の発展に与ったかの考察が大事であるとみている。


 私はこうした見方に対して、何度も言うように、〈「システム」とその関係の歩み〉として描いている1970年代に至るまでとそれ以降の二つのモデルから、米国と日本、そして中国との関係を位置づけ理解することから、どうしても、斎藤氏とは異なる見方とならざるを得ないのだ。その一番の点は、斎藤氏は、1970年代以前もそれ以降も、世界秩序における米国の位置する地点は、ずっと変わるところのないと見ているのではあるまいか。私は、1970年代までの米国と、今の地点における米国の位置する地点の違いとその違いの重要性を強調したいのだ。{[A]→(×)[B]→×[C]}のAの先頭に位置する米国は、「システム」の高度化をひた走る米国であるのに対して、{[B]→(×)[C]→×[A]}のAの先頭に位置する米国は、「システム」の高度化の段階をひた走るB、Cグループとは対極に位置して、「システム」の低度化の段階を歩んでいる米国であるのだ。等しく覇権国として位置づけ理解したとしても、世界秩序における米国の立場は著しく異なる、と私はみている。


 斎藤氏は、第二次世界大戦以降から冷戦崩壊までの時期を、「大きな政府」の世界観が支配的であったとみているようだが、既に1970年代には先進諸国は「先進国病」として経済的にもその行き詰まりを顕在化させていた。そして1980年前後から、既に「小さな政府」に向けた動きが英国や米国、日本においても見られていたのである。それに関連して言えば、どうして私たちは「大きな政府」路線の政治を大戦後の30年間において実現できたかに関して、やはり問い直す必要があるのではあるまいか。同時にまた、1970、80年代から今日にかけて今度は「小さな政府」路線の政治へと向かうことになったのか。この問いかけに対しても、応えなければならないだろう。


 その際、私は思うのだが、等しく大きな政府とか小さな政府と言っても、先の「システム」を構成するA、B、Cにおいて、またB、C、Aにおいて、それぞれその意味することは違っているのではないかということである。それゆえ、そうした課題に応えるためにも、私たちは「私たちのいう「世界秩序」とは一体何を意味しているかに関して、大きな政府とか小さな政府(新自由主義)といった物言いに換えて、もう少し的確な「関係」を描いたほうがいいのではないか、と私はみているのである。そうした私の問題関心を私はモデルとして描いたのだが、それは何度もこれまで論述してきた「「システム」とその関係の歩み」である。


 それを踏まえて言うとき、日本の高度経済成長とその果実は、中国の改革開放の歩みに継承された、と私は理解している。その意味でもう少し敷衍すれば、米国と中国の関係を、米国と日本の関係を、また日本と中国の関係を、私は先の〈「システム」とその関係の歩み〉の中に置き直して捉え直すことの重要性を強調しておきたいのである。「世界秩序」がこれから先どう変わっていくかを語る論者の話が、たとえば、福沢諭吉が『文明論之概略』で指摘していた当時の「文明」「半開」「ウ野蛮」の三つの地域から構成される国際関係を指摘していたように、やはり今日の世界秩序を論じるのであれば、そうした地域関係によってつくり出される世界秩序であるとの分析視角は最低限、私たちの留意すべきことではあるまいか。


 それゆえ、繰り返しとなるが、大きな政府というときもまた小さな政府というときも、そうした関係の下でつくり出されてきたとの視角をもって、再度考察する必要があるといわざるを得ないのである。そうした関係を踏まえるとき、かつての勝者としての日本は、〈「システム」とその関係の歩み〉においてどのような役割を担い支えたのか、またどうしてそうせざるを得なかったのかを、再考察する必要があるはずだ。同様に、今また日本が勝者として、日本経済の復活の機会に与れるとしたとき、それは{[B}→(×)[C]→×[A]}で描くモデルの〈「システム」とその関係の歩み〉において、どのような役割を担い支えるために、「システム」がどのように日本を使おうとしているかについて、考察した方がいいだろう・。




(最後に一言)


 今回記事はこの辺でやめておきたい。次回は、斎藤氏本人の話を引用貼り付けて、もう少し論じてみたいのだが、私の頭の中では、もうほとんど大切な話はしたのではないかと思っている。本当に世の中はよくできている。この先の話は、削除したことを断っておきたい。やはり気休めの域を出るものではなかった。ただし、そこで私のいう「いい性格」とは、人間関係において、目上の人に進んで忖度しながら、彼らの思うことを自然にやれる、そんな資質を意味していたことを付け加えておきたい。私には残念ながら、それは備わってなかった。ただそれだけのことと言えばそれまでだが、この性格の有無は、人生に相当な意味を与えることだけは、確かである。この歳になって、そう思うのである。






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私の語る「システム」論から、斎藤ジン著『世界秩序が変わるとき』の「主張」を、改めて問い直すときー

2025-03-07 | 日記
私の語る「システム」論から、斎藤ジン著『世界秩序が変わるとき』の「主張」を、改めて問い直すときー本当に「日本経済の復活」はあるのか。その際、復活した日本経済を担う主体は誰なのか。かつての「分厚い中間層」なのか。また、本当に中国は衰退するのか。もしそうだとすれば、次期覇権国となるのは一体どこなのか等々の問いかけを念頭においたとき


