私の語る「システム」論から、差別と排除の「親分ー子分」関係の支配する社会の不都合な真実について、改めて考えるとき
(最初に一言)
やはり、しばらくは拙著をまとめることに集中したい。私は器用ではないので、一つのことにしか向き合えない。また、ほとんどのことはブログ記事で述べてきた。それで、今回記事は、米国映画の『ビーキーパー』(「養蜂家」)をもとにして、今の国際関係とそれを傍観せざるを得ない私たちの生き方について、少しだけ述べておきたい。
視覚障碍者の私にとって、映画を視聴することは数少ない楽しみの一つだ。勿論、昔のように画面ははっきりとしないし、途中で嫌になるのもしばしばだが、今回の映画は面白かった。とくに、「システム」は時として誤りを犯すので、どうしても「システム」の外側にいて「システム」内の秩序がおかしくなる時は、「女王蜂」であっても、働きバチによって殺されることになる云々のセリフ(吹き替え版)には。いたく感心した次第。
勿論、この話の含意は、「旧き良き時代の米国」というか、「秩序」が保たれていた今よりはましな時代があったという想定があるように、私には思われた。私からすれば、差別と排除の「親分ー子分」関係を前提とする覇権システムの中でつくられた米国社会における「よりましな秩序」云々それ自体が、おかしいというしかないのだが、それでも私たちの生きている現実の社会は、覇権国やその地位を目指す親分連中が支配する覇権システムであることを踏まえれば、よりましな「親分」という考え方をすべて否定することもできないことから、何とももどかしい限りだが。まあ、そんなヤボな話は少し横におくとして、先の映画の話に戻るとき、映画はとても面白かったし、何よりも「システム」の「内」と「外」に関する指摘は、私には興味深かった。
それを踏まえて言えば、現実の私たちの社会は、「親分」連中が支配している。そしてその親分に子分たちは容易には手を出せない。何か「政変」が起こるとすれば、それは私の語る「システム」の自己完結運動の下で繰り返される親分連中間での内輪もめか、闘争・戦争でしかない。その際、親分のコマとして命を失うのは子分連中である。いろいろな次元の「親分ー子分」関係はあるものの、それらは一つの覇権システムを構成しているのは確かである、と私はみている。
私たちもそれに気が付いているし、そのシステムで生きることの息苦しさもわかっているはずだ。だが、私たちはどんなにそれがしんどくても、「親分ー子分」関係の下でつくり出されてきた「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係を担い支えることを余儀なくされている。この「営為の関係も、それぞれの「親分ー子分」関係の支配する空間の次元に対応して、いろいろな次元の関係から構成されてはいるものの、それらは集積・集合されて一つの世界的な「衣食足りて礼節を知る」営為の関係となる。何度もこれまで述べてきたように、私たちはこの「衣食足りて(足りず)の営為の関係を、(世界)資本主義(システム)として、また「礼節を知る(知らず)」の営為の関係を、(世界)民主主義(システム)として、教えられてきたのである。
それゆえ、本来は、差別と排除の「親分ー子分」関係の支配する「力(暴力)」によって裏打ち・裏書された差別と排除の「秩序」の支配するシステムであるにもかかわらず、私たちはそうした「不都合な真実」から目を背けるのだ。今の世界を見渡すとき、ウクライナでもパレスチナのガザ地区でも。さらに世界の個々彼処で「人殺し」は起きているにもかかわらず、「人を殺してはいけない」「人を差別し、排除するのはいけない」等々のほとんど意味のない決まり切った話しか。私たちはしないのだ。イスラエルでのパレスチナ人に対する「ジェノサイド」は。私たちに「親分ー子分」関係の支配する世界の「秩序」と、私たちが享受してきた自由、民主主義、人権、法の支配、平和といった普遍的価値とその実現の歩みとしての普遍主義が、どのような関係にあるのかを、私たちに改めて教えてくれる「生きた教材」であったはずである。
