私の語る「システム」論から、「システム」とその下位システムの「支配(管理)の手段・道具」としての「役割」を担った人文・社会科学の「知」を問い直すときー「歴史叙述の神話」を打破するための「起点」となるのは?
(最初に一言)の前に、私の目指そうとしている「終着点」を、人間の「生き方」としてイメージするとき、それは「革命」的生き方でも、「反稿」的生き方でもなく、やはり「イワンの馬鹿」的生き方だろう。もっとも、「言うは易し行うは難し」、に間違いないことだが。
前回記事で紹介したサルトルと彼が依拠したマルクス主義の「革命」的生き方や、それに反対・拒否の姿勢を示したカミュの「反抗」的生き方を巡る「論争」なり「問題」は、ある意味において、戦後の日本の知識人による「あの戦争」を巡り提起された第2次世界大戦とも重なるあの戦争に関して規定された「三つの性格」で描かれたあの戦争へと至る日本の歴史を巡る論争なり問題とも密接に関連するものとして、私は理解している。
すなわち、そこでの戦争の規定は、①帝国主義国と帝国主義国の戦争、②民主主義を擁護しようとした「デモクラシー」を掲げる国と、その民主主義を破壊しようとした「ファシズム」を掲げる国の戦争、③植民地や従属地にされた諸地域における民族解放と独立を求めての戦争、としての三つに分類されていたが、それぞれの性格を相互に関連付けて、全体像を描くというものではなかったことから、歴史のある面には日が当たり、逆にある面は看過されたままであった、と私は理解している。
そうしたことから、サルトルとカミュの戦争を巡る「歴史」認識に関する論争となって、両者の対立の溝は深まったのだろうが、それにもかかわらず、サルトルも、マルクス主義者も、カミュも、「同じ歴史」を当然の前提として「共有」して生きていたことは間違いなかろう。その意味においては、彼らの論争は、その共有する歴史空間を、少しでもよりましな居心地の良い空間とするための論争であって、決してその空間を別の空間へと移し替えることを意図しておこなわれたものではなかったと、私はみているのだ。その点では、彼らも、日本の知識人と同様に、第二次世界大戦を位置付け理解していたのではあるまいか。
こうした点を踏まえて、さらに付言すれば、サルトルとカミュの論争は、①②③に関する位置づけ方と理解の仕方において、フランス一国を前提とした「一国枠」に依拠して、そこから捉えられる自由主義・民主主義や帝国主義や全体主義、植民地等の問題を、相互に関係・関連付けないままで、それらを個別の問題として、もっぱら考察していたのはいなめないのではあるまいか。そうした「知」的営みは日本の『昭和史』の中にも垣間見られるように、日本の知識人も同じであった。
単刀直入に言えば、②の自由主義・民主主義と①の帝国主義の歴史は、水と油の歴史として位置付け理解された。③の植民地における宗主国の支配からの解放・独立を求める歴史は、宗主国の②の自由主義・民主主義の歴史と結び付けられないままで、宗主国の①の帝国主義の歴史と、もっぱら結び付けられて考察されたのだ。それゆえ、独立した植民地が、宗主国と同様な自由主義・民主主義の歴史をたどることには何の違和感も抱かれないままに、むしろ歓迎されるという様相を帯びていた。
こうした歩みは、自由主義陣営に限定されるものではなかった。もう一つの民主主義のモデルとされたソ連の社会主義をモデルとして、戦後の植民地から独立した国家がソ連型を目標とする道を切り開いた。そこには、自由主義陣営であれ、社会主義陣営であれ、ファシズム体制を打倒することでは協力した二つの民主主義体制の下で、戦前・戦中の植民地や従属地に展開された差別と排除の関係の下での収奪と人権蹂躙の歩みが、まるで夢であったかのような世界の支配的見方によって煙幕を張られたような光景が出現していた、と私はみている。