(最初に一言)の前に、読者にお伝えしておきたいこと


*覇権国の興亡史を軸とする政治や経済や国際関係についての歴史の知見に依拠した投資は、おそらくそうしない場合よりは、投資行為に際してはるかに有利かつ有益な情報提供を投資家に与えるのは間違いない、と私も確信している。もし、少しでも利益を得ようと欲するのであれば、当然ながら過去から現在に至る上述した歴史を学ぶことは是非とも必要である。


 それを断った上で言うならば、私がこれまで覇権国の興亡史に関して研究してきた理由は、そうした歴史を繰り返させる原動力は一体何であり、それは私たちの生活にどのような影響を与えるのかについて知りたいと考えたからだ。そして、私が辿り着いた結論は以下のとおりである。すなわち、私たちは諸個人間の次元であれ、諸共同体・国家間の次元であれ、自己決定権の獲得とその実現のために、私たちは「力」(暴力)と力(暴力)のぶつかり合いを介した争奪戦を繰り返す中で、その自己決定権を手に入れることができるということであった。それは個人レベルで言えば、自由になれる権利としての人権であり、国家レベルで言えば、主権ということだ。


 問題は、その自己決定権の獲得とその実現に際して、差別と排除の「親分ー子分」関係がつくられるということである。それは諸個人間においても、諸共同体・国家間においても等しく見られるということだ。そして、先の争奪戦には、口喧嘩やつかみ合いの段階を経て、殴り合いの喧嘩から身近な刃物や殺傷能力の高い武器を行使した戦闘の段階へ、そこから最後は、諸共同体・国家同士の戦争へとエスカレートしていくのだ。つまりは命の奪い合いにまで発展するということを意味している。その過程で、勝者は「親分」となり、敗者は「子分」となるのだ。親分は子分を差別し排除する関係をつくることになる。


 私たちはこうした差別と排除の「親分ー子分」関係を前提とした覇権システムの中で、親分に都合のいい「衣食足りて礼節を知る」営為の関係をつくってきたのである。それは私たちのような人間が誕生した瞬間から、紆余曲折を経ながら今日に至ってきた、と私はみている。そして、その覇権システムは、名実ともに、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス、アメリカの歴代覇権国の登場によって、確固とした基盤が形成され、発展してきたとみていい。そして、今やそのアメリカから中国へと覇権のバトンが手渡されようとしている最中である。


 覇権国の興亡史に関する私の研究から私が知りえた重要なことは、現覇権国と次期覇権国の間には、政治的にも経済的にも文化的にも、相互に補完し合う関係が形成され発展していくという点だ。ポルトガルからスペインに、スペインからオランダに、オランダからイギリスに、イギリスからアメリカに覇権のバトンが手渡されていく際には、[覇権連合]の形成と発展がみられるということだ。ここで注意すべきは、覇権連合と言っても、必ずしも両国がスムーズンな良好な関係にあることを意味しないということだ。むしろ、相互に対立・敵対し合い、激しく衝突する中で戦争に至る場合もあるのだ。だが、それでも最後には「めでたしめでたし」といった関係が出来上がることに目を向けることが大切である、と私は強調しておきたい。それを踏まえるとき、私はアメリカと中国も、結局は歴代覇権国の興亡史の流れを辿る、と確信している。それゆえ、目の前で展開しているアメリカと中国との、その時々の対立や敵対関係に目を奪われてはならないのだ。あと20年もしない内に、アメリカから中国へと覇権のバトンは手渡されるであろう。


 もっとも、そうは言っても、私の関心は、こうした覇権国の興亡史を軸とする覇権システムの形成と発展の歩みの中で、私たちの手にする自由や民主主義や人権や法の支配といった普遍的価値の実現が初めて可能となるとの、なんとも言い難い歴史的「事実」にあるのだ。すなわち、私たちの民主主義は差別と排除の関係を前提としているのである。人権もまたそうなのだ。あまり偉そうに「民主主義を守れ」とか、「人権に勝るものはない」云々と、声高に吹聴することはできない代物なのだ。それについて、先の「衣食足りて礼節を知る」の営為の関係に依拠して説明しておきたい。


 覇権システムの形成と発展の歩みの中で、歴代の覇権国である親分は、子分との間で自分たちに都合のいいような「衣食足りて礼節を知る」の営為の世界的ネットワークをつくり上げてきた、と私はみている。その際、覇権国やその同盟諸国においては、「衣食足りて礼節を知る」の営為の関係がつくられてきたのに対して、そうした覇権国や非覇権中心国として位置付けられた「北」の先進国グループによって植民地や従属地として長らく搾取されてきた「南」の「子分」である途上国では、「衣食足りず礼節を知らず」の営為の関係を受け入れざるを得なかった、と私はみている。そしてそれら二つのグループの中間に、半周辺国である中進国が位置して、そこでは「衣食足りて・足りず、礼節を知る・知らず」の営為の関係を引き受けることになった、と私は考えたのだ。そして、そこからこれらの関係を一つの関係としてまとめたのが、「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の世界的ネットワークの関係である。


 こうした差別と排除の関係を前提として、私たちが〈(世界)資本主義(システム)と呼んできたのが「衣食足りて(足りず)」の営為の世界的関係である。また、「礼節を知る)知らず)」の営為の世界的関係を、私たちは〈(世界)民主主義(システム)〉と呼んできたということなのだ。私たちが手にしてきた資本主義システムとか民主主義システムは、差別と排除の「親分ー子分」関係から構成される覇権システムを前提として初めて実現されたという歴史的「事実」を、私たちは厳粛に受け止めることが大事である、と私はここでも強調しておきたいのである。


