私の語る「システム」論から、「多文化共生」を推奨する私たち社会の「共生」とはほど遠い厳しい内実を顧みるとき(続・続))
(最初に一言)
昨日のニュース報道で、千葉でホテルの従業員の女性が両手を縛られ暴行されて殺害されたとのこと。なんとも痛ましい事件だ。だが、私たちの社会はこうした暴力行使に対して、あまりにも甘すぎるのではあるまいか。
私は前回記事において、『護られなかった人々』に対する物心両面の支援が必要云々と書いていた。しかし、その際に私が述べていなかったことがある。正直なところ、こんな話はしたくはないのだけれども、やはり責任ある個人としての務めを果たすとすれば、誰も言いたくないようなことを語っておく必要があるはずだ。それゆえ、私は今回記事において、もしこうした殺人行為に手を貸した者がいれば、それが闇バイトであろうと否とにかかわらず、殺人を犯した犯罪者に対して、私たちの社会は厳罰をもって処すべきである、と。それゆえ、私は死刑か無期懲役、*あるいは懲役50ー100年が相当であると考えている。当然ながら、このような私の主張に対しては死刑廃止論者や人権擁護論者は元より、おそらくそんな暴論はいかがなものかとまゆを顰める人たちが多数存在しているはずに違いない、と私は推察している。
私もずっとこの問題について考えてきたのだが、不思議なことに民主主義社会における権力者は、凶悪犯罪の増加に伴い社会不安が強まる状況を前にしても、すぐさま死刑や無期懲役にすべしとの発言は差し控えるのが常識であろう。彼らはいわゆる世論に敏感であり、その声を前にしてあえて彼ら自身の考えや対策を自ら進んで離そうとはしない。そんなことをして議席を失ったり、権力を手放すことになれば、どうにもならないと知っているからだ。それゆえ、私たちの社会を見渡すとき、いつまでたっても中途半端な「成果」しか達成できないことになるのも仕方のないことだ。
それは『護られなかった人々』に対する物心両面の支援に対しても、同じことが言えるだろう。誰もが苦労しながらそれこそ歯を食いしばって生きている。それこそ「天は自ら助くる者を助く」の精神でこの社会を生き抜いているのだから、たとえ自分の力で人生を切り開いていけない者がいたとしても、それは彼ら自身の努力が足りないのだと考えるのだ。たとえ極貧の状態にあったとしても、そこから自分自身の力で富を蓄えることのできる人間もいるのだから、すべてを社会の問題に還元してはならないとみる者も多いのが現実だろう。そんな社会に生きている者にとっては、私の物言いはあまりにも甘いとみなされてしまうはずだ。
ここまでのくだりで、私は「あまりにも甘い」ととの表現を使っていることに読者は気が付かれたかもしれない。その一つは、私たちの社会が殺人を始めとした凶悪犯罪に対してあまりにも甘い云々の私の話というか批判である。そしてもう一つは、私が『護られなかった人々』に対する物心両面の支援というときに、私たちの社会の側からの私に対するあまりにも甘いという批判である。この両者はどのように関連・関係しているのだろうか。私は思うのだが、どんなに努力しても、それに呼応する成果を得られないものが出てくるのは致し方ない。もし彼らの中に、ジリ貧状態を抜け出すには盗みしかないと考えて行動するものが出てくるとすれば、自己責任論者は盗みを働いたものに対してどのような罪を求めるのだろうか。そこから、さらに殺人を含む凶悪犯罪者に対してはどうであろうか。この問題を考えるうえで、私は歴代の覇権国がどのようにしてその地位を獲得したのかの観点から接近してみたい。それと関連して、世の成功者として持ち上げられる大金持ちと言われる人たちは、どのようにして大金持ちとなったのかについても考えてみたい。
私がここで言いたいのは、覇権国とその利権・利害関係者は、すなわちその多くは世界の大金持ちというか超富裕層を構成した者たちであったのだが、常に暴力行為というか犯罪行為を介して、のし上ってきた歴史を歩んできたというのは言い過ぎだろうか。卑近な例として、今のイスラエルのパレスチナに対する殺人を始めとした蛮行的犯罪は、そしてロシアのウクライナに対する、またウクライナとそのバックに位置する欧米諸国のロシアに対する暴力行為というか殺人を含む犯罪行為は、巨万の富の創造に与っているのではあるまいか。「天は自ら助くる者を助く」とはヴィクトリア朝中期のサミュエル・スマイルズの『自助論』の中の一説だが、この自助を可能にしたのは当時の英国の大英帝国としての、また覇権国としての力というか暴力の存在と同時に、それを介した暴力行使・犯罪行為を前提としていたということを、私は強調しておきたいのである。
