読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

「ダイヤモンドダスト」

2006年08月26日 | 作家ナ行
南木圭士『ダイヤモンドダスト』(文芸春秋、1989年)

第百回というきりのよい回の芥川賞受賞作である「ダイヤモンドダスト」をふくむ短編集になっている。作者が難民医療日本チームの医師としてタイ・カンボジア国境に三ヶ月赴任した経験の前後のことが書かれ、それの影響が色濃く出た作品集。全体的に暗くて、闇に包まれたような作品が多い。

高校から浪人生時代に「付き合っていて?」、山の診療所の医師となるのなら、自分はその妻になるのも悪くないなと話していた千絵子と、医者と末期がん患者として再会した、ちょうどそのころ、自分はまさに山の診療所の医者になり、千絵子はぼろぼろになって人生の最後を迎えるという「冬への順応」。灼熱のカンボジア難民収容所から帰ってきたばかりで、寒さに順応できないで微熱が続く様子が、千絵子の死によって、それまで千絵子とのあいだにあった淡い思い出を断ち切っていくこととダブらせて書かれている。

「長い影」では、帰国してちょうど一年目に開かれたカンボジア難民医療団の忘年会に参加した「ぼく」が一人の女性看護士に絡まれる。彼女は、外科医たちがちょうど留守のときに運び込まれた腹膜炎を起した女性の措置を「ぼく」が誤ったとしてしつこく言いがかりをつけてきたのだった。彼女は、その女性が死んだ後、彼女が残した乳のみ児とその父親のために過剰な同情を寄せ、乳のみ児の世話をしただけでなく、その父親と肉体関係までおよび、結婚したいとさえ言い出したのだが、認められなかったのだった。日本政府の役人が、こうした医療団を派遣しているだけで十分であって、献身的に働くことはないと、出発前に話したという、ちょっとした描写のおくには、こうした医療団の思いと現実との齟齬、葛藤がある。

別荘地のある田舎で看護士をする和夫のいくつかの人間関係を描いた「ダイヤモンドダスト」がやはり一番いいかなと思う。和夫の父の松吉と、和夫が勤務する病院に入院してきた末期がん患者のアメリカ人神父マイクとの交流が不思議なものを感じさせる。ヴェルサイユとなく戦争でファントム戦闘機にのっていたマイクと、第二次大戦中からこの村で小さな機関車に乗っていた松吉とのあいだには、まったく共通の体験もないし共通の話題もないが、マイクが松吉の仕事への理解を示すことで、二人は共通の世界に入り込んでいく。そしてマイクの死が近づいたために、松吉を退院させることになった日に、彼は最敬礼をしてマイクのもとを去る。マイクが死んだあと、松吉はかつて全ての駅に作る予定だった水車を自宅の庭につくり、それが出来上がった寒い日、ダイヤモンドダストが舞うほどの寒い朝に死んだ、というようなお話。

どれも暗くてやりきれないような作品ばかりなので、きのう図書館で南木圭士の本を四冊も借りてきたけど、どうしようかとためらっている。

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