 私からすれば、覇権国の興亡史や大国の盛衰の歴史は、先ずは何よりもこうした観点から位置づけ理解されるべきなのである。その意味では、たとえば、今回記事で紹介している斎藤ジン氏や『変わりゆく世界秩序』の著者であるレイ・ダリオ氏や訳者の斎藤聖美氏とも、異ならざるを得ない。それは仕方がないことである。だが、それを断ったうえで、読者には、私たちがどうして覇権国の興亡史や大国の興亡に関する学習をしなければならないのか、その理由を改めて考えてほしいものである。前置きが少し長くなってしまったが、それではいつものように、記事に取り組んでいきたい。




(最初に一言)


 しばらくブログ記事を書くのをやめていた。その理由は、最後の?拙著を世に問うために、それに集中したかったからだ。ところが、これまた神様のいたずらなのか?。2025年3月5日の夜9時からのNHKニュース・ウォッチ9に登場した斎藤氏の話を聴いたことから、これはやはりブログ記事を書いておく必要があると感じたので、また記事を書くことにした次第だ。なお、読者が気にするといけないので、ここで付言しておくと、私が「神様」とか、「神様からのお告げ」がどうのというとき、そこにはあまり深い意味はないので、気にしないでほしい。ただし、別に大げさな物言いでもないのも確かである。




 本当に自分の性格というか性分には私自身が相当に参っている。もうよせばいいのに。それよりも、自分の仕事をした方がいいのにと思う反面、やはりこれは、私がしなければ誰がするのかと思ってしまったのだ。斎藤氏についても、初めてその番組で知った次第で、その後で、ネット検索をして氏の著書の概要を調べたのだ。それゆえ、この記事での私の話は、氏の本を直接手に取って読んではいないことを断っておきたい。もっとも、もはや字が読めないのだが。音声で聴くことはできるものの、とりあえずはネット検索からの情報で十分だと思うので、以下に私の感想というか、気になった点を述べておきたい。


 それにしても、やはりNHKの取り上げ方は問題があるのでは。もし斎藤氏のような「見方」を視聴者に伝えるのであれば、最低限の報道の責任として再投資とは異なる見方も報道すべきであるのは言うまでもあるまい。もっとも、そんなことをすれば、今の政権にヨイショできないし、政権の意向に応えられないというか忖度にもならないのは自明の理だろうが。私の語る「システム」を前提とするとき、「システム」ご用達のメディアが、力を持たない普通の庶民を愚弄するかのような情報しか垂れ流さないのは言うまでもないし、今さらそれに目くじら立てても仕方はないのだが、それでもやはりこの日の「偏向」報道にはあきれてしまった。「多様性」の時代云々と言われながらも、権力に都合のいい「一元的」な情報しか社会に発信しないのであれば、社会の内実を薄っぺらにしてしまうだけだろう。


 だが、それにしてもなのだ。「一億総投資家」となるように、またもうそれしかこれからの若者世代を始め、年金だけではとてもやりくりできない年長世代の人々に向かって、少しでもましな投資環境に身を置くことしか生き残るチャンスはないかのように、私たちを追い立てるかのような今の日本社会の空気を感じるとき、斎藤氏がその著作において、これからの「日本経済の復活」の可能性が高い云々の話は、私たちをそれこそ「バスに乗り遅れるな」式に、資産形成のための日本株の購入へと促す蓋然性は高まるはずだ、と私は思うと同時に、それ以上にさらなる格差の深化が導かれる可能性が強まることに対する危惧を覚えたのだ。


 斎藤氏はー日本には再び順風が吹いている、それを忘れないでください。いや、むしろしっかりと認識して下さい。先ほど、逆風下で低所得者層が増えたが、高所得者層の水準も低下したことを指摘しました。しかしこれから順風が吹くようになれば、低所得者の生活は以前よりも楽になりますが、高所得者の水準の伸びはそれより大きく加速するでしょう。(P222)ーと述べられているように、結局のところ、日本経済の復活のためには、「高所得者の水準の伸び」を、低所得者の「それより大きく加速する」ことが目標とされているのは明らかである。*なお。この最後のくだりは、ネットにある〈桐島 東南アジア(ASEAN)ゼミ ~国際協力と日・ASE…〉に紹介されていた斎藤ジン氏の著作の紹介から引用していることを、ここで断っておきたい。そこでの斎藤氏の評価は、かなり高く、斎藤氏の「見方」を支持している。


 私はそれに対して、これまでのブログ記事を始め、拙著や拙論でも論述してきたように、「日本経済の復活」とその「可能性」に関して、以下のように考えている。日本経済の日本というとき、もはやその日本はかつての分厚い中間層を主体とした国民国家としての日本からはほど遠い存在でしかない。また主権国家としての日本を維持存続できるほどの力というか国力も、今の日本には無い、と私はみている。それゆえ、日本経済の復活という表現は、その理解の仕方は非常に難しいというしかあるまい。それゆえ、もし日本経済の復活と言うのであれば、私の先の問いかけに応える形でさらなる説明を、私は期待している。




(最後に一言)


