ブロック積み上げ型かネットワーク型か
『百科全書』やディドロの研究者として有名な鷲見洋一さんが、『思想』2012年第12号の「思想の言葉」で、研究の現状を嘆いている文章を読んだ。彼の嘆きの原因は、概略すると、大方の論文が、数十程度の引用元によって成り立っており、そんな狭い範囲での引用というのは、論文で主張しようとしていることに都合のいいことだけを援用として使っているだけの話で、100以上の引用ができるくらいに広くドキュメントを渉猟して、同じことでも思いがけない視点から捉えることでまったく違う様相を見せるようなそんな研究はないものだろうか、ということのようだ。(左の図は、本文とは無関係。東京大学の生産技術研究所のサイトから借用)
従来から、研究のタイプには二種類あると言われている。一つ目が、ブロック積み上げ型で、文字通り、細かな事実あるいは過去の研究成果を一つ一つブロックのように積み上げていって現時点での到達段階を明らかにするとともに、その一番上のブロックにさらにもう一つブロックを積み上げるような仮説や推論を提示するような論文である。悪く言えば、たこつぼ型の研究とも言えよう。
多くの研究はこのタイプによって成り立っている。それゆえに自分の仮説や推論を提示するもとになったブロックの一つ一つをきちんと引用して、その引用元も明示しなければ、前提が崩れてしまって、仮説や推論が崩れてしまう。理系の論文はこのタイプがほとんどであり、文系の論文でも、優れたものはこのタイプであるべきだが、残念なことに、文系の、とくに大学紀要なんかに掲載されて、論文と称しているものの多くは、査読を通った論文は別として、ただの感想文、随筆である。まぁ、このことは、ここで私が書きたいことではないので、どうでもいいが。
もう一つのタイプは、ネットワーク型とでも呼べそうなものだ。これは、もちろんブロックの積み上げるが前提になっているが、多数のブロックの頂点にやっと一つの新たなブロックを載せるようなものではなくて、まったく違ったブロックの山の頂点と頂点に新たな橋が架けられ、それまで見たこともない景色が見えるようになるタイプのものである。たぶん鷲見洋一さんが、言いたいのもこのような研究が出てくるべきだということなのだろう。
このタイプの研究はパラダイムの転換を引き起こすことが多く、その結果、まったく違う世界が見えてくることになる。天才的な科学者や学者にはこのタイプが多い。ニュートン、アインシュタイン、ソシュールなど。そうであって見れば、努力してできるものでもないだろうと思う。あるいは、時代が要求していたということもあるのではないだろうか。まずは、鷲見洋一さんが見本を見せて欲しいものだ。
鷲見洋一さんは見本としてルソー研究で有名なスタロバンスキーの「博覧強記」ぶりを挙げているが、私も不思議なのは、なぜフランスの研究者はあれほど短期間に大部の著作を書き上げることができるのだろうかということだ。
たとえば私の知っているところで言えば、ベアトリス・ディディエという18世紀の研究者がいるが、彼女などは、1985年に『啓蒙の音楽』という、ルソー、ディドロ、ダランベール、ヴォルテール、グリムといった啓蒙派の思想家たちの音楽美学を縦横無尽に描出した本を出したかと思えば、その二年度には『マリアンヌの声』と『啓蒙の世紀』を、その次の年には『フランス革命の文学』などというように次々と大作を発表している。もちろん時代が同じだから、0からやり直したわけではないとも言えるが、それでも2001年に『生の戯曲家ディドロ』、2002年には『日記文学』と『スタンダールと国家』『ルサージュの「ジル・ブラス」』という調子で、そのカバーするエリアは広い。
たぶんエコール・ノルマルの出身者だろうと思うけど、きっとそこでの教育の有り様が、まったく日本なんかと違うのだと思う。大量の文献を短期間にインプットし、それを蓄積、分類、記憶して、アウトプットする手法を、きっとそういうところで習得してるのだろう。あるいは習得できた人だけが研究者として残ることができるが、出来ない人はリタイアしなければならないようなシステムになっているのではないかと思う。そういうシステムを大学院に導入しなければ、鷲見洋一さんが主張しているような研究者は育たないように思う。
そうなったら私なんか真っ先にふるいにかけられていなくなってしまうんだろうな。って、もうすでに、ふるいから払い落とされているか。
