読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

『僕のなかの壊れていない部分』

2010年03月05日 | 作家サ行
白石一文『僕のなかの壊れていない部分』(光文社、2002年)

読後感がすごく不愉快な小説。なぜこんなに不愉快なのかあれこれ考えてみるといくつか理由が見えてくる。

一番の理由は、主人公の松原直人が語り手でありながら(というか語り手であるからゆえに、というべきか)、彼の行動原理がぜんぜん見えてこないので、とくに枝里子にたいする対応などが突飛に思えるというところにある。

以前も書いたことがあるが、小説の登場人物は何をしようと自由である。たとえばAという行動を選択した場合に、読み手はその前後の流れからなぜ彼がAという行動を選択したのかを判断したり、理解しようとする。もし前後の流れから分からなければ、「常識的な線」から判断しようとするだろう。そしてそれですんなり収まれば、たいした違和感は感じない。しかしこの松原直人は前後の流れからは理解できない行動をとる。しかもその理由を説明しないので不愉快に感じられる。もちろんその理由はだんだんと後になって描かれるようになっているのだが、それを知った後になっても不愉快な感じは去らない。

二つ目には、彼の判断がまったく幼稚で笑ってしまうくらいに、この松原直人という人物は言っていることとやっていることがちぐはぐな人物に描かれている。作者がそれを知って書いているのか、知らずにそうなったのかは、私は分からない。まず「かあちゃん」にびっくりする。なに、これ? もちろん登場人物が母親のことをどう呼ぼうと勝手だが、上にも書いたようにまったく説明抜きで、会話文のなかにならいざ知らず、地の文に「かあちゃん」はないだろう。

またえらそうなことを言っているくせに、枝里子に嘘を言う。もちろん登場人物が嘘を言ってはいけないなんて言うつもりはないが、枝里子は何も分かっていないいいとこのお嬢さんだみたいな見方で描きながら、また自分は高潔だみたいな描き方をしながら、いざ都合が悪くなると嘘を言う主人公に違和感を感じる。

彼の判断が幼稚だという理由は、たとえば子育ての話である。この小説の主題の一つは親子関係である。もちろん主人公直人の母親との親子関係は言うまでもなく、朋子と拓也との親子関係、雷太と日本共産党の稲城市会議員をしている彼の父親との親子関係、ほのかと母親の親子関係など歪んだ親子関係ばかりが描かれている。これに関係して文部科学省だか厚労省だかのキャリアが保育所作りに力を入れるがそれが失敗だったと自分たちの子どもたちを見て思うというエピソードや産後数十日で自分の子どもを他人に預ける制度(産後保育)を子育て放棄だと主張している。

産後保育をされた子どもたちがみんな主人公の直人のような人間になっていたり、エピソードにあるような無気力な子どもたちになっていたりするかのような描き方が、まったくお笑い種としかいいようがない。たぶんそれは産後保育のせいではなくて、彼らの親が育児を放棄したからだろう。産後保育と育児放棄はまったく関係がないにもかかわらず、産後保育は育児放棄だと結び付けているところが、彼の判断が幼稚だという理由である。

たぶんこの作者がそういう育て方をされたために、それを絶対視して、みんなそうだと勘違いしているのだろうが、なんともお粗末としか言いようがない。これも不愉快さの理由の一つ。

たぶん雷太の例もわざわざ日本共産党の稲城市会議員などという実在する名称を使っているのは、共産党など口ではいいこと言っているが自分の子どももまともに育てられないということを言いたいがためだろう。だが、口ではえらそうなことを言っているが自分の子どももまともに育てられないなんてのは、なにも共産党だけの話ではなくて、世間には自民党の議員だろうと教員だろうと会社の社長だろうと作家だろうと、そういう例がごろごろしているのではないのか?それをわざわざ実在する政党の、実在する自治体の名前を使おうとするところに、なにか作為を感じる。これも不愉快さの原因ともなっている。

この小説の読後が不愉快ばかりというわけではなかったことも書いておかなければ公平とは言えないだろう。穏かな気持ちになれたところもあった。それは真知子さんのエピソードだ。でもこれだって、このエピソードが決して主人公にいいように影響を与えていないという意味では浮いたエピソードになっている。

この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『草にすわる』 | トップ | 『蝶々夫人』 »
最新の画像もっと見る

作家サ行」カテゴリの最新記事