 今回記事を書くのは、久しぶりだということもあり、少々疲れてしまった。だが、同時に、斎藤ジン氏に刺激されて、またブログ記事を書いたことから、後少なくとも、2、3界は続けて書くつもりだ。新鮮味のない話となることははっきりしている。私にもよくわかることは、もはや少しでもいい投資環境を探し出して資産形成にコツコツと励むしか道はない?ということだ。勿論、これが一番難しいのだが、考え方によっては、「博打(ばくち」の得意な者が成功するだけの社会であるのだから、ある意味では諦めもつくのではあるまいか。こんな風に書きながら、勿論、そんなに簡単に諦めることなどできるはずもない。生きていかなければならないのだから。だが、そうは言っても、その手段が、投資家となって、博打に勝ち続ける以外に道はないとすれば、これはもう残酷な社会というしかあるまい。博打と言っても、それはAIの力をフル活用しなければとても勝負できないのだから、とても庶民の手におえるものではないというしかあるまい。(続)



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「ジャニー喜多川問題」は未だ終わってはいない。そのツケの一つとして、今回の「フジテレビ騒動問題」が

2025-02-01 | 日記
「ジャニー喜多川問題」は未だ終わってはいない。そのツケの一つとして、今回の「フジテレビ騒動問題」が浮上したのではあるまいか。その関連で言うならば、「東京裁判問題」も「ニュルンベルク裁判問題」も未だ終わってはいない。そのツケは~私の語る「システム」論から、自由、民主主義、人権、法の支配等の「普遍的価値」を世界の隅々へと拡大する(過去から現在に至る)歩みとしての「普遍主義」として描かれる(ア){[A]→(×)[B]→×[C]}(1970年代まで)と(イ){[B]→(×)[C]→×[A]}(1970年代以降から現在)における「経済発展(衣食足りての営為)」と「民主主義の発展(礼節を知るの営為)」の関係の「グローバル化」の中で引き起こされる、ありとあらゆる世界的紛争という「災厄」に、私たちは未だ巻き込まれているということを、改めて再考するとき(続・続・続)


*前回記事で覇権システムの帝国主義関係を述べていたのだが、今回記事でもう少し詳しく述べておきたい。これもすでに何度改善の記事で詳しく話していたが、今回は少し語り口を変えてみたい。


①砂場での赤ん坊同士の陣地鳥やおもちゃの奪い合いを介した自己決定権の獲得とその実現の歩みを見るとき、私はそこに覇権システムへと至る最初の第一歩を感じるのだ。その光景は、まるで「野生の王国」の動物同士の関係にも、今のロシアとウクライナとの、イスラエルとパレスチナ・ガザ自治区との関係とも酷似している。自分の領域には他人が入るのを許さない・禁止するといった差別と排除の力関係がそこにはある。その際、相手のおもちゃを力で分捕って、自分の持ち分であるかのようにする仕草は、砂場での陣地鳥と似ていて、絶えず相手との自己決定権の獲得とその実現に際しての力と力を介した争奪戦とも重なり合う。そうした相手との関係を前提として勝者となった強者が敗者となった弱者に対して自己決定権の確立を宣言する。それは強者と弱者の「親分ー子分」関係の誕生として位置づけ理解される瞬間でもある。


②こうした赤ん坊間の関係は、その後の家族、学校、職場等々でも繰り返される。読者の中から、赤ちゃん同士の「ほほえましい」やり取りを、そんな風に見ているのかといった批判というかあきれ声が聞こえてきそうだが、申し訳ないのだが、私はそう捉えてしまうのだ。そんな赤ん坊が保育園、幼稚園、そして小学校を卒業するころには、もう一人前の覇権システムを構成する人間関係のあれこれを学習し終わる頃ではなかろうか。そこからやがては社会人となった時には、もうほとんど何も教えられなくとも、各人各様のやり方で強者となるものと弱者となるもの、そしてさらには勝者間において、弱者間において、多種多様な方チンの「親分ー子分」関係がつくられていくのだ。


③こうした私たちの身近な次元の人間関係の集合体・集積体として位置づけ理解される国家と国家の間における差別と排除の「親分ー子分」関係としての覇権システムがつくり出されるところとなるのである。それを図式して描くとき、以下のように示される。


[A]→(×)[B]→×[C]の国家と国家と国家の関係によって、


覇権システムは構成される。なお、外側の[ ]の記号は、主権国家・国民国家を示している。そうした、[ ]が集まって、{ }の記号で示される覇権システムが出来上がるのだ。
 
 こうした覇権システムを構成する人間関係の抱える問題は、私たちの身近なセカイからイスラエルとガザ自治区の関係に至る世界までを包括している。今回のフジ問題の争点は、米国投資ファンドとフジの間における「親分ー子分」関係とそれに伴う子分の側に位置するフジ関係者社員の抱える様々な人権問題の処理の仕方が問われている、と私はみている。それにしてもなのだが、これまた詮無い話となるのを承知で言えば、私たちの生きている今の社会は、かつての米国の「棍棒外交」を彷彿とさせるトランプ大統領に体現される「力」(暴力)さえあればなんでも強者のいうとおりにできるという世界・セカイとなっているのではあるまいか。これまでも、そうした世界・セカイが私たちの社会の「常識」であったのだが、それを、すなわち覇権システムと(私の語る)「システム」が抱える宿痾を、私たちは表面化させないように、あの手この手を駆使しながら隠蔽してきたのだ。それがもはやできないことを最近の一連の出来事は示している、と私は考えている。もっとも、次期覇権国として中国が台頭して、その力を世界に示す頃には、またこうしたドロドロした現実の「力」(暴力)関係は、隠蔽されるに違いない、と私はみている。


