読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

「阿弥陀堂だより」

2006年08月23日 | 作家ナ行
南木圭士『阿弥陀堂だより』(文春文庫、2002年)

フランス旅行中、とくに飛行機の中で読むためにいくつか文庫本をもって行った。そのひとつがこの小説。フランスについて、私の場合、時差の関係でいつも眠れない、吐き気がするという状態が数日続くのだが、そういう最悪の状態の中で読んだためか、えらく感動した。

売れない小説家と、最先端の医療に従事している医者である彼の妻の心身再生の物語である。自分の精神の根を、信州の田舎の土と水と森のなかで生きてきた人間たちの末裔として理解していく主人公と、先端医療のはらむ非人間性のストレスからうつ病になった妻が第二のふるさとと慕う夫の田舎で心身を再生させていくという話が、時差のためにうつ病のようになった私の精神状態をもとに戻してくれるのに役立った。

主人公の出自もなんだか田舎出身の私にそっくりで、主人公が夏休みや冬休みのたびに祖母のもとに帰って一時を過ごすというのも私の経験と同じだったので、なんだか自分の物語を読んでいるようで、感情移入がしやすかったせいかもしれない。

主人公の祖母や阿弥陀堂の堂守のばあさんのように、生きることだけの毎日というのを私は否定すべきものとして学問をし、ものを書き、本を読んできたはずだったのに、そうした世界で敗北し、生きるだけの毎日の世界にもどってしまったが、都会でのそうした毎日は、田舎の、山、森、水に囲まれた毎日とは、やはり違う。

都会ではそれはたんに消費活動にすぎないが、田舎では生産活動となるからだろう。田を耕し、畑で作物をつくり、木々を薪とするために集め、魚を釣り、などなど生きるためだけにしても、そこでの活動は消費活動ではなく生産活動になる。だが都会ではたんに金でものを買うだけの消費活動に単純化されてしまう。

ここにこそ田舎に暮らす、しかもかつての農村の生活をすることについての意義がある。だからこそ主人公の妻は心身の再生を果たすことができたのだろう。自然に働きかけるからこそ自然からの癒しがあるのだ。田舎にいても、都会にいるときと同じような消費活動だけしていたのでは、心身の再生は望めない。

帰りの飛行機の中でも読み返してみた。それほどこの小説が好きになっていた。今度は映画も見てみよう。

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