こうした米国に代表される自由主義・民主主義陣営と、ソ連に代表される社会主義陣営が、戦前・戦中に植民地や従属地とそこに暮らす人々におこなってきた歴史は、すぐ上で紹介した第二次世界大戦(「あの戦争」)を特徴づけるとされた①②③のような位置づけ方・理解の仕方からは、どうしても弾き飛ばされてしまい、それゆえ、私たちが戦争を的確に理解するのを妨げることにもなるだろう。
もう少し簡潔に言えば、先の戦争の位置づけ方・理解の仕方では、私たちが知りたい本当の問題には答えてくれないのだ。すなわち、そもそも何故、自由主義や民主主義を標榜する国が自由や民主主義や人権、平和や法の支配といった普遍的価値を自ら否定するように、植民地や従属国をつくり出し、そこに暮らす多くの人々の人権を、平然と踏みにじってきたのか、という問いに対して、私はこれまで、欧米や日本の知識人から、「まともな返答」を受け取ったことはない。
そこで、私自身でもって、これまでその理由を考え、考えてきたのだ。私の語る「システム」論で、私が提示した図式で描かれるモデルとそこで示された覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムとそれを支える様々な「関係」とそれをもとにしてつくられてきた〈「システム」とその関係の歩み〉こそが、先の私の問いかけに対する答えとなっている。
それゆえ、私には、私の語る「システム」とそれを構成する覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムとそれらを結びつけている無数の「関係」から、少しでも離れたい、距離を取りながら生きたいものだと、それこそ頭の中だけの話ではあるのだが、悪戦苦闘の連続の中で、今までとは異なる「知」の在り方を哲学・思考してきたのだ。
こんな私には、サルトルもカミュも、この「システム」の関係を結局のところは支えざるを得ないとして捉えられるのだ。たとえ革命であろうが反抗だろうが、その知的営為では、この「システム」とその関係を、ますます複雑化することに与るだけだ、と私にはみえる。誤解のないように、私は彼らを責めているわけでもないし、批判や非難するつもりもさらさらない。私自身も何もできないままで、ただ頭を抱え込んでいるにすぎないのだから。
だが、それを断った上で、私が言いたいのは、私の語る「システム」とその「システム」を支える覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムの間に張り巡らされた「関係」から、少しでも離れる生き方がまったくないわけでもないことは、これまでのブログ記事でも述べてきた。勿論、それは国家の安全保障の問題には「ただ乗り」する結果となってしまい、身勝手だとの批判や非難にも直面するであろうが、それは致し方ない。だが、だからと言って、下を向くこともない。覇権システムを構成する「国家」は、それが自由主義・民主主義国家であれ、社会主義国家であれ、決して私たちを守ってくれない、否、そもそも守れないのは、重々承知しているから。
とにかく、もう時間はあまり残されてはいない。これから以下の私の提言というか話は、もう私自身で取り組めない問題を、それこそ誰かに「託したい」との思いで述べている。その点では、あまりにも無責任な物言いなのだが、後生だから、聞いてほしい。
私たちが取り組むべき最初の目標は、先ずは閉校・廃校となった小学校、中学校、あるいはそれに代わる施設等を拠点として、そこで共同体づくりのノウハウを、お互いが学習しながら、共同体のモデルを提示できるところまでが第一歩となる。今後の自然災害等とそれに伴う次の原発事故等の影響も踏まえながらの土地探しは重要な問題となる、
同時に、全国の農山漁村で、こうした試みが可能な地域を探しながら、横の連携を図っていく。これは第二歩の目標となる。そして、そのネットワークづくりを、日本のその他の地域、そして世界へと拡大していくことを、第3歩の目標として位置付けておく。