 それにしても私たちは日本国憲法の「全文」で謳われた本来はあり得ないような世界を勝手に理想化して今日に至るまで生き続けているのだが、もうそろそろそんな世界の現実の姿を捉え直すべき時ではなかろうか。誤解のないように急いで付言すれば、だからと言って、私たちも、トランプと同様に、力でもってセカイと対峙すべきであると述べているのではない。むしろ逆に、そんな力を持ち合わせていない「日本」と「日本人」が、そうした世界の現実の中で、どうすれば生き残れるのかを一刻も早く知るべきだ、と私は強調しているだけなのだ。こうした観点に立てば、今のフジテレビ騒動問題の取り上げ方が、いかに狭い内向きの芸能スキャンダル問題に矮小化された報道であるかに気が付くはずである。私たちはこの問題を、世界の投資ファンドによる「日本買収」の動きとして位置づけなおすべきなのだ。そうすることによって、小泉元政権下での郵政民営化の実現の歩みから、安倍元政権下による異次元の経済改革の歩み、そして菅、岸田、石破政権に続く日本の国力と経済力の衰退化過程が、米国を始めとした外圧によってどのように勧められてきたかについて、改めて思いいたるに違いない。


 私は、これまた何度も論述してきたように、〈「システム」とその関係の歩み〉の下で、日本と日本人の衰退の歩みは不可避であり、これに対抗するのはほとんど難しいとみている。それゆえ、こうした現実を、私たちは可及的速やかに知るべきことが大切である、と私は何度も主張してきたのだ。それを多くの国民が理解することによって、今の私たちの日本の政治が抱えている問題に対しても、多くの目が注がれるであろうし、それによって、旧態依然の私たちの政治の本当の惨状に絶句するに違いない。未だ王様は裸だ」ということが国民の多くの共有するところとはなっていないのだ。本当におかしな話だが、今回のフジ騒動問題を、米国の投資ファンドとの関係として、日本の大手メディア関係者が報じないことは、やはりというべきなのか、もう普通の日本人の命と暮らしを守る「日本」のメディア機関等は存在していないかのように思えて仕方ない。


 この関連から「週刊文春」報道を見直すとき、週刊文春は、フジを解体させることが一番の狙いであるのかもしれない。同時にまた、「日本」と「日本人」の解体を導こうとする外資の手伝いというかその駒として働いているのかもしれない。少なくとも、私はそうみている。誤解のないように、ここでもまた付言しておくとすれば、日本という主権国家は元より、国民国家としての日本は、もう既に存在していないとみている。もはや主権国家としての役割はなくなり、今では「システム」に都合のいいような形でその外観だけは保っているとしか見ていないし、「システム」に逆らって、日本復活とか分厚い中間層の再・形成等々が可能であるなど、戯言を主張するのではない。すぐ上でも述べたように、なるべく早く、今の私たちの現状を知ることが大事であることを訴えたいだけなのだ。そして、〈「システム」とその関係の歩み〉において、私たちは「システム」の「低度化」の段階を、これからもさらに深化していく歩みを辿らざるを得ないという現実に向き合うべきことを、私は説いているだけなのである。


 
(最初に一言)


 前回記事で、私は「フジ騒動問題」を、軍事侵攻を繰り返すイスラエルと、多くの住民の命と暮らしが破壊されているパレスチナ・ガザ自治区間の「親分ー子分」関係の下での「人権」問題と結びつけて論じていた。今回記事は、その辺の話から書いてみたい。




 こうした観点から改めてフジ問題を見直すとき、米国投資ファンドとフジ・ホールディングとの両者の「親分ー子分」関係の下でのフジ関係者社員を巡る人権問題として、今回のフジ騒動問題は、捉え直すことができるのではあるまいか。さらに、それはまた、米国や英国そして中国を拠点とする世界的規模の巨大な力を持つ多国籍企業と日本との「親分ー子分」関係の下で引き起こされている日本人の命と暮らしを守るための人権問題にもつながるとして、位置づけ理解されるはずである、と私はみている。否それだけではなく、こうした観点から、本来ならば、本当であれば、フジ問題は報道されるべきであったのだ。同時にまた、それは米国の対日要望書を突き付けられて右往左往していた当時の子分の日本との関係を思い出させる出来事として、私はみている。


 つまり、今回のフジ問題から見えてくるのは、外資という外圧を前にして右往左往するかつての日本国・政府の対応の姿であるのだが、どういうわけか日本のメディア関係者は、その外資の外圧とその背後に存在する「親分ー子分」関係としての覇権システムの存在を、私たち日本国民の目から遠ざけるかのように、今ではフジという一企業の抱える古い体質云々の問題に焦点が集められた報道に傾斜しているのは、たとえ私たちが生き残るためには逆らうことのできない・守らざるを得ない「掟」が存在しているとしても、やはり寂しいというべきか悲しい限りだ。日本のメディアも、フジだけではなく外資による株式取得によって、外資の圧力にさらされているのか、外資とその外圧の抱える問題には踏み込もうとしないのだ。これではメディアの報道責任など取れるわけがない。勿論、こんなエラソーな物言いができるのも、私が既に実戦からほど遠い地点で生きているからに他ならないのは、私も痛いほどに自覚している。




(最後に一言)