『百科全書』やディドロの研究者として有名な鷲見洋一さんが、『思想』2012年第12号の「思想の言葉」で、研究の現状を嘆いている文章を読んだ。彼の嘆きの原因は、概略すると、大方の論文が、数十程度の引用元によって成り立っており、そんな狭い範囲での引用というのは、論文で主張しようとしていることに都合のいいことだけを援用として使っているだけの話で、100以上の引用ができるくらいに広くドキュメントを渉猟して、同じことでも思いがけない視点から捉えることでまったく違う様相を見せるようなそんな研究はないものだろうか、ということのようだ。(左の図は、本文とは無関係。東京大学の生産技術研究所のサイトから借用)
従来から、研究のタイプには二種類あると言われている。一つ目が、ブロック積み上げ型で、文字通り、細かな事実あるいは過去の研究成果を一つ一つブロックのように積み上げていって現時点での到達段階を明らかにするとともに、その一番上のブロックにさらにもう一つブロックを積み上げるような仮説や推論を提示するような論文である。悪く言えば、たこつぼ型の研究とも言えよう。
多くの研究はこのタイプによって成り立っている。それゆえに自分の仮説や推論を提示するもとになったブロックの一つ一つをきちんと引用して、その引用元も明示しなければ、前提が崩れてしまって、仮説や推論が崩れてしまう。理系の論文はこのタイプがほとんどであり、文系の論文でも、優れたものはこのタイプであるべきだが、残念なことに、文系の、とくに大学紀要なんかに掲載されて、論文と称しているものの多くは、査読を通った論文は別として、ただの感想文、随筆である。まぁ、このことは、ここで私が書きたいことではないので、どうでもいいが。
もう一つのタイプは、ネットワーク型とでも呼べそうなものだ。これは、もちろんブロックの積み上げるが前提になっているが、多数のブロックの頂点にやっと一つの新たなブロックを載せるようなものではなくて、まったく違ったブロックの山の頂点と頂点に新たな橋が架けられ、それまで見たこともない景色が見えるようになるタイプのものである。たぶん鷲見洋一さんが、言いたいのもこのような研究が出てくるべきだということなのだろう。
このタイプの研究はパラダイムの転換を引き起こすことが多く、その結果、まったく違う世界が見えてくることになる。天才的な科学者や学者にはこのタイプが多い。ニュートン、アインシュタイン、ソシュールなど。そうであって見れば、努力してできるものでもないだろうと思う。あるいは、時代が要求していたということもあるのではないだろうか。まずは、鷲見洋一さんが見本を見せて欲しいものだ。
鷲見洋一さんは見本としてルソー研究で有名なスタロバンスキーの「博覧強記」ぶりを挙げているが、私も不思議なのは、なぜフランスの研究者はあれほど短期間に大部の著作を書き上げることができるのだろうかということだ。
たとえば私の知っているところで言えば、ベアトリス・ディディエという18世紀の研究者がいるが、彼女などは、1985年に『啓蒙の音楽』という、ルソー、ディドロ、ダランベール、ヴォルテール、グリムといった啓蒙派の思想家たちの音楽美学を縦横無尽に描出した本を出したかと思えば、その二年度には『マリアンヌの声』と『啓蒙の世紀』を、その次の年には『フランス革命の文学』などというように次々と大作を発表している。もちろん時代が同じだから、0からやり直したわけではないとも言えるが、それでも2001年に『生の戯曲家ディドロ』、2002年には『日記文学』と『スタンダールと国家』『ルサージュの「ジル・ブラス」』という調子で、そのカバーするエリアは広い。
たぶんエコール・ノルマルの出身者だろうと思うけど、きっとそこでの教育の有り様が、まったく日本なんかと違うのだと思う。大量の文献を短期間にインプットし、それを蓄積、分類、記憶して、アウトプットする手法を、きっとそういうところで習得してるのだろう。あるいは習得できた人だけが研究者として残ることができるが、出来ない人はリタイアしなければならないようなシステムになっているのではないかと思う。そういうシステムを大学院に導入しなければ、鷲見洋一さんが主張しているような研究者は育たないように思う。
そうなったら私なんか真っ先にふるいにかけられていなくなってしまうんだろうな。って、もうすでに、ふるいから払い落とされているか。