おそらく、有機農業や自給自足的農業の従事者の中には、既にこうした試みを展開している人も存在しているのではあるまいか。そうした情報作成や発信は、既にネットで検索できるのかもしれないが、これについても、私は勉強不足だから、調べないと。先にもう行動している人から教えてほしいのは、こうした運動において、気を付けなければならない点や、なお手付かずの問題があればそれについても、教えてほしい。ただ、そうは言うものの、これまで私が自分なりにわかっているのは、未だに、そうした共同体づくりに向けての「ネットワーク」形成すら、できていない?ということだ。
そのための実践・実戦的目標として、日本に暮らす人の「3分の1」が、それこそ「土に立つ者は倒れず土に活きる者は飢えず土を護る者は滅びず」の旗じるしの下に結集した「共同体」を生活の基盤として生きていくことが求められるのではあるまいか。これについては、私のブログ記事の最初の方(〈オニクタラムの「感じる心」は何故、ーー(3)「天下三分の計」?〉で語っている。今回記事の一番最後の(付記)に貼り付けておくので、よければ参照してほしい。いずれにせよ、私の語る「システム」の中にいながらも、その中で何とかして、差別と排除の関係を少しでも軽減できるような、そんな生活空間づくりを目指したい、と頭の中だけでは、今もそう考えている。
少し前置きが長くなって申し訳ないが、それではいつものように、話を始めていきたい。
(最初に一言)
前回記事で、私が最後のくだりで述べていたのを、もう一度今回記事の冒頭で紹介しておきたい。私は次のように述べていた。すなわち、ーーー私に言えることは、これもこれまで何度も述べてきた話だが、{[Aの衣食足りて]→[Bの衣食足りて・足りず]→[Cの衣食足りず]}の営為と、{[Aの礼節を知る]→[Bの礼節を知る・知らず]→[Cの礼節を知らず]}の営為の関係を前提としたままで、別言すれば、その関係を不問に付したままで、「知」的探求を繰り返すだけの「哲学」に、はたして私たちの未来を語る資格はあるのだろうか。ーーー、と。
私の知的探求の、まさに出発点となるのは、私たちがこの世に生を受けた瞬間に、私たちの好むと好まざるとにかかわらず、〈{[Aの衣食足りて]→[Bの衣食足りて・足りず]→[Cの衣食足りず]}の営為と、{[Aの礼節を知る]→[Bの礼節を知る・知らず]→[Cの礼節を知らず]}の営為の関係〉の中で生きることを強いられるという、「不条理」極まりのない「世界・セカイ」なのだ。
もう何度も、モデルの図式に関して説明してきたが、今一度ここで説明しておきたい。このモデルは、15世紀から1970年代に至る〈「システム」とその関係の歩み〉を描いている。この図式にあるような関係が現実化したのは、1940年代の後半から1970年代前半の本の一時期に過ぎないのだが、差別と排除の関係から構成される「システム」の実態・実情をわかりやすく紹介するために、便宜上、私はこのモデルを使っていることを、再度ここでも断っておきたい。。
図式の一番外側の記号である{ }は、覇権システムを示している。A、B、Cの外側にある記号[ ]は、主権国家、国民国家を示している。なお、この記号は、すべて同じではない。Aにおいては分厚く(ボーダ・フル)、Cにおいては薄くなっている。植民地や従属地の段階では、ボーダ・レスの、つまり記号の[ ]は存在していない状態で、ある。
そして、私は、私たちが生きている、暮らしている「システム」の空間を、国家を単位とした国家間の関係から成る「インター・ナショナリズム」としての空間と、国家の中の個人間・集団間の関係から成る空間の、二つに区分して、前者を「世界」として、後者を「セカイ」として、それぞれ位置付け理解している。以上である。
さて、私は前回記事で紹介した、私の「何故」を巡る知的探求の起点として、上述した二つの営為の関係を指摘したが、これも読者にはすでにわかるように、一つのモデルに、すなわち、{[Aの衣食足りて→礼節を知る]→[Bの衣食足りて・足りず→礼節を知る・知らず]→[Cの衣食足りず→礼節を知らず]}の営為の関係に、置き換えられるのだが、ここでも、わかりやすくするために、二つに分解していることを、断っておきたい。