こうした点を鑑みれば、いわゆる世の成功者たちは、政治家も含めて、暴力行使や犯罪行為に対してはあまりにも甘いのは当然であるといえるだろう。なぜなら、彼らは自ら手をくだすことなく犯罪者の力を借りて目的を達成するであろうから、犯罪者とその予備軍に対しては甘くなるとみた方がいい。だが、そのために、その煽りというか被害を被るのは普通の国民であり、そうした犯罪の直接間接の被害者となる公算は高いというべきだろう。それゆえ、私たちは社会の中から犯罪者を生産・再生産しないような方途を、可及的速やかに講ずるべきなのだ。それにしても皮肉なことに、死刑廃止論者や人権擁護論者は、権力者の要請に従って暴力行使や犯罪行為に手を染めて普通の市民を殺傷した犯罪者を擁護すると同時に、アクドイ権力者たちの巣くう私の語る「システム」の維持と発展の良き協力者となってしまうのだ。
それゆえ、私は言わなければならない。『護られなかった人々』の側に寄り添うと同時に、凶悪な暴力行使や犯罪行為に対しては厳罰をもって臨むべきことが肝要である、と。中途半端な立場ではどうにもならないことを肝に銘ずる必要があるのだ。こうした立場というか姿勢を、今後ますます「システム」の低度化が進展・深化するかつての先進諸国に暮らす私たちが保持できるかどうかによって、私たちの社会の中での生活上の安全保障を少しは実現できるのではないか、と私はみている。いずれにしても、イバラの道であることは間違いない。私たちは私たちのすぐ横で、ひたすら助けを乞うている者たちの姿を、明日の我が身であるとは想像し難いのだろうが、少し立ち止まって考えてほしいものである。
(最後に一言)
記事を書きながら、これまでいろいろと思案していたことに改めて気が付いた次第。冤罪事件やそのほかにも簡単には白黒の付かない問題はあるのだが、誰の目にも明らかに許しがたい凶悪犯罪者だとすれば、を議論の前提として論を展開したのだが、私たちの社会は権力者というか、「システム」の維持と発展に与る者たちに本当に都合のいいように、上手くつくられている、と毎度のことだが実感するばかり。。同じ殺人行為だとしても、平時と戦時では違うとか、言い出せばそれこそきりがなくなる。とにかく歯がゆい思いしか残らないこの世の中だが、それでもまたまた朝がそこに来ているといった感。
(最初に一言)
昨日のニュース報道で、千葉でホテルの従業員の女性が両手を縛られ暴行されて殺害されたとのこと。なんとも痛ましい事件だ。だが、私たちの社会はこうした暴力行使に対して、あまりにも甘すぎるのではあるまいか。
私は前回記事において、『護られなかった人々』に対する物心両面の支援が必要云々と書いていた。しかし、その際に私が述べていなかったことがある。正直なところ、こんな話はしたくはないのだけれども、やはり責任ある個人としての務めを果たすとすれば、誰も言いたくないようなことを語っておく必要があるはずだ。それゆえ、私は今回記事において、もしこうした殺人行為に手を貸した者がいれば、それが闇バイトであろうと否とにかかわらず、殺人を犯した犯罪者に対して、私たちの社会は厳罰をもって処すべきである、と。それゆえ、私は死刑か無期懲役、*あるいは懲役50ー100年が相当であると考えている。当然ながら、このような私の主張に対しては死刑廃止論者や人権擁護論者は元より、おそらくそんな暴論はいかがなものかとまゆを顰める人たちが多数存在しているはずに違いない、と私は推察している。
私もずっとこの問題について考えてきたのだが、不思議なことに民主主義社会における権力者は、凶悪犯罪の増加に伴い社会不安が強まる状況を前にしても、すぐさま死刑や無期懲役にすべしとの発言は差し控えるのが常識であろう。彼らはいわゆる世論に敏感であり、その声を前にしてあえて彼ら自身の考えや対策を自ら進んで離そうとはしない。そんなことをして議席を失ったり、権力を手放すことになれば、どうにもならないと知っているからだ。それゆえ、私たちの社会を見渡すとき、いつまでたっても中途半端な「成果」しか達成できないことになるのも仕方のないことだ。
それは『護られなかった人々』に対する物心両面の支援に対しても、同じことが言えるだろう。誰もが苦労しながらそれこそ歯を食いしばって生きている。それこそ「天は自ら助くる者を助く」の精神でこの社会を生き抜いているのだから、たとえ自分の力で人生を切り開いていけない者がいたとしても、それは彼ら自身の努力が足りないのだと考えるのだ。たとえ極貧の状態にあったとしても、そこから自分自身の力で富を蓄えることのできる人間もいるのだから、すべてを社会の問題に還元してはならないとみる者も多いのが現実だろう。そんな社会に生きている者にとっては、私の物言いはあまりにも甘いとみなされてしまうはずだ。