 正直、どうしてこんな日本になってしまったのだろうか、と私のような「システム」論者のシステム人であるはずなのに、エラク・痛く、「日本」を「保守」したい気持ちで一杯なのだ。だが、そんなことを言っても、もはや保守すべき日本などは存在してはいないに等しい。否、関係論の立場で物をいう私はそんなことを言えるはずもないのだが。とにかく、最近の私は以前のオカシイ私とは少し違っておかしくなってきたようだ。今回記事はこの辺で終わりとしたい。



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「ジャニー喜多川問題」は未だ終わってはいない。そのツケの一つとして、今回の「フジテレビ騒動問題」

2025-01-29 | 日記
「ジャニー喜多川問題」は未だ終わってはいない。そのツケの一つとして、今回の「フジテレビ騒動問題」が浮上したのではあるまいか。その関連で言うならば、「東京裁判問題」も「ニュルンベルク裁判問題」も未だ終わってはいない。そのツケは~私の語る「システム」論から、自由、民主主義、人権、法の支配等の「普遍的価値」を世界の隅々へと拡大する(過去から現在に至る)歩みとしての「普遍主義」として描かれる(ア){[A]→(×)[B]→×[C]}(1970年代まで)と(イ){[B]→(×)[C]→×[A]}(1970年代以降から現在)における「経済発展(衣食足りての営為)」と「民主主義の発展(礼節を知るの営為)」の関係の「グローバル化」の中で引き起こされる、ありとあらゆる世界的紛争という「災厄」に、私たちは未だ巻き込まれているということを、改めて再考するとき(続・続)


*これまでの記事内容において、とくに大事な点を、箇条書きにしてまとめておきたい。


1、私たちは「歴史」を見るとき、自由、民主主義、人権、法の支配といった「普遍的価値」(とその実現の歩みとしての「普遍主義」)と「帝国主義」との両者の関係を、「水」と「油」の関係として位置付け理解してきた。


2、私はこの両者の個別に分離独立した事象として位置付け理解されてきた関係を、両者の密接不可分な「一体的」関係として改めて位置づけなおしたのである。


3、その際、私が一番注意を払ったのは、2の内容を、言葉だけではなく、図式にしてその一体的関係を示したということである。この作業は、手前味噌ながらも、普遍主義に関する研究上における極めて重要な貢献として位置付け理解されてもいい。それに関して付言すれば、帝国主義的関係は、経済発展の次元において、民主主義の発展の次元において、また差別と排除の「親分ー子分」関係の集合体としての覇権システムの形成と維持と発展の次元において、それぞれ確認できるということである。さらに、これら三つの次元の帝国主義の関係は、相互に補完し合いながら、私の語る「一つ」の「システム」を構成しているのである。


4、3の作業によって、その後の覇権システムと(私の語る)〈「システム」とその関係の歩み〉におけるモデルとその図式を提示できたのである。


5、4の作業によって、私たちは覇権国の興亡史と、それを前提とした1970年代以前の「システム」の歩みと、それ以降の「システム」の歩みに関してもその「見取り図」を。モデルとして図式して描くことが可能となったのである。


6、5の作業を通して、今日の先進国の格差社会の抱える深刻な事態と、グローバルサウスの台頭との関係に関する分析視角と分析枠組みとを得ることが可能となったのである。


7、6の作業を介して、先進国は今では名ばかりの主権国家としての存在でしかなく、その内実はほとんど分裂・分解・融解した状態にあるとして位置づけ理解できる。


8、7の作業によって、私たちが今おこなっている政治論議にはほとんど意味はないことが理解できるのである。国会論戦を見ても、それははっきりとわかることだ。私たちが命と暮らしを守ることのできる主権国家・国民国家という器が。もはや消滅しかかっているにもかかわらず、それにほとんど誰も気が付かない・気が付いても見て見ぬふりをしたままに、無駄な話を繰り返しているのだから。


9、そんな中で、私たちは中国という次期覇権国の台頭を、すぐ横で体感することとなるのだ。この衝撃度というか、中国を筆頭とするグローバルサウスがつくり出す構造的圧力に対して、私たちはどれくらい耐えられるのか、我慢できるのかが、今後の私たちの重要かつ深刻な問題となってくるのである


10、今回のフジ問題を巡るフジ関係者のゴタゴタぶりと彼らの問題処理と解決に際しての能力の無さは、私たち「日本」と「日本人」の明日の惨状を映し出す鏡として位置づけ理解できるのである。フジ問題で問われているのは、覇権システムと「システム」に位置する「強者」が「弱者」の自己決定権を奪取できるという、私たち人間関係における差別と排除の「親分ー子分」関係を強烈に示したといっても過言ではあるまい。残念なことは、フジ関係者もメディア関係者も、フジ問題をこうした覇権システムと「システム」に体現される「力」(暴力)と「力」(暴力)のぶつかり合いを介した自己決定権の争奪戦といった観点から捉えることができないのである。




(最初に一言)


 前回記事からの続きとして、自由、民主主義、人権、法の支配といった普遍的価値の実現の歩みとしての普遍主義は、私たちの人間関係における差別と排除の「親分ー子分」関係の集合体としての覇権システムと(私の語る)「システム」を前提としているということに関して、その問題点を考察してみたい。結論を先取りして言えば、「そんな人権などオカシイ」ということだ。だが、同時にまた、私たちはそんな人権にもかかわらず、これまでその素晴らしさを謳い続けてきたし、おそらくこれからもそれは変わらないということである。