私は、このモデルで描いた図式の営為の関係を起点とすることによって、これまでの私たちが享受してきた人文・社会科学の「知見」がどれほど役に立たないのか、つまりは、私たちの命と暮らしを守る安全保障に何の支えとなるものではないことを、改めて理解した次第なのだ。その一端を、前回記事でのサルトルやマルクス主義の「歴史」の位置づけ方・理解の仕方と結び付けて、論述したのである。
私の「何故」を巡る知的探求の起点を前提とするとき、私にはもう、これまでの人文・社会科学の「知」的営みを理論的「武器」としたところで、私の語る「システム」の「打倒?」とか「解体?」を念頭においたとき、まったく何の役にも立たないことを、その入り口にすら立てないことを、残念ながら悟ったのだ。
取り分け、寂しく思ったというか感じてしまったのは、政治学や経済学研究者の「民主主義」論が、どれほど安易で惰眠を貪り続けた挙句の情けない成果に安住したそれであるということに、気がついた時であった。これも何度も指摘しているのだが、ハーバード白熱講義での「民主主義を取り戻せ!」云々の話は、さすがにもう、私には絶句であった。格差に呻吟する米国社会の解決方法として、米国の民主主義が最も輝いていた1950、60年代の民主主義を復活しよう。取り戻そうであったからだ。
失礼ながら、彼らは、私に言わせれば、民主主義なるものが、すなわち、普遍的価値としての民主主義が現実にどのような関係の下で実現してきたか(普遍主義)に関する研究や考察など、ほとんどしてこなかった連中である、と揶揄されても仕方がないだろう。私の起点であるあの二つの営為の関係とその歩みを、少しでもわかるものならば、そもそもこんな問い掛けなどはしないし、できないことを重々承知しているはずだからだ。
それに関して補足説明しておく。第二次世界大戦後の米国は、パックス・アメリカーナの全盛期を迎え、米国を覇権国とした覇権システムの中で、世界資本主義システム、世界民主主義システムの維持と発展に与るA、B、Cの関係から構成される差別と排除の関係を前提とする「システム」のB、Cに対する支配と従属を深化させる中で、Aのトップに位置した米国は、いわゆる民主主義の黄金時代を迎えることができたのである。
「システム」のこの関係を前提として享受できていた米国の民主主義は、1970年代以降の「システム」の構造転換とその変容にともない、いまや{[B]→(×)[C]→×[A]}におけるAの地点の「民主主義の発展」の段階を迎えているのだ。その段階の特徴は、これまで享受できていた自由や民主主義、人権、法の支配の面での自己決定権に関わる能力における段階の「低度化」により特徴づけられている。
すなわち、米国社会に存在していた分厚い中間層の解体とそれに伴う社会の分極化と少数の持てるものと多数の持たざる者との格差の深刻化する社会が長期にわたり表面化してくる。この背景には、これまでAに位置した米国が、BやCに位置した諸国とそこに暮らす人々を差別し排除することで手に入れていた米国社会における民主主義の素晴らしさが、1970年代以降から今日に至るまでの「システム」の構造転換とその変容により、今度はB、やCに位置する諸国とそこに暮らす人々が彼らの民主主義の発展における「高度化」の実現へと向かう歩みによって、Aに位置した米国の民主主義の発展における低度化への歩みが顕在化する、そうしたBやCによるAに対する差別と排除の関係がつくられていくことが
与っているのである。
それゆえ、私たちが簡単に民主主義を取り戻せという場合には、こうした関係それ自体も同時に、取り戻すことを必要とすることを理解できたなら、今後はもう、そのような戯言を言うこともないであろう。だが、ところがなのだ。ノーベル経済学賞を受賞した研究者たちが(たとえば、クルーグマンもそうであったが)、平然とこんな話を繰り返しているではないか。