ここまでのくだりで、私は「あまりにも甘い」ととの表現を使っていることに読者は気が付かれたかもしれない。その一つは、私たちの社会が殺人を始めとした凶悪犯罪に対してあまりにも甘い云々の私の話というか批判である。そしてもう一つは、私が『護られなかった人々』に対する物心両面の支援というときに、私たちの社会の側からの私に対するあまりにも甘いという批判である。この両者はどのように関連・関係しているのだろうか。私は思うのだが、どんなに努力しても、それに呼応する成果を得られないものが出てくるのは致し方ない。もし彼らの中に、ジリ貧状態を抜け出すには盗みしかないと考えて行動するものが出てくるとすれば、自己責任論者は盗みを働いたものに対してどのような罪を求めるのだろうか。そこから、さらに殺人を含む凶悪犯罪者に対してはどうであろうか。この問題を考えるうえで、私は歴代の覇権国がどのようにしてその地位を獲得したのかの観点から接近してみたい。それと関連して、世の成功者として持ち上げられる大金持ちと言われる人たちは、どのようにして大金持ちとなったのかについても考えてみたい。
私がここで言いたいのは、覇権国とその利権・利害関係者は、すなわちその多くは世界の大金持ちというか超富裕層を構成した者たちであったのだが、常に暴力行為というか犯罪行為を介して、のし上ってきた歴史を歩んできたというのは言い過ぎだろうか。卑近な例として、今のイスラエルのパレスチナに対する殺人を始めとした蛮行的犯罪は、そしてロシアのウクライナに対する、またウクライナとそのバックに位置する欧米諸国のロシアに対する暴力行為というか殺人を含む犯罪行為は、巨万の富の創造に与っているのではあるまいか。「天は自ら助くる者を助く」とはヴィクトリア朝中期のサミュエル・スマイルズの『自助論』の中の一説だが、この自助を可能にしたのは当時の英国の大英帝国としての、また覇権国としての力というか暴力の存在と同時に、それを介した暴力行使・犯罪行為を前提としていたということを、私は強調しておきたいのである。
こうした点を鑑みれば、いわゆる世の成功者たちは、政治家も含めて、暴力行使や犯罪行為に対してはあまりにも甘いのは当然であるといえるだろう。なぜなら、彼らは自ら手をくだすことなく犯罪者の力を借りて目的を達成するであろうから、犯罪者とその予備軍に対しては甘くなるとみた方がいい。だが、そのために、その煽りというか被害を被るのは普通の国民であり、そうした犯罪の直接間接の被害者となる公算は高いというべきだろう。それゆえ、私たちは社会の中から犯罪者を生産・再生産しないような方途を、可及的速やかに講ずるべきなのだ。それにしても皮肉なことに、死刑廃止論者や人権擁護論者は、権力者の要請に従って暴力行使や犯罪行為に手を染めて普通の市民を殺傷した犯罪者を擁護すると同時に、アクドイ権力者たちの巣くう私の語る「システム」の維持と発展の良き協力者となってしまうのだ。
それゆえ、私は言わなければならない。『護られなかった人々』の側に寄り添うと同時に、凶悪な暴力行使や犯罪行為に対しては厳罰をもって臨むべきことが肝要である、と。中途半端な立場ではどうにもならないことを肝に銘ずる必要があるのだ。こうした立場というか姿勢を、今後ますます「システム」の低度化が進展・深化するかつての先進諸国に暮らす私たちが保持できるかどうかによって、私たちの社会の中での生活上の安全保障を少しは実現できるのではないか、と私はみている。いずれにしても、イバラの道であることは間違いない。私たちは私たちのすぐ横で、ひたすら助けを乞うている者たちの姿を、明日の我が身であるとは想像し難いのだろうが、少し立ち止まって考えてほしいものである。
(最後に一言)
記事を書きながら、これまでいろいろと思案していたことに改めて気が付いた次第。冤罪事件やそのほかにも簡単には白黒の付かない問題はあるのだが、誰の目にも明らかに許しがたい凶悪犯罪者だとすれば、を議論の前提として論を展開したのだが、私たちの社会は権力者というか、「システム」の維持と発展に与る者たちに本当に都合のいいように、上手くつくられている、と毎度のことだが実感するばかり。。同じ殺人行為だとしても、平時と戦時では違うとか、言い出せばそれこそきりがなくなる。とにかく歯がゆい思いしか残らないこの世の中だが、それでもまたまた朝がそこに来ているといった感。