 本当ならば、本来ならば、フジ問題は先に指摘したような観点から議論されて然るべき問題であったのだが、私たちは一番のチャンスを自ら今回もまた捨て去るかのように行動しているのではあるまいか。フジ問題は、「人権」云々の問題に収斂される話では到底何のだ。フジの人権対応を世界基準ではないとして、フジに再度その見直しを迫ったのが米国の投資ファンドの存在であった。それゆえ、今回の問題で問われるべきなのは、この米国の投資ファンドとフジホールディングとの自己決定権の獲得とその実現を巡る差別と排除の「親分ー子分」関係と、先の「人権」問題を結び付けて語ることの重要性を指摘しておきたいのである。つまり、人権問題でフジにゆさぶりをかけている米国の投資ファンドに象徴される覇権システム(「システム」)と人権の両者の関係を考察することが、今回のフジ問題では何よりも大切である、と私は強調しておきたいのだ。


 残念ながら、やはりそれはスルーされてしまった。おかしなことだが、私たちが生きているこの社会では、それはおかしなことでも何でもなく、むしろ人権と覇権システムに象徴される差別と排除の「親分ー子分」関係の両者の関係を問い直す作業の方が、はるかにおかしいとされているのである。今回のフジ問題へのフジ関係者やそれを報道するメディア関係者のやり取りをネット記事で見る限りでは、もうこの辺でやめた方がいいと言うしかないのだ。私たちの手にしている人権は、強者が弱者を差別し排除するイジメの関係として示される「親分ー子分」関係としての帝国主義関係を前提として獲得されるものであるとの認識が共有されないところでの人権問題を巡る説明会は、フジ関係者以外にはほとんど関心の持てない次元の話に終始してしまうのは、最初から明らかではあるまいか。


 それにしても不思議ではあるまいか。もし「外圧」がなければ、これまで通りに、フジは被害女性の訴えを、あれやこれやの工作をしながら隠蔽しようと努めていたのだから。そして、ここに示される被害女性の訴えを、フジのみならず、他のテレビ局も黙認しようとしていたのだから。しかも、「何も知らされていなかった」、「知らなかった」というあの決まり文句でもって。そうした態度は、私たち日本社会にも共通してみられる「慣行」ではあるまいか。つまり日本の親分による子分に対するイジメがまかり通るのだ。それを、日本の政権党である自民党も、また総務省も他人事として済まそうとしていたのだから。それが、なんと日本の親分たちよりもさらに強い米国の親分の前ではただの子分と成り下がってしまい、あっという間に、これまでの無関心・冷淡さはどこに行ったのかと思えるほどに、「人権問題」が存在しているとして、取り上げられてしまうのだから。


 それゆえ、私にはこうした人権問題の取り上げ方がどうしても理解しがたいところとなる。米国社会においても、人権問題はないがしろにされている面が強いのだが、そんな米国の投資ファンドが、日本に対して人権問題の向き合い方が十分ではないとのクレームをつけてくるのだから。そして驚くことに、日本社会も、そんな「言いがかり」に唯々諾々と従うのだから。これには驚いてしまう。もうこの際、私たちは日本社会を解体して、より良く住みやすくなるための様々な「外圧」を世界各国に「公募」した方がいいのではあるまいか。それにしても、覇権システムの「親分ー子分」関係における「力」(暴力)の階梯と、人権の獲得とその実現における能力の階梯との間には、いかなる関係が存在しているのかについて、今回のフジ問題は私に再度、自問自答するように迫ったことは確かである。


 結論めいたことを言えば、覇権システムと「システム」において、「力」(暴力)の行使における能力の度合いが高いほど、人権の獲得とその実現の機会も高いということである。それは今回のフジ問題における米国の投資ファンドとフジとの間での人権問題を巡る騒動ではっきりとしたに違いない。少なくとも、私はそう言わざるを得ない。あまりにも面白くない結論だが、確かに現実社会ではそうなのだろう。それゆえ、本当であれば、この局面を、別の仕方で打開すべきであったのだ。だからこそなのだが、フジ関係者は、海外のメディア関係者も注目しているのだから、こうした人権と「親分」の行使する「力」(暴力)の関係を、フジ問題を介して、国内・外に発信すればよかったのだ。フジのテレビ局としての役割を果たせたはずだ。それこそ、イスラエルのパレスチナのガザ自治区に対する軍事侵攻に象徴される親分の力(暴力)の行使と、ガザ自治区における人権簒奪の状態との両者の関係は、その形を多種多様に換えながら、世界中の個々彼処でも垣間見られるということを、フジ問題を俎上に載せながら、発信することができていれば、再度の説明会は、もっと大きな反響と共感を呼び起こしたかもしれない、と私はみている。


 被害女性は既に実名を公表?していることを、私はネット記事から知っている。無論、フジ関係者も先刻、承知のはずだ。それがどうしてX氏となるのか。これも私には不可解だ。もう既に多くの者が知っているにもかかわらず、なのだ。これはもう原発事故後の対応とほとんど変わるところはないように、私には思えてしまう。やはり、相当に卑怯な態度だ。「被害女性をかばう」云々と言いながら、何度も何度も彼女の心身を傷つけているのではあるまいか。元々、被害女性の訴えからのフジ騒動などではない。外圧によるものだ。さらに、外圧を利用しながら、急いで労働組合員となったフジの社員には、被害女性の人権問題など、おそらくは二の次・三の次の問題でしかあるまい。彼らの今後の生活防衛のために、会見場に集まってきただけであろう。結局のところ、外圧を前にして、今後のフジ関係者はどのような生き残りを図るべきかが一番の問題であったはずだ。だからこそ、私は少し上で述べたように、テレビ局員としてのタテマエを、嘘でもいいから開陳すべきであったと思うのだ。