しかもBS・NHKの番組で何度も取り上げられていた。またメディアでもこんな類の話が、またか、またかの報道としておこなわれている始末。まったく変わらないのだ。今のコロナ報道にしても、水道の民営化問題に関しても、種子・種苗法を巡る法改正の動きにおいても、「多様な価値の尊重」どころか、ただ一つの価値とその実現に向けての動きのみが強調されているだけではあるまいか。これを異様と呼ばずして、何と形容すればいいのか。
まあ、今さら驚くようなことでもない。これまで私の語る「システムとその関係の歩みの中で、何の疑いもなく、面白おかしく生きてきた、いや、それすら許されなかったのかもしれないし、たとえ疑ってみたところで、少し声を発したところで、どうにもならないことばかりではないか。
そんな想いを、私や他の人たちも共有して生きているに違いない、と私は勝手に誤解しながら、それでもその誤解に救われて、これまで生きてきていることは、間違いない。事実、誤解ではなく、正真正銘、いまだに戦い続けている「虐(しいた)げられた人々」が、悪戦苦闘の日常生活の連続の中で、静かに闘い続けている、まさにそうなのである。
私は、そんな彼らから力をもらいつつ、ダメモト精神で何とかして、「システム」に向き合うことのできる「知」を追い求めてきたのだが、私の頭ではやはりどうにもならないかとの情けない思いをズーット抱きながらも、それでも何とかして探し求める一日一日を大切にして、ここまで這(は)い蹲(つくば)ってきたというところだ。
(最後に一言)
とにかく、もうこれからは、私の、と言うよりは、私の夢を受け継いでくれる誰かの「夢」に向けての実践・実戦をとおして手にできる「知」の他には、それほど期待のできる知は獲得できそうにもないように思われるのだが、それでも、なおこれからも、「知」的探求の旅をやめるわけにもいかないことも、また然りというところだろうか。。
(付記)
(2014,2,20)のブログ記事
〈オニクタラムの「感じる心」は何故、ーー(3)「天下三分の計」?〉
みなさん、おはようございます。今日もお互い、しっかり生き抜きましょう。息抜きですよ。
前回のモデルの紹介。呆れましたか。ごめんなさいね。まだ頑張ってますよ。でもやっとあの頃よりは、もう少し、わかりやすく説明できるようになったんじゃないですか。とにかくごめん。
私も「感じる心」を持たないといけませんね。
それで、今日はおそらく、まだモデルについての話をすべて読んでないと思うので、ごくごく簡単に何をこれから話したいのか、また何のために、に注意して今日は以下の概要のみで終了。ごめん、同じ話の繰り返しですが、辛抱してください。みなさんの後輩がまた新しく4月から加わりますので、そのための準備もあります。
「マルクス主義」の「感じる心」は
(ヨーロッパ、欧米=中心を単位)
「従属論」の「感じる心」は
(「中心ー周辺」を単位)
「世界システム論」の「感じる心」
(「中心ー半周辺ー周辺」を単位)
「構造的暴力」論の「感じる心」は
護憲論者の「感じる心」は
広瀬隆さんの「感じる心」は
革新政党の「感じる心」は
こうした点を頭に置いて、これからの話を聞いてください。
その際、留意して欲しいのは、従来の議論は、資本主義を「一国(地域)」枠、「二国(地域)」枠、「三国(地域)」枠の違いはあれ、そうした資本主義が抱える格差というか、差別と排除の関係とそこから導かれる問題の解決に、「感じる心」を包み込んでいる、含み込んでいるはずの自由、民主主義、人権、平和といった「普遍的価値」を手にしながら、簡単に言えば、日本国憲法とその第9条を掲げて、資本主義の生み出す問題を、例えば今日の格差問題とかを解決しよう、是正しようと考えてきたし、またそれは可能だとしてきたんですね。
それがなおできないのは、普遍的価値とその実現の歩み(普遍主義)が現実に十分に適応・展開できていない、換言すれば、憲法が十分に守られていないと考えて、その実現運動というか、護憲運動に邁進してきたんですね。
