読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

「後宮小説」

2006年08月03日 | 作家サ行
酒見賢一『後宮小説』(新潮社、1989年)

第一回日本ファンタジーノベル大賞受賞作ということらしい。米原万里の本かなんかを読んでいるときに触れられているのをみて、読んでみたいなと思っていたところへ、図書館でなにげなくタイトルを見ながら歩いていたら「読んで読んで」と言わんばかりに目に入ってきたのがこれだった。荒俣宏さんの選評も絶賛といっていいようなものだったので、これは期待できるぞと思って読んだが、「なに、これ、どこがおもしろいの?」という感想であった。どこでどうまちがったのだろうか?

時は15・6世紀の中国とおぼしき国で、国王が変わるたびに後宮が入れ替えられるということがあり、先の国王が亡くなったために全国から集められた宮女候補の一人に銀河という小娘がいたが、後宮で宮女になるための教育を受ける。その奔放で物怖じしない態度や考え方が教育係の角先生に気に入られ、王妃という位につけられる。じつは研修時代に同部屋だった双槐樹と名乗っていた女が新国王であった。宮廷内の権力争いのために刺客から逃れるために女の姿をして後宮に忍び込んでいた。彼が銀河を気に入って王妃の位につけさせたのだった。その頃、反乱軍が現れ、宮廷は滅びる。その過程で銀河は同部屋だった紅葉などと協力して反乱軍に抵抗する。というようなお話。

どこが面白いのか私にはさっぱり分からない。要するに、ありもしない中国の文献を作り上げて、勝手に中国の歴史を作ってしまった手腕に、選者たちは一同に驚いているらしいのだが、あまり中国の歴史がよく分かっていない私には、もちろんこんな歴史書あったっけとは思ったが、でたらめもいいところとは分からず、そんなものかと思いながら読んでいた。井上ひさしが「宇宙の果てへ投げ飛ばされたような大ウソの快感」と評したらしいが、よほどの知識がないとそういう快感は得られないようだ。小説を読む楽しみがこんなにも難しいことだとはおもわなんだ。

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「ゲド戦記」

2006年08月02日 | 映画
『ゲド戦記』(宮崎吾朗監督、2006年)

昨日(8月1日)、いま話題の『ゲド戦記』を見てきた。昨日はPLの花火大会の日で、大阪の南部(南河内)一帯ならどこからでも見えるので、大賑わいになる。うちのマンションは少し高台にあるので、邪魔になるものが何もなくて、絶好の展望台になる。中古マンションの販売チラシに「PLの花火がよく見えます」と書いているくらい。それで息子が彼女と一緒に花火を見たいというので、10時くらいまで帰ってこなくていいと言い渡され、じつはうちのかみさんと二人で映画でも見て、寿司でも食べようかと話していたのに、かみさんは用事ができたとかで、結局ひとりで映画を見に行く羽目になった。1日なので1000円だったせいか、6時からの回だったせいか、アベックばっかりで、中年おやじは小さくなって見た。

結論から言うと、面白くない。その理由、
第一に、映画でも、文章と同じように、句読点があり、段落があり、章があるものだと思う。そうでなければ、言いたいこと、描かれていることにまとまりが生まれない。見る側は小さなまとまりの連続として話を理解していくものではないだろうか。ところこの映画には段落ごとで、何を言いたいのか分からない。もちろんきちんと説明をしないで、観客の理解を宙ぶらりんにしたまま興味をひきつけていくという手法もあるが、ある程度のところでそれを解決してくれないと、わけがわからないまま最後まできてしまう。それともちょっと違うかな。なんか焦点のあっていない映像をずっと見せられている感じと言った方があたっているかもしれない。監督のいいたいことが煮詰まっていない。

第二に、観念的なセリフ、ええかっこのセリフが多すぎる。「命を大切にしないものは嫌いだ」くらいはいいにしても、「人間は死ぬから、命が大切なのだ」とか、「均衡が壊れ始めている」だとか、このような類のセリフというか、教訓というか、そういうものを喋りすぎ。そういうセリフをテルだかゲドだかが立て続けに言う箇所では、「ちょっと待って、もうちょっとゆっくり喋ってくれないと、言っていることがよくわかんないよ」と言いたくなった。だいだい、そんなことは、物語として見せてくれと言いたくなる。

第三に、遊びがない。とにかく最初から最後まで重々しい雰囲気で、遊び心がまったくない。だから疲れる。二時間程度の映画だったと思うが、二時間が五時間くらいに感じた。したがって疲れたという印象だけで、面白かったねーという声は出てこない。逆の言い方をすれば、あそこはよかったねという箇所が一つもなかった。

きっとみんな「宮崎駿の息子の映画だから」とおもって期待してきたのに、なにもなくって狐につままれたような感じで帰っていったのではないだろうか。宮崎駿が反対したらしいけど、たぶんこういうことを懸念していたのではないかな。初めて取り組むには、原作が大きすぎる、主題が重厚すぎる、下手をすれば、上っ面だけの作品になってしまうという懸念だったのではないだろうか。もしそうだとすれば、彼の懸念は杞憂ではなかったと思う。

最後に、これも前評判がよかった新人歌手で声優もした手嶌葵は素晴らしい。アカペラであれだけ歌える人はいないと思う。たんに音程がいいとかの問題ではなく、情感、声の質、音程、リズム、10年に一人の歌姫といってもいいのではないかと思うね。彼女の今後の活躍が楽しみ。

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「重力ピエロ」

2006年08月01日 | 作家ア行
伊坂幸太郎『重力ピエロ』(新潮社、2003年)

人生に正解なんてものはない。この小説で私が教えられた教訓だと言ってもいい。「私」の母は未成年者にレイプされ、妊娠する。それを告げられた「父」は、弟の春の出産を喜んだ。もちろん躊躇がなかったわけではない。だが、憎きレイプ犯の子を育てるか、おろすか、どちらの選択が正解なのか。後に「父」は「正解なんてないんだろうな」と述懐する。そう、人生の選択に正解・不正解なんてものはない。人生、やり直しはきかない。自分のした選択、自分の作ってきた人生、それ以外に自分の人生はない。あれ?小説の言いたいこととは、ちょっと違うかな?

しかし当事者である春にとっては育ての父は遺伝子上の父とは違う。遺伝子上の父は、母親に対する犯罪者であり、反省も後悔もしていない以上、許せない人間であり、春は最終的に彼を殺害してしまう。この小説の縦糸となっている放火事件は、レイプ犯であった葛城に反省を促すための行為であったのだが、それはまったく意味をなさなかった。葛城は反省するどころか、自分の快楽がすべてとレイプを肯定する。遺伝子の話はもちろんのこと、サドだとかバタイユといった背徳の作家たちが援用されたり、画家の名前もピカソをはじめとしていろいろ出てきたりして。

「私」と春の「父」が、かっこいいなと思いながら読んだ。レイプされた妻が妊娠したときの対応といい、その後の子育ての仕方といい、なかなかあんなふうには生きれない。レイプ犯の子であることにもんもんとする春にピカソの生まれ変わりという示唆をあたえ、絵を描くことの障害をとりのぞいてやったのも、小説とはいえ、なかなかできることじゃないよ。

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