 勿論、そんなことはできるはずもない。外圧に直面する前には、日本のフジの親分に媚びへつらい、外圧の前でその親分が蹴散らされてしまうや、今度はその外圧の主である親分に媚びへつらうだけの、そのためのフジの元親分連中の吊し上げに奮闘して、その様を次の親分に見せることで、彼らの点数を稼いでいるとしか、私には見えないのである。本当に情けないとしか思われないのだが、無論、私もそんな情けないシステム人の一人だから、エラソーな物言いをするつもりはないし、ここまでの私の話は、私自身にも相当なダメージを与える内容なのだ。だが、それを踏まえてもなお、私たちは相当にヤバイ状態にあることを、今回のフジ騒動でも思い知らされたというのは、間違いないのだ。


 今回の被害女性の抱える問題は、私たちの人権状態の危うさを顕著に示しているのではあるまいか。私たちの社会は、人権は大切だと叫ぶのだが、それにもかかわらず、その人権がどのようにして実現されるに至ったかに関しては、ほとんど「無知」なのではあるまいか。私はそう言わざるを得ないのだ。今回記事でも述べているように、私たちの手にしている「人権」は、強者(親分)が弱者(子分)との関係を前提としながら、後者にに与えた「異議申し立て」としての自己決定権であるということだ。それゆえ、その人権は、強者間において、より強い強者の前では力を失うと同時に、弱者間において、より弱い弱者の前では、力を得るといった関係が見られるということである。何度も語ってきたように、今回のフジ騒動問題は、こうした脈略の下に置き換えて捉え直すことが、私たちには大切である、と私は強調しておきたい。




(最後に一言)


 私たちの「親分」は、政治の世界で言うならば、「内閣総理大臣」であると言えるかもしれない。だが、同時にまた、その世界はグローバルなボーダレスの世界でもあることから、フジの親分が、外圧の主に置き替わったように、私たちの政治の世界における親分も、敗戦直後からの親分の米国と並んで、中国が新たな親分となっていく感が、ますます強まっていくように、私には思われて仕方がないのだ。そうした一つの例として、今回記事の最後に、*として、ネット記事から私の注目した話を、引用貼り付けておきたい。読者には是非とも一読してほしい。




*ーーー記事の引用貼り付け、開始


「日本人は中国の若者を恐れている」との投稿に反響=中国ネット「正しい状態」「日本に憧れなんて…」
Record China によるストーリー • 18 時間 • 読み終わるまで 1 分


「日本人は中国の若者を恐れている」との主張が、中国のネット上で話題になっている。
© Record China
「日本人は中国の若者を恐れている」との主張が、中国のネット上で話題になっている。


中国のSNS・微博(ウェイボー)で35万超のフォロワーを持つ時事ブロガーは26日、「先日、中年の日本人男性と話をする機会があったが、彼は現在の中国人、特に中国の若者の日本に対する態度にますます恐怖を感じていると言っていた。中国の若者が心の底から(日本を)軽蔑している点が、以前の中国人とは全く違うのだと言っていた」とした。


そして、「氏いわく、以前の中国人は日本人に対して(歴史上の)怒りや恨みを持っていたものの、同時に憧れも抱いていた。しかし、今の中国の若者たちは国内外どこで出会っても、日本人に対して軽蔑あるいは無視といった態度を示すことが多いのだそうだ。それはもはや怒りも憧れもない状態であり、『日本人なぞ感情を動かすに値しない』と考えているように感じられる、とのことだった」と振り返った。


また、「それはゾウがアリを気にせず、必要があればいつでも踏みつぶすことができると感じているようなもの。力の差が大きく、正面から見る価値もないと思っている。そのような態度が、日本人にとっては最も恐ろしいことだと彼(日本人)は言っていた。むしろ、中国人がもっと日本に注目し、日本に対して複雑な感情を抱いてくれた方が良いということだった」とつづっている。


この投稿は反響を呼び、中国のネットユーザーからは「それこそ正しい状態」「私は70年代生まれだが、まさにそのように日本を見ている」「日本に憧れなんて産毛ほどもないわ」「これ(中国人が日本を軽視あるいは無視すること)こそが正常」「怖い?ならそれが正しい」「彼の言う通りだ。(中国が日本を)無視することが最高」「歴史が正常な軌道に戻ろうとしているだけ」「日本は中国の金持ちの裏庭。その役割をしっかり果たせばそれでよし」といった声が上がった。


ほかにも、「現在の世界に中国が仰ぎ見たり、横に見たりする必要のある国があるか?」「われわれが仰ぎ見るのはわれわれの先人のみ」「米国はこれまでずっと他国をそういうふうに見てきたけどな」「その日本人に伝えてくれ。後数十年すれば、われわれは日本どころか米国も眼中になくなると」などと強弁するコメントが寄せられている。(翻訳・編集/北田)


Record China


ーーー記事の引用貼り付け、終わり



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