私はこれ自体、また問題だったとみていますが、それでも1970年代までは、なんとか存(ながら)えることに成功した、しかしながらその反面、原発問題や基地問題に背を向け続けてきた、あるいはそうならざるを得なかったんじゃないかと。
こうした見方に対して、私は、その「感じる心」というか、それを内包した普遍的価値、これまで私は特にその民主主義を取り出して論及してきましたが、それ自体が、資本主義と関係しながらも、つまり簡単に言えば「存在が意識を規定する」というような見方ですが、その意識というか普遍的価値が、そうした資本主義との関係から独立して、普遍的価値それ自体の関係を、歴史的に形成し、発展させてきたんじゃないかと考えたんですね。意識というか思想やイデオロギーの次元だけではなく、「史的システム」の次元においても、つまり「感じる心」を含む普遍的価値自体も、「史的システムとしての資本主義」と同じように、格差というか差別と排除の関係をつくり出して来た、あるいは創り出されていると。(平仮名と漢字の違いの意味はありません)
それゆえ、いくら「犠牲のシステム」(高橋哲哉)が存在しているとしても、例えば高橋が指摘している東京と福島、日本本土と沖縄の関係ですね、そのシステムが抱える問題を解決するために、普遍的価値を思想的武器として掲げて、例えば、アメリカがそれをかつての日本や、イラクやアフガニスタンに「押し付け」たように、介入しても、それ自体が差別と排除の関係とそこから導かれる問題を抱えている以上、もはやどうにもならない、と私は主張してきたんですよ。これに対して、高橋自身もこの点は深く追求しなかった。
それゆえ、護憲派には都合のいい著作となった。ごめん、名前が出てこないが、他の著者の『民主と愛国』の本も護憲派を勇気づけた。私はその枠組み自体に何か違和感を抱いたし、それについて拙論で言及したことがある。
つまり、資本主義というか、「衣食足りて(足りず)」の営為の関係が「犠牲のシステム」であると同じように、民主主義というか、「礼節を知る(知らず)」の営為の関係も、「犠牲のシステム」なんだということが言いたかったんだ。二重の「犠牲のシステム」で、その二重のシステムが相互に「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の「一つ」の営為の関係を構成するシステムになっていると。さらに、ここに「覇権国・親分-周辺国・子分」の関係から成る覇権システムという犠牲のシステムが加わるから、正確には「三重の〈犠牲の〉システム」ということになるのだが。
ごめん、みんなに話を聞いてもらっているようで、つい丁寧な言葉遣いができなくなって。
それじゃどうする、ということなんだが、就職して働いたら嫌というほどわかるだろうけど、ホンマどうしようもないことだらけ。どうにもならない。
それを踏まえて、都知事選を例に挙げてみたい。
簡単に言うと、立場は二つある。第1は、これまで同様に、「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係史を前提としながら、先の話に従えば「一つの」「犠牲のシステム」に留まりながら、護憲を推進する、あるいは改憲を主張する従来型の生き方。革新政党はずっとここにいた。21世紀もおそらくずっと、ここ。
第2は、もう第1をやめて、第1とは違う生き方を選択する。つまり、第1の「衣食足りて(足りず)」の営為の関係と第1の「礼節を知る(知らず)」の営為の関係とは異なる、第2の「衣食足りて礼節を知る」営為の関係を創る、つくっていくこと。
ただしここが肝心。この第2の生き方は、日本の「三分の一」でいい、それ以上は目指さない。また偉そうに、一人もいないのに、まだ。「天下三分の計」ではないが、それを目標とする。政党も当然必要だが、最初から、政権政党の道は放棄する。また偉そうに、政党もないのに。これもまたゆっくり聞いて。
しかし、第1は、じゃぁー、ダメなんだという時に、その人たちが第2の〈可能性〉と〈方向性〉を直ちに理解して、そうした路線を目指しているかといえば、そうではない。