*すぐ上の「生きた教材」の物言いは、さすがに躊躇したのだが、うわべばかりをとりつくるこれまでの私の人生を鑑みながら、このままの表現で済ませた次第。
私たちの嘘にまみれた社会の現実を、これほど見事に私たちにさらけ出したありとあらゆる面における「戦争犯罪」はないはずだ。ところが、私たちは、それを私たちの不都合な真実として学び直そうとはしないのだ。もうこの先は論及しない。何度も、この理由については述べてきたから。どうしようもない現実に私たちがもし向き合うことができるとすれば、先述した映画にあった私たちの今生きている「システム」の外側に少しでも離れることのできる生き方をするしかない、と私はみているし、これまたそれに関しても、いろいろと述べてきた。勿論、これまた相当に高いハードルであるのは間違いないのだが、トルストイの描いた「イワン」的人間として生きている人々も、現実に存在していることは疑いを得ない事実である。
(最後に一言)
「レンゲ草 独り善がりの 世を憂い」が、私の脳裏に自然と浮かんだ。レンゲ草の花言葉を知るとき、なんとも人間社会の愚かしさを痛感するばかりである。勿論、私もそうした人間社会を構成するシステム人の一人であるのは承知している。今の世界は、滅茶苦茶というか無茶苦茶であるように、私には見えるのだが、それはおそらく新しい世界秩序をこれから担い支える覇権システムの頂点に君臨する覇権国の交代劇が目下、進行中であり、そのために秩序を維持運営する力が世界全体に浸透するまでには、なお十分ではないからである。何度もこれまた述べてきたように、後20年弱近くは対内的・対外的な政治経済関係は、ぎくしゃくするに違いない。いずれにしても、私たちはこれから先も、今までと同じように、「おもしろきこともなき世をおもしろく」の心意気で彷徨うしかない、と私は思うのだ。健康寿命に達した私の結論としては寂しく感じるのだが、いついかなる時においても、そうした気構えだけは忘れたくはない。
(最初に一言)
やはり、しばらくは拙著をまとめることに集中したい。私は器用ではないので、一つのことにしか向き合えない。また、ほとんどのことはブログ記事で述べてきた。それで、今回記事は、米国映画の『ビーキーパー』(「養蜂家」)をもとにして、今の国際関係とそれを傍観せざるを得ない私たちの生き方について、少しだけ述べておきたい。
視覚障碍者の私にとって、映画を視聴することは数少ない楽しみの一つだ。勿論、昔のように画面ははっきりとしないし、途中で嫌になるのもしばしばだが、今回の映画は面白かった。とくに、「システム」は時として誤りを犯すので、どうしても「システム」の外側にいて「システム」内の秩序がおかしくなる時は、「女王蜂」であっても、働きバチによって殺されることになる云々のセリフ(吹き替え版)には。いたく感心した次第。
勿論、この話の含意は、「旧き良き時代の米国」というか、「秩序」が保たれていた今よりはましな時代があったという想定があるように、私には思われた。私からすれば、差別と排除の「親分ー子分」関係を前提とする覇権システムの中でつくられた米国社会における「よりましな秩序」云々それ自体が、おかしいというしかないのだが、それでも私たちの生きている現実の社会は、覇権国やその地位を目指す親分連中が支配する覇権システムであることを踏まえれば、よりましな「親分」という考え方をすべて否定することもできないことから、何とももどかしい限りだが。まあ、そんなヤボな話は少し横におくとして、先の映画の話に戻るとき、映画はとても面白かったし、何よりも「システム」の「内」と「外」に関する指摘は、私には興味深かった。
それを踏まえて言えば、現実の私たちの社会は、「親分」連中が支配している。そしてその親分に子分たちは容易には手を出せない。何か「政変」が起こるとすれば、それは私の語る「システム」の自己完結運動の下で繰り返される親分連中間での内輪もめか、闘争・戦争でしかない。その際、親分のコマとして命を失うのは子分連中である。いろいろな次元の「親分ー子分」関係はあるものの、それらは一つの覇権システムを構成しているのは確かである、と私はみている。