ほとんど第1の立場をウロウロしているだけじゃないか。これは仕方がないこと。現実を生きている人間は臆病になるし保身に走る。責められない。それはまたいつか書きたいけど。
話を戻すと、第1に立ちながらも、脱原発や、基地問題やその他の日常の問題に「感じる心」を人一倍、保持している人たちは、やはり諦められないんだ。それで、第1の枠の中で精一杯に抗うんだ。
それじゃぁー、どんな「衣食足りて(足りず)」の営為の関係を選択するか、それが問題となる。
「脱」原発運動のややこしいのは、その立場を支持する、またそこ周りを行ったり来たりしている人たちが、第1の護憲の立場に立ちながら、第1の立場の「衣食足りて(足りず)」の営為の関係から、「原発」あるいは基地問題だけを取り出して、しかも勝手に引き抜くことが出来ると信じきって、あとはほとんど従来と変わらない営為の関係を守ろうとしていることに気がつかないこと。気が付いたとしても、そこから離れられないこと。簡単には、次の「食い扶持」なんか見つからないから、これも仕方がない。
さらに、第1の「衣食足りて(足りず)」の営為の関係をやめて、別の第2の「衣食足りて」の営為の関係を創ることを目指そうとするにも関わらず、相変わらず従来の第1の「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係を前提とした「礼節を知る(知らず)」の営為の「礼節」を、つまり憲法を守ろうとする立場に固執しているという矛盾に気がつかないこと。
これではとても「一本化」はできない。細川か、宇都宮かの問題ではなかった。
私は、第2の立場をずっと構想してきました。頭の中だけですが。しかしながら、もうなにか、このままじゃ終われないと。いや、ケンシロウなら私に言うかもしれませんね、「もう、お前は死んでいる」と。冗談じゃなくてね。
実際に、日本でも第2の立場に近い人たちがいます。自給自足的生き方を実践している人たちです。ただし、それはなお、まだ、第2の生き方の実践とは言えませんし、実現には遠く及ばない段階です。
ごめん、ホント、お前ヤッテミロ、すぐそんな声が聞こえてきます。お許しを。
例えば、そうした人たちの周りに、彼らの子供が集う学校があり、当然、先生がいて、また当然ながら、公務員も必要ですし、病院も、また製造業や流通業も必要でしょう。銀行も保険会社も当然大事ですね。こうした仲間と集団の関係をもとにした共同体を、私は創ってみたいんです。これは私の夢ですが、その夢の実現のために私ができるのは、じゃぁー、第2の生き方を支える第1次産業、第2次産業、第3次産業のあり方はどんなものなのか。また「礼節を知る」営為はどうあるべきなのか。それを考えることでした。
東京で働いていたら、もう私のこと笑うだろう、「お前、まだそんなこと言っているのか」、と。ただ、私の田舎の限界集落に近づいている空間にいると、君の素晴らしい、そのIT技術が必要なんだ、あなたの卓越した流通業のノウハウ、それでここで収穫した、ここでしかできない夢の「商品」を世界各地に売り込みたいんだ、ぁーあ、思い出した、確か商社で働いているのいたなあ、彼もぜひスカウトせんと。みんなの語学力も相当にアップしてると聞いたよ。いつかこの共同体を世界各地の人達が見学しに訪れるだろうから、そのためにもいろいろな準備が必要だ。
共同体の「モットー」、それは「勝ち続けない、負け続けない、とにかく息抜く、だらしなく、しぶとく生き続ける」、まぁー、そういうこと。
この共同体は資金がたくさん必要、しかも第2の生き方しながら、どうやって金稼ぐ。誤解しないで、天下三分の計だ。残りの世界と、商売せんといかん。それでいて、自分たちの世界を守るためには、やはり、息子が必要だ。あいつには勘当されている状態だから、なんとか許しを請いたい。
また聞いてください、今日はこのへんで。ホンマに、恥ずかしい話の連続、しかしオニクタラムの〈可能性〉と〈方向性〉を考えるには避けては通れないんだ。