私たちもそれに気が付いているし、そのシステムで生きることの息苦しさもわかっているはずだ。だが、私たちはどんなにそれがしんどくても、「親分ー子分」関係の下でつくり出されてきた「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係を担い支えることを余儀なくされている。この「営為の関係も、それぞれの「親分ー子分」関係の支配する空間の次元に対応して、いろいろな次元の関係から構成されてはいるものの、それらは集積・集合されて一つの世界的な「衣食足りて礼節を知る」営為の関係となる。何度もこれまで述べてきたように、私たちはこの「衣食足りて(足りず)の営為の関係を、(世界)資本主義(システム)として、また「礼節を知る(知らず)」の営為の関係を、(世界)民主主義(システム)として、教えられてきたのである。
それゆえ、本来は、差別と排除の「親分ー子分」関係の支配する「力(暴力)」によって裏打ち・裏書された差別と排除の「秩序」の支配するシステムであるにもかかわらず、私たちはそうした「不都合な真実」から目を背けるのだ。今の世界を見渡すとき、ウクライナでもパレスチナのガザ地区でも。さらに世界の個々彼処で「人殺し」は起きているにもかかわらず、「人を殺してはいけない」「人を差別し、排除するのはいけない」等々のほとんど意味のない決まり切った話しか。私たちはしないのだ。イスラエルでのパレスチナ人に対する「ジェノサイド」は。私たちに「親分ー子分」関係の支配する世界の「秩序」と、私たちが享受してきた自由、民主主義、人権、法の支配、平和といった普遍的価値とその実現の歩みとしての普遍主義が、どのような関係にあるのかを、私たちに改めて教えてくれる「生きた教材」であったはずである。
*すぐ上の「生きた教材」の物言いは、さすがに躊躇したのだが、うわべばかりをとりつくるこれまでの私の人生を鑑みながら、このままの表現で済ませた次第。
私たちの嘘にまみれた社会の現実を、これほど見事に私たちにさらけ出したありとあらゆる面における「戦争犯罪」はないはずだ。ところが、私たちは、それを私たちの不都合な真実として学び直そうとはしないのだ。もうこの先は論及しない。何度も、この理由については述べてきたから。どうしようもない現実に私たちがもし向き合うことができるとすれば、先述した映画にあった私たちの今生きている「システム」の外側に少しでも離れることのできる生き方をするしかない、と私はみているし、これまたそれに関しても、いろいろと述べてきた。勿論、これまた相当に高いハードルであるのは間違いないのだが、トルストイの描いた「イワン」的人間として生きている人々も、現実に存在していることは疑いを得ない事実である。
(最後に一言)
「レンゲ草 独り善がりの 世を憂い」が、私の脳裏に自然と浮かんだ。レンゲ草の花言葉を知るとき、なんとも人間社会の愚かしさを痛感するばかりである。勿論、私もそうした人間社会を構成するシステム人の一人であるのは承知している。今の世界は、滅茶苦茶というか無茶苦茶であるように、私には見えるのだが、それはおそらく新しい世界秩序をこれから担い支える覇権システムの頂点に君臨する覇権国の交代劇が目下、進行中であり、そのために秩序を維持運営する力が世界全体に浸透するまでには、なお十分ではないからである。何度もこれまた述べてきたように、後20年弱近くは対内的・対外的な政治経済関係は、ぎくしゃくするに違いない。いずれにしても、私たちはこれから先も、今までと同じように、「おもしろきこともなき世をおもしろく」の心意気で彷徨うしかない、と私は思うのだ。健康寿命に達した私の結論としては寂しく感じるのだが、いついかなる時においても、そうした気構えだけは